2014年6月15日 (日)

Is The Singurality Near?

 今週はロボットや人工知能(AI)に関する記事が目につきました。週刊ダイヤモンドが「ロボット・AI革命」という特集を組んでいるほか、朝日新聞の一面でもこの話題が取り上げられていましたし、ソフトバンクが近く人間の感情を理解するロボットを発売するなんていうニュースもありました。最近はグーグルを始めとするアメリカのIT企業も、次の成長分野としてこの方面に積極的に投資しているらしく、ロボットやAIはいま最もホットな話題となっているようです。ただ、どの記事を見ても、新しい成長分野ということで手放しで歓迎しているといったトーンではありません。ロボットの進化によって産業の生産性が大きく向上することが期待される一方で、人間がロボットによって職を奪われるという負の側面も見えて来たからです。週刊ダイヤモンドの特集には、「待ち受けるのは競争か共生か」というサブタイトルが付けられています。

 しかし、機械によって人間の職が奪われるといった事態は、何もロボットの出現によって始まったことではありません。銀行のATMだって駅の自動券売機だって、それが登場した時には多くの人の職を奪った筈です。ロボット以前にも工場はオートメーション化によって大量の人員削減を行なっていました。いま、この問題が社会の関心を集めているのは、単にロボットの性能が向上して、ますます多くの職業分野にロボットが進出するようになったというだけのことではありません。人間がプログラムしなくても、ロボットが自ら考え、自律的に問題解決をする技術が実用化され始めている。そのことによっていわゆるホワイトカラーの非定型的な仕事まで、ロボットによって取って代わられるのではないかと危惧されているのです。非定型的な仕事というのは、例えば事業の企画書を作ったり、メールで顧客とやり取りをしたり、コンピュータシステムの開発をしたりといったようなことですね。こういった仕事を担当するのは、二足歩行をするロボットではありません、進化した人工知能です。知的作業をこなすためには、ロボットの身体は必ずしも必要無い訳ですから。そういう意味で、現在進行しつつあるのは、ロボット革命であるよりもAI革命であると言った方が正確です。

 「シンギュラリティ(Singurality)」というコトバがあります。日本語では「技術的特異点」と訳されることが多いようですが、要するに科学技術の進歩が「人間を追い越して」しまう時点のことを指します。もしもAIが人間よりも優れた知性を獲得する時代が来たら、理論的に言って、そこから先人間の役割は無くなってしまう。何故なら、人間より優れた知性は自らを改造してさらに高度な知性を獲得することが出来る筈だし、そうなればAIは人間を置き去りにして、独自の進化をたどり始めることになるからです。そこではまったく新しい科学理論や風変わりな工業製品が次々に生み出されることになりますが、もはや人間はそれを理解することも使いこなすことも出来なくなってしまう。つまりAIを持ったロボットが人間に代わって地球を支配するという、SFの世界ではお馴染みの展開が現実のものとなるのです。これがシンギュラリティのイメージです。その時、ロボットと人間の関係が「競争」になるのか「共生」になるのか、それは誰にも分かりません。分かっているのはただ、それを選択するのは人間ではなくロボットの側であること、そしてもしも「競争」が選択された時には、人間側にはまったく勝ち目が無いということだけです。

 来るべきロボット・AI時代(つまりシンギュラリティ以後)に向け、私たちはどのような準備をしておけばいいのでしょう? あるいは遺伝子操作などと同様に、AIも禁断の技術開発分野として、法律で厳しく制限すべきなのでしょうか? おそらくそのような議論が真面目に戦わされる日も遠くないのではないかと思います。が、私はこのような心配は杞憂に過ぎないと思っています。AIの進歩によって、ロボットが人間の後継者(ポストヒューマン)に進化するためには、AI技術における最も重要かつ決定的な課題がまだ解決されていないからです。それはどのようにすればAIに「感情」を持たせることが出来るのか、言い換えれば「心を持ったロボット」は実現可能かという問題です。AIはすでにチェスや将棋の世界では人間を超えた知性を獲得するに至っています(それを知性と呼ぶかどうかは別にして)。が、これはAIが人間の名人に勝ちたいという願望を抱いて、それを実現させた結果ではありません。また名人を破ったチェスソフトが、その瞬間に勝利の喜びを感じたという事実だって存在しない。そんなことは誰が考えても当たり前のことですよね。感情を持たないAIには、人間を支配しようか、それとも共存しようかといった意思すら持つことは出来ない、これもまた当たり前のことです。

 シンギュラリティ派の人たちは、AIが進化すれば自然に「自我」のようなものが芽生えて来ると信じているフシがある。しかし、これはまったく根拠の無い仮説です。いまのAI研究では、人間が教えなくても自ら学習して知識を深めて行く、ディープラーニングという技術が実現しているそうです。でも、そのことと心を持ったAIというものはまったく関係がありません。ディープラーニングの果てに自我が芽生えるなんてことは、原理的にあり得ないからです。と言うより、私たちはどのようにして物質が感情を持つかという根本問題に対して、まだ初歩的な仮説すら持っていないと言った方が正確でしょう。私はそれが科学技術研究のなかで、未来永劫不可能だと言っている訳ではありません。少なくとも自然は40億年という時間をかけてそれを実現した訳ですし、人類がそれを追試して成功させる日が来ないとも限らない。ただ、そのためには現在のAI研究とはまったく異なるアプローチが必要になる筈だし、そんなことを研究している科学者(マッドサイエンティスト?)もいないだろうと思っているだけです。一説によれば、シンギュラリティは2045年頃にやって来るのだそうですが、現在まだ萌芽さえ見せていない技術が30年後に実現するという予想は、私に言わせれば楽観的(悲観的?)過ぎます。

 私はシンギュラリティは来ないという方にチップをすべて賭けてもいいと思っているのですが、ロボット・AI技術がこの社会に与える影響を過小評価するつもりもありません。それによって人間の職業分野が脅かされるということは当然起こるでしょう。しかし、そこには社会の生産性が向上し、人間がつらい労働から解放されるという正の面もあるので、(ベーシックインカムや政府通貨などによって)社会制度をうまく転換させれば、ロボット・AI技術は豊かな社会の実現に寄与するものだと思っています。またたとえ人間が支配されるなんてことはなくても、高度化したAIには一定の脅威が無いとは言えません。例えばコンピュータウイルスは、それ自身が意思や感情を持っていなくても、インターネット上に拡散して深刻な被害を与えます。一度拡散してしまったウイルスは、作者ですらこれを退治することは出来ません。その程度の危険は、AI研究にもつきものだということです。これに対しては、ウイルス対策ソフトを不断にバージョンアップするように、地道に対策を施すしかない。それは豊かな社会を実現するために私たちが支払わなければならない税金のようなものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年5月 4日 (日)

ボツになったアフォリズム集(6)

  1. 日米の軍事同盟が片務的であることの何が問題だというのか? 仮に北朝鮮が(あるいは中国または韓国が?)公海上で自衛隊の艦船に砲撃を加えて来たとしたら、アメリカは日米安全保障条約に従って報復攻撃を行なうだろう。それが抑止力として働いているからこそ、日本は周囲の軍事的脅威から守られているという面は確かにある。しかし、逆の場合はどうか? 米軍の艦船が砲撃を受けたら自衛隊が報復攻撃をすると宣言した場合、そのことが果たして抑止力になるだろうか。それで抑止されるくらいの相手なら、最初から米軍に対して攻撃を仕掛けることなどあり得ないのではないか。つまり、双務的な軍事同盟というものは、同程度の軍事的プレゼンスを持つ国同士が結ぶのでなければまったく意味が無いのだ。

     
  2. 軍事同盟は片務的である方が自然であり安定的でもある。何故ならその方が互いの利害が一致する状態を作りやすいからだ。片務的な軍事同盟とは、単純にギブアンドテイクの関係なのである。これに対して双務的な軍事同盟、すなわち対等な立場の軍事同盟というものには、ギブアンドテイクの関係が成り立ちにくい。お互いに補い合うものが無いからだ。両者の軍事力の均衡が破れた時に、または両国民のあいだに敵対感情が芽生えた時に、簡単に破棄されてしまうのが双務的軍事同盟である。

     
  3. そもそも集団的自衛権を「権利」と呼ぶところがウソの始まりだ。権利であるからこそ、日本もそれを持つべきだという議論に国民も騙されてしまうのである。もしコトバを「集団的自衛の義務」と訂正すれば、日本がそんなものを持つ必要が無いことは誰にも明らかだ。自国を攻撃された訳でもないのに、友好国のために軍隊を出動させなければならないという取り決めを、何故義務ではなく権利と呼ぶのか。集団的自衛権というのは、第二次世界大戦の戦勝国がでっち上げた歴史的な大ウソである。

     
  4. 電王戦についての記事を読んでいたら、棋士は勝負の流れを読んで次の一手を考えるが、コンピュータは毎回の局面を点として捉えるだけで、勝負の流れを読まないという指摘があった。それはその通りだと思うが、そのことは人間が優れていることの証拠にはならない。むしろ逆だ。流れに従って考えるとは、自分の描いたシナリオに専念して他の可能性から目をふさぐことであり、それでは毎回先入観なく局面を読むコンピュータには勝てない。心理的な駆け引きなどといったものは、人間相手にしか通用しないのである。

     
  5. このことは将棋の定石というものについても言える。コンピュータはしばしば定石を無視した手を打って来るというが、これも本末転倒した言い方だ。もともと定石というものは、先を読む能力が限られている人間が、思考を節約するために編み出されたマニュアルのようなものだ。マニュアルに頼っている者が、思考を節約せずに考える者に勝てないのは当たり前なのである。

     
  6. 科学論文の捏造問題で、コピペ判定ソフトの需要が高まっているらしい。インターネット上にこれだけたくさんの情報があふれている以上、文章の盗用を人手でチェックすることが不可能だというのは理解出来る。が、インターネット上によく似た複数の文章があったとして、そのどれがオリジナルでどれがコピーかを判定することは理論的に不可能な筈だ。これはインターネットという仕組みの致命的な欠陥だと思うのだが、ネット上の情報には信頼出来るタイムスタンプ(登録日時と更新日時)が付いていないからだ。学生の論文やレポートのコピペを抑制するには、やはり指導教官の査読能力を高めることしかないのではないか。

     
  7. 彼女は日本を捨ててアメリカに戻るべきだと思う。この国は「規格外の人」を受け入れるだけの度量の無い旧態依然たるムラ社会なのだから。

     
  8. 調査捕鯨が必要なのは、日本が長い捕鯨の文化を持っているからではない。そんなことを国際社会にアピールしたところで無駄だ。鯨を捕獲して殖え過ぎないようにするのは、あくまで海の生態系を守るためであり、日本はそこだけを争点にすべきだ。もともとそのための調査捕鯨ではなかったのか?

     
  9. コンピュータによる自動運転というのは悪魔の技術だ。これまでの常識では、たとえコンピュータによって制御されている機械がハッキングされても、それが直接殺人に使われるといったことは想像し難かった。パソコンやスマートフォンには物理的に人を殺す力は無いし、仮に航空機の自動操縦装置が乗っ取られても、墜落する前にマニュアル操縦に切り替えるくらいのことは出来る筈だ。核ミサイルの発射装置でさえ、コンピュータ制御だけで作動させることは難しいだろう。ところが自動車の場合はそうはいかない。高速走行中のクルマのハンドルをほんのわずかに回転させるだけで、ハッカーは乗員を間違いなく殺害することが出来る。しかも、航空機や列車と違って、狙った特定の人間だけを殺すことが出来るのである。

     
  10. 結局ビットコインとは何だったのか? 日本には昔から、こういうモノを表現するのにうってつけのコトバがあった。「あぶく銭」というのだ。

     
  11. 福島第一原発の事故は、貴重な教訓であると同時に、原発の危険性に関する私たちの理解をミスリードするものでもあったと思う。つまり、原発事故というのは、あの程度のものだという先入観が私たちの意識のなかに埋め込まれてしまったという意味だ。最悪の原発事故は、世界のどこかでこれから起こると私は予想している。

     
  12. 経済学者のなかには、いまだにサンクコストだとかテールリスクだとかいう概念を持ち出して、原発の再稼働を訴えている人たちがいる。彼らのコトバを聞いていると、「健康のためなら命も要らない」と言った健康マニアのことを思い出す。彼らは経済成長のためなら国が滅んでもいいと思っているのだ。

     
  13. アベノミクスによって景気が良くなったというのは全くのウソだ。欧米のリフレ政策に日本も足並みを揃えることで、極端な円高が是正され、輸出入が正常化されたに過ぎない。民主党政権がこの1回しか使えない特効薬に気付いていれば、いまも二大政党制は続いていたかも知れないのだが。

     
  14. 貧富の差は数字で測れても、幸不幸の差を数字で測ることは出来ない。人間がわずかなものでも幸せになれる可能性を持っていること、それは私たちに希望を与えてくれる事実だ。もしも人類に未来があるとするならば、この事実を土台にするしかないと私は思う。

     
  15. 少子化はこの国の人口が適正なレベルに移行するための過渡的な現象なのだから、心配する必要は無いと言う人がいる。これほど無責任な放言があるだろうか? 歴史的に見ても、急激な人口減少によって衰退した国はたくさんあった筈だが、人口減少によって持続可能な社会を実現した国などというものは聞いたことがない。仮にこの国の人口が長い目では適正な規模に落ち着くのだとして、そこに至るまでに国民はどれほどの痛みに耐えなければならないだろう。そこへソフトランディングする道筋を示せない以上、少子化については楽観的に語るべきではない。

     
  16. 少子高齢化が急速に進む国では、全人口に対する労働人口の比率が低下するのだから、理論的に言って若者の就職難などあり得ない。問題は、機械やコンピュータの進歩で人間の仕事が無くなることではない、高付加価値で高賃金の仕事が無くなることが問題なのだ。高齢者福祉や介護の現場では、すでに深刻な人手不足が起こっている。ここでの本当の問題は、福祉や介護の仕事に高付加価値を認めることの出来ない現在の経済制度にある。

     
  17. この問題に対しては、多少の劇薬を処方するしかない。つまり通貨改革を通して、経済の仕組みそのものを変えて行くことである。これまでは税金によって支えられていた社会保障の分野に、自立的な経済循環の流れを政策的に作り出すこと。地域通貨や補完通貨というのは、オルタナティブな経済のためのひとつの選択肢といったものではない、少子高齢化社会における経済運営を構想するに当たって、ほとんど必須の政策ツールなのである。

     
  18. もしもお金がどこにでも余っているものだとすれば、誰もそれを欲しがらないだろう。誰もそれを欲しがらないとすれば、それを商品と交換しようという人もいなくなるだろう。つまり、お金が稀少であるということは、貨幣経済が成り立つための必要条件なのである。そう考えれば、この世に貧乏人や生活困窮者がいることも、いわば必要悪であるということが分かる。誰もが働かなくても社会保障で生きて行けるなら、多くの人は価値の創造を辞めてしまうだろう。お金は手に入れにくいものであり、貧困には陥りたくないからこそ人は働くのだ。これが貨幣が稀少でなければならないことの理由である。

     
  19. お金には3段階の進化がある。最初に現れたのは「採掘によるお金」だった。最古のお金は稀少性のある貝や石などだったが、やがては金や銀といった貴金属が貨幣として使われるようになった。この段階ではまだ金利というものも存在しなかった。次に現れたのは「貸付によるお金」だ。いわゆる信用通貨と呼ばれるもので、そこから金融システムが生まれ、それとともにプラスの金利が経済の常識になった。そして通貨の3段階目の進化はこれから起こる。それが「感謝によるお金」と私が呼ぶものだ。これは価値の提供に対して事後的に報いるためのお金で、信用通貨では評価出来ない価値を政府が一括して買い上げるために発行される。このお金の特徴はマイナス金利を備えていることで、それによって通貨の持続可能性が保証されることになる。この3種類のお金が揃うことで、初めて人類にとって持続可能な経済の仕組みが完成する、というのが私の描いているシナリオだ。

     
  20. TPPの交渉が大詰めを迎えている。関税撤廃は、それによって大きなビジネスチャンスを得る人と、これまでの既得権を失う人を生み出す以上、この問題には誰もが納得する落としどころは理論的にあり得ない。こういう問題に対処するためには、将来この国の産業構造をどうするかという長期ビジョンが欠かせないのだが、いまの政治家は誰もそのビジョンを持っていないのである。

     
  21. 国内の第一次産業を守るために、輸入農産物に対して高い関税を課す政策は、長い目で見れば誰も幸せにしない。農家は経済競争力を失い、消費者は高い農産物を買わされ、輸出産業も高い関税障壁で苦しむことになる。だからと言って、国際関係がこれほど不安定な時代に、完全な自由貿易を前提として国内産業を再編するのはあまりに危険な賭けだ。この問題についても、私の提案は簡単だ。関税を撤廃した上で、農家に対しては国が補助金を出せばいいのだ。但し、日本円ではなく政府発行の補完通貨で補助金を出すのである。もしくは農家が生産物を売る際の、補完通貨の受容率を高く設定することでも同じ効果があるかも知れない。これは私が考える補完通貨の目的にもかなっている。つまりそれが持続可能な経済を実現するためのお金だということだ。

     
  22. もしも超越論的な目的や意味というものが無いとすれば、目的は新たに作り出されなければならない。そこまではいい。問題は超越者無き世界において、何を基準に道徳的規律を作り出して行くかということだ。私のとりあえずの考えはこうだ、我々の道徳的感受性に従って、チューニングによって道徳のコードを常に書き換えて行くということだ。過去の時代を野蛮だと感じる感性もまた野蛮なものである。

     
  23. 自分という存在がここにこうして存在していることが奇跡であるように感じられるとすれば、それは無意識のうちに自分をこの世界に生み出した超越者の存在を仮定しているのである。たとえその人が宗教を信じていなかったとしても。

     
  24. 自然科学の誠実さが「大きな人間原理」を要請したように、進化した道徳の誠実さは「小さな人間原理」を要請する。神なき世界において、つまり〈目的論〉が私たちの気持ちにしっくり来なくなった時代のなかで、他に道徳の基盤になるものが何かあるか、知っている人がいるなら教えて欲しいものだ。

     
  25. 「不幸な制度」としての生活保護は改めて行く必要がある。それは社会のモラルを低下させ、未来の希望をも奪う。お金を与えてこれで生活しろというのは、二重の意味で人権を侵害していることになる。

     
  26. 不満なのは、ベーシックインカムを論じる人のほとんどが日本円という単一通貨のパラダイムを抜け出していないことだ。はっきり断言するが、日本円でのベーシックインカムなどというものは不可能であるばかりか、経済倫理を踏みにじるものでしかない。

     
  27. 調査によれば、日本人夫婦のセックスレスの傾向は各国との比較で突出したものらしい。その理由はまったく単純で明らかだ。この国では国民の心理的なストレスが他国に比べてダントツに大きいのである。

     
  28. 誰もがスマートフォンの画面とにらめっこをしている。どんなアプリを使って何をしているのか知らないが、ひとつだけ確実に言えることがある。それは彼らが「沈思黙考」だとか「自己沈潜」といったものとは対極的な場所にいるということだ。テクノロジーは人間を限りなく浅薄にする。

     
  29. スマホを捨てよ、書に戻ろう。

     
  30. 2020年の東京オリンピックに向けて、国立競技場の建て替えが議論の的になっている。コンペで選ばれた新競技場のデザインに対して、批判的な意見が多いのだ。私は建築デザインのことはまるで分からないが、競技場を新しくするならひとつだけ小さな提案をしたい。それはすべてのトイレについて、電波を遮断する壁で仕切るということだ。誰も指摘しないことだが、スマートフォンが普及してこの方、公共の場やオフィスのトイレの空き室率が極端に低下している。「おもてなし」の国で、トイレの待ち時間が長いことは致命的である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月13日 (日)

原石を磨かなかった私たちの責任

 もうこの話題には触れまいと思っていました。しかし、今週は国中がほとんどこの話題で持ち切りだったし、気が付くと自分でもこの件について、何とか腑に落ちる解釈を見付けたいと脳細胞が活動しているのが分かる。要するに、それ以外のことが考えられないのです。STAP細胞の論文に関する疑惑について、渦中の小保方晴子さん自身が記者会見を開きました。私はその様子をニュースのダイジェスト版でしか見ていないのですが、インターネット上にたくさんの情報や意見があふれているので、それがだいたいどのような内容のもので、世間の反応はどうだったかは分かりました。

 この記者会見を見た小田嶋隆さんは、そこで印象に残ったのは「女子力」だけだったという視点で、名物コラムをまとめています。小田嶋さんの文章は、とにかく読んで面白いし、いろいろ新しい視点を与えてくれるので毎回楽しみにしているのですが、今回の印象を「女子力」のひと言で括ってしまうのはやはり乱暴だし、問題の本質を隠してしまうのではないかと感じました。我々のようなブロガー(またはコラムニスト)は、ひとつの単語に引きずられて、当初の思惑とはまったく異なる方向で整合性を持った文章を書いてしまうことがあります。今回の会見について、私はとにかく「痛々しさ」しか感じられなかったのですが、もしも小田嶋さんが(これも最近の流行語でいう)「イタさ」という視点で記者会見の印象を語ったなら、もっと思いやりのある文章になったのではないかと思うのです。私はこういう事件について書く人は、すべからく渦中の本人がその文章を読んだら…という点を心に刻んで書くべきだと思う。そういう視点で見れば、今回の小田嶋コラム、小保方さん本人にはとても読ませられないように感じるのです。

 以下、まとまりもなく感想を書き連ねます。先週、理研の調査報告を聞いた時には、罪を小保方さんひとりに着せるような発表の内容に腹が立ちました。その気持ちはいまも変わらないのですが、もっと罪が重いのは彼女に博士号を出した早稲田大学ではないかという気がして来ました。彼女は(私や小田嶋さんのようなおっさんが若い頃には無かった)AO入試で早稲田に転入したそうです。AO入試というのは、いわば原石を見付けるための仕掛けです。受験生のなかから、磨けば光る玉を拾い出すのが目的の制度だった筈です。私はこの制度の基本的な考え方には賛成です。しかし、AO入試を採用する大学は、それと同時に「原石を磨く」という責任を負っていることを忘れてもらっては困る。理研の共同研究者の先生方も、まさか早稲田の博士号を持った気鋭の研究者が、論文の書き方の基本も学んでいない「困ったちゃん」だったとは想像もしていなかったに違いない。聞くところによれば、早稲田理工学部の博士論文には、他にも剽窃(コピペ)がたくさん見付かっているらしい。だとすれば、今回の事件で教育機関としての早稲田大学の罪は重いと言わざるを得ません。

 私はどうも、日本の歪んだ教育行政の犠牲者だという視点で小保方さんを捉えようとしているようです。30歳にもなった大人を、しかも博士号まで取得して、それで給料まで得ているプロフェッショナルの研究者をそんなふうにかばうことには反論もあるだろうと思います。もちろんそのような厳しい見方も必要であることは私も認めます。しかし、人間は歳をとったからと言って、自然に誰もがバランスの取れた大人になるとは限りません。むしろ天才的な才能を持った人、人並みはずれた大きな夢を持った人は、世間一般の意味でのバランスのいい大人にはなりにくいというのが、私たちが経験的に知っているところです。そこを飲み込んだ上でのAO入試だった訳ではないですか。おそらくAO入試というものが無ければ、STAP細胞なんて発想が科学界に持ち込まれることもなかったのではないかと思います。そういう意味で、これはAO入試制度の大きな成果だとも言えるのです。(それが科学的に実証されるかどうかはまた別問題です。) すべての教科の平均点が、一定の基準をクリアしているだけの優等生からは出て来ない発想が、この制度から生まれたことを私たちは評価すべきだし、それが将来の驚くべき発見につながるという希望を持つことは、この国の自然科学の進歩にとってプラスに働くだろうと考えるのです。

 今回の事件に関連する文章で、私が一番心を動かされたのは、共同研究者である山梨大学の若山教授がSTAP細胞発見にまつわるエピソードを語った言葉でした。アナウンサーである梶原しげるさんが、捏造問題が発覚する前に行なったインタビューの記事を、小保方さんの記者会見の翌日に発表したのです。この問題について意見を述べようとするなら、これは必読の記事だと思います。そこには世紀の大発見に挑む科学者の奮闘ぶりがヴィヴィッドに描き出されている。常識破りの新発見が、常識にとらわれない「異能の人」によってしか成し遂げられないということの消息が、読み手にもよく伝わって来る文章です。若山教授と言えば、捏造疑惑が起こった時に、いち早く論文の取り下げを小保方さんに勧めた人ですね。おそらくとても誠実な方なのだろうと思います。が、この記事を読んでしまった私は、若山教授には論文の撤回を勧告するよりも、「小保方さんは私のところでもう一度研究者として鍛え直す」くらいのことを言って欲しかったと思うのです。だって小保方さんの異能ぶりを一番身近に見て知っているのは若山さんなのだし、こういう才能をこういうかたちで殺してしまうのが何より惜しいと感じているのも若山さんに違いないのだから。人の好すぎる感想でしょうか? でも、きっと小保方さんの後ろには、まだ芽の出ない異能の若者たちがたくさんいる筈なのです。彼らの未熟さや稚拙さを責めるのではなく、原石として磨き上げて行くこと、それは私たち大人の責任でしょう。今回の世間やマスコミの騒ぎ方を見ていると、この国は寄ってたかってそうした才能をつぶそうとしているようにしか見えないのです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年3月30日 (日)

有為の研究者にもう一度チャンスを

 まさか自殺でもしなければいいけど…。そう心配しているのは私だけではないと思います。この話題について、私には語るべき資格も知識もないのですが、マスコミの取り上げ方があまりにひどいので、ひと言だけ書いておきます。1か月前には「ノーベル賞確実」だとか「リケジョの星」だとか、国を挙げて持ち上げられていた若い女性研究者が、一転して恐ろしいほどのバッシングに晒されています。しかも、本筋の研究内容とは関係ない私生活の問題まであげつらわれて。まず、起こったことを簡単に振り返っておきましょう。生物学の分野で驚くべき新発見があり、その論文が世界的に権威のある科学誌に掲載された。ところがその論文に、他の論文からの写真の転用や画像修正の跡が見付かった。と同時に、リーダーである女性研究者の過去の論文にも、他人の論文からのコピペ(つまり無断転載ですね)があったことが発覚して、研究そのものの信頼性が揺らいでいる。加えて、他の研究機関の追試によっても一向に成果が出ていないことから、論文自体がまったくの捏造だった疑惑すら持たれている…。

 問題は、指摘されている不正が果たして意図的なものであるのか、単なるミスや不注意に由来するものなのかという点です。もちろん私に判断出来る筈もありませんが、常識的に考えれば意図的なものである可能性は低いと思います。データや写真を捏造したところで、そんなものはどうせバレるに決まっているのだし、不正を働くことのメリットが何も無いからです。この問題と同時期に、作曲家のゴーストライター問題が発覚して、マスコミはこのふたつを並び立てて同種の事件のように報道しています。でも、これは意味の無い対比ですね。ゴーストライター事件の方は、あくまで金銭が絡んだ一種の詐欺事件と言えますが、論文事件の方は(現在のところ)何も金銭的なものは絡んでいないのですから(これで儲けたのはゴシップ記事を載せた週刊誌だけでしょう)。将来的には莫大な特許料が入って来る可能性があるし、当面の研究補助費を獲得するという目的があったのかも知れません。しかし、それもこれも研究成果がホンモノだった場合の話です。捏造ということになれば、補助金が打ち切られるだけでなく、研究者としてのキャリアも閉ざされてしまう。そんな危ない橋を誰が渡るというのでしょう?

 今回の事件は、それよりももっと深刻な問題が背景にあるような気がします。つまり国内の科学研究の分野で、研究者の職業的な倫理性が著しく損なわれているのではないかという疑念が湧いて来たのです。私のような文系の人間には身をもって想像しにくいことですが、研究者が白衣を着て研究室に一歩入れば(たとえそれが割烹着だったとしても?)、そこは科学の厳格さが領する聖域となるのだと思います。昔ながらの徒弟制度が生き残っている世界で、そこでは一切の曖昧さも手抜きもあってはならず、ましてや実験中にゴマカシなどしようものなら、この世界から永久追放されることを覚悟しなければならない。これが悪意を持って不正を働いたというならまだ理解出来るのです。ところがどうも研究チームの人たちは、自分たちでも大発見に酔っていたふうが見える。だとすれば、病根は深いと言わざるを得ません。今回の事件をきっかけに、他にも理系の博士論文のなかに多数のコピペが見付かっているという話も聞きます。研究論文というのは人類の共有財産なのだから、コピペは問題ではないなんて意見もあるようですが、それはダメでしょう。少なくとも学術論文のなかで他人の論文を引用するなら、はっきり出典を示して、引用であることを明記すべきです。そんなことは学問の世界に生きる人間にとって基本中の基本でしょう。

 若い研究者に対してきちんとした倫理教育がなされておらず、また技術の伝承も行なわれていないとすれば、これはこの国の未来にとっても由々しき事態です。これを機会に各大学や研究機関は、もう一度学生や研究者の倫理教育について見直すべきだし、違反があった場合の罰則についても厳格に定めるべきでしょう。と同時に、やはり気になるのは「STAP細胞」なるものが実在するのか否かという問題ですね。今回の事件で、もしもこの先に起こる最悪の展開を想像するなら、論文が撤回されたあとで他国の研究チームが追試に成功して、発見者の名誉も特許権もごっそり持って行かれてしまうということでしょう。今回、研究チームはたとえ汚れ役になっても、ぎりぎりまで論文は撤回すべきではなかったと思います。いまからチームに出来ることは、研究の初心に帰ってもう一度STAP細胞の作成に全力で取り組むことです。それしか研究者としての復活の道は無い。小保方博士の最大の長所は、自分の信じた科学的仮説に、がむしゃらに向かって行く突進力にあった筈です。それは他の若い研究者にとってのお手本でもありました。今回の事件で研究費が打ち切られてしまうというなら、クラウドファンディングの手法で資金集めをしたらいい。彼女にもう一度チャンスを与えたいと思っている人たちは、この国にはたくさんいる筈ですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年3月 9日 (日)

クルマでの避難に国民的議論を

 東日本大震災から3年が経とうとしています。この時期、テレビや新聞では防災関係の特集を多く見かけます。そんななかで、津波警報が出た際の避難方法について報じていたニュースが目に留まりました。多くの自治体では、徒歩による避難を前提に避難計画を立てていますが、場合によってはクルマによる避難も考慮すべきだという研究者の報告を紹介したものでした。常識的に考えても、これは当然のことですね。地域によっては安全な高台に避難するのに、徒歩では遠過ぎるという場合もあるとあると思いますし、いくら自治体が徒歩による避難を勧告していても、いざ地震が起こったら、自家用車で逃げようとする人たちを止めることは出来ない。むしろクルマによる避難というのも、計画の一部に組み込んでおくべきではないでしょうか。

 そう考えた場合、クルマによる避難のルールというものがほとんど検討されておらず、ましてやそのための避難訓練も行なわれていないことが気がかりです。インターネットで検索すれば、避難に自動車を使う場合の課題について言及した政府の検討資料なども見付かります。ただそれは具体的なルール作りにまで踏み込んだものではないようです。今回は津波警報が出た場合のクルマによる避難について、いくつかのアイデアを書き付けておこうと思います。素人の思いつき以上のものではありませんが、今後の議論に向けた課題提起にでもなればと思うからです。

1.道路の緊急時通行ルール

 津波からの避難にクルマを使うことの第一の問題点は、交通渋滞によって避難が遅れることでしょう。皆が一斉に高台に向けて押し寄せれば、いたるところで渋滞が起き、なかにはクルマを乗り捨てる人も現れるので、道路は完全にマヒします。これは容易に想像出来ることです。これを防ぐためには、津波警報が出されたとき限定の交通ルールを、全国統一で制定しておく必要があります。津波警戒区域では、平常時の道路通行ルールとは異なる「津波警報発令時の通行ルール」を定めておき、それをすべての運転者に周知しておくということです。

 基本は、「津波警戒区域のすべての道路を一方通行にする」という考え方になります。上り車線と下り車線というルールは一時的に廃止されます。行政はあらかじめ緊急時の道路の混雑状況をシミュレーションによって予想しておき、混雑が均等になるように地域内のすべての道路(小さな路地も含めて)に「緊急時一方通行」のルールを定めます。運転者が自分の判断で道を選んで逃げようとすると、それが渋滞の元になりますが、このルールに従えば、少なくともパニック的な交通マヒは防げる筈です。

 津波が予想される地震が起こると、すべてのクルマが高台に向かう訳ではなく、海岸に向かうクルマも現れるでしょう。家族を助けに行く人たちのクルマです。しかし、これがパニック的な交通マヒを引き起こします。私が提案する緊急時の通行ルールでは、海岸に向かうことは理由のいかんを問わず禁止となります。海岸に近い家に取り残された家族の避難は、徒歩または近所のクルマに相乗りさせてもらうなどの方法によって別途考えておくべきことです。とにかく津波警報が出たら、クルマを運転する人は絶対に自分で道路を選ぶことをせず、決められた「一筆書き」のルールに従って走るだけです。それが自分と自分の回りの多くの人の生命を救うための最も合理的な行動となるからです。

 緊急時一方通行のルールは、特別な道路標識や路面に描かれた方向指示のマークによって運転者に周知されます。これはもちろん自治体ごとに定めるのではなく、交通行政が全国統一のデザインで定めて、国内すべてのドライバーが学習すべきものとなります(免許の取得や更新の際の必修科目です)。これらの標識は、ふだんは何の効力も持ちませんが、警報発令時にのみ有効になります。そのことを周知徹底しておかないと、却って平常時の交通トラブルのもとになるので注意が必要です。また、この交通知識を持っていれば、地元のドライバーでなくても緊急時の避難行動で問題を起こすことは少なくなるでしょう。(信号をどうするかということは、別途検討が必要ですね。津波が迫っている時に信号が守られるかという問題もあります。)

2.誰がクルマで逃げるべきか

 警報発令時にクルマで逃げることを禁止したり、許可制のようなものを作っておいても無駄です。津波がそこまで迫っている時に、そんなルールを守る人はいません。それでもあらかじめクルマで避難すべき人たちを決めておき、その他の人たちは徒歩避難にするというルールを作成しておくことは意味があります。誰にとっても、一番重要なことは自分と自分の家族が助かることであり、そのためには徒歩避難の方が確実であることが納得出来ていれば、緊急時にもそれに従って行動することは難しいことではない筈です。

 クルマによる避難を優先されるのは、もちろん徒歩による避難が難しい高齢者や幼児、身体が不自由な人たちです。効率的な避難という観点に立てば、クルマはうまく使えば有効な避難ツールになり得るものです。そのためには、乗車率を高めるというのも重要なことになります。5人乗りの乗用車には5人が乗って避難するということです。ふだんから住民同士で、どのクルマに誰が乗るかということを決めておきます。夫婦ふたり暮らしの世帯なら、空いている3人分のシートに誰を乗せるか、この点について行政の指導も含めて個別に決めておきます。乗車率を高めれば、当然道路混雑の緩和にもなります。

 このようにして行政に登録されたクルマには、緊急避難用車両を表すステッカーを貼るのもいいと思います。実際の緊急時にそれが何か効力を発揮するかどうかは疑問ですが、緊急避難時には運転者に、自分が公共的な避難ツールを操っているという自覚を持ってもらうことが重要であり、ステッカーによる認定はその自覚を促すために多少は役立つのではないかと思います。

3.有効な避難体制の確立のために

 津波に襲われる前には、大きな有感地震が起こるのがふつうですが、最近の研究では必ずしもその地域で感じられる地震の強さと津波の大きさは比例していないということが分かって来たようです。問題は、いつ通常の交通ルールから緊急時の交通ルールに切り替え、それを通行中の運転者に知らせるかということです。基本は地域の行政が管理しているラウドスピーカーによる報知になります。それもコトバによるお知らせではなくて、津波警報のサイレンを全国標準で決めておき、それが鳴ったら交通ルールの切り替えが行なわれることを誰もが知っておくことが重要です。

 難しいのは、交通量の多い道路での車線の切り替えですね。そのサイレンが鳴った瞬間、下り車線が上り車線に切り替わる。この切り替えがスムーズに行なえなければ、せっかくの一方通行ルールも混乱を助長するだけになってしまいます。方向が切り替わる車線を走っているクルマは、右側車線のクルマの通行を妨害することなく、左側の空き地や側道を利用してUターンすることになります。その際に側道から出て来るクルマと鉢合わせする可能性がありますから、その場合のルールも必要でしょう。場合によっては、海岸に向かって走っていたクルマは、邪魔にならない場所に移動して、乗り捨てる勇気も必要かも知れません(特に大型車両などは)。

 このように考えて来ると、徒歩の場合と同じく、クルマを使った避難訓練というものがどうしても必要だという気がして来ます。徒歩による避難訓練なら、私たちはそれがどういうものか身をもって知っています。しかし、クルマを使った避難訓練となると、誰も経験したことはないし、そんなものを実際の道路を使ってやってみようという発想すら無い。それには前もっての周到な準備と大規模な交通規制が必要になるからです。また訓練自体が危険を伴うものであるという意見も出て来ると思います。しかし、だからと言って、避難ルールだけを作って、あとはぶっつけ本番というのではあまりに危うい。現実問題として、津波の危険性のあるすべての町でクルマによる避難訓練を行なうのは不可能でしょう。が、ある町で実験的に行なった結果を映像に収め、その視聴をすべての運転者に義務付けることなら不可能ではありません。免許更新時の講習カリキュラムに組み込めばいいのです。来るべき南海トラフ地震に備える意味でも、これは検討に値する課題だと思います。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2012年12月31日 (月)

ボツになったアフォリズム集(5)

  1. いまでもまだ原発事故の影響を過小評価しようとする人は多い。彼らは今回の事故で直接死んだ人はひとりもいないなどと言う。この程度の放射性物質による汚染は、人体に影響を与えないと言うのである。たとえそれが正しいとしても、彼らには重大な見落としがある。それは人々が「放射性物質は汚い」という観念を抜きがたく持っていることを考慮していないという点だ。スープ鍋の中にゴキブリが1匹飛び込んだら、たとえそれを取り出してもそのスープはもう飲めない。原発事故の影響など大したことないと言う人は、ゴキブリスープを平気で客に出す調理人のようなものだ。
     
  2. 今年とても印象に残ったニュースにこんなのがあった。アメリカのどこかの州で悪食コンテストなるものが開催されて、ゴキブリを大量に食べた人が優勝したのだそうだ。ところがその人は授賞式の直後に倒れ、病院に搬送されたが、そのまま死んでしまったと言う。それがショック死だったのか、何かの毒性のためだったのかは分からないが、大量に摂取してはいけないという点では、ゴキブリも放射性物質も同じである。
     
  3. 原発問題に関して、日本経団連は一貫して再稼働を訴えて政府に圧力をかけている。このまま国内の電力料金が上がり続ければ、製造業の海外移転はさらに加速するだろうという脅しまでかけて。しかし、原発事故を起こした責任は政府だけにあるのではない、東京電力やその調達先の企業にも責任の過半はある筈である。原発事故のあとに、まず経団連がすべきことは、国民への謝罪であったろうと私は思う。
     
  4. 核廃棄物を宇宙に捨てるというアイデアはどうだろう。核燃料を宇宙ロケットに搭載して、太陽に向けて発射するのである。太陽を天然の巨大なゴミ焼却炉と見なす訳だ。これこそ完璧な核廃棄物処理方法である。現在、人工衛星の打ち上げは、平均して95%程度の成功率だから、20回に1回くらいは事故で放射性物質が地上に降り注ぐ可能性はある。しかし、それはリスクを将来世代に押し付けることなく現役世代が引き受けることであり、倫理的にはより優れた方法である。
     
  5. 医学の進歩によって、人間の「生」がこれだけ人工的にコントロールされるようになったのだから、その対にある「死」についてもコントロールする術が確立されなければバランスを失している。私たちはいまだに安らかな自然死というものに対する漠然とした期待を持っているけれども、そんなものは幻想だといい加減気付かなければならない。
     
  6. 生と死をめぐる選択が苦渋に満ちたものであることは当然だ。が、それは法で罰せられるかも知れないから苦渋に満ちている、ということであってはならない。医療における安楽死の法制化は、その是非を論じるべきような問題ではない、法制化は当然のこととして、その内容をこそ論じなければならない。
     
  7. リビングウィルというものを多くの人が誤解している。それは患者の意思を固定するものであってはならない。医療における安楽死については、例外なく患者の〈直近の意思〉を尊重するということが原則でなければならない。重い認知症になる前に尊厳死をさせて欲しいと言っていた人が、実際に認知症になってしまったら、もう尊厳死のことなど言い出さなくなった。たとえリビングウィルが残されていたとしても、そんなものは無効である。認知症になってまで生き続けたくないという人の意見を尊重することは、倫理的に正しいことではない。
     
  8. 苦行であることに価値を見出だすということには、それなりの意味がある。しかし、死んで行こうとする人にまでその原則を当てはめることは意味がない。
     
  9. 尊厳死の法制化というのは、尊厳死を認めて欲しいと訴える患者本人だけでなく、殺人罪に問われる可能性のある医者や家族を救済するための法律でもある。一方、法制化に反対する人たちは、多くの場合、殺人罪に問われる危険性の無い場所に自分たちの論陣を張っている。ここにこの問題における立場による不均衡がある。
     
  10. 生前に自分の葬式のやり方を指示しておいたり、個性的な墓を建てたりする人は多いだろうが、自分の死そのものをデザインする人というのはあまりいない。それは人が死から目をそらしているからだけではない、現代は制度的にも社会通念的にもそれを許さない時代だからだ。まったく馬鹿げたことだと思うのだが、私たちには愛する人たちに看取られて死ぬという自由さえ与えられていないのだ。たまたま臨終の床に家族や友人が居合わせるかどうか、それはまったく運に委ねられている。まったく現代人の「自然死信仰」というものは困ったものだ。
     
  11. 私は消費税を10%に上げることには反対だが、一挙に30%まで上げるという案になら賛成するかも知れない。10%の消費税は、プライマリーバランスを回復するにはまったく不十分であり、単に景気をより一層冷え込ませるだけの結果に終わる公算が高い。一方、30%の消費税は、単に税収を増やすためという目的以上に、社会制度の根本的な変革を前提としており、それは少子高齢化が進むこの国のひとつの選択肢としてあり得ると思うからだ。最近は学者にも政治家にも、そうした大きな構想を語る人が本当に少なくなった。
     
  12. 日本円というのは、稼ぐのは楽ではないけれど、使うのはとても楽なお金だ。つまり、交換において非対称なのである。このことから何故日本円が貯蓄されるばかりで、この国の経済を潤して行かないかということも説明出来る。長く続くデフレ不況の原因も、新興国の安い製品や人件費のせいだけではない、現在の貨幣が価値の交換手段として十分機能していないことが背景にある。このことを理解すれば、「減価する貨幣」というものの優位性がはっきり認識出来るようになる。
     
  13. 現代人は計画的な生活を求められている。逆に言えば、計画的な生活が出来ないような人(生活保護費をギャンブルに注ぎ込んでしまったり、性懲りもなくサラ金で借金を膨らましてしまうような人)は、今日では行政からも見捨てられる運命にある。これは結構きついことだ。歴史を振り返ってみれば、貨幣が発明されて以来ずっと、庶民は日銭を稼ぎながらその日その日を生きて来たのだから。
     
  14. 幸福の市場原理というものを確立しなければならない。そのためには、新しい市場原理を支える新しい通貨というものが発明されなくてはならない。経済の市場原理と幸福の市場原理の違いは、相殺的か相補的かという点にある。競争相手を出し抜くことが善である、そうした市場原理ではもう地球が保たないのである。幸福を追求することが持続性の原理を損なわない、そうした経済に移行しなければ今の閉塞状態は打ち破れない。
     
  15. 自助だとか自己責任だとかいったものが重要であることは認めよう。ただ、それを単なる精神論で論じてはならないと思うのである。むしろそれを実現するための新しい社会保障制度を構想しなければならない。トリクルダウン理論をかざす構造改革派や規制緩和派の人たちは、200万人を超す生活保護受給者をどこに連れて行くつもりなのだろう?
     
  16. 生活保護受給に対する心理的抵抗が少なくなっていることは、この制度の持続可能性という点から見ると脅威だが、受給者の横の連帯を促すためには望ましい変化と言えるかも知れない。そしてそこにこそ制度改革のためのヒントはあるのだ。
     
  17. 生活保護制度を改革するためには、4つの観点を忘れてはならない。①後ろめたさの感情からは自由であること、②それを利用することが特権とならないこと、③受給者が固定化されないこと、④制度がこの国の生産性を阻害しないことの4つである。
     
  18. 現在の生活保護制度の何が一番の問題かと言えば、それはこの制度が「貧乏は恥ずかしいことであり、不幸なことである」という先入観の上に成り立っている点にある。この前提に立つ限り、どんな生活保証制度も持続可能なものとはなり得ない。落語の世界では、貧乏人が結構楽しそうに助け合いながら暮らしているではないか、これは日本人には馴染みの深い風景である。もしもあなたがこれからの時代の社会保障制度を構想するなら、貧乏でもそれなりに幸せに過ごせる民衆の知恵に学んで、それを制度に組み込んで行くことを考えるべきだ。
     
  19. ベーシックインカムが経済界からも歓迎されたように、「人の駅」構想も構造改革派の陣営から歓迎されるかも知れない。何故なら、それは究極の自助装置だからだ。しかし、だからと言って、それを経済格差を助長するものだと警戒する必要は無い。金持ちが貧乏人を見捨てて自分たちだけの幸福を追求するように、我々貧乏人は金持ちお断りの新しいコミュニティを作ってしまおう。
     
  20. TPPを受け入れることのメリットを強調する人の話を聞いていると、日本はむしろアメリカの51番目の州になってしまった方がメリットがあるのではないかと思えて来る。なにしろそうすれば一切の市場障壁が無くなるだけでなく、円高や円安に悩む必要さえ無くなるのだから。
     
  21. 大きな政府か小さな政府かという問題がある。その答えは簡単だ。もしも人類がこの惑星上でこの先もずっと生き延びたいなら、政治や経済を小さな政府に委ねるという選択肢はあり得ない。経済における自由競争が、「神の見えざる手」の導きによって社会的な調和を実現するというのは、資源や環境の制約が無い状況でのみ成り立つ例外的な原則であって、すでに人類の文明はそうした段階をとうに通り過ぎている。持続可能性という観点で考えるなら、大きな政府どころか超国家レベルの〈世界政府〉が必要だろう。むろんこれは資本主義対共産主義などという対立軸とは異なる位相の問題である。
     
  22. 尖閣問題は、それに取り組むことが両国の長い反目の歴史にピリオドを打つためのチャンスだと思えるほど、賢くてそして強い指導者が、たまたま両国に同時に現れた時に、初めて解決可能な問題である。そのチャンスがめぐって来るまでは、棚上げするに若くはないのだ。
     
  23. 憲法を変えるべしという議論はそもそも本末転倒である。まず憲法改正ありきではなく、現行憲法に代わる改正憲法案が国民のあいだで認知され、それが国民の気持ちにしっくり来るものであるなら、その時初めて憲法改正という選択肢が検討されるべきなのだ。自民党の憲法案を読む限り、憲法改正など百年早いと私は言いたい。
     
  24. これもかつて書いたことだが、いまの日本国憲法には歴史的価値があるのだ。もっとはっきり言えば、骨董的価値と言ってもいい。いくら古びて、色褪せても、骨董品は価値を損なわれることがない。それは広島の原爆ドームをペンキで塗り直してはいけないのと同じことだ。
     
  25. お国自慢と言えば、出身県の自慢のことで、東北出身であることや四国出身であることを自己のアイデンティティの一部にしている人は多くはない筈だ。廃藩置県から150年、すでに都道府県というのは私たちの国民意識の一部になっている。 道州制などというものが一朝一夕で根付く訳がない。
     
  26. 私は「一罰百戒」というコトバが大嫌いだ。 つまり「見せしめ」というのが嫌なのだ。それは古い時代の道徳的心性から発するもので、現代にはまったくそぐわないものだ。今日の司法制度は、進化する時代の道徳意識にまったく追いついていない。
     
  27. 功なり名を遂げた人は、近頃の若者にはチャレンジ精神が欠けているなどと言う。しかし、私の見るところ、どんなに消極的に見える人でも、人間はたいていぎりぎりのチャレンジをしている。私たちは子供の頃から、自分に出来ること出来ないことを確認しながら、自分の〈分〉というものをわきまえるよう自分の心を抑える訓練を積んで育つ。思い切った挑戦をして、大きな成功を遂げた少数の人の陰には、失敗して心を病んでしまったり自殺してしまった人もたくさんいる訳で、そうならないためには自分の心の危険信号から注意をそらさないことが重要だ。人生相談などで、「何もせずに後悔するより挑戦して失敗する方がましだ」などと言う人のことを、私は無責任だと思う。
     
  28. 大震災で誰の目にも明らかになった民度の高さが、この国の最も価値ある資産なのだと思う。政治はその資産を最も活かせる国作りを目指すべきだ。
     
  29. もしもこのまま人類が化石燃料に代わるエネルギーを開発出来ないまま衰退して行ったとしたら、そしてそれを地球外の観察者が眺めていたとしたら、非常に滑稽なことのように感じるのではないだろうか? 何故と言うに、この地球という惑星は、中心部に摂氏6000度の熱源を抱えたエネルギーの固まりのような星であって、そのほんの一部でも取り出すことが出来れば、文明がエネルギー不足で衰退するなんてことは考えられないことだから。
     
  30. カーボンニュートラル終末論。化石燃料と比較して、バイオ燃料が環境に優しいと評価されるのは、それがカーボンニュートラルなエネルギーだからだと言われる。つまり燃やした時に放出される二酸化炭素は、植物が大気中から取り込んで固定したものを再び大気中に戻しているだけなので、環境負荷という点では差し引きゼロだと言うのだ。しかし、それを言うなら化石燃料だって太古の植物が大気中の二酸化炭素を取り込んで固定したものであって、それを大気中に放出することも長い目で見ればカーボンニュートラルなのである。真の意味でのカーボンニュートラルが成就するのは、人類がすべての化石燃料を燃やし尽くし、地球の大気が生物の存在しない40億年前の状態に戻った時である。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2012年8月26日 (日)

「少年の有期刑引き上げ」に反対する

 いつものように通勤電車のなかで朝刊を開いたら、「少年の有期刑引き上げ」という見出しが目に飛び込んで来ました。金曜日の朝日新聞1面に載っていた記事です。内容は、法務省が少年犯罪に対する有期刑の最高年数を引き上げる検討をしているというものでした。「早ければ9月にも法相が法制審議会に諮問し、来年の通常国会に改正案を提出する方向」なのだそうです。日本では18歳未満の少年の犯罪に対して、成人の犯罪よりも刑を軽くするよう法律で定めています(当然のことですね)。成人なら死刑に相当する犯罪であれば無期刑に、無期刑に相当する犯罪であれば15年以下の有期刑に、有期刑に相当する犯罪であれば年数の上限(10年)を設けた不定期刑にといった具合です。ところが、2004年の刑法改正で成人に対する有期刑の上限が30年に引き上げられたことの結果、成人犯罪と少年犯罪のあいだで刑の不均衡が発生してしまった(と考える人がいるらしい)。これが今回の少年法改正の理由だそうです。「09年にスタートした裁判員裁判を経験した市民からは『少年事件で思ったような量刑が選択できない』といった不満が出ていた」と新聞記事は伝えています。裁判員制度というものは、端的に言って刑事裁判の厳罰化を狙って導入された制度であるというのが私の理解です。とすれば、今回の法改正は法務省にとって既定路線なのでしょう。

 日本を除く先進国(民主主義国と言っても同じです)では、死刑は廃止される方向にありますし、懲役刑の刑期も短縮される方向にあります。ところが日本だけは、死刑存置がまず大前提で、それとバランスを取るかたちで懲役刑の最高年数を引き上げ、さらにそれに合わせるかたちで少年法までもが厳罰化されようとしている。脱原発には熱心な市民も、この問題に対しては無関心という態度で信認を与えているように見えます。たいていの人は、最近は少年犯罪が増加しており、しかもその内容が凶悪化しているのだから、厳罰化も仕方ないのではないかと思っている。ところが、統計的に見ると、少年犯罪の増加だとか凶悪化だとかいうことの裏付けとなる数字はまったく見付からないのですから奇妙なことです。しかし、これは実は単純な理由によるものだろうと私は考えています。犯罪自体は増えてもいないし、凶悪化している訳でもない、ただ私たちの犯罪に対する〈感受性〉が昔より敏感になっているという事実があるのです。いや、これは犯罪に対してだけではありませんね、たとえば政治家のちょっとした失言に対しても、芸能人のちょっとした不行跡に対しても、世間にはこれを許さないという空気がまんまんとみなぎっている。もちろんマスコミがそれを煽っているという面もあるのでしょうが、おおもとは私たちの持っている倫理的な感受性が、時代とともにどんどん過敏になって来ているというところにあります。

 そろそろ私たちは、こうしたむきだしの倫理的感情に身をゆだねることが、まったく倫理的なことではないという事実に気付くべきではないでしょうか。少年犯罪について考えることは、そうした反省をする機会を私たちに与えてくれます。18歳になったばかりの少年が殺人を犯し、死刑を宣告されることに世間は何も違和感を感じていないように見える。しかし、参政権も与えられていない、まだ一人前の人間として扱われていない子供が死刑判決を受けるなどということは、少なくとも民主主義を標榜する国ではあり得べからざることです。もしも少年法を改正するなら、厳罰化よりもまず少年の定義を二十歳未満とするのが先決ではないか。「少年事件で思ったような量刑が選択できない」とコメントした裁判員の方には、何があなたの考える「思ったような量刑」なのかを聞いてみたい気がします。裁判員に選ばれる可能性のある私たち大人には、子供を教育し、社会の一員として育てて行く義務があるのです。もちろん犯罪を犯した少年には、しかるべき刑罰を与えることが必要ですが、それは〈教育刑〉という名目のものでなければならない。成人の場合と比較して量刑がアンバランスだから少年法を改正して厳罰化する――そんなロジックを大新聞までもが追認しているのは、まったく恥ずべきことだと思います。

 もしも社会の道徳性が時代とともに進歩して行くものならば、進むべき方向は法の厳罰化ではありません。むしろその反対です。去年ノルウェーで起こった乱射事件では、77人もの人が亡くなりました。ところが犯人に言い渡された刑は、たったの禁固21年というものでした(ノルウェーでの最高刑だそうです)。そのことでノルウェー国民が、法の厳罰化を求めたり、死刑の復活を訴えたりしているというニュースは聞きません。その殺戮の現場にいて生き延びた10代の少女の言葉を、死刑廃止論者の森達也さんが伝えてくれています(これも朝日新聞の記事からです)、「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれほどに人を愛せるかを示しましょう」。これは事件当時、ノルウェーの法務大臣だった人が、森さんのインタビューに対して答えるなかで引用した言葉だそうです。なんて美しい言葉なのだろうと私は思います。が、きっとこれに対しても反感を感じる人が多いのでしょう。彼らは言います、「それでは被害者の人権はどうしてくれるんだ」と。これに対する答えは簡単です、「犯人に厳罰を与えることが被害者の人権を守ることにつながる訳ではありません。これからの時代、被害者の方も道徳的に進歩して行かなければならないのです」。きれいごとに過ぎない? だけど日本にだって昔から「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがあったのではありませんか。それが少年の犯した罪ならなおさらのことだと何故誰も考えないのでしょう?

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2012年4月22日 (日)

裁判員制度には「厳罰バイアス」がある

 世間の注目を集める裁判員裁判で判決が出ると、担当した裁判員が記者会見をすることが当たり前のようになりました。裁判員は基本的に匿名で、守秘義務を負わされた立場でもあるのに、奇妙なことだと思います。最初の頃はコメントだけだったものが、最近はテレビに会見の模様が映し出されるようになり、とうとう実名まで報道されるようになってしまった。もちろん本人の了解の上でやっていることなので、守秘義務に抵触しない範囲であれば、他人がとやかく言うことではないのでしょう。幸いなことに、これまでのところ、裁判員を務めた人が世間の非難にさらされたり、逆恨みを受けて危害を加えられたりといった事件は発生していませんが、もしもそうした事件が1件でも起きれば、当局と報道機関の危機管理の甘さが問題視されるのは間違いありません。そんなことを考えながら、記者会見を見ていた私は、ひとつ意地の悪い疑念にとらわれてしまいました。もしも今回の事件(連続不審死事件)で出された判決が、無罪あるいは死刑以外の刑だったとしたら、裁判員の方たちは記者会見の場に顔を出すことが出来ただろうか?

 その場合には、おそらく世間の彼らに対する視線は、今とは違って厳しいものになったのではないかと想像します。私たちはみんな、ホンネのところでは被告人はクロに違いないと思っていた訳です(私だってそう思っていました)。問題は、「疑わしきは罰せず」という司法の原則を乗り越えるだけの勇気と胆力を、今回の裁判員たちが持っているかどうかだ、そういう気分がこの裁判の周りには漂っていたように思います。そんななかでは、無罪または死刑以外の判決を下すことの方が勇気が要ります。間違いなくインターネット上の匿名の掲示板などでは激しい非難や人格攻撃が巻き起こったことでしょう。ところが、実際に死刑判決を出した彼らは、ちょっとしたヒーローです。そのことはネットを検索してみればすぐに分かる(「裁判員GJ」といったキーワードで検索してみてください。GJはグッドジョブの略)。マスコミだって、今回の裁判の難しさは言っても、判決そのものに疑問を呈しているところは皆無です(せいぜい警察の初動捜査のまずさを批判するくらいで)。つまり、国中が今回の判決を妥当なものとして好意的に受け止めている訳です。私は裁判員制度が始まる4年も前から、この制度の問題点を指摘し続けて来ました。世論調査で回答者の8割以上が死刑制度を支持している日本は、とりわけ市民の厳罰感情(あるいは応報感情)が強い国だと言えます。そういう国で市民の司法参加を制度化するということは、端的に言って司法の厳罰化を狙ったものだと推測出来る。裁判員制度などというものが、国会での議論もほとんどなく唐突に導入された背景には、犯罪に対する厳罰化を推し進めたいという当局の思惑があったと考えるべきなのです。

 たとえこの国の国民が、犯罪に対して強い厳罰感情を持っているということが事実だったとしても、それを当局が利用したというのは考え過ぎなのではないか、そういう反論があるかも知れません。少なくとも厳罰化の方向が民意に沿ったものであるなら、それを陰謀説のようなものに仕立てて批判するのはお門違いではないのか? しかし、裁判員による裁判はほんとうに民意を反映したものなのだろうか、私はそこにも疑問を持っているのです。裁判員は国民のあいだから無作為に抽選で選ばれる仕組みですが、そこでは巧みに選別が行なわれています。裁判員候補は個別の事件ごとに選ばれる訳ではなく、年に一度、30万人くらいの候補者がまとめて選ばれて、そこから絞り込まれて個々の事案に割り当てられます。つまり、最初の抽選の段階では、自分がどのような事件を担当させられるか分からない訳です。裁判員はしかるべき理由があれば辞退することが出来ますから、この時点で自分が死刑判決に関わりたくないと思う人の多くは、辞退の理由を考えるでしょう。(辞退は簡単に出来るようです。裁判所からの通知を受け取った私の知り合いは、電話ひとつで簡単に断れたと言っていました。そう言えば、不出頭で罰金を払ったという人の話も聞きませんね。) この段階で残るのは、真面目で責任感が強いタイプの人と、厳罰主義に親和的で正義感が強いタイプの人の2種類です。次に担当事件が決まると、裁判官との面接があります。ここで死刑反対論を滔々と述べたりすれば、その人は面接で落ちます。審理に入ってから、事件とは関係の無い〈神学論争〉を繰り広げられても困りますからね。ここで死刑反対派は脱落する。裁判官による面接を通っても、さらにもうひとつ関門があります。事件を担当する検察官と弁護士は、それぞれ候補者から4名ずつを(理由を示さずに)拒否することが出来るのです。弁護側としては、死刑に反対してくれそうな候補者を選任したいところでしょうが、それは出来ません。拒否権はあっても選任権は無いからです。死刑には慎重であるべきだと考える最後の候補者も、検察側の拒否権で除外されることになります。

 こうして絞り込まれた6人(プラス補欠の3人)は、いざとなれば死刑判決も辞さない、いわば「裁く気まんまん」の人たちです。いや、そんなふうに断言してはいけませんね、そうである可能性が高いと言い直しましょうか。誤解される前に断っておきます、私は殺人犯はすべからく死刑にすべきだという信念を持っている人がいることは当然だし、それは健全な世論の一部だとさえ思っています。そういう人が裁判員になることだって認めてもいい。ただ、そういう傾向を持った人たちだけが、選択的に集められるようになっている現在の仕組みはおかしいと言っているのです。最高裁が裁判員を経験した人たちを対象に行なったアンケートの結果があります。これによると、実に95%以上の人たちが「よい経験をした」と答えているのです。この事実をもって、この制度が国民のあいだに定着しつつあると書いた新聞の社説を読みました。浅薄な意見だと思います。裁判員経験者のほとんどが、よい経験をしたと考えるのは当然のことです。それは「裁判員をやってみることはよい経験になるに違いない」と考える人しか、裁判員候補に残らないからです。自分には人を裁く資格などない、たとえどんな極悪人でも自分のような者の判断で死刑にしたくはない、そんなふうに考える人たちはこの制度から構造的に排除されるように出来ている。事件に関わる多くの人たちの運命に影響を与え、場合によっては人の生き死にまで左右するような経験のどこが「よい経験」だと言えるのか? いや、これは私自身のつぶやきに過ぎませんが、このように偏ったアンケート結果が出ること自体、裁判員の人選に偏りがあることの証拠だと何故誰も考えないのでしょう?

 この5月で裁判員制度が施行されて丸3年が経ちます。当初から3年を経過した時点で制度の見直しをするという予定だった筈です。私自身はあくまで裁判員制度は白紙撤回すべきだと考えているのですが、マスコミでさえこれに批判的なところがほとんど無い以上、現実的にそれは不可能でしょう。であるならば、少しでもマシな制度に作り替えて行く方法はないものだろうか? いろいろ考えてみても、名案は浮かばない。それはこの制度が本質的に矛盾の上に成り立っているからです。すなわち死刑のある国の裁判で、市民を量刑にまで参加させるという、そもそもの根本思想が間違っているからです。私がこのブログで繰り返し書いているように、そんな裁判制度を採用している国は世界中どこにもありません。ヨーロッパの国々が参審制を採用しているのは、すでに死刑が廃止されているという前提があってのことなのです。考えてもみてください、国民のなかには死刑制度そのものに反対する人も一定の割合でいる訳です。検察が死刑を求刑している事件において、死刑制度に対する賛成派の裁判員と反対派の裁判員は、同じ土俵で議論をすることすら出来ません。もしかしたら裁判所は、反対派の裁判員に対しては、審理に際して内心の信条を封印するよう求めているのかも知れませんね。死刑反対の信条は信条として、現実に死刑制度が存在している以上、そのことを前提に裁判員としての判断をして欲しいとか何とか言って。でも、我々にそんな器用なことは出来ない。裁判所だってそんな面倒な候補者に、司法参加のチケットを配る気はないでしょう。かくしてこの国の刑事司法は際限なく厳罰化の一途をたどることになるのです。世界の多くの国で死刑が廃止され、〈応報的な〉司法制度から〈修復的な〉司法制度への移行が模索されているこの時代において、日本だけがこれに逆行しようとしている。そしてそのことを不審に感じる人もほとんどいないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月29日 (日)

無罪と極刑のはざまで

 裁判員制度については、以前はこのブログでよく取り上げていましたが、最近はあまり触れていませんでした。しかし、私がこれに強く反対していることは今も変わりありません。そもそも日本の裁判員制度には、最初から制度設計上の大きな欠陥があった、というのが私の基本的な認識なのです。これは以前に書いたことの繰り返しになりますが、もう一度おさらいをしておきましょう。市民の司法参加には大きく分けて二通りのやり方があります。陪審制と参審制です。陪審制というのは、市民から無作為に抽出された陪審員が、職業裁判官を交えずに審議を行ない、有罪か無罪かの評決を行なうものです。有罪か無罪かを決定するための制度なので、扱うのは被告人が無罪を主張している否認事件であることが原則で、被告人には陪審員裁判を受けるかどうかの選択肢も与えられます。評決は基本的に全員一致でなければならず、全員の意見が一致するまで徹底的に話し合うことが求められます。重要なのは、有罪が決定したあと、量刑を行なうのは職業裁判官であるという点です。陪審員はあくまで有罪か無罪かの決定を行なうだけです。これに対して、参審制(日本の裁判員制度も参審制の一種です)の方は、職業裁判官と市民から選出された参審員が合議で罪状認定と量刑まで行なうものです。対象となる事件は、被告人が起訴事実を否認しているかどうかに関わりませんし、被告人に参審員裁判を忌避する選択肢もありません。最後の評決は全員一致である必要はなく、多数決であるのが一般的です。

 こうして両者を比較してみると、同じ市民の司法参加と言っても、陪審制と参審制はまるで異なる理念と目的を持ったものであることが分かります。そしてここが重要な点ですが、ある国が陪審制を採用するか、参審制を採用するかについては、ひとつの絶対的なルールがあるのです。つまり、死刑制度を存置させている国では、参審制ではなく陪審制しか選択肢が無いということです(死刑廃止国の方はそのような縛りはありません)。いや、これは私個人の見解なのですが、そう考える理由を以下に述べます。現在、陪審制を採用している国の代表格と言えばアメリカです。アメリカは日本と並んで、先進国のなかでは例外的な死刑存置国です。しかし、アメリカの陪審員は、陪審制度の基本ルールに従って、被告人に対して直接死刑を言い渡すことはしません。量刑を決めるのは職業裁判官だからです。これに対して、参審制を主に採用しているのはヨーロッパの国々ですが、ご存じのとおりヨーロッパではすでに死刑は廃止されていますから(EUに加盟するための条件のひとつは死刑が廃止されていることです)、参審員は裁判官とともに量刑に責任を持つと言っても、死刑判決に責任を持つというシチュエーションはあり得ない訳です。ヨーロッパ諸国もかつては陪審制を採用していました。そして死刑存置国でした。これらの国々では、死刑を廃止するなかで参審制に移行したという歴史的経緯を持っているのです。ところが日本では、そのような歴史的な背景も無視して、単に司法業界の住人たちの利害調整の結果、裁判員制度という名の珍妙な〈参審制もどき〉を作り上げてしまった。これによって日本は世界でもまれな「市民が市民に死刑を宣告する国」になってしまったのです。

 私自身は〈市民の司法参加〉ということ自体に反対している人間なので、日本は参審制よりも陪審制を採用すべきだったと言いたい訳ではありません。(陪審制にせよ参審制にせよ、来るべき時代の新しい司法制度から見れば、過去の遺物に過ぎないと思っています。私が考える未来の司法制度については、別のところでアウトラインを描いています。) この制度が始まった3年前には、死刑判決が想定されるような重大事件からは、裁判員は周到に除外されていました。それはそれでおかしな話ですが、この制度が持つ本質的な矛盾はそれでカムフラージュされていたとも言えます。制度導入から1年ほど経って、反対派の声も小さくなり始めたころ、死刑の可能性がある重大事件も裁判員裁判の対象にされるようになりました。そして事実、裁判員が一審で死刑の判決を出す事例も増えて来たのです(昨年末の時点で12件の死刑判決が出ています)。そしてさらに最近では、被告人が無実を主張している殺人事件が、裁判員裁判の対象にされるようになりました。現在、さいたま地裁で公判が行なわれている「結婚詐欺・連続不審死事件」は、裁判員裁判としては異例の長さとなる〈百日裁判〉として世間の注目を集めています。被告人が起訴事実をめぐって全面的に争う姿勢であること、もしも起訴事実がすべて認定されれば死刑が予想される事件であることから、当初から裁判員にとってはあまりに荷の重過ぎる裁判であると懸念されていました。そのため辞退者が多く出ることを前提に、通常の5倍に当たる330人もの裁判員候補者に召喚状が送られたと言います。予定されている公判回数は、実に38回にも上るのだそうです。

 この事件を担当する裁判員は、長い審理期間ということ以外にも、〈ふつうの殺人事件〉を扱う場合とは異なる重荷を負わされることになります。仮に有罪が確定して、死刑判決が下ったとしても、もしかしたら冤罪であったかも知れないという疑いを完全に払拭することは出来ないからです。もしも被告人が最後まで無罪を主張し続けたとすれば、彼らはその疑念を一生〈当事者として〉抱きながら生きていかなければならなくなるのです。仮に無罪判決だったとしても同じです。この場合、裁判員は、やはり被告人は真犯人だったかも知れないという疑念と一生向き合わなければならなくなる。つまり、否認事件においては、どちらに転んでも裁判員は十字架を背負わされるという構図になっているのです。それはアメリカの陪審員でも同じではないかという意見があるかも知れません。陪審員は直接量刑に関わらないと言っても、有罪が確定すれば極刑は免れないといった重大事件が対象なら、有罪の評決を下すことは死刑宣告と同じ意味を持つのだから。ところが、陪審員制度では、そこにひとつ抜け穴というか、安全弁が用意されているのです。陪審裁判では、12人の陪審員全員の意見が一致しなければ、評決が有効にならないというルールを思い出してください。11人が有罪だと言っても、自分ひとりが頑として無罪を主張すれば、その審理は無効となって、新たに選任された12人の陪審員と入れ替えるルールになっているのです。この場合、陪審員は有罪にも無罪にも加担したことにならない。すなわちどの陪審員も、自分ひとりの意思で合法的に審理拒否が出来る仕組みになっているのです。裁判員制度ではそうはいきません。たとえ自分だけが無罪を主張しても、あるいは審理拒否を宣言しても、多数決で判決は出されてしまうからです。被告人が死刑を執行されたあと、それでも自分だけは無罪に投票したと言って自分を慰めることは出来るかも知れない。しかし、自分が死刑を決定した9人のうちのひとりだったという事実は消すことが出来ません。

 以上の事実からも、日本の裁判員制度が、いかに重大な欠陥を抱えた制度であるかということが分かっていただけたのではないかと思います。刑事裁判に市民が参加するということは、刑事被告人を裁くという行為に対する責任の一端を市民が担うということです。ということは、別の言い方をすれば、裁判の結果に対する司法当局の受け持つ責任を、その分だけ減じるということでもあります。裁判員制度というものが、ほとんど国民的な議論を経ずに性急に導入された背景には、世界的な死刑制度廃止の潮流のなかにあって、それでも死刑制度を存続させたい当局の思惑があったのではないかと私は思っています。日本は国連やEUなどから、死刑を廃止するよう勧告を受けているのです。ところが、裁判員が参加した裁判で出された死刑判決ならば、それは国民の意思であるという抗弁が成り立つ。国際世論に対して、死刑存続の言い訳が成り立つのです(少なくとも法務省はそう考えたのでしょう)。しかし、日本の国民の8割が死刑制度に賛成していると言っても、それは自分が死刑判決を下す当事者になっても構わないということではない筈です。繰り返しますが、無罪を主張している被告人に対して、市民が有罪か無罪かの判定をして、さらには死刑の判決まで出すなんて国は、世界中を見回しても日本だけなのです。市民の司法参加は先進国では当たり前だなどというコトバに惑わされてはいけない。そもそも制度設計の根本が間違っているということを、もう一度はっきり認識しましょう。この制度が持つ本質的な矛盾は、今回のような否認事件においてより際立ちます。さらにそれは極刑が想定される殺人事件において極大化するのです。

 注目される百日裁判の行方はどうなるのでしょう? 330人の候補者のなかから選ばれた6人の裁判員の方たちは、いま長い公判のなかでそれぞれの印象を形成しているところだと思います。結審は4月13日の予定だそうです。どのような判決が出るのか分かりませんが、分かっているのは、6人の裁判員は無罪と極刑のあいだで究極の選択を迫られるということ、そしてどういう選択をしたにせよ、その結果は彼らにとって大きな心の傷となって残るだろうということです。裁判員を引き受ける人のなかには、殺人犯は死刑にされるべきだという強い信念を持った人もいることでしょう。死刑判決にためらいを持たないと豪語する人だっていると思います。が、万に一つでも冤罪の疑いがある場合には、そんな正義感だけで自分の心を納得させることは出来ない。否認事件における事実認定というのは、その人の正義感や道徳観とはまったく関係の無いことだからです。そんな重荷を市民に背負わせて、しかも逃げ道も与えないなどという制度は根本的に間違っている。私は裁判員制度はいますぐにでも廃止してもらいたいと思っているのですが、それが不可能だったとしても、裁判員の基本的な権利として、審理や評決に対する拒否権は保証されるべきだと強く主張します。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2011年12月31日 (土)

今年最後の投稿

 今年はほんとうに大変な年だったというのは、誰もが感じている正直な感想だと思います。例年のように年賀状を書くことさえ、心のなかに一抹のためらいを感じずにはいられませんでした(でも、書きましたが…)。このブログに書いた記事を振り返っても、自分がいかに震災という事実に心を縛られていたか、あらためて感じます。

 とうとう今年は、このブログの別室(実は本室)である『哲学論考』の方にはひとつも記事が書けませんでした。ブログを始めて以来、初めてのことです。これではいかんと思い、1年の最後に一篇だけ、少し堅苦しい哲学的な記事を書いてみました。以前から気にかかっていた「人間原理」というものを、道徳論に絡めて考察してみたものです。我ながら辛気くさい文章になりました。来年は、本来の哲学的な考察にも、もう少し時間を割きたいと思っているのですが…

 1年間、つたない文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年もこのブログは細々と続けて行くつもりですので、よろしくお願いします。それではよいお年を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧