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2012年12月31日 (月)

ボツになったアフォリズム集(5)

  1. いまでもまだ原発事故の影響を過小評価しようとする人は多い。彼らは今回の事故で直接死んだ人はひとりもいないなどと言う。この程度の放射性物質による汚染は、人体に影響を与えないと言うのである。たとえそれが正しいとしても、彼らには重大な見落としがある。それは人々が「放射性物質は汚い」という観念を抜きがたく持っていることを考慮していないという点だ。スープ鍋の中にゴキブリが1匹飛び込んだら、たとえそれを取り出してもそのスープはもう飲めない。原発事故の影響など大したことないと言う人は、ゴキブリスープを平気で客に出す調理人のようなものだ。
     
  2. 今年とても印象に残ったニュースにこんなのがあった。アメリカのどこかの州で悪食コンテストなるものが開催されて、ゴキブリを大量に食べた人が優勝したのだそうだ。ところがその人は授賞式の直後に倒れ、病院に搬送されたが、そのまま死んでしまったと言う。それがショック死だったのか、何かの毒性のためだったのかは分からないが、大量に摂取してはいけないという点では、ゴキブリも放射性物質も同じである。
     
  3. 原発問題に関して、日本経団連は一貫して再稼働を訴えて政府に圧力をかけている。このまま国内の電力料金が上がり続ければ、製造業の海外移転はさらに加速するだろうという脅しまでかけて。しかし、原発事故を起こした責任は政府だけにあるのではない、東京電力やその調達先の企業にも責任の過半はある筈である。原発事故のあとに、まず経団連がすべきことは、国民への謝罪であったろうと私は思う。
     
  4. 核廃棄物を宇宙に捨てるというアイデアはどうだろう。核燃料を宇宙ロケットに搭載して、太陽に向けて発射するのである。太陽を天然の巨大なゴミ焼却炉と見なす訳だ。これこそ完璧な核廃棄物処理方法である。現在、人工衛星の打ち上げは、平均して95%程度の成功率だから、20回に1回くらいは事故で放射性物質が地上に降り注ぐ可能性はある。しかし、それはリスクを将来世代に押し付けることなく現役世代が引き受けることであり、倫理的にはより優れた方法である。
     
  5. 医学の進歩によって、人間の「生」がこれだけ人工的にコントロールされるようになったのだから、その対にある「死」についてもコントロールする術が確立されなければバランスを失している。私たちはいまだに安らかな自然死というものに対する漠然とした期待を持っているけれども、そんなものは幻想だといい加減気付かなければならない。
     
  6. 生と死をめぐる選択が苦渋に満ちたものであることは当然だ。が、それは法で罰せられるかも知れないから苦渋に満ちている、ということであってはならない。医療における安楽死の法制化は、その是非を論じるべきような問題ではない、法制化は当然のこととして、その内容をこそ論じなければならない。
     
  7. リビングウィルというものを多くの人が誤解している。それは患者の意思を固定するものであってはならない。医療における安楽死については、例外なく患者の〈直近の意思〉を尊重するということが原則でなければならない。重い認知症になる前に尊厳死をさせて欲しいと言っていた人が、実際に認知症になってしまったら、もう尊厳死のことなど言い出さなくなった。たとえリビングウィルが残されていたとしても、そんなものは無効である。認知症になってまで生き続けたくないという人の意見を尊重することは、倫理的に正しいことではない。
     
  8. 苦行であることに価値を見出だすということには、それなりの意味がある。しかし、死んで行こうとする人にまでその原則を当てはめることは意味がない。
     
  9. 尊厳死の法制化というのは、尊厳死を認めて欲しいと訴える患者本人だけでなく、殺人罪に問われる可能性のある医者や家族を救済するための法律でもある。一方、法制化に反対する人たちは、多くの場合、殺人罪に問われる危険性の無い場所に自分たちの論陣を張っている。ここにこの問題における立場による不均衡がある。
     
  10. 生前に自分の葬式のやり方を指示しておいたり、個性的な墓を建てたりする人は多いだろうが、自分の死そのものをデザインする人というのはあまりいない。それは人が死から目をそらしているからだけではない、現代は制度的にも社会通念的にもそれを許さない時代だからだ。まったく馬鹿げたことだと思うのだが、私たちには愛する人たちに看取られて死ぬという自由さえ与えられていないのだ。たまたま臨終の床に家族や友人が居合わせるかどうか、それはまったく運に委ねられている。まったく現代人の「自然死信仰」というものは困ったものだ。
     
  11. 私は消費税を10%に上げることには反対だが、一挙に30%まで上げるという案になら賛成するかも知れない。10%の消費税は、プライマリーバランスを回復するにはまったく不十分であり、単に景気をより一層冷え込ませるだけの結果に終わる公算が高い。一方、30%の消費税は、単に税収を増やすためという目的以上に、社会制度の根本的な変革を前提としており、それは少子高齢化が進むこの国のひとつの選択肢としてあり得ると思うからだ。最近は学者にも政治家にも、そうした大きな構想を語る人が本当に少なくなった。
     
  12. 日本円というのは、稼ぐのは楽ではないけれど、使うのはとても楽なお金だ。つまり、交換において非対称なのである。このことから何故日本円が貯蓄されるばかりで、この国の経済を潤して行かないかということも説明出来る。長く続くデフレ不況の原因も、新興国の安い製品や人件費のせいだけではない、現在の貨幣が価値の交換手段として十分機能していないことが背景にある。このことを理解すれば、「減価する貨幣」というものの優位性がはっきり認識出来るようになる。
     
  13. 現代人は計画的な生活を求められている。逆に言えば、計画的な生活が出来ないような人(生活保護費をギャンブルに注ぎ込んでしまったり、性懲りもなくサラ金で借金を膨らましてしまうような人)は、今日では行政からも見捨てられる運命にある。これは結構きついことだ。歴史を振り返ってみれば、貨幣が発明されて以来ずっと、庶民は日銭を稼ぎながらその日その日を生きて来たのだから。
     
  14. 幸福の市場原理というものを確立しなければならない。そのためには、新しい市場原理を支える新しい通貨というものが発明されなくてはならない。経済の市場原理と幸福の市場原理の違いは、相殺的か相補的かという点にある。競争相手を出し抜くことが善である、そうした市場原理ではもう地球が保たないのである。幸福を追求することが持続性の原理を損なわない、そうした経済に移行しなければ今の閉塞状態は打ち破れない。
     
  15. 自助だとか自己責任だとかいったものが重要であることは認めよう。ただ、それを単なる精神論で論じてはならないと思うのである。むしろそれを実現するための新しい社会保障制度を構想しなければならない。トリクルダウン理論をかざす構造改革派や規制緩和派の人たちは、200万人を超す生活保護受給者をどこに連れて行くつもりなのだろう?
     
  16. 生活保護受給に対する心理的抵抗が少なくなっていることは、この制度の持続可能性という点から見ると脅威だが、受給者の横の連帯を促すためには望ましい変化と言えるかも知れない。そしてそこにこそ制度改革のためのヒントはあるのだ。
     
  17. 生活保護制度を改革するためには、4つの観点を忘れてはならない。①後ろめたさの感情からは自由であること、②それを利用することが特権とならないこと、③受給者が固定化されないこと、④制度がこの国の生産性を阻害しないことの4つである。
     
  18. 現在の生活保護制度の何が一番の問題かと言えば、それはこの制度が「貧乏は恥ずかしいことであり、不幸なことである」という先入観の上に成り立っている点にある。この前提に立つ限り、どんな生活保証制度も持続可能なものとはなり得ない。落語の世界では、貧乏人が結構楽しそうに助け合いながら暮らしているではないか、これは日本人には馴染みの深い風景である。もしもあなたがこれからの時代の社会保障制度を構想するなら、貧乏でもそれなりに幸せに過ごせる民衆の知恵に学んで、それを制度に組み込んで行くことを考えるべきだ。
     
  19. ベーシックインカムが経済界からも歓迎されたように、「人の駅」構想も構造改革派の陣営から歓迎されるかも知れない。何故なら、それは究極の自助装置だからだ。しかし、だからと言って、それを経済格差を助長するものだと警戒する必要は無い。金持ちが貧乏人を見捨てて自分たちだけの幸福を追求するように、我々貧乏人は金持ちお断りの新しいコミュニティを作ってしまおう。
     
  20. TPPを受け入れることのメリットを強調する人の話を聞いていると、日本はむしろアメリカの51番目の州になってしまった方がメリットがあるのではないかと思えて来る。なにしろそうすれば一切の市場障壁が無くなるだけでなく、円高や円安に悩む必要さえ無くなるのだから。
     
  21. 大きな政府か小さな政府かという問題がある。その答えは簡単だ。もしも人類がこの惑星上でこの先もずっと生き延びたいなら、政治や経済を小さな政府に委ねるという選択肢はあり得ない。経済における自由競争が、「神の見えざる手」の導きによって社会的な調和を実現するというのは、資源や環境の制約が無い状況でのみ成り立つ例外的な原則であって、すでに人類の文明はそうした段階をとうに通り過ぎている。持続可能性という観点で考えるなら、大きな政府どころか超国家レベルの〈世界政府〉が必要だろう。むろんこれは資本主義対共産主義などという対立軸とは異なる位相の問題である。
     
  22. 尖閣問題は、それに取り組むことが両国の長い反目の歴史にピリオドを打つためのチャンスだと思えるほど、賢くてそして強い指導者が、たまたま両国に同時に現れた時に、初めて解決可能な問題である。そのチャンスがめぐって来るまでは、棚上げするに若くはないのだ。
     
  23. 憲法を変えるべしという議論はそもそも本末転倒である。まず憲法改正ありきではなく、現行憲法に代わる改正憲法案が国民のあいだで認知され、それが国民の気持ちにしっくり来るものであるなら、その時初めて憲法改正という選択肢が検討されるべきなのだ。自民党の憲法案を読む限り、憲法改正など百年早いと私は言いたい。
     
  24. これもかつて書いたことだが、いまの日本国憲法には歴史的価値があるのだ。もっとはっきり言えば、骨董的価値と言ってもいい。いくら古びて、色褪せても、骨董品は価値を損なわれることがない。それは広島の原爆ドームをペンキで塗り直してはいけないのと同じことだ。
     
  25. お国自慢と言えば、出身県の自慢のことで、東北出身であることや四国出身であることを自己のアイデンティティの一部にしている人は多くはない筈だ。廃藩置県から150年、すでに都道府県というのは私たちの国民意識の一部になっている。 道州制などというものが一朝一夕で根付く訳がない。
     
  26. 私は「一罰百戒」というコトバが大嫌いだ。 つまり「見せしめ」というのが嫌なのだ。それは古い時代の道徳的心性から発するもので、現代にはまったくそぐわないものだ。今日の司法制度は、進化する時代の道徳意識にまったく追いついていない。
     
  27. 功なり名を遂げた人は、近頃の若者にはチャレンジ精神が欠けているなどと言う。しかし、私の見るところ、どんなに消極的に見える人でも、人間はたいていぎりぎりのチャレンジをしている。私たちは子供の頃から、自分に出来ること出来ないことを確認しながら、自分の〈分〉というものをわきまえるよう自分の心を抑える訓練を積んで育つ。思い切った挑戦をして、大きな成功を遂げた少数の人の陰には、失敗して心を病んでしまったり自殺してしまった人もたくさんいる訳で、そうならないためには自分の心の危険信号から注意をそらさないことが重要だ。人生相談などで、「何もせずに後悔するより挑戦して失敗する方がましだ」などと言う人のことを、私は無責任だと思う。
     
  28. 大震災で誰の目にも明らかになった民度の高さが、この国の最も価値ある資産なのだと思う。政治はその資産を最も活かせる国作りを目指すべきだ。
     
  29. もしもこのまま人類が化石燃料に代わるエネルギーを開発出来ないまま衰退して行ったとしたら、そしてそれを地球外の観察者が眺めていたとしたら、非常に滑稽なことのように感じるのではないだろうか? 何故と言うに、この地球という惑星は、中心部に摂氏6000度の熱源を抱えたエネルギーの固まりのような星であって、そのほんの一部でも取り出すことが出来れば、文明がエネルギー不足で衰退するなんてことは考えられないことだから。
     
  30. カーボンニュートラル終末論。化石燃料と比較して、バイオ燃料が環境に優しいと評価されるのは、それがカーボンニュートラルなエネルギーだからだと言われる。つまり燃やした時に放出される二酸化炭素は、植物が大気中から取り込んで固定したものを再び大気中に戻しているだけなので、環境負荷という点では差し引きゼロだと言うのだ。しかし、それを言うなら化石燃料だって太古の植物が大気中の二酸化炭素を取り込んで固定したものであって、それを大気中に放出することも長い目で見ればカーボンニュートラルなのである。真の意味でのカーボンニュートラルが成就するのは、人類がすべての化石燃料を燃やし尽くし、地球の大気が生物の存在しない40億年前の状態に戻った時である。

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2012年12月18日 (火)

第2次安倍政権に期待すること

 選挙が終わりました。大方の予想どおりと言うか、予想をさらに超えて自民党が単独過半数を取るという結果になりました。何故この時期に、原発再稼働・消費税増税・憲法改正といった政策を臆面もなく公約に掲げる政党に政権を渡すという選択があり得るのだろう? まったく悪い夢を見ているようです。今回は、世論に脱原発の大きなうねりがあったので、社民党や未来の党などがそれなりの議席数を確保するのではないかと思っていたのですが、まったく読みが外れました。まあ、小沢新党を母体とする未来の党が有権者の支持を集められなかったのは想定内だったとしても、そのとばっちりを一身にかぶってしまったのが社民党だったのではないかと思います。本来なら社民党を支持する層の票が、今回は脱原発というスローガンに乗せられて未来の党に流れた可能性があるからです(実を言えば、私も流されてしまった一人だったのですが…)。今回の選挙は、日本の将来の選択肢から、リベラル路線が根絶やしにされてしまったという点で、歴史に記録されるべき選挙だったのかも知れません。

 今回も小選挙区では、各政党の得票率と獲得議席率とのあいだに大きな乖離がありました。さすがにここまで毎回同じことが繰り返されると、小選挙区制そのものの欠陥を指摘する声もあちこちで聞かれるようになりました。個人的には小選挙区なんてやめてしまって、全国区での非拘束比例代表制ひとつにしてしまえばいいと考えているのですが(そうすれば1票の格差問題なども起こりませんし、政党支持率がそのまま議席数に反映されることになります)、小選挙区制は大政党に有利だという現実がある以上、そのような選挙制度改革は国会のなかからは実現しようがないのです。まったく馬鹿げた話だと思います。今回の小選挙区での投票結果を見れば、自民党が43%の得票率で79%もの議席獲得率を挙げたのに対し、民主党は22.8%の得票率でわずか9%の議席獲得率だったのだそうです。確かに民主党は得票率を下げたけれども、自民党と9倍の差がついた訳ではない。日本維新の会は得票率11.6%で議席獲得率4.7%、日本未来の党は得票率5.0%で議席獲得率0.7%、日本共産党に至っては、得票率は7.9%あったにもかかわらず議席はゼロです(本来なら定数300の7.9%で、23議席くらい獲得しても良かった筈です)。私はひとりの有権者として、今回の選挙の結果を受け入れることが出来ません。公正に実施された選挙の結果には従うべきだというのはその通りですが、そもそも選挙制度そのものが公正ではないのだから仕方がない。もしも選挙の違憲性ということを言うなら、1票の格差よりもこちらを問題にしなければならないと思います。

 第1次安倍政権の時代にも、私はこのブログでずいぶん批判的な記事を書いたものでした。あの頃よりもさらに右傾化の度合いを強めている次期政権には、何の期待も持っていないと言いたいところですが、実はひとつだけ期待していることがあります。それは安倍さんが選挙期間中から積極的な金融緩和策に言及していた点です。インフレターゲットだとかリフレ政策と呼ばれるものですね。いまでも構造改革派だとか規制緩和派と呼ばれる人たちのあいだには、リフレ政策を目の敵にしている人が多いようですが、私はこの対立は無意味なものだと思っています。「失われた30年」に突入しようかといういまの日本には、リフレ政策も規制緩和もどちらも必要なものだろうと当たり前に考えているのです。正直に言って、次期首相と目される自民党総裁の口から、日銀法の改正なんてコトバが飛び出して来るとは思ってもいなかった。これに対して野田さんは、財政規律を乱すものだなんて常套句で反論を返していました。経済通でもない二人の党首がそんな分かったふうな政策論を戦わせるのも滑稽なことですが、考えてみればここにも奇妙なねじれがあります。ばりばりの保守本道を行く安倍さんが非伝統的な(異端の)金融政策を主張して、どちらかと言えば中道路線と目されている野田さんが古くさい財政規律を持ち出すのですから。こういった重要な政策についてすら、政党の基本方針として明確に提示されておらず、単なる政争の具として利用されているだけなのです。

 それがたとえ消費税増税のための伏線だったとしても、私は第2次安倍政権による大胆なリフレ政策に期待します。つまり日銀が直接(的に)国債を引き受けて、民間銀行ではなく政府口座を通して日本円を大量発行するという政策のことです。経済評論家のなかには、これに反対する人も少なくありません。彼らは別に財政規律のことを心配している訳ではなく、大規模なリフレ政策によって制御不能な悪性インフレが引き起こされるのではないかと心配しているのです。もしも日銀法が改正されて、政府の命ずるままに日銀が国債の引き受けを行なうような仕組みになれば、ハイパーインフレが起こる可能性も否定出来ないと思います。しかし、政府と日銀が協調してインフレ目標を達成するという範囲内で日本円の発行を行なうなら、マイルドなインフレは可能な筈です。日本は20年以上もデフレ不況が続いていて、税収は増えず、政府の借金ばかりが膨らみ続けるという状況が続いています。日銀は世界中の中央銀行に先駆けてゼロ金利に踏み込んだし、積極的な為替介入だって行なって来た。もう万策尽きたと言うべきです。であるならば、最後の奥の手として積極的なリフレ政策(シニョリッジ政策と言っても同じです)に賭けてみるしかないではないか。海外のエコノミストや経済紙は、これに対して批判的な論評をしているところが多いようですが、それは欧米各国にとって日本がデフレから脱却してもらっては困るからでしょう。実を言えば、軒並み財政赤字を抱える各国の政府のなかで、この政策を実行出来るのは日本政府だけだと言ってもいいのです。何故なら日本だけが、政府の莫大な借金を、国民の高い貯蓄率で担保出来るからです。

 日銀による国債引き受けを許すかどうか、それは経済学の専門家が議論することで結論が出るような問題ではありません。むしろこれは私たち国民の「覚悟」の問題なのだと私は思っています。政府と日銀がお札を刷っても、それでこの国の富が増える訳ではない、そんなことは素人にだって分かります。リフレ政策というのは、端的に言って、膨らみすぎた政府の借金を国民が肩代わりする、一種の徳政令のことです。そのことを正しく認識した上で、それでもこの政策はいまこの国に必要なものなのだというのが以前からの私の主張です。というのも、膨らみすぎた政府の借金は、最終的には私たち国民が背負うしかないものだからです。それを将来世代へのツケとして回さないで、私たちの世代で借金の精算をしておこうというのがリフレ政策の隠された本質なのです。そういう視点でこの問題を論ずる人がいないことが不思議で仕方ない。だから私は安倍政権による金融緩和政策には賛成するのですが、それを積極的な財政支出と組み合わせた景気刺激策(国土強靭化計画とか言うんでしたっけ?)として計画することには反対するのです。政府・日銀によって発行された追加マネーは、莫大に膨れ上がった国債の償還と利払いに限定して使用されるべきです。それでも景気刺激策としては十分機能する筈です。国債の償還と利払いに使われた日本円は、いずれにしても生きたマネーとして市場に出て行くか、または再度国債に投資されて国庫を潤すのですから。日銀と協調して積極的な国債の償還と利払いを行なうこと、これをぜひ第2次安倍内閣の「1内閣1仕事」にしてもらいたいものです。

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2012年12月 9日 (日)

「マイナス投票」の可能性について

 毎週楽しみにしている小田嶋隆さんのエッセイで、選挙の話題が取り上げられていました。小田嶋さんはどうもあまり模範的な有権者ではないようで、これまでの人生で有効な投票をしたことが一度も無いなんて驚愕のカミングアウト(笑)をしている。まあ、選挙権というのは、その名のとおり国民の権利ではあっても、決して義務ではないのですから、目くじらを立てるようなことでもないでしょう。面白いと思ったのは、そのなかで「マイナス投票」というアイデアについて触れられていた点です。これは私も以前から考えていたことで、確か過去の記事で取り上げたこともあったと思います(これです)。今回、もう一度このアイデアについて考えてみたいと思います。どうせこの時期は、選挙以外のことについてはあまりアタマが働きそうもありませんから。

 マイナス投票というのは、選挙で当選させたくない人に反対票を投じられるという制度です。例えば候補者の名前を書く小選挙区での投票で、投票用紙にマルとバツが印刷してあって、当選させたい候補者をマルの欄に、落選させたい候補者をバツの欄に書くといったイメージのものです。票の重みづけを、マルをプラス2点、バツをマイナス1点としてカウントすれば、結果としてトータルでの投票数は投票者数とイコールになります。もしもマイナス票の威力を弱めたければ、プラス1.5とマイナス0.5という配点にしてもいいし、逆にプラス3点とマイナス2点というようにすれば、相対的にマイナス票の影響力を大きくも出来る。ここは議論とシミュレーションを重ねて、最適な重み付けを探って行けばいいのです。現在の投票制度は、マイナス点の配分がゼロに固定されたプラス点のみの方式と見ることも出来ます。つまり候補者の信任権はあるけれども拒否権は無い方式という意味です。これが選挙制度として最適なバランスのものであるかどうかは、もう一度よく考え直してみる必要があります。

 もしもここで私が数式を使って「当選者が1人しかいない小選挙区の選挙では、最も死に票の出ない信任票と拒否票の組み合わせはプラス1.7対マイナス0.7である」といったことを数学的に証明出来ればかっこいいのですが、出来ません(笑)。ただ、自分のような文科系アタマで考えても、投票制度というものは複雑にすればするほど死に票が出にくくなるということは言えそうな気がします。自分の支持する候補を当選させることは出来なかったけれども、どうしても当選させたくない候補を落選させることには成功した、それも一種の有効票とカウントすれば、有効票の幅が広がるのです。いたずらに選挙制度を複雑にして何のメリットがあるんだという批判もあるかと思いますが、実は複雑化のメリットというのはあるんです。いまの日本のように多政党乱立の複雑な政治状況になると、有権者の1票に籠める思いも複雑なものにならざるを得ない。それを受け止めることが出来る投票制度であることが望ましいので、昔ながらの「当選させたい人に1票」というだけの単純な制度では、もはや有権者のニーズに合わなくなっているとも考えられます。もしもいまマイナス投票制度というものを導入したら、そこにはどんなメリットがあるか、思い付くまま挙げてみます。

1.政策本位の投票が可能になる

 簡単な例を挙げましょう。ある選挙区に5人の候補者がいて、そのうち1人だけが原発推進派で残りの4人が原発反対派だったとします。その選挙区の有権者の7割が原発反対派だったとしても、票が多党に分散されてしまえば、推進派の候補者が当選する可能性は大いにあります(今回の衆院選で起こりそうなことです)。この時、信任票だけでなく不信任票を投じることが出来れば、その候補者は落選するでしょう。これは落選すべくして落選するのです。何故って、7割の有権者が原発に反対しているのだから。これは正当なことだと思います。特に小選挙区制のもとでは、似たような政策を持った政党が並立すればするほど、その政策は政治に反映されなくなるという矛盾がある。そんな時に投票で拒否権を表明出来れば、より公平に民意を政策に反映出来るのではないかということです。これは1回の投票で2段階の選別が行なわれるということでもあります。まず不信任票で賛成出来ない政策の候補者を振り落とし、信任票で似たような政策を掲げる候補者の中からより信任したい人を選び出すという、2つの意思を1枚の投票用紙で表現することが出来るのです。これはまさに今日の有権者が求めていることだと思います。現行の選挙制度では、例えばリベラル派はリベラル派同士で、保守派は保守派同士で足を引っ張り合うということが頻繁に起こっている筈です。

2.ポピュリズムに対抗するツールになる

 衆愚制なんてコトバは使いたくありませんが、とにかくひとりの有権者として腹立たしいのは、政治の世界で何の実績も無い芸能人や著名人が易々と選挙に勝ってしまうことです。もちろんタレント議員がすべてダメだと言いたい訳ではありません。しかし、現在の選挙制度のもとでは、とにかく有名であればたとえそれが悪名であろうが選挙には有利なのです。これでは真面目に地道に政治活動を行なって来た候補者にとってはたまらない。私たち有権者としても、この傾向は良くないと分かっているのですが、どうしようもないのです。もしもマイナス投票というものを、有権者の意識の低い国で実施すれば、それは却って衆愚制に輪をかけるものになってしまうかも知れない(マスコミ主導のネガティブ・キャンペーンが大々的に行なわれるでしょう)。でも、日本の有権者はもう十分にマイナス投票を使いこなせるレベルに達していると私は思います。劇薬には違いありませんが、ポピュリズムに対抗する有効なツールになり得るということです。これは例えば、ポピュリズムの権化のような人物を3期連続で都知事に選んでしまった東京都民なら、実感をもって同意してもらえることではないでしょうか?

3.選挙におけるフィードバック・メカニズムの進化

 今週の読者投稿川柳にこんな句がありました、「投票に行く気が失せる予想数」。これも最近の傾向だと思うのですが、新聞各社は選挙前になると大規模な聞き取り調査を行なって、それをもとに選挙結果の予想を詳細に発表するようになりました。またこれが当たる訳です。そうすると川柳にあるように、もう投票所に行く気も失せてしまう。選挙前から結果は出ているのですから。マスコミ各社は、自分たちの予想の正確さを誇るより、それによって投票率を下げているという現実にもっと自覚的であって欲しい。しかし、事前予想を公表することを禁止するなんてことは現実的ではないし、正しいことでもないでしょう。私はむしろ、マスコミの予想を利用して有権者が自分の投票戦略を変えるようなことが一般化すればいいと思っています。例えば、個人的にはA候補に投票したいのだが、予想ではこの人に当選の可能性はないので、セカンドベストなB候補に投票するとういうような投票行動を指します。たぶんこれには反撥を感じる人もいるだろうと思います。そんなひねくれた投票をされたのでは、却って選挙結果が歪められるとか言って。が、それこそステレオタイプな衆愚制の構図を押し付けようとするものです。マスコミが世論を誘導しようとしているなら、有権者はその逆手を取ってそれを利用させてもらう(私はこれを「投票2.0」と名付けたい)。経済の分野では、よく株価はすべてを織り込み済みだと言いますが、「私の投票はすべてを織り込み済みです」というのが、投票2.0を目指す人の合言葉になるのです。

4.投票率が上がる

 なんと言っても、マイナス投票が可能になると、これまで投票所に足が向かなかった人たちを選挙に駆り出すことが出来るようになる、これが最大のメリットでしょう。選挙に行かない(行っても有効票を投じない)と公言している小田嶋さんですら、マイナス投票が出来るなら選挙に行ってもいいと言っている。今回の選挙でも、投票率は低迷するだろうと予想されています。私たちにとって関心の高い政治課題が多いのに、何故投票率が上がらないかと言えば、支持したい政党や候補者が見当たらないからでしょう。でも、そんな人にも「こいつだけは当選させたくない」という候補者はいる筈です。その思いを投票にぶつけられるなら、これは魅力的なことに違いない。現代は政治不信の時代だと言われます。しかし、考えてみれば、政治不信の時代になればなるほど投票率が下がるというのは、不幸なジレンマです。政治不信というのは、無関心とは違います。それは鋭い政治批判であり、国民の政治的意識の高さを表すものだとも言えるからです。これを無駄に放置しておくことはもったいない。日本の政治がいつまで経っても閉塞状態を抜け出せない理由は、案外そこにあるのではないかという気がします。マイナス投票によって、いまの政治に対する潜在的な批判票を掘り起こすことが出来れば、「民高政低」のいまの状況に終止符を打ち、国民の民度にふさわしい政治が実現するかも知れないのです。

 ということで、マイナス投票のメリットについて考察して来ましたが、もちろんそこにはデメリットもあるだろうと思います。例えば、マイナス票が恐いので、候補者が明確な公約を打ち出さなくなるとか、対立候補に対するネガティブ・キャンペーンが激しくなって、選挙運動の品格が落ちるとかいったことならあるかも知れない。しかし、それらはすべて現行の選挙制度と比較した場合のトレードオフの問題であって、マイナス票の重み付けを変えることで最適なトレードオフを探るという健全な調整過程のなかで自然に解消される問題だとも考えられます。端的に言って、現行の選挙制度は、国民の政治意識が進化するのに合わせた進化の仕組みを内包していないのです。選挙制度の問題と言えば、1票の格差問題ばかりがクローズアップされますが、そんなものは氷山の一角に過ぎない。有権者の多くは、いまの選挙制度に漠然とした不満を持っている筈です。その不満がどこから来るのかをこそ考えなければならないので、マイナス投票というアイデアは、そのための重要なヒントを与えてくれるものだと私は考えるのです。

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2012年12月 2日 (日)

脱原発の種を蒔こう!

 難しいテーマにのめり込んでいるあいだに、世間がだいぶ騒がしくなって来ました。野田総理の突然の解散宣言で、まさかの年内選挙。都知事を辞職した石原氏と大阪市長の橋下氏が連携したかと思ったら、袖にされた河村名古屋市長が亀井静香氏と組んで新党を結成したり、国民新党や民主党を離党した女性議員が中心になって緑の党を旗揚げしたり、滋賀県知事の呼びかけに応じて小沢一郎氏率いる一派が脱原発政党に合流したり、12月16日の投票日に向けて、政界はてんやわんやの状況です。まだまだこの国の政治の混迷はこの先も続くのかと思うとげんなりしますが、いま以上に政治が悪くなることはあるまいと達観して見れば、有権者にはなかなか面白い見世物だとも言えます。めまぐるしい離合集散劇のなかで、それぞれの役者がどう振る舞うか、観客は息を殺して見つめています。

 今回の選挙の争点は、消費税の増税やTPPへの参加をどうするかといった問題よりも、これからこの国が脱原発に向けて舵を切れるかどうかという一点にあると見ます。消費税やTPPは重要な問題ではあっても、所詮は一時の国内問題に過ぎません。いや、脱原発だって国内問題には変わりありませんが、資源に乏しい日本がもしも原発を卒業して代替エネルギーにシフトすることが出来れば、そのことが世界に与える影響というのは小さなものではない筈です。もしもそれが経済合理性を備えた転換であるなら、これからの世界の向かう方向を日本が身をもって示すことになる。ほとんど人類史的なエポックを画す重要な選挙だと言っても過言ではないのです(いや、過言だな。笑)。反「脱原発」派の人たちは、原発が無くなれば電力料金が上がって、日本はますます国際競争力を失うと言います。そんなのは近視眼的な見方に過ぎません。火力発電の比率が高まって、電力料金が上がるのはむしろ好ましいことなのです。何故なら、そのことで代替エネルギーの開発が加速される筈だから。ものごとにはすべて表と裏があります。災いを転じて福とするのも人間の知恵です。福島の事故があったおかげでこの国は大きな方向転換を果たすことが出来た、そう回想される日が来ることを心に思い描いて、私たち脱原発派の有権者は投票所に向かいます。

 ほんとのことを言えば、私自身は脱原発派というより、国内のすべての原発の即時廃炉を求めたい反原発派なのです。これは以前の記事にも書いたことですが、動いている原発というのはほんとうに危ないんです。福島のような事故を二度と起こしてはならないとみんなが言うけれども、それではまだ認識が甘いと思う。福島の事故なんて、原発事故としては大したものではなかったのです。とにもかくにも地震の直後に原子炉は止まったのですから。怖いのは稼働中の原発を直下型地震や断層亀裂が襲って、原子炉が暴走してチェルノブイリ型の事故になった場合です。日本のどの原発にも使用済み核燃料が大量に貯蔵されていますから、事故の影響はチェルノブイリをはるかに超えたものになる。私たちが福島の事故から学べる一番の教訓は、「福島は不幸中の幸いだった」ということです。今回の選挙では、嘉田滋賀県知事を代表に据えた日本未来の党でも、みどりの風でも、新党日本でも、みんなの党でも、新党大地でも、老舗の社民党でも共産党でもどこでもいい、原発再稼働を体を張って阻止してくれそうな政党・候補者に一票を投じたいと思います。民・自・公の議員のなかからは、選挙目当てで脱原発を掲げているだけの野合だという批判の声も聞こえて来ます。いいじゃないですか、脱原発政党は今回の選挙で政権を取ろうとしている訳ではないのです。その他の政策で一致していなくても、原発政策で一致団結してくれるなら、脱原発派の有権者としてはそれで十分です。

 日本未来の党では10年後の原発廃止を目指すのだそうです。ということは、10年間は再稼働する原発もあるということですよね? 賛成出来ません。10年後にこの党が存続している可能性なんてほとんどゼロじゃないですか。まず公約として掲げるべきなのは大飯原発の即時停止、そして国内54基の原発の廃炉に向けた工程表を引くことです。しかし、公示日を2日後に控えて、いまさらそんな注文をしても手遅れです。ここは私たち自身の投票に向けた戦略を考えることの方が大事ですね。私は今回の選挙は政権の選択でも政策の選択でもなく、将来のための種蒔きの選挙だと思っています。つまり、どれだけたくさんの脱原発派の議員を国会に送り込めるかということです。おそらく選挙後にも政界再編の動きは収まることはないでしょう。たとえすぐに日本未来の党が分裂してしまったとしても、そこに所属していた脱原発派の議員は最長4年間は国会に留まる訳です。蒔かれた種がすべて枯れてしまうということにはならない。今回の選挙では自民党が第一党に返り咲いて、原発再稼働に向けて政策転換するのはほぼ確実ですから、せめてそれに対抗出来る勢力が国会内で結集出来るよう、布石を打っておく必要があるのです。この3年間で、私たちは政党のマニフェストなんてものがいかに信用ならないかを学びました。やはり有権者としては、政党で選ぶのではなく、地元の選挙区の候補者ひとりひとりをよく見て選ばなければならないということです。今回、脱原発政党に鞍替えした議員のなかには、世論の風を見て「にわか脱原発派」をかたっているだけの人もいる筈です。シロアリを退治すると言いながら、当人がシロアリだったというような人物を選ぶことだけは避けなければならない。

 安倍自民党が単独過半数を取るのか、維新の会と連立するのか分かりませんが、次の政権はかつてないほど急進的な右翼政権になることが予想されます。かつて自民党が安定政権を築いていた時代には、与党の内部にも中道派やリベラルに近い考えを持つ人たちがいて、バランスの取れた政権運用が成り立っていたと思います。それが戦後半世紀以上に亘って自民党が政権を担って来られた一番の理由でしょう。決して一党独裁体制だった訳ではないのです。しかし、いまの自民党にそのようなバランス感覚を求めてもおそらく無理です。いまの我が国には、一党でそのようなふところの広さと言うか、層の厚さを持った政党は存在しない。それは私たち有権者が、政権交代のある政治を選択したことの当然の結果でもあるのです。国民のなかにはかつての自民党政権を懐かしむ気持ちもあると思いますが、もうあそこには帰れないことは自覚しなければなりません。民主党がダメだった以上、それに代わる第二極(第三極ではないですよ)がどうしても必要だということです。その対立軸としての脱原発というのは、とても分かりやすい構図です。――実を言えば、私は今回の選挙では何か「どえらいこと」が起こるのではないかという予感がしているのです。それは何かと言うと、脱原発ということを軸として、これまではサイレントマジョリティだった「女性票」が選挙の帰趨を決するのではないかということです。世の男どもは、福島の事故がどれほどこの国の母親たちに大きな衝撃を与えたか、そのことに無頓着過ぎる。選挙の結果が出れば、いやでもそれを思い知ることになるだろうと、(多少の個人的希望も交えながら)予想します。

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