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2012年2月26日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(2)

【2】 政府発行のクーポン券という考え方

 政府が日本円とは交換出来ないタイプの新しい政府通貨を発行して、国民に給付金として配ったらどうなるかという仮定で思考実験をしています。民主主義の政治体制下において、この新通貨の使用を国民に強制することは出来ません。であるならば、それが市場の持つ自律的な法則に従って、自然に流通するようになるということはあり得るでしょうか? いくら政府発行の紙幣と言っても、日本円と交換出来ないようなお金では、商品やサービスの対価として受け取るにはリスクが大き過ぎます。そのお金を受け取ってくれるお店や業者が、他にもたくさん存在するなら問題ないのです。そこから仕入れをしたり生活物資を買ったりすることが出来ますから。でも、自分から率先して新通貨を受け取るリスクは取りたくない。みんながそう考えるので、結局新通貨はいつまで経っても流通し始めません。しかし、ではこの政府紙幣はまったく使われないまま終わってしまうのかと言えば、まだ多少の可能性は残っているのではないかと思います。使えるお店が無いので、誰もがこの政府紙幣を財布のなかで持て余している。そこで目端の利く商売人がこんなことを考えるのです、「政府通貨を日銀券のような通貨と考えるから扱いにくいので、一種のクーポン券として客寄せのために使ったらどうだろう」。例えば、あるフレンチレストランが、1万円のコース料理を日本円7000円+政府通貨3000単位で提供すると宣伝する。これはお得な気がしますね。少なくとも最初にそれを始めたお店はアピール度が高い。

 昨年でしたか、インターネット上のクーポンを使って取り寄せた商品が、見本とは似ても似つかぬ粗悪品だったというのでニュースになったことがありました。ここ2、3年でクーポン発行会社の業績が急成長しているところを見ると、これを利用したいというお店のニーズには根強いものがあるのでしょう。この不況下で、なんとしてでも客を呼びたいという店側の気持ちはよく分かります。しかし、外資系の民間企業であるクーポン発行会社に、高い手数料を支払うだけの価値を、その店は得ているのだろうか。常識的に考えても、クーポンに釣られてやって来た客が優良顧客(リピーター)になるとは考えにくい。バーゲンハンターならぬ「クーポンハンター」が集まって来るだけでしょう。値引きと手数料のダブルパンチで経営を苦しくしているお店も多いのではないでしょうか。クーポンで大幅なディスカウント(9割引きとか)をすることは、客質を落とすだけの愚かな営業戦略でしかないと思いますが、一方で適切な割引率のクーポンには潜在的な需要を掘り起こす可能性があるのも確かです。問題は、クーポンを利用した消費が、そのクーポンによって新たに作り出された需要に基づくものなのか、それとももともとあった需要に基づくものなのか、その判断がつかないということです。前者ならクーポンにはプラスのGDP効果があったことになるし、後者なら逆に(ディスカウント分だけ)マイナスのGDP効果を発揮してしまったことになる。例えば、繁華街で「生ビール1杯無料」というクーポンを配られて、それならちょっと居酒屋に寄って行こうかと考えて店に入ればGDP的にはプラス、もともとどこかの居酒屋に入るつもりだった人がそのクーポンを使っただけなら(生ビール1杯分の)マイナスになるということです。もっともクーポンを配っているお店の側から見れば、この両者の違いに意味はありません。

 マクロ経済的に見て、需要を新たに生み出すクーポンを「良いクーポン」、すでにある需要を割り引くだけのクーポンを「悪いクーポン」として区別してみましょう。もちろんこれは消費者の使い方の問題なので、クーポンそのものに良い・悪いの区分がある訳ではありません。それでもある条件のもとではクーポンが「良いクーポン」としての振る舞いをする傾向にあるということが分かれば、政府が(または自治体が)その条件を満たす公的なクーポン券を発行することで、景気浮揚を図るというアイデアもまんざら荒唐無稽ではなくなると思うのです。では、「良いクーポン」の条件とは何か? 例えば、クーポンを使える対象の商品を贅沢品に限るというアイデアはどうでしょう? クーポンを日常の必需品に使われたのでは、新しい需要の喚起にはなりにくい、つまり悪いクーポンで終わってしまう。ふだんは消費しないちょっと贅沢なもの(先ほどのフレンチレストランのような)に使ってもらえるならば、それは新たな需要の喚起である可能性が高く、良いクーポンとしての役目を果たすことになる。でも、それを制度化することは不可能です。政府がある種の商品やサービスに限定してクーポンを使わせるルールを作れば、それは特定の事業者を利することになり、制度の公平性という点から許されることではないからです。それにもともと政府通貨や政府クーポンというものは、国内の地産地消を促進するために導入されるものなのですから、輸入ブランド品や海外旅行などの贅沢消費に使われても困ります。(まあ、海外の有名ブランドを扱うお店や海外旅行専門の旅行代理店が、日本政府クーポン券を受け取るとは思えませんが…)

 いや、でも、ひょっとしたらそんな小細工など必要無いのかも知れません。最近はインターネットクーポン業者の跋扈によって、悪いクーポンばかりが目立っていますが、もともとクーポンというのは、自社の商品やサービスに自信があって、それを広く知ってもらいたいと考えている事業者にとっての道具だった筈です。自社の製品やサービスを一度体験してもらえば、必ずリピーターになってもらえる、そういう信念を持つ事業者が発行するクーポン券は良いクーポンである可能性が高い。良いクーポンというのは、消費者の潜在的なニーズとそれに応える質の高い商品・サービスをマッチングさせるためのものです。それは出会いの場を提供するものなので、利用される機会は1回だけでも構わない。むしろ毎回使えるようなものであってはまずいのです。インターネット上には、いつでもダウンロード出来るクーポンが氾濫していますが、このいつでもダウンロード出来るという点が悪いクーポンの特徴をよく表しています。お店がインターネットの人気サイトに手数料を払ってまで、クーポン券付きの紹介記事を載せてもらう理由は、そこが人の多く集まる場所だからです。自店のサイトを立ち上げて、そこにクーポン券を掲載しても、誰もダウンロードなどしてくれませんから。しかし、有名サイトにクーポンを載せるということは、継続的なディスカウントを前提に商売をするという縛りを自らに課すことでもある訳です。ライバル店もそれをやっているから、途中でやめる訳にはいかない。デフレ経済のなかでのチキンレースのようなものです。そしてそれを煽るクーポン業者だけが懐を肥やしている。とても健全なビジネスのありようとは思えません。

 こう考えると、政府がクーポンを発行する意義やメリットも、はっきりして来るのではないかと思います。それは優良な商品やサービスを提供しているけれども、知名度がいまひとつで苦戦している小規模な事業者を応援するという意味を持つのです。いや、これは私の期待をこめた予測に過ぎませんが、政府クーポンはそうした零細な事業者にも利用しやすい仕組みであることは確かです。最初からクーポンそのものの知名度は抜群だし、クーポン発行会社に委託するのと違って手数料もかかりませんしね。「政府クーポン券使えます」の看板を出せば、誰でもすぐに取り扱い業者になれる。クーポン券の配布にも、まったく手間賃がかかりません。国が国民全員にもれなく配ってくれるのですから。政府クーポンを使えるお店を検索出来るホームページも、公営のものを用意しましょう。お店の宣伝や口コミ情報などは不要です。最低限の情報とリンク先のアドレスを載せておくだけでいい。もちろんそれだけで千客万来とはいきませんが、この公営サイトにはそれなりのアクセスがある筈です。なにせ国民の誰もがこのクーポンの使い道には困っている訳だから。さらにクーポン券そのものの〈稀少性〉という点でも、政府クーポンはインターネットクーポンとは一線を画します。例えば国民ひとりに、1か月当たり1万円分のクーポンが配布されたとしましょう。クーポンで客を呼びたい事業者は、その1万円の顧客内シェアをめぐって競争をする訳です。消費者も限られたクーポンをなるべく有効に使うために、商品やサービスを厳選するようになるでしょう。ここのところがダウンロードすれば何枚でも印刷出来る民間のクーポン券とは異なる点です。これは商品やサービスに自信がある事業者にとってチャンスになります。

 しかし、ほんとにそんなにうまく行くのだろうか? 政府クーポンは「良いクーポン」として市場で流通してくれるのだろうか? まだそのことが十分に証明されたとは言えません。日本円と交換出来ない政府通貨(それを今回の記事では政府クーポンと呼んでいます)に関しては、これまでにもこのブログで何度か記事にして来ました。市場原理に任せておけば、政府クーポンは自然に流通し始めるだろうというのが私の仮説で、議論の出発点でもありました。それはこういう理屈です。最初は政府クーポンを使えるお店が1軒も無かったとしても、どこかのお店がこれを扱い始めたら、競合店は追随せざるを得なくなるだろうということです。例えばどこかのスーパーマーケットが、政府クーポンで5%の割引をするという広告を出したとする。〈新しいお金〉を持て余している客は、一斉にその店に押しかけるでしょう。そうすると次に起こるのは、政府クーポンによる値引き合戦です。折り込みチラシには、商品の値段だけでなく、今日はどの商品でいくら分までクーポンを使えるといった情報が掲載されるようになる。消費者は、いままで以上にスーパーのチラシを真剣に眺めるようになるでしょう。しかし、これが果たして「良いクーポン」の使われ方と言えるだろうか? 実を言えば、その視点がこれまでの私の記事からは抜けていたのです。「発行元が政府だからといって、良いクーポンとして使用されるという保証は何も無いではないか」、そう指摘されれば返す言葉がありません。生活必需品を扱うスーパーマーケットを例として挙げたのが間違いだったというのは苦しい言い訳で、この不況下で消費者はまず生活必需品にこそクーポンを使いたいと考えるでしょう。政府クーポンは、居酒屋のクーポンにも劣る、悪いクーポンに成り下がってしまう可能性があるのです。

 この問題にいますぐ結論を出すのは控えたいと思います。というのも、私が構想している新しい公共通貨(発行元は国ではなく自治体であっても構いません)には、さらに「電子化」、「減価性の付与」、「業者間取引の仕組み」、「人件費への適用」、「企業会計と税制」といった多くのテーマが結び付けられねばならず、そのトータルのあり方のなかで評価して行く必要があるからです。今回の連載で、私はどんな小さな疑念でも放置したまま、議論を強引に進めることは避けたいと思っています。大事なのは自分のアイデアをアピールすることではなく、その実現性について中立な視点で検証することです。その結果、やっぱり箸にも棒にもかからないとなったら、いさぎよく撤回してまた別の方向性を考えればいい。今回の記事は、良いクーポンと悪いクーポンというコトバを中心に考えをめぐらしている訳ですが、これは地域通貨や政府通貨というテーマに特有の問題ではありません。それをもっと敷衍すれば、良い経済と悪い経済という問題に行き着く。つまり、社会に新しい価値を生み出し、私たちの生活をより良いものにしてくれる実体経済と、そこからかけ離れた場所で〈サヤ取り〉だけを目指している金融経済との対立という構図です。今朝(2月26日)の朝日新聞の朝刊一面には、コンピュータを使った「高頻度取引」の話題が取り上げられていました。実体経済の取引額の100倍を超す金融取引が毎日行なわれている現代は、まさに悪い経済によって良い経済が乗っ取られてしまった時代だと言えます。もう一度、生活者のための経済を取り戻すことは、「99%の私たち」にとって緊急の課題です。私のこの論考も、その一環としてのささやかな試みに過ぎません。

 おっと、議論のゆくえがあやしくなると、話題が急に抽象的になる。悪い癖ですね。今回キーワードとして挙げた「良いクーポンと悪いクーポン」という概念は、意外に重要な問題を含んでいるように感じますので、この先も考察の手がかりにして行きたいと思います。本連載のテーマは、減価する貨幣によるベーシックインカムだった筈なのに、脇道に逸れていると思われるでしょうか。この点について言い訳と今後の見通しを述べて、今回の記事を締めくくりましょう。前回の記事で私は、日本円と兌換性を持つ地域通貨(従属通貨)は、通貨というより、せいぜい金券か商品券のようなものでしかないと書きました。一方で、日本円と兌換性を持たない地域通貨(独立通貨)の方は、金券や商品券と呼ぶことすら出来ない、せいぜいがクーポン券程度のものに過ぎないとも言えます。少なくとも、政府が政府通貨を強制的に市場で流通させる法律でも作らない限り、政府通貨(すなわち国内限定の公的な地域通貨)は多少なりともクーポン券のようなものとして流通せざるを得ない。政府通貨をベーシックインカムの原資として利用しようというアイデアは、必然的にクーポンのようなものに矮小化されざるを得ないというのが私の見通しなのです。しかし、そこにはメリットもあるような気がします。日本政府が新たに政府通貨を発行すると宣言すれば、内外に大きな波紋を広げずにはいないでしょう。しかし、最初から政府クーポンを発行するという言い方をすれば、それは通貨発行特権(シニョリッジ)の発動にも当たらないので、国内的にも国際的にも受け入れられやすいのではないかと思う訳です。地方が発行することを考えても、自治体通貨ではちょっとキナ臭いけれども、自治体クーポンなら国政の目をごまかせる可能性がある(笑)。ということで、公的クーポンの可能性についてもう少し探求を続けます。

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2012年2月19日 (日)

「減価貨幣ベーシックインカム」の新構想(1)

 ユーロ危機が収まりません。危機の崖っぷちに立たされているギリシャでは、強いられた財政緊縮策に反対する国民のデモが過激さを増しています。つい数年ほど前までは、ユーロは没落しつつある米ドルに代わって、世界の基軸通貨の地位を狙う勢いを持っていた筈です。それがいまやユーロそのものの存続さえ危ぶまれる瀬戸際に追い込まれている。ユーロ加盟国の経済力や生産力が衰えた訳ではありません、グローバル化した金融資本に踊らされて、膨らむだけ膨らんだバブルがはじけて自壊したと言った方が正確です。金融というバーチャルな世界で起こった通貨危機は、しかしユーロ諸国のリアルな国民生活を直撃しています。

 これも何年か前までのことですが、産業界で企業のM&A(合併と吸収)がブームになったことがありました。メガコンペティションなんてコトバが現れ、業界1位と2位の企業しか生き残れないなどと言われたものです。際限なく規模の拡大を目指すこと、それは経済成長の時代が終わり、経済が成熟期に移行するなかでの生き残りゲームといった意味合いのものでした。いまになって振り返れば、そういうことだったのだと思います。経済全体のパイが拡大しているあいだは、ライバル企業同士は互いにシェアを奪い合うことなく成長出来ます。が、経済が飽和してしまえば、そうは行かなくなる。メガコンペティションというのは、いわば経済成長の時代の閉幕を告げる最後の打ち上げ花火のようなものだったのかも知れない。おそらくユーロというのも、同じ文脈で読み解けるものなのではないでしょうか。私はそれを一種の〈強者連合〉だと思っていたのですが、実は行き詰まった先進諸国の〈もたれ合い〉に過ぎなかったのかも知れないということです。であるならば、ここに来てそれが破綻の危機に直面していたとしても、何も不思議なことではありません。

 私はこれからの世界は、グローバリズムをこれ以上進展させるよりも、国または地方の経済を充実させる、ローカリズムの方向に向かうべきだと考えています。いわゆる地産地消を基本にして、身の丈に合った、地に足の着いた経済基盤を築くという方向です。通貨に関しても同じです。いまやドルやユーロと同じように、日本円も破綻の危機に直面しています。そう言っても、決して大袈裟なコトバと受け取られることはないでしょう。1千兆円を超す国と地方の借金のことを考えれば、いまだに円高が続いていることの方が不思議なくらいです。私は以前から、日本円とは別の第二通貨が必要だと主張して来ました。それは地域通貨というかたちでも、国が発行する〈国内限定通貨〉というかたちでもいい。要するに、日本円の信用が失われて、この国が超インフレに襲われる前に、国民生活をもっと根底で支えるお金を準備する必要があるということです。財政破綻は戦争ではないのだから、工場が破壊される訳でもないし、農地が荒廃する訳でもありません。人々が公正に価値を交換出来る手段を持ってさえいれば、財政破綻のショックは最小限に抑えられる、そこからの立ち直りも早いでしょう。将来、再び金融グローバリズムに国民生活をかき回されるリスクも減るだろうと思います。

 こうしたことは、グローバリズムに疑問を持つ人の多くが考えていることではないかと思います。ヨーロッパは地域通貨の発祥の地でもあるのに、何故ユーロ危機のなかで新しい通貨を流通させようという地域の動きが伝わって来ないのだろう? そのことをずっと不思議に思っていました。が、これは私の勉強不足に過ぎませんでした。先日の朝日新聞の朝刊に、フランスのトゥールーズという市を中心にソル・ヴィオレットという地域通貨が広まりつつあるという記事が載っていたのを見付けたのです。それだけではありません、他にもユーロと並行して使える地域通貨が各地に現れて来ているらしい。そう、それでなくてはおかしい。さっそくインターネットで「ソル・ヴィオレット」を調べてみました。しかし、ちょっとがっかりです。こちらの記事によれば、ソル・ヴィオレットを扱っている企業は約50社、個人会員は500人を越した程度なのだそうです。なんだ、それじゃ日本の各地で試行されている地域通貨と規模的に変わらないではありませんか。朝日新聞が報じるくらいだから期待していたのに、小さなローカルニュースに過ぎませんでした。私が知る限り、地域通貨が国家経済を動かすほどの規模にまで達したのは、2002年の通貨危機の時代にアルゼンチンで数百万人の利用者を獲得したRGTという通貨のみです。しかし、RGTは急速な規模の拡大とともに自壊の道を歩んでしまったのでした。

 前書きが長くなりました。これから私が書こうとしていることは、世界各地で試みられていながら、なかなか大きなムーブメントにまで発展しない地域通貨というものを、もっと画期的に広める方法は無いだろうかというテーマに関する試論です。このブログの過去の記事を読んでいただいている方なら、地域通貨に関してはすでに何度も記事にしているのをご存じだと思います。何故今回もう一度このテーマに取り組もうとしているのかと言えば、その理由はふたつあります。ひとつは以前発表したアイデアに対していくつか改良点が見付かったこと、そしてもうひとつは、世界的な通貨危機が進むなかで、経済のグローバリズムから地域経済を救い出すことは焦眉の急であるという気持ちが私をせかすからです。以前の記事はいわばアイデアスケッチのようなものでしたが、今回はもう少し具体的な提案としてまとめてみたいと思っています。先に少しタネ明かしをしてしまうと、タイトルにあるように、①地域通貨に減価する性質を持たせて、②それをベーシックインカムというかたちで社会に流通させようというのが基本的なプランです。何故「ベーシックインカム」なのかという点については、のちほど説明します。またベーシックインカムと言っても、私が考えているのは世間一般で考えられているそれとは少し異なる性質のものであるということも、おいおい説明して行きます。

【1】 「独立通貨」としての地域通貨

 インターネットの記事によれば、ソル・ヴィオレットはユーロと交換可能な通貨であるようです。交換比率は95:100。つまり95ユーロで100ソルが〈買える〉ということです。そしてこの100ソルを持って行けば、加盟店で100ユーロ分の買い物が出来るのです。消費者にはメリットがありますね。5%の値引きと同じことですから。問題はその5%を誰が負担しているかということです。記事では、この通貨を扱っている書店の、「5%の損失を後悔してはいない」というコトバが紹介されています。つまり損失は小売店が引き受けているのです。受け取った地域通貨では商品の仕入れが出来ないので、それを再びユーロに〈換金〉して(もちろん5%の手数料を払って)、それで次の仕入れや従業員への給料の支払いをする訳です。だからと言って、地域通貨を扱う小売店にメリットが無い訳ではありません。5%の値引きと引き換えに、他店との差別化が出来るからです。フランスにも書籍の再販制度というものがあるのかどうか知りませんが、単に店頭で5%の値引きをするより、「ソル・ヴィオレット取扱店」と看板に謳った方がイメージもいいでしょう。ただ、素朴な疑問として、消費者と小売業者のあいだで1回だけ流通して、すぐにその国の正式な通貨(法定通貨)に交換されてしまうようなお金が、果たして「通貨」と呼ぶにふさわしいものでしょうか? そんなものは「金券」とか「商品券」とでも呼ぶ方が合っているのではないでしょうか?

 ソル・ヴィオレットのような地域通貨は、どこでも採用されている標準的な方式のものですが、それが通貨として循環して行かないのには、ふたつの根本的な理由があると思っています。通貨の発行母体が地域のNPO団体や商店街のような小さな組織で、通貨の信用という点で利用者に不安を与えるということ、そしてもっと本質的な問題として、発行される通貨がその国の法定通貨と交換可能なものとして設計されているということです。一般的に地域通貨というものは、消費者に明らかなメリットがあるように作られています。さきほどの5%のプレミアムのようなものです。それが無ければ、誰も地域通貨なんて使いませんからね。これを受け取った小売店の立場に立ってみれば、もしもその通貨で仕入れが出来るならそうしたいところでしょう。さきほどの書店の例で言えば、手持ちの100ソルを両替してしまえば95ユーロにしかならず、そこで5ユーロの損が確定してしまいますが、100ソルをそのまま流通業者や出版社への支払いに使えるなら、損を被らずに済むからです。言い換えれば、損を上流の業者に押し付けることが出来る訳です。中間流通業者や生産者がソルを受け取るかどうかは、5%の損を被るデメリットを上回る差別化のメリットがあると判断出来るかどうかにかかっています。しかし、一般的に小売店と流通業者、流通業者と生産者との取引関係は、消費者と小売店の関係よりも固定的なものですから、「地域通貨取扱業者」という看板を掲げたところで大きく取引先が増えるというものではありません。結局、小売店から先には流通することなくすぐに換金されてしまい、そこで地域通貨はほんの短い一生を終えることになります。

 この問題の取りあえずの解決策として、地域通貨をその国の法定通貨に換金出来ない、独立した通貨として設計することを考えてみましょう。話はそもそも新しい通貨を作ろうということなのですから、それを別の通貨に換金するという発想自体、安直であるような気もします。地域通貨と法定通貨とは額面価格は合わせておく必要がありますが(通常は1:1に設定します、1ソル=1ユーロというように)、交換は認めないルールにするのです。この場合〈お釣り〉もダメです。地域通貨の高額紙幣を出して、法定通貨でお釣りが貰えるなら、それは通貨を交換したのと同じことになるからです。(法定通貨との兌換性のあるなしに関わらず、お釣りを出せないというのは、地域通貨に共通する一般的なルールです。) 法定通貨との交換も出来なければ、お釣りも出ない地域通貨、これはけっこう強気な制度設計ですね。誰がそんな通貨を受け取るんだろう? そんなものが流通するんだろうか? きっとあなたはそう思うでしょう。確かに95ユーロを出せば100ソルに交換出来るけれども、いったん交換してしまうと二度とユーロには戻せないというのでは、誰も恐くてそんなお金を持つことが出来ない。お金が流通するということは、要するに人と人とのあいだで〈信用〉が流通しているということです。私が受け取る1万円札は、明日も1万円として通用すると信じていればこそ、安心して受け取ることが出来る。ふつうの国の法定通貨は(北朝鮮やジンバブエのような国を除いて)、すでに一定の信用が確立されている通貨です。それと双方向に交換可能な地域通貨というのは、要するに法定通貨の信用を間借りしているに過ぎない訳で、本来の意味での独立した通貨とは呼べない、せいぜいが金券か商品券のようなものでしかないのです。

 法定通貨と交換出来ない(兌換性の無い)通貨のことを、今回の記事では仮に「独立通貨」と呼ぶことにしましょう。ここでは双方向に交換出来ない通貨という厳密な意味で使います。(これに対して、いつでも法定通貨に交換出来るタイプの通貨を「従属通貨」と呼ぶことにします。) 例えば、そうした独立通貨を国が〈政府通貨〉として発行したと仮定しましょう。地域通貨の話をしていたのに、突然、政府通貨に話題が転じたように思われるかも知れませんが、これは国際的に信用を持つ日本円に対して、国内だけで使える地域通貨を政府が発行するという意味だと理解してください。これを市中に流通させるには、どういう方法があるか? 双方向に兌換性を持たないのだから、プレミアムを付けて日本円と交換するという手は使えません。国が新通貨を流通させるためには、政府の支出の一部に使うという方法が考えられます。公務員給与や生活保護費、各種の補助金、政府調達の支払いなどに新通貨を混ぜて使うのです。例えば、今年の4月からすべての政府支出の1割を政府通貨で支払うと宣言する。それだけで(日本円の)財政支出が1割カット出来ますから、財務省は喜ぶかも知れません。が、国内経済は大混乱です。デノミだとか新円切り換えといった政策でも同じだと思いますが、政府による強権的な通貨切り換えは、経済的な混乱を招くより以前に、現在の代議制民主主義のもとでは実行不可能な政策であると言った方がいい。ところがもうひとつ、国民の反撥をあまり招かずに新通貨を発行することの出来る方法があるのです。それがベーシックインカムです。

 いや、ここで唐突にベーシックインカムを持ち出す必要はありませんね、かつて小渕政権の時に行なわれた〈地域振興券〉のようなやり方と言った方がいいかも知れません(覚えてますか?)。要するに国民全員に新通貨で給付金を配るという方法です。タダで貰えるものなら、文句を言う人もそう多くはない筈です。しかし、それが使えるお店が無いとしたら、やはり文句を言いたくなる。ここでいう新通貨が昔の地域振興券と違うのは、これを銀行に持ち込んでも日本円と交換してもらえないという点です。日本円との交換を保証されていた地域振興券でさえ、使えるお店は限られていました。(当時「地域振興券使えます」というステッカーを街のあちこちで見かけたものです。) せっかく政府通貨を配られても、それを使えるお店が無ければ、そんなものはただの紙屑でしかない。では、国が強制的にこの新通貨を流通させるような法律を作ったらどうなるでしょう? この新通貨を受け取り拒否した業者には重い罰則を科すのです。もちろん上限は設ける必要があります、例えば国内のあらゆる取引において、買い手側は取引額の最高1割までなら新通貨で支払うことが出来る、売り手側はそれを拒否出来ないといったルールにするのです。そんな法律が国会を通るとは想像出来ませんが、もし通れば新通貨は一定量流通するようになるでしょう。しかし、これは国内の景気を良くしたり、税収を増やしたりすることにはほとんど貢献しない。単に日本円部分のGDPを1割減らすことにしかなりません。独立通貨としての地域通貨が、地域経済の景気回復に貢献するためには、日本円の担っている経済を部分的に肩代わりするだけではダメで、新しい経済活動を喚起するようなものでなければならないのです。

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2012年2月12日 (日)

持続可能性のために良いこと、悪いこと

 前回の記事で、これからのリベラル政党は「持続可能性」ということを政策の基本コンセプトにして、経済成長優先主義に対抗する対立軸を打ち出すべきだと書きました。ここでひとつ注釈を付け加えておく必要を感じます。というのも、持続可能性というコトバは近ごろ流行語のようになっていますが、これをお題目にしているだけでは、空想的なユートピア思想という以上のものにはなり得ないだろうと思うからです。地球温暖化を止めるためにはCO2の排出削減がたぶん必要なのでしょう。将来世代のリスク負担のことを考えたら脱原発を進めるのも避けられない課題です。しかし、そのような〈削減条項〉なら他にも無数にあって、しかもどれひとつ取っても目標を達成出来る可能性のほとんど無いものばかりです。いや、仮に日本だけがCO2の25%削減や脱原発に成功したとしても、世界にはこれから経済成長をしなければならない国がたくさんある訳で、そうした国々にも先進国の厳しい規制を課すことは、不可能であるばかりかフェアなことですらありません。資源や環境の問題は地球全体に関わる問題ですから、一国だけの取り組みでは持続可能な社会の実現に対してほとんど無力だと言わなければならない。そういう現実をよく認識すれば、政策としての持続可能性なんてことを軽々に口にすべきではないような気もします。

 持続可能性ということを絵に描いた餅にしないためには、どうすればいいのでしょう? 私の考えはこうです。私たちが何か持病を抱えながらも、すこやかに暮らして行くためには、病気を治そうとする努力だけでは駄目で、病気と折り合いをつけて生きて行くという知恵も必要です。現在の地球はすでに十分病んだ状態にある訳ですから、その病気を根治させようとか、病気の原因を取り除こうという発想だけではおそらく駄目で、むしろその病状を前提とした社会のあり方を考えた方がいいと思うのです。そういう発想の転換が無いと、人類の将来はひたすら暗いものになってしまう。一種の終末思想とでもいうのでしょうか。最近、日本の江戸時代は持続型社会のお手本だったというような論調をよく見かけますが、これは実りのない思想だと思います。現代人がいまの生活を捨てて、江戸時代の生活に戻るなんてことはどう考えても不可能だからです。いま私たちに必要なのは、過去を懐かしむことではなく、70億の人類がすこやかに幸福に暮らして行くために、この地球をどう作り変えて行けばいいかという「カスタマイズの思想」なのではないか。人間は地球という惑星にとりついた癌細胞のようなものです。まずはそのことを謙虚に認めましょう。癌は一般的に恐ろしい病気だと思われているけれども、癌細胞のなかにも悪性のものと良性のものがある訳で、人類が目指すべきはまさにこの良性の癌細胞というポジションだと思う訳です。基本になるのは、地球という惑星が本来持っている〈自然治癒力〉です。私たちはその限界を知った上で、宿り主である地球との共存を図らねばならない。

 人間を癌細胞に喩えるような表現を、新しい政党のマニフェストに書き込むのは無謀なことでしょうが、もっとふさわしいレトリックは別に考えるとしても、こうした思想の方が既存のグリーン政党が掲げているようなユートピア思想よりも、ずっと現実的だし政策の選択肢も広がるだろうと思う訳です。で、こういう考え方を採用した場合、現代社会のさまざまなテーマが持続可能性という観点からどのように評価されるべきか、少し考えてみました。以下に挙げるのは、いずれも今日議論される機会の多い政治的テーマです。「人類の生存のために地球をカスタマイズする」という視点から見た場合、これらは社会の持続可能性にとってプラスの政策となり得るのか、マイナスの政策でしかないのか、私の意見は次のとおりです。(今回はちょっと書き方を工夫してクイズ形式にしてみました。あなたが持続可能性をマニフェストに掲げる新党の政策担当者だったとして、それぞれの項目について○×で評価してみてください。そしてその理由も説明してください。解答はテキストを選択して反転させると現れます。もしも6問中5問以上が一致していたら、あなたはもう立派な〈ニューリベラル〉の仲間入りです。笑)

1.生物多様性 → ×

 最近の風潮では、生物多様性を否定するような議論を展開するにはよほどの勇気が要る。しかし、生物多様性はそれほどまでに無条件に称揚されるべきものなのだろうか? これまで地球上に存在したどんな生物でも、生物多様性のことを気にかけながら生存した種は無かった。人間だけである。人類が誕生する以前にも、地球上では数え切れないほどの種が絶滅して来た。人間が介在しない自然のなかでは、生物多様性が保証されるというのも、根拠の無い先入観に過ぎない。
 生物多様性が一般的に好ましいことは認めるが、過度にこれを尊重することは、結局は人類の文明を否定することにつながる。例えば、開発によって失われた森林を甦らせるのに、出来るだけ元の植生を再現するのと、生育が速く・炭素代謝の効率に優れ・木材としても有用な樹木を選択的に植えるのとでは、どちらが好ましいか? 審美的には前者が優れているかも知れないが、人間社会の持続可能性のためには後者を選ぶのが正解である確率が高い。人類は自分たちのために好ましい生物分布を作り出すという事業を、農耕や牧畜を始めた数千年前からずっと続けて来たのである。

2.遺伝子工学 → 

 もちろん遺伝子操作にともなうリスクを小さく見積もるべきではないだろう。しかし、このリスクは、地球を人間にとってより住みやすい星に改造するためには、あえて引き受けなくてはならないリスクだと考える。この技術が人類にもたらす恩恵には二種類ある。ひとつは医療分野における技術開発で、遺伝子の問題に由来する疾病や障害を予防したり治療したりするために利用される。そこには出生前診断の是非であるとか、障害を持った人の人権であるとか、倫理的に難しい問題が横たわっている。が、現にいま病気や障害で苦しんでいる人がたくさんいる以上、倫理的な議論を優先することで遺伝子治療や再生医療の進歩を妨げるべきではない。
 遺伝子工学へのもうひとつの期待は、食料問題の解決への手がかりを与えてくれるという点である。この先、人類を待ち受けている最大の課題は、地球規模での人口の爆発的増加とそれにともなう食料不足ということだ。発展途上国における人口増加の抑制ということと同時に、食料の増産も人類共通のテーマとなる。植物工場での育成に適した農業品種や環境適応性の高い畜産品種の開発に、遺伝子工学の援用は欠かせない。遺伝子組み換え食品が何となく恐いという消費者の感覚は理解出来るが、それは食べるものに不自由していない豊かな国に生まれた私たちの贅沢な好みに過ぎないとも言える。少なくとも化学工場で作られた様々な薬品を体内に取り込んでいる現代人が、遺伝子組み換え食品だけを選択的に忌避することは理屈に合わない。

3.ソーラー発電 → 

 ソーラー発電が持続可能性にとって好ましい理由は、それが再生可能なエネルギーだからというにとどまらない。これは以前からの私のかなり素人っぽい主張だが、太陽が運んで来るエネルギーを、地上で熱として発散させずに電気に変換することには、温暖化を直接抑制するという副次効果があると思われるからだ。(砂漠に大規模な太陽光発電所を建設すれば、その地域の地表温度は下がるに違いない。) 当たり前のことだが、地球温暖化の直接の原因はCO2ではない、太陽エネルギーである。太陽光発電は、地表で熱として発散されやすい太陽エネルギーを、電気エネルギーに変換して蓄積する技術なのだから、まるまる温暖化対策としても有効だと考えてよい。
 この理屈に従えば、風力発電や水力発電といった他の再生可能エネルギーよりも、太陽光発電が優れている点も明らかだろう。風力や水力には直接地表の温度を下げる能力は無いからである。(もっとも、ソーラー発電所から供給される電力も、使われてしまえば大部分が熱となって放出されてしまうに違いないが。) この観点からすると、日本で期待が持たれている地熱発電は立場が悪い。これは地中に封印されていた高温のエネルギーをわざわざ地上に解放しようという技術なのだから。ただ、一部の科学者はこれからの地球は寒冷化すると予想しており、その時は地熱発電の方が優位になるかも知れない。

4.バイオエタノール → 

 バイオエタノールが持続可能性の観点から注目されている背景には、〈カーボンニュートラル〉という性質がある。バイオエタノールを燃料として燃やせば当然CO2が発生するが、そのCO2は原料となる植物が大気中から吸収して固定したものを再び大気中に返しているだけなので、CO2の排出という点ではプラマイゼロ、つまりニュートラルという理屈だ。だが、そういう論法で行くなら、石油を燃やすことだってカーボンニュートラルなのである。石油は太古の植物が炭素代謝を行なった結果の産物なのだから、数十億年のタイムスパンで見れば、大気中のCO2はプラマイゼロになっている筈である。
 これからの時代にバイオエタノール政策を推進するべき理由は、もっと単純な理由からである。石油や石炭は掘り尽くしてしまえば無くなってしまうが、バイオエタノールは空に太陽がある限り(?)人間の生存するサイクルのなかで再生産可能なエネルギーだからだ。しかも太陽光発電や風力発電と違って、液体燃料として利用出来るバイオエタノールは、他の再生可能エネルギーでは代替出来ない地位を占めている。トウモロコシやサトウキビなどを主原料とするために、人間の食料と競合し、食料不足に拍車をかけるという批判もあるが、これは持続可能性という面から見れば批判には当たらないことだ。バイオエタノールの生産によって飢える人々が出るとしても、それは現在生きている我々が飢えるのであって、将来の人類にツケを回している訳ではないからである。

5.シェールガス → ×

 原発事故にともなう昨夏の電力不足を、なんとか乗り切ることが出来たのは、アメリカがシェールガスの採掘を本格化させたおかげなのだそうだ。つまりアメリカの天然ガス自給率が上がったために、世界的に見て液化天然ガスの供給にダブつきが出て、日本の火力発電所の急増する需要にも対応出来たのだという。シェールガス、あるいはオイルシェールは、次世代の化石燃料として期待されているものだが、持続可能性の観点から見ればもちろん×だ。数十億年のあいだに蓄えられた地球の遺産を食いつぶすという点では、従来の石油や石炭と変わらない。本当に人類の持続可能性ということを真剣に考えるなら、せめてシェールガスや海底油田などは、いざという時の蓄えとして、手付かずで将来世代に残しておくべきだ。
 あるいはこれを利用するとしても、その用途を厳しく限定することが必要だと思う。私たちのこれまでのエネルギー消費は、最適なプロダクトミックスというものをほとんど無視したものだった。例えば部屋の暖房のために、電力会社の電力を使うか、自宅のソーラー発電を使うか、都市ガスを使うか、石油ストーブを使うか、あるいは薪を使うかといったことは、個人の趣味の問題か、または家計の都合の問題に過ぎなかった。人類の持続可能性のために最適な部屋暖房という発想は無かったのである。しかし、これからはそうは行かない。電気自動車は実用化されても、旅客機は将来的にも電気では飛ばせないだろう。であれば、石油資源は航空機や宇宙ロケットのために取っておくべきではないか。これまで散々浪費してきた反省を活かして、シェールガス(オイルシェール)は市場原理に委ねるのではなく、国家(または国際機関)の管理下に置くくらいの政治的判断が必要だろう。

6.原子力発電 → 

 私は脱原発論者だが、未来永劫、無条件に原発は無くすべきだと考えている訳ではない。福島の事故によって、逆に明らかになった原子力発電の圧倒的な優位性を考えると、これをすっかり諦めるのはあまりに惜しい気がするからだ。端的に言って、原発が危険なのは、事故を起こす可能性をゼロに出来ないからではない、事故の際に放出される放射性物質の毒性が問題になっているだけのことである。ということは、放射性物質の毒性を消せるような技術が開発されれば、原発に反対する理由は何も無くなることになる。もしも放射性物質で汚染された土地にパラパラと撒くだけで、副作用も無く放射能が中和されるような薬品が開発されたとしたらどうだろう?
 それは夢物語だとしても、もう少し実現性のありそうな次世代技術として、放射性物質を出さない原子力発電というものならある。そう、核融合炉のことだ。燃料は海水中の重水素なのでほぼ無尽蔵、核分裂反応と異なり爆発の危険性も無く、放射性物質もほとんど放出しないというまさに夢の新技術である。現在、日本も技術参加する核融合実験炉がフランスで建設されている筈だが、福島の事故によってこのプロジェクトの重要性はさらに高まったと私は考える。天上の火を盗んだプロメテウスに喩えて、原子力は禁断の技術だなどというステレオタイプな脅し文句は、変革を恐れる守旧派のものだ。

 さて、ということで、あなたの考えと一致する意見はどのくらいあったでしょうか。最後にひとつお断りしておきます。今回の記事は半分がジョークです。でも、半分がジョークということは、残りの半分は本気ということなのですが…(笑)

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2012年2月 5日 (日)

いまこそ日本のリベラルは大同団結を!

 橋下大阪市長の動静に注目が集まっています。少し前までは大阪府知事、そのもっと以前はテレビタレントとして名前を売っていた人です。さすがタレント出身者というだけあって、派手な言動やパフォーマンスで有権者の心を惹きつけるのはお手のものらしい。関東在住の私には、大阪府民の人たちも大変だなあと対岸の火事を眺めるような気分で見守っていたのですが、その橋下さんが今度は国政への参加に意欲を見せていると聞いて、これは他人事ではないと感じるようになりました。橋下氏率いる「大阪維新の会」は、次回の衆院選で200議席を獲得すると息巻いています。全国区に向けて、党名からは大阪の地名がはずされることになるのでしょうか。そう言えば、維新の会が現在策定しているマニフェストは「船中八策」というニックネームだそうで、どうも橋下さんは、ご自身を明治維新の英雄に重ね合わせているらしい。大阪ダブル選挙での勢いを見る限り、橋下新党が次の国政選挙で台風の目になることは間違いなさそうです。その人気にあやかろうと、中央政党も橋下氏に擦り寄る姿勢を見せています。かと思うと、大阪の動きに呼応するかのように、東京都知事も新党の立ち上げを宣言しました。こちらはいまのところ石原新党と仮称されています。民主党や自民党には、この先何も期待出来そうにありませんし、政界の次のトレンドは、大阪と東京というふたつの「地方」から生まれて来るのでしょうか。

 大阪維新の会のマニフェストを見ると、本文に「橋下府政の手法で」「橋下府政が行った」といった表現で、橋下氏の名前が7回も連呼されています。政党のマニフェストとして、これは異例なことでしょう。時代の閉塞感がこういう〈自己心酔型〉の政治家を強いリーダーと勘違いし、フォロワーが増えることは仕方がないような気もします。(ちなみに橋下市長も石原都知事も、日本の核武装化に賛成する考えをお持ちのようです。) いや、私は橋下さんのような政治手法を否定したい訳ではありません。掲げている政策にはことごとく反撥を感じますけど、実行力のある地方の首長が、地方行政での実績を引っ提げて、国政に乗り込んで来るのもアリだと思っています。そのくらいいまの中央政界の凋落ぶりは目に余るということでもあります。私は不思議でならないのですが、民主党はここまで支持率を落としているのに、何故分裂しないのでしょう。前回の衆院選では、民主党候補というだけで誰でも当選してしまいましたが、次回はそうはいかない。むしろ民主党の看板を背負うことは、選挙ではマイナスになるだろうと思います(これは自民党も同じです)。もしも機を見るに敏な民主党議員なら、離党して維新の会の門を敲くという選択肢もある筈です。相手もある程度の知名度がある現職議員なら、喜んで迎え入れるに違いない。選挙で勝てなければ職を失う彼らが、いつまでも泥舟にしがみついている理由が私には分からないのです。

 インターネットで話題になっている動画を見ました。民主党が政権を取る以前に、(無役だった)野田議員が街頭演説をしている映像です。天下りの根絶や無駄な財政支出の削減ということを、民主党マニフェストの一丁目一番地だと訴えている。政府の天下り法人をシロアリとののしっています。シロアリの駆除無くして消費税の増税はあり得ないともはっきり言っている。そうだった、あの頃はこうした言説が日本中を覆っていたのでした。私は野田さんが変節したのだとは思いません、もともとこの人には自らの政治的信念も哲学も何も無いのです。だからこそ、こうもあっけらかんと過去の言を翻せるに違いない。「増税に向けて逃げない、ブレない」なんて、ご自身のこの映像を見たあとでは恥ずかしくて口に出来ないだろうと思うのですが、そもそも虚ろな〈政界のパペット〉には恥なんて感情も無いのでしょう。(ここまで来ると、私はむしろ安倍さんから菅さんまでの歴代首相を懐かしく思い出します。) 政治家のなかにはカリスマ性やリーダーシップという意味ではイマイチだけれども、いかにもそつのない〈能吏タイプ〉といった人もいます。民主党のなかにもそういう人はいる訳じゃないですか(例えば枝野さんとか原口さんとか?)。どうせ〈つなぎ〉の総理なら、そういう人を選ぶべきでした。こんな総理大臣しか望めないということが、民主党政権の、いや日本の政治が根もとから腐っていることの何よりの証拠です。いや、我ながらひどい悪口雑言を並べているような気もしますが、YouTubeで野田氏の動画を見た私は、本当に腹を立てているのです。

 この中央政界の停滞(むしろ衰退と呼びたい気もする)を打ち破るためには、橋下さんのような野心家がひと暴れすることが必要なのかも知れない、そんなふうにも思います。ただ、私は次の選挙で橋下新党には絶対に投票したくない。もちろん民主党や自民党にも投票したくありません。おそらくそう思っている有権者は非常に多いと思います。ここまで来ると、いまの日本の政治に何が足りないのかが、誰の目にもはっきり見えて来たと思います。正統な日本のリベラル層が安心して一票を投じられるような政党が無いのです。社民党? 小選挙区の1割にしか候補者を擁立出来ないような弱小政党に、この国のリベラルを代表する資格などありません。共産党? 小選挙区で1議席も取れないような時代錯誤の政党に、この国の未来を託すことは出来ない。橋下新党に対抗するには、こちらも新しいコンセプトの新党が必要なのです。そしておそらくいま、リベラル層の潜在的ニーズを最も掘り起こすことが出来る新党のコンセプトは、「持続可能性」ということ以外にはないと思います。原発事故で国民の多くは政治的に目覚めたのです。脱原発ということだけでなく、すべてにおいて将来に負債を残さない、持続可能な社会を目指すことがこれからの政治の最大のテーマであるという認識にです。これはエネルギーや資源や環境といった問題だけに限りません、巨額の財政赤字や年金問題なども同じ構図で捉えることが出来ます。このままでは社会が破綻するという認識が、いまほど人々の共通の認識になったことはなかった。その危機意識の受け皿となる政党がどうしても必要です。

 最近はテレビもほとんど見ませんし、ツイッターにもログインしていないので、現場の雰囲気はよく分からないのですが、テレビ討論やツイッター上で並みいるリベラル派の知識人たちが橋下市長にコテンパンにのされているのだそうです。(そのなかには我が敬愛する内田樹先生も含まれているらしい。笑) ふがいない話ですね。橋下氏のやろうとしていることを見れば、規制緩和や法人減税による企業の誘致だとか、高付加価値型産業への転換だとか、教育バウチャー制の導入だとか、ひと昔前の構造改革派(新自由主義)の政策の焼き直しに過ぎない。つまり市場原理をベースにした経済成長最優先主義です。対立軸を設定すべき場所は、まさにそこなのです。もはや経済成長を追求する時代は終わった、これからはいかに限られた資源を循環させながら、持続可能な社会に移行して行くかが最重要な政治的テーマである。おそらくそれを具体的な政策論に落とし込んでアピール出来る政党が現れれば、その党はこれからの政界再編の第三極としての位置を占めることが出来る。(第一極は滅びつつある中央政党、第二極は新自由主義的な政策を掲げる地方政党です。) 橋下氏に反対する人たちは、そこを軸にして具体的な政策を練り、国民にアピールしなければならない。批判のための批判ではもう誰も説得出来ません。福島の事故のあと、文化人類学者の中沢新一さんが日本版「緑の党」の結党を宣言していたと思います。あの構想は一体どうなったのでしょう? 先日の新聞の読者投稿欄に、社民党は緑の党に合流してはどうかという意見が載っていました。私もこの意見に賛成です。もはやリベラル陣営のなかで派閥を争っている場合ではない。いまこそ「持続可能性」という大義のもとに、日本のリベラルは大同団結すべき時だと思います。

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