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2014年9月 7日 (日)

介護を雇用の受け皿にしてはいけない

 少子高齢化の何が問題かと言うと、将来の人口減少ということでもなければ、労働力の低下による経済規模の縮小ということでもありません。いまの日本は狭い国土に多過ぎる人口を抱えている訳ですから、将来人口が減って行くことはむしろ好ましい変化だと言えます。労働力が低下して経済が縮小するというのも、総人口の減少にともなう適正な経済規模への移行ステップだと思えば、それほど悲観する話でもありません。少子高齢化の何が問題なのかと言うと、介護が必要な高齢者が急激に増えて行くのに対して、介護をする側の労働力が圧倒的に不足することが確定しているというその点にあります。要するに日本中が要介護の老人だらけになってしまい、家庭でも施設でもとても彼らの面倒を看きれなくなるということです。

 そのことはすでに社会問題として現れています。ニュースでは介護に疲れはてた挙げ句の殺人や心中といった事件をよく目にしますし、老人ホームの職員や介護ヘルパーが慢性的な人手不足に陥っていることは周知の事実です。少し前までは、長引くデフレ経済のなかで、介護職は将来の有望な労働市場になり得るといった言説もよく耳にしたものですが、見かけの景気が少し上向いただけでそんな楽観論は吹き飛んでしまう。だいたい介護というのは、端的に言えばおじいちゃん、おばあちゃんの下のお世話をするということですから、誰にでも出来るような仕事ではないのです。介護の現場で離職率が高いのも、給料が安いというだけの理由ではない筈です。

 私も要介護の親を抱える身の上なので、ケアマネさんやヘルパーさんと付き合う機会は多いのですが、介護の現場で働く人たちを見ていて強く感じることがあります。有能で利用者からの人望もある介護職の人たちを見ていると、つくづく彼女らにとって(ケアマネさんもヘルパーさんもどういう訳か女性が多い)介護というのは天職なのだなあと感じるのです。天職という意味は、職業訓練や国家資格によって介護のプロというのは養成出来るようなものではなくて、持って生まれた向き不向きがこれほどはっきりした職業分野もそうはないのではないかということです。天性の明るさ、くよくよしない性格、相手を笑顔にさせるユーモアのセンス、どれひとつとっても自分には欠けたものばかりです。たぶん介護職というのは、一部の選ばれた人にだけ許された職業ではないかという気がする。就職難のご時世で、介護の仕事は若い人にも注目されているようですが、そこには落とし穴もありそうです。10人の若者をプロの介護士に育て上げることは、10人の若者をプロのプログラマーに仕立て上げることよりずっと難しいのではないか。いや、難しいというより、それは不可能なことではないかとさえ思います。

 以上のような認識から、私は介護分野の仕事を、安易にこれからの有望な雇用の受け皿として見る見方には反対したいのです。おそらく、いつの時代にも介護職に向いている人は一定の割合で存在するのだろうと思います。しかし、それは逆に言うと一定の割合でしか存在しないということでもあります。どのくらいの割合なのだろう? 感覚的に言えば、介護が天職と言えるようになる人は10人にひとりもいないのではないか。にもかかわらず、介護が必要な高齢者は今後ものすごい勢いで増えて行く訳です。この事実に対して、政治はもっと真摯に向き合わなければならないと私は思います。いま政府は介護保険料の引き上げとともに、利用者負担率のアップ(応能負担の仕組みの導入)を画策しているようです。でも、政治がしなければならないのは、そんなことではありません。いくら保険料や負担率を上げたところで、焼け石に水であるのは分かり切ったことだからです。もっと根本的なところで介護制度そのものを見直さなければならない。

 これに対する私からの提案は3点です。まずひとつめは「老老介護」の推進ということです。老老介護と言えば、家庭内で高齢者の夫婦または親子が共倒れになるぎりぎりまで追いつめられているような暗いイメージを思い浮かべますが、ここでの意味は違います。それは行政が主導する制度的な老老介護のことです。つまり、介護施設に入所している人や、そこに通所で通っている高齢者のなかで、比較的元気な人に介護の必要な高齢者の面倒を看てもらおうということです。もちろん正規の職員ではないので、時給何百円といった給料を払うことは出来ませんし、介護資格を持った正職員と待遇が違うのは仕方ありません。それでも多少のアルバイト料くらいは出せるでしょうし、そこでポイントを貯めると将来自分が介護を受ける立場になった時に何らかの優遇措置を受けられるといったインセンティブを設けることなら出来る(例えば、ポイントと引き換えに夕食にビールが1本付くとか。笑)。いま政府は特別養護老人ホームへの入居資格を厳しくして、高齢者を施設から締め出そうとしていますが、私の考えは逆です。元気なお年寄りもどんどん施設に呼び寄せて、互助的なコミュニティを形成すべきだと考えているのです。

 これから要介護の年代に入る団塊世代の人たちや、それに続く自分のような世代の者たちが、心しておくべき基本原則があります。それはこれからの時代を担う若者たちに、自分たちの介護を任せるのはなるべくやめようじゃないかということです。なにしろ団塊というくらいですから、この世代は人口がとても多い。ただでさえ少子化で人口が減っている若い世代に、団塊老人たちの介護を押し付けるなんて、ほとんど犯罪に近いと私は思う。これは施設介護だけでなく、家庭内の介護についても言えることです。介護サービスを受けるためにお金を出せばいいという話でもありません。若い人たちには、老人の世話よりももっと大事な仕事がたくさんある筈です(もちろん介護の仕事が大事ではないと言っている訳ではありません、その点は誤解なく)。この国の高度経済成長を担って来た団塊の世代の人たちに対しては、最後まで誇りを持って、自分たちの始末は自分たちでつけろと言いたい。

 ふたつめの提案は、介護分野における技術革新を促進するということです。介護従事者はよく腰を痛めると言います。寝たきりの老人を起こして着替えをさせたり、入浴をさせたりするのは、とにかく重労働です。最近はSF映画にでも出て来そうなモービルスーツのようなものも開発されているようですが、もっといろいろな可能性が検討されていい。個人的には、ベッドに寝たまま人手を借りずに入浴可能な「自動入浴介助装置」や、人目につかず臭いも気にならずに排泄物の処理をしてくれる「自動おしめ交換器」のふたつはぜひとも実用化してもらいたいところです。介護というのは、介護をする側もつらいけれど、介護をされる側も心苦しいものだと思います。入浴や排泄の介助については、むしろ機械に任せてしまった方が双方とも気が楽だと思う。そんな装置があるだけで、介護の仕事がどれだけ楽になるか、想像してみてください。しかも高齢化は先進国に共通の悩みですが、そんな機械を発明出来るのは日本人をおいて他にはいないと思いませんか。国はこうした研究にこそ補助金をたっぷり付けるべきです。

 三つめの提案は、このブログですでに何度も書いている政府通貨による介護従事者への経済的支援ということです。そもそも介護や福祉といった分野で働く人たちの給料が安いのは、現在の通貨制度そのものに欠陥があるからです(と私は考えています)。これについてはこちらの記事もお読みいただきたいのですが、私たちが使える唯一のお金である日本円は、銀行と企業のあいだで結ばれた契約に基づいて発行されたもので、生活者同士の助け合いや親切を媒介するためには不向きなお金だということです。日本円のような通貨のことを、私は「約束するお金」と呼んでいます。しかし、経済成長の時代が終わり、持続可能な社会を築いて行くことが喫緊の課題である現代においては、日本円に対抗する(あるいはそれを補完する)「感謝するお金」というものがどうしても必要なのです。まあ、このことを論じ始めるととめどなくなってしまうので、これ以上深入りはしません。いずれにしても、これから日本の社会は重い介護負担に苦しむことになる訳ですが、その本質は決して財政問題でも少子化問題でもないということについては、ここにはっきり大書しておきたいと思います。

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