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2014年4月20日 (日)

「電王戦」と「将棋2.0」

 将棋のコンピュータソフトとプロ棋士が対戦する「電王戦」は、今年もコンピュータソフトの勝利で終わりました。これでプロ棋士側の3連敗です。以前はプロ棋士が公式にコンピュータソフトと対戦することを、日本将棋連盟が禁止していたのではないかと思いますが、時代の流れには逆らえなくなったのでしょう。昨年は5人のプロ棋士と5つの将棋ソフトがそれぞれ一番勝負を行なって、プロ棋士の1勝3敗1引き分けという結果でした。今年はその雪辱戦とすべく、実力あるトッププロ5人が選抜され、しかも事前に対戦相手のソフトを借りて研究することが出来るというハンデキャップまで与えられたにもかかわらず、ふたを開けてみれば人間側の1勝4敗という結果でした。おそらくショックを受けている関係者も多いのではないかと思います。

 ここ数年のあいだに将棋ソフトの実力が急速に伸びて来た背景には、ソフト開発に関する大きな方向転換があったようです。もともと将棋のような2人用の完全情報ゲーム(サイコロやカードのような偶然の要素を含まないゲーム)は、完全に解析されれば「先手必勝」か「後手必勝」か「引き分け」か、そのいずれかの結論に収束する筈のものです。ソフト開発では、コンピュータの演算能力を活かして、人間の能力を超えた先の展開まで読むことで強いソフトが実現出来ると信じられていた。その考え方は間違いではないのですが、そのためには将棋というゲームは複雑過ぎたのです。比較的ルールの簡単なチェスやオセロゲームなどでは、コンピュータは早くから人間を打ち負かしていました。しかし、相手から取った駒を自分の駒として指せるというルールを持つ日本の将棋は、可能性の分岐が(現在の)コンピュータの演算能力をはるかに超えていたのです。

 最近の将棋ソフトは、コンピュータパワーをフル回転させて先読みをするというやり方ではなく、もっと「人間くさい」やり方で実力を上げて来ているようです。例えば、過去の名勝負と呼ばれるゲームの膨大な棋譜を読み込ませ、いわば人間が「定石」を学ぶような仕方で、過去の優れた打ち手を真似るといったようなやり方です。ゲームの完全解析を果たした最強の将棋ソフトから見れば、人間が残した過去の棋譜なんて意味の無いものであるに違いありません。どんな名勝負であっても、ミスと悪手ばかりが目立つヘボ将棋のように見えることでしょう。が、コンピュータはあえて人間に学ぶことで飛躍的に強くなり、いままさに人間を凌駕するところまで進歩した。これはとても面白いことだと思います。これは要するに、人間とコンピュータが互いに切磋琢磨して、実力を高め合うことが出来る環境が整ったということでもあります。今回の対戦のなかでも、コンピュータが一見過去の定石に反するような手を打って来て、それが結果的に非常に良い手であったことが後から判明したといったことがあったようです。つまり、過去の定石に縛られていた人間の固定観念を覆して、新しい将棋の世界を拓いてみせた訳です。

 こう考えると、電王戦を単に人間が勝つかコンピュータが勝つかというだけのイベントにしてしまうのはもったいない気がして来ます。むしろ新しい将棋の可能性を、プロ棋士とコンピュータが協力して探るためのイベントとして捉えた方がいい。結果としての勝ち負けはある訳ですが、それよりも過去には存在しなかったような斬新な棋譜を残すというところに目標を置いた方がいいと思います。何故かと言えば、それによって人間もコンピュータもさらに実力を高めるための機会が得られるからです。3年連続でプロ棋士が負け越したことで、もう未来永劫人間はコンピュータに勝てないのではないかというような悲観論もあるようですが、それは早計です。いまコンピュータと対戦しているのは、強いコンピュータソフトの無い時代に、古い定石をベースに将棋の実力を培って来た、いわば「棋士1.0」とでも呼ぶべき人たちです。これからは子供時代から強いコンピュータソフトを相手に実力を磨いた「棋士2.0」と呼ぶべき人たちが現れて来るのです。そのなかからどんな天才棋士が現れるか、それを思えばまだまだ勝負は始まったばかりだとも言える。そして人間とコンピュータがしのぎを削るなかで、両者の棋力がますます磨かれて行くことになるのは間違いありません。

 ところで、遠い将来の話はともかく、いまの電王戦のルールは見直すべきではないかという話をします。私自身は将棋を打たない人間なので確かなことは言えないのですが、いろいろな人の観戦記を読むと、今回の電王戦においてプロ棋士は必ずしも実力の差でコンピュータに破れた訳ではないようです。コンピュータと対戦していることのプレッシャーや意表をついた手に惑わされて、棋士側がミスをする場面が多かったらしい。また今回は、ロボットアームが駒を動かすといった無用な余興もあって、それが対戦棋士の気を散らしたという面もあったのではないかと思います。もちろんそれも含めての実力だと言ってしまえばそれまでですが、「斬新で美しい棋譜を残す」という観点からすれば、集中力の欠如から来るミスや悪手はなるべく無くすべきです。そのために電王戦のルールをどう改善すべきか?

 これは思い付きですが、プロ棋士の側は個人戦で戦うのではなく、団体戦で戦うルールにしてはどうでしょう。将棋ソフト側も5種類なんて要らないので、予選を勝ち抜いた最強のソフトひとつがプロ棋士と対戦出来るものとする。これを迎え撃つのは5人のトッププロです。対戦中、彼らは合議制で次の一手を決めるものとします。もしも意見が割れた時には、多数決にするかランク上位の棋士の意見を優先するというルールにしましょう。これによって、棋士側のミスによって名勝負を台無しにしてしまうというリスクはかなり減らせる筈です。電王戦というのは、人間対コンピュータというカテゴリー対決なのだから、特定の棋士を人間代表で出場させることにそもそも無理があるのです。それよりもむしろ人間の「集合知」でコンピュータソフトに対抗する方が正解だと思います。勝負は三番勝負で、先に二勝した方が勝ちとすれば、イベントとしても盛り上がる。そこから「将棋2.0」の世界が見えて来るのではないでしょうか。

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2014年4月13日 (日)

原石を磨かなかった私たちの責任

 もうこの話題には触れまいと思っていました。しかし、今週は国中がほとんどこの話題で持ち切りだったし、気が付くと自分でもこの件について、何とか腑に落ちる解釈を見付けたいと脳細胞が活動しているのが分かる。要するに、それ以外のことが考えられないのです。STAP細胞の論文に関する疑惑について、渦中の小保方晴子さん自身が記者会見を開きました。私はその様子をニュースのダイジェスト版でしか見ていないのですが、インターネット上にたくさんの情報や意見があふれているので、それがだいたいどのような内容のもので、世間の反応はどうだったかは分かりました。

 この記者会見を見た小田嶋隆さんは、そこで印象に残ったのは「女子力」だけだったという視点で、名物コラムをまとめています。小田嶋さんの文章は、とにかく読んで面白いし、いろいろ新しい視点を与えてくれるので毎回楽しみにしているのですが、今回の印象を「女子力」のひと言で括ってしまうのはやはり乱暴だし、問題の本質を隠してしまうのではないかと感じました。我々のようなブロガー(またはコラムニスト)は、ひとつの単語に引きずられて、当初の思惑とはまったく異なる方向で整合性を持った文章を書いてしまうことがあります。今回の会見について、私はとにかく「痛々しさ」しか感じられなかったのですが、もしも小田嶋さんが(これも最近の流行語でいう)「イタさ」という視点で記者会見の印象を語ったなら、もっと思いやりのある文章になったのではないかと思うのです。私はこういう事件について書く人は、すべからく渦中の本人がその文章を読んだら…という点を心に刻んで書くべきだと思う。そういう視点で見れば、今回の小田嶋コラム、小保方さん本人にはとても読ませられないように感じるのです。

 以下、まとまりもなく感想を書き連ねます。先週、理研の調査報告を聞いた時には、罪を小保方さんひとりに着せるような発表の内容に腹が立ちました。その気持ちはいまも変わらないのですが、もっと罪が重いのは彼女に博士号を出した早稲田大学ではないかという気がして来ました。彼女は(私や小田嶋さんのようなおっさんが若い頃には無かった)AO入試で早稲田に転入したそうです。AO入試というのは、いわば原石を見付けるための仕掛けです。受験生のなかから、磨けば光る玉を拾い出すのが目的の制度だった筈です。私はこの制度の基本的な考え方には賛成です。しかし、AO入試を採用する大学は、それと同時に「原石を磨く」という責任を負っていることを忘れてもらっては困る。理研の共同研究者の先生方も、まさか早稲田の博士号を持った気鋭の研究者が、論文の書き方の基本も学んでいない「困ったちゃん」だったとは想像もしていなかったに違いない。聞くところによれば、早稲田理工学部の博士論文には、他にも剽窃(コピペ)がたくさん見付かっているらしい。だとすれば、今回の事件で教育機関としての早稲田大学の罪は重いと言わざるを得ません。

 私はどうも、日本の歪んだ教育行政の犠牲者だという視点で小保方さんを捉えようとしているようです。30歳にもなった大人を、しかも博士号まで取得して、それで給料まで得ているプロフェッショナルの研究者をそんなふうにかばうことには反論もあるだろうと思います。もちろんそのような厳しい見方も必要であることは私も認めます。しかし、人間は歳をとったからと言って、自然に誰もがバランスの取れた大人になるとは限りません。むしろ天才的な才能を持った人、人並みはずれた大きな夢を持った人は、世間一般の意味でのバランスのいい大人にはなりにくいというのが、私たちが経験的に知っているところです。そこを飲み込んだ上でのAO入試だった訳ではないですか。おそらくAO入試というものが無ければ、STAP細胞なんて発想が科学界に持ち込まれることもなかったのではないかと思います。そういう意味で、これはAO入試制度の大きな成果だとも言えるのです。(それが科学的に実証されるかどうかはまた別問題です。) すべての教科の平均点が、一定の基準をクリアしているだけの優等生からは出て来ない発想が、この制度から生まれたことを私たちは評価すべきだし、それが将来の驚くべき発見につながるという希望を持つことは、この国の自然科学の進歩にとってプラスに働くだろうと考えるのです。

 今回の事件に関連する文章で、私が一番心を動かされたのは、共同研究者である山梨大学の若山教授がSTAP細胞発見にまつわるエピソードを語った言葉でした。アナウンサーである梶原しげるさんが、捏造問題が発覚する前に行なったインタビューの記事を、小保方さんの記者会見の翌日に発表したのです。この問題について意見を述べようとするなら、これは必読の記事だと思います。そこには世紀の大発見に挑む科学者の奮闘ぶりがヴィヴィッドに描き出されている。常識破りの新発見が、常識にとらわれない「異能の人」によってしか成し遂げられないということの消息が、読み手にもよく伝わって来る文章です。若山教授と言えば、捏造疑惑が起こった時に、いち早く論文の取り下げを小保方さんに勧めた人ですね。おそらくとても誠実な方なのだろうと思います。が、この記事を読んでしまった私は、若山教授には論文の撤回を勧告するよりも、「小保方さんは私のところでもう一度研究者として鍛え直す」くらいのことを言って欲しかったと思うのです。だって小保方さんの異能ぶりを一番身近に見て知っているのは若山さんなのだし、こういう才能をこういうかたちで殺してしまうのが何より惜しいと感じているのも若山さんに違いないのだから。人の好すぎる感想でしょうか? でも、きっと小保方さんの後ろには、まだ芽の出ない異能の若者たちがたくさんいる筈なのです。彼らの未熟さや稚拙さを責めるのではなく、原石として磨き上げて行くこと、それは私たち大人の責任でしょう。今回の世間やマスコミの騒ぎ方を見ていると、この国は寄ってたかってそうした才能をつぶそうとしているようにしか見えないのです。

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2014年4月 6日 (日)

「集団的自衛権」という大ウソ

 このところやりたい放題の安倍政権が、集団的自衛権を容認する閣議決定をしようとしています。もともと安倍首相は憲法を改正して、自衛隊を戦争の出来る軍隊にすることが悲願だった筈です。憲法改正が現実的にはアメリカの反対があって難しいので、せめて解釈改憲によって集団的自衛権を認めさせようとしている、そういうことなのだそうです。これは内田樹さんの説ですが、そのような解釈がはたして正しいかどうかは別にして、私はそもそも「集団的自衛権」というコトバに大きなウソが隠されていると考えています。

 自国が他国から武力攻撃を受けた時に、こちらも武力で応戦することが出来るとするのが「個別的自衛権」です。単に自衛権と言った場合には、こちらを指します。これに対して「集団的自衛権」というのは、同盟国が他国から武力攻撃を受けた時に、いわば「助太刀」するかたちで応戦する権利のことです。これだけの説明でも、いろいろ疑問が湧きますね。同盟国を助けるために軍隊を出動させるというのが、どうして「権利」なのでしょう? むしろそれは「義務」として規定されるべきものなのではないだろうか? しかもそれが義務であるのは、軍事同盟を結んだ二国間で、一方が攻撃を受けたらもう一方が応戦しなければならないという取り決めがあった場合に限られます。つまり、軍事同盟の条項に、助太刀としての応戦を義務として記載することを国際法に照らして認めるかどうか、認めるならそれを集団的自衛権と呼ぶ、そういう用語の定義なら納得がいくのです。逆にそういう状況を想定しない限り、「集団的自衛」を国際法上の権利と称する理由が私には分かりません。

 日本がいま軍事同盟を結んでいるのはアメリカだけです。日米安全保障条約のことですね。誰もが知っているとおり、この条約は片務的なものです。アメリカは日本国内に130箇所を超える軍事基地を持ち、毎年6000億円もの駐留費用を日本に負担させている。その代償として、アメリカは第三国の攻撃から日本を守る約束をしている訳です。これに対して日本にはアメリカを守る義務を負っていません。ただ基地の提供と駐留費用の負担を行なっているだけです。このことを事実として認めるならば、安倍政権がゴリ押ししている集団的自衛権の容認というのは、事実上まったく意味の無いものになります。どことも双務的な軍事同盟を結んでいない日本には、集団的自衛権を発動する機会は無いからです。いや、こういう私の解釈は正しくないのかな? 集団的自衛権というのは、双務的な軍事同盟を結んでいない二国間でも容認されるべきものなのでしょうか? 当たり前に考えてみましょう、A国がB国から突然武力攻撃を受けたとして、その時A国と友好関係にあるC国がB国に応戦する権利はあるのか? これが軍事同盟を前提としない集団的自衛権です。もしもそれを国際法上認めるならば、今度はB国と友好関係にあるD国がC国に報復する権利も認められなければならない。こうして多くの国が、ふだんから敵対関係にある国を、この機に乗じて叩いておこうと考えて参戦する。二国間の局地的な紛争が、あっと言う間に世界戦争にまで発展してしまう危険性を孕んでいるのが集団的自衛権というものです。

 専門の法律学者が何と言おうと、そんなものを国際法上認める訳にはいきませんね。仮に集団的自衛権というものを認めるとするならば、その前提として国際法上で認められた明確な軍事同盟の締結が必要だし、その際にも紛争拡大を抑制するための厳密な条件が前提として定められていなければならない。おそらく安倍政権の、と言うか歴代自民党政権の悲願として来たことは、日本が集団的自衛権を獲得することでも、自衛隊を戦争の出来る軍隊にすることでもなかったのだと思います。アメリカとの軍事同盟を片務的なものから双務的なものに作り替えて行くこと、それが彼らの本当に追い求めていたことだったのだろうと思う。アメリカとの同盟関係は維持しながら、対等な独立国としての地位を取り戻したいということです。これはリベラル派の私にも共感出来ることです。でも、それだったらものの順序が違います。日本は集団的自衛権を獲得する前に、アメリカとの軍事同盟を双務的なものに変更すべく努力しなければならない。そのためには、日本国内の米軍基地にすべて撤退いただくか、またはアメリカ本土に自衛隊の基地を130箇所設置しなければならない(それでなければ、いざという時に日本がアメリカを守ることは出来ないから)。それをしないで集団的自衛権だけを容認したり、自衛隊を自衛軍に昇格させたりすることは、我が国の対米従属をより露骨なものにするだけです。

 安倍さんは、戦後生まれの新しい世代の首相として、もっと国際的な視野に立って政策の推進をして欲しいと思います。今回の集団的自衛権の問題にせよ、靖国参拝ということにせよ、この人がやっているのは「内弁慶な」アピールばかりです。なんだかクラスのガキ大将といったイメージで、現在の世界情勢を冷静に読んでいるようにはとても見えないのです。これからの世界情勢のなかで、最も懸念されることは西欧諸国とイスラム諸国のあいだの対立が激化して行くことです。その深刻さから比べれば、日本と中韓の対立なんて子供の喧嘩のようなものに過ぎません。日本は幸いにして、イスラム諸国とも(国民レベルで)友好関係を保っている珍しい国です。そういう立場を活かして、いま我が国が国際社会のなかでなすべきことは何か? それを考えるならば、憲法改正だとか集団的自衛権などという内向きの政策に政治的リソースを傾けている場合ではないと思うのです。

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