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2012年4月22日 (日)

裁判員制度には「厳罰バイアス」がある

 世間の注目を集める裁判員裁判で判決が出ると、担当した裁判員が記者会見をすることが当たり前のようになりました。裁判員は基本的に匿名で、守秘義務を負わされた立場でもあるのに、奇妙なことだと思います。最初の頃はコメントだけだったものが、最近はテレビに会見の模様が映し出されるようになり、とうとう実名まで報道されるようになってしまった。もちろん本人の了解の上でやっていることなので、守秘義務に抵触しない範囲であれば、他人がとやかく言うことではないのでしょう。幸いなことに、これまでのところ、裁判員を務めた人が世間の非難にさらされたり、逆恨みを受けて危害を加えられたりといった事件は発生していませんが、もしもそうした事件が1件でも起きれば、当局と報道機関の危機管理の甘さが問題視されるのは間違いありません。そんなことを考えながら、記者会見を見ていた私は、ひとつ意地の悪い疑念にとらわれてしまいました。もしも今回の事件(連続不審死事件)で出された判決が、無罪あるいは死刑以外の刑だったとしたら、裁判員の方たちは記者会見の場に顔を出すことが出来ただろうか?

 その場合には、おそらく世間の彼らに対する視線は、今とは違って厳しいものになったのではないかと想像します。私たちはみんな、ホンネのところでは被告人はクロに違いないと思っていた訳です(私だってそう思っていました)。問題は、「疑わしきは罰せず」という司法の原則を乗り越えるだけの勇気と胆力を、今回の裁判員たちが持っているかどうかだ、そういう気分がこの裁判の周りには漂っていたように思います。そんななかでは、無罪または死刑以外の判決を下すことの方が勇気が要ります。間違いなくインターネット上の匿名の掲示板などでは激しい非難や人格攻撃が巻き起こったことでしょう。ところが、実際に死刑判決を出した彼らは、ちょっとしたヒーローです。そのことはネットを検索してみればすぐに分かる(「裁判員GJ」といったキーワードで検索してみてください。GJはグッドジョブの略)。マスコミだって、今回の裁判の難しさは言っても、判決そのものに疑問を呈しているところは皆無です(せいぜい警察の初動捜査のまずさを批判するくらいで)。つまり、国中が今回の判決を妥当なものとして好意的に受け止めている訳です。私は裁判員制度が始まる4年も前から、この制度の問題点を指摘し続けて来ました。世論調査で回答者の8割以上が死刑制度を支持している日本は、とりわけ市民の厳罰感情(あるいは応報感情)が強い国だと言えます。そういう国で市民の司法参加を制度化するということは、端的に言って司法の厳罰化を狙ったものだと推測出来る。裁判員制度などというものが、国会での議論もほとんどなく唐突に導入された背景には、犯罪に対する厳罰化を推し進めたいという当局の思惑があったと考えるべきなのです。

 たとえこの国の国民が、犯罪に対して強い厳罰感情を持っているということが事実だったとしても、それを当局が利用したというのは考え過ぎなのではないか、そういう反論があるかも知れません。少なくとも厳罰化の方向が民意に沿ったものであるなら、それを陰謀説のようなものに仕立てて批判するのはお門違いではないのか? しかし、裁判員による裁判はほんとうに民意を反映したものなのだろうか、私はそこにも疑問を持っているのです。裁判員は国民のあいだから無作為に抽選で選ばれる仕組みですが、そこでは巧みに選別が行なわれています。裁判員候補は個別の事件ごとに選ばれる訳ではなく、年に一度、30万人くらいの候補者がまとめて選ばれて、そこから絞り込まれて個々の事案に割り当てられます。つまり、最初の抽選の段階では、自分がどのような事件を担当させられるか分からない訳です。裁判員はしかるべき理由があれば辞退することが出来ますから、この時点で自分が死刑判決に関わりたくないと思う人の多くは、辞退の理由を考えるでしょう。(辞退は簡単に出来るようです。裁判所からの通知を受け取った私の知り合いは、電話ひとつで簡単に断れたと言っていました。そう言えば、不出頭で罰金を払ったという人の話も聞きませんね。) この段階で残るのは、真面目で責任感が強いタイプの人と、厳罰主義に親和的で正義感が強いタイプの人の2種類です。次に担当事件が決まると、裁判官との面接があります。ここで死刑反対論を滔々と述べたりすれば、その人は面接で落ちます。審理に入ってから、事件とは関係の無い〈神学論争〉を繰り広げられても困りますからね。ここで死刑反対派は脱落する。裁判官による面接を通っても、さらにもうひとつ関門があります。事件を担当する検察官と弁護士は、それぞれ候補者から4名ずつを(理由を示さずに)拒否することが出来るのです。弁護側としては、死刑に反対してくれそうな候補者を選任したいところでしょうが、それは出来ません。拒否権はあっても選任権は無いからです。死刑には慎重であるべきだと考える最後の候補者も、検察側の拒否権で除外されることになります。

 こうして絞り込まれた6人(プラス補欠の3人)は、いざとなれば死刑判決も辞さない、いわば「裁く気まんまん」の人たちです。いや、そんなふうに断言してはいけませんね、そうである可能性が高いと言い直しましょうか。誤解される前に断っておきます、私は殺人犯はすべからく死刑にすべきだという信念を持っている人がいることは当然だし、それは健全な世論の一部だとさえ思っています。そういう人が裁判員になることだって認めてもいい。ただ、そういう傾向を持った人たちだけが、選択的に集められるようになっている現在の仕組みはおかしいと言っているのです。最高裁が裁判員を経験した人たちを対象に行なったアンケートの結果があります。これによると、実に95%以上の人たちが「よい経験をした」と答えているのです。この事実をもって、この制度が国民のあいだに定着しつつあると書いた新聞の社説を読みました。浅薄な意見だと思います。裁判員経験者のほとんどが、よい経験をしたと考えるのは当然のことです。それは「裁判員をやってみることはよい経験になるに違いない」と考える人しか、裁判員候補に残らないからです。自分には人を裁く資格などない、たとえどんな極悪人でも自分のような者の判断で死刑にしたくはない、そんなふうに考える人たちはこの制度から構造的に排除されるように出来ている。事件に関わる多くの人たちの運命に影響を与え、場合によっては人の生き死にまで左右するような経験のどこが「よい経験」だと言えるのか? いや、これは私自身のつぶやきに過ぎませんが、このように偏ったアンケート結果が出ること自体、裁判員の人選に偏りがあることの証拠だと何故誰も考えないのでしょう?

 この5月で裁判員制度が施行されて丸3年が経ちます。当初から3年を経過した時点で制度の見直しをするという予定だった筈です。私自身はあくまで裁判員制度は白紙撤回すべきだと考えているのですが、マスコミでさえこれに批判的なところがほとんど無い以上、現実的にそれは不可能でしょう。であるならば、少しでもマシな制度に作り替えて行く方法はないものだろうか? いろいろ考えてみても、名案は浮かばない。それはこの制度が本質的に矛盾の上に成り立っているからです。すなわち死刑のある国の裁判で、市民を量刑にまで参加させるという、そもそもの根本思想が間違っているからです。私がこのブログで繰り返し書いているように、そんな裁判制度を採用している国は世界中どこにもありません。ヨーロッパの国々が参審制を採用しているのは、すでに死刑が廃止されているという前提があってのことなのです。考えてもみてください、国民のなかには死刑制度そのものに反対する人も一定の割合でいる訳です。検察が死刑を求刑している事件において、死刑制度に対する賛成派の裁判員と反対派の裁判員は、同じ土俵で議論をすることすら出来ません。もしかしたら裁判所は、反対派の裁判員に対しては、審理に際して内心の信条を封印するよう求めているのかも知れませんね。死刑反対の信条は信条として、現実に死刑制度が存在している以上、そのことを前提に裁判員としての判断をして欲しいとか何とか言って。でも、我々にそんな器用なことは出来ない。裁判所だってそんな面倒な候補者に、司法参加のチケットを配る気はないでしょう。かくしてこの国の刑事司法は際限なく厳罰化の一途をたどることになるのです。世界の多くの国で死刑が廃止され、〈応報的な〉司法制度から〈修復的な〉司法制度への移行が模索されているこの時代において、日本だけがこれに逆行しようとしている。そしてそのことを不審に感じる人もほとんどいないのです。

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