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2012年4月 8日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(8)

【8】 何故これをベーシックインカムと呼ぶのか?

 このテーマに足を踏み入れると、長い連載になることは分かっていました。まだ語らなければならないことがたくさんあるような気もしますが、とりあえず今回で連載を締めくくります。減価する電子マネーの仕組みとこれを導入することの意義については、ここまでの説明である程度理解していただけたのではないかと思います。ひとつ疑問が残るとすれば、何故月にわずか1万円相当分くらいのクーポンの支給を、「ベーシックインカム」などという大層な名前で呼ぶのかという点ではないでしょうか。ベーシックインカムというのは、すべての国民に最低限の生活が送れるくらいの所得を政府が保障するという制度です。最低限の生活保障という意味でベーシックなのです。その金額は論者によって異なりますが、だいたい月額7万円から10万円くらいを考えている人が多いようです。これは国民年金や生活保護費と同等か、それより少し多いくらいの金額です。他に何も収入が無いとすれば、人間ひとりが生活して行くのにその程度のお金が必要だというのは、まあ妥当な線であるような気がします。エコという通貨は、通常日本円とともにしか使えないお金ですから、それだけでは購買力を持ちません。そんな価値の低いお金を、しかも月に1万エコというはした金を貰っても、それで最低限の生活保障になどなる訳がない。それでも、私はこれをベーシックインカムと呼ぶことに多少のこだわりがあるのです。

 この国の大多数の勤労者は、企業や公的機関などの組織で働くことで、月になにがしかの給金を受け取って、それで生活を営んでいます。しかし、働く人が〈月給〉というかたちで労働の対価を受け取るようになったのは、そう古いことではありません。それは明治政府が西欧に倣って導入した制度でした。江戸時代までは、武士階級は「奉祿」として米などの現物支給を年に何回かに分けて受け取っていただけでした。現金収入は、それを仲介業者に買い取ってもらうか、内職をしたり出稽古をしたりして稼いでいたのです。一般の町人は、たとえ組織に勤めたとしても(つまり商家に奉公に出たとしても)、月々の給金などはありませんでした(せいぜい盆と暮れに帰省のための小遣いを支給された程度)。組織に属さない町屋の市民は、それこそ小商いをしたり日雇いに出たりして日銭を稼いでいた訳です。まさに「金は天下の回りもの」であり、「宵越しの銭は持たない(持てない)」のが江戸っ子の貨幣との関わり方でした。これに対し現代に生きる私たちにとって、金は天下の回りものではありません、それは所属する組織から月ごとに〈下賜〉されるものであって、これ以外に現金収入というものを私たちは原則的に持っていません(アルバイトなどの副業を禁止している組織も多いと思います)。ふだんからそういう貨幣との付き合い方をしているので、例えばベーシックインカムというアイデアがあることを聞いても、「最低限の生活保障? そのためには月にいくら必要だろう?」とまず考えてしまう。しかし、お金というものの本質は流通することにあるのですから、1か月という期間に必要な総額という考え方をするのはおかしいのです。組織から支給される給料で生活を立てている私たちは、お金というものに対して徹頭徹尾受け身の姿勢になっているように感じます。月にいくらもらえるかではなく、自分が貨幣流通の仲介者として何をすべきか・何が出来るかということを本当は考えるべきではないだろうか。

 さあ、これだけの前置きでこれから私が何を書こうとしているか、以前の記事を読んだことがある方には察しをつけられてしまっただろうと思います。そう、エコ通貨の本領は、国が支給するベーシックインカムにあるのではなく、生活者同士が価値を交換するための仕組みを提供するところにあるということです。日本円は誰にとっても便利で魅力的なお金ですが、ふつうの生活者が価値を交換するためには不便なお金です。私たちは企業から給与としてお金を支給され、企業が提供する商品やサービスの対価としてそのお金を支払います。また一部は税金として国や地方自治体に納めます。つまりお金の流れは、組織と個人のあいだを縦に行ったり来たりしているだけです。お金を介した個人間の横のつながりというものはほとんど存在していません。いや、例外もありますね。インターネットオークションのような仕組みを利用して、個人と個人が日本円を媒介にして取引をする機会もあるからです。しかし、それだって自発的に取引が発生している訳ではなく、オークションを主催する企業がビジネスとして設定した場所で、多くは企業製品の中古品が売買されているに過ぎません。売り手が新しい価値を生み出している訳ではないのです。要するに現代においては、お金を支払う価値のあるものは、企業が送り出す商品やサービスに限定されるということです。消費者の立場として見ればこれは快適なことかも知れません。私たちは30年前には想像も出来なかったような魅力的な商品やサービスに取り囲まれている。しかし、労働者の立場として見れば、なかなかつらい状況です。市場に支持される商品やサービスを生み出しているような企業に、正社員として勤めている人だけが、十分な報酬を得ているのが現実です。なにしろそこにしか(日本円に換算出来る)価値あるものは存在しないのだから。しかも企業は国内の正社員を削減して海外シフトを進めている。見捨てられた99%の私たちはどこへ行けばいい?

 答えは簡単なことです。価値交換の流れを縦方向だけでなく、横方向にも広げればいいのです。しかし、現在の日本円は、日本経済の発展とともにあまりに〈高価なお金〉になってしまったために、個人間の取引に気軽に使えるようなものではなくなっています。例えば、近所に住むひとり暮らしのお年寄りが、買い物や病院通いの足が無くて困っているとしましょう。自分は車を持ってるし、時間の余裕もあるので、何かお手伝いをしてあげたいと思っている。ボランティアで買い物の代行をしたり、病院までの送迎をすることなら出来るかも知れません。でも、それでは長続きしないでしょう。無償の親切というものは、(特に現代においては)それを受ける側に大きな心理的負担を与えるものだからです。だったらいくばくかの手間賃を(日本円で)貰ったらどうだろう。すると今度はあなたの方が心理的負担を感じてしまうに違いない。お金が目当てでお手伝いを申し出ている訳ではないのだから。ボランティアと日本円の中間に、当たり前の親切や助け合いを媒介する手段が無い、私はこれが現代日本の不幸ではないかと思っています。そのことを如実に表しているのが、介護保険制度です。2000年に導入されたこの制度は、介護が必要な人のニーズを〈要介護度〉という尺度で点数化し、それに合わせて提供出来る介護サービスの項目を細かく決めています。寝たきりのお年寄りが大切にしていた鉢植えが枯れてしまった。介護ヘルパーが行なっていいサービスのなかに鉢植えへの水やりは入っていなかったからです。こういう例を挙げて、行政の杓子定規な規則を責めても仕方ありません。貴重な政府財源を使って、なるべく効率良く介護サービスを提供するためには、このような杓子定規はある程度やむを得ないことだとも思います。問題は制度設計の良し悪しにあるのではない、介護のような領域を日本円の経済でのみ支えようとする発想にそもそも無理があるのです。

 これから本格的な高齢化社会を迎えるにあたり、まずは介護や福祉といった分野にエコ通貨を流通させることを提案します。そのためには、現在の介護保険制度のようなものはいったんご破算にして、エコの経済にふさわしい緩やかな規制の制度に作り変える必要があります。現実的な方法としては、この分野で働く人の賃金に対し、一般の営利企業に勤める人の賃金よりもエコの割合を緩和することが考えられます。これまで15万円の月額給与を支給されていた福祉施設職員が、10万円+10万エコという配分で給与を受け取るようになる、そんなイメージです。これは昇給だろうか、それとも減給だろうか、前にそう質問したことがありましたね。私の考えでは、それを昇給として喜べる人が、福祉分野で働くことへの適性を持った人ではないかと思う訳です。「でも、月に10万エコ(国からの支給分を含めると11万エコ)なんて、どう考えても使い切れないよ」、そう言う人がいるなら、「それは日本円の経済圏での発想です」と答えましょう。エコの経済圏というものが拡大すれば、日本円に頼らなくてもエコだけで売り買いが出来る機会は増える筈だからです。「それは具体的にはどういうこと?」 こういうことです。全国の障害者施設や作業所のようなところでは、様々な製品やサービスが日々生み出されていますが、日本円の経済のなかではなかなかいい値段をつけてもらえません。そうした作業所で働く人の賃金は、平均して月に1万円程度だという話を聞いたことがあります。それが市場原理が値付けしたその人の労働価値ということなのでしょう。障害者の自立の前には、この市場原理の厚い壁が立ちはだかっている。その壁を力ずくで突破しようとしても無駄だと私は思います。むしろ土俵を替えた方がいい。つまりエコ市場に売り出せばいのです。

 あなたが福祉施設で働く職員だったとして、あなたの職場で提供出来る価値は何でしょう? まずそれを考えるところからエコ経済への参加は始まります。それぞれの施設が得意分野で商品やサービスを開拓して、エコ市場に出品すれば、そこに日本円からは独立した経済圏が立ち上がることになる。つまり、エコを値引きのクーポンとして使うのではなく、本来の通貨として使うことの出来る経済という意味です。(もちろんすべての商品がエコ100%でなければならないという訳ではありません。エコ8割に日本円2割という値付けをしてもいいのです。やはり日本円は大事ですからね。) エコの経済圏の住人であるあなたは、自分の生活の糧をこの市場から調達してもまったく構いません(一種の役得と言ってもいいでしょう)。ここには何でもありますよ、近隣の作業所から送られて来る焼きたてのパン、菜園を持っている施設からは朝穫りの無農薬野菜、老人ホームからは入居者が使わなくなったリサイクル品が大量に出品されて来る。それをインターネット上で販売するサイトを開設したり、フリーマーケットのようなものを開催して、流通を促すのもおそらくどこかの福祉施設でしょう(もちろん儲けもすべてエコ)。もしかしたら協賛してくれるメーカーから、新品の電気製品なども出品されるかも知れません(但し型落ち品です)。この市場には、個人で参加も出来ます。私たちのような民間企業のサラリーマンが、フリマを覗くような感覚でエコ市場をひやかすのもオーケーです。ただ、もしも本格的にそこに参加しようと思うなら、ひとつ心に留めて欲しいことがあります。それはエコの市場には、買い手としてだけではなく、売り手としても参加することを心がけて欲しいということです。お金は余っているけれども、モノやサービスが不足しがちなのがエコのマーケットです。そこに参加する人は自ら価値を提供することで、この新しい市場を支えることが出来る。そうすれば市場もあなたを歓迎するでしょう。

 私が何故、少額のエコ通貨の支給をベーシックインカムと呼びたいか、分かっていただけたでしょうか。エコによるベーシックインカムは、これで1か月生活しなさいと言って渡されるお金ではありません。そうではなくて、それは私たちが新しい生活基盤を築くための、いわば「タネ銭」なのです。これを持って買い物に出掛けても、一般のお店では割引クーポンとしてしか使えません。つまり日本円の持ち合わせが無ければ使えないようなお金です。でも、エコマーケットに行けばそれだけで買える商品があります。ただ、1万エコ分の食品や生活用品を買ってしまえば、それで今月のお金は尽きてしまう。それしか収入が無い場合はどうすればいい? 簡単なこと、あなたもここで何かを売ればいいのです。売り物なんて何も無いと言うのですか? いや、きっとある筈です。日本円の経済圏では、多くの労働者が、自分の労働価値というものをおそろしいほどに過小評価しています。大資本が提供する魅力的な商品やサービスに圧倒されている私たちは、自分が価値提供者としてはまったく無能で取るに足りない存在だと思わされているのです。しかし、エコの経済圏にはあなたの助けを必要としている人がたくさんいます。お年寄りの買い物を手伝うことだって、鉢植えの水やりをすることだって、ここでは立派な仕事です。自分ではそんな仕事の交渉をすることが苦手ですって? いや、大丈夫、ここでは助けを求めている人と仕事を求めている人をマッチングさせるサービスも充実していますから(これはエコ市場を成り立たせるための重要な機能です)。そう言えば、個人間のエコのやり取りの仕組みを考えていませんでしたね。これはインターネットや銀行ATMを使った口座振込だけでなく、ICカード同士での授受も出来るようにしましょう。エコを扱う場所ならどこにでも置いてあるカードリーダーに、その機能を搭載すればいいと思います。

 さて、私が提示出来るエコ通貨の物語はこれで終わりです。誤解しないでいただきたいのは、私はいまの日本円の経済に恨みがあって、それを否定するためにエコの経済なんてものを持ち出している訳ではないということです(日本円の経済に恨みがあるのは確かですが。笑)。日本円とエコの関係は、言ってみれば縦糸と横糸の関係です。現在の日本経済は、縦糸だけで織られた布のようなものです。それでは丈夫な布が織れる筈がありません。ちょっと引っ掛ければ破けてしまうだろうし、長持ちだってしないに決まっている。このまま日本円という単一通貨の経済構造のままで、少子高齢化社会に突っ込んで行けば、何が起こるかは誰でも想像がつきます。国内の労働力で高齢者を支えながら、しかも国際通貨としての強い日本円の足を引っ張らないようにするためには、どうしても国内限定の第二通貨が必要なのです。私はそう考えます。私たちは生活者として、どちらかの経済圏に振り分けられる訳ではありません。どちらかにより多く比重をかけるということはあっても、各人がそれぞれの人生設計のなかでバランスを取って行けばいいのです。生活者のためのお金を作り出す試みは、地域通貨として各地で試みられていますが、このように経済を二重構造にすることにはどこも成功していません。地域のNPO団体が単独でやるには荷が重過ぎるのです。私は政府か自治体にその役割を担って欲しいと思っている。現代は政治に対する不信感がとても大きくなってしまった時代です。それでも政府や自治体というのは、私たちが選挙で直接その長を選ぶことが出来る、国内唯一のNPO団体なのです。いま国政が機能麻痺を起こしているなら、どこか有力な首長がいる都道府県から始めてもいい。その地域の地方銀行とタイアップすれば、大した予算も必要なく、すぐにでも始められるくらいの政策です。もしもある地域でエコの経済がうまく回り始めたなら、市場の自律的な働きによって全国に広がって行くのは時間の問題でしょう。


(追記です。長い連載になりましたので、全体をひとつのPDFファイルにしてみました。まとめて読んでみたいという方がいらっしゃれば、こちらをダウンロードしていただくと便利かと思います。↓)

「basicincome_20120408.pdf」をダウンロード

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