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2014年2月23日 (日)

ビットコイン・オブ・ビットコインズ

 経済学者の野口悠紀雄さんが、ダイヤモンドオンラインにビットコインに関する記事を書いています。まだ連載の1回目が掲載されたばかりなので、記事に関する意見や感想は控えたいと思います。ただ、いろいろな意味で触発されるものがあったので、今回はそのことについて書きます。触発されたという意味は、野口さんのような大物(?)が、ビットコインを大絶賛しているのに感慨を持ったということもありますが、それよりも次の文章に、はたと閃くものがあったのです。(以下、引用です。)

『いまひとつ注目すべきは、インターネット上で使用しうるコインとして、ビットコインは唯一のものではないことだ。Litecoinを始めとして多数のものが、すでに誕生している。あるいは、Rippleなどのように、開発途上にある。
ビットコインの基本的な仕組み(ブロックチェーン、プルーフ・オブ・ワーク等)は維持しつつも、細部を変更した別のコインを作ることは、可能であるし、必要であるのかもしれない。例えば、ビットコインの供給量は2041年頃以降は一定になることとされているが、それとは異なるスケジュールのコインは十分考えられる。
多数のコインが誕生すれば、それらの間で競争が起きる。そして、最も多くの店舗に受け入れられ、最も使い勝手がよいコインが生き残っていくことになる。そうした競争は健全なものだ。』

 ビットコインの二番煎じのような電子通貨がいろいろ出始めていることは、何かで読んで知っていました。今からビットコインに参戦したのでは大儲けは望めないと判断した人たちが、柳の下の二匹目のドジョウを狙っているのだろう、そんなふうに考えていました。それはたぶんその通りなのですが、「そうした競争は健全なものだ」という発想が私にとっては新鮮に思えたのです。というのも、もしかしたら、このことによってビットコインの本質的な欠陥が補われる可能性があるかも知れないからです。

 ビットコインには、正の側面と負の側面があります。正の側面というのは、もちろんその利便性です。世界中のどこの国の人とでも、同一の通貨で、ほとんど手数料も無しに、瞬時に取引が出来るというのは、ビットコインが出現するまでは考えられなかったことでしょう。現代のようなグローバル経済が拡大した時代に、そうした決済方法が無かったことの方がむしろ不思議でした。負の側面というのは、これがそもそも持続可能な通貨の仕組みではないということです。ビットコインは、発明者によってライフサイクルがあらかじめ設定されているお金です。当初は容易に「採掘」出来たものが、次第に採掘コストが高くなり、最後には掘り尽くされて新たなコインが産出されないように設計されている。(この点で野口さんの文章にはひとつ間違いがありますね。ビットコインは、2041年頃に供給量が一定になるのではなくて、供給が止まるのです。一定になるのは、すでに世の中に出回っているビットコインの流通量です。) この設計思想によって、ビットコインは通貨としての信認を得ているのですが、これによってまたグローバル経済のインフラとしての限界も抱え込んでいるのです。

 そこに第2、第3のビットコインの出番があるのではないか、というのが今回の私の仮説です。ビットコインが、ギャンブルに似た投機的なものであるのは、1種類のビットコインしか無いからかも知れません。もっとビットコインライクな通貨がたくさん生まれて来て、それが私たちの身の回りで当たり前のものになったら、誰もそこに投機的な価値を認めなくなるかも知れない。ビットコインのライフサイクルがどういうものか、グラフに描いてみれば、下の図のようなものになるのではないかと思います。縦軸が換算レート(1BTCあたりの円またはドルとの交換価値)、横軸が時間の経過を表しています。最終的にどの程度の換算レートで落ち着くのかは分かりませんし、落ち込むときの角度も予断を許しません。が、長い目で見れば、ビットコインがこのようなカーブを描いてその役目を終えることは間違いないと思います。そしてもうひとつ重要なことは、この問題はビットコインそのものの改良や設計変更によっては解決出来ないという点です。ビットコインは、一度世の中に出てしまったら、絶対に仕様変更が出来ないように設計されているからです。

■ Lifecycle of Bitcoin
Bob_1_3

 ところがここで、ビットコインに似た通貨がたくさん出て来たらどうでしょう。野口さんが指摘するように、発行スケジュールが違うだけでも、ビットコインを補完する通貨としての存在意義はありそうです。ビットコインの便利さに慣れてしまった人は、同じような使い勝手の新通貨を歓迎するのではないでしょうか。新ビットコインのなかには、元祖ビットコインよりも発行枚数の上限を増やしたり、「採掘」コストを安めに設定したものもあるかも知れない。それぞれ異なる特徴とライフサイクルを持った電子通貨が、いくつも並立している状態が実現すれば、利用者は目的に応じてそれを使い分けることが当たり前になるかも知れません。(例えば、外国への支払いにはAコイン、安定した資産運用のためにはBコイン、ハイリターンを期待するならCコインといったふうに。) グラフに表すと、こんな感じでしょうか。

■ Many Bitcoins
Bob_2

 野口論文は、おそらくこの点で間違っていると思います。野口さんの予測では、複数のコインが競争をして、そのうちのひとつが淘汰を生き延びてデファクトスタンダードになるということのようです。しかし、ビットコイン型の通貨には寿命というものがある以上、それはあり得ないことです。むしろたくさんのビットコインが並立していることの方が持続可能で健全な状態だと言えます。「でも、そんなにたくさんの通貨が出回ってしまったら、却って利便性が落ちるんじゃない? お店の方だってあらゆるビットコインに対応することは不可能だろうし。」――当然、あなたはそう思いますよね。しかし、大丈夫。もしもそんな不満が出て来る状況になれば、今度はそれらのビットコインズをひとつの「通貨バスケット」にまとめて、あたかも単一の通貨のように扱えるサービスが出て来る筈ですから。利用者にとっても、これを使うメリットは大きいと考えられます。個々のビットコインは価値の変動が激しいのに対して、通貨バスケットの方は比較的レートが安定しているからです。そのためには、組み合わせるビットコインも、いろいろ異なった技術的要素を持ったものを集めた方がいいかも知れません(ブロックチェーン方式の脆弱性が発見されないとも限りませんから)。通貨バスケットの価値の推移を、先ほどのグラフに重ね合わすと、こんなイメージになります。

■ Bitcoin of Bitcoins (BoB)
Bob_3  さて、ここからは私の空想です。複数のビットコインズをこのようにまとめるサービスを、ピアツーピアの分散型ネットワークで実現するのは難しいでしょう。となると、それには集中型の管理が必要となり、サービス提供事業者の出番が回って来ます。これは有望なビジネス分野ですから、いろいろな企業が名乗りを上げるだろうと思います。グーグルやアマゾンのようなインターネット企業、既存の銀行や証券会社などが競争を繰り広げ、その競争を勝ち抜いた企業が「ビットコイン・オブ・ビットコインズ(BoB)」を制することになる。こうして21世紀は、手数料が安く、為替レートの変動にも影響されない単一通貨でグローバルな取引が行なえる時代となります。便利には違いありませんが、これは一私企業が基軸通貨を手にして、世界経済全体を制覇するということでもあって、究極の集中管理型社会の到来とも言えるものです。こうなるともう個々のビットコインなんて存在意義を失います。だって私たちは、信頼ある企業の提供するBoBと直接ドルやユーロや日本円を交換すればいいのだから。そしてある日、こんなスキャンダルが発覚します。最初のビットコインを発明した「ナカモトサトシ」なる謎の人物の正体は、なんとBoB発行企業の商品開発部門だったというのです!

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2014年2月10日 (月)

都知事選の結果について

 また選挙予想を大きく外してしまいました。細川候補を応援する記事を書いた手前、何かひと言釈明しておかなくてはならないと感じます。まず予想外だったのは、宇都宮健児氏の健闘です。同じ原発廃止を訴える細川氏を、わずかにですが得票数で上回るという善戦ぶりを見せました。インターネット上の意見を見ても、これを意外だと感じている人が多いようです。選挙の前に、原発反対派の陣営から候補者を細川さんに一本化しようという動きが見られましたが、彼らも読み違えていましたね。一本化するなら、むしろ細川さんに辞退してもらうべきでした。実は私も、今回は宇都宮さんは身を引くべきだと考えていたひとりなのですが、これについては素直に反省しなければなりません。僅差とは言え、得票数で細川氏を上回ったということ、そのことの意義は宇都宮陣営にとっては大きかったと思います。

 それにしても、何故細川さんはこれほどまでに票が取れなかったのだろう? 後講釈ですが、考えられる理由はふたつあります。ひとつは街頭演説を聴いて、多くの人が思ったことだと思いますが、細川さんの声があまりに弱々しく、候補者としての存在感が薄かったということ。聴衆も明らかに応援演説に来た小泉さんが目当てだったように見えました。正直なところ、「こんな老人に都政を任せて大丈夫か」と感じずにはいられないほど、演説に迫力がありませんでした。もうひとつの理由は、マスコミが意図的に細川・小泉陣営の露出を制限したと思われることです。これは予想されたことでもありました。いまの自民党政権は、国民よりも財界の方を向いています。政財界の蜜月という意味では、おそらく小泉政権時代をも凌いでいる。その財界がスポンサーになっている日本の大手マスコミが、反原発陣営に肩入れする筈は無かったのです。

 今回の選挙で明らかになったことは、共産党や社民党を支持するコアなリベラル層と、与党のなかにあるリベラル寄りの候補を支持する層とは、互いにまったく相容れないふたつの勢力だったということです。仮に今回の選挙に、細川さんではなく人気のある小泉さんが立候補したと仮定しましょう。そして宇都宮さんが立候補を取り止めて、反原発候補が小泉さんひとりに絞られたとしましょう。その場合、今回宇都宮さんと細川さんが集めた以上の票を小泉さんが得票出来たかと言えば、私は疑問に思います。今回、あえて宇都宮さんに投票した人の多くは小泉さんのことが嫌いな筈だし、他にリベラル派の候補がいなければ棄権したでしょう。コアなリベラル派が、いまでもこれだけの勢力を保っているというのは、おそらく東京都という地域性の特色だとも思われますが、そもそも原発に反対する有権者が二分されてしまっている以上、選挙で反原発の意思を示すことは原理的に不可能だったのです。

 宇都宮さんと細川さんの得票数を合わせても、升添さんの得票数に届かなかったことから、今後の国の原発政策にもお墨付きを与えてしまった、そのことが痛恨の極みです。これでもはや原発の再稼働を妨げるものは何も無くなってしまいました。そもそも都知事選の争点に原発問題を持って来ること自体に無理があったのは承知しています。しかし、与党が安定多数を獲得して、次の総選挙までの期間が長いこの時期において、国民が原発政策に直接意思表示を出来る機会はもうありません。いや、仮にこの問題に対して国民投票が行なわれたとしても、「段階的な脱原発」というレトリックに大多数の国民が欺かれている限り、再稼働反対派が勝つ見込みは無いのです。段階的な脱原発と、原発の即時廃止とが、リスク管理上まったく別物であることについては、すでに前回の記事で書きました。本来、原発廃止派はその点をこそ強調すべきだったと思うのですが、いまとなってはもう何を言っても手遅れです。原発が再稼働したからと言って、日本がすぐに滅びる訳ではない、こうなったらそう腹を括るより仕方ありません。ただ、私たち日本人が「ダモレスクの剣」の下にいることは、常に忘れずにいた方がいい。自分はもうこれ以上、原発問題については語るまいと思っています。

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2014年2月 2日 (日)

原発を再稼働すべきでないたったひとつの理由

 東京都知事選の投票日まであと1週間に迫りました。私自身は都民ではありませんし、候補者のうち誰が最も都知事に相応しいかといったこともよく分かりません。分かっているのはただ、日本が原発の再稼働を思い止まれるとすれば、これが最後のチャンスかも知れないということだけです。都内に住む有権者の方のなかには、都知事選の争点を原発問題というシングルイシューにされることに不快感を覚えている人も多いだろうと思います。でも、これは他のすべての政治的課題とはレベルが違う重大かつ喫緊の問題なのです。すでに私はこのブログでそのことについて何度か記事にしているのですが、今回もう一度だけ書いておきます。投票日までの1週間のあいだに、この記事に目を止めてくれる有権者の方がひとりでもいるかも知れない、そういう気持ちが私を急き立てるのです。

 原発問題を選挙の争点にすることに多くの人が違和感を感じているのは、すでに脱原発の方向性については大多数の国民の合意が出来ていて、いまさら政治的な決断が求められているような問題ではないと考えているからではないでしょうか。最近の反原発派は「即原発廃止」なんてスローガンを掲げていますが、原発を即時廃止しなくても、新しい原発を建設しなければ、遅くとも40年後くらいには自然と脱原発の状態になっている訳です。その頃には再生可能エネルギーの発電効率も、現在よりはるかに向上している筈です。だったら何もあわてていますぐ原発を止める必要はないではないか。原発事故が起こった3年前ならいざ知らず、いまでも一部の原理主義者たちがヒステリックに即原発廃止などとわめいているのにはうんざりだ。そういう見方で今回の選挙戦を見ている人も多いのではないかと思います。

 しかし、40年かけての緩やかな脱原発と政治的決断による原発の即時廃止とを比べた場合、ひとつの点で決定的な違いがあります。それは「動いている原発と止まっている原発とでは、事故を起こした場合の影響度がまったく違う」ということです。原発反対派の人たちは、フクシマの事故を風化させてはいけないと言います。あの事故を過小評価すべきではないというのです。私はむしろフクシマを過大評価すべきではないと思います。チェルノブイリの事故と比べてみれば明らかですが、福島第一で起きたことは原発事故として最悪のものではありませんでした。水素爆発で原発建屋が無惨に吹き飛んだので、印象としてはさも重大な事故のように感じられますが、なにはともあれ原子炉本体は破壊を免れたのです。チェルノブイリの事故では、原子炉が爆発して、むき出しになった核燃料が10日間にわたって燃え盛ったと言います。このため、国際原子力委員会の基準で同じレベル7の原発事故であっても、チェルノブイリではフクシマの10倍近い放射性物質が大気中に吐き出されたのでした。福島第一には、使用済み核燃料も含めると、事故を起こしたチェルノブイリ原発の10倍もの核燃料が貯蔵されていました。にもかかわらず、放射性物質の放出量が10分の1で済んだのは、地震の瞬間に原子炉の安全装置が作動して、核分裂反応を止めることに成功したからです。事故はその後、想定外の津波によって電源が失われたことで、原子炉の冷却が出来なくなったことにより起きました。

 地震の揺れを検知して、自動で運転中の原子炉を止めるのが制御棒と呼ばれる装置です。これは稼働している核燃料の隙間に、四角いパイプ状の金属棒を差し込んで核分裂を止めるという、ある意味とてもプリミティブな仕組みです。問題は、この制御棒にも耐震性能があるという点です。原子炉を想定以上の強烈な地震波が襲うと、制御棒の挿入がうまくいかなかったり、挿入時に却って核燃料を傷つけてしまったりといったことが起こり得る。これと同時に冷却システムもダウンすれば、核暴走から原子炉の爆発という一連の流れを食い止めるものはありません。原発の耐震性は、私たちが地震の揺れを測るときに使う「震度」ではなくて、重力加速度を表す「ガル」という単位で表します。日本の原発は700ガルの揺れにも耐えられる構造になっている、そんな使い方をします。しかし、原発の耐震性能は、建物や配管がどれだけの揺れに耐えられるかについては査定しているけれども、制御棒の作動条件を保証するものではないようです。この問題についてもっと詳しく知りたい方は、インターネットで「制御棒、ガル」といった語で検索してみてください。専門家の信頼出来る情報がたくさん見付かる筈です。

 これが東日本大震災のような、原発から震源地の遠い地震ならまだいいのです。激しい本震が来る前の予震の時点で、制御棒が挿入されるという期待もありますから。危険なのは直下型の地震が原発を襲った時です。だから原発にとって本当に恐いのは南海トラフ地震ではありません(もちろんそれも十分恐いですが)、もっと頻繁に起こるふつうの内陸型地震です。原発の耐震性能は700ガル程度ですが、日本では最大の揺れが1000ガルを超すような地震が日常的に起こっています。マグニチュード6程度の中型地震でも、局地的にはそのような激しい揺れを記録することがあるのです(世界中の地震計がこれまでに記録した最大の揺れは、2008年の岩手・宮城内陸地震の4022ガルというもので、これはギネスにも認定されています)。週に一度は有感地震が起きているこの国で、原発を再稼働することを正当化する理由が私にはまったく分かりません。たとえ原発を再稼働しなかったとしても、今後も福島第一クラスの原発事故は起こる可能性があります。54基の原発には莫大な量の使用済み核燃料が水に浸されただけの状態で保管されているのですから。私たちはいつも「あの程度の事故」に対しては覚悟しておかなければならない。が、地震国での原発の再稼働は、それとは比較にならない重大事故(最悪チェルノブイリの10倍の放射性物質拡散)の可能性に道を拓くということであって、これは絶対に許してはならないことだと思うのです。

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