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2012年1月29日 (日)

無罪と極刑のはざまで

 裁判員制度については、以前はこのブログでよく取り上げていましたが、最近はあまり触れていませんでした。しかし、私がこれに強く反対していることは今も変わりありません。そもそも日本の裁判員制度には、最初から制度設計上の大きな欠陥があった、というのが私の基本的な認識なのです。これは以前に書いたことの繰り返しになりますが、もう一度おさらいをしておきましょう。市民の司法参加には大きく分けて二通りのやり方があります。陪審制と参審制です。陪審制というのは、市民から無作為に抽出された陪審員が、職業裁判官を交えずに審議を行ない、有罪か無罪かの評決を行なうものです。有罪か無罪かを決定するための制度なので、扱うのは被告人が無罪を主張している否認事件であることが原則で、被告人には陪審員裁判を受けるかどうかの選択肢も与えられます。評決は基本的に全員一致でなければならず、全員の意見が一致するまで徹底的に話し合うことが求められます。重要なのは、有罪が決定したあと、量刑を行なうのは職業裁判官であるという点です。陪審員はあくまで有罪か無罪かの決定を行なうだけです。これに対して、参審制(日本の裁判員制度も参審制の一種です)の方は、職業裁判官と市民から選出された参審員が合議で罪状認定と量刑まで行なうものです。対象となる事件は、被告人が起訴事実を否認しているかどうかに関わりませんし、被告人に参審員裁判を忌避する選択肢もありません。最後の評決は全員一致である必要はなく、多数決であるのが一般的です。

 こうして両者を比較してみると、同じ市民の司法参加と言っても、陪審制と参審制はまるで異なる理念と目的を持ったものであることが分かります。そしてここが重要な点ですが、ある国が陪審制を採用するか、参審制を採用するかについては、ひとつの絶対的なルールがあるのです。つまり、死刑制度を存置させている国では、参審制ではなく陪審制しか選択肢が無いということです(死刑廃止国の方はそのような縛りはありません)。いや、これは私個人の見解なのですが、そう考える理由を以下に述べます。現在、陪審制を採用している国の代表格と言えばアメリカです。アメリカは日本と並んで、先進国のなかでは例外的な死刑存置国です。しかし、アメリカの陪審員は、陪審制度の基本ルールに従って、被告人に対して直接死刑を言い渡すことはしません。量刑を決めるのは職業裁判官だからです。これに対して、参審制を主に採用しているのはヨーロッパの国々ですが、ご存じのとおりヨーロッパではすでに死刑は廃止されていますから(EUに加盟するための条件のひとつは死刑が廃止されていることです)、参審員は裁判官とともに量刑に責任を持つと言っても、死刑判決に責任を持つというシチュエーションはあり得ない訳です。ヨーロッパ諸国もかつては陪審制を採用していました。そして死刑存置国でした。これらの国々では、死刑を廃止するなかで参審制に移行したという歴史的経緯を持っているのです。ところが日本では、そのような歴史的な背景も無視して、単に司法業界の住人たちの利害調整の結果、裁判員制度という名の珍妙な〈参審制もどき〉を作り上げてしまった。これによって日本は世界でもまれな「市民が市民に死刑を宣告する国」になってしまったのです。

 私自身は〈市民の司法参加〉ということ自体に反対している人間なので、日本は参審制よりも陪審制を採用すべきだったと言いたい訳ではありません。(陪審制にせよ参審制にせよ、来るべき時代の新しい司法制度から見れば、過去の遺物に過ぎないと思っています。私が考える未来の司法制度については、別のところでアウトラインを描いています。) この制度が始まった3年前には、死刑判決が想定されるような重大事件からは、裁判員は周到に除外されていました。それはそれでおかしな話ですが、この制度が持つ本質的な矛盾はそれでカムフラージュされていたとも言えます。制度導入から1年ほど経って、反対派の声も小さくなり始めたころ、死刑の可能性がある重大事件も裁判員裁判の対象にされるようになりました。そして事実、裁判員が一審で死刑の判決を出す事例も増えて来たのです(昨年末の時点で12件の死刑判決が出ています)。そしてさらに最近では、被告人が無実を主張している殺人事件が、裁判員裁判の対象にされるようになりました。現在、さいたま地裁で公判が行なわれている「結婚詐欺・連続不審死事件」は、裁判員裁判としては異例の長さとなる〈百日裁判〉として世間の注目を集めています。被告人が起訴事実をめぐって全面的に争う姿勢であること、もしも起訴事実がすべて認定されれば死刑が予想される事件であることから、当初から裁判員にとってはあまりに荷の重過ぎる裁判であると懸念されていました。そのため辞退者が多く出ることを前提に、通常の5倍に当たる330人もの裁判員候補者に召喚状が送られたと言います。予定されている公判回数は、実に38回にも上るのだそうです。

 この事件を担当する裁判員は、長い審理期間ということ以外にも、〈ふつうの殺人事件〉を扱う場合とは異なる重荷を負わされることになります。仮に有罪が確定して、死刑判決が下ったとしても、もしかしたら冤罪であったかも知れないという疑いを完全に払拭することは出来ないからです。もしも被告人が最後まで無罪を主張し続けたとすれば、彼らはその疑念を一生〈当事者として〉抱きながら生きていかなければならなくなるのです。仮に無罪判決だったとしても同じです。この場合、裁判員は、やはり被告人は真犯人だったかも知れないという疑念と一生向き合わなければならなくなる。つまり、否認事件においては、どちらに転んでも裁判員は十字架を背負わされるという構図になっているのです。それはアメリカの陪審員でも同じではないかという意見があるかも知れません。陪審員は直接量刑に関わらないと言っても、有罪が確定すれば極刑は免れないといった重大事件が対象なら、有罪の評決を下すことは死刑宣告と同じ意味を持つのだから。ところが、陪審員制度では、そこにひとつ抜け穴というか、安全弁が用意されているのです。陪審裁判では、12人の陪審員全員の意見が一致しなければ、評決が有効にならないというルールを思い出してください。11人が有罪だと言っても、自分ひとりが頑として無罪を主張すれば、その審理は無効となって、新たに選任された12人の陪審員と入れ替えるルールになっているのです。この場合、陪審員は有罪にも無罪にも加担したことにならない。すなわちどの陪審員も、自分ひとりの意思で合法的に審理拒否が出来る仕組みになっているのです。裁判員制度ではそうはいきません。たとえ自分だけが無罪を主張しても、あるいは審理拒否を宣言しても、多数決で判決は出されてしまうからです。被告人が死刑を執行されたあと、それでも自分だけは無罪に投票したと言って自分を慰めることは出来るかも知れない。しかし、自分が死刑を決定した9人のうちのひとりだったという事実は消すことが出来ません。

 以上の事実からも、日本の裁判員制度が、いかに重大な欠陥を抱えた制度であるかということが分かっていただけたのではないかと思います。刑事裁判に市民が参加するということは、刑事被告人を裁くという行為に対する責任の一端を市民が担うということです。ということは、別の言い方をすれば、裁判の結果に対する司法当局の受け持つ責任を、その分だけ減じるということでもあります。裁判員制度というものが、ほとんど国民的な議論を経ずに性急に導入された背景には、世界的な死刑制度廃止の潮流のなかにあって、それでも死刑制度を存続させたい当局の思惑があったのではないかと私は思っています。日本は国連やEUなどから、死刑を廃止するよう勧告を受けているのです。ところが、裁判員が参加した裁判で出された死刑判決ならば、それは国民の意思であるという抗弁が成り立つ。国際世論に対して、死刑存続の言い訳が成り立つのです(少なくとも法務省はそう考えたのでしょう)。しかし、日本の国民の8割が死刑制度に賛成していると言っても、それは自分が死刑判決を下す当事者になっても構わないということではない筈です。繰り返しますが、無罪を主張している被告人に対して、市民が有罪か無罪かの判定をして、さらには死刑の判決まで出すなんて国は、世界中を見回しても日本だけなのです。市民の司法参加は先進国では当たり前だなどというコトバに惑わされてはいけない。そもそも制度設計の根本が間違っているということを、もう一度はっきり認識しましょう。この制度が持つ本質的な矛盾は、今回のような否認事件においてより際立ちます。さらにそれは極刑が想定される殺人事件において極大化するのです。

 注目される百日裁判の行方はどうなるのでしょう? 330人の候補者のなかから選ばれた6人の裁判員の方たちは、いま長い公判のなかでそれぞれの印象を形成しているところだと思います。結審は4月13日の予定だそうです。どのような判決が出るのか分かりませんが、分かっているのは、6人の裁判員は無罪と極刑のあいだで究極の選択を迫られるということ、そしてどういう選択をしたにせよ、その結果は彼らにとって大きな心の傷となって残るだろうということです。裁判員を引き受ける人のなかには、殺人犯は死刑にされるべきだという強い信念を持った人もいることでしょう。死刑判決にためらいを持たないと豪語する人だっていると思います。が、万に一つでも冤罪の疑いがある場合には、そんな正義感だけで自分の心を納得させることは出来ない。否認事件における事実認定というのは、その人の正義感や道徳観とはまったく関係の無いことだからです。そんな重荷を市民に背負わせて、しかも逃げ道も与えないなどという制度は根本的に間違っている。私は裁判員制度はいますぐにでも廃止してもらいたいと思っているのですが、それが不可能だったとしても、裁判員の基本的な権利として、審理や評決に対する拒否権は保証されるべきだと強く主張します。

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2012年1月22日 (日)

原発反対の世論を風化させてはいけない

 喉元過ぎれば何とやらで、一時は国を挙げて盛り上がっていた反原発の気運も、ここに来て少し後退気味になっているような気がします。今週のニュースで、政府は従来40年としていた原発の耐用年数を、条件付きで60年まで延長する決定をしたと報じられていました。耳を疑いたくなるようなニュースです。いまだに原発利権で結び付いた政財界の何者かが、裏で糸を引いているとしか思えない。国内の原発のうち何機かは、すでに稼働40年を超えています(事故を起こした福島第一原発は、昨年がちょうど40年目でした)。国内の54基の原発のうち、30年以上経過しているものは19基です。いまのうちに先手を打って、稼働延長への目途をつけておきたいという腹なのでしょう。同じ日のニュースで、東電が企業向けの電力料金を17%値上げするということも報じられていました。やがて家庭向けの電力も値上げされることになれば、原発反対派も考えを改めるだろう、そう高をくくっているのでしょうか。

 私は原発の専門家でもなければ地震の専門家でもありませんが、常識を持つひとりの市民として意見を言います。国内のすべての原発は即時停止して、廃炉・撤去の工程表を一刻も早く引くべきです。当初、東京電力の報告では、福島第一原発の事故は、地震が直接の原因ではなく、想定外の津波で電源が失われたことが原因だということでした。つまり津波を想定した電源系統の防護策さえ施しておけば、原発はマグニチュード9の地震にも耐えたと言いたいのです。その後の研究で、津波以前に、地震の影響ですでに電源は失われていた可能性があるとの指摘も出て来ました。どちらが正しいのか、私のような素人には分かりません。ただ、分かっていることがひとつだけあります。東日本大震災は、遥か大平洋の沖合で発生した海溝型地震で、原発は震源地の真上に建っていた訳ではない、ということです。内陸型地震だった阪神淡路大震災と比べて、東日本大震災では地震による建物の倒壊が少なかったことに注目しましょう。揺れの時間は長かったけれど、被災地は強烈な地震波の直撃を受けた訳ではない。マグニチュード9という数字にだまされて、あれ以上の地震は想定する必要が無いと考えるのは間違っています。本当に恐ろしいのは、原発を直下型地震が襲った時です。

 地震の揺れの強さを表すのに、私たちはふだん震度という単位を使いますが、震度6以上の強い地震を測定するには「ガル」という単位を使う方が一般的なようです。これはモノの加速度を測る単位で(ガルは加速度の法則を発見したガリレオの名前に因んでいます)、1ガルというのは1秒間に秒速1センチメートルだけ速度が増すことを表します。日本の原発は、だいたい600ガル程度の揺れにも耐える構造に造られているようです。600ガルというと、静止していた物体が1秒間に6メートル動くということですから、部屋のなかを家具が転げ回るような激しい揺れです。ところが実際の地震で計測された最大の揺れはどの程度だったかと言うと、2008年に起こった岩手・宮城内陸地震の時に震源近くの地震計が計測した4022ガルという記録があるそうです。これはギネスブックにも登録されている数字で、要するに人類が計測した最も激しい揺れということになります。秒速40メートル! それが起こったのが日本だったのです。当時は「山がひとつ消えた」地震として、テレビでも大きく取り上げられたので、覚えている方も多いでしょう。この地震のマグニチュードは7.2と発表されていますから、決して巨大地震と呼べるようなものではない。調べてみると、国内で2000ガルを越すような強い揺れが記録されることは、決してまれではないことが分かります。

 これも今週のニュースで、福井県の大飯原発の再稼働に向けて、経済産業省の原子力安全・保安院が行なったストレステストに激しい抗議デモが起こり、テストが一時中断したと報じられていました。結局、ストレステストは実施され(テストと言っても、専門家がデータの数値を見て話し合うだけのことのようです)、大飯原発は安全基準を大幅に上回る1260ガルの地震にも耐える構造であり、再稼働に問題なしという結論が出されたのだそうです。「専門バカ」というのはこういう人たちのことを言うのでしょうね。実際に2000ガルを越す地震が国内で何度も起こっている事実があるのに、政府が恣意的に決めた安全基準を上回っているから安全であるというのは、小学生にも通じない理屈です。地震というのは、地下にたまった地層の歪みエネルギーが一気に解放される、いわばバネの弾みによるものです。山をひとつ消滅させることが出来るほどの地震なら、原発を建屋ごと吹っ飛ばすことだって訳はない。4000ガルというのは、要するにそういうことです。いまでもインターネットでは岩手・宮城内陸地震のすさまじい爪痕を写真で見ることが出来ます。これを最近どこでも見かける原発の写真と重ねて想像してみましょう。むき出しになった原子炉の格納容器が地表にゴロゴロ転がっており、冷却プールから飛び出した使用済み核燃料がそこらじゅうに散乱している、そんな光景が目に浮かばないでしょうか。

 直下型地震の直撃ということを想定すれば、安全な原発なんてものはあり得ないと思います。福島第一の事故は、決して最悪の原発事故ではありませんでした。地震の揺れを感知して、原子炉の緊急停止装置はちゃんと作動したのです。そのおかげで〈あの程度の〉事故で済んだとも言える訳です。史上最悪の原子力事故だったチェルノブイリと比較すると、福島第一の事故で放出された放射性物質の量は10分の1でした。しかし、福島第一に貯蔵されていた核物質は、使用済み燃料も含めるとチェルノブイリの10倍以上あったとも言います。つまり、福島第一が最悪の事故を起こしていたら、実際に起こったことの100倍以上の被害を出していた可能性があるのです。私たちが福島の事故のことを思い出し、そこから何か教訓を得るとすれば、まず認識しなければならないのはそのことです。これは決して忘れてはならないことだと思います。私たちにとって本当の問題は、原発を止めるか止めないかということではありません、国内のすべての原発を止めた後に、莫大な量の使用済み核燃料をいかに安全かつ経済的に保管して行くか、そこに議論の焦点を移さなければなりません。

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2012年1月15日 (日)

「減価貨幣=ルームランナー」という説

 これからは経済成長よりも、持続可能性を最優先にする社会に変わっていかなければならない…最近では誰もが口にする意見です。私もこのブログのなかで、何度もそんなことを書いて来ました。確かに地球規模での環境問題や資源問題がある以上、この先も永遠に続く経済成長なんてことは幻想に過ぎない。一部の政治家やエコノミストは、いまだに成長戦略なんてコトバに執着しているようですが、時代錯誤も甚だしいと思います。アメリカではレーガン政権あたりが、日本では小渕政権あたりが、経済成長を第一の目標に出来た最後の政権だったということになるのではないでしょうか。もちろん今後もいろいろな技術革新があるだろうし、私たちの生活はこれまでよりもさらに便利で快適なものになって行くかも知れない。しかし、それは全体としての経済成長のなかで実現するものではなく、限られた資源の効率的な利用技術によってもたらされるものではないかと思います。少なくとも先進国においては、これ以上GDPの拡大を目指すよりも、現状維持を基本方針とすべきである、そういう考えがこれからは主流になって行くのではないかと思います。

 しかし、持続可能な社会への移行がどれほど時代の求める必然だったとしても、これをすべての国民が同じように受け入れることは難しいかも知れません。単純な話、私たちのような中高年はそれでもいいんです、若い頃に高度経済成長を経験して、豊かな未来に希望を馳せることの喜びも、その豊かさがある程度実現してしまった後の虚しさも、フルコースで味わって来た。残された余生を現状維持をモットーに生きることに何の不満もあろう筈はないからです。しかし、これから未来のある若者はどうか? 若い世代を対象にアンケート調査をすると、意外なことに現状に満足しているという回答が多いのだそうです。ワーキングプアだとか、ひきこもりだとかいったことが社会問題化しているので、さぞかし現状に対する不満も強いのではないかと想像するのですが、現実はそうでもないらしい。そこそこの豊かさと安定があれば、人は未来に希望が無くても生きていけるものなのか? まあ、そんなことは人それぞれなので、世代論として論じるべきことではありませんが、私には現状肯定派の若者が増えているという事実が、良い兆候だとはどうしても思えないのです。それが持続可能な社会に向けた、生物としての適応の結果であるなどという説には、とても賛成する気になれない。人は未来に希望が持てない時、現状を肯定するしかなくなります(手の届かなかった葡萄は酸っぱかったに違いないというあれです)。その心理的な機制は、政治に対する徹底的な無関心となって現れ、若い世代が政治に参加しないことで、ますます彼らの未来から多くのものが簒奪されるという構造になっている。政治に関心を持たない彼らの多くは、自らそのことに気づきさえもしないのです。

 いまの中国を見ても分かりますが、経済成長には社会のさまざまな問題を隠すという一面があります。特に格差の問題が、人々にさほど深刻に受け取られないという点が重要です。経済的に成熟した社会では、現在の格差は将来も変わらない格差として続くだろうと予想させるのに対して、経済が著しいスピードで成長している社会では、多少の格差があっても、裕福な隣人の姿は明日の自分の姿でもある訳ですから、格差があることがむしろ人々の勤労意欲を高め、社会の生産性を高めるという好循環を生む。日本でも1960年代から70年代にかけてはそうだったのです。もともと資本主義経済というのは、借金によって駆動される経済であると定義出来ます。銀行から年利5%でお金を借りて事業を始める人は、年に5%以上の利潤を生むことを義務付けられている。人が一番仕事熱心になるのは、他人から借りた借金を返すために働く時です。(バルザックやドストエフスキーといった人たちは、そのことをよく知っていて、借金生活を創造力の源にしていました。) これを社会制度的に実現したのが資本主義というものなのです。資本主義が社会主義に打ち勝ったのは、制度として優れていたからではない、資本主義のもとで他人のお金を借りて事業を始めた人たちが、借金を返すために必死で働いたからです。ところがいまの日本人は、借金どころか1400兆円もの個人資産を、それこそ〈しこたま〉蓄えた訳ですから、個々には貧富の差があったとしても、全体としては勤労へのインセンティブが昔に比べて低下している。国全体がどんどん貧しくなっていることには、そうした背景があるのだろうと思います。

 過去の歴史を振り返ってみて、つくづく思うことは、いかにこの借金をベースにした資本主義経済のあり方が、人間の自然な性向にうまく合致していたかということです。自分が子供だったころ、物価は毎年どんどん上がって行くものでした。子供心にもそれが当たり前のことのように思っていました。二千年の昔からそうだったのかどうか分かりませんが、少なくとも産業革命以来、ここ二百年くらいはずっとインフレ経済というのが私たちの社会の常態だった訳です。それが突然デフレに転じて、我が国ではそれがもう二十年も続いている。たまたま景気の谷間に落ち込んだといった話ではないと思います。おそらくこれは、地球という惑星の、資源的・環境的・地勢学的制約に人類が突き当たってしまったということなのだ。つまり、人類が他の惑星に植民でも始めない限り、次の〈ビッグウェーブ〉はやって来ないだろうということです。一方、人間の性質はそう簡単に変えられるものではありませんから、それにすぐに適応しろと言っても無理があります。特に若いころにフロンティア・スピリットを満たす経験を積んで来た高齢者が、いまの若い世代に向かって、これからは縮小均衡経済を目指せなんて言うのは、まったく身勝手な言い草だと私は思う。むしろこれからは限られた制約のなかで、いかにチャレンジしがいのある経済の仕組みを作って行くかということに人智を結集しなければならない。そう考えた時に、ひとつの可能性を与えてくれるツールとして、私の頭に浮かんで来るのが「減価貨幣」というものなのです。

 長い前書きでしたね。本論の方はすぐに終わります。減価貨幣というのは、マイナスの利子がつくお金とも言って、保有しているだけでだんだん目減りしていってしまうという性質を持った貨幣のことです。シルビオ・ゲゼルという思想家の考案によるものですが、このアイデアが電子マネーの技術を使って実用化出来るようになった、そのことに一部の好事家(?)たちが注目しているのです。これからの社会で、年に5%の経済成長を続けて行くことは不可能です。それではこの地球がもちません。しかし、お金そのものが年に5%の割合で減価して行くとすれば、それは5%のインフレと同じような効果を持ちます。確か経済学者のハイエクという人が、ゲゼルの減価貨幣のことをインフレ経済と同じじゃないかといって批判していたと思います。確かに持っているお金が目減りしてしまうということは、モノの値段が上がって行くのと同じことです。ところがやはりこのふたつは違うのですね。どう違うかと言えば、持続可能性という点において違うのです。ちょうどくるくる回る床屋の看板が、上へ上へと上がっているように見えるけれども看板自体は動いていないのと同じで、減価貨幣経済の下では恒常的なインフレが続いているように見えて、実は社会は一定の経済レベルに留まっていることが出来る。いや、床屋の看板という比喩じゃ外国人には伝わりませんね、いくら走っても同じ場所にとどまっているルームランナーのようなものと言った方がいいかな。本当は戸外で風を切って走りたいところですが、もしもそれが何かの理由で(例えば放射線問題などで)許されないならば、ルームランナーを使うことも選択肢に入れた方がいい。それでも十分運動不足解消にはなるからです。

 減価貨幣というものは、強欲な金融資本主義に対するアンチテーゼとして、理想化されながら言及されることが多いのですが、その本質はもっとノンシャランというか、遊び心を持ったものとして捉える方がいいのかも知れません。つまりそれは、比較的無害なかたちで人間の(経済的)闘争本能を満足させてくれるゲームであり、あるいは経済成長を疑似体験させてくれるアトラクションのようなものだということです。スリリングではあるけれど、そこでは実体経済のホンモノの経済成長は要請されない。ルームランナーのベルトが回っていれば、乗っている人は嫌でも歩くか走るかしなければならないのと同じです。これが例えば日本円によるベーシックインカムといったものであれば、受給者はいまのデフレ経済のなかでそれを全額貯蓄に回すことも出来るし、実際多くの人がそうするでしょう。これでは経済は活性化されない。よく減価貨幣の成功事例として、オーストリアのヴェルグルという町のことが取り上げられますが、1930年代初頭のヴェルグル町では、単に経済が活況を呈していたというよりも、町中がこぞって減価紙幣を他人に押し付けるゲームに興じていたと表現した方が当たっているのではないかと思います。(減価紙幣は通常のオーストリア・シリングの14倍のスピードで市場を駆け巡ったと言います。市民全員参加のババ抜きです。) 一見するとバブル景気のようにも見えますが、ここでは貨幣自体が貯蓄を拒否しているのですから、このバブルは原理的にはじけることがない。つまり持続可能な好景気な訳です。最近はエコノミストのなかにもベーシックインカムを推奨する人が増えて来ましたが、むしろいまの日本にふさわしいのは減価貨幣の方だと私は思います。

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2012年1月11日 (水)

野田政権の増税路線に反対する

 年の初めなので何か景気のいい話でもしたいと思うのですが、景気のいい気分になれる材料が何も見当たりません。野田政権は「社会保障と税の一体改革」なんて耳当たりのいいキャッチフレーズで、2015年までに消費税を10%まで引き上げる案を出して来ています。これに対してマスコミからも国民からも強い反対の声が上がらないのは、巨額の財政赤字(1000兆円!)を解消するためには、増税もやむなしと多くの人が考えているからでしょう。しかし、消費税を現行の5%から10%まで増税したところで、それで国の税収がどれだけ増えるかと言えば、せいぜい13兆円くらいのものなのです。現在の国家予算は約半分が借金によって、つまり国債によって賄われています。その額40兆円以上。税収が13兆円増えたところで、1年間の借金が40兆円から27兆円に減るだけで、国の借金が増え続けることに変わりはないのです。いや、13兆円の税収増というのも実はあやしい話で、増税によって家庭の消費が落ち込み、企業の収益も悪化すれば、トータルの税収はいまとそう変わらない可能性もある。財政再建どころか景気がさらに悪化するだけのことかも知れないのです。

 増税に反対する人たちの主張は、大きく分けて次のふたつに分類出来るようです。増税によって景気が悪化するという認識は同じですが、一方は増税よりも先に財政の無駄を徹底的に省いて、出費の方を抑えよと説く。常識的に考えても当たり前で理解しやすい話です。ところがもう一方は、むしろ今こそ積極的な財政投資を行なって、公共事業で景気を浮揚させよと説く。景気が良くなれば税収も増えるのだから、一時的に国の借金が増えても問題無いというのです。なかには「政府通貨の発行」や「国債の日銀引き受け」ということをセットで持ち出す人もいます。常識的にはなかなか理解しにくい話です。民主党が政権を取った時には、私たちは「事業仕分け」や「天下りの禁止」によって財政は健全化するのではないかという淡い期待を持っていました(マニフェストにそう書いてあったから)。今はもう誰もそんな甘い期待を持ってはいません。民主党の挫折と変節は腹立たしい限りですが、他のどこの党が政権を取ってももう財政再建は不可能だろうという諦めムードが漂っている。そこに財務官僚の操り人形のような総理大臣が現れたのですから、増税路線まっしぐらになってしまうのも無理ありません。

 私自身は「政府通貨」の熱心な支持者ですから、当然増税には大反対な訳ですが、増税反対派が緊縮財政派と積極財政派に分かれて仲間割れをしているようじゃ、いまの増税路線に歯止めをかけることは難しいだろうと思っています。耳を傾けてみれば、どちらの言い分にも一理あるのです。どちらの言い分にも一理あって、長年に亘ってお互いを説得出来ないということは、どちらの言い分にも欠陥があるのではないかと考えるのが自然です。公共事業の削減や公務員の人件費カットくらいのことでは、現在の財政赤字に対しては焼け石に水でしかない。なにしろ国家予算を半分にまで切り詰めなければ財政は健全化しないのですから、支出削減(だけ)で財政再建をするなんてことは現実的ではないのは明らかです。では、政府通貨をばんばん発行して、財政赤字の穴埋めをするというアイデアはどうかというと、こちらもまったく現実的とは言えない。デフレ経済を脱却するために一時的に政府通貨を一定限度内で発行するというならともかく、毎年40兆円ずつ(日銀券と交換可能な)政府通貨を発行したりしたら、デフレ脱却どころかハイパーインフレになってしまう。落としどころはたぶん折衷案にあるのではないかと思います。どうもエコノミストと呼ばれる人たちには教条的な信念の持ち主が多いようで、折衷案というものを主張する人をほとんど見かけない。しかし、一般人の常識で考えれば、全体的には無駄な財政支出を削減し、日銀による国債引き受けも一定限度で許容し、場合によっては増税も組み合わせながら財政健全化に向かわせるしかないのではないか。私たちはみんな、間近に迫った財政破綻という怪物と戦っている訳ですから、使える武器は何でも繰り出した方がいいのです。

 使える武器と言えば、増税よりも先にやるべきことはたくさんあるのではないかと思います。その第一は「納税者番号制」の導入です。日本の税の捕捉率がどの程度なのか分かりませんが、昔から正しく税金を納めているのはサラリーマンだけだというのが世間の常識ですから、これを導入するだけでかなりの税収増が期待出来る。すでに2015年を目標に導入が検討されているそうですが、財政破綻の現実味を考えれば、そんな悠長なことでは間に合わない。まずはこちらを導入して、その効果を見てから増税を検討すべきでしょう。また納税者番号は、銀行預金・証券・保険などにもひも付けておくことが重要です。いまの日本は、莫大な個人資産が凍りついていて、お金が循環しないことが問題なのですから、増税を検討するなら消費税や所得税のようなフローに対する課税より、ストックに対する課税を考えるべきなのです。また消費税を増税するなら、生活必需品と贅沢品の税率を変えることも必要でしょう。これを実現するためには、個々の品目ごとに税額を計算する仕組み(インボイス方式)が必要で、そのためにはお店のレジやコンピュータシステムも大幅に変えなければならなくなります。個人的には、そんな無駄な社会投資をするくらいなら、消費税は5%のまま据え置いて、資産税や金融取引税(トービン税)などによって税収を確保する方が良いと思っているのですが、もしもインボイス方式の消費税が導入出来るなら、そこには大きなメリットがあるのも事実です。例えば環境に配慮した製品に対しては消費税率を低くするとか、国が特別に保護したい農産物には消費税をゼロにするといったきめ細かい政策が実施出来るようになるからです。これが前提になるなら、消費税の最高税率が20%くらいになっても国民は納得するだろうと思います。

 もしも税制改革を議論するなら、そういった具体的な方法論にまで踏み込んで議論をして欲しい。野田政権の「社会保障と税の一体改革」を読む限り、そうした具体論を検討した形跡がありません。具体論が無いということは、理念が無いということです。2012年の最重要な政治的テーマは、とにかく来るべき財政破綻をいかに回避するかという一点に尽きると思います。被災地の復興も、少子高齢化への対策も、公的年金の改革も、TPP加盟に向けた交渉も、代替エネルギーの開発も、すべては国の安定した財政基盤があってこその話でしょう。もしも日本をひとつの企業に例えるなら、その財務内容はすでに破綻が確定してしまった企業のそれです。これ以上、国民に空手形を切るような政権に政治を任せておくことは出来ない。年末に民主党の若手議員が何人か、離党して新党を結成したそうですが、今年は政界再編の年というよりも、〈政界崩壊〉の年になる予感がします。日本の政治に何か変化が起こるとすれば、それはおそらくこの崩壊の後にやって来るのかも知れない。問題は、財政破綻がそれまで待ってくれるかどうかということです。

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