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2012年1月29日 (日)

無罪と極刑のはざまで

 裁判員制度については、以前はこのブログでよく取り上げていましたが、最近はあまり触れていませんでした。しかし、私がこれに強く反対していることは今も変わりありません。そもそも日本の裁判員制度には、最初から制度設計上の大きな欠陥があった、というのが私の基本的な認識なのです。これは以前に書いたことの繰り返しになりますが、もう一度おさらいをしておきましょう。市民の司法参加には大きく分けて二通りのやり方があります。陪審制と参審制です。陪審制というのは、市民から無作為に抽出された陪審員が、職業裁判官を交えずに審議を行ない、有罪か無罪かの評決を行なうものです。有罪か無罪かを決定するための制度なので、扱うのは被告人が無罪を主張している否認事件であることが原則で、被告人には陪審員裁判を受けるかどうかの選択肢も与えられます。評決は基本的に全員一致でなければならず、全員の意見が一致するまで徹底的に話し合うことが求められます。重要なのは、有罪が決定したあと、量刑を行なうのは職業裁判官であるという点です。陪審員はあくまで有罪か無罪かの決定を行なうだけです。これに対して、参審制(日本の裁判員制度も参審制の一種です)の方は、職業裁判官と市民から選出された参審員が合議で罪状認定と量刑まで行なうものです。対象となる事件は、被告人が起訴事実を否認しているかどうかに関わりませんし、被告人に参審員裁判を忌避する選択肢もありません。最後の評決は全員一致である必要はなく、多数決であるのが一般的です。

 こうして両者を比較してみると、同じ市民の司法参加と言っても、陪審制と参審制はまるで異なる理念と目的を持ったものであることが分かります。そしてここが重要な点ですが、ある国が陪審制を採用するか、参審制を採用するかについては、ひとつの絶対的なルールがあるのです。つまり、死刑制度を存置させている国では、参審制ではなく陪審制しか選択肢が無いということです(死刑廃止国の方はそのような縛りはありません)。いや、これは私個人の見解なのですが、そう考える理由を以下に述べます。現在、陪審制を採用している国の代表格と言えばアメリカです。アメリカは日本と並んで、先進国のなかでは例外的な死刑存置国です。しかし、アメリカの陪審員は、陪審制度の基本ルールに従って、被告人に対して直接死刑を言い渡すことはしません。量刑を決めるのは職業裁判官だからです。これに対して、参審制を主に採用しているのはヨーロッパの国々ですが、ご存じのとおりヨーロッパではすでに死刑は廃止されていますから(EUに加盟するための条件のひとつは死刑が廃止されていることです)、参審員は裁判官とともに量刑に責任を持つと言っても、死刑判決に責任を持つというシチュエーションはあり得ない訳です。ヨーロッパ諸国もかつては陪審制を採用していました。そして死刑存置国でした。これらの国々では、死刑を廃止するなかで参審制に移行したという歴史的経緯を持っているのです。ところが日本では、そのような歴史的な背景も無視して、単に司法業界の住人たちの利害調整の結果、裁判員制度という名の珍妙な〈参審制もどき〉を作り上げてしまった。これによって日本は世界でもまれな「市民が市民に死刑を宣告する国」になってしまったのです。

 私自身は〈市民の司法参加〉ということ自体に反対している人間なので、日本は参審制よりも陪審制を採用すべきだったと言いたい訳ではありません。(陪審制にせよ参審制にせよ、来るべき時代の新しい司法制度から見れば、過去の遺物に過ぎないと思っています。私が考える未来の司法制度については、別のところでアウトラインを描いています。) この制度が始まった3年前には、死刑判決が想定されるような重大事件からは、裁判員は周到に除外されていました。それはそれでおかしな話ですが、この制度が持つ本質的な矛盾はそれでカムフラージュされていたとも言えます。制度導入から1年ほど経って、反対派の声も小さくなり始めたころ、死刑の可能性がある重大事件も裁判員裁判の対象にされるようになりました。そして事実、裁判員が一審で死刑の判決を出す事例も増えて来たのです(昨年末の時点で12件の死刑判決が出ています)。そしてさらに最近では、被告人が無実を主張している殺人事件が、裁判員裁判の対象にされるようになりました。現在、さいたま地裁で公判が行なわれている「結婚詐欺・連続不審死事件」は、裁判員裁判としては異例の長さとなる〈百日裁判〉として世間の注目を集めています。被告人が起訴事実をめぐって全面的に争う姿勢であること、もしも起訴事実がすべて認定されれば死刑が予想される事件であることから、当初から裁判員にとってはあまりに荷の重過ぎる裁判であると懸念されていました。そのため辞退者が多く出ることを前提に、通常の5倍に当たる330人もの裁判員候補者に召喚状が送られたと言います。予定されている公判回数は、実に38回にも上るのだそうです。

 この事件を担当する裁判員は、長い審理期間ということ以外にも、〈ふつうの殺人事件〉を扱う場合とは異なる重荷を負わされることになります。仮に有罪が確定して、死刑判決が下ったとしても、もしかしたら冤罪であったかも知れないという疑いを完全に払拭することは出来ないからです。もしも被告人が最後まで無罪を主張し続けたとすれば、彼らはその疑念を一生〈当事者として〉抱きながら生きていかなければならなくなるのです。仮に無罪判決だったとしても同じです。この場合、裁判員は、やはり被告人は真犯人だったかも知れないという疑念と一生向き合わなければならなくなる。つまり、否認事件においては、どちらに転んでも裁判員は十字架を背負わされるという構図になっているのです。それはアメリカの陪審員でも同じではないかという意見があるかも知れません。陪審員は直接量刑に関わらないと言っても、有罪が確定すれば極刑は免れないといった重大事件が対象なら、有罪の評決を下すことは死刑宣告と同じ意味を持つのだから。ところが、陪審員制度では、そこにひとつ抜け穴というか、安全弁が用意されているのです。陪審裁判では、12人の陪審員全員の意見が一致しなければ、評決が有効にならないというルールを思い出してください。11人が有罪だと言っても、自分ひとりが頑として無罪を主張すれば、その審理は無効となって、新たに選任された12人の陪審員と入れ替えるルールになっているのです。この場合、陪審員は有罪にも無罪にも加担したことにならない。すなわちどの陪審員も、自分ひとりの意思で合法的に審理拒否が出来る仕組みになっているのです。裁判員制度ではそうはいきません。たとえ自分だけが無罪を主張しても、あるいは審理拒否を宣言しても、多数決で判決は出されてしまうからです。被告人が死刑を執行されたあと、それでも自分だけは無罪に投票したと言って自分を慰めることは出来るかも知れない。しかし、自分が死刑を決定した9人のうちのひとりだったという事実は消すことが出来ません。

 以上の事実からも、日本の裁判員制度が、いかに重大な欠陥を抱えた制度であるかということが分かっていただけたのではないかと思います。刑事裁判に市民が参加するということは、刑事被告人を裁くという行為に対する責任の一端を市民が担うということです。ということは、別の言い方をすれば、裁判の結果に対する司法当局の受け持つ責任を、その分だけ減じるということでもあります。裁判員制度というものが、ほとんど国民的な議論を経ずに性急に導入された背景には、世界的な死刑制度廃止の潮流のなかにあって、それでも死刑制度を存続させたい当局の思惑があったのではないかと私は思っています。日本は国連やEUなどから、死刑を廃止するよう勧告を受けているのです。ところが、裁判員が参加した裁判で出された死刑判決ならば、それは国民の意思であるという抗弁が成り立つ。国際世論に対して、死刑存続の言い訳が成り立つのです(少なくとも法務省はそう考えたのでしょう)。しかし、日本の国民の8割が死刑制度に賛成していると言っても、それは自分が死刑判決を下す当事者になっても構わないということではない筈です。繰り返しますが、無罪を主張している被告人に対して、市民が有罪か無罪かの判定をして、さらには死刑の判決まで出すなんて国は、世界中を見回しても日本だけなのです。市民の司法参加は先進国では当たり前だなどというコトバに惑わされてはいけない。そもそも制度設計の根本が間違っているということを、もう一度はっきり認識しましょう。この制度が持つ本質的な矛盾は、今回のような否認事件においてより際立ちます。さらにそれは極刑が想定される殺人事件において極大化するのです。

 注目される百日裁判の行方はどうなるのでしょう? 330人の候補者のなかから選ばれた6人の裁判員の方たちは、いま長い公判のなかでそれぞれの印象を形成しているところだと思います。結審は4月13日の予定だそうです。どのような判決が出るのか分かりませんが、分かっているのは、6人の裁判員は無罪と極刑のあいだで究極の選択を迫られるということ、そしてどういう選択をしたにせよ、その結果は彼らにとって大きな心の傷となって残るだろうということです。裁判員を引き受ける人のなかには、殺人犯は死刑にされるべきだという強い信念を持った人もいることでしょう。死刑判決にためらいを持たないと豪語する人だっていると思います。が、万に一つでも冤罪の疑いがある場合には、そんな正義感だけで自分の心を納得させることは出来ない。否認事件における事実認定というのは、その人の正義感や道徳観とはまったく関係の無いことだからです。そんな重荷を市民に背負わせて、しかも逃げ道も与えないなどという制度は根本的に間違っている。私は裁判員制度はいますぐにでも廃止してもらいたいと思っているのですが、それが不可能だったとしても、裁判員の基本的な権利として、審理や評決に対する拒否権は保証されるべきだと強く主張します。

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コメント

主さんのこのテーマ、批判多数ながら仰りたいところよく分かります。
で、主さんが過去に挙げた疑問、
裁判員制度で扱う裁判選択を誰が決めているのか、
ここはとても重要だと思います。
ここがブラックボックスなら、いくらでも恣意的な操作が可能です。

原発事故以降、私達が何を求めているかの総体は、
意思決定へのプロセス
なのだと思います。

どんどん、怖い国になっていくような薄ら寒さを感じてます。

投稿: ロシナンテ | 2012年1月30日 (月) 03時43分

ロシナンテさん、いつも記事を読んでいただき、ありがとうございます。

裁判員制度はこの5月で丸3年を迎えます。確か3年経ったら制度の見直しをするという前提でスタートしたんですよね。でも、最近はマスコミもほとんどニュースにしませんし、反対派の声も取り上げられることが少ないので、このままズルズルと続いて行きそうです。

予想していたことですが、裁判員裁判で死刑判決が出ても、最近は誰も驚かなくなりました。制度を導入した側からすると、効果は着々と現れているということなのでしょう。死刑のある国で参審制など採用したら、文字通り「人民裁判」になってしまうことは最初から分かっていたことなのです。

投稿: Like_an_Arrow | 2012年1月31日 (火) 23時45分

死刑を望む風土とは?
目には目を、歯には歯を、の報復でしょうかね。
少し違うなあ。
司法の威厳を保ちたいだけじゃないかなあ。

量刑がすべてプロシージャによって決まるならば、
司法・検察の権威は必要なくなる。
関数でしかない。
大岡裁きも無い。
もとより誰もそんなのを期待してはいない。
プロシージャが明確であるなら、
死刑制度も反対では無いですよ、私は。
厳密なプロシージャを設定できるかどうか、の方法論は別として。

情状酌量、そこに恣意性が入り込む。そしてそれが司法・行政の特権構造を生む。
ま、日本人にプロシージャで動く国家像なんて想像し得ないですけどね。

投稿: ロシナンテ | 2012年2月 3日 (金) 03時52分

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