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2012年5月27日 (日)

「連邦型道州制」はあり得ない選択肢

 消費税の増税論議ほど差し迫ったものではありませんが、道州制による地方分権の推進ということも常に話題にのぼる政策テーマです。自民党政権時代には、将来の道州制導入をにらんで道州制担当大臣を置き、道州制ビジョン懇談会というものを設置していたそうですし、民主党のマニフェストには「道州制」の文字こそ見えませんが、地方への税源移譲、権限移譲ということははっきり謳われています。次の選挙で躍進しそうな大阪維新の会の「船中八策」にも、公約のひとつとして道州制が掲げられています。また先月には岡山県知事の呼び掛けで、「道州制推進知事・指定都市市長連合」というものが発足し、橋下大阪市長もそこに名を連ねているそうです。国政に対する国民の信頼が大きく揺らいでいる現在、地方分権に向けた動きには世論も期待を寄せているのではないでしょうか。このブログでは、これまで道州制や地方分権というものについて、ほとんど考察をして来ませんでした。正直に言って、あまり興味を掻き立てられるものが無かったのです。むしろ一種の胡散臭さを感じていたと言った方がいいかも知れない。今回は、私が何故道州制というアイデアに心惹かれないか、そのことについて少し書いてみたいと思います。

 道州制とひと口に言っても、論者によって考えていることにはずいぶん差があるようです。現在の47都道府県を10程度の州に統合して、地方行政の無駄を省こうという〈小さな政府〉指向の提案から、新設した州に立法権や徴税権まで与えて、日本をひとつの〈連邦国家〉にしてしまおうという大きな構想まで、同じ道州制というコトバで括ってしまうと誤解を招くようないろいろな考え方があります。ここでは国の権限を大きく州に移譲する、連邦制に近いかたちでの道州制というものに議論の焦点を絞りたいと思います。国全体を覆う現在の閉塞状況を打ち破るためには、そのくらい大きな構想が求められていると思うからです。私が読んだなかで、道州制の意義を最も雄弁に、しかも希望に満ちた言葉で語っているのは大前研一さんではないかと感じました。だからここからは大前氏による道州制構想を対象に考察して行くことにします。大前さんの文章には、いつも単なる政治批判、社会批判だけではない具体的な政策提案や独創的なアイデアが溢れていて、読みながら啓発されることが多いのですが、道州制についても明快に説明してくれています。少し長いですが、インターネットで見付けた文章から引用させていただきます。

 「日本は、もはや中央集権国家としては終わってしまった国だ。これからは地域ごとに統治機関を持ち繁栄を競争するようにならないと新たな活力は出てこない。そして北海道や九州など、地域ごとに違うリズム、違う方針を打ち出していく必要がある。

 北海道はおそらく極東ロシア開発の前線基地となるだろう。先進国の企業がそこに集結してくる。第二外国語はロシア語、ということも考えられる。逆に九州では東アジアの繁栄の真っただ中で黄海経済圏のハブの一つとなるだろう。第二外国語は中国語、そして多くの人が小学校から韓国語を学ぶことも考えられる。全国一律に英語を、という状況でなくていいのだ。

 航空ネットワークも、金融市場も、東京中心ではなくそれぞれの道州が決めていく問題となる。かなりの立法権および徴税権を道州に渡し、繁栄の方程式を自立的に作っていくことができるようにしなくてはいけない。世界中から資本、企業、技術、人材、情報を呼び込む競争が始まる。そして繁栄に取り残されたところは、逆に癒やしを求めるバケーション客とか高齢者のリタイアメントタウンなどで生計を立てることになる。米国で言えばモンタナ州とかバーモント州、ということになる。

 道州ごとに経済を膨らませるプランを立て、それをベースに繁栄を競うことになる。納税者の税金で景気を刺激するのではなく、世界に有り余る資金を吸引して繁栄する。それがわたしの提唱する「地域国家論」に基づく道州制というものだ。」 (『道州制に移行しなくてはいけない真の理由』

 リーマンショックやユーロ危機といった問題が現れる前に書かれた文章なので、ここに見られる未来指向の楽天主義はいまの時代の空気にはそぐわないものになっているかも知れません。それでも私はこれを単なる夢物語で片付けることは出来ないと感じます。規制緩和をして世界の成長を取り込めとは、構造改革派の人たちがいつも口にする主張ですが、それがこういう具体的なイメージで語られると、私のような(アンチ構造改革派の)人間にも魅力的に映るのです。おそらく大前さんは、日本がこれから見習うべき経済モデルとして、シンガポールや上海のような経済成長著しいアジアの都市を念頭に置いているのだろうと思います。キーワードは、金融や貿易の自由化、物流ハブ機能、安い法人税と高い人材流動性、といったものです。問題は、日本を10個の州に分割して、規制緩和を思い切って進めれば、それぞれの州がシンガポールや上海のようになれるのかという点です。たぶんそれが難しいのは、すでに日本は国内全体が一定の経済水準を達成してしまっていて、これから成長する余地は他のアジア地区と比べて小さいと思われるからです。現在のシンガポールや上海の経済的繁栄には、冷静に見ればやはり光と影の部分があるので、その成功は周辺地域から安い労働力や商品の供給を受けていることで成り立っています。中国の大都市では、現在の日本どころではない極端な経済格差があって、地方出身の多くの労働者はそれこそ奴隷のような状態に置かれている。シンガポールは、国としては成功したモデルと言えるでしょうが、それは労働者の流入を峻別することで一種の人工的なエリート国家を作り上げたという特殊事例だと思います。少なくとも1億2千万人の国民を抱える日本のお手本とはなり得ません。(東京だけに富を集中させ、他の地方からの〈移民〉を制限するという構想なら理論的には可能かも知れませんが…)

 現在の日本で経済政策に関する意見が大きく対立しているのは、基本的には「トリクルダウン派」と「ボトムアップ派」の対立であると見ることが出来ます。つまり経済成長を最優先にして、そこで得た富を貧しい人たちに配分するという考え方と、社会保障を優先して金持ちにはそれを支える税を負担してもらうという考え方です。しかし、このふたつはどちらか一方を選択しなければならないといったものではない筈です。その時々の社会情勢や経済情勢のなかで、両者のバランスをとりながら政策運営をして行くというのが、経済的に成熟した国の政府に課せられた課題だと考える方が現実的です。ともすれば対立する陣営の論客たちは、白黒を争って極端な議論に走りやすい。道州制論議などはその典型であるように思えます。大前さんのように率直に語ってくれると、その矛盾がとてもはっきり見えて来るのです。「繁栄に取り残されたところは」観光産業や退職者の誘致で食って行くというのが大前さんの構想ですが、徴税や財政の仕組みが別々である以上、貧しい州には観光地やリタイアメントタウンとしてのインフラを整備することさえ難しいということになり兼ねない。州ごとに「繁栄を競う」と言えば聞こえはいいけれど、実際には経済格差は広がる一方でしょう。トリクルダウン理論というのは、構造改革派・規制緩和派にとっての錦の御旗ですが、そもそも州ごとに財政の財布が別になってしまっては、トリクルダウンもへったくれもない訳です。例えばある州は税率は高いが社会保障も厚い、ある州は逆に税金は安いが必要最低限の社会保障しか無かったとする。私だったら現役時代は後者の州で働いて、退職後は前者の州に移住しますね。たぶんみんながそういう選択をするから、前者の州では財政が成り立たなくなる。するとすべての州が社会保障の切り捨てに走ることになります。究極の〈自己責任国家〉の完成です。徴税や社会保障にまで自治権を与えるという地方分権論者は、こういった基本的な問題についてどこまで考えているのでしょうか?

 私は国内の経済を成長する分野と社会保障が必要な分野に分け、その両方に別々の経済政策を当てることには賛成だし、必要なことだとさえ思っています。現在のままのやり方では、日本は増大する社会保障費で国全体が沈没してしまう。このための対策として、すでに私は「生活保護制度の見直し」や「政府通貨によるベーシックインカム」といった政策提案を別のところで書いています。いずれも実施するならオールジャパンで実施すべき政策です。地方分権というのは、その地方独自の産業を振興したり、住民サービスの質を向上させるといった目的のためなら進めるべきだし、そのための規制緩和は国が行なうべきでしょう。が、徴税権や立法権まで地方自治体に与えるという大きな政策転換は、もともと不可能なことであるばかりでなく、無理に実行すればこの国の社会システムを根底から破壊してしまう可能性が高い。現在の日本は、少子高齢化が進むなかで、年金制度を含む社会保障制度をオールジャパンでどう再構築するとかいう課題が待ったなしなのです。そんな状況のなかで、「連邦型道州制」などという机上の理想論を持ち出して政策論議を混乱させることは許されないというのが私の考えです。

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2012年5月20日 (日)

経済学に関する素朴な疑問

 消費税の増税をめぐって国論が二分されています。不思議なのは、この問題に関しては、エコノミストと呼ばれる専門家のあいだでも意見がまっぷたつに割れていて、しかも互いに相手を論破したり説得したり出来ない状態がずっと続いているということです。増税賛成派が、このまま国の借金が増え続けると、日本もギリシャのように財政破綻すると脅かすと、反対派は増税すればますます景気が悪化して、却って財政破綻を早めると応酬する。憲法改正問題だとか死刑廃止問題だとかいうものとは違って、私たちの道徳観や政治的信条に抵触するような問題ではないと思います。消費税を5%から10%に上げることによって、景気や財政にどのような影響が出るか、それだけの単純な問題です。増税賛成派も反対派も、景気を回復して財政を健全化することが望ましいという点では意見が一致しているのです。景気回復と財政再建のためには、消費税は上げた方がいいのか、据え置いた方がいいのか、あるいは下げた方がいいのか。それは理論的・実証的に正解の出せる問題である筈です。数学を駆使した現代の精緻な経済学が、こんな単純な問題にも統一見解を出せないことには、一体どういう理由があるのだろうか?

 以前から疑問に思っていたことがあります。経済学の専門的な論文を覗いてみると、まるで数学の論文かと見まごうほど数式で埋め尽くされていることがよくあります。私のような〈文科系の〉初学者を近寄せまいとバリヤーを張られているかのようです。もちろん専門的な学問分野に素人が近づき難いのは当然のことだし、自然言語だけでは究明出来ないような学術的課題があることも理解出来ます。分からないのは、そこで操作されている数式に実際の数値が代入されて、その数式の妥当性が検証される機会がほとんどないように見えることです。これが物理学の公式、例えば有名なE=mc2という公式なら、実際の数字によってエネルギーと質量が等価関係にあることを示すことが出来ます(Wikipediaによれば、質量1kgは電力24,965,421,632kWhと等価なのだそうです)。ところが、経済学の教科書に出て来るような公式、例えばPT=MVだとかC=C0+cYといった式に実際の統計数値を代入して、これが普遍的に成り立つことが証明出来るのだろうか。非常に小さな経済モデル(もしも地球の人口が百人だったらというような)のなかでなら、その妥当性が証明出来るような公式もあるのかも知れません。しかし、現実のマクロ経済を対象にして、その数式を文字通り当てはめて「解」を求めるなんてことは、常識的に考えても出来そうにありません。

 このような素人の疑問に対しては、どういう反論が返って来るかも分かっています。物理学で扱っている自然的事象と比較して、経済学が対象としているのは非常に複雑な要素の絡み合った社会的事象なので、単純な数式をそのまま当てはめても、等式は成り立たないというものです。最近のコトバでは〈複雑系〉なんていうのでしたね。複雑系と呼ばれる対象のなかでは、個々の公式が成り立たない例外的な事象が常に発生している訳ではなく、そこに干渉する別の要素が多過ぎるために単純な公式は当てはまらないように見えるのです。経済を数理モデルによって解けると考えている人は、そのモデルを精緻に複雑にして行けば、正解に近付けるだろうと考えている訳です。適切なプログラムを準備して、スーパーコンピュータで計算させれば、消費税増税の影響ももっと正確に予想出来るようになるかも知れない。これは事実かも知れません。少なくとも、増税賛成派と反対派がいつまでも水掛け論を繰り返しているような状況にあって、どこかの大学の研究チームがスパコンでシミュレーションさせた結果を発表すれば、それはかなり世間の注目を浴びるだろうし、重要な研究として評価されるだろうと思います。日本はいま世界最速のスーパーコンピュータを持っているのですから、何故そういう用途でこれを活用しようとする研究者が現れないのか不思議です。これは現在の日本にとって、緊急かつ最重要の課題と言ってもいいようなものだからです。

 複雑系を扱う学問の代表である経済学が、このような方向で進化して行くことには期待が持てるような気がします。少なくとも、党派性や個人的利害を抱えた個々の経済学者やエコノミストが、勝手な意見を(そのひとつひとつにはとても説得力がある訳ですが)言い合っている現状よりはずっといい。もちろんスパコンを使えば、それで自動的に正解が導き出せると考えるほど単純な話ではないので、次に問題になるのは、複雑系の事象をどのようにモデル化するかということでしょう。様々な研究チームが、工夫を凝らした数理モデルを持ち寄ることになるかも知れない。これは一般の自然科学と同様に、仮説・検証のサイクルに乗せることが出来るものなので、無益な神学論争に陥る心配からは解放されると思います。むしろそこで提出される複雑系のモデルを修正し、精緻化して行くことこそが、経済学の発展と呼べるものかも知れない。――しかし、ここで人文系出身の私は、もうひとつの疑問を持ってしまうのです。それでは未来を正確に予想し、最適な経済政策を提言出来ることが、経済学の目指すべき理想の姿かと言えば、それだけでは不足なような気がするということです。本来あるべき経済学とは、未来を予想するだけではなく、未来を切り拓く役割を担っているものではないだろうか。

 よく経済学者やエコノミストと呼ばれる人の文章を読んでいると、今回の経済的事件(例えばリーマンショックやユーロ危機など)を、自分は何年も前から予測していたと書いているのに出会うことがあります。それがつまりその人の理論の正しさを証明していると言いたい訳です。でも、私はこれはおかしいと思う。 例えは競馬ではどんな大穴が出ても、予想を当てた人は必ず出て来るものです。それはその人の予想理論が正しかったのではなく、たまたま今回は運が良かっただけです。経済的事象に関しても同じだと思います。経済学の目指すところは、ある政策が経済に与える影響を予想したり評価したりすることではありません。これからの時代に経済はどうあるべきかを仮説で示し、それに向けて人々を説得し啓蒙して行くことこそが経済学という学問の本来の使命なのではないか。歴史上の偉大な経済学者、例えばアダム・スミス、マルクス、ケインズといった人たちは、優れた予想家だった訳ではなく、まさに未来の経済のあるべき方向を示した先覚者だった訳です(但し彼らによって社会がほんとうに良い方向に変わったか、そのことは疑問ですが…)。いまもまだ経済を論じる人のなかには、経済成長を目標に設定している人が多く見受けられます。しかし、資源問題や環境問題が地球規模で深刻になっている時代に、経済成長を至上命題とする考え方がこれからの経済思想においても主流であり続ける訳がない。現在ほど経済に大転換が迫られている時代はなく、そのための新しい経済理論が求められている時代はないと思います。そのビジョンが無いところで、増税に賛成・反対といった議論をしているのは空しいことです。

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2012年5月13日 (日)

政界再編を気を長くして待つ

 民主党の小沢元代表が無罪判決を受けて、これからの政界再編に向けた台風の目になるのかと思ったら、なんと控訴されて再び刑事被告人の立場に逆戻りしてしまいました。誰もが意外なことに思った筈です。もともと今回の事件は、検察が起訴を断念したものを、検察審査会の判断で強制的に起訴させたものです。検察審査会というのは、国民のなかから抽選で審査員を選び出し、起訴権を持つ検察を市民の目で監視するために作られた制度だそうです。要するに裁判員制度と同じで、素人判断を司法の場に持ち込むための制度です。その検察審議会が、小沢氏に対して「起訴相当」という判断を下した。ところが検察自身は起訴を諦めているのだから、起訴する主体が存在しない。裁判所から任命された指定弁護士が検察官の役を務めて、形式的な裁判が行なわれた訳です。茶番劇のようなものだという気がしますが、そういう決まりなのだから仕方がない。ふだんは被告人の無罪獲得や減刑のために奮闘している弁護士が、心ならずも検察官の立場に立たされるなんてお気の毒なことだ、そう思っていたので、今回の事件は無罪判決で一件落着するものと思っていました。まさか国選弁護人、じゃなかった、国選検察代理人が控訴するなんて想像もしなかった。

 もちろん検察の立場として事件に関わった結果、被告人が有罪であることを深く確信するようになったのかも知れませんし、弁護士という職業柄、控訴などすべきではなかったとは言いません。しかし、私がおかしいと思ったのは、会見した担当弁護士が政治への影響については考慮しないように努めたとコメントしたことです。現在の政局は、消費税の増税をめぐって緊迫した状況にあります。小沢一郎という政治家に対する好き嫌いはあっても、この人がいまの政局において重要な立役者であることは間違いありません。ここで控訴を選択するということは、まさに国政に対する非常に大きな影響力を行使することに他ならない。もしも今回の担当弁護士が、司法に政治的な思惑を絡ませるべきではないという言い訳を用意しているなら、それこそ世間知らずの法曹人の非常識だと言わざるを得ない。いや、そんな言い方をする私の方が世間知らずかも知れませんね。当然、そこには政治的なウラがあると読むべきなのかも知れない(今回控訴に踏み切った3人の弁護士の政治的な素性はどういうものなのでしょう?)。いずれにしても、国民の信託を受けた訳でもない一介の司法官が、国政にこのような大きな影響力を持つこと自体に違和感があります。もしも検察審査会という制度があるなら、今回の控訴が妥当なものであったかどうか、それをこそ審査させるべきではないだろうか。

 そう、こんな感想を書いている私は、小沢氏の政界完全復帰を待ち望んでいたのですね。小沢一郎という政治家を私はあまり信用していませんし、過去に批判的な記事を書いたこともありました。しかし、政局ここに至っては、大義は小沢氏の側にあると思わざるを得ないのです。2年半前の選挙で私たちが民主党に政権を預けたのは、増税内閣を成立させるためではなかった筈です。消費増税は党として決めたことなので、党員はそれに従うべきだなどとうそぶく野田総理や岡田副総理のコトバを聞いていると、私はどうしても怒りをこめて言いたくなる、「この裏切り者め!」と。少なくとも自民党の総裁がコロコロ替わった時だって、私たちは政策面で大きく裏切られたと感じたことは無かったと思います(期待が裏切られたと思うことはあっても)。私は野田総理と同い年で、野田さんは私たちの世代が生んだ最初の総理大臣ということになるのですが、だからといって親近感などはみじんも感じません。むしろ平気で前言を翻せるその人間性が気持ち悪くて仕方がない。誰かがいまの民主党のなかには「良い民主党」と「悪い民主党」が同居していると言っていましたが、私もそんな気がしています。民主党はこの2年半で、有権者の期待を大きく裏切りました。しかし、それはマニフェストが間違っていたからではなく、それを完遂する能力や実行力に欠けていたからです。まだ1年半の任期があるのだから、矢折れ力尽きても最初の国民との約束にあくまで突き進むべきではないか。それを諦めるなら、その時点ですぐに解散すべきでした。

 政界再編のもうひとりの台風の目、橋下大阪市長も私の嫌いな政治家ですが、政策面では支持したい部分が多いと思っています。消費増税に断固反対していることは心強いし、原発再稼働にストップを訴えているのも頼もしい。政治手法が強引だという意見もありますが、それはこの人の性格や人間性によるもので、政策や政治的信条とは分けて考えるべきでしょう。近い将来、もしも維新の会が政権を取って、橋下さんが総裁になったらたいへんな独裁者が誕生するのではないか、そう心配する向きもあるようですが、これは杞憂に過ぎないだろうと思います。橋下さんは小泉元総理のような国民的人気を勝ち得ることは出来ないだろうと私は予想します。何故なら、橋下さんには小泉さんの持っていたような天性の明るさが無いから。基本的に陰湿な性格の人だから。そういう人は政界再編の立役者になることは出来ても、主役を務めることは難しいでしょう。たとえ総理大臣になっても、長続きはしないだろうと思います。もしも〈天の配剤〉ということがあるのなら、いまこういう人が出て来たことにはそうした隠された意味があったのかも知れない、そう考えたいほど私たちはいまの政治に絶望している訳です。

 今年か来年に行なわれる総選挙では、たぶん私は大嫌いなこのふたりの政治家に一票を投じることになるだろうと思います。それは次の政権への信認の一票ではなく、ふたりの「壊し屋」にひと暴れしてもらって、政界再編を促すための一票です。このままズルズルと行けば、自民党と民主党というふたつの〈死に体政党〉のもとで、日本はほんとうに沈没してしまう。前回の総選挙のテーマが「政権交代」であったとすれば、次回のテーマは「政界再編」です。それだけは間違いがない。昨年の大震災でも証明されたように、日本は政治がダメでも困難の時代を乗り越えられる。国民は本当に信頼出来る政府が誕生するまでに、まだまだ何年でも待つことが出来ます。次の安定期までには、まだまだ長い時間が必要になるだろう、そういう長い目でいまの政局を判断することが重要だというのが今回の私の結論です。

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2012年5月 6日 (日)

自動車事故にメーカー賠償を

 悲惨な自動車事故のニュースが相次いでいます。私たちの周りにある工業製品のなかで、自動車ほど人間を不幸にするものが他にあるでしょうか。何故これほど大量の死傷者をコンスタントに生み出す危険な機械が、世の中に野放しにされているのか? 私が子供の頃(昭和30年代から40年代ごろ)には、自動車は「走る凶器」と呼ばれていましたし、「交通戦争」という言葉もよく耳にしました。それがその後のモータリゼーションの進展とともに、自動車の持つ負の側面は巧妙に隠され、私たちはまったく何の疑念も抱くことなくこの殺人機械と共存する道を選んでしまった。いや、こういうレトリックはよくありませんね。現代に生きる私たちは、たとえ自家用車には乗らなくても、自動車が無くては成り立たない生活を送っている訳です。つまり誰もが加害者になってしまったので、個々の事故に対しては責任追及をしますが、クルマ社会というものそのものの功罪を問うことは出来なくなっている。しかし、立ち止まってよく考えてみれば、この便利で豊かな社会は、年間7千人もの犠牲者の上に成り立っているとも言えるのです。交通事故の全死傷者数は、年間100万人を超えているそうです。ほとんど死傷者を出したことのない原子力発電所に対しては、これほど大騒ぎをするマスコミが、毎年多くの死傷者を出しているクルマ社会に対しては告発の声を上げることをしない。これは自動車メーカーが広告スポンサーだからというだけでは説明がつかないことです。

 多くの死傷者が出る交通事故が起こると、マスコミはまるで犯罪者のような扱いで運転者のことを実名報道します。いや、確かに現在の法体系の下では、交通事故を起こすことは犯罪に分類されるのかも知れませんが、私はこれに少し違和感があります。飲酒運転や故意の危険運転という事実があるならともかく、バスの運転手が居眠り運転で事故を起こしたといった場合に、私たちは彼を一般の殺人犯と同列に扱うべきなのだろうか。だって居眠りなんていうのは、誰にも経験のある人間の自然な生理現象ではないですか。もちろんプロの運転者として、居眠り運転などあるまじきものです。が、結果の重大さと原因の軽微さのあいだには、あまりに大きな隔たりがあり過ぎる。事故の原因だってそう単純なものではありません。最近は格安バスツアーの流行で、運転者の労務環境がひどいことになっていると言います。そこでツアー会社やバス会社の労務管理に問題は無かったかという観点で当局の調査が入る。しかし、今回の高速バス事故に関しては、高速道路のガードレールと防音壁の取り付け方が被害を拡大した要因だとも言います。であるなら、それを放置した当局の責任だって問われなければならない。そしてもっと根本的な問題として、運転者が居眠りをしたくらいのことで、多くの死傷者を出すような危険な機械を販売している自動車メーカーの責任はどうなっているのかと私は問いたい。

 だいぶ以前に三菱自動車のトラックが起こした脱輪事故で歩行者が亡くなった時には、メーカー責任が厳しく問われたことがありました。最近ではトヨタのレクサスがアクセルを踏んでいないのに勝手に加速する欠陥があると言って、アメリカで訴訟が起こされたことがありましたね(これは事実無根だったようですが)。つまり明らかに欠陥があると認められる場合にはメーカーにも賠償責任が発生しますが、そうでなければ使用者(運転者)だけが一義的な責任を負わされる仕組みになっている訳です。しかし、年間7千人の死者と100万人の負傷者を生み出している機械が、欠陥製品ではないという理屈は通らないと思う。今回私が考えたのは、自動車事故が発生した場合には、事故を起こしたクルマのメーカーに賠償責任の半分を負わせたらどうかということです。自動車事故による損害額は、対人・対物を合わせて年間で3兆2、3千億円にも上るのだそうです。呆れるような話です。日本国内の新車販売額は10兆円ほどですから、自動車メーカーは売上高の3分の1の損害を国内経済に与えている訳です。(もちろんそれを上回る経済効果を生み出しているという見方もあるでしょう。) それだけ危険な製品を世に送り出している代償として、事故の際の賠償責任をメーカーに負わせることは理にかなっているのではないでしょうか。実際にはその分の保険料が車体価格に上乗せされるだけなので、決して非現実的な話ではありません。メーカーはおそらく保険料を下げるために、安全なクルマの開発に本気で取り組むようになると思います。安全装置を搭載したクルマの事故率が低くなることが統計的に証明されれば、保険料も安くなる筈だからです。

 自動車事故を防ぐための技術も進歩していて、最近は危険を察知すると自動でブレーキが作動するようなクルマも販売されているようです。そういう技術が開発されているなら、何故すべての自動車に装着を義務付けないのかと私などは思ってしまうのですが、もちろんそこには経済的な理由がある訳です。すべての自動車の価格が、そのために数十万円高くなるとしたら、基幹産業たる自動車産業は深刻なダメージを受けることになるでしょう。メーカーが、安全装置の標準装備に積極的にならない理由にはもうひとつあります。もしも安全装置の誤動作などで事故が発生したら、その時にはメーカーが責任を問われることになるからです。人間の誤動作(居眠り運転やブレーキとアクセルの踏み間違えなど)はメーカーの責任範囲外なので、そこで事故が起こってもメーカーは痛くも痒くもない。しかし下手に安全装置など搭載してしまうと、訴訟を起こされる可能性が高くなるのです。この問題を解くのは簡単です。人間の誤動作と安全装置の誤動作とを比べて、どちらがより発生確率が高いかを見ればいいのです。当然人間の方が誤動作が多いだろうと私は思います(そうでなければ、まだ安全装置としての完成度が低過ぎる訳です)。もちろん安全装置を積んでいるからと言って、運転者の責任が免除される訳ではありません。安全装置を積んだクルマであろうとなかろうと、事故の際の賠償責任は、運転者とメーカーが折半で負うようにすればいい。交通事故を無くすための努力は、メーカーと運転者が共同で推し進めるべきものだからです。

 警察庁は交通事故に関する様々な統計データを発表していますが、自動車メーカー別、車種別の事故の発生件数や発生率などというものは発表していません。まずはそれを発表するところから始めるのはどうでしょう。とにかく交通戦争が常態化してしまった現代において、自動車メーカーだけが優遇され過ぎています。私は別に自動車メーカーに恨みがある訳ではありませんが、悲惨な事故のニュースに接するたびに製造者責任はどうなっているのだろうと考えずにはいられないのです。日本国内でメーカーに賠償責任を負わせる法律を作ったとしても、それで国内メーカーが不利になる心配はありません。国内で販売される輸入車にも同じ法律が適応されるので、競争上の有利不利はないのです。安全装置を義務付ける訳ではないので、安いクルマを買いたいという消費者からの反撥も無い筈です(むしろ事故を起こしても、賠償額の半分はメーカーが負担してくれるので歓迎されるでしょう)。メーカーは、国内販売するクルマにだけ安全装置を標準装備して、海外に輸出するクルマではそれをオプションにするといった販売戦略を採るかも知れない。まったく構いません。この法律によって日本国内の交通事故死傷者が劇的に減少すれば、先進国を中心にこれに追従する国が多く現れるだろうと思います。その時に安全装置の技術開発で先駆けている日本の自動車メーカーは、再び世界の市場を席捲することになるだろうというのが私の長期的な展望です。

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