« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月22日 (日)

裁判員制度には「厳罰バイアス」がある

 世間の注目を集める裁判員裁判で判決が出ると、担当した裁判員が記者会見をすることが当たり前のようになりました。裁判員は基本的に匿名で、守秘義務を負わされた立場でもあるのに、奇妙なことだと思います。最初の頃はコメントだけだったものが、最近はテレビに会見の模様が映し出されるようになり、とうとう実名まで報道されるようになってしまった。もちろん本人の了解の上でやっていることなので、守秘義務に抵触しない範囲であれば、他人がとやかく言うことではないのでしょう。幸いなことに、これまでのところ、裁判員を務めた人が世間の非難にさらされたり、逆恨みを受けて危害を加えられたりといった事件は発生していませんが、もしもそうした事件が1件でも起きれば、当局と報道機関の危機管理の甘さが問題視されるのは間違いありません。そんなことを考えながら、記者会見を見ていた私は、ひとつ意地の悪い疑念にとらわれてしまいました。もしも今回の事件(連続不審死事件)で出された判決が、無罪あるいは死刑以外の刑だったとしたら、裁判員の方たちは記者会見の場に顔を出すことが出来ただろうか?

 その場合には、おそらく世間の彼らに対する視線は、今とは違って厳しいものになったのではないかと想像します。私たちはみんな、ホンネのところでは被告人はクロに違いないと思っていた訳です(私だってそう思っていました)。問題は、「疑わしきは罰せず」という司法の原則を乗り越えるだけの勇気と胆力を、今回の裁判員たちが持っているかどうかだ、そういう気分がこの裁判の周りには漂っていたように思います。そんななかでは、無罪または死刑以外の判決を下すことの方が勇気が要ります。間違いなくインターネット上の匿名の掲示板などでは激しい非難や人格攻撃が巻き起こったことでしょう。ところが、実際に死刑判決を出した彼らは、ちょっとしたヒーローです。そのことはネットを検索してみればすぐに分かる(「裁判員GJ」といったキーワードで検索してみてください。GJはグッドジョブの略)。マスコミだって、今回の裁判の難しさは言っても、判決そのものに疑問を呈しているところは皆無です(せいぜい警察の初動捜査のまずさを批判するくらいで)。つまり、国中が今回の判決を妥当なものとして好意的に受け止めている訳です。私は裁判員制度が始まる4年も前から、この制度の問題点を指摘し続けて来ました。世論調査で回答者の8割以上が死刑制度を支持している日本は、とりわけ市民の厳罰感情(あるいは応報感情)が強い国だと言えます。そういう国で市民の司法参加を制度化するということは、端的に言って司法の厳罰化を狙ったものだと推測出来る。裁判員制度などというものが、国会での議論もほとんどなく唐突に導入された背景には、犯罪に対する厳罰化を推し進めたいという当局の思惑があったと考えるべきなのです。

 たとえこの国の国民が、犯罪に対して強い厳罰感情を持っているということが事実だったとしても、それを当局が利用したというのは考え過ぎなのではないか、そういう反論があるかも知れません。少なくとも厳罰化の方向が民意に沿ったものであるなら、それを陰謀説のようなものに仕立てて批判するのはお門違いではないのか? しかし、裁判員による裁判はほんとうに民意を反映したものなのだろうか、私はそこにも疑問を持っているのです。裁判員は国民のあいだから無作為に抽選で選ばれる仕組みですが、そこでは巧みに選別が行なわれています。裁判員候補は個別の事件ごとに選ばれる訳ではなく、年に一度、30万人くらいの候補者がまとめて選ばれて、そこから絞り込まれて個々の事案に割り当てられます。つまり、最初の抽選の段階では、自分がどのような事件を担当させられるか分からない訳です。裁判員はしかるべき理由があれば辞退することが出来ますから、この時点で自分が死刑判決に関わりたくないと思う人の多くは、辞退の理由を考えるでしょう。(辞退は簡単に出来るようです。裁判所からの通知を受け取った私の知り合いは、電話ひとつで簡単に断れたと言っていました。そう言えば、不出頭で罰金を払ったという人の話も聞きませんね。) この段階で残るのは、真面目で責任感が強いタイプの人と、厳罰主義に親和的で正義感が強いタイプの人の2種類です。次に担当事件が決まると、裁判官との面接があります。ここで死刑反対論を滔々と述べたりすれば、その人は面接で落ちます。審理に入ってから、事件とは関係の無い〈神学論争〉を繰り広げられても困りますからね。ここで死刑反対派は脱落する。裁判官による面接を通っても、さらにもうひとつ関門があります。事件を担当する検察官と弁護士は、それぞれ候補者から4名ずつを(理由を示さずに)拒否することが出来るのです。弁護側としては、死刑に反対してくれそうな候補者を選任したいところでしょうが、それは出来ません。拒否権はあっても選任権は無いからです。死刑には慎重であるべきだと考える最後の候補者も、検察側の拒否権で除外されることになります。

 こうして絞り込まれた6人(プラス補欠の3人)は、いざとなれば死刑判決も辞さない、いわば「裁く気まんまん」の人たちです。いや、そんなふうに断言してはいけませんね、そうである可能性が高いと言い直しましょうか。誤解される前に断っておきます、私は殺人犯はすべからく死刑にすべきだという信念を持っている人がいることは当然だし、それは健全な世論の一部だとさえ思っています。そういう人が裁判員になることだって認めてもいい。ただ、そういう傾向を持った人たちだけが、選択的に集められるようになっている現在の仕組みはおかしいと言っているのです。最高裁が裁判員を経験した人たちを対象に行なったアンケートの結果があります。これによると、実に95%以上の人たちが「よい経験をした」と答えているのです。この事実をもって、この制度が国民のあいだに定着しつつあると書いた新聞の社説を読みました。浅薄な意見だと思います。裁判員経験者のほとんどが、よい経験をしたと考えるのは当然のことです。それは「裁判員をやってみることはよい経験になるに違いない」と考える人しか、裁判員候補に残らないからです。自分には人を裁く資格などない、たとえどんな極悪人でも自分のような者の判断で死刑にしたくはない、そんなふうに考える人たちはこの制度から構造的に排除されるように出来ている。事件に関わる多くの人たちの運命に影響を与え、場合によっては人の生き死にまで左右するような経験のどこが「よい経験」だと言えるのか? いや、これは私自身のつぶやきに過ぎませんが、このように偏ったアンケート結果が出ること自体、裁判員の人選に偏りがあることの証拠だと何故誰も考えないのでしょう?

 この5月で裁判員制度が施行されて丸3年が経ちます。当初から3年を経過した時点で制度の見直しをするという予定だった筈です。私自身はあくまで裁判員制度は白紙撤回すべきだと考えているのですが、マスコミでさえこれに批判的なところがほとんど無い以上、現実的にそれは不可能でしょう。であるならば、少しでもマシな制度に作り替えて行く方法はないものだろうか? いろいろ考えてみても、名案は浮かばない。それはこの制度が本質的に矛盾の上に成り立っているからです。すなわち死刑のある国の裁判で、市民を量刑にまで参加させるという、そもそもの根本思想が間違っているからです。私がこのブログで繰り返し書いているように、そんな裁判制度を採用している国は世界中どこにもありません。ヨーロッパの国々が参審制を採用しているのは、すでに死刑が廃止されているという前提があってのことなのです。考えてもみてください、国民のなかには死刑制度そのものに反対する人も一定の割合でいる訳です。検察が死刑を求刑している事件において、死刑制度に対する賛成派の裁判員と反対派の裁判員は、同じ土俵で議論をすることすら出来ません。もしかしたら裁判所は、反対派の裁判員に対しては、審理に際して内心の信条を封印するよう求めているのかも知れませんね。死刑反対の信条は信条として、現実に死刑制度が存在している以上、そのことを前提に裁判員としての判断をして欲しいとか何とか言って。でも、我々にそんな器用なことは出来ない。裁判所だってそんな面倒な候補者に、司法参加のチケットを配る気はないでしょう。かくしてこの国の刑事司法は際限なく厳罰化の一途をたどることになるのです。世界の多くの国で死刑が廃止され、〈応報的な〉司法制度から〈修復的な〉司法制度への移行が模索されているこの時代において、日本だけがこれに逆行しようとしている。そしてそのことを不審に感じる人もほとんどいないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 8日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(8)

【8】 何故これをベーシックインカムと呼ぶのか?

 このテーマに足を踏み入れると、長い連載になることは分かっていました。まだ語らなければならないことがたくさんあるような気もしますが、とりあえず今回で連載を締めくくります。減価する電子マネーの仕組みとこれを導入することの意義については、ここまでの説明である程度理解していただけたのではないかと思います。ひとつ疑問が残るとすれば、何故月にわずか1万円相当分くらいのクーポンの支給を、「ベーシックインカム」などという大層な名前で呼ぶのかという点ではないでしょうか。ベーシックインカムというのは、すべての国民に最低限の生活が送れるくらいの所得を政府が保障するという制度です。最低限の生活保障という意味でベーシックなのです。その金額は論者によって異なりますが、だいたい月額7万円から10万円くらいを考えている人が多いようです。これは国民年金や生活保護費と同等か、それより少し多いくらいの金額です。他に何も収入が無いとすれば、人間ひとりが生活して行くのにその程度のお金が必要だというのは、まあ妥当な線であるような気がします。エコという通貨は、通常日本円とともにしか使えないお金ですから、それだけでは購買力を持ちません。そんな価値の低いお金を、しかも月に1万エコというはした金を貰っても、それで最低限の生活保障になどなる訳がない。それでも、私はこれをベーシックインカムと呼ぶことに多少のこだわりがあるのです。

 この国の大多数の勤労者は、企業や公的機関などの組織で働くことで、月になにがしかの給金を受け取って、それで生活を営んでいます。しかし、働く人が〈月給〉というかたちで労働の対価を受け取るようになったのは、そう古いことではありません。それは明治政府が西欧に倣って導入した制度でした。江戸時代までは、武士階級は「奉祿」として米などの現物支給を年に何回かに分けて受け取っていただけでした。現金収入は、それを仲介業者に買い取ってもらうか、内職をしたり出稽古をしたりして稼いでいたのです。一般の町人は、たとえ組織に勤めたとしても(つまり商家に奉公に出たとしても)、月々の給金などはありませんでした(せいぜい盆と暮れに帰省のための小遣いを支給された程度)。組織に属さない町屋の市民は、それこそ小商いをしたり日雇いに出たりして日銭を稼いでいた訳です。まさに「金は天下の回りもの」であり、「宵越しの銭は持たない(持てない)」のが江戸っ子の貨幣との関わり方でした。これに対し現代に生きる私たちにとって、金は天下の回りものではありません、それは所属する組織から月ごとに〈下賜〉されるものであって、これ以外に現金収入というものを私たちは原則的に持っていません(アルバイトなどの副業を禁止している組織も多いと思います)。ふだんからそういう貨幣との付き合い方をしているので、例えばベーシックインカムというアイデアがあることを聞いても、「最低限の生活保障? そのためには月にいくら必要だろう?」とまず考えてしまう。しかし、お金というものの本質は流通することにあるのですから、1か月という期間に必要な総額という考え方をするのはおかしいのです。組織から支給される給料で生活を立てている私たちは、お金というものに対して徹頭徹尾受け身の姿勢になっているように感じます。月にいくらもらえるかではなく、自分が貨幣流通の仲介者として何をすべきか・何が出来るかということを本当は考えるべきではないだろうか。

 さあ、これだけの前置きでこれから私が何を書こうとしているか、以前の記事を読んだことがある方には察しをつけられてしまっただろうと思います。そう、エコ通貨の本領は、国が支給するベーシックインカムにあるのではなく、生活者同士が価値を交換するための仕組みを提供するところにあるということです。日本円は誰にとっても便利で魅力的なお金ですが、ふつうの生活者が価値を交換するためには不便なお金です。私たちは企業から給与としてお金を支給され、企業が提供する商品やサービスの対価としてそのお金を支払います。また一部は税金として国や地方自治体に納めます。つまりお金の流れは、組織と個人のあいだを縦に行ったり来たりしているだけです。お金を介した個人間の横のつながりというものはほとんど存在していません。いや、例外もありますね。インターネットオークションのような仕組みを利用して、個人と個人が日本円を媒介にして取引をする機会もあるからです。しかし、それだって自発的に取引が発生している訳ではなく、オークションを主催する企業がビジネスとして設定した場所で、多くは企業製品の中古品が売買されているに過ぎません。売り手が新しい価値を生み出している訳ではないのです。要するに現代においては、お金を支払う価値のあるものは、企業が送り出す商品やサービスに限定されるということです。消費者の立場として見ればこれは快適なことかも知れません。私たちは30年前には想像も出来なかったような魅力的な商品やサービスに取り囲まれている。しかし、労働者の立場として見れば、なかなかつらい状況です。市場に支持される商品やサービスを生み出しているような企業に、正社員として勤めている人だけが、十分な報酬を得ているのが現実です。なにしろそこにしか(日本円に換算出来る)価値あるものは存在しないのだから。しかも企業は国内の正社員を削減して海外シフトを進めている。見捨てられた99%の私たちはどこへ行けばいい?

 答えは簡単なことです。価値交換の流れを縦方向だけでなく、横方向にも広げればいいのです。しかし、現在の日本円は、日本経済の発展とともにあまりに〈高価なお金〉になってしまったために、個人間の取引に気軽に使えるようなものではなくなっています。例えば、近所に住むひとり暮らしのお年寄りが、買い物や病院通いの足が無くて困っているとしましょう。自分は車を持ってるし、時間の余裕もあるので、何かお手伝いをしてあげたいと思っている。ボランティアで買い物の代行をしたり、病院までの送迎をすることなら出来るかも知れません。でも、それでは長続きしないでしょう。無償の親切というものは、(特に現代においては)それを受ける側に大きな心理的負担を与えるものだからです。だったらいくばくかの手間賃を(日本円で)貰ったらどうだろう。すると今度はあなたの方が心理的負担を感じてしまうに違いない。お金が目当てでお手伝いを申し出ている訳ではないのだから。ボランティアと日本円の中間に、当たり前の親切や助け合いを媒介する手段が無い、私はこれが現代日本の不幸ではないかと思っています。そのことを如実に表しているのが、介護保険制度です。2000年に導入されたこの制度は、介護が必要な人のニーズを〈要介護度〉という尺度で点数化し、それに合わせて提供出来る介護サービスの項目を細かく決めています。寝たきりのお年寄りが大切にしていた鉢植えが枯れてしまった。介護ヘルパーが行なっていいサービスのなかに鉢植えへの水やりは入っていなかったからです。こういう例を挙げて、行政の杓子定規な規則を責めても仕方ありません。貴重な政府財源を使って、なるべく効率良く介護サービスを提供するためには、このような杓子定規はある程度やむを得ないことだとも思います。問題は制度設計の良し悪しにあるのではない、介護のような領域を日本円の経済でのみ支えようとする発想にそもそも無理があるのです。

 これから本格的な高齢化社会を迎えるにあたり、まずは介護や福祉といった分野にエコ通貨を流通させることを提案します。そのためには、現在の介護保険制度のようなものはいったんご破算にして、エコの経済にふさわしい緩やかな規制の制度に作り変える必要があります。現実的な方法としては、この分野で働く人の賃金に対し、一般の営利企業に勤める人の賃金よりもエコの割合を緩和することが考えられます。これまで15万円の月額給与を支給されていた福祉施設職員が、10万円+10万エコという配分で給与を受け取るようになる、そんなイメージです。これは昇給だろうか、それとも減給だろうか、前にそう質問したことがありましたね。私の考えでは、それを昇給として喜べる人が、福祉分野で働くことへの適性を持った人ではないかと思う訳です。「でも、月に10万エコ(国からの支給分を含めると11万エコ)なんて、どう考えても使い切れないよ」、そう言う人がいるなら、「それは日本円の経済圏での発想です」と答えましょう。エコの経済圏というものが拡大すれば、日本円に頼らなくてもエコだけで売り買いが出来る機会は増える筈だからです。「それは具体的にはどういうこと?」 こういうことです。全国の障害者施設や作業所のようなところでは、様々な製品やサービスが日々生み出されていますが、日本円の経済のなかではなかなかいい値段をつけてもらえません。そうした作業所で働く人の賃金は、平均して月に1万円程度だという話を聞いたことがあります。それが市場原理が値付けしたその人の労働価値ということなのでしょう。障害者の自立の前には、この市場原理の厚い壁が立ちはだかっている。その壁を力ずくで突破しようとしても無駄だと私は思います。むしろ土俵を替えた方がいい。つまりエコ市場に売り出せばいのです。

 あなたが福祉施設で働く職員だったとして、あなたの職場で提供出来る価値は何でしょう? まずそれを考えるところからエコ経済への参加は始まります。それぞれの施設が得意分野で商品やサービスを開拓して、エコ市場に出品すれば、そこに日本円からは独立した経済圏が立ち上がることになる。つまり、エコを値引きのクーポンとして使うのではなく、本来の通貨として使うことの出来る経済という意味です。(もちろんすべての商品がエコ100%でなければならないという訳ではありません。エコ8割に日本円2割という値付けをしてもいいのです。やはり日本円は大事ですからね。) エコの経済圏の住人であるあなたは、自分の生活の糧をこの市場から調達してもまったく構いません(一種の役得と言ってもいいでしょう)。ここには何でもありますよ、近隣の作業所から送られて来る焼きたてのパン、菜園を持っている施設からは朝穫りの無農薬野菜、老人ホームからは入居者が使わなくなったリサイクル品が大量に出品されて来る。それをインターネット上で販売するサイトを開設したり、フリーマーケットのようなものを開催して、流通を促すのもおそらくどこかの福祉施設でしょう(もちろん儲けもすべてエコ)。もしかしたら協賛してくれるメーカーから、新品の電気製品なども出品されるかも知れません(但し型落ち品です)。この市場には、個人で参加も出来ます。私たちのような民間企業のサラリーマンが、フリマを覗くような感覚でエコ市場をひやかすのもオーケーです。ただ、もしも本格的にそこに参加しようと思うなら、ひとつ心に留めて欲しいことがあります。それはエコの市場には、買い手としてだけではなく、売り手としても参加することを心がけて欲しいということです。お金は余っているけれども、モノやサービスが不足しがちなのがエコのマーケットです。そこに参加する人は自ら価値を提供することで、この新しい市場を支えることが出来る。そうすれば市場もあなたを歓迎するでしょう。

 私が何故、少額のエコ通貨の支給をベーシックインカムと呼びたいか、分かっていただけたでしょうか。エコによるベーシックインカムは、これで1か月生活しなさいと言って渡されるお金ではありません。そうではなくて、それは私たちが新しい生活基盤を築くための、いわば「タネ銭」なのです。これを持って買い物に出掛けても、一般のお店では割引クーポンとしてしか使えません。つまり日本円の持ち合わせが無ければ使えないようなお金です。でも、エコマーケットに行けばそれだけで買える商品があります。ただ、1万エコ分の食品や生活用品を買ってしまえば、それで今月のお金は尽きてしまう。それしか収入が無い場合はどうすればいい? 簡単なこと、あなたもここで何かを売ればいいのです。売り物なんて何も無いと言うのですか? いや、きっとある筈です。日本円の経済圏では、多くの労働者が、自分の労働価値というものをおそろしいほどに過小評価しています。大資本が提供する魅力的な商品やサービスに圧倒されている私たちは、自分が価値提供者としてはまったく無能で取るに足りない存在だと思わされているのです。しかし、エコの経済圏にはあなたの助けを必要としている人がたくさんいます。お年寄りの買い物を手伝うことだって、鉢植えの水やりをすることだって、ここでは立派な仕事です。自分ではそんな仕事の交渉をすることが苦手ですって? いや、大丈夫、ここでは助けを求めている人と仕事を求めている人をマッチングさせるサービスも充実していますから(これはエコ市場を成り立たせるための重要な機能です)。そう言えば、個人間のエコのやり取りの仕組みを考えていませんでしたね。これはインターネットや銀行ATMを使った口座振込だけでなく、ICカード同士での授受も出来るようにしましょう。エコを扱う場所ならどこにでも置いてあるカードリーダーに、その機能を搭載すればいいと思います。

 さて、私が提示出来るエコ通貨の物語はこれで終わりです。誤解しないでいただきたいのは、私はいまの日本円の経済に恨みがあって、それを否定するためにエコの経済なんてものを持ち出している訳ではないということです(日本円の経済に恨みがあるのは確かですが。笑)。日本円とエコの関係は、言ってみれば縦糸と横糸の関係です。現在の日本経済は、縦糸だけで織られた布のようなものです。それでは丈夫な布が織れる筈がありません。ちょっと引っ掛ければ破けてしまうだろうし、長持ちだってしないに決まっている。このまま日本円という単一通貨の経済構造のままで、少子高齢化社会に突っ込んで行けば、何が起こるかは誰でも想像がつきます。国内の労働力で高齢者を支えながら、しかも国際通貨としての強い日本円の足を引っ張らないようにするためには、どうしても国内限定の第二通貨が必要なのです。私はそう考えます。私たちは生活者として、どちらかの経済圏に振り分けられる訳ではありません。どちらかにより多く比重をかけるということはあっても、各人がそれぞれの人生設計のなかでバランスを取って行けばいいのです。生活者のためのお金を作り出す試みは、地域通貨として各地で試みられていますが、このように経済を二重構造にすることにはどこも成功していません。地域のNPO団体が単独でやるには荷が重過ぎるのです。私は政府か自治体にその役割を担って欲しいと思っている。現代は政治に対する不信感がとても大きくなってしまった時代です。それでも政府や自治体というのは、私たちが選挙で直接その長を選ぶことが出来る、国内唯一のNPO団体なのです。いま国政が機能麻痺を起こしているなら、どこか有力な首長がいる都道府県から始めてもいい。その地域の地方銀行とタイアップすれば、大した予算も必要なく、すぐにでも始められるくらいの政策です。もしもある地域でエコの経済がうまく回り始めたなら、市場の自律的な働きによって全国に広がって行くのは時間の問題でしょう。


(追記です。長い連載になりましたので、全体をひとつのPDFファイルにしてみました。まとめて読んでみたいという方がいらっしゃれば、こちらをダウンロードしていただくと便利かと思います。↓)

「basicincome_20120408.pdf」をダウンロード

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月 1日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(7)

【7】 エコ通貨は持続可能な社会をもたらすか?

 減価する政府通貨というものが、国内産業を振興する仕組みについて説明して来ました。今回はその応用で、持続可能な社会の実現のためにも、この新通貨が一役買うかも知れないという点について述べます。連日のニュースでは、東京電力が法人向けの電力料金を平均17%も値上げしようとしていることが報じられています。今週、東電の原発がすべて停止しましたが、原子力発電よりも火力発電の方がコストが高いというのが値上げの理由です。東電は、原発事故の処理費用や賠償金がコストを圧迫しているとは口が裂けても言いません。しかし、お金に色はついていませんから、値上げ分の一部は事故処理にも使われると考えていい。当然、産業界からは大反対の声が上がっています。こうした状況のなか、電力の自由化を急いで、電力供給にも競争原理を取り入れるべきだという意見をよく耳にするようになりました。私も電力自由化には賛成ですが、しかし価格競争によって自動的に安くて質の高い電力が供給されるようになるかと言えば疑問です。火力発電に使う化石燃料は、長い目で見れば、価格が上がることはあっても下がることはないでしょう。太陽光発電や風力発電のような再生可能エネルギーは、まだまだ高コストで、国の補助金なしではやって行けないのが実情です。価格を競おうにも、企業努力で出来ることは非常に限られています。

 単純なコスト比較をすれば、再生可能エネルギーが火力に(ましてや原子力に)太刀打ち出来るようになるのは、よほどの技術革新でも無い限り不可能でしょう。ただ、電力事業者のコスト構造にまで踏み込めば、そこにひとつの可能性が見えて来ます。原子力発電所や火力発電所のコストのなかで大きなウェイトを占めているのが燃料費です。特に液化天然ガスを使う火力発電では、発電コストの6割程度が燃料費になります(原子力の場合は2割程度だそうです)。一方、太陽光発電や風力発電では、基本的に燃料費はただです。水力発電、地熱発電、潮力発電なども同じですね。つまり再生可能エネルギーというのは、燃料費がかからない発電方式だと言い換えてもいいと思います。それなのに何故再生可能エネルギーの方が高くつくかと言えば、燃料費以外の経費が高いからです。発電効率そのものは問題ではありません、単位発電量当たりの経費が高いというところが問題なのです。その経費のなかでも大きなウェイトを占めるのは、設備費と人件費でしょう。ソーラーパネルは安くなって来たとは言え、まだまだ高価なものですし、それ以前に陽当たりの良い広大な土地が要る。風力・水力・地熱発電なども、大規模な設備投資が必要な点では同じです。ただここで注意すべきことは、ソーラーパネルにしても、風力発電用の風車にしても、またダムや地熱発電設備にしても、国内生産が可能なものばかりだということです。つまりエコでの調達が可能なのです。設備のメンテナンスにかかる人件費に至っては、純国産の資源ですから、最もエコの使いやすい調達物です。ひと言で言えば、再生可能エネルギーはエコと親和性がいいということです。いや、設備費や人件費が国内で調達可能であることは、火力発電所や原子力発電所でも同じではないかという反論が返って来そうですね。でも、コストの内訳が違います。火力発電所のコストに占める燃料費の割合が60%だということは、火力発電所から送られて来る電力の60%は輸入品だということです。それに対して太陽光発電所や風力発電所で作られる電力は大部分が国産です。

 考えてみれば、資源小国である日本が「地産地消」を推進すれば、自然の成りゆきとしてエコロジカルな社会に近づくのは理の当然です。燃やすべき石油が採れないのだから、CO2を大量に排出すること自体不可能な訳だし、国産のウランが無い以上、原発だって止めるしかない。国内で生産出来るエネルギーは、ほとんどが再生可能エネルギーだけなのです。にもかかわらず現状では国内で消費されるエネルギーの大部分は輸入に頼っている。何故か? 単一通貨に基づく経済原理のなかでは、他に選択肢が無いからです。そこでは地域経済というものの可能性がまったく排除されている。もしもエネルギーにかかるコスト構成を、輸入部分と国産部分とに分解して、国産部分には為替レートに影響されない別の経済原理を当てることが出来るなら、発電業者にとっての採算性の概念も大きく変わるかも知れないのです。原発事故以来、発電コストという考え方が私たち国民にも親しいものとなりました。火力なら1kwhを10円以下で発電出来るのに、風力では15円、太陽光では40円くらいかかるということを私たちは知っています。それだけを比較すれば、再生可能エネルギーにはとても価格競争力など無いように見えます。しかし、そこにエコが絡めば話は違って来る。火力発電所の10円のコストのうち、6円分は輸入燃料に由来するものですから、残りの4円の経費のうちの半分をエコで賄ったとしても、日本円での8円のコストは削れません。一方、15円相当の風力発電コストがすべて国内由来のものであったとすれば、半分をエコで賄うことで日本円部分のコストは8円以下に抑えられる。まあ、人件費や設備費の半分をエコで支払うことは現実的ではないかも知れませんが、両者の価格差がかなり縮まることは確かです。(太陽光発電は現状ではあまりに高コストです。これは将来の技術だと見るのが妥当です。)

 この考え方はエネルギーだけでなく、資源のリサイクルについても当てはめられます。いま中国のレアアースに対する輸出規制が問題になっています。ハイブリッド車の充電池などにも欠かせないレアアースは、全世界の産出量の9割以上を中国に依存しているのだそうです。これを止められたら日本の製造業は大打撃を受けます。一方で「都市鉱山」というコトバがあるように、レアアース(希土類)を始めとするレアメタルは、国内の資源ゴミのなかにも大量に眠っています。ただ、それを取り出すのには高いコストがかかる。いくら世界的にレアメタルが高騰していると言っても、これをリサイクルすることは(現状では)採算に合わない訳です。ところがここで見方を変えてみましょう。海外からレアメタルを輸入すれば、その分の日本円が(ドルに換算された上で)海外に流出します。国内の資源ゴミからレアメタルを回収することは、一企業から見ればコスト高かも知れませんが、海外への通貨の流出がほとんど無い分、国内経済にとってメリットがあるとも考えられます。資源ゴミを回収・分別して、そこから微量の再生資源を取り出すなんてことは、気が遠くなりそうなほど手間のかかる作業でしょう。が、地球全体の資源保護という面から見ても、それは間違いなく意味のあることです。少なくともそこに手間をかけることは、社会の持続可能性にとって良いことである筈です。海外からの輸入レアメタルと再生レアメタルを、同じ日本円のコストという指標で比較しただけでは見落とすものがそこにはあります。資源を発掘し消費し廃棄するという一連のサイクルを日本円が支えているとするなら、それを回収し再生するサイクルを支えるのがエコ通貨です。国内の人件費の一部をエコに置き換えることが出来るなら、そうした取り組みも加速されるだろうと考える訳です。

 ものを大切に使うということは、家計のためだけでなく、社会的な資源の持続性のためにも重要なことでしょう。ところが、ここ2、30年くらいに起こった変化ではないかと思いますが、ものを大切に使うことは美徳ではなくなってしまいました。故障した電気製品を修理に出そうとすれば、店員に新しい製品を買った方がいいと言われます。実際に、修理費と同じくらいの金額で性能の向上した新製品が買えたりする訳です。こうした消費はおかしいと心のどこかで思いながら、私たちはかなりの頻度でパソコンや家電製品を買い換えている。こうした問題も、経済を日本円とエコの二本立てにすれば解決の方向性が見えて来ます。故障した製品の修理費が、法外と思えるほど高いのは、それが国内の人件費だからです。中国の工場で大量生産された製品の値段が安いことに理由があるように、修理費が高いことにも理由があるのです。エコが流通する社会では、修理費の一部はエコで支払うことが出来ますから、新製品の価格と修理費のあいだには、消費者が納得出来るような価格のバランスが復活するのではないか。メーカーも修理のしやすさを前提にした設計をするようになるでしょうし、そうした製品は消費者からも受け入れられるだろうと思います。気に入った製品を大事に長く使うことは、成熟した現代の消費者のニーズにも合ったことだからです。企業にとっても、国内でメンテナンスのための技術者を育成・維持することは、技術の伝承という点でも意味のあることだと思います。歴史を大局的に見れば、これからはどんどん資源が稀少化して、リサイクルやメンテナンスの重要性が増すことは間違いありません。もともと資源が乏しい日本は、世界に先駆けてそのための新しい経済モデルを構築する絶好のポジションにいると言ってもいいのです。国内限定通貨は、それを推し進める強力なツールになります。

 もうひとつ、これからの日本が立ち向かわなければならない重いテーマが、少子高齢化への対応です。私はこれにもエコ通貨が解決の指針を与えてくれるのではないかと思っています。高齢者年金の支給開始年齢が、現在段階的に引き上げられつつあります。それにともなって企業の定年を65歳にまで引き上げることを法律で義務付けようとする動きもあるようです。これによって若年層の就職難がいっそう深刻化するという懸念もあります。これも大局的な目で見れば、おかしな話だと思います。もしも現在の日本に〈職の絶対数〉が不足しているなら、まだまだ働ける高齢者が増えることは若者にとって脅威だし、無年金の期間が生まれることは中高年にとって恐怖でしょう。しかし、いまの日本で足りないのは、職の絶対数ではありません、〈日本円をバリバリ稼ぐことが出来る職〉が足りないだけです。実際に福祉や介護といった分野では、慢性的な人手不足が続いています。給料が安いので、若い人を惹き付ける職場になっていないのだと思います。行政の補助はあっても、限界があります。こういう領域にこそ、エコを広めたい。60歳で定年を迎えて、年金支給年齢まで働きたい人の再雇用を、福祉・介護の分野で進めてはどうでしょう。それをするのは簡単なことで、60歳以上の職員に対しては、給与に占めるエコの割合の規制を緩和してやればいいのです。同じ福祉施設の職員に、同じ額の給料を支払う場合に、60歳以上の職員に対しては50%までエコで支給出来るといったイメージです。(逆に若い人を閉め出さないよう、総量規制のようなものは必要ですね。) もちろん60歳を過ぎても、日本円をバリバリ稼げる技能を持った人は、日本円の経済圏で活躍してもらっていい。それが国の経済のためでもあります。が、年金受給年齢まで食いつなぐ必要があるという理由だけで、一般の労働者が日本円の経済圏に寄生することを法律で保証するのは愚策です。

 どうでしょう。国内限定通貨(エコ)というものが、持続可能な社会の形成にどのように役立つか、イメージを持っていただけたでしょうか。簡単に言えば、それは最大の再生可能資源としての労働力をバランスよく活用するための仕組みだと言えます。グローバル経済の進展のなかで、労働力の価格差があまりに大きくなってしまったせいで、国内の質の高い労働者を企業は雇えなくなってしまっている。それを是正するためにエコ通貨は投入される訳です。さて、持続可能性というキーワードに絡めて、もうひとつエコを導入することの隠された意味を説明して、今回の記事を締めくくります。それは来るべき首都直下地震に対する備えとしても有効だろうということです。昨年の東日本大震災によって、日本は経済的にもたいへんな被害を被りました。その被害総額は20兆円、GDPの4%にも相当する金額だったそうです。しかし、首都直下地震が起きれば、被害はそんなものでは収まりません。1923年の関東大震災では、当時の日本のGDPの4割にも相当する社会資産が失われたと言います。それと同じ規模の震災が東京を襲えば、もはや日本円の信認も何もあったものではない。1万円札が紙屑同然になる…かどうかは分かりませんが、たいへんなインフレと経済的な混乱が全国をおおうことは必至です。そんな時、たとえ銀行が機能を止めたとしても、個人が持つICカードと店舗のカードリーダーがあれば、最低限の交換手段としてエコを利用することは出来る(電力も必要ですね)。金持ちも貧乏人も等しく最低限の購買力を与えられる訳ですから、生活物資の交換や配給のためには打ってつけの仕組みだと言えます。震災後の復興は、そこから始まるかも知れない…。まあ、そこまで言うと自分でも眉に唾をつけたくなりますが(笑)、将来起こるかも知れない大災害や財政破綻のことを考えると、日本円だけに頼り切ったいまの経済体制がとても危ういものに見えて来るのは事実です。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »