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2012年6月24日 (日)

ドラクマとユーロを併用したらどうだろう?

 世界中が注目するギリシャの再選挙は、緊縮財政路線の継続を表明する中道左派の新民主主義党が第一党の座に着きました。とりあえずこれでギリシャのユーロ離脱は避けられたというのが市場の見方です。とは言っても、これでギリシャの経済破綻が避けられた訳ではありません。政権が代わっても、ギリシャ政府が抱えている莫大な借金が無くなる訳ではないし、緊縮財政だけでは国内経済が上向く可能性も小さいからです。むしろ破局を先延ばししただけという印象を拭えない。ギリシャに関しては、早々にユーロから離脱して元のドラクマに戻る方が、経済を回復させる近道だという意見もあります(ドラクマというのは、紀元前から続くギリシャの伝統ある通貨です)。それをさせないのは、ユーロ圏に留まりたいというギリシャ国民の強い想いというよりも、ユーロの信用を守りたいドイツやフランスの思惑ではないかという気がします。

 私は以前から、デフレ経済からの脱却や円高への対応のために、日本の国内通貨を二重化してはどうかという提案を繰り返して来ました。国際的な信用を確立している日本円とは別に、もっと身近なところで国民生活を支える「国内限定通貨」を政府が発行するというアイデアです。全国統一の地域通貨を導入する試みと言ってもいい。詳しいことは別のところで書いたのでここでは省きますが、これはいまのギリシャにも応用出来るものではないかと思い付きました。演習問題としても面白いテーマなので、今回はギリシャ経済を二重通貨制によって復興させるアイデアについて少し考えてみたいと思います。いまギリシャは、ユーロ圏に留まるかドラクマに回帰するかで国論が二分されている訳ですが、そんな二者択一で考える必要はない、ユーロ圏に留まったままでドラクマも復活してしまえばいいではないか、そういう提案です。

 「そんな提案は非現実的だ、財政規律上も許される筈がない」――たぶんそんな反論がすぐに出て来るでしょう。しかし、ギリシャにもあるかどうか分かりませんが、ユーロ諸国のなかには町単位でユーロとは別に地域通貨を発行して、地域経済の活性化を図っているところがいくらでもある訳です。ユーロの規約のなかにそれを禁じる条項は無いのだと思います。であるならば、人口1100万人のギリシャが、国として「地域通貨ドラクマ」を復活させるという発想だってあっていいと思う。但し、この新ドラクマは、従来の地域通貨とは少し異なった方式で流通させる必要があります。それは主に次の2点です。①ドラクマ紙幣とユーロ紙幣は互いに交換不可とすること、②ドラクマには貨幣そのものに減価する性質を持たせること。①はユーロ圏に属する国として、財政規律の面から絶対に必要なルールです。もしもドラクマとユーロが交換可能で、ギリシャ政府が自由にドラクマ紙幣を印刷出来るとすれば、ギリシャがユーロの発行権を持ったのと同じことになってしまう。これは欧州中央銀行が許しません。このことは交換レートを調整すれば解決するといった問題ではなく、通貨の本質に関わる問題です。②の減価性ということは、新ドラクマを持続可能な通貨にするためにぜひとも必要なルールということになります。でも、こんな説明では全然イメージが湧きませんよね。具体的にギリシャ政府が何をするのかを見て行く方が早いでしょう。

 新ドラクマの発行と同時に、ギリシャ政府は政府支出の一律2割をドラクマで支払うことを宣言します。抜き打ちで突然やるのではありません、国民(とユーロ諸国)に対して、その通貨政策の意義と目的を十分に伝えた上で、準備期間を設けて実行すればいいのです。公務員給与や年金、各種の補助金や生活保障費、政府調達の支払い、その他政府の財布から出るお金はすべてユーロ80%とドラクマ20%という比率になります。ドラクマは政府通貨なので、発行の裏付けとなる国債の発行や政府資産なども必要ありません。つまり、これだけで政府支出は(緊縮財政の痛みを伴わずに!)2割カットが出来るということです。ドラクマは、公務員や年金受給者や生活保障を受けている個人を通して、また政府の仕事を請け負っている民間業者を通してマーケットに出て行きます。このあと、ドラクマの流通は出来るだけ市場の自由な働きに任せることが原則になりますが、最低限のルールは政府が決めておく必要があります。それは例えばこんなルールです、「取引においては1ドラクマ=1ユーロというレートを厳守すること」、「ドラクマを受け取るかどうかは売り手側の決定によること」、「取引価格に占めるドラクマの割合は最高20%までとすること」、「民間企業の給与も、労使の合意を前提に最高20%までドラクマでの支払いを可とすること」…。ここで挙げた20%というのが妥当な数字かどうかは、別途検証が必要になりますが、要するにこれは国内GDPの2割をドラクマに移行するというギリシャ政府の意思表示になるのです。

 いくらギリシャ政府がドラクマを普及させようとしても、国民がこれに見向きもしなければ新通貨は流通せずに終わってしまうでしょう。しかし、おそらくドラクマが流通することになるこれだけの理由があります。ひとつはギリシャ国民のユーロに対するアンビバレンツな感情です。ギリシャは2001年のユーロ加盟以来、高い経済成長を続けて来ました。ところがそれがバブル景気に過ぎなかったことを、リーマンショック以降思い知らされたのです。出来ることならユーロに加盟する以前の経済に戻りたいと考えている人も多いでしょう。だから新通貨はやはり「ドラクマ」というネーミングであることがふさわしい(新ドラクマは旧ドラクマとは貨幣価値が異なるし、お札のデザインも違ったものになるでしょうが)。もしかしたら国民からは熱烈な歓迎を受けるかも知れません。ドラクマが普及するもうひとつの理由は、(いつも言っているように)市場原理の法則によってです。市場ではドラクマを扱うことが客寄せになりますから、店の経営者たちのなかには、限度額(20%)ぎりぎりまでドラクマでの支払いを受け入れようとする人も現れるでしょう。そのためには仕入先もドラクマを受け取ってくれる業者を探さなければならない。こうして国内の流通の一部分が自然にドラクマによって占められるようになる。ドラクマはギリシャ国内限定の通貨ですから、地産地消を促進し、国内産業を潤す役目も果たします。つまり政府の財政が健全化すると同時に、民間の経済も活性化するという一石二鳥の経済政策になるのです。

 次に減価性の問題です。ドラクマは政府が持つ〈通貨発行特権〉によって自由に発行出来るお金ですから、これを回収して市中の流通額を一定に保たなければインフレを起こしてしまいます。政府通貨を回収する最もオーソドックスな方法は税金です。しかし、税金の支払いの一部をドラクマで受け付けることは、端的にユーロ部分の税収を減らすことですから、せっかくの財政再建効果にブレーキをかけてしまう。またドラクマが市中で流通する代わりに税として吸い上げられてしまうと、民間経済に対する新通貨の効果も限定的になってしまうでしょう。そこでドラクマは最初から「減価通貨」として設計することが必要になります。時間の経過とともに額面価格が目減りしてしまうようなお金のことです。それをどのような仕組みで実現するかということは、説明が長くなるので今回は割愛します。「スタンプ紙幣」だとか「減価する電子マネー」といったキーワードで検索すれば、いろいろなアイデアがあることが分かっていただけると思います。市中に流通するドラクマの総量(マネーサプライ)は、設定される減価率によって一定に保つことが出来ます。政府通貨は、ドルやユーロや円のような銀行マネーとは違って、政府の厳格な統制下に置かれなくてはなりません。減価通貨は減価率を調整することで、流通量と流通速度をある程度自由にコントロール出来るので、政府通貨の発行形態としてもふさわしいのです。

 ギリシャによるドラクマ・ユーロ併用制は、他のユーロ諸国からも好意的に受け止められるのではないかと思います。ギリシャのユーロ部分のGDPが2割縮小することは、ユーロ経済圏全体にとってマイナス要因ですが、もともとギリシャのGDPがユーロ全体に占める割合は3%にも満たないのです。それよりも、ギリシャの財政が安定して、ユーロの信用が守られることの方がずっと大きい筈です。もしもこの試みがうまく行けば、財政危機に陥っている他のユーロ諸国にとってのお手本にもなります。ゆくゆくは、ユーロ圏全体で二重通貨制が採用されるかも知れない。――このアイデアは決して奇策でも何でもないという点を最後に強調しておきます。いま世界では、国内の経済が悪化すればするほど、失業率が上がり、国の生産性が落ちるというジレンマがあちこちの国で起こっています(日本も同じです)。これは奇妙な話ではありませんか。ギリシャ人が勤勉に働かないので、財政危機に陥ったなんて言われていますが、ギリシャの若者の失業率は50%を超えているのです。つまり働きたくても働けない状況がある訳です。みんなが一生懸命働いて、国の経済を上向かせなければならない時に、失業率だけが上昇するという不条理。その原因はいろいろあるでしょうが、根本的なことはユーロが実体経済を支える通貨として有効に機能していないからだと思います。グローバリズムの進展のなかで、ユーロは実体経済から遊離して、金融投機の対象となってしまった(日本円も同じです)。地域通貨の導入というのは、グローバル経済のこの歪みを解消するという健全な思想に基づいたものです。それは経済をもう一度生活者の手に取り戻そうという国民の願いにも沿ったものであるのです。

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2012年6月17日 (日)

原発再稼働で何よりも争点にすべきこと

 政府からの要請を地元の福井県知事が承認し、いよいよ大飯原発の再稼働が現実のものとなりました。福井県知事も大阪市長も一応は再稼働に慎重な姿勢を見せていましたが、いまから見ればシナリオ通りの出来レースだったのでしょう。いくら国民のあいだに脱原発の機運が高まっていても、権力の中枢が原発推進派で占められているのでは、私たちになすすべはありません。野田首相は「国民の生活を守るため」という言い方をしていました。要するにこの国の為政者たちは、「国民の生活」と「国民の生命」を天秤にかけて、前者を優先した訳です。これが政策決定として100%間違っているとは言いません。原発は事故さえ起きなければ、そして核廃棄物の処理を押し付けられる将来世代の不利益さえ考えなければ、当面の政策としてこの上なく有利なものだからです。国民のあいだにも性急な脱原発に対して懐疑的な人が多いのは、この天秤のバランス感覚が人によって異なっているからでしょう。この先日本が脱原発に舵を切るにせよ、原発推進に回帰するにせよ、天秤の両側にぶら下がっているメリットとデメリットについては国民的合意を形成しておく必要があると感じます。

 大飯原発のストレステストに関して、テレビや新聞がほとんど報じなかった重大な疑惑があることをインターネットで知りました。地震や事故の際に原発を止めるためには、運転中の核燃料の隙間に「制御棒」を瞬間的に差し込む必要がある訳ですが、この制御棒の挿入時間を関西電力が書き換えていたというのです。最近、原発付近を走る活断層が新たに発見され、従来想定されていたよりも強い地震が起こる可能性が指摘され始めたからです。要するに国の基準に合うように、数字を改竄した訳ですね。大手マスコミはこの問題をスルーしたようですが、もちろん再稼働に反対する団体がこれを見逃す筈はなく、インターネット上にはこれを検証する資料もアップされています。にもかかわらず、原子力安全・保安院はストレステストの結果を、問題無しとして通してしまいました(ちなみに制御棒の挿入時間に関する国の安全基準を作ったのも、同じこの政府御用機関です)。社民党の福島党首はこの問題を追及するための質問主意書を提出しましたが、政府の回答はまったく説得力を欠くものでした(保安院としては関西電力の提出した数字の妥当性までは確認していないなどと、しれっと書かれています)。制御棒の挿入性能なんて、一般の国民にとっては専門的過ぎて興味も持てないような話ですが、原発再稼働の問題においてこれは何より重要なポイントだと考えます。何故なら、比喩的な意味でも何でもなく、私たちすべての国民の生命はこの制御棒の性能にかかっていると言っても過言ではないからです。

 福島の事故を経験した私たちは、原発事故には2種類あるということをもう一度認識しておく必要があります。ひとつは福島型の事故、もうひとつはチェルノブイリ型の事故です。このふたつの原子力事故は、どちらもIAEA(国際原子力機関)の分類によればレベル7に相当する重大事故ですが、両者には決定的な違いがあります。原子炉そのものが破壊されたかどうかの違いです。チェルノブイリが史上最悪の原発事故である所以は、原子炉そのものが爆発を起こし、遮蔽するものの無くなった核燃料が、巨大な炎となって10日間に亘って燃え盛った点にあります。10日後に鎮火したのも、決死の消火作業が効を奏したからというより、むき出しの核燃料がすべて燃え尽きたからでしょう。これによって、事故を起こしたのはたった1基の原発だったにもかかわらず、福島第一の10倍もの放射性物質が大気中にばらまかれた訳です。これに対して福島の事故がそこまでの大惨事に至らなかったのは、何よりも事故の初期に制御棒が核反応を止めることに成功したからだと言えます。福島第一の4基の原発には、使用済み燃料も含め、事故を起こしたチェルノブイリ原発の10倍もの核物質が貯蔵されていたと言います。もしも制御棒が正常に作動していなければ、福島の事故はチェルノブイリの10倍、実際に起こったことの100倍もの大惨事になっていた可能性があるのです。この夏の電力不足がどうこう言うレベルの話ではない、まさに国の存亡にかかわる瀬戸際だったのです。

 東日本大震災の際に、福島第一の敷地内で観測された地震の揺れの強さは最大507ガルというものでした。静止していた物体が1秒間に5m7cm動くくらいの揺れということです。設計上、大飯原発は700ガルの揺れがあっても、制御棒は正常に動作するように設計されているそうです。地盤の堅牢さや従来判明している活断層との位置関係から、それ以上の強い揺れは起こらないと想定しているのです。ところが、新たに大飯原発の敷地付近にも活断層があることが分かり、これが連動すると1000ガルの強さの揺れもあり得るという説が出て来た。関西電力が制御棒の挿入性能を改竄した背景には、この1000ガル対応という意図があったようです。再稼働反対派もこの点をついてストレステストの結果は無効だと主張している訳ですが、それじゃあ制御棒の性能を向上させて、1000ガルをクリアすればオーケーかと言えば、そう単純な話でもないでしょう。東日本大震災で記録された最大の揺れは、宮城県栗原市の地震計が記録した2933ガル(!)というものだったそうです。はるか大平洋沖の海底を震源とする地震でも、内陸部でそれだけの揺れが起こることがある訳です。2008年の岩手・宮城内陸地震では、ギネス記録にも認定された4022ガル(!!)という激しい揺れが観測されています。この時の地震はマグニチュード7.2だったそうですが、その程度の「ふつうの」地震でも、局地的にそれほど激しい揺れが起きることがあるのです。そうした局地的な強い揺れが運転中の原発を襲えば、どんなに性能アップした制御棒でもものの役には立たないだろうと思います。

 たとえ停止中の原発であっても、大きな地震や津波に襲われれば大事故は起こり得ます。電源喪失によって冷却装置が動かなくなることもあるし、核燃料プールそのものが損傷を受けることだってあるかも知れない。が、それがチェルノブイリ型の事故にまで発展する可能性は少ないでしょう(もちろん可能性ゼロではありません)。福島型の原発事故なら、私たちはそれがどのようなものであるか身をもって知っている訳です。その経験を活かして、次回はもっとうまく対処出来るだろうとも思います。原発の廃炉までは数十年かかる訳ですから、そのリスクに対してはこれからも常に準備しておく必要があります。しかし、運転中の原発がチェルノブイリ型の事故を起こせば、これはもう未知の領域です。福島で起こったこととはまったく異なる、ほんもののカタストロフがやって来る。これに対してはどのような備えをしたって無駄です。原発を再稼働するということは、そのリスクのふたを開けるということなのです。私たちは止まっている原発と動いている原発のリスクの大きさの違いを、もう一度よく考えてみる必要があります。もしも原発推進派がこのふたつのリスクを分けて認識した上で、それでも再稼働は必要だと言うなら、それはもう考え方の違いなので仕方ない。但し、その区別を曖昧にした上で原発の安全性を説くことは許されません。大飯原発でも堤防を高くしたり、予備電源を高い位置に設置したり、いざという時のためにベントフィルターを取り付けるといった対策が採られるようですが、それはせいぜい福島型の事故への備えでしかない。それをもって原発の安全性は確保されるなどという政治の言葉に騙される訳にはいかないのです。

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2012年6月10日 (日)

大飯原発の再稼働を許す訳にはいかない

 消費税増税に政治生命を賭けると宣言した野田首相が、大飯原発の再稼働に向けても意欲を燃やしています。「国民生活を守るため、再稼働すべきだというのが私の判断だ」というのがその根拠だそうです。国民の多くが、原発を止めて国民の生活と生命を守って欲しいと願っているのに、この認識の食い違いは何なのだろう? この夏の電力不足を乗り切るために臨時稼働をするというのなら、まだ理解出来なくもありません。しかし、野田さんは今回の再稼働は夏場限定のものではないと明言している。いま脱原発をめぐる議論は国論を二分する大問題になっているのです。失礼だが、支持率20%の首相の一存で決めていい問題ではない。消費税の問題にしても原発問題にしても、これからの国のあり方を決定づける重大で息の長い問題です。総選挙や場合によっては国民投票まで視野に入れながら、議論を深めて行くべきテーマです。おそらく野田さんは首相としての2期目はないことを自覚していて、短期間で成果を上げようと躍起になっているのだと思います。国家百年の計を論じるべき時に、「あとは野となれ」というマインドを持った短期決戦型の首相をいただいてしまったことがこの国の不幸です。

 私自身は脱原発派であることを断った上で言いますが、大飯原発はたとえ夏限定でも再稼働すべきではありません。もちろん地震や津波の危険性のこともありますが、それ以上にもっと前向きな理由があります。それはつまり、この夏の電力不足は、これからの日本にとって大きなチャンスになるのではないかと思うからです。私たち国民が「原発無しでもやって行ける」という自信を持つためには、真夏にすべての原発が止まっていることが必要な訳で、その意味では原発再稼働はせっかくのチャンスをつぶすことになるのです。それはこれからの時代のエネルギーシフトに向けた第一歩となる筈のものでした。無責任な発言をしているつもりはありません。昨年は関東が電力不足で、計画停電なるものも実行されましたが、ひと夏を越してみれば、原発無しでも何とかなるということが実感として共有出来たと思います。今年は関西の番だったのです。もともと関西電力は原発依存度が高いという問題を抱えていた訳ですが、この夏の電力不足はピーク時でも最大15%程度なのだそうです。これは昨年の関東と同等の数字です。ピーク時電力というのは、記録的猛暑の真夏日の昼下がりを基準にしていますから、計画停電が発動されたとしてもわずかな回数と時間帯で済むでしょう。昨年の経験から言わせてもらえば、家庭での節電や企業のシフト操業によって十分乗り切れる範囲です。

 野田さんという人は、財務省や財界の操り人形のようにしか見えませんが、これは国の将来を短期でしか考えないこととつながっています。短期的な経済の視点から見れば、原発というのは圧倒的に有利な存在です。その安い発電コストは、当面の財政運営や企業経営にとっては強い味方であるに違いありません。しかし、その安いコストは将来に非常に高いツケを回すことで成り立っていることを私たちは知ってしまいました。いまの脱原発の世論は、単に原発事故が再び起こることが恐いといった単純なものではありません。将来また起こるかも知れないシビアアクシデント(それは自然災害としてのみ起こるとは限らない)のリスクと使用済み核燃料の処理というふたつの重い課題を、私たちは将来世代に押し付けることは出来ないと感じているのです。最近でも多くのエコノミストや評論家が原発再稼働の必要性を説いて回っているようですが、よく見ればたいてい彼らは高齢世代に属している人たちで、「あとは野となれ」というメンタリティの持ち主です。正直に言って、私はそういう人たちとは議論の必要性すら感じない。私たちにとって本当に必要なことは、私たちの子や孫たちにどのような社会を残してやれるかということで、その大きなテーマと比べればこの夏の電力不足なんて取るに足りない問題に過ぎないと考えているのです。

 菅直人前首相がどこかで行なった講演のなかで、原発政策については次の総選挙で国民の信を問うべしと語ったそうです。このところ菅さんの動向をニュースなどでも聞くことが少なかったので、これにはとても頼もしく感じました。最近、原発事故の時の菅さんの対応をめぐって、マスコミも批判的な口ぶりでしかものを言いませんが、これは私にとっては腑に落ちない話で、あの時一国の首相が身の危険も省みずに現地に飛んだことで、私たち国民は(そしておそらく現場の作業者たちも)どれだけ心強く感じたことか、そのことをもう一度思い出してみる必要があると思います(なにしろ東電の幹部だって誰一人現地入りはしなかったのですから)。その時の指示が適切だったどうかなんて大して重要な問題ではありません。あの時私たちは、まだ政府は国民を見捨てていないという明確なメッセージを受け取ったのです(自衛隊や消防の活躍も私たちに希望を与えてくれましたね)。あの時の信頼が、その後の野田政権の誕生ですべてご破算にされてしまった。とにかくここはもう一度、脱原発派の議員たちの頑張りに期待するしかありません。橋下大阪市長も、あれほど大飯の再稼働には反対していたのに、いつまでも建て前は言っていられないなどと言って、あっさりと再稼働容認に転じてしまった。面白いことに、原発問題はリトマス試験紙のように政治家の本性を暴き出してくれる。おそらく大飯は再稼働するのでしょう。だが、私たちはこの混乱のなかで誰がどういった発言をし、行動をしたかということを、次の選挙の時までよく覚えておく必要があります。

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2012年6月 3日 (日)

生活保護の問題を倫理で論じてはいけない

 生活保護にまつわるニュースが世間を騒がしています。とあるお笑い芸人の母親が生活保護を受給していることが発覚して、そのことに世間の非難が集まった。売れっ子で高額所得を得ているのに、実の母親を扶養もせず、生活保護を受けさせているのはけしからんという訳です。ご本人はすぐに謝罪し、これまで受け取った生活保護費の返還を約束したのだそうです。長かった下積み生活のことや芸能界での不安定な収入のことを考えれば、厳しく非難されるべきことではない、そういう同情の声も上がっています。この事件に端を発して、芸能人や著名人の周辺に生活保護関連のゴシップを探り出そうというメディアの動きも活発化しているようです。なにしろ日本の人口の2%近い200万人を超す人たちが生活保護を受けているのですから、そういうゴシップのネタには事欠かない筈です。この問題を重く見た(らしい)小宮山厚生労働大臣は、生活保護の審査の厳格化や支給金額の引き下げの検討に入るという声明を出しました。こういうニュースを聞くたびに思うことは、生活保護というのはほんとうに「罪な制度」だということです。

 最近は生活保護のことをネット用語で「ナマポ」なんて呼ぶんだそうです。「生保」をそう読み下しているんですね。「生保」と言えば一般的には「生命保険」の略ですが、福祉の現場などでは昔から「生保」を「生活保護」の略としても使っていました。その混乱を避けるために、そんな略語が編み出された…訳ではありません。たぶん2ちゃんねるあたりが出所なのだろうと思いますが、これは生活保護というコトバが持つマイナスのイメージを払拭するために考え出された新語なのではないかと思います。いや、発案者にそこまでの意図は無かったとしても、こういうコトバが流行る背景には、生活保護受給に対する世間の抵抗感が少なくなったことがあるような気がする。「実はうちは生活保護家庭で…」と言うよりも、「実はうちナマポでさあ」と言った方が、ずっと悲壮感は少ないし、後ろめたさもやわらぐ(でしょう?)。誰もが気軽に生活保護を受けられるようになった、いまの社会の気分をうまく表したコトバだとも言えそうです。実際に民主党政権になってから、生活保護を受給するためのハードルは下がっているそうです。以前は働く能力のある若い人が生活保護を認定されることなどあり得なかったのに、いまはとりあえず失業していて住む家が無いといった条件があれば簡単に受給者になれるらしい。生活保護世帯が急増している背景には、現政権になってからのそうした政策転換があったようです。それが民主党の掲げた「コンクリートから人へ」という政策の一環だとすれば、ここだけはマニフェストが忠実に守られている訳です。

 今回の芸能ゴシップにしてもそうですが、生活保護をめぐる問題には私たちの倫理的感情に強く引っ掛かるものがあります。この問題に対しては人によって態度がふたつに分かれるようです。国民の税金に寄食する生活保護受給者に対しては審査をもっと厳しくして、支給額も下げるべきだというのが「規律重視派」の人たちです。人間らしい最低限の生活は憲法でも保障されているのだから、むしろ制度から取り残される貧しい人たちが出ないように配慮すべきだというのが「人権重視派」の人たちです。どちらの言い分も尤もであり、またどちらの言い分にも違和感があります。生活に困窮している人には救いの手を差しのべなければならない、しかし、働く能力を持った人や年金の支払いを怠って来て無年金になってしまった人を、私たちの税金で支えるなんてことはごめんだ、これが一般の納税者のホンネではないでしょうか(少なくとも私のホンネはそれです)。つまり、規律重視派と人権重視派の対立は、私たちひとりひとりの心のなかにもあって、たまたまある事件や事例を見聞きすると、そのどちらかの観念が倫理的感情とともに湧き上がって来る訳です。だから生活保護のことを考えると心が疲れてしまうし、気鬱にもなるのです。いっそのこと生活保護なんて廃止してしまって、国民一律のベーシックインカムに切り替えてしまった方がすっきりするのではないか。そんな発想が出て来る裏側にも、現行の生活保護制度を前にした時のこの気鬱さがあるのではないかと思います。

 しかし、生活保護制度に対するこの私たちの気鬱さ、つまり湧き起こって来る倫理的な葛藤は、問題の本質ではないと私は考えています。昔の人は生活保護を受けることを恥だと考えたものだが、最近の人は貰えるものなら貰っておけと考えるようになった、そうしたモラルの低下こそが問題だ。そんな言い方をする人も多いようですが、私は同意出来ません。生活保護家庭を差別的な目で見ていた時代の方が、現代よりも倫理的に優れていたかと言えば、絶対にそんなことはないからです。むしろこれは単純に制度設計の不備に由来するものだと考えた方が理屈にかなっている。倫理的かどうかという観点で言うなら、そもそも貧乏な家庭に何の対価でもない現金を渡すという行為自体がアンモラルなものだと私には感じられます。当たり前の社会常識に照らして考えてみれば、「お金をめぐむ」ということは相手の尊厳を傷つけることです。これは原発のある町に原発交付金が支給されたり、米軍基地のある町に補償金が支払われるのとも似た構図です。倫理性を問うなら、制度そのものの倫理性を問うべきなのです。生活保護の不正受給について、国会議員が特定の個人を名指しで糾弾するなんて、それこそ倫理性が欠如していると私は感じました。政策を立案出来る立場の国会議員が、問題の本質は制度そのものに内在していると何故考えられないのか、その方がよほど倫理的に問題ではないのか。

 生活保護に関する問題の本質がどこにあるかと言えば、それは倫理性の問題ではなく、効率性の問題だと思います。現行の生活保護制度には、二重の無駄があります。ひとつは個々の生活保護世帯に直接現金を支給するやり方は、(アンモラルなだけでなく)経済的にひどく非効率であるということ、もうひとつは既得権化した生活保護は受給者から勤労意欲を奪い、結果的に国内の労働生産性を低下させることにつながっているということです。これに対しては、私は以前からひとつの提言をしています。生活保護世帯のための共同住宅を建てて、生活の基盤と職を同時に提供する仕組みを作ってしまったらどうかというものです。自民党が最近発表した『日本の再起のための7つの柱』という文章のなかには、生活保護制度の見直し案も含まれています。そこでは生活扶助よりも自助を優先して、生活保護費の削減や現物給付を検討すると書かれています。「自助」も「現物給付」も必要なことだとは思いますが、問題はそれをどのように具体的な制度に落とし込んで行くかということです。その議論を阻んでいるものが、生活保護をめぐる古くさい倫理的感情だとすれば、まずは私たちひとりひとりがそれを乗り越えるところから始める必要がある。さもなくば、この問題はこの先も不毛な道徳論争のなかで堂々めぐりを繰り返すだけでしょう。

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