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2012年8月26日 (日)

「少年の有期刑引き上げ」に反対する

 いつものように通勤電車のなかで朝刊を開いたら、「少年の有期刑引き上げ」という見出しが目に飛び込んで来ました。金曜日の朝日新聞1面に載っていた記事です。内容は、法務省が少年犯罪に対する有期刑の最高年数を引き上げる検討をしているというものでした。「早ければ9月にも法相が法制審議会に諮問し、来年の通常国会に改正案を提出する方向」なのだそうです。日本では18歳未満の少年の犯罪に対して、成人の犯罪よりも刑を軽くするよう法律で定めています(当然のことですね)。成人なら死刑に相当する犯罪であれば無期刑に、無期刑に相当する犯罪であれば15年以下の有期刑に、有期刑に相当する犯罪であれば年数の上限(10年)を設けた不定期刑にといった具合です。ところが、2004年の刑法改正で成人に対する有期刑の上限が30年に引き上げられたことの結果、成人犯罪と少年犯罪のあいだで刑の不均衡が発生してしまった(と考える人がいるらしい)。これが今回の少年法改正の理由だそうです。「09年にスタートした裁判員裁判を経験した市民からは『少年事件で思ったような量刑が選択できない』といった不満が出ていた」と新聞記事は伝えています。裁判員制度というものは、端的に言って刑事裁判の厳罰化を狙って導入された制度であるというのが私の理解です。とすれば、今回の法改正は法務省にとって既定路線なのでしょう。

 日本を除く先進国(民主主義国と言っても同じです)では、死刑は廃止される方向にありますし、懲役刑の刑期も短縮される方向にあります。ところが日本だけは、死刑存置がまず大前提で、それとバランスを取るかたちで懲役刑の最高年数を引き上げ、さらにそれに合わせるかたちで少年法までもが厳罰化されようとしている。脱原発には熱心な市民も、この問題に対しては無関心という態度で信認を与えているように見えます。たいていの人は、最近は少年犯罪が増加しており、しかもその内容が凶悪化しているのだから、厳罰化も仕方ないのではないかと思っている。ところが、統計的に見ると、少年犯罪の増加だとか凶悪化だとかいうことの裏付けとなる数字はまったく見付からないのですから奇妙なことです。しかし、これは実は単純な理由によるものだろうと私は考えています。犯罪自体は増えてもいないし、凶悪化している訳でもない、ただ私たちの犯罪に対する〈感受性〉が昔より敏感になっているという事実があるのです。いや、これは犯罪に対してだけではありませんね、たとえば政治家のちょっとした失言に対しても、芸能人のちょっとした不行跡に対しても、世間にはこれを許さないという空気がまんまんとみなぎっている。もちろんマスコミがそれを煽っているという面もあるのでしょうが、おおもとは私たちの持っている倫理的な感受性が、時代とともにどんどん過敏になって来ているというところにあります。

 そろそろ私たちは、こうしたむきだしの倫理的感情に身をゆだねることが、まったく倫理的なことではないという事実に気付くべきではないでしょうか。少年犯罪について考えることは、そうした反省をする機会を私たちに与えてくれます。18歳になったばかりの少年が殺人を犯し、死刑を宣告されることに世間は何も違和感を感じていないように見える。しかし、参政権も与えられていない、まだ一人前の人間として扱われていない子供が死刑判決を受けるなどということは、少なくとも民主主義を標榜する国ではあり得べからざることです。もしも少年法を改正するなら、厳罰化よりもまず少年の定義を二十歳未満とするのが先決ではないか。「少年事件で思ったような量刑が選択できない」とコメントした裁判員の方には、何があなたの考える「思ったような量刑」なのかを聞いてみたい気がします。裁判員に選ばれる可能性のある私たち大人には、子供を教育し、社会の一員として育てて行く義務があるのです。もちろん犯罪を犯した少年には、しかるべき刑罰を与えることが必要ですが、それは〈教育刑〉という名目のものでなければならない。成人の場合と比較して量刑がアンバランスだから少年法を改正して厳罰化する――そんなロジックを大新聞までもが追認しているのは、まったく恥ずべきことだと思います。

 もしも社会の道徳性が時代とともに進歩して行くものならば、進むべき方向は法の厳罰化ではありません。むしろその反対です。去年ノルウェーで起こった乱射事件では、77人もの人が亡くなりました。ところが犯人に言い渡された刑は、たったの禁固21年というものでした(ノルウェーでの最高刑だそうです)。そのことでノルウェー国民が、法の厳罰化を求めたり、死刑の復活を訴えたりしているというニュースは聞きません。その殺戮の現場にいて生き延びた10代の少女の言葉を、死刑廃止論者の森達也さんが伝えてくれています(これも朝日新聞の記事からです)、「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれほどに人を愛せるかを示しましょう」。これは事件当時、ノルウェーの法務大臣だった人が、森さんのインタビューに対して答えるなかで引用した言葉だそうです。なんて美しい言葉なのだろうと私は思います。が、きっとこれに対しても反感を感じる人が多いのでしょう。彼らは言います、「それでは被害者の人権はどうしてくれるんだ」と。これに対する答えは簡単です、「犯人に厳罰を与えることが被害者の人権を守ることにつながる訳ではありません。これからの時代、被害者の方も道徳的に進歩して行かなければならないのです」。きれいごとに過ぎない? だけど日本にだって昔から「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがあったのではありませんか。それが少年の犯した罪ならなおさらのことだと何故誰も考えないのでしょう?

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2012年8月12日 (日)

生活保護の廃止から始める社会改革(5)

【5】 人生の停車駅

 現在の生活保護制度から新しい制度への移行方法についても少し考えておきましょう。この新しい社会保障制度は、いわば壮大な歴史的実験ですから、いきなり全国に1万棟の住宅を建設するというのは無謀過ぎます。先行するモデル地区を選んで、小さな規模で始めるのが現実的でしょう。そこでの試行錯誤や改良を経て、徐々に全国に展開して行けばいい訳です。(例えば生活保護受給率が全国で最も高い大阪から始めるのはどうでしょう? 現在、政治力のある強力な首長が君臨している土地でもありますし。) 当然、移行期には従来の生活保護制度と新しい共同住宅制度が並立することになりますが、そのことは別に問題ではありません。現行の生活保護受給者から、希望者を募って優先的に入居させればいいだけのことだからです。(入居希望者は間違いなく集まると思います。生活保護を受けている人のなかには、お金だけを貰って仕事をしていないことを心苦しく感じている人たちも多い筈だからです。) 先行して運営を始める施設のなかでは、さまざまな問題が発生するでしょうし、それを解決することでさまざまなノウハウがたまるでしょう。そのノウハウこそが、次世代の健全なコミュニティ社会を築くための知恵の一部になるものだと私は考えているのです。

 ここまでの考察で、この共同住宅のことを、なにか理想的なユートピアのようなものとして描き過ぎてしまったかも知れません。しかし、もちろんここは貧乏人のユートピアなどではありません。例えば私の予想では、全国の共同住宅で毎年20件くらいの「殺人事件」が起こる可能性があります。これは驚くべきことではありません。日本は殺人事件の少ない国だとは言え、毎年千件以上はコンスタントにそれが発生しているのです。人口比にして10万人当たり1件程度です。ということは、200万人が暮らす共同住宅で20件程度の殺人事件が起こることはむしろ当然のことだと考えられるのです。ところが、いったんそのような事件が発生すると、マスコミや評論家といった連中が騒ぎ立てて、新制度への世間の風当たりが強くなる。施設建築反対の住民運動も起こるでしょう。この誤解は忍耐強く解いて行くしかありません。共同住宅が決して危険な場所でも迷惑施設でもないことを自ら証明して行くしかないのです。貧しさに虐げられて来た人たちが、たまたまひとつ屋根の下に集められて共同生活を送っている訳ですから、人間関係に由来するトラブルだって起こらない訳がない。ただ、それを最小限に食い止めるための工夫をすることが重要です。世帯ごとに個室を割り当てているのもそのためですし、施設内での仕事を強制しないのもそのためです。もしも殺人事件や傷害事件の発生率が、世間一般のレベルと同等かそれ以下に抑えられるなら、共同住宅が危険なところであるといった誤解も自然に解ける筈です。

 殺人事件と言えば、過去に犯罪歴のある人だってここには入って来ます。現在でも、刑務所を出所した人が生活保護を受けながらひっそり暮らしているという例はたくさんあると思います。共同住宅制度が始まってからは、彼らもここで入居者の一員として暮らすことになる訳です。そのことに心理的な抵抗を感じないようにするのは難しいことですが、これは乗り越えなければならないハードルです。貧しい人たちの共同住宅というコンセプトを実現するに当たって、大きな障害となって立ちはだかる問題があります。それは経済的な問題でもなければ、政治的な問題でもない、人の心の「偏見」という問題です。入居者に対する世間の偏見、さらには入居者同士のあいだにもある偏見。逆に言えば、それさえ克服することが出来れば(あるいは少なくともそれを無害な程度に薄めることが出来れば)、この制度は成功したも同然だし、この施設は少しだけユートピアのようなものに近づくのです。過去に犯罪歴のある人について言えば、希望の持てる観測もあります。日本では犯罪を犯した人の再犯率の高さが問題になっています。これは刑務所から出た人がなかなか再就職出来ず、生活に行き詰まって再び犯罪に走ってしまうという悪循環があるからです。入居者に仕事を与えることの出来る共同住宅なら、その悪循環を断ち切れる可能性があります。もちろん出所者のなかには明らかに反社会的な性格を持った人もいるでしょうし、そういう人を無制限に受け入れることで他の入居者を危険にさらす訳にはいきません。ここは生活に行き詰まった人たちの更生施設ではあっても、矯正施設ではないのです。犯罪的な傾向を持った人の矯正または教育といったことは、生活保障制度とは別の枠組で考えるべきことです。

 貧困問題と並んで、深刻化が懸念されているものに「引きこもり」の問題があります。現在、日本には70万人もの引きこもりの人たちがいて、その数が年々増加しているだけでなく、高年齢化が進んでいるという実態があるそうです。引きこもり期間は長くなれば長くなるほど、社会復帰が難しくなりますから、これは対策が急がれる問題です。いまは親の家に同居していて、経済的な困難には直面していない人たちが、親が亡くなった後にどうなるか? 私は以前から、共同住宅は引きこもりの人たちの社会復帰の訓練の場としてもふさわしいのではないかと考えて来ました。一般的に自分の部屋に引きこもっている人たちは、凶暴な反社会的な性格の人であるより、むしろ真面目で心の優しい人が多いのではないかと思います(私の印象では)。つまり、施設としては比較的受け入れやすいタイプの人が多いのではないかと思われるのです。もしも、長年引きこもりを続けて来た人が施設に入居して来て、そのまま居室に引きこもってしまっても構いません。そういう方のためには、食事は折り詰めにして、日に三度、そっと部屋に差し入れてあげるようにしましょう。そうすればいつかは一緒に食堂で食べられる日が来るかも知れない。仕事をしたいという気持ちになったら、まずは簡単な短時間の仕事から始めればいいでしょう。ここには厳しいノルマもありません。親がそれなりに裕福だと、ここへの入居資格が無いのでは?という疑問があるかも知れませんが、入居のための審査は本人の収入や資産を見るだけですから、多くの場合、問題は無いと思います。また、いきなり施設に入居することが難しいようなら、自宅からここに通ってもらっても結構です。居室を用意する必要もなく、安い賃金で働いてくれるなんて、むしろ施設にとってはありがたい存在です。(これを「サポーター制度」と呼ぶことにしましょう。)

 地域社会との信頼関係を築くことも、安定した施設の運営には欠かせない課題です。街の美化運動に協力したり、小学生の登下校の見守りをしたり、役場が主催するイベントに協力したり、やれることはいくらでもあります。またボランティアの奉仕活動だけでなく、地域で新たにビジネスを開拓するのもいいですね。例えばいま全国いたるところに耕作放棄地がありますから、施設でそれを借り受けて農業を始めるのはどうでしょう。採れた農作物は施設で食材として消費するだけでなく、地域の直売所などで売ることも出来ます。後継者のいない農家にとっては願ったり叶ったりの話です。入居者のなかからは、農業で自立する人も出てくるかも知れません。また施設内の介護の仕事を通して資格を取った人は、地域の福祉サービス提供事業者に介護ヘルパーとして登録して、地域のお年寄りや身体の不自由な方のところに訪問介護に行くことが出来ます。それは自分自身の経済的自立のためにもなるし、地域の福祉向上にも役立つことです。また施設内の託児所を一般にも解放して、地域の子供を預かれるようにすれば、それもビジネスとして成り立つかも知れません。いまは核家族化と少子化で、若いお母さんたちはひとりで育児に悩んでいる。ここには子育ての先輩たちもたくさんいますから、気軽に相談に来てもらってもいいのです。託児室は地域の若いお母さんたちのサロンのような場所になるかも知れません。――おや、またユートピアンの夢想癖が出てしまいましたね。しかし、実のところ、こうした前向きなユートピア志向こそが、健全なコミュニティの形成には必要不可欠ではないかとも思うのです。地域の人たちから、共同住宅が出来たことで街が明るくなったね、そう思ってもらえるくらいでないと、この制度は成功したとは言えない。

 私がこの生活保障のための共同住宅について書くのは、もう何度目のことでしょう? その都度思っていたことがあります。それはこの共同住宅にふさわしい、親しみやすいネーミングは無いものかということでした。この制度を成功させるためには、まず世間の偏見を取り除くことが重要であり、そのためにはイメージ戦略もおろそかに出来ません。ここ10年か20年くらいのあいだに全国に普及したものに「道の駅」というのがあります。私はクルマに乗らないので、その恩恵に浴する機会はほとんどないのですが、かねてこれは秀逸なネーミングだと感心していました。どこかの企業がマーケティング戦略で仕掛けたものではない、純粋にネーミングとコンセプトが受けて全国に広がったものと思われます。今回、これをもじって、「人の駅」というネーミングを思い付きました。(道の駅と同じく『人の駅 ○○○』というように後ろに地名を付けて、その施設の地域性や特色を表すようにします。) 高速道路にサービスエリアがあるように、一般道にもドライバーが気軽に立ち寄れる休憩所のようなものがあってもいいのではないか、これがたぶん「道の駅」の基本コンセプトだと思いますが、同じように私たちの人生のなかにも、疲れた時や行き詰まった時に気軽に立ち寄れる休憩所があってもいいのではないか、それが「人の駅」の基本コンセプトです。つまり、人生の停車駅。自己責任だとか成果主義だとかいうコトバが声高に叫ばれる昨今、私たちの人生のなかで一番欠けているものがそれです。「人の駅」というのは、特別な人たちを収容するための閉じた場所ではありません、多くの人たちが行き交う開いた場所です。ある人にとっては次の旅に出るための乗り継ぎ駅であり、またある人にとってはここが旅の終着駅になるかも知れない。人生のどのような行路にある人でもここでは歓迎されます。何故なら、それが駅というものだからです。


(追記です。5回分の連載をひとつのPDFファイルにしました。まとめて読みたいという方は、こちらをダウンロードしていただくと便利かと思います。↓)

「seikatsuhosho_20120818.pdf」をダウンロード

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2012年8月 5日 (日)

生活保護の廃止から始める社会改革(4)

【4】 生活保障を受けるための条件について

 果たしてこのような施設が日本全国に出来たとしたら、そこへ入居する人はどのくらいの数になるでしょう? もしも現在の生活保護世帯がそのまま共同住宅に移ったとしたら、とりあえず145万世帯、200万人の人がそこに住むことになります。が、おそらく全員は移らないのではないかという気がします。生活保護というのは、いったん受給を認められれば毎月決まった額の現金を貰えるというたいへん嬉しい制度ですが、共同住宅の方はそれと比べるとずっと魅力に乏しい。基本的な衣食住は保障されているとは言え、入居者には原則として施設内での労働が義務付けられる上に、自由になる現金もほとんど持てない生活を強いられるからです。しかし、この制度の導入後は、従来の生活保護制度は廃止される訳で、本当に生活保障を必要としている人たちは共同住宅に移らざるを得なくなります。つまり、ここで現行の生活保護受給世帯がいったんふるいにかけられることになるのです。これは大事なポイントです。もちろん不正受給をしているような人たちは、真っ先にふるいにかけられてしまうでしょう。生活保護以外にも現金収入を持っていて、生活費の一部を生活保護で穴埋めしている人たちにとっては考えどころです。現金収入の一部(一応、7割としました)を納めれば、そこに入居することは出来ます。でも、それはこれまでの自由気儘な生活と訣別することを意味します。どちらを選択するかは本人次第です。乏しい収入でも自活する道を選ぶ人も多いだろうと思います。もちろん、いったん決意したものの、やはり自活は難しいということになれば、施設はいつでもその人の入居を歓迎します。

 この施設に入居するためには、行政の資格審査を経なければなりません。それは現行の生活保護制度でも同じです。ただ、審査の基準は生活保護よりもだいぶ緩いものとなります。資産の制限について言えば、現行の生活保護は数万円以上の現預金を持っていると受給は難しいようですが(それを使い果たしてから申請するよう指導されるそうです)、共同住宅の方は50万円までなら現金を所持していても問題ありません。但し、それは最初から自立支度金として専用の口座に預けられることになります。つまり、ここではひとり50万円という制限内で資産(自立支度金)を合法的に保有することが出来るということです。ですから、例えば年金収入やアルバイト収入を持っている人も、この50万円の枠を利用して貯蓄が出来るものとしましょう(但し、それは自分の手に残る3割分から積み立てるもので、しかも退去時にしか引き出せません)。またここでは生活保護のように、親や子や兄弟が資産や収入を調査されるといったようなこともありません。生活保障の審査対象は、あくまで本人および本人と生活を共にする家族に限られますから、その他の親族に気をつかう必要は無いのです。家財道具などの現物資産に関しては、施設の居室に無理なく持ち込める範囲でなら所有が認められます。それは将来の自立の際にも必要なものですから。携帯電話や個人名義の固定電話も持ち込むことが出来ますが、料金の支払いは個人の負担になります。ひとり1台、自転車の所有もオーケーです。自動車の所有は原則禁止ですが、これはこのあとすぐに説明する「資産の預かり制度」を利用すれば、手放さずに済みます。宝石や貴金属のような換金性の高い資産も同じです。難しいのはペットの持ち込みをどうするかですね。常識的に考えて、それは許可出来ないような気がしますが、可愛がっていたペットと別れがたくて、生活保障から漏れてしまう人が出たのではまずい。とりあえず何軒かに1軒くらいの割合で、ペット可の施設を作ることでどうでしょう。

 問題は土地や家屋を持っている人の扱いをどうするかです。現在でも、現金は無いのに家を持っているために生活保護を受給出来ないというケースは多くあるようです。自治体によっては、不動産を担保に生活費を貸し付けるリバースモーゲージという制度を設けているところもあります(これは生活保護のような公的扶助制度とは別物と考えるべきものです)。共同住宅でもこれと似た制度を採用します。それが資産の預かり制度です。つまり、入居に当たって、本人が所有する不動産を行政が預かって管理するのです。これは退去時に返還されることになりますが、もちろん無条件に返還される訳ではありません。入居期間中にかかった生活費(1か月6万円とします)の合計またはその時点での不動産の評価額のどちらか少ない方を支払えば、資産を請け出すことが出来るのです。これは宝石や貴金属、自動車などの現物資産についても適用されます。ふつう、施設に入居した人が資産を請け出すお金を持てる筈はありませんから、この制度は無意味だと思われるかも知れません。しかし、現物資産を所有しているが故に生活保障を申請出来ない人というのは、その資産を手放すこと自体に心理的抵抗がある訳ですから、その救済策としては有効ではないかと思うのです。行政に抵当権は設定されてしまうけれども、所有権は手放さずに済むのですから。本当に退去時に請け出したいのなら、ローンを組むことだって出来ます。それだったら最初から資産は子や孫に譲ってしまい、身軽になってから共同住宅に入居した方が合理的ですね。相続する資産があるような金持ちが、共同住宅に入居していいのかという疑問はあると思いますが、この制度では入居時の個人資産しか見ませんから、これは合法です。まあ、ある程度のまとまった資産と相続人を持っている人は、ふつう共同住宅には入って来ないだろうと思いますが。

 入居のためには資産制限だけでなく、収入制限も当然あります。これは現在の生活保護でも同じだと思いますが、世帯構成や地域によってその金額は異なって来ます。その限度額を決めるのは今回の記事の守備範囲ではありません。例えば都内の施設に入居する独身者なら、月の収入が12万円未満なら資格があるのに対し、地方ではそれが10万円になるといったイメージです。いずれにしても、その境界線はさほど重要なものではありません。生活保護と違って、それが天国と地獄を分けるようなものではないからです。月に12万円の手取り収入を持っている人は、8万4千円(7割)を払えば施設に入居出来ます。要するに、その金額で3食・個室付き(但し風呂とトイレは共同)の独身寮に入居したのと変わらない。これはそんなに魅力的な選択肢でもないでしょう。むしろ収入による入居制限ということは、別の観点から必要になるかも知れません。共同住宅に入居を希望する人は、現在の居住地以外の地域の施設を希望することも出来ます。施設は日本全国どこにもありますから、部屋の空きさえあれば、どこに住むのも自由です。ただ、それぞれの施設のあいだで、労働力や運営予算に偏りが出るのは問題があります。ある施設では寝たきりの老人ばかり多くて、施設内の働き手がほとんどいないというのでは困る。またある施設では年金収入が多い人が多く、そこに入れば食事も豪華らしいという噂が立って、施設間の格差を助長するのも良くない。このバランスを取るためには、入居者の年齢や収入を見て、行政がある程度入居者を振り分けることも必要になります。基本はなるべく本人の希望に沿ったかたちで入居施設を割り当てるのですが、希望に沿えない場合もあるということです。

 次に入居後の資産形成についてです。すでに何度も説明しているとおり、ここでは自立支度金というかたちで預金をすることが出来ますし、またそれが奨励されてもいます。が、それ以外の資産を貯め込むことは基本的に禁止です。もちろん年金や労働賃金などで一時的に現金を手にすることはある訳ですが、それは個人の生活費(娯楽費や交通費や電話代など)として持つことが出来るお金であって、そこから(自立支度金以外の)貯金をすることは許されていないのです。つまりタンス預金はダメということです。理由はいくつかあります。①この施設は最低限の生活保障をするためのものであり、収入の7割を入居費として払った上に、さらに貯蓄をするほどの余裕を持った人なら、そもそもこの施設に居るべきではないということ。②入居者のタンス預金を黙認してしまうと、施設を出て自立することに対するモチベーションが低下してしまい、自立支援という施設本来の機能が失われてしまうこと。③入居者のあいだの資産格差が大きくなり過ぎると、コミュニティのなかでの公平感が保てなくなるということ(ある入居者は毎年家族で海外旅行に行く、なんていうのはやはりまずいでしょう。夫婦なら100万円までの自立支度金を貯められますから、施設を退去した後でゆっくり旅行に行けばいいのです)。要するに「隠し資産」というものは、施設の運営上も規律上もよろしくない影響を与える可能性があるので禁止したいということなのですが、いかがでしょう?

 自立支度金以外に所持してもいい現金の上限を10万円とするなら、それ以上の所持金は没収の対象となります。または没収に応じられないなら、施設を退去するという選択肢もあります。(例えば高額の宝くじが当たった場合などは、賞金がいきなり没収される訳ではなく、そのお金を持って退去するくらいの時間的猶予は与えられるということです。) もしも現金をすでに現物資産に代えてしまったあとだったら、預かり資産として差し出していただきましょう。すでに遊興費として使い果たしてしまったあとだったら、もう仕方がありません。実際問題として、入居者のタンス預金を調査することは不可能ですし、行政としてそれを摘発することに労力をかけることはしません。共同生活を送る施設というものの性質上、ふだんの生活が不自然に奢侈であったりすれば、他の入居者にそれと気付かれる筈ですし、また気付かれない程度の贅沢なら別に黙認しても実害はないのです。宝くじが当たったにせよ、倹約して貯金したにせよ、ある程度のまとまった資産を持った人は、やがてこの施設を出て行くことでしょう。それは厳密な意味で自立とは言えないかも知れませんが、国の生活保障から抜けるということでは歓迎すべきことです。共同住宅制度が始まると、この制度を利用していろいろ悪知恵を働かせる人も出て来ると思います。例えば、施設に1年間入居して、数十万円のお金を貯めたあと、物価の安い国に行ってそこで半年くらい遊んで暮らすとか。若いうちなら、それを繰り返すのもなかなか面白い生き方だという気がします。自立支度金をそんなふうに使われるのは制度の主旨には反しますが、もとは本人が労働の対価として稼いだお金ですし、そこは大目に見ましょう。むしろこの制度は、人々に多様な生き方の選択肢を与えるというプラスの面も持っている、そんなふうに捉えていただければ制度設計者としては本望です。

 多様な生き方と言えば、ここでの生活上の規則についてもひと言ふれておく必要があります。以前の記事では、共同住宅に入居した人は、一切のギャンブルも禁止と厳しいことを書きましたが、これも小遣いを商品券でなく現金で渡すことに決めた以上、撤回せざるを得ません。競馬やパチンコにはまっている人は、生活保障を受けている身の上だからと言って、それをきっぱり止められるものでもないでしょう。どうせやるなら大いに勝っていただいて、大金を稼いで施設を出て行くなり、仲間の入居者に余禄をふるまうなりしていただきたいものです。二十歳以上の入居者であれば、居酒屋に行くのも、施設の中で酒を飲むのも自由です(もちろん小遣いの範囲内で)。先ほど海外旅行は違和感があるというようなことを書きましたが、ひとり10万円までの現金所持は合法ですから、ちょっとした国内旅行くらいなら誰も咎める人はいません。また積み立てている自立支援金はふだん自由に使えるお金ではありませんが、どうしても必要だと施設側が認めた時には、その一部を預金から引き出して本人に渡すことが出来るものとします(例えば慶弔費だとか盆と正月の帰省費だとか)。もしも積立金が不足する場合には、一時的に施設がお金を貸す仕組みも用意しましょう。このへんは管理人の恣意に任されるのではなく、明確なガイドラインとしてまとめておきます。なにしろ不特定多数の人々がここで暮らしを共にするのですから、規則はきちんとしておく必要があります。規則と言っても、役人的発想で「あれもダメこれもダメ」というようなものであってはいけない、入居する人と入居する可能性のある人(つまりすべての国民)が納得出来るものでなければなりません。すなわち、ここでの規則というのは、憲法の定める「最低限の健康で文化的な生活」を具体的に規定したものでなければならないということです。

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