裁判員制度の愚かしさについて
哲学論考というタイトルで駄文を書き連ね、インターネット上にこれを公開するにあたって、ひとつだけ心がけるようにして来たことがある。それは、自分のこのエッセイの中では、つとめて時事的な問題や、政治的な話題は避けるということである。巷の名も無い哲学者とはいえ、普遍的なものの探究に人生を捧げた身であってみれば、目先の小さな問題には頭を悩ませたくはない、つまらない問題であくせくするのは私生活だけで充分だという気持ちもある。だが、今回はその方針を破って、きわめて身近で現実的な問題について書く。数年後に我が国で実施されようとしている、あの冗談のような裁判員制度についてである。
多くの人が感じていることだろうが、この問題がとにかく一般の国民にとって納得が行かないことに思えるのは、このような国民生活の根本に関わる重要な議案が、充分な広報も討議もされないまま、国会を通過してしまったということだ。しかも、この法案が成立した経過をたどってみれば、そこには様々な利害や思惑が絡んでいたことが分かる。国民の司法参加という課題に対しては、ふたつの意見の対立があった。民間人だけで裁判の審議と評決を行なう、米国式の陪審制を取り入れるという意見と、職業裁判官を中心に民間人がこれを補佐する形で裁判に参加する、欧州で多く採用されている参審制を採用するという意見だ。主に法学研究者や弁護士会などは前者を支持し、法務省や裁判所は後者の支持に回った。特に陪審制採用にもっとも強硬に反対したのは最高裁だった。もしも完全な陪審制が施行されれば、それは彼ら裁判官の身分保証に関わる問題なので、この抵抗はある意味当然のことであったろう。露骨でなりふりかまわぬ反対工作は、最高裁の権威を多少は失墜させることになったかも知れないが、それが効を奏したのか、結局は参審制導入派が勝利した。そして我々国民の多くがこの法案の内容を知った時には、すでにその内容は固まっていたのである。
こうした法案成立の経緯と背景はともかく、国民の司法参加という一点に関しては、おおむね賛成の声が多いように見受けられる。個別には、例えば生活に追われる国民に、裁判員として出廷する余裕があるかとか、裁判員のプライバシーの保護をどうするかといった、細部の議論はあるものの、全体的に見れば司法改革の方向性は正しい、総論賛成というのが一般的な世論なのではないだろうか。日本では、これまではお上にすべて任せるかたちで刑事裁判が行なわれ、その結果、刑事告訴であるとか裁判であるとかいったものが、国民からひどく遠いものになってしまった。これではいけない、民主的な先進国の一員として、国民ひとりひとりが自ら司法に参加し、国民による国民のための裁判を実現する仕組みを作らなければ。こんなふうに裁判員制度の妥当性を説明されれば、誰でも考え無しに納得させられてしまう。だが、本当にそうだろうか。私自身は、陪審制にせよ参審制にせよ、裁判への直接参加というかたちでの国民の司法参加には、断固反対の立場を採る。何故か? 今回の論考ではそのことについて書いてみたい。
国民の直接司法参加ということが、我々にとってあまりに唐突で、寝耳に水のような話であったとしても、確かに欧米諸国ではそれは当然の制度として、長い歴史の中で市民の間に根付いている、これは事実だと思う。このことから、改革推進派は、いかに日本の司法制度が遅れているかを訴える。いわく、先進国の中で未だに陪審制や参審制を採用していないのは我が国だけである、我が国でもすでに大正から昭和にかけ陪審制を採用した実績があるのに、戦後六十年の間このことをずっと棚上げして来たのは、民主主義国家としての恥である、云々。歴史的に眺めてみれば、陪審制は千年も昔の中世イギリスに端を発する。それは最初から民主主義を志向した制度ではなかった、むしろ王制による中央集権国家が成立する過程で、国王の権力をより確固たるものにするために考案された制度だった。つまりそれは、国民の間にある利害関係の対立を、時の権力者に向けた恨みや批判に転嫁させず、あくまで当事者同士で解決させるために工夫された制度だったのだと考えられる。(何故ならば、国王が裁判権まで一手に握っていたのでは、裁判に負けた側は容易に反乱分子になりうるが、自分達の同胞である陪審員に裁かれたのでは、恨みをどこにも持って行きようがないではないか。) だが、最初は権力者のための制度であったものも、市民社会の成熟とともに、その本来の性格を変えて行く。法の概念が整い、絶対王制が民主制へと移行していくなかで、陪審制裁判は時の権力者の専横に対する防波堤としての機能を持ち始めることになる。例えばそれは国王の悪政に抵抗して投獄された政治犯に対し、陪審裁判が無罪の判決を下すというような形で現れる(むろん陪審員たちも命がけである)。こうして陪審制は、民主主義の発展のなかで欠くことの出来ない制度となって行くのである。ルイ十六世が断頭台にかけられたフランス革命のさなか、フランスでも陪審制による裁判が始まったことは、民主主義を理念とする市民社会の成立と、陪審制度がいかに深く結びついていたかを物語っている。現在でも英国民が自国発祥のこの制度に強い愛着と誇りを持っていることには、こういった歴史的な背景がある。
だが、陪審制誕生から千年、市民社会の成立からも二百年以上が経った現代においても、この制度はいまだその歴史的な使命を保っているのだろうか? ここがまず私の疑問とするところだ。陪審制がより民主的だというのは、為政者が絶対的権力により立法権と司法権を一手に握っているといった独裁政治からの脱却が社会変革の大目標であった時代には、事実であったかも知れない。だが、日本を含めた現代の民主主義国家の政治形態はそのようなものではない。たとえ現在の民主主義が制度として完璧なものではないにせよ、そこには悪法を押し付けて来る専制君主もいなければ、弁明や上告を許さない秘密警察による刑事裁判も無い。我々は充分成熟した法治国家に住んでいる。裁判は法律により厳密に公平に運用されるべきであり、そのために司法権と立法権は明確に分離されているのである。
例えば米国の陪審制度では、陪審員が法律自体に問題があると認めた場合には、法で定めるところを無視して判決を下してもよいという例外規定(ジュリー・ナリフィケーションというらしい)が設けられている。これなどはいかにも陪審制が前時代の遺物であることを感じさせる事実だ。何年か前にアメリカ国内で行なわれた陪審員に関する意識調査では、ほとんどの市民が職業裁判官の法的解釈がどうあれ、自分自身の善悪の信念に従って陪審員としての判断を下すという回答をしているのだそうだ。どうだろう、当り前に考えてみて、これが最も進んだ法治国家の姿として正しいものと言えるだろうか? 三権分立の仕組みが確立している現代において、もしもそれが悪法であるならば、まずはその法律を改正すべきである。そのために国民は議会を通じて立法権を持っているのだから。これは米国だけの問題ではない、現在の我が国の法律だって、現在の我が国の裁判制度以上に古臭く、時代にそぐわなくなっている部分が多いのが現実だ。しかし、それは決して司法自体の責任ではない、それは明らかに立法府の、すなわちそれを放置して来た議会の、すなわち我々国民ひとりひとりの責任なのである。
司法権というものは、行政権(国家権力)から独立してあることが必要であるように、民意からも圧力を受けず中立であるべきだというのが私の考え方である。陪審制導入派の人たちは、民主的な国家では裁判にも国民の意思を反映させるべきだと言う。しかし、個々の刑事事件に民意を反映させる必要がどうしてあるのか、私には分からない。我々は犯罪の被害者として、または多くの場合にはその傍観者としてだが、個々の事件から様々な心理的圧迫を受ける。だが、それを結集して民意として犯人にぶつけることが果たして正義であるか。むしろそうした個人的なストレスは、我々ひとりひとりに突き付けられた課題なのであり、そのことによって道徳の問題について考え、自分自身の心を鍛えて行くための契機なのだと考える方が自分としてはしっくり来る。または社会全体として、そのような事件の再発を防ぐための議論を行なって行く機会と捉えてもいい。私の想像では、裁判の結果が民意を反映していないと主張する人は、たいてい現在の法律による罰則が軽過ぎるという点に文句をつけているのだと思う。こういう人が裁判員になって、自らの道徳的感情を満足させる判決を下すのである。なんという特権だろう。しかも、本人は自分が正義の側にいることを疑ってもみない。私ははっきり言うが、これは巧妙に正当化された私刑の一種と言うべきである。
さらに陪審制や参審制が現代という時代に合わないと私が考えるもうひとつの理由がある。先の論考にも書いたが、社会が複雑化して行くにつれ、市民の常識的な道徳的判断では評価し切れない犯罪的事象が増えているのである。例えば、患者に請われて安楽死を手伝った医師を我々はどう裁くべきか。インターネットに自殺志願者のためのサイトを開設していた人は、自殺幇助罪として罰せられるべきであるか。こういった事件は、たった六人の裁判員と、たった三人の職業裁判官によって審議させるべき問題ではないと思う。こういった新しい問題については、誰もが納得し合意出来る解決策など簡単には見付からない。我々国民がみんなで考え、討議し、合意形成をし、最終的に法律として定着させて行く他ないのである。これからますます技術が進歩し、世界がいわばバーチャル化して行くに伴い、そうした個別の判断が下しにくい難問は増えて行くだろう。最初の論考で私は〈記憶喪失薬〉のことを書いたが、その後雑誌の記事で現実にそうした薬の研究が始まっていることを知った。実際にそんな薬が世間に出回ったら、社会にどんな混乱を与えるか、もう一度ここで想像してみて欲しい。市民の常識的な判断力が、各々の事件に対して適切な決断を下し、それが総体として社会の健全な道徳を守って行ける、そうした良き時代は残念ながら既に過去のものなのだ。
もちろん私は現在の裁判や司法制度に問題が無いと言っている訳ではない。特に今の日本の司法制度で一番問題なのは、密室で行われる供述調書の作成という点にあると私は思っている。今日、刑事裁判そのものは、傍聴が認められており、決して密室裁判ではない訳だ。が、警察による取り調べと、供述調書の作成は完全な密室作業であり、日本の刑事事件の有罪率が99.9パーセントを超えていることを考えれば、要するにこの国では犯罪の99.9パーセントは密室で作られていることになる。最近よく言われている司法の可視化(つまり取り調べの様子をビデオに撮って公開すること)や、戦前の制度がいまだに形を変えて残っている評判の悪い代用監獄(留置場)の廃止など、すぐにでも実施すべき課題はいくらでもある。また、よく陪審制度推進派の人たちが言うように、現在の裁判官の多くが、世間の常識を知らないいわゆる専門バカになってしまっているというのが事実だとすれば(私は絶対にそんなことはないと信じているが)、それは現在の裁判官認定制度の問題であり、司法試験による知識偏重の認定制度を見直して、例えば社会での経験を豊富に積んだ人を司法官に登用出来る制度を確立するなど、考えられる改善策はいくらでもある筈だ。もしも今の司法制度に何か根本的な問題があるとすれば、まずはこういった当り前の点にこそ改革のメスを入れなければならない。市民の司法参加などと悠長なことを言っている場合ではないのである。
だいたい、法務省や最高裁など、公の司法機関がこの制度に反対するのであれば、民間人には正しい裁判を導く判断力が無く、誤審が増えるなどと国民の感情を逆撫でするようなコメントを発表するよりも、自分たちが運用している法律の不備な点や、法律用語の分かりにくさ、また現在の裁判制度のおかしな点など、司法の現場で感じうるであろう問題点を自ら指摘して、国民に広く法律の改正を提議して行くことの方が重要ではないか。それこそが真のプロフェッショナルというものだと思う。法を司ることは、現代の医学がそうであるように、極めて専門的で技術的な領域に属することである。私はキャリアを昇りつめた最高裁判事のためにではなく、地方裁判所で日々悪戦苦闘している一般の裁判官のためにあえて弁護するのであるが、もしも自分が被告人として法廷に立たねばならない仕儀に至ったとすれば、誰があえて素人の裁判員に裁かれたいと思うだろう。我々は相手が医者だと思うからこそ、衣服を脱いで裸にもなるのだ。素人に聴診器を当てられたくないように、素人に裁かれたくないというのは、被告の自然な気持ちとして理解出来るし、尊重されるべきだと思う。これは犯罪者の更生ということを第一義とする刑事裁判にとって、実はとても重要なことである。
いや、しかし、もうこのへんにしよう。裁判員制度の愚かしさについては、まだまだ書きたい気がするが、きりがない。共感してくれる人は共感してくれるだろう。裁判員制度の問題には、道徳や犯罪の問題を長いあいだ考えて来た私の心の琴線に触れるものがあって、これについて語ろうとすると言葉に抑制が利かなくなってしまうのだ。だが、既に国会で決議されてしまった法案について、これ以上批判を書き連ねても詮の無いことだ。せめてこの実験的な新しい制度を、少しでも意味のあるものにするために、最後に三つだけ提案したいことがある。それだけを書いて、思いがけなく長文になってしまったこの論考を締めくくることにしたい。
まず第一に、裁判員の選定について、国民からの無作為抽出という方法を見直して、国民が自ら志願出来る登録制度にするか、少なくとも候補者にあらかじめ打診をして、本人に裁判員としての義務を果たす意思があるかどうかを確認する仕組みにすることだ。現在の法案では、無作為抽出とは言っても、出頭させられた(出廷ではない、出頭と書いてある)候補者を面接で絞り込むことになっている。裁判所側が審査をし、裁判員を選ぶのであれば、国民の側にだって自らの意思表示をする機会を与えてもらいたい。仮に国民に司法参加の権利があるというのが真実だったとしても、国民にはまた人を裁かない権利だってあるというのはそれ以上に真実であると私は思う。筆者も含め、自分はどうあっても人を裁きたくないという人は多い筈だ。いや、むしろそういった思いを持った国民が多いことが、この国の未来の希望であるような気さえする。この点に関しては、思想信条によって裁判員を辞退出来るという条項が(裁判員法の本文ではなく、これを補足する政令に)追加されたようだが、それだけでは充分ではない。本当に裁判員を辞退したい人は、思想信条を自ら訴えることの出来ない人であるかも知れない、そのことを国は思いやって欲しい。
二番目は裁判員の責務範囲の問題だ。今回の裁判員法では、裁判員は裁判官と合議の上、判決と量刑まで行なうことになっている。だが、もともと民間人である裁判員に期待されるべきは、様々な社会的立場にいる複数の人間の知恵を結集して、事件の真相がどこにあるのかを検討し、その事実認定を行なうところまでだと思う。被告人が嘘をついていないかどうか、自白は信用出来るものであるかどうか、検察側が主張する犯行の動機は事実として納得出来るものであるか、被告に情状を酌量すべき点は無いか、こういう点に関し充分に討議を尽し、最終的に被告は有罪か無罪かの評決を行なう、もしくは殺人罪か傷害致死罪かといった罪状の確定を行なうまでを、裁判員の責務とすべきだと思う。その先の量刑の部分、つまりそれが死刑に当たるのか、懲役何年に当たるのか、執行猶予は付けるのかといった点は、これは法律で定められたところと、過去の判例とのバランスの中で決めて行く問題であり、それはプロの裁判官の仕事である。国民が司法に参加しようがしまいが、裁判は公平であることが必要だ。同じ状況で犯された同じ犯罪は、同じ刑の重さでなければならない。その部分は専門家である裁判官に任せようではないか。事実、米国の陪審制では、陪審員は罪状の評決までを行ない、量刑は職業裁判官が行なっているのである。
そして最後の三番目の提案が、最も重要な点だ。それは裁判員制の導入に合わせ、この国から死刑制度というものを廃止することだ。私が死刑制度に反対する理由については、また別のところで述べるのでここでは触れないが、国民を広く司法の場に招くのであれば、このことは絶対に必要な条件であると私は考える。たとえあなたが制度としての死刑は必要だと考えているにせよ、自分が裁判員として被告を死刑にする立場になったとしたらどうだろう、そのことを想像して欲しい。我々裁判員は、法律に詳しい訳ではないのだから、自分の道徳的判断力だけを携えて裁判に臨むしかない。つまり、職業裁判官よりも、裁判の結果に対しては重大な道徳的呵責を心に負う可能性が高いのである。たとえ相手がどんなに凶悪な犯罪者であったにせよ、ひとりの人間を国家が殺すことに賛成し荷担したという事実、またはそれを押しとどめることが出来なかったという事実が、裁判員に選ばれた人の人生に与える影響とはどのようなものだろう。どう考えても、それは明るく晴朗なものである筈がない、何か病的な暗い影を落とすものであることは間違いないと思われる。そしてそれが社会全体に与える影響とはどのようなものか、我々はよくよく考えてみなければならないと思うのである。死刑制度とセットになった国民の司法参加、それはもしかしたら二十一世紀の日本にとって、新しい悪夢の始まりかも知れないのである。
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