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2012年6月 3日 (日)

生活保護の問題を倫理で論じてはいけない

 生活保護にまつわるニュースが世間を騒がしています。とあるお笑い芸人の母親が生活保護を受給していることが発覚して、そのことに世間の非難が集まった。売れっ子で高額所得を得ているのに、実の母親を扶養もせず、生活保護を受けさせているのはけしからんという訳です。ご本人はすぐに謝罪し、これまで受け取った生活保護費の返還を約束したのだそうです。長かった下積み生活のことや芸能界での不安定な収入のことを考えれば、厳しく非難されるべきことではない、そういう同情の声も上がっています。この事件に端を発して、芸能人や著名人の周辺に生活保護関連のゴシップを探り出そうというメディアの動きも活発化しているようです。なにしろ日本の人口の2%近い200万人を超す人たちが生活保護を受けているのですから、そういうゴシップのネタには事欠かない筈です。この問題を重く見た(らしい)小宮山厚生労働大臣は、生活保護の審査の厳格化や支給金額の引き下げの検討に入るという声明を出しました。こういうニュースを聞くたびに思うことは、生活保護というのはほんとうに「罪な制度」だということです。

 最近は生活保護のことをネット用語で「ナマポ」なんて呼ぶんだそうです。「生保」をそう読み下しているんですね。「生保」と言えば一般的には「生命保険」の略ですが、福祉の現場などでは昔から「生保」を「生活保護」の略としても使っていました。その混乱を避けるために、そんな略語が編み出された…訳ではありません。たぶん2ちゃんねるあたりが出所なのだろうと思いますが、これは生活保護というコトバが持つマイナスのイメージを払拭するために考え出された新語なのではないかと思います。いや、発案者にそこまでの意図は無かったとしても、こういうコトバが流行る背景には、生活保護受給に対する世間の抵抗感が少なくなったことがあるような気がする。「実はうちは生活保護家庭で…」と言うよりも、「実はうちナマポでさあ」と言った方が、ずっと悲壮感は少ないし、後ろめたさもやわらぐ(でしょう?)。誰もが気軽に生活保護を受けられるようになった、いまの社会の気分をうまく表したコトバだとも言えそうです。実際に民主党政権になってから、生活保護を受給するためのハードルは下がっているそうです。以前は働く能力のある若い人が生活保護を認定されることなどあり得なかったのに、いまはとりあえず失業していて住む家が無いといった条件があれば簡単に受給者になれるらしい。生活保護世帯が急増している背景には、現政権になってからのそうした政策転換があったようです。それが民主党の掲げた「コンクリートから人へ」という政策の一環だとすれば、ここだけはマニフェストが忠実に守られている訳です。

 今回の芸能ゴシップにしてもそうですが、生活保護をめぐる問題には私たちの倫理的感情に強く引っ掛かるものがあります。この問題に対しては人によって態度がふたつに分かれるようです。国民の税金に寄食する生活保護受給者に対しては審査をもっと厳しくして、支給額も下げるべきだというのが「規律重視派」の人たちです。人間らしい最低限の生活は憲法でも保障されているのだから、むしろ制度から取り残される貧しい人たちが出ないように配慮すべきだというのが「人権重視派」の人たちです。どちらの言い分も尤もであり、またどちらの言い分にも違和感があります。生活に困窮している人には救いの手を差しのべなければならない、しかし、働く能力を持った人や年金の支払いを怠って来て無年金になってしまった人を、私たちの税金で支えるなんてことはごめんだ、これが一般の納税者のホンネではないでしょうか(少なくとも私のホンネはそれです)。つまり、規律重視派と人権重視派の対立は、私たちひとりひとりの心のなかにもあって、たまたまある事件や事例を見聞きすると、そのどちらかの観念が倫理的感情とともに湧き上がって来る訳です。だから生活保護のことを考えると心が疲れてしまうし、気鬱にもなるのです。いっそのこと生活保護なんて廃止してしまって、国民一律のベーシックインカムに切り替えてしまった方がすっきりするのではないか。そんな発想が出て来る裏側にも、現行の生活保護制度を前にした時のこの気鬱さがあるのではないかと思います。

 しかし、生活保護制度に対するこの私たちの気鬱さ、つまり湧き起こって来る倫理的な葛藤は、問題の本質ではないと私は考えています。昔の人は生活保護を受けることを恥だと考えたものだが、最近の人は貰えるものなら貰っておけと考えるようになった、そうしたモラルの低下こそが問題だ。そんな言い方をする人も多いようですが、私は同意出来ません。生活保護家庭を差別的な目で見ていた時代の方が、現代よりも倫理的に優れていたかと言えば、絶対にそんなことはないからです。むしろこれは単純に制度設計の不備に由来するものだと考えた方が理屈にかなっている。倫理的かどうかという観点で言うなら、そもそも貧乏な家庭に何の対価でもない現金を渡すという行為自体がアンモラルなものだと私には感じられます。当たり前の社会常識に照らして考えてみれば、「お金をめぐむ」ということは相手の尊厳を傷つけることです。これは原発のある町に原発交付金が支給されたり、米軍基地のある町に補償金が支払われるのとも似た構図です。倫理性を問うなら、制度そのものの倫理性を問うべきなのです。生活保護の不正受給について、国会議員が特定の個人を名指しで糾弾するなんて、それこそ倫理性が欠如していると私は感じました。政策を立案出来る立場の国会議員が、問題の本質は制度そのものに内在していると何故考えられないのか、その方がよほど倫理的に問題ではないのか。

 生活保護に関する問題の本質がどこにあるかと言えば、それは倫理性の問題ではなく、効率性の問題だと思います。現行の生活保護制度には、二重の無駄があります。ひとつは個々の生活保護世帯に直接現金を支給するやり方は、(アンモラルなだけでなく)経済的にひどく非効率であるということ、もうひとつは既得権化した生活保護は受給者から勤労意欲を奪い、結果的に国内の労働生産性を低下させることにつながっているということです。これに対しては、私は以前からひとつの提言をしています。生活保護世帯のための共同住宅を建てて、生活の基盤と職を同時に提供する仕組みを作ってしまったらどうかというものです。自民党が最近発表した『日本の再起のための7つの柱』という文章のなかには、生活保護制度の見直し案も含まれています。そこでは生活扶助よりも自助を優先して、生活保護費の削減や現物給付を検討すると書かれています。「自助」も「現物給付」も必要なことだとは思いますが、問題はそれをどのように具体的な制度に落とし込んで行くかということです。その議論を阻んでいるものが、生活保護をめぐる古くさい倫理的感情だとすれば、まずは私たちひとりひとりがそれを乗り越えるところから始める必要がある。さもなくば、この問題はこの先も不毛な道徳論争のなかで堂々めぐりを繰り返すだけでしょう。

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コメント

こんにちは^^
大変参考になりました。
また寄らせて頂きます。

投稿: 唐立望 | 2012年7月16日 (月) 15時48分

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