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2014年5月19日 (月)

それを「正当防衛」に喩えるな!

 経済学者の高橋洋一さんが、集団的自衛権について書いています。高橋さんの経済エッセイはいつも興味深く読んでいるし、教えられることも多いのですが、今回の記事に関しては一から十まで納得出来ない内容でした。たぶん集団的自衛権を擁護する人たちの常套的な論法なのだと思いますが、これを刑法で定められた「正当防衛」とのアナロジーで論じているのです。つまりこういう理屈です。私たちが暴漢や通り魔に襲われた時に、自分の身を守るために反撃することは法律で認められています。行き過ぎた反撃は過剰防衛となってしまうこともありますが、常識的な範囲内の反撃であれば、それによって相手(暴漢)を傷つけてしまっても罪に問われないのです。これは自分が襲われた場合だけでなく、近くにいた他人が襲われた場合にも当てはまります。放っておけば人が殺されてしまうかも知れないような緊迫した状況では、暴行を働こうとしている相手を殴るなり蹴るなりして、とりあえずの危機を回避しても、それは罪には当たらない(ナイフで背中を刺したり、バットで脳天を叩き割ったりすれば、もちろん過剰防衛になるでしょうが)。これとまったく同じことが国と国との軍事衝突の場合にも言える、というのが今回の記事の主旨です。

 高橋さんによれば、軍事的な自衛権と刑法上の正当防衛は、どちらも「Self-Defence」というコトバで括られる概念で、欧米人にとっては個人の自衛権が自明の権利であるように、国家の自衛権もその正当性は議論するまでもないものなのだそうです。そして正当防衛に自分と他人の区別が無いように、自衛権にも個別的だとか集団的といった区別は本来無いのだそうで、「個別的自衛権は合法だが、集団的自衛権は違法」といった主張は、国際社会ではまったく通用しないロジックだというのです。それはまるで「私は自分の身しか守らない。隣で女性が暴漢に襲われていようと、見て見ぬふりをして放置します」と天下に宣言しているのと同じことだといいます。どうでしょう? このロジックには説得力があるでしょうか? 私はむしろ高橋教授ほどの人が、このような詭弁というか、誤った比喩で国家の自衛権を語ることの方が、よほど非常識ではないかと思う。では、集団的自衛権を刑法の正当防衛に喩えることのどこが非常識であり、詭弁なのか?

 それは簡単なことです。安倍内閣が集団的自衛権の仮想敵と見なしている中国や北朝鮮は、決して暴漢でもなければ通り魔でもないということです。たまたま通りがかった道で、女性が暴漢に襲われていたというシチュエーションなら、その暴漢を撃退することに正当性があるのは明らかでしょう。(いや、それだって実はそのふたりは恋人同士で、痴話喧嘩がエスカレートしただけだったという可能性もあります。そこで早とちりをして男の方を撃退してしまったら、被害者だと思っていた女の方から訴えられるなんてこともあるかも知れません。) ところが、中国や北朝鮮は日本にとって赤の他人ではないのです。むしろ喩えるならば、「ご近所さん」のようなものでしょう。近所のAさんとBさんはふだんから仲が悪くて、いつも喧嘩ばかりしている。自分としてはAさんに親しみを感じているので、喧嘩の際にはAさんの肩を持ちたくなる。この時、Bさんが先に手を出したからと言って、Aさんに代わってBさんを殴り倒してしまったら、それは正当防衛と呼べるだろうか? まあ、呼べるかも知れませんね、たまたまBさんが手に包丁でも持っていたとすれば。しかし、逆にAさんが手にバットを持っていて、Bさんに殴りかかろうとしていたとすれば、Bさんを助けることこそが正当防衛になるでしょう。自分が好意を持っている相手を一方的に助太刀するのは、正当防衛とは言いません。この比喩は、最初から破綻しています。

 暴漢が赤の他人であれば、正当防衛の範囲で相手を傷つけてしまっても、後々に残る影響のことを考える必要はありません。相手が刑務所に入れられてしまえば、再び赤の他人に戻ることが出来るのだから。しかし、近所付き合いやクラスメートとの付き合いのようなものではそうは行きません。どんなに相性の悪い相手であっても、この先も付き合いを止めることは出来ないからです。集団的自衛権を主張するということは、近所付き合いまたはクラスのなかで派閥対立が起こっている時に、自分が派閥の一方に加わることを明確に宣言することです。暴漢からか弱い女性を助け出すようなものでは断じてありません。派閥の一方に加わることは、その派閥が優勢である限りにおいて、一定の安心感をもたらすものではあるでしょう。が、それは派閥の対立をエスカレートさせこそすれ、決して宥和させるものではない。その先にあるものは、ずっと緊張を強いられ、気の休まることのない地域生活であり学校生活です。安倍さんや高橋さんは、要するに派閥抗争を容認し、日本もそこに参加するように促しているのです。

 集団的自衛権などと言っているのは、国際世論からすれば常識はずれのお笑い草でしかないという高橋氏の主張は、むしろ個人の健全な常識からすればひどく偏った党派的なものに過ぎないという気がします。アメリカが日本や韓国と結んでいる軍事同盟にしても、ヨーロッパと結ぶNATO同盟にしても、要するに西側諸国が共産主義陣営を押さえ込むために作り出した派閥の理論に裏打ちされたもので、すでに時代遅れのものです。私は、集団的自衛権という概念はそのような歴史的文脈のなかで理解すべきものだと思っています。この点に関しては、世界の常識の方がおかしい。もしも日本が中国を「永遠の敵」として位置付けて行く覚悟を持っているなら、集団的自衛権に従って中国軍を攻撃すればいいんです。しかし、やはり中国(いや、北朝鮮でさえも)とは、今後も仲良く付き合って行くべきだと考えるなら、集団的自衛権などというものに加担してはいけない。たとえアメリカや西欧諸国からは日和見主義と嘲笑されようとも、日本は個別的自衛権の範囲に留まるべきです。そのための憲法九条であり、そこから日本は「集団的自衛体制」に代わる積極的平和主義を世界に向けてアピールして行くべきだというのが私の意見です。

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2014年5月 4日 (日)

ボツになったアフォリズム集(6)

  1. 日米の軍事同盟が片務的であることの何が問題だというのか? 仮に北朝鮮が(あるいは中国または韓国が?)公海上で自衛隊の艦船に砲撃を加えて来たとしたら、アメリカは日米安全保障条約に従って報復攻撃を行なうだろう。それが抑止力として働いているからこそ、日本は周囲の軍事的脅威から守られているという面は確かにある。しかし、逆の場合はどうか? 米軍の艦船が砲撃を受けたら自衛隊が報復攻撃をすると宣言した場合、そのことが果たして抑止力になるだろうか。それで抑止されるくらいの相手なら、最初から米軍に対して攻撃を仕掛けることなどあり得ないのではないか。つまり、双務的な軍事同盟というものは、同程度の軍事的プレゼンスを持つ国同士が結ぶのでなければまったく意味が無いのだ。

     
  2. 軍事同盟は片務的である方が自然であり安定的でもある。何故ならその方が互いの利害が一致する状態を作りやすいからだ。片務的な軍事同盟とは、単純にギブアンドテイクの関係なのである。これに対して双務的な軍事同盟、すなわち対等な立場の軍事同盟というものには、ギブアンドテイクの関係が成り立ちにくい。お互いに補い合うものが無いからだ。両者の軍事力の均衡が破れた時に、または両国民のあいだに敵対感情が芽生えた時に、簡単に破棄されてしまうのが双務的軍事同盟である。

     
  3. そもそも集団的自衛権を「権利」と呼ぶところがウソの始まりだ。権利であるからこそ、日本もそれを持つべきだという議論に国民も騙されてしまうのである。もしコトバを「集団的自衛の義務」と訂正すれば、日本がそんなものを持つ必要が無いことは誰にも明らかだ。自国を攻撃された訳でもないのに、友好国のために軍隊を出動させなければならないという取り決めを、何故義務ではなく権利と呼ぶのか。集団的自衛権というのは、第二次世界大戦の戦勝国がでっち上げた歴史的な大ウソである。

     
  4. 電王戦についての記事を読んでいたら、棋士は勝負の流れを読んで次の一手を考えるが、コンピュータは毎回の局面を点として捉えるだけで、勝負の流れを読まないという指摘があった。それはその通りだと思うが、そのことは人間が優れていることの証拠にはならない。むしろ逆だ。流れに従って考えるとは、自分の描いたシナリオに専念して他の可能性から目をふさぐことであり、それでは毎回先入観なく局面を読むコンピュータには勝てない。心理的な駆け引きなどといったものは、人間相手にしか通用しないのである。

     
  5. このことは将棋の定石というものについても言える。コンピュータはしばしば定石を無視した手を打って来るというが、これも本末転倒した言い方だ。もともと定石というものは、先を読む能力が限られている人間が、思考を節約するために編み出されたマニュアルのようなものだ。マニュアルに頼っている者が、思考を節約せずに考える者に勝てないのは当たり前なのである。

     
  6. 科学論文の捏造問題で、コピペ判定ソフトの需要が高まっているらしい。インターネット上にこれだけたくさんの情報があふれている以上、文章の盗用を人手でチェックすることが不可能だというのは理解出来る。が、インターネット上によく似た複数の文章があったとして、そのどれがオリジナルでどれがコピーかを判定することは理論的に不可能な筈だ。これはインターネットという仕組みの致命的な欠陥だと思うのだが、ネット上の情報には信頼出来るタイムスタンプ(登録日時と更新日時)が付いていないからだ。学生の論文やレポートのコピペを抑制するには、やはり指導教官の査読能力を高めることしかないのではないか。

     
  7. 彼女は日本を捨ててアメリカに戻るべきだと思う。この国は「規格外の人」を受け入れるだけの度量の無い旧態依然たるムラ社会なのだから。

     
  8. 調査捕鯨が必要なのは、日本が長い捕鯨の文化を持っているからではない。そんなことを国際社会にアピールしたところで無駄だ。鯨を捕獲して殖え過ぎないようにするのは、あくまで海の生態系を守るためであり、日本はそこだけを争点にすべきだ。もともとそのための調査捕鯨ではなかったのか?

     
  9. コンピュータによる自動運転というのは悪魔の技術だ。これまでの常識では、たとえコンピュータによって制御されている機械がハッキングされても、それが直接殺人に使われるといったことは想像し難かった。パソコンやスマートフォンには物理的に人を殺す力は無いし、仮に航空機の自動操縦装置が乗っ取られても、墜落する前にマニュアル操縦に切り替えるくらいのことは出来る筈だ。核ミサイルの発射装置でさえ、コンピュータ制御だけで作動させることは難しいだろう。ところが自動車の場合はそうはいかない。高速走行中のクルマのハンドルをほんのわずかに回転させるだけで、ハッカーは乗員を間違いなく殺害することが出来る。しかも、航空機や列車と違って、狙った特定の人間だけを殺すことが出来るのである。

     
  10. 結局ビットコインとは何だったのか? 日本には昔から、こういうモノを表現するのにうってつけのコトバがあった。「あぶく銭」というのだ。

     
  11. 福島第一原発の事故は、貴重な教訓であると同時に、原発の危険性に関する私たちの理解をミスリードするものでもあったと思う。つまり、原発事故というのは、あの程度のものだという先入観が私たちの意識のなかに埋め込まれてしまったという意味だ。最悪の原発事故は、世界のどこかでこれから起こると私は予想している。

     
  12. 経済学者のなかには、いまだにサンクコストだとかテールリスクだとかいう概念を持ち出して、原発の再稼働を訴えている人たちがいる。彼らのコトバを聞いていると、「健康のためなら命も要らない」と言った健康マニアのことを思い出す。彼らは経済成長のためなら国が滅んでもいいと思っているのだ。

     
  13. アベノミクスによって景気が良くなったというのは全くのウソだ。欧米のリフレ政策に日本も足並みを揃えることで、極端な円高が是正され、輸出入が正常化されたに過ぎない。民主党政権がこの1回しか使えない特効薬に気付いていれば、いまも二大政党制は続いていたかも知れないのだが。

     
  14. 貧富の差は数字で測れても、幸不幸の差を数字で測ることは出来ない。人間がわずかなものでも幸せになれる可能性を持っていること、それは私たちに希望を与えてくれる事実だ。もしも人類に未来があるとするならば、この事実を土台にするしかないと私は思う。

     
  15. 少子化はこの国の人口が適正なレベルに移行するための過渡的な現象なのだから、心配する必要は無いと言う人がいる。これほど無責任な放言があるだろうか? 歴史的に見ても、急激な人口減少によって衰退した国はたくさんあった筈だが、人口減少によって持続可能な社会を実現した国などというものは聞いたことがない。仮にこの国の人口が長い目では適正な規模に落ち着くのだとして、そこに至るまでに国民はどれほどの痛みに耐えなければならないだろう。そこへソフトランディングする道筋を示せない以上、少子化については楽観的に語るべきではない。

     
  16. 少子高齢化が急速に進む国では、全人口に対する労働人口の比率が低下するのだから、理論的に言って若者の就職難などあり得ない。問題は、機械やコンピュータの進歩で人間の仕事が無くなることではない、高付加価値で高賃金の仕事が無くなることが問題なのだ。高齢者福祉や介護の現場では、すでに深刻な人手不足が起こっている。ここでの本当の問題は、福祉や介護の仕事に高付加価値を認めることの出来ない現在の経済制度にある。

     
  17. この問題に対しては、多少の劇薬を処方するしかない。つまり通貨改革を通して、経済の仕組みそのものを変えて行くことである。これまでは税金によって支えられていた社会保障の分野に、自立的な経済循環の流れを政策的に作り出すこと。地域通貨や補完通貨というのは、オルタナティブな経済のためのひとつの選択肢といったものではない、少子高齢化社会における経済運営を構想するに当たって、ほとんど必須の政策ツールなのである。

     
  18. もしもお金がどこにでも余っているものだとすれば、誰もそれを欲しがらないだろう。誰もそれを欲しがらないとすれば、それを商品と交換しようという人もいなくなるだろう。つまり、お金が稀少であるということは、貨幣経済が成り立つための必要条件なのである。そう考えれば、この世に貧乏人や生活困窮者がいることも、いわば必要悪であるということが分かる。誰もが働かなくても社会保障で生きて行けるなら、多くの人は価値の創造を辞めてしまうだろう。お金は手に入れにくいものであり、貧困には陥りたくないからこそ人は働くのだ。これが貨幣が稀少でなければならないことの理由である。

     
  19. お金には3段階の進化がある。最初に現れたのは「採掘によるお金」だった。最古のお金は稀少性のある貝や石などだったが、やがては金や銀といった貴金属が貨幣として使われるようになった。この段階ではまだ金利というものも存在しなかった。次に現れたのは「貸付によるお金」だ。いわゆる信用通貨と呼ばれるもので、そこから金融システムが生まれ、それとともにプラスの金利が経済の常識になった。そして通貨の3段階目の進化はこれから起こる。それが「感謝によるお金」と私が呼ぶものだ。これは価値の提供に対して事後的に報いるためのお金で、信用通貨では評価出来ない価値を政府が一括して買い上げるために発行される。このお金の特徴はマイナス金利を備えていることで、それによって通貨の持続可能性が保証されることになる。この3種類のお金が揃うことで、初めて人類にとって持続可能な経済の仕組みが完成する、というのが私の描いているシナリオだ。

     
  20. TPPの交渉が大詰めを迎えている。関税撤廃は、それによって大きなビジネスチャンスを得る人と、これまでの既得権を失う人を生み出す以上、この問題には誰もが納得する落としどころは理論的にあり得ない。こういう問題に対処するためには、将来この国の産業構造をどうするかという長期ビジョンが欠かせないのだが、いまの政治家は誰もそのビジョンを持っていないのである。

     
  21. 国内の第一次産業を守るために、輸入農産物に対して高い関税を課す政策は、長い目で見れば誰も幸せにしない。農家は経済競争力を失い、消費者は高い農産物を買わされ、輸出産業も高い関税障壁で苦しむことになる。だからと言って、国際関係がこれほど不安定な時代に、完全な自由貿易を前提として国内産業を再編するのはあまりに危険な賭けだ。この問題についても、私の提案は簡単だ。関税を撤廃した上で、農家に対しては国が補助金を出せばいいのだ。但し、日本円ではなく政府発行の補完通貨で補助金を出すのである。もしくは農家が生産物を売る際の、補完通貨の受容率を高く設定することでも同じ効果があるかも知れない。これは私が考える補完通貨の目的にもかなっている。つまりそれが持続可能な経済を実現するためのお金だということだ。

     
  22. もしも超越論的な目的や意味というものが無いとすれば、目的は新たに作り出されなければならない。そこまではいい。問題は超越者無き世界において、何を基準に道徳的規律を作り出して行くかということだ。私のとりあえずの考えはこうだ、我々の道徳的感受性に従って、チューニングによって道徳のコードを常に書き換えて行くということだ。過去の時代を野蛮だと感じる感性もまた野蛮なものである。

     
  23. 自分という存在がここにこうして存在していることが奇跡であるように感じられるとすれば、それは無意識のうちに自分をこの世界に生み出した超越者の存在を仮定しているのである。たとえその人が宗教を信じていなかったとしても。

     
  24. 自然科学の誠実さが「大きな人間原理」を要請したように、進化した道徳の誠実さは「小さな人間原理」を要請する。神なき世界において、つまり〈目的論〉が私たちの気持ちにしっくり来なくなった時代のなかで、他に道徳の基盤になるものが何かあるか、知っている人がいるなら教えて欲しいものだ。

     
  25. 「不幸な制度」としての生活保護は改めて行く必要がある。それは社会のモラルを低下させ、未来の希望をも奪う。お金を与えてこれで生活しろというのは、二重の意味で人権を侵害していることになる。

     
  26. 不満なのは、ベーシックインカムを論じる人のほとんどが日本円という単一通貨のパラダイムを抜け出していないことだ。はっきり断言するが、日本円でのベーシックインカムなどというものは不可能であるばかりか、経済倫理を踏みにじるものでしかない。

     
  27. 調査によれば、日本人夫婦のセックスレスの傾向は各国との比較で突出したものらしい。その理由はまったく単純で明らかだ。この国では国民の心理的なストレスが他国に比べてダントツに大きいのである。

     
  28. 誰もがスマートフォンの画面とにらめっこをしている。どんなアプリを使って何をしているのか知らないが、ひとつだけ確実に言えることがある。それは彼らが「沈思黙考」だとか「自己沈潜」といったものとは対極的な場所にいるということだ。テクノロジーは人間を限りなく浅薄にする。

     
  29. スマホを捨てよ、書に戻ろう。

     
  30. 2020年の東京オリンピックに向けて、国立競技場の建て替えが議論の的になっている。コンペで選ばれた新競技場のデザインに対して、批判的な意見が多いのだ。私は建築デザインのことはまるで分からないが、競技場を新しくするならひとつだけ小さな提案をしたい。それはすべてのトイレについて、電波を遮断する壁で仕切るということだ。誰も指摘しないことだが、スマートフォンが普及してこの方、公共の場やオフィスのトイレの空き室率が極端に低下している。「おもてなし」の国で、トイレの待ち時間が長いことは致命的である。

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