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2012年12月31日 (月)

ボツになったアフォリズム集(5)

  1. いまでもまだ原発事故の影響を過小評価しようとする人は多い。彼らは今回の事故で直接死んだ人はひとりもいないなどと言う。この程度の放射性物質による汚染は、人体に影響を与えないと言うのである。たとえそれが正しいとしても、彼らには重大な見落としがある。それは人々が「放射性物質は汚い」という観念を抜きがたく持っていることを考慮していないという点だ。スープ鍋の中にゴキブリが1匹飛び込んだら、たとえそれを取り出してもそのスープはもう飲めない。原発事故の影響など大したことないと言う人は、ゴキブリスープを平気で客に出す調理人のようなものだ。
     
  2. 今年とても印象に残ったニュースにこんなのがあった。アメリカのどこかの州で悪食コンテストなるものが開催されて、ゴキブリを大量に食べた人が優勝したのだそうだ。ところがその人は授賞式の直後に倒れ、病院に搬送されたが、そのまま死んでしまったと言う。それがショック死だったのか、何かの毒性のためだったのかは分からないが、大量に摂取してはいけないという点では、ゴキブリも放射性物質も同じである。
     
  3. 原発問題に関して、日本経団連は一貫して再稼働を訴えて政府に圧力をかけている。このまま国内の電力料金が上がり続ければ、製造業の海外移転はさらに加速するだろうという脅しまでかけて。しかし、原発事故を起こした責任は政府だけにあるのではない、東京電力やその調達先の企業にも責任の過半はある筈である。原発事故のあとに、まず経団連がすべきことは、国民への謝罪であったろうと私は思う。
     
  4. 核廃棄物を宇宙に捨てるというアイデアはどうだろう。核燃料を宇宙ロケットに搭載して、太陽に向けて発射するのである。太陽を天然の巨大なゴミ焼却炉と見なす訳だ。これこそ完璧な核廃棄物処理方法である。現在、人工衛星の打ち上げは、平均して95%程度の成功率だから、20回に1回くらいは事故で放射性物質が地上に降り注ぐ可能性はある。しかし、それはリスクを将来世代に押し付けることなく現役世代が引き受けることであり、倫理的にはより優れた方法である。
     
  5. 医学の進歩によって、人間の「生」がこれだけ人工的にコントロールされるようになったのだから、その対にある「死」についてもコントロールする術が確立されなければバランスを失している。私たちはいまだに安らかな自然死というものに対する漠然とした期待を持っているけれども、そんなものは幻想だといい加減気付かなければならない。
     
  6. 生と死をめぐる選択が苦渋に満ちたものであることは当然だ。が、それは法で罰せられるかも知れないから苦渋に満ちている、ということであってはならない。医療における安楽死の法制化は、その是非を論じるべきような問題ではない、法制化は当然のこととして、その内容をこそ論じなければならない。
     
  7. リビングウィルというものを多くの人が誤解している。それは患者の意思を固定するものであってはならない。医療における安楽死については、例外なく患者の〈直近の意思〉を尊重するということが原則でなければならない。重い認知症になる前に尊厳死をさせて欲しいと言っていた人が、実際に認知症になってしまったら、もう尊厳死のことなど言い出さなくなった。たとえリビングウィルが残されていたとしても、そんなものは無効である。認知症になってまで生き続けたくないという人の意見を尊重することは、倫理的に正しいことではない。
     
  8. 苦行であることに価値を見出だすということには、それなりの意味がある。しかし、死んで行こうとする人にまでその原則を当てはめることは意味がない。
     
  9. 尊厳死の法制化というのは、尊厳死を認めて欲しいと訴える患者本人だけでなく、殺人罪に問われる可能性のある医者や家族を救済するための法律でもある。一方、法制化に反対する人たちは、多くの場合、殺人罪に問われる危険性の無い場所に自分たちの論陣を張っている。ここにこの問題における立場による不均衡がある。
     
  10. 生前に自分の葬式のやり方を指示しておいたり、個性的な墓を建てたりする人は多いだろうが、自分の死そのものをデザインする人というのはあまりいない。それは人が死から目をそらしているからだけではない、現代は制度的にも社会通念的にもそれを許さない時代だからだ。まったく馬鹿げたことだと思うのだが、私たちには愛する人たちに看取られて死ぬという自由さえ与えられていないのだ。たまたま臨終の床に家族や友人が居合わせるかどうか、それはまったく運に委ねられている。まったく現代人の「自然死信仰」というものは困ったものだ。
     
  11. 私は消費税を10%に上げることには反対だが、一挙に30%まで上げるという案になら賛成するかも知れない。10%の消費税は、プライマリーバランスを回復するにはまったく不十分であり、単に景気をより一層冷え込ませるだけの結果に終わる公算が高い。一方、30%の消費税は、単に税収を増やすためという目的以上に、社会制度の根本的な変革を前提としており、それは少子高齢化が進むこの国のひとつの選択肢としてあり得ると思うからだ。最近は学者にも政治家にも、そうした大きな構想を語る人が本当に少なくなった。
     
  12. 日本円というのは、稼ぐのは楽ではないけれど、使うのはとても楽なお金だ。つまり、交換において非対称なのである。このことから何故日本円が貯蓄されるばかりで、この国の経済を潤して行かないかということも説明出来る。長く続くデフレ不況の原因も、新興国の安い製品や人件費のせいだけではない、現在の貨幣が価値の交換手段として十分機能していないことが背景にある。このことを理解すれば、「減価する貨幣」というものの優位性がはっきり認識出来るようになる。
     
  13. 現代人は計画的な生活を求められている。逆に言えば、計画的な生活が出来ないような人(生活保護費をギャンブルに注ぎ込んでしまったり、性懲りもなくサラ金で借金を膨らましてしまうような人)は、今日では行政からも見捨てられる運命にある。これは結構きついことだ。歴史を振り返ってみれば、貨幣が発明されて以来ずっと、庶民は日銭を稼ぎながらその日その日を生きて来たのだから。
     
  14. 幸福の市場原理というものを確立しなければならない。そのためには、新しい市場原理を支える新しい通貨というものが発明されなくてはならない。経済の市場原理と幸福の市場原理の違いは、相殺的か相補的かという点にある。競争相手を出し抜くことが善である、そうした市場原理ではもう地球が保たないのである。幸福を追求することが持続性の原理を損なわない、そうした経済に移行しなければ今の閉塞状態は打ち破れない。
     
  15. 自助だとか自己責任だとかいったものが重要であることは認めよう。ただ、それを単なる精神論で論じてはならないと思うのである。むしろそれを実現するための新しい社会保障制度を構想しなければならない。トリクルダウン理論をかざす構造改革派や規制緩和派の人たちは、200万人を超す生活保護受給者をどこに連れて行くつもりなのだろう?
     
  16. 生活保護受給に対する心理的抵抗が少なくなっていることは、この制度の持続可能性という点から見ると脅威だが、受給者の横の連帯を促すためには望ましい変化と言えるかも知れない。そしてそこにこそ制度改革のためのヒントはあるのだ。
     
  17. 生活保護制度を改革するためには、4つの観点を忘れてはならない。①後ろめたさの感情からは自由であること、②それを利用することが特権とならないこと、③受給者が固定化されないこと、④制度がこの国の生産性を阻害しないことの4つである。
     
  18. 現在の生活保護制度の何が一番の問題かと言えば、それはこの制度が「貧乏は恥ずかしいことであり、不幸なことである」という先入観の上に成り立っている点にある。この前提に立つ限り、どんな生活保証制度も持続可能なものとはなり得ない。落語の世界では、貧乏人が結構楽しそうに助け合いながら暮らしているではないか、これは日本人には馴染みの深い風景である。もしもあなたがこれからの時代の社会保障制度を構想するなら、貧乏でもそれなりに幸せに過ごせる民衆の知恵に学んで、それを制度に組み込んで行くことを考えるべきだ。
     
  19. ベーシックインカムが経済界からも歓迎されたように、「人の駅」構想も構造改革派の陣営から歓迎されるかも知れない。何故なら、それは究極の自助装置だからだ。しかし、だからと言って、それを経済格差を助長するものだと警戒する必要は無い。金持ちが貧乏人を見捨てて自分たちだけの幸福を追求するように、我々貧乏人は金持ちお断りの新しいコミュニティを作ってしまおう。
     
  20. TPPを受け入れることのメリットを強調する人の話を聞いていると、日本はむしろアメリカの51番目の州になってしまった方がメリットがあるのではないかと思えて来る。なにしろそうすれば一切の市場障壁が無くなるだけでなく、円高や円安に悩む必要さえ無くなるのだから。
     
  21. 大きな政府か小さな政府かという問題がある。その答えは簡単だ。もしも人類がこの惑星上でこの先もずっと生き延びたいなら、政治や経済を小さな政府に委ねるという選択肢はあり得ない。経済における自由競争が、「神の見えざる手」の導きによって社会的な調和を実現するというのは、資源や環境の制約が無い状況でのみ成り立つ例外的な原則であって、すでに人類の文明はそうした段階をとうに通り過ぎている。持続可能性という観点で考えるなら、大きな政府どころか超国家レベルの〈世界政府〉が必要だろう。むろんこれは資本主義対共産主義などという対立軸とは異なる位相の問題である。
     
  22. 尖閣問題は、それに取り組むことが両国の長い反目の歴史にピリオドを打つためのチャンスだと思えるほど、賢くてそして強い指導者が、たまたま両国に同時に現れた時に、初めて解決可能な問題である。そのチャンスがめぐって来るまでは、棚上げするに若くはないのだ。
     
  23. 憲法を変えるべしという議論はそもそも本末転倒である。まず憲法改正ありきではなく、現行憲法に代わる改正憲法案が国民のあいだで認知され、それが国民の気持ちにしっくり来るものであるなら、その時初めて憲法改正という選択肢が検討されるべきなのだ。自民党の憲法案を読む限り、憲法改正など百年早いと私は言いたい。
     
  24. これもかつて書いたことだが、いまの日本国憲法には歴史的価値があるのだ。もっとはっきり言えば、骨董的価値と言ってもいい。いくら古びて、色褪せても、骨董品は価値を損なわれることがない。それは広島の原爆ドームをペンキで塗り直してはいけないのと同じことだ。
     
  25. お国自慢と言えば、出身県の自慢のことで、東北出身であることや四国出身であることを自己のアイデンティティの一部にしている人は多くはない筈だ。廃藩置県から150年、すでに都道府県というのは私たちの国民意識の一部になっている。 道州制などというものが一朝一夕で根付く訳がない。
     
  26. 私は「一罰百戒」というコトバが大嫌いだ。 つまり「見せしめ」というのが嫌なのだ。それは古い時代の道徳的心性から発するもので、現代にはまったくそぐわないものだ。今日の司法制度は、進化する時代の道徳意識にまったく追いついていない。
     
  27. 功なり名を遂げた人は、近頃の若者にはチャレンジ精神が欠けているなどと言う。しかし、私の見るところ、どんなに消極的に見える人でも、人間はたいていぎりぎりのチャレンジをしている。私たちは子供の頃から、自分に出来ること出来ないことを確認しながら、自分の〈分〉というものをわきまえるよう自分の心を抑える訓練を積んで育つ。思い切った挑戦をして、大きな成功を遂げた少数の人の陰には、失敗して心を病んでしまったり自殺してしまった人もたくさんいる訳で、そうならないためには自分の心の危険信号から注意をそらさないことが重要だ。人生相談などで、「何もせずに後悔するより挑戦して失敗する方がましだ」などと言う人のことを、私は無責任だと思う。
     
  28. 大震災で誰の目にも明らかになった民度の高さが、この国の最も価値ある資産なのだと思う。政治はその資産を最も活かせる国作りを目指すべきだ。
     
  29. もしもこのまま人類が化石燃料に代わるエネルギーを開発出来ないまま衰退して行ったとしたら、そしてそれを地球外の観察者が眺めていたとしたら、非常に滑稽なことのように感じるのではないだろうか? 何故と言うに、この地球という惑星は、中心部に摂氏6000度の熱源を抱えたエネルギーの固まりのような星であって、そのほんの一部でも取り出すことが出来れば、文明がエネルギー不足で衰退するなんてことは考えられないことだから。
     
  30. カーボンニュートラル終末論。化石燃料と比較して、バイオ燃料が環境に優しいと評価されるのは、それがカーボンニュートラルなエネルギーだからだと言われる。つまり燃やした時に放出される二酸化炭素は、植物が大気中から取り込んで固定したものを再び大気中に戻しているだけなので、環境負荷という点では差し引きゼロだと言うのだ。しかし、それを言うなら化石燃料だって太古の植物が大気中の二酸化炭素を取り込んで固定したものであって、それを大気中に放出することも長い目で見ればカーボンニュートラルなのである。真の意味でのカーボンニュートラルが成就するのは、人類がすべての化石燃料を燃やし尽くし、地球の大気が生物の存在しない40億年前の状態に戻った時である。

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コメント

明けましておめでとうございます。
昨年は「生産性・生産効率」を考察の主点に置かれたようですが、
今年は「消費効率」なるものを考えられてはいかがでしょうか。

生産効率という命題で考えると、前提や目的が明確である故にそれを追求するほど人は生きにくくなる。

消費効率という命題で考えるほどに「なぜ?」が生まれてくる。
その「なぜ?」へ答える行為は自分のスタンスを決めていく作業に近いです。

考えのヒントになれば幸いです

投稿: ロシナンテ | 2013年1月 2日 (水) 07時07分

すっかり正月ボケをしてしまいました。今年はどんなテーマに挑んだらよいのか、まだノーアイデアなんです。

「消費効率」ですか。難しそうなテーマですね。「高級レストランで外食するのと、食材を買って来て家で自炊するのとでは、どちらが消費効率が高いか?」――まあ、ネタに困った時のためのテーマ一覧に書き込んでおくことにしましょう。

今年もどうぞお手柔らかに。(笑)

投稿: Like_an_Arrow | 2013年1月 7日 (月) 01時39分

茶化さないほうがいいですよ。
かつてブータンの幸福度指数を取り上げた事と同一線上にある命題ですよ。

そいつを茶化せば、己の主張も茶化してることになりますよ。

投稿: ロシナンテ | 2013年1月 9日 (水) 06時14分

おや、そうでしたか。私は「消費効率」というコトバを使った記憶は無いのですが、これは私が名付けた「幸福の市場原理」というものと近縁にあたる概念ということですね。それなら分かる気がします。別に茶化しているつもりはありませんよ。

「幸福の市場原理」というコトバも、ネーミングは気に入っているのですが、まだ実体の無い概念です。金融資本主義がおそろしいほどの猛威を振るっている時代に、そういうものが必要だという強い直覚はあるのですが、うまく考えがまとまりません。

投稿: Like_an_Arrow | 2013年1月11日 (金) 00時44分

参考になります。
また遊びにきます。

投稿: starfield | 2013年1月15日 (火) 20時22分

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