2014年4月20日 (日)

「電王戦」と「将棋2.0」

 将棋のコンピュータソフトとプロ棋士が対戦する「電王戦」は、今年もコンピュータソフトの勝利で終わりました。これでプロ棋士側の3連敗です。以前はプロ棋士が公式にコンピュータソフトと対戦することを、日本将棋連盟が禁止していたのではないかと思いますが、時代の流れには逆らえなくなったのでしょう。昨年は5人のプロ棋士と5つの将棋ソフトがそれぞれ一番勝負を行なって、プロ棋士の1勝3敗1引き分けという結果でした。今年はその雪辱戦とすべく、実力あるトッププロ5人が選抜され、しかも事前に対戦相手のソフトを借りて研究することが出来るというハンデキャップまで与えられたにもかかわらず、ふたを開けてみれば人間側の1勝4敗という結果でした。おそらくショックを受けている関係者も多いのではないかと思います。

 ここ数年のあいだに将棋ソフトの実力が急速に伸びて来た背景には、ソフト開発に関する大きな方向転換があったようです。もともと将棋のような2人用の完全情報ゲーム(サイコロやカードのような偶然の要素を含まないゲーム)は、完全に解析されれば「先手必勝」か「後手必勝」か「引き分け」か、そのいずれかの結論に収束する筈のものです。ソフト開発では、コンピュータの演算能力を活かして、人間の能力を超えた先の展開まで読むことで強いソフトが実現出来ると信じられていた。その考え方は間違いではないのですが、そのためには将棋というゲームは複雑過ぎたのです。比較的ルールの簡単なチェスやオセロゲームなどでは、コンピュータは早くから人間を打ち負かしていました。しかし、相手から取った駒を自分の駒として指せるというルールを持つ日本の将棋は、可能性の分岐が(現在の)コンピュータの演算能力をはるかに超えていたのです。

 最近の将棋ソフトは、コンピュータパワーをフル回転させて先読みをするというやり方ではなく、もっと「人間くさい」やり方で実力を上げて来ているようです。例えば、過去の名勝負と呼ばれるゲームの膨大な棋譜を読み込ませ、いわば人間が「定石」を学ぶような仕方で、過去の優れた打ち手を真似るといったようなやり方です。ゲームの完全解析を果たした最強の将棋ソフトから見れば、人間が残した過去の棋譜なんて意味の無いものであるに違いありません。どんな名勝負であっても、ミスと悪手ばかりが目立つヘボ将棋のように見えることでしょう。が、コンピュータはあえて人間に学ぶことで飛躍的に強くなり、いままさに人間を凌駕するところまで進歩した。これはとても面白いことだと思います。これは要するに、人間とコンピュータが互いに切磋琢磨して、実力を高め合うことが出来る環境が整ったということでもあります。今回の対戦のなかでも、コンピュータが一見過去の定石に反するような手を打って来て、それが結果的に非常に良い手であったことが後から判明したといったことがあったようです。つまり、過去の定石に縛られていた人間の固定観念を覆して、新しい将棋の世界を拓いてみせた訳です。

 こう考えると、電王戦を単に人間が勝つかコンピュータが勝つかというだけのイベントにしてしまうのはもったいない気がして来ます。むしろ新しい将棋の可能性を、プロ棋士とコンピュータが協力して探るためのイベントとして捉えた方がいい。結果としての勝ち負けはある訳ですが、それよりも過去には存在しなかったような斬新な棋譜を残すというところに目標を置いた方がいいと思います。何故かと言えば、それによって人間もコンピュータもさらに実力を高めるための機会が得られるからです。3年連続でプロ棋士が負け越したことで、もう未来永劫人間はコンピュータに勝てないのではないかというような悲観論もあるようですが、それは早計です。いまコンピュータと対戦しているのは、強いコンピュータソフトの無い時代に、古い定石をベースに将棋の実力を培って来た、いわば「棋士1.0」とでも呼ぶべき人たちです。これからは子供時代から強いコンピュータソフトを相手に実力を磨いた「棋士2.0」と呼ぶべき人たちが現れて来るのです。そのなかからどんな天才棋士が現れるか、それを思えばまだまだ勝負は始まったばかりだとも言える。そして人間とコンピュータがしのぎを削るなかで、両者の棋力がますます磨かれて行くことになるのは間違いありません。

 ところで、遠い将来の話はともかく、いまの電王戦のルールは見直すべきではないかという話をします。私自身は将棋を打たない人間なので確かなことは言えないのですが、いろいろな人の観戦記を読むと、今回の電王戦においてプロ棋士は必ずしも実力の差でコンピュータに破れた訳ではないようです。コンピュータと対戦していることのプレッシャーや意表をついた手に惑わされて、棋士側がミスをする場面が多かったらしい。また今回は、ロボットアームが駒を動かすといった無用な余興もあって、それが対戦棋士の気を散らしたという面もあったのではないかと思います。もちろんそれも含めての実力だと言ってしまえばそれまでですが、「斬新で美しい棋譜を残す」という観点からすれば、集中力の欠如から来るミスや悪手はなるべく無くすべきです。そのために電王戦のルールをどう改善すべきか?

 これは思い付きですが、プロ棋士の側は個人戦で戦うのではなく、団体戦で戦うルールにしてはどうでしょう。将棋ソフト側も5種類なんて要らないので、予選を勝ち抜いた最強のソフトひとつがプロ棋士と対戦出来るものとする。これを迎え撃つのは5人のトッププロです。対戦中、彼らは合議制で次の一手を決めるものとします。もしも意見が割れた時には、多数決にするかランク上位の棋士の意見を優先するというルールにしましょう。これによって、棋士側のミスによって名勝負を台無しにしてしまうというリスクはかなり減らせる筈です。電王戦というのは、人間対コンピュータというカテゴリー対決なのだから、特定の棋士を人間代表で出場させることにそもそも無理があるのです。それよりもむしろ人間の「集合知」でコンピュータソフトに対抗する方が正解だと思います。勝負は三番勝負で、先に二勝した方が勝ちとすれば、イベントとしても盛り上がる。そこから「将棋2.0」の世界が見えて来るのではないでしょうか。

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2014年1月26日 (日)

「リアルすごろく旅アプリ」というアイデア

 テレビ東京の旅番組が面白い。この正月休み、定番の「路線バスの旅」だとか「すごろくの旅」だとかいう番組を家族で見ました。旅番組と言えば、少ない制作費で旬を過ぎたタレントを起用して…といったチープな印象がありますが、どうして視聴者を楽しませる工夫がいろいろと凝らされていて、ビジネスのヒントにもなりそうなアイデアが満載です。今回「すごろくの旅」を見ながら、もしかしたらこれはスマホアプリにぴったりのコンテンツなんじゃないか、そういうひらめきがあったのでそのことを書き留めておこうと思います。まだ正月ボケの治らないアタマで考えた新しいオンラインゲームの提案です。

【1】それってどんな番組?

 鉄道の駅やバスの停留所をすごろくのマスに見立てて、実際にサイコロを振って出た目の数だけマスを進んで、先にゴールした方が勝ちという「リアルすごろくゲーム」です。番組では男女それぞれが2人ずつが2チームに分かれて、男女対抗で勝敗を競っていました。止まったマス(つまり途中下車をする駅や停留所)には、二者択一のカードが置いてあって、そのうち1枚を引いてそこに書かれた指令をクリアしないと次のサイコロを振れないというルールです。カードには、その周辺の見どころに行って何かを体験して来るように指示が書いてあります。またはふつうのすごろくように「3マス進む」だとか「2マス戻る」といった指示もあります。ボードゲームのすごろくは参加者が順番にサイコロを振りますが、すごろくの旅ではそれぞれのチームが相手チームの進行と同期を取ることなくゲームを進めます。つまり、純粋なタイムトライアルなのです。ただ、編集された番組を見ている視聴者には、両チームの進行状況が交互に映し出されますから、あたかもゲーム盤を上から見下ろすような臨場感を持って勝負のゆくえを見守ることになります。

【2】どんなふうにアプリにするの?

 それを説明するには、どのようにリアルすごろくゲームを進めるか、手順を説明した方が分かりやすいでしょう。ゲームは次のようなステップで進んで行きます。

  1. ゲームの幹事が最初にゲームの基本設定をします。参加するチーム数、各チームのニックネーム、各チームの人数、ゲームの日程(「○月○日○時~○月○日○時」というように設定。日帰りでも宿泊でもOK)、旅をしたい方面(路線)といったアウトラインを決めるのです。また、オプションとして、旅のタイプを選択することも出来ます(例えば、グルメとか、温泉とか、アウトドア体験とか、歴史・文化探訪とか)。もちろん1人当たりのおおよその予算も入れてもらう必要があります。参加者の年齢層も聞いておいた方がいいですね(子供やお年寄りの有無で、採用するイベントの内容も変わる筈ですから)。旅の難易度も選択出来るといいでしょう(例えば、徒歩で歩く距離は1km以内とか)。
     
  2. ゲームの基本設定が登録されると、今回の旅のIDとパスワードが発行されます。参加者はそれを使ってログインします。最初にログインすると、所属チームを聞いて来ますから、自分のチームを選びます。(別に参加者全員がログインする必要はありません。各チーム最低1人がログインすればいいのです。) 初期画面には、旅のスタート駅とゴール駅、そしてその間のルートがすごろく風に表示されます。これでゲームの準備は完了です。
     
  3. 参加者は、ゲームの開始時刻までにスタート駅に集合します。(指定された路線の1日乗り放題切符を買っておくといいでしょう。) 開始時刻が来ると、各チームともサイコロを振れるようになります。サイコロはチームメンバーの誰でも振れますが、ひとつのマスでは1回しか振れません(振り直しは出来ません)。出た目に合わせて電車または路線バスで指定されたマスにまで行きます。(ここで各チームはバラバラになります。) 降りた駅またはバス停で、ルーレットを回します(番組ではAかBのカードを引きますが、アプリではもっと選択肢の多いルーレットにしましょう)。そこで出た指令をチーム全員でクリアします。何が出るかはお楽しみです。
     
  4. 指令をクリアしたチームは、先ほどのマス(駅またはバス停)に戻り、そこでまたサイコロを振ります。これを繰り返しながら、ゴールを目指す訳です。ゴールのマスに到達したチームは、そこで最後の指令をクリアし、ゴールのマスに戻ったところで「ゴール」の報告をします。するとアプリがそのチームの順位を表示します。すべてのチームがゴールしたら、そこでゲーム終了です。

【3】スマホアプリにする理由

 これだけの説明だと、別にスマホのアプリにする必要はないんじゃないの?という疑問を持つ方もいるかも知れません。例えばすごろく旅向けのガイドブックなんてものだって、工夫次第で作れるかも知れない。ところがすごろく旅は、オンラインゲームにすることにとても意味があるんです。例えばチームの人数や年齢層、旅のタイプや予算などに合わせてイベントを選択することは、とても書籍版のガイドブックでは不可能ですが、インターネットにつながったオンラインのアプリなら、そのへんはお手のものです。さらに季節や曜日、その時の時刻や天気などに合わせて相応しいイベント候補を選び出すことも出来ます(例えば、雨の日には野外型イベントは選ばない、その日が定休日のお店には案内しないなど)。番組では、カードに書かれた指令は「謎解き」のような曖昧な文章になっていますが、これは視聴者サービス用の演出なので、アプリの場合はもっとストレートで分かりやすい指令で構いません。目的地までの地図やお店の情報なども表示出来るようにしましょう。イベント情報は常に更新されているので、同じ場所を旅しても毎回新たな体験が出来るというのもセールスポイントです。また時刻表アプリと連動させれば、次の電車やバスの時間を気にしながらゲームを進めることも出来ます。

【4】で、いったい何が面白いの?

 こうしたイベント型のゲームを楽しめるかどうかは、結局は参加者の「ノリ」次第です。旅行は何にも束縛されることなく、足の向くまま気ままに楽しみたいという人には合わないかも知れません。でも、若い仲間同士の旅や子供連れの家族旅行などでは、参加者が同じミッションを共有することや他のチームと競い合うことで、新しい旅の楽しみ方が発見出来ると思うのです。そもそも出不精で計画を立てるのが苦手な人には、旅行というイベント自体が面倒なものである訳です。子供にせがまれて、しぶしぶ連休や夏休みの旅行の計画を立てるお父さんも多いことでしょう。ところが、このアプリを使えば、計画はいっさい要らないのです。アプリの指示に従うだけで、未知なる冒険の旅に出ることが出来る。自分で計画を立てた旅では、どうしてもマンネリになりがちで、意外な体験をする機会も少ないでしょうが、ここではすべてが予想を超えた意外な体験ばかりです。別にチーム間の競争にしなくても、1チームだけで登録すれば、家族やカップルでの単独旅行にも使えます。この場合も、予定時間内にゴールするというミッションが旅の楽しさを倍増します。

【5】さらにこんな工夫やサービスも 

 テレビ番組のようなアナログのゲームでは、相手チームの位置が分からないため、自分たちが進んでいるのか遅れているのか分からないという問題があります。これはアプリにすれば解決出来ます。いつでも他のチームのだいたいの位置がモニター出来るからです。と同時に、異なるチーム同士が同じ駅でニアミスをするような場合も事前に分かるので、そこですれ違うことなく会話を交わしたりも出来ます。さらにスマホのGPS機能で位置情報を記録しておけば、それぞれのチームが時間の経過とともにどのようなルートをたどっていたのか地図上に再現出来ますから、旅が終わったあとに参加者が集まって、それをあたかも番組を見るように楽しむことも出来るでしょう。旅の途中で撮った写真や動画を貼り付ければ、ちょっとした旅番組の完成です。少し変わった旅の記録として、何年か後に子供と見返すことも楽しそうです。このアプリが広く使われるようになれば、自分たちの旅をインターネットに公開することが流行るかも知れません。

【6】旅アプリのビジネスモデル

 このアプリがどのようなビジネスにつながるかと言えば、可能性はいろいろあります。アプリ自体は無料で配布して構いません。スポンサーはいくらでも募ることが出来るからです。鉄道会社にとっては、その路線の見どころを紹介して観光客を呼び寄せるという期待があります。イベントに取り上げるお店や観光施設などからも広告料が入って来ます(但し、お店や観光施設の選定については一定のクオリティを保障する必要があります)。インターネット上のルート検索や旅情報を提供する企業が、自社のサービスの付加価値として、このようなオンラインサービスを提供するというのもビジネスとして悪くないと思います。もちろんテレビの放送局が自社の番組のPRのために利用することも出来るでしょう。また、これからは海外からの観光客を増やして行くのが国の大方針ですから、外国語での展開というアイデアもあります。この場合、観光庁あたりから補助金が期待できるかも知れない。とにかく国内旅行の活性化に一役買うことが出来れば、周辺にビジネスチャンスはいくらでも広がる筈です。

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2008年7月 6日 (日)

「翻訳支援機能付きHTML」という発想

 前回に引き続いてコンピュータによる自動翻訳の話です。グーグルでの翻訳結果があまりにひどいので、一体どんな翻訳ロジックを採用しているのか興味を持ちました。調べてみたらグーグルの「よくある質問」のページにちゃんとカラクリが書いてありました。一読してびっくり。そのまま引用します、「今日市場に出回っている自動翻訳システムのほとんどは、規則ベースで開発されており、語彙や文法の定義など多くの作業を必要とします。Google の翻訳システムの手法は異なり、ターゲットとなる言語で記述された単一言語のテキストと、人間が翻訳した他言語のサンプル翻訳テキストを対にしたものを大量にコンピュータに入れます。そしてこれらのテキストに統計的学習手法を適用して、翻訳モデルを構築しています。Google のリサーチ評価では、この手法が優れた結果をもたらすことが判明しています。」 おおっ、これってひょっとして、「サールの中国語の部屋」そのものじゃないですか! ジョン・サールという哲学者のことをご存知ない方は、インターネットで検索していただくとして、私がこの解説を読んで理解したと思ったのはこういうことです。グーグルの自動翻訳は、24もの言語(中国語の繁体字と簡体字をひとつと見なせば23になります)を相互に翻訳するという画期的なものですが、実はグーグルの翻訳ソフト開発チームには、これらの外国語に精通した人間なんてひとりもいないに違いない。いや、それどころか、この〈統計的翻訳手法〉というものの優秀さをアピールすることで、グーグルの技術者たちは、「俺たちは自分が全く知らない言語についてだって翻訳プログラムを作ることが出来るんだぜ」と豪語しているのです。

 これはいかにもグーグルらしい発想だと感心させられると同時に、私のような文科系バリバリの人間には、まったく自然言語というものを舐めたふざけた発想だとも感じさせられるのです。では、その統計的翻訳とやらの実力のほどを見せてもらおうじゃないか。このブログの先週の記事を試しにグーグルの翻訳ページで英語に訳させてみました。冒頭部分はこんなふうになりました。

 原文 『訪れる人もまれな、ワールドワイドウェブ上の孤島のようなこの私のページに、それでもたまに立ち寄ってくれるお客さまがいるのは、インターネット検索というサービスのおかげです。』

 グーグル英語訳 『Visitors are rare, the World Wide Web on the island I like this page, but occasionally you stop by the customers, the Internet search service, thanks.』

 全然ダメじゃん(笑)。ベータ版だとしても、一般公開するレベルの自動翻訳ではありませんね。これでは中国語を訳させても、意味の通る日本語にならなかったのも肯けます。ほんとうにグーグルの翻訳プログラムは、構文というものをまったく解析しないのね。インターネットで調べてみると、「統計翻訳」というのはグーグルの発明ではなく、他でも研究されているもののようです。しかし、このサンプルを見る限り、この方式をいくら洗練させても限界があるんじゃないかという気がします。いや、今回もう一度自動翻訳の話題を取り上げたのは、グーグル翻訳のレベルの低さをあげつらうことが目的ではありません。おそらく「統計翻訳」などという発想が生まれて来た背景には、自然言語における構文解析や意味解析というものが、コンピュータにとっては本当に苦手なのだという事実があるのだと思います。しかし、この難問を避けては、実用に耐える自動翻訳の実現は難しいのではないか。であるならば、とりあえず人間がコンピュータの翻訳をサポートするという方向も併せて考えた方が現実的であるように思います。日本には古来、漢文をレ点や返り点を付けて読み下すという伝統がありました。それと同じような感覚で、日本語の文章をコンピュータに理解しやすく加工するための記号を考案して、これをテキストの中に埋め込むという発想はどうでしょう。日本語でブログを書いている私たちにしてみても、そのひと手間をかけることで自分の文章が読みやすい外国語に翻訳されるのなら、手間のかけがいもあるというものです。

 私は自動翻訳の専門家ではありませんから、以下のアイデアが実用性のあるものか、あるいは似たような発想がすでにあるものなのか、分かりません。よく考え抜かれたものではないジャストアイデアだということをお断りした上で、今回私が考えた記述法のサンプルを示してみたいと思います。日本語の文章の中に(あるいはどんな言語で書かれた文章でも構いません)、「レ点」や「返り点」のようなものを埋め込む訳ですが、ここでは仮にこの記号を“【】”という括弧でくくって表現するものとしましょう。先の翻訳例を見ても分かるとおり、私たちが翻訳プログラムに教えてあげたいことの主要なポイントは、文章の中の単語や文節の〈係り受け〉と、個々の単語の意味の2点だと思います。場合によっては、もしも英語に訳すなら、ここはこの単語を使って欲しいという筆者からの要望もあるかも知れません。

■翻訳支援用の記号一覧

【/言語略号】 言語の指定(日本語なら【/ja】、英語なら【/en】)
【=.テキスト】 類義語(翻訳時の参考としての)
【+.テキスト】 翻訳時に補完したい単語・文節・文章
【/言語略号.テキスト】 言語指定付きの指定訳語
【】 単語や文節の区切り(任意、間違えやすいところに)
【n(】テキスト【)n】 ひとまとまりの翻訳の単位(数式等で使う括弧と同じ)
テキストA【n>】【>n】テキストB 文章や文節の係り受け関係(テキストA→テキストB)

 いくつか使用例を挙げます。コンピュータの翻訳プログラムの気持ちになって読んでみてください。

■翻訳支援記号の使用例

巷間【=.ちまたの =.市井の】哲学者
2チャンネル【+.(日本最大のインターネット掲示板)】
【+.私はあなたを】愛してるよ
【1(】福澤諭吉【)1】【/en.Yukichi Hukuzawa】
竹島【/ko.独島 /en.Liancourt Rocks】
市議会【】議員
太った【1>】丸い眼鏡の【>1】男
【>1】それなんだ、私が言いたかったのは【1>】。

 先ほどのサンプル文章を加工するとしたら、こんな感じでしょうか。

 【/ja】【1(】【2(】訪れる人もまれな【)2】【3>】、【>3】【4(】ワールドワイドウェブ上の孤島【)4】のような【)1】【5>】【>5】【6(】この私のページ【)6】に、それでも【7(】たまに立ち寄ってくれる【)7】【8>】【>8】お客さま【/en.guests】がいるのは、インターネット検索というサービスのおかげ【=.結果】です。

 まあ、人間が見て分かりやすい表記ではありませんね。〈文章の係り受け〉については、主語と述語、形容詞と名詞、動詞と目的語、等のパターンについて記号を分けた方がいいのかも知れません。あるいはそのへんは翻訳プログラムのインテリジェンスに任せるとして、意味の単位をくくる括弧だけにした方が、記号を書き込む側としては手間がかからないので現実的でしょうか。さて、今回のアイデアにはもうひとつセールスポイントがあって、それはこの翻訳補助記号をインターネットのページ記述言語であるHTMLの書式に合わせてしまうというものです。私はHTMLを書いたことが無いので詳しくは知りませんでしたが、「HTML入門」といったページを見ると、プログラム言語にふつう付きもののコメントの書式があることが分かります。具体的に言うと、“<!--”と“-->”という記号の間に書かれたテキストは、プログラマーのコメントとして扱われるのです。これを拝借します。翻訳補助記号として、“<!--tr”と“-->”という書式を採用することにします(trはtranslateの略です)。これをHTMLのテキストの中に埋め込めば、ブラウザでの表示上は何も影響が出ません。これに対応した翻訳ソフトにとってのみ意味を持つので、現行のHTMLと互換性が保証されているところがミソです。(どういう訳かココログのHTMLエディタでは、コメント書式を書き込んでも保存されないようですが…)

 ですから今回の記事で使った“【”と“】”という記号は、“<!--tr”と“-->”とに置き換えられることになります。いちおう考案者の特権として、これを「trタグ」と名付けましょう。前述の文例を正式なtrタグで書き直すと、以下のようになります。

 <!--tr /ja --><!--tr 1( --><!--tr 2( -->訪れる人もまれな<!--tr )2 --><!--tr 3> -->、<!--tr >3 --><!--tr 4( -->ワールドワイドウェブ上の孤島<!--tr )4 -->のような<!--tr )1 --><!--tr 5> --><!--tr >5 --><!--tr 6( -->この私のページ<!--tr )6 -->に、それでも<!--tr 7( -->たまに立ち寄ってくれる<!--tr )7 --><!--tr 8> --><!--tr >8 -->お客さま<!--tr /en.guests -->がいるのは、インターネット検索というサービスのおかげ<!--tr =.結果 -->です。

 え、面倒くさくてやってられないですって? 確かにこうした記号をいちいちキーボードから入力するなんてやってられませんよね。しかし、この書式が標準になれば、当然これに対応した高機能なHTMLエディタが開発される筈ですから心配は要りません。現在でもHTMLをコードで入力する人なんてほとんどいないでしょう。もちろんこれは日本語だけではなく、どんな言語にだって適用出来ますし、これを利用した翻訳技術が進歩すれば、センスのいいtrタグを書き込める人が、これからの時代では翻訳家と呼ばれることになるかも知れません。翻訳ソフトも進化して、優秀な翻訳家とのコラボレーションによって〈名訳〉というものだって生まれて来るに違いない。<!--tr >1 -->どうでしょう、グーグルに先を越されないうちに、日本のベンチャー精神あふれるソフトウェア会社がこれに取り組んでみては<!--tr 1> -->。

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2007年4月22日 (日)

戦争を語り継ぐプロジェクト

 他の新聞にも同じような企画があるのかも知れませんが、私の購読している朝日新聞では、毎月1回「語り継ぐ戦争」と題して、読者からの戦争体験談を掲載しています。当然のことながら、投稿者の方の年齢は高く、今週月曜日に掲載された記事の中でも、八編のうち五編が八十代の方からの投稿でした。私は新聞の読者投稿欄の愛読者で、特に戦争体験談が掲載されている日の朝刊は襟を正すような気分で読んでいるのですが、この好企画もあと十年は続けられないのではないかと思います。

 どんな歴史上の大事件でも、時が経てばそれを実際に体験した人は死んで行ってしまい、事件の記憶が薄れて行くことは仕方の無いことです。関ヶ原の戦いは誰もが知る歴史上の大事件で、これに関する小説や研究論文も多いと思いますが、当然のことながらそれを実体験として語り継ぐ人は現在どこにもいない。早晩、第二次世界大戦に関しても同じことが起こるでしょう。あれだけの大事件でも、やがては歴史の中に埋もれて行ってしまう。戦争を語り継がなければならないと言っても、それはせいぜい子や孫の世代くらいまでのことで、そこから先は歴史教科書で知るだけの事実に落ち着いてしまうのです。いや、すでに記憶が風化して来ているからこそ、戦後生まれの若い政治家たちは、憲法改正だとか日本の核武装だとか、勇ましいことばかり言っているのでしょう。

 しかし、私はまた、第二次世界大戦(正確には日中戦争および太平洋戦争のことですが)は、過去に日本が関わったいずれの戦争とも明らかに異なる、特別な戦争だったような気がするのです。それはこの戦争ほど、膨大な記録が残され、たくさんの体験談や証言が語られて来た戦争は無かったという点においてです。もしも邪馬台国の時代から第一次世界大戦に至るまでのすべての戦乱や戦争の記録をテキストファイルにまとめたとしても、ファイルのサイズとしては、第二次大戦に関する膨大なテキストデータの1パーセントにも満たないものであるに違いありません(計算した訳ではないですけど)。その多くは活字にもなっています。試みにいまインターネット書店のアマゾンで、「戦争体験」というキーワードで検索をかけてみると1619件のヒットがありました。むろんそのほとんどが第二次大戦での戦争体験記です。そしてその多くが今では絶版になっています。(もともと戦争体験記をまとめたような本は、小さな出版社が発行した小部数のものが多いのです。) これに加えて新聞・雑誌の投稿記事のような、単行本にならなかった記録はもっと多いでしょうし、一度も活字になったことすらない個人の日記や手紙などはさらにたくさんあるに違いない。私はこれを将来のために残しておくことは、とても大事なことではないかと思うのです。例えば、関ヶ原の戦いに参戦した西軍の足軽、なんのたれべえの自筆の参戦記がどこかの旧家から発見されたとすれば、それは結構重要な歴史資料になりそうじゃないですか。たまたま数が多くて、ありふれているからと言って、兵隊に行ったおじいちゃんの戦時中の日記が軽んじられていいということはありますまい?

 先日のニュースで、沖縄戦での住民の集団自決について、教科書から「軍に強制された」という表現が削除されたことが問題にされていました。従軍慰安婦問題についても、安倍首相が同じような発言をして世界中から非難を浴びたばかりです。こういう話を聞くと、私は心底がっかりするのですが、それではこういう問題について自分自身がはっきりした定見を持っているかというと、決してそうとは言えません。集団自決や従軍慰安婦の問題については、知識としては知っていても、それを実際に体験した人の記録を読んだことがないからです。集団自決の問題に関心を持った人が、最も手に入れやすく最初に読むであろう文献は、例えば大江健三郎さんの本や曽野綾子さんの本だと思います。従軍慰安婦の問題であれば、吉見義明氏の本や泰郁彦氏の本ということになるのでしょうか(amazonがそれをリコメンドしていますから)。しかし、最初にこれらの本を読むということは、著者の強烈なイデオロギーの世界に連れて行かれることでもある訳で、特に若い人への読書のガイドラインとしては好ましいものではないような気がします。むしろ歴史を学ぶ人は、初めは事件の渦中にいた人の生の声になるべく多く接し、それを自分なりに咀嚼した上で歴史解釈の文献に進んだ方がいいと思う。ところが、こんな情報化時代にあっても、この「生の声」を探し当てるのがなかなか大変なんですね。先ほども書いたように、それらは多く読み捨てられ、情報として散逸してしまっているからです。日本の著作権法では、著者の死後五十年で著作権が切れることになっています。もう戦争が終って六十年以上が経ったのだから、戦争に関する第一次史料は無償で公開する方向で各出版社や新聞社は検討してみたらどうでしょう。版権の問題はあるかも知れませんが、もともと出版してもそんなに売れる見込みの無い本でしょう? 従軍慰安婦は軍が連行したのか、集団自決は軍の強制によるものだったのか、南京大虐殺というのはどこまでが真実なのか、こういう問題について論じている文章を読むと、筆者はほぼ例外なく右翼か左翼かのどちらかです。とにかくイデオロギーが先にある。これは虚しいことだと感じます。そういった先入観無しに、もっと手軽に戦争の体験記録や証言集が読めるようにならないものだろうか。せっかくこれだけインターネットが普及したのに、本当に必要な情報へのアクセシビリティが不足していると感じます。

 もしもあの戦争の全記録が、テーマや年代別に整理されて、インターネット上で自由に閲覧出来るようになったとしたら、それはこれからの若い世代の人たちにとってどれほど価値ある贈り物になることでしょう。この企画を実現するには、今がラストチャンスのような気がします。いまこそ戦争記録を網羅的に収集して編纂する国家的なプロジェクトを立ち上げるべき時ではないでしょうか。きっと今日も戦争体験者のご老人がどこかで亡くなり、貴重な日記や手紙が無残にも廃棄されてしまっているに違いない。たとえ日本の歴史がこの先何千年続こうが、あれだけの体験はもう二度と出来ないのですから、これ以上貴重な証言や記録が磨滅しないうちに、デジタルデータとして保存しておくべきだと思います。もしも日本政府がやらないなら、どこかのNGO団体がやるしかない。私はこの事業を、今年から定年退職の時期を迎える団塊の世代の人たちに担って欲しい気がします。団塊の世代が何故〈団塊〉なのかと言えば、敗戦後の日本を復興させるために、戦争で生き残った人たちが産めよ殖やせよと子供をたくさん作ったからです。つまり団塊の世代というのは、戦後復興の担い手としての使命を最初から背負わされて生まれて来た世代だったのです。そして確かに彼らの奮闘もあって、日本は世界中が目をみはるほどの見事な復興を遂げました。あともうひとつ団塊の世代に託された使命があるとすれば、あの戦争を経験しなかった最初の世代として、それを客観的な目で評価し、記録として後世に残して行くことだと思います。戦後まもなく生まれた彼らには、戦争を生きのびた復員兵を父親に持つ人たちも多い筈です。まずはご両親の話を聞く(または遺稿を読む)ことから始めませんか。思えばこの六十年、あなたがたはあまりに忙し過ぎて過去を振り返るゆとりさえなかった。でも、これからはゆとりが出来るのじゃないですか。確かに大変な労力であるには違いありませんが、誰かがやらなければならない事業です。あとに続く我々世代も、順次これに合流して行きますから、どなたかこの世代を超えた一大プロジェクトに着手しようという方はいらっしゃいませんか?

(追記です。インターネットを検索していて、戦争体験の文章を集めたリンクページを見付けました。リンク集ですから、情報の評価や整理を自ら行なっている訳ではありませんが、今回私が感じたような情報不足に対する不満をある程度解消してくれるだけの充実した内容のページです。更新も頻繁に行なわれているようです。おすすめのページとしてご紹介しておきたいと思います。)

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2006年9月 3日 (日)

Googleが倒産する日

 前回の記事でブログの機能について考えたのをきっかけに、最近話題になっている梅田望夫さんの『ウェブ進化論』という本を読んでみました。このところ、戦争責任をめぐっての重苦しい本ばかり読んでいた自分には、とてもいい気分転換になりました。著者は長年、アメリカのIT産業の中心であるシリコンバレーに住み、コンサルタントをしている方だそうです。現在インターネットの世界で起こっている革命的とも言える変化を、現場から臨場感豊かに伝えてくれるのがこの本です。何よりも、全編にあふれているオプティミズムがいい。梅田さんは、いま進行中のインターネット革命に、未来の明るい希望を見出しています。日本の若い人たちの中から、十年後、二十年後に次の革命を起こす人が出て来るかも知れないと予感している。梅田さん自身の行動力もすごい。そのために日本人一万人をシリコンバレーに移住させてしまおう、そんなことを真面目に考えてNPOまで立ち上げてしまう人なのです。

 『ウェブ進化論』の明るい未来志向の世界観に私も共感します。ただ、ひとつだけ梅田望夫さんとこの点だけは意見が違うなと感じた部分がありました。それはグーグルという企業に対しての評価です。この本の中で、梅田さんはグーグルをIBMやマイクロソフトと並ぶ、十年に一社しか現れないエポックメーキングな企業なのだと力説しています。確かに説得力はあるのですが、冷静に考えてみれば、やはりちょっと無理がある気がします。私もGoogle検索にはひとかたならずお世話になっている人間のひとりですし、これはもうインターネットの世界で必要不可欠なサービスであることも認めます。でも、いくら「シリコンバレー史の頂点を極めるとてつもない会社」だと言われても、所詮はインターネットのテキスト検索だけを売り物にしている会社ではないかと思ってしまう。そこに巧妙なアイデアで、莫大な広告収入を得る仕組みを付け加えているからと言って、それが十年に一度の大革命だとは私には思えないのです。いや、私がグーグルという会社に一種のうさん臭さを感じるのは、梅田さんが言うところの「玉石混交問題」だとか「自動秩序形成」という、それ自体いろいろと問題をはらむ課題に対し、グーグル社が独自の<秘法>によって解答を与えようとしている、その点にあります。何の話かと言えば、グーグル検索で出て来る結果の順番、つまり<ランク付け>の話です。

 グーグルのサービスが素晴らしいのは、利用者にとっては無料で、全世界のインターネット・サイトから、キーワードを含んだページを瞬時に探し出して来てくれること、そのことが素晴らしいのであって、ランク付けの結果が素晴らしい訳では断じてありません。『ウェブ進化論』の中には、「グーグルの生命線たるページランク・アルゴリズム」という表現が出て来ますが、これが私には信じられないのです。むしろみんながグーグルを使うので、広告を出稿する企業も、たとえどんなにグーグルのランク付けが恣意的なものだったとしても、文句は言えないというだけのことではないのでしょうか。グーグルのランキング方法は企業秘密ですが、私自身は秘密の方法でランキングされた検索結果を見せられることを好みません。これを企業秘密にしておくのは、グーグルという会社の儲ける仕組みに関わる問題だからで、利用者のことを考えた結果ではないからです。

 もしも私がグーグルに対抗する検索エンジンを作るとすれば(お、話がデカいぞ。笑)、ページランク・アルゴリズムは決してブラックボックスにはしないでしょう。単純なページビューでのランキングや、そのページに向けられたリンク数でのランキングの他に、各国別のアクセス・ランキング、時系列で見た場合のランキング推移など、検索者の自由な指定によって抽出や並べ替えが出来るようにする。さらに贅沢を言えば、検索者の好みを学習して、その人向けのランキングを表示する機能も欲しいところです(業界用語ではパーソナライゼーションと呼ばれている手法です。インターネット書店のアマゾンが、個人向けの推薦商品を表示するのと同じ仕組みですね)。例えば私が「超人」という言葉を検索したら、これはもうニーチェの超人思想のことを調べようとしているのに決まっているので、「超人ロック」や「キン肉マン」の話題などは上位に表示しないでいただきたい(笑)。まあ、そんなふうなことです。私ならこのパーソナライズの機能については、たとえお金を出しても使いたいような気がします。

 今日ではもう誰も、当たり前のようにグーグルのサービスを使って、インターネットの世界を歩き回っている訳ですが、最初にこれを使った時の驚きは、誰もが覚えのあることだと思います。どんな難しいキーワードで検索しても(難しいかどうかはコンピュータには関係ありませんが)、わずかコンマ数秒で結果を出して来る。まるで魔法のような世界です。梅田さんの本を読んで、おぼろげながらそのカラクリが分かりました。ふつうインターネットの世界で何か事業を始めようという会社は、まずは大手のコンピュータ・メーカーに見積りを依頼して、ハードウェアとソフトウェアを調達するところから始めます。ところが、グーグルという会社では、自社で使うコンピュータを自分で設計して、自分で作ってしまったというのです。創立者である二人の若者は、大学でコンピュータ・サイエンスを学び、最新の研究成果をふんだんに注ぎ込んで、世界でたったひとつしかないシステム・アーキテクチャを生み出した。グーグル社の何処にあるか分からないデータセンターでは、そうして作られた30万台ものサーバーが24時間、365日休みなく稼動しているのだと言います。私もコンピュータ業界の末席にいる者として、一体それがどのようなシステムなのか興味はそそられますが、それにしてもそれが十年先にも他社の追随を許さないほど画期的なものだとは信じ難いことです。いくら世界最優秀の頭脳を集めたと言っても、1年半で性能が2倍になるというこの世界で、十年分も先進的なコンピュータが作れるものだろうか?

 グーグルという会社の存在意義は、他の企業が真似の出来ない、インターネット上の全テキスト情報の高速検索ということを、力ずくでやってみせたというその一点にあります。逆に言えば、他にもっと高性能で高機能の検索サービスが出てくれば、グーグルはその存在意義を一瞬で失うことになる。これが例えばパソコンの世界なら、ウィンドウズに代るどんな優れたパソコンが登場したとしても、マイクロソフトからそのシェアを奪うのは容易なことではない筈です(事実、ウィンドウズよりも優れた小型コンピュータは過去にいくつも存在しました)。パソコンという商品の特性もありますが、マイクロソフトは顧客が容易に他社の製品に乗り換えられないような仕掛けを、ウィンドウズという製品の中に作り込んでいるからです。しかし、グーグルは違います。私たちがグーグルを使うのは、グーグルという会社が好きだからでも、みんながそれを使っているからでもありません。現在のところ、それよりも高性能な検索エンジンが他に無いから使っているだけのことだと思います。それを超える魅力あるサービスを提供する会社が現れれば、もうグーグルを使い続ける意味は無い。インターネット検索は、言ってみれば世界の市場にたったひとつしか生き残れないタイプのソフトウェア・サービスです。人が集まらない検索サービスに、広告を出すスポンサー企業は無くなります。株式時価総額十兆円を誇るグーグルも、つぶれる時はあっと言う間ではないかと思うのです。

 あ、誤解しないでください、私はグーグルという会社が嫌いな訳ではありませんし、つぶしたいと思っている訳でもありません(正直なところマイクロソフトはちょっと嫌いですが)。ただ、梅田さんが「情報発電所」と呼ぶ、30万台のコンピュータ・パワーにものを言わせただけのビジネスモデルは、意外と脆いものであるかも知れないと考えているのです。それでは、グーグル社はこの先どういう方向を目指せばいいのか? グーグルに対抗心をみなぎらせているマイクロソフトの追撃をふりほどいて、そのビジネスモデルを磐石なものにする戦略はあるのでしょうか? さて、ここからが今回の記事の本題なのですが(前置きが長くてすみません)、これから私が考えている他社を寄せ付けない究極の検索エンジンについて説明したいと思います(冗談だと思って読んでくださいね)。ヒントはグーグル自身にあります。これもグーグル・ユーザーが一度は驚く経験ですが、グーグルの検索結果にはキャッシュというものがあって、見たいホームページが更新されたり消されたりしていても、暫くのあいだはそのコピーがグーグルのシステムの中に保管されています。世界のほとんど全てのページを、自社のハードディスクに一時的とは言え保存しておくという発想自体が驚きです(何故そんなことが出来るんだろう?)。しかし、グーグルのヘビーユーザーなら時に思うことがある筈です、何故キャッシュをもう少し長いあいだ取っておいてくれないのだろうと。

 私が考える検索エンジンの理想形は、この過去のインターネット情報を、その日の日付のまま永久に保存しておくというものです。全世界のサーバー上に散らばった30億ものホームページ、しかも日々すごい勢いで増加しているその情報の全てを保存することなど不可能だと言われるでしょう。しかし、全てのページが毎日更新されている訳ではありませんし、変更があったところの差分だけを保存すればいいのですから、まったく荒唐無稽ということでもないような気がします。また毎日が無理だとすれば、一週間ごとならどうでしょう。このサービスでは、検索のオプションで過去のある日付を指定すると、その日のインターネットの状態がデスクトップ上にほぼ完全に再現されることになります。言ってみれば、仮想的にその時代にタイムスリップ出来る訳です。もちろん過去に削除されたページもすべて保存している訳ですから、リンク切れもほとんど無くなる。こうなるともう誰もインターネットの本体(?)など見に行かなくなるかも知れない、インターネット検索サービス会社のバックアップ・サーバーの方が、インターネットのメイン会場になるような気がします。(笑)

 これがどれほど画期的な仕組みであるかは、こんな想像をしてみるとすぐに分かります。もしもインターネットが発明されたのが西暦1900年で、その時以来、すべてのホームページやブログが一日単位ですべて保管されているとしましょう。1945年8月15日と指定して検索をかければ、多くの人のその日の日記や記事が、その日の状態のまま読めるのです。そこにはまだ日本の経済的復興も、中国共産党政権の誕生も、ベトナム戦争の勃発も、何も知らなかった時代の空気がそのまま残っている。私はこれは学問研究に大きな変化をもたらすような気がします。ある社会的通念がどのように世界に伝播して行くのかを追跡調査することも出来ますし、ある流行語や新語がいつどこで誕生したかなどということもすぐに調べられる。今はまだインターネットが普及して十年くらいしか経っていないので、それが持つ史料的価値と言われてもピンと来ませんが、今から百年先の人類にとって、それがどれほどの贈り物になるかを想像してみてください。これはもうタイムマシンの発明にも匹敵するものかも知れません。

 もちろん、そんなマニアックな機能を一般の人が使いこなすかという疑問もあるかと思います。そこまで金をかけて作るべきシステムかと考える人もいるでしょう。しかし、それはグーグルの創業者たちが気付いていた、インターネット検索サービスの特別な意味を理解しない人の考えです。重要なのは、ふつうのシステムのような費用対効果などというケチな損得勘定の問題ではありません、インターネット検索は間違いなくインターネットそのものと不可分なほど重要なサービス分野であり、そこで最終的に生き残れるのはたったひとつの事業者だけだという点なのです。グーグル社は最初にそのことに気付いたという点で、莫大な先行者利益を手にしました。しかし、彼らのビジネスモデルとて完璧ではない。相手に資金力さえあれば、いつでも逆転される危険性があるからです。私が空想している、過去の情報も丸ごと保管するというビジネスモデルは、この点においても強力です。どんな豊富な資金力を持った企業でも、失われた過去の情報まで買い戻すことは出来ないからです。

 私はこの壮大なビジネス構想を、日本のどこかの大企業か、または産学共同体が企画してくれたらいいのにと思います。プロジェクトは初め、秘密裡に進行します。巨大なデータセンターに、全世界のインターネット情報を<時系列的に網羅した形で>ひたすら貯め込みます。急ぐことはありません。最低限五年分くらいの情報が蓄積されたら、そこで新しいインターネット検索サービスの開始を宣言する。キャッチフレーズは、「時空を自由に行き来出来る、リンク切れの無いネット空間」というものです。五年間の蓄積があるので、もう誰も追いつけはしない。つまり、その日がGoogle社の倒産する日です。

(追記1 この文章を本気にされる方がいると困るので(笑)、お断りしておきます。このビジネスモデルの最大の問題は、資金の問題ではなく、著作権の問題です。実際、現在でもグーグル社は、そのキャッシュ機能に関して著作権法違反で訴えられることが多いのです。ですから、もしもこれに近いアイデアが実現するとすれば、それは一営利企業によるものではなく、各国政府の共同プロジェクトとして行なわれるものである筈です。)

(追記2 梅田さんの『ウェブ進化論』に対して、他のブロガーの方たちがどのような評価をしているのかが気になって、いろいろGoogleで検索してみました。賞賛の声がとても多いのですが、中におひとりだけとても鋭い批判を投げ掛けている方がいらっしゃいました。think or dieさんという方の『愛と苦悩の日記』というブログです。私にはとても共感出来る意見が多かったです。『ウェブ進化論』という本は、ある意味で煽動的な内容の本でもありますから、バランスを取るためにthink or dieさんの文章と併せて読むことをお勧めします。)

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2006年8月27日 (日)

ブログに欲しいこんな機能

 先週、いただいたコメントへの返事を書きながら、ブログの機能に関してひとつのアイデアを考え付いたので、メモとして書き付けておこうと思います。それが技術的に可能かどうか、またそれが自分の考えるように意味のあるものかどうか、自分では判断が出来ません。ただ、1年近くブログを続けて来て、何故そんな簡単な機能がブログの標準として装備されていないんだろう、ブログというものの基本的なコンセプトを考えれば絶対にあってもいい機能なのに、そんなふうに思えて来たほど、自分としてはぜひとも欲しい機能なのです。

 思い付いたきっかけは簡単なことでした。日中関係の問題に関して記事を書いたところ、論友の(と呼ばせてください)mori夫さんから丁寧な長いコメントが付きました。コメントバックの応酬があり、もともとの記事よりもはるかに長い対話録が出来上がった。ところが、ふとこう思ったのです、mori夫さんのブログの読者は、ここでの対話のことは知らずにいるに違いない、それはmori夫さんのファンの方々にとってはもったいないことではないかと。問題はこういうことです、ブログのコメント機能は、対話を喚起するためには優れたものですが、それ自体はリンクの機能を持たないため、ひとつの閉じたブログの中に孤立したテキストを作るだけで終ってしまう。それならば、トラックバックと同じような仕組みを使って、コメントした人自身のブログにメッセージを投げ、そちらからもリンクを張る機能を追加してしまったらどうだろう。つまり、ブログにコメントを書き込む人は、自分の署名とは別に、自分の管理しているブログのアドレスとパスワードを(オプションで)入力する。するとコメント欄の署名が自分のブログへのリンクになると同時に(これは現在のブログでも実現している機能です)、コメントを書いた自分のブログの中にも、このコメント本文に向けたリンクが相互に張られるということです。現在のブログのフォーマットでは、ふつう本文の横に「最近のコメント」というリンク表示がありますが、その見出しをふたつに分け、「このブログへの最近のコメント」というリンク集(従来通りのもの)と、「外部ブログへの最近のコメント」というリンク集を作るイメージです。これによって、そのブログの管理人が、最近どこにどんなコメントを書いているのかが一覧で分かるようになるのです。

 この仕様の改訂によって、ブログのコメント機能が大きくパワーアップするような気がします。例えば、Aさんがあるテーマについて記事を書く、それに興味を持ったBさんが、Aさんの記事にコメントを書く。現在のブログの仕様では、その二人の対話を読む可能性があるのは、Aさんのブログの読者だけです。ここでもしもBさんのブログに「外部ブログへのコメント」の表示があれば、Bさんのブログの読者であるCさんの目にもそれは触れます。ここでCさんがこの対話に興味を持ち、自分も発言したいと思えば、リンクをたどってAさんのブログに行き、対話に参加することが出来る。それはさらにCさんのブログの「外部ブログへのコメント」リンクとして残り、Cさんのブログの読者にも読まれることになる。こうしてどんどん対話や議論が広がって行きます。え? それだったら要するにインターネットの掲示板と同じことじゃないかですって? いや、でもそれは少し違うと思います。掲示板というのは、基本的に同じテーマに興味を持つ固定メンバーのための意見交換の場であって、それ自体が新しいメンバーを開拓する仕組みは内蔵されていません。それにたまたま自分にとって興味のあるテーマの掲示板を見付けても、たいていそれは過去の掲示板で、もう議論は終ってしまっていたりする。ところが、「最近のコメント」リンクでつながった議論は、いままさに白熱した状態で、たくさんのブロガーを巻き込む仕掛けとして機能する可能性があるのです。

 もう少し具体的な細かい仕様について考えておきます。自分のブログに自動的に張られる「外部ブログへのコメント」のリンク先は、コメントを付けた記事の本文ではなく、そのコメントの文章(つまりページの途中)に直接行けるようにしたいところです。また、このリンク集はずっと履歴として保存しておき、それを相手先のブログ別に分類して表示させる機能も欲しい(その際、同じ記事に対するコメントはツリー状に表示させるようにします)。後から内容が思い出せるように、トラックバックのように文章の先頭部分を表示させることも必要ですね。ブロガーにとって、この機能の一番の利点は、自分があちこちに書いた文章を、整理し、データベース化出来るというところにあります。相手のブログが引っ越したり閉鎖したりしない限り、このリンク集は自分がこれまでネット上に書いた文章の全目次になる訳です。そして当然、これはそのブログの読者にも恩恵をもたらします。私はmori夫さんのブログを愛読していますが、mori夫さんが私の知らない場所で、誰とどのような果敢な議論を展開しているのか、知りたいと思うからです。(笑)

 さらにもうひとつ重要な付加価値がありました。この方式では、コメントを書く人は、原則として自分のブログのアドレスを入力する訳ですから、匿名での悪意あるコメントをある程度防げるようになるかも知れない。そうしたコメントに悩まされている人なら、オプション設定でアドレスとパスワードの入力を必須にし、それがなければコメントを受け付けないようにすることも出来る。コメントする人が、自分のブログという、いわば定住所を持っていることがコメントを書き込むことの条件になる訳です。(逆に言えば、ブログを持っていない人は発言も出来ないのかということにもなりますが。) ある意味、これはインターネットの世界ではとても理にかなったことだと思います。現在のネットの世界は、匿名であるがゆえの牽制が効かない悪意や中傷にあまりに満ちているからです。だから一方でミクシィのような会員制のプロバイダサービスが人気になるのだと思います。私の提案は、このミクシィのような身元保証の制度を、最低限の条件で、しかもオープンな環境で実現出来ないかということでもあります。

 おそらく技術的には難しいことではない筈ですが、これはブログを運営しているプロバイダ各社が、共通の仕様を取り決めないと実現しない話です。しかし、それを言えばトラックバックという機能がそもそも共通仕様で成り立っている訳ですし、不可能なことではないと思います。最近、Web2.0というコトバがもてはやされていますが、Webが進化すると同時に、blogだって進化しなければならないと思うのですが、いかがでしょうか。

(ブログのコメントやトラックバックについて調べていて、面白い考察をしているブログを見付けました。私も経験がありますが、トラックバックというのはブログ初心者には分かりにくい機能です。この機能の本質は、相手のブログから自分のブログに一方通行でリンクを張る、という極めて利己的なものです。従ってそこではこれを使う上でのマナーをめぐって、様々な意見が飛び交うことになります。これを2つの軸、4つの象限に分類して考察したのがこの記事です。とても面白い。一読をおすすめします。)

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2005年10月 5日 (水)

インターネット霊園構想

 インターネットの世界には何でもあります。筆者の興味で言えば、哲学的な記事を掲載しているホームページやブログは数えきれないほどありますし、芸術や趣味の世界でもほとんど考えられるジャンルは何でも、その道の専門家とおぼしき人が薀蓄を披露している。犯罪すれすれの危険なサイトがあるかと思えば、不治の病に冒されつつ懸命に生きている人の日記が公開されている。まったくインターネットの世界は、人間社会の縮図、というよりも人間社会そのものと言えるほど多様性に富んでいます。ただ、ひとつだけ実社会にあって、インターネット上には無いものがあることに最近気付きました。それはお墓です。

 なんでそんな奇妙なことを思い付いたのかと言えば、自分が気に入っていたブログやホームページが、ある時を境にばったり更新されなくなり、そのうちに何時の間にかそのサイト自体が閉鎖されてしまっている、そういう経験がある想像をさせたのです。もしかしたら、名前も知らないこのサイトの主は、病気や事故で亡くなってしまったのかも知れない。それで暫く更新もされずに放置されていたものが、やがてプロバイダへの料金支払いが滞って削除されてしまったのかも知れない。実際の社会なら、どんなに知己の少ない人でも、生前ゆかりのあった人が集い、ひっそりとしたお葬式くらい行なわれるでしょう。しかし、インターネットの世界では、ある日突然親しかった人が消えてしまい、行方不明者は永遠に行方不明者のままなのです。

 インターネットが普及して、まだまだ日が浅いこともあって、この世界ではそうしたことへの配慮が充分ではない、いわばまだ社会インフラが整っていないのだと思います。インターネットに自分のページを持つということは、この世界に対して何か自己の存在をアピールしたい、それはまさに生きることの欲求そのものであると思います。それを読んだ人も、お互いに顔も名前も知らない同士ではあるけれども、時として実生活の中での人間関係よりも濃密な人間関係を持てたりする。バーチャル空間などと言われますが、そこには決してバーチャルではない生きている人間の喜怒哀楽が渦巻いています。インターネットのプロバイダである企業は、単にサーバーのハードディスクを賃貸ししている訳ではないのだと思います。

 そこで私の提案です。インターネットのプロバイダ各社は、もしも契約者が亡くなった場合には、そのことをサイト上で告知し、そのページを永久に保存し公開し続けるというオプション契約を作ってはどうでしょう。もちろん費用がかかることですから、ある程度の一時金を契約時に預かることが前提になります(いわば永代使用料です)。これが題してインターネット霊園構想です。ここに入ったサイトは、追悼者のコメントの書き込みはあるかも知れませんが、基本的に更新はなくなる訳ですから、それ以上ハードディスクを圧迫することもない。きれいに区画された霊園のホームページから、いつでも訪れることが出来るようになる訳です。ちょっとブラックなアイデアでしょうか? もちろんバーチャルな世界のことですから、実際に亡くなった場合でなくてもいいんです。どんなに小さくても自分が生きた証をこの世に残したいというのは誰もが持つ自然な望みですから、案外ニーズはあるような気がするのですが。


(この文章は、最近しばらく更新が止まっているmori夫さんのブログ「不合理ゆえに我信ず」へのトラックバックとして書かれました。(笑))

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