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2014年10月 9日 (木)

憲法9条にノーベル平和賞?

 あり得ない話ではないと思っていました。ノーベル賞のなかでもノーベル平和賞というのは、それ自体が政治的な意図を持ったもののように感じられるからです。そのことはオバマ大統領が就任した年に、まだほとんど何の実績も上げていないのにノーベル平和賞を与えられたことではっきりしました。要するに賞とは言っても、過去の業績に対する「賞賛」というよりは、将来の行動に対する「牽制」という意味合いが強いものなのですね。だとすれば、安倍政権が解釈改憲や武器輸出解禁といったタカ派政策に走れば走るほど、憲法9条はノーベル平和賞に近づくことになる。

 この件について何か書きたいと思っていたら、もう明日(10月10日)がノーベル平和賞の発表の日なのだそうです。私は護憲派なので、憲法9条がノーベル平和賞を受賞したら手放しで喜ぶつもりですが、まあ、冷静に考えてその可能性は限りなく小さい。落選すればもうこれに関して書こうという気力も失せてしまうに決まっているから、あわててこの記事を書いている訳です。

 仮に受賞が決まったとしたら、安倍さんはどういうリアクションをするのだろう? そこにとても興味があります。現行憲法について「みっともない憲法ですよ」という発言をした人です。一国の総理大臣が、自国の憲法を「みっともない」と形容すること自体驚くべきことですが、受賞者は「日本人」ということなので、総理大臣の一存で辞退することも出来ないでしょう。「内政干渉だ」と言ってノーベル委員会を非難するのも大人げない。もしも私が安倍さんのスピーチライターだったとしたら、正直お手上げです。

 もしもあなたが改憲派で、今回の騒動を苦々しく感じているなら、その苦々しさは一体誰に対してのものなのかと自分の心に問いかけてみてはどうでしょう。ノーベル賞に応募するなんてロクでもないことを考えた護憲派の連中に対してだろうか? それともこれを後押ししているように見える「進歩的知識人」に対してだろうか? いずれにしても、その憤りは「政敵」に対してのものであって、決して国の将来を憂いての義憤といったようなものではないことは明らかです。それは護憲派にとっても同じこと。仮にノーベル平和賞の受賞が決まって喝采を叫ぶ時、あなたの心のなかにあるものは、憲法の精神への共感や将来に向けた不戦の誓いであるよりも、安倍さんを筆頭とする改憲派の鼻を明かしてやったという底暗い愉悦であるに違いない。

 つまり憲法問題というのは、もはやニュートラルな政治的課題として論じることが出来ない事案になってしまっているということです。そこには護憲論を否定するための改憲論、改憲論を否定するための護憲論しかない。「護憲教」と「改憲教」のあいだの神学論争のようなものと言ってもいい。こういった状況を打ち破るには、第三者の意見を聴くのが一番だと思います。つまり、世界の国々が戦後の日本と日本国憲法の関わりをどう見ているかということですね。最近の朝日新聞の事件を見ても明らかですが、いまの日本国内には行き過ぎた自虐史観と過去から目をそむける歴史修正主義しかない。こんな時には素直に国際社会の声を聴くに如くはない。それが日本人に勇気を与えてくれる声であるならなおさらです。

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コメント

やはりと言うか、当然と言うか、ノーベル平和賞の受賞はなりませんでした。受賞したのは、パキスタンのマララ・ユスフザイさん。護憲派の私たちも納得の結果でした。まあ、ノーベル賞というのは、1回落選したらそれで終わりというものではありません。来年に期待しましょう。村上春樹氏と憲法9条、毎年この時期恒例の風物詩になるかも知れませんね。

投稿: Like_an_Arrow | 2014年10月10日 (金) 23時17分

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