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2014年3月30日 (日)

有為の研究者にもう一度チャンスを

 まさか自殺でもしなければいいけど…。そう心配しているのは私だけではないと思います。この話題について、私には語るべき資格も知識もないのですが、マスコミの取り上げ方があまりにひどいので、ひと言だけ書いておきます。1か月前には「ノーベル賞確実」だとか「リケジョの星」だとか、国を挙げて持ち上げられていた若い女性研究者が、一転して恐ろしいほどのバッシングに晒されています。しかも、本筋の研究内容とは関係ない私生活の問題まであげつらわれて。まず、起こったことを簡単に振り返っておきましょう。生物学の分野で驚くべき新発見があり、その論文が世界的に権威のある科学誌に掲載された。ところがその論文に、他の論文からの写真の転用や画像修正の跡が見付かった。と同時に、リーダーである女性研究者の過去の論文にも、他人の論文からのコピペ(つまり無断転載ですね)があったことが発覚して、研究そのものの信頼性が揺らいでいる。加えて、他の研究機関の追試によっても一向に成果が出ていないことから、論文自体がまったくの捏造だった疑惑すら持たれている…。

 問題は、指摘されている不正が果たして意図的なものであるのか、単なるミスや不注意に由来するものなのかという点です。もちろん私に判断出来る筈もありませんが、常識的に考えれば意図的なものである可能性は低いと思います。データや写真を捏造したところで、そんなものはどうせバレるに決まっているのだし、不正を働くことのメリットが何も無いからです。この問題と同時期に、作曲家のゴーストライター問題が発覚して、マスコミはこのふたつを並び立てて同種の事件のように報道しています。でも、これは意味の無い対比ですね。ゴーストライター事件の方は、あくまで金銭が絡んだ一種の詐欺事件と言えますが、論文事件の方は(現在のところ)何も金銭的なものは絡んでいないのですから(これで儲けたのはゴシップ記事を載せた週刊誌だけでしょう)。将来的には莫大な特許料が入って来る可能性があるし、当面の研究補助費を獲得するという目的があったのかも知れません。しかし、それもこれも研究成果がホンモノだった場合の話です。捏造ということになれば、補助金が打ち切られるだけでなく、研究者としてのキャリアも閉ざされてしまう。そんな危ない橋を誰が渡るというのでしょう?

 今回の事件は、それよりももっと深刻な問題が背景にあるような気がします。つまり国内の科学研究の分野で、研究者の職業的な倫理性が著しく損なわれているのではないかという疑念が湧いて来たのです。私のような文系の人間には身をもって想像しにくいことですが、研究者が白衣を着て研究室に一歩入れば(たとえそれが割烹着だったとしても?)、そこは科学の厳格さが領する聖域となるのだと思います。昔ながらの徒弟制度が生き残っている世界で、そこでは一切の曖昧さも手抜きもあってはならず、ましてや実験中にゴマカシなどしようものなら、この世界から永久追放されることを覚悟しなければならない。これが悪意を持って不正を働いたというならまだ理解出来るのです。ところがどうも研究チームの人たちは、自分たちでも大発見に酔っていたふうが見える。だとすれば、病根は深いと言わざるを得ません。今回の事件をきっかけに、他にも理系の博士論文のなかに多数のコピペが見付かっているという話も聞きます。研究論文というのは人類の共有財産なのだから、コピペは問題ではないなんて意見もあるようですが、それはダメでしょう。少なくとも学術論文のなかで他人の論文を引用するなら、はっきり出典を示して、引用であることを明記すべきです。そんなことは学問の世界に生きる人間にとって基本中の基本でしょう。

 若い研究者に対してきちんとした倫理教育がなされておらず、また技術の伝承も行なわれていないとすれば、これはこの国の未来にとっても由々しき事態です。これを機会に各大学や研究機関は、もう一度学生や研究者の倫理教育について見直すべきだし、違反があった場合の罰則についても厳格に定めるべきでしょう。と同時に、やはり気になるのは「STAP細胞」なるものが実在するのか否かという問題ですね。今回の事件で、もしもこの先に起こる最悪の展開を想像するなら、論文が撤回されたあとで他国の研究チームが追試に成功して、発見者の名誉も特許権もごっそり持って行かれてしまうということでしょう。今回、研究チームはたとえ汚れ役になっても、ぎりぎりまで論文は撤回すべきではなかったと思います。いまからチームに出来ることは、研究の初心に帰ってもう一度STAP細胞の作成に全力で取り組むことです。それしか研究者としての復活の道は無い。小保方博士の最大の長所は、自分の信じた科学的仮説に、がむしゃらに向かって行く突進力にあった筈です。それは他の若い研究者にとってのお手本でもありました。今回の事件で研究費が打ち切られてしまうというなら、クラウドファンディングの手法で資金集めをしたらいい。彼女にもう一度チャンスを与えたいと思っている人たちは、この国にはたくさんいる筈ですから。

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2014年3月 9日 (日)

クルマでの避難に国民的議論を

 東日本大震災から3年が経とうとしています。この時期、テレビや新聞では防災関係の特集を多く見かけます。そんななかで、津波警報が出た際の避難方法について報じていたニュースが目に留まりました。多くの自治体では、徒歩による避難を前提に避難計画を立てていますが、場合によってはクルマによる避難も考慮すべきだという研究者の報告を紹介したものでした。常識的に考えても、これは当然のことですね。地域によっては安全な高台に避難するのに、徒歩では遠過ぎるという場合もあるとあると思いますし、いくら自治体が徒歩による避難を勧告していても、いざ地震が起こったら、自家用車で逃げようとする人たちを止めることは出来ない。むしろクルマによる避難というのも、計画の一部に組み込んでおくべきではないでしょうか。

 そう考えた場合、クルマによる避難のルールというものがほとんど検討されておらず、ましてやそのための避難訓練も行なわれていないことが気がかりです。インターネットで検索すれば、避難に自動車を使う場合の課題について言及した政府の検討資料なども見付かります。ただそれは具体的なルール作りにまで踏み込んだものではないようです。今回は津波警報が出た場合のクルマによる避難について、いくつかのアイデアを書き付けておこうと思います。素人の思いつき以上のものではありませんが、今後の議論に向けた課題提起にでもなればと思うからです。

1.道路の緊急時通行ルール

 津波からの避難にクルマを使うことの第一の問題点は、交通渋滞によって避難が遅れることでしょう。皆が一斉に高台に向けて押し寄せれば、いたるところで渋滞が起き、なかにはクルマを乗り捨てる人も現れるので、道路は完全にマヒします。これは容易に想像出来ることです。これを防ぐためには、津波警報が出されたとき限定の交通ルールを、全国統一で制定しておく必要があります。津波警戒区域では、平常時の道路通行ルールとは異なる「津波警報発令時の通行ルール」を定めておき、それをすべての運転者に周知しておくということです。

 基本は、「津波警戒区域のすべての道路を一方通行にする」という考え方になります。上り車線と下り車線というルールは一時的に廃止されます。行政はあらかじめ緊急時の道路の混雑状況をシミュレーションによって予想しておき、混雑が均等になるように地域内のすべての道路(小さな路地も含めて)に「緊急時一方通行」のルールを定めます。運転者が自分の判断で道を選んで逃げようとすると、それが渋滞の元になりますが、このルールに従えば、少なくともパニック的な交通マヒは防げる筈です。

 津波が予想される地震が起こると、すべてのクルマが高台に向かう訳ではなく、海岸に向かうクルマも現れるでしょう。家族を助けに行く人たちのクルマです。しかし、これがパニック的な交通マヒを引き起こします。私が提案する緊急時の通行ルールでは、海岸に向かうことは理由のいかんを問わず禁止となります。海岸に近い家に取り残された家族の避難は、徒歩または近所のクルマに相乗りさせてもらうなどの方法によって別途考えておくべきことです。とにかく津波警報が出たら、クルマを運転する人は絶対に自分で道路を選ぶことをせず、決められた「一筆書き」のルールに従って走るだけです。それが自分と自分の回りの多くの人の生命を救うための最も合理的な行動となるからです。

 緊急時一方通行のルールは、特別な道路標識や路面に描かれた方向指示のマークによって運転者に周知されます。これはもちろん自治体ごとに定めるのではなく、交通行政が全国統一のデザインで定めて、国内すべてのドライバーが学習すべきものとなります(免許の取得や更新の際の必修科目です)。これらの標識は、ふだんは何の効力も持ちませんが、警報発令時にのみ有効になります。そのことを周知徹底しておかないと、却って平常時の交通トラブルのもとになるので注意が必要です。また、この交通知識を持っていれば、地元のドライバーでなくても緊急時の避難行動で問題を起こすことは少なくなるでしょう。(信号をどうするかということは、別途検討が必要ですね。津波が迫っている時に信号が守られるかという問題もあります。)

2.誰がクルマで逃げるべきか

 警報発令時にクルマで逃げることを禁止したり、許可制のようなものを作っておいても無駄です。津波がそこまで迫っている時に、そんなルールを守る人はいません。それでもあらかじめクルマで避難すべき人たちを決めておき、その他の人たちは徒歩避難にするというルールを作成しておくことは意味があります。誰にとっても、一番重要なことは自分と自分の家族が助かることであり、そのためには徒歩避難の方が確実であることが納得出来ていれば、緊急時にもそれに従って行動することは難しいことではない筈です。

 クルマによる避難を優先されるのは、もちろん徒歩による避難が難しい高齢者や幼児、身体が不自由な人たちです。効率的な避難という観点に立てば、クルマはうまく使えば有効な避難ツールになり得るものです。そのためには、乗車率を高めるというのも重要なことになります。5人乗りの乗用車には5人が乗って避難するということです。ふだんから住民同士で、どのクルマに誰が乗るかということを決めておきます。夫婦ふたり暮らしの世帯なら、空いている3人分のシートに誰を乗せるか、この点について行政の指導も含めて個別に決めておきます。乗車率を高めれば、当然道路混雑の緩和にもなります。

 このようにして行政に登録されたクルマには、緊急避難用車両を表すステッカーを貼るのもいいと思います。実際の緊急時にそれが何か効力を発揮するかどうかは疑問ですが、緊急避難時には運転者に、自分が公共的な避難ツールを操っているという自覚を持ってもらうことが重要であり、ステッカーによる認定はその自覚を促すために多少は役立つのではないかと思います。

3.有効な避難体制の確立のために

 津波に襲われる前には、大きな有感地震が起こるのがふつうですが、最近の研究では必ずしもその地域で感じられる地震の強さと津波の大きさは比例していないということが分かって来たようです。問題は、いつ通常の交通ルールから緊急時の交通ルールに切り替え、それを通行中の運転者に知らせるかということです。基本は地域の行政が管理しているラウドスピーカーによる報知になります。それもコトバによるお知らせではなくて、津波警報のサイレンを全国標準で決めておき、それが鳴ったら交通ルールの切り替えが行なわれることを誰もが知っておくことが重要です。

 難しいのは、交通量の多い道路での車線の切り替えですね。そのサイレンが鳴った瞬間、下り車線が上り車線に切り替わる。この切り替えがスムーズに行なえなければ、せっかくの一方通行ルールも混乱を助長するだけになってしまいます。方向が切り替わる車線を走っているクルマは、右側車線のクルマの通行を妨害することなく、左側の空き地や側道を利用してUターンすることになります。その際に側道から出て来るクルマと鉢合わせする可能性がありますから、その場合のルールも必要でしょう。場合によっては、海岸に向かって走っていたクルマは、邪魔にならない場所に移動して、乗り捨てる勇気も必要かも知れません(特に大型車両などは)。

 このように考えて来ると、徒歩の場合と同じく、クルマを使った避難訓練というものがどうしても必要だという気がして来ます。徒歩による避難訓練なら、私たちはそれがどういうものか身をもって知っています。しかし、クルマを使った避難訓練となると、誰も経験したことはないし、そんなものを実際の道路を使ってやってみようという発想すら無い。それには前もっての周到な準備と大規模な交通規制が必要になるからです。また訓練自体が危険を伴うものであるという意見も出て来ると思います。しかし、だからと言って、避難ルールだけを作って、あとはぶっつけ本番というのではあまりに危うい。現実問題として、津波の危険性のあるすべての町でクルマによる避難訓練を行なうのは不可能でしょう。が、ある町で実験的に行なった結果を映像に収め、その視聴をすべての運転者に義務付けることなら不可能ではありません。免許更新時の講習カリキュラムに組み込めばいいのです。来るべき南海トラフ地震に備える意味でも、これは検討に値する課題だと思います。

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2014年3月 2日 (日)

Bad BitcoinとGood Bitcoin

 先週、ビットコインの輝かしい未来(?)について書いたら、それから3日と経たないうちにビットコインのシステムがクラッシュしてしまいました。という言い方は正しくありませんね。ビットコイン自体は、完璧なセキュリティの仕組みに守られて無傷だったのだろうと思います。ビットコインの両替所のシステムがサイバー攻撃を受けて、利用者が預けていた預金が盗まれたらしい。その金額たるや、時価400億円を超すほどのものだったそうです。皮肉なことに、ビットコインが保証する完璧な匿名性は、盗み出したハッカーたちの足取りをまったく追跡不能なものにしているのだと思います。ふつう400億円もの現金を盗んだら、資金洗浄を行なうのも大変な筈ですが、ビットコインならばそれも必要無いのですね。窃盗団にとっては、まさに夢のようなお金です。

 ビットコインの発明は、贋札作りが盛んな国で、絶対に偽造出来ないお金が発明されたのと同じことです。ところがこの国では、贋札作りだけでなく盗難事件も頻繁に起こっているので、偽造されないお金はあっと言う間に盗賊の餌食になってしまった、そういうオチです。通貨というものは、偽造されないというだけではダメで、それが安全に流通するためには、もっとトータルな社会的システムとして機能していなければなりません。それには銀行のオンラインシステムも含まれますし、国の法律や警察権力といったものも含まれます。今回の事件は、そのことをあらためて思い出させてくれたという意味で、貴重な教訓だったと言えるかも知れません(預金を失った被害者の方たちには申し訳ないですが)。

 今回のような事件が起きたのは、あるひとつの両替所の杜撰なシステム管理に原因があるので、ビットコインそのものの信頼性が揺らいだ訳ではない、そういう意見を表明している人がいます。しかし、本当にそうでしょうか? ビットコインというものは、システムに脆弱性があれば簡単に盗み出すことが出来、しかもいったん盗み出すことに成功すれば絶対に足がつかないお金であるということを、今回の事件は広く世間に知らしめました。要するにこれを狙うハッカーたちに強い動機づけを与えてしまった訳です。たとえ両替所のセキュリティ管理が万全だったとしても、個人のパソコンやビットコインソフトウェアが狙われたらこれを防ぐ手立ては無い。多少の利便性と手数料の安さのために、そんなリスクを負うことが合理的だとは誰も言えない筈です。結局、ビットコイン市場に今後も残って行くのは、安く買って高く売り抜けようとする投機家ばかりということになる。

 そもそも何故ビットコインには両替所が必要なのでしょう? もしもビットコインが従来の管理通貨に対するアンチテーゼという意味を持つものなら、両替などしないでビットコインのまま取引に使えばいいじゃないですか。ビットコインの仕組みのなかには、他の通貨との交換可能性という要素はまったく含まれていません。これを使ってひと儲けしてやろうと企んだ人たちのあいだでビットコインの売り買いが始まり、それがインターネット上の両替所という新しいビジネスを生み出しただけです。私はその数字を把握していませんが、これまで行なわれたビットコインの取引のなかで、お金でお金を買う金融取引と、実際のモノやサービスを売り買いする商業取引とを比べると、前者の方が圧倒的に規模が大きいのではないかと思います(しかも商業取引の多くは、非合法薬物などの闇取引です)。このような状況になってしまったことは、誰よりビットコイン自身にとってとても不幸なことだったと思います。

 いっそのこと、各国の政府がビットコインの両替を禁止してしまえばいいのに、と思います。そうすれば、ビットコインのなかから投機的な要素が排除されて、純粋に商業取引のための通貨として見直されるかも知れない。そうすることで「Bad Bitcoin」から「Good Bitcoin」を救い出せるかも知れないのです。もしも他の通貨との交換が出来ないとすると、そもそもビットコインの値段は何で決まるのか? そう疑問に思う人がいるかも知れません。しかし、それは心配には及びません。例えば「1BTCは人間の1時間の労働価値に相当する」といった基準が、ビットコインを使おうとする人たちのあいだで合意されればいいのです。これなら先進国と途上国のあいだでも対等な価値の交換が行なえる。地域通貨の世界では、ずっと昔からあった知恵です。こうして国際通貨としてのビットコインが認知されるようになれば、国をまたいでの決済方法として受け入れられるだけでなく、通貨不安を抱える国の人たちにとっても歓迎すべきものとなるでしょう。

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