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2011年12月31日 (土)

今年最後の投稿

 今年はほんとうに大変な年だったというのは、誰もが感じている正直な感想だと思います。例年のように年賀状を書くことさえ、心のなかに一抹のためらいを感じずにはいられませんでした(でも、書きましたが…)。このブログに書いた記事を振り返っても、自分がいかに震災という事実に心を縛られていたか、あらためて感じます。

 とうとう今年は、このブログの別室(実は本室)である『哲学論考』の方にはひとつも記事が書けませんでした。ブログを始めて以来、初めてのことです。これではいかんと思い、1年の最後に一篇だけ、少し堅苦しい哲学的な記事を書いてみました。以前から気にかかっていた「人間原理」というものを、道徳論に絡めて考察してみたものです。我ながら辛気くさい文章になりました。来年は、本来の哲学的な考察にも、もう少し時間を割きたいと思っているのですが…

 1年間、つたない文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年もこのブログは細々と続けて行くつもりですので、よろしくお願いします。それではよいお年を。

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2011年12月18日 (日)

「派遣法を問え」に賛成!

 先日、テレビのニュースを見ていたら、タイにある日系企業の工場から、現地人の管理者や熟練工を呼び寄せて、日本国内の工場で生産を行なう企業が増えているということが伝えられていました。長引く洪水の影響で、タイにある工場が再開の目途が立たないからです。異国に来て、工場のラインに配属された彼女たちの顔には(どういう訳か女性が多いように見えました)、慣れた仕事に対する自信の表情が窺えました。このニュースを見て、複雑な思いを持った人は多かった筈です。自然災害を乗り越えようとする企業の挑戦のドラマとして見るなら、これはひとつの「いいニュース」と見えないこともない。しかし、日本国内で製造を再開するのに、何故わざわざタイの工場から人を呼び寄せなければならないのか? 日本で何の技能も持たない派遣労働者を雇うよりも、すでに製造の技術を身に付けたタイ人労働者を使った方が効率がいいというのが企業の判断なのでしょう。このニュースを国内の製造現場で働く派遣社員の人たちはどういう気持ちで見たことだろう。なるほど国内産業の空洞化というのはこういうことだったのかと、その実態を目の当たりにしたような気がしたのです。

 いま国内の雇用問題が危機的な状況にあるということは、誰もが共有している認識だと思います。その根っこには、急速に工業化が進んでいる新興国と我が国とのあいだの激烈とも言える〈通貨格差〉の問題がある。日本円に換算して時給100円以下で働く外国の労働者に、私たちは太刀打ち出来る筈がないのですから。これまで私はそういう考えをこのブログのなかで書いて来ましたが、そこにはもうひとつ見落としていた重要な視点があるのではないかいう気がして来ました。それはここ10年くらいのあいだに、日本の企業のなかで働く人たちの仕事に対するモチベーションが急速に低下して来ているのではないかということです。これは派遣法が改正され、企業のなかで派遣社員が急増した流れと軌を一にしています。実態の無い人材派遣業という業種の企業に所属して、自分とは無関係な他所の企業の作業現場に送り込まれる派遣社員が、仕事に対するモチベーションを持ちにくいことは誰にでも想像出来ます。一方、派遣社員を指導したり教育したりする立場の正社員の方だって、部下や後輩を育てることで自分も成長するという企業人としての正規ルートを奪われている訳で、これもモチベーション低下の大きな要因になっている。特に2004年に小泉政権下で製造業への派遣が解禁されたことの影響は大きかったのだろうと思います。「現場」の強さが日本の製造業の強さの源泉だった訳ですから、そこで働く人たちの意欲を喪失させるような政策が、国内産業の衰退に結びついたことは容易に想像出来ます。なかには断固として派遣労働者の採用を拒否した気骨ある経営者もいたのかも知れませんが、ほとんどの大手製造業は安く使い捨てが出来る労働力というものの誘惑に負けてしまった。

 というような見解は、すでに多くの人が語っていることで、ことさらいま記事にするような事柄ではないのかも知れません。実は今回の記事は、最近インターネット上で読んだエッセイにとても心を動かされるものがあったので、それを紹介したい気持ちで書いているんです。たまたまTPPと農業の問題について調べていて、山崎マキコさんというライターの方の『時事音痴』と題された連載を知ったのです。読んでみるとこれが面白くて、いっぺんにファンになってしまった。特に強く心を打たれ、私に労働者派遣の問題について書かなければならない気持ちにさせたのは、そのなかの『派遣法を問え』という一文でした。私のこんな記事を読むより、いますぐそちらのリンクに飛んでもらいたいのですが、労働者派遣が持つ最も根本的な問題が、自らの体験を通してストレートに問題提起されています。日本の貧困問題をテーマに取り上げて来た山崎さんは、自ら求職者として労働の現場を見てみようとします。「するとどうなったか。行く先々で待ち構えていたのが、『人材派遣会社』だったのである。」 日本年金機構(旧社会保険庁)に派遣されて、キーパンチャーとして働きますが、「初日から現場に放り出されたような格好で、研修らしきものは小一時間ぐらいしかなかった。派遣の仕事というのは『専門性の高い仕事』に限られるとどこかで耳にしたように思うが、これのどこが専門性が高いのか、問いたい。」 時給は交通費を差し引けば東京都の最低賃金にも抵触しようかという額で、しかもベテランの派遣社員でもその金額は変わらないのだそうです。「しかし現実問題としていま職探しをしていると、必ずぶち当たるのが派遣会社なのである。いまや一大産業といってもいい。直接雇用なんてのは、風俗があったぐらいのものだ。どうしてなんだ。どうして人の労働から中間マージンを差っぴくだけの企業が、これだけ林立できるんだ!」

 なるほど、正規社員と非正規社員のあいだの格差の問題といったことでは片付けられない、もっと生臭い現実的な問題があったんですね。それは戦前の『蟹工船』の時代にあった「周旋屋」にも似た中間搾取業者が法的に認可され、いまや一大産業となっていることです。ここにも先に取り上げた農業の流通問題に似た構造的な問題が横たわっている。それは自らはほとんど何も付加価値を生んでいない企業や組織が、立場の弱い個人の生産者や労働者が汗水垂らして生み出した価値を平気で横取りしているという問題です。日本の産業や経済が衰退して来た最大の要因は、実はここにあるのではないか。おそらく派遣業者のなかにも、福利厚生や研修制度などを充実させるといった良心的な取り組みをしているところは少なくないのでしょう。しかし、人材派遣業が本質的には現代の「周旋屋」であることに変わりはないのです。山崎さんの文章から、結論部分を引用します。私はこの彼女の意見に100パーセント賛成します。「確かに仕事がなければ企業は人を雇えない。しかし、その中間マージンを差っぴく企業の林立、これがわたしには許せない。直接雇用の道を取り戻して欲しい。いまの国会で、派遣法を審議しようとしているらしい。しかし改正とはいえ、事実上の派遣是認であるようにも思える。だからわたしは願う。派遣自体を容認するな、と。」

 労働者派遣という制度を容認する人たちは、かつてのような終身雇用の制度に戻れば、この国の企業は国際競争のなかで生き残っていけないだろうと言います。またもう少しうがった見方になると、長期間あるいは長時間に亘って仕事に縛られない働き方は、むしろ現代の労働者のニーズに合っているなどという人もいる。仮にそれが正しかったとしましょう。でも、そのことは労働者派遣業の存在を正当化する理由にはまったくなりません。企業の直接雇用のもとでも、臨時社員や契約社員として雇うという選択肢はあるからです。事実コンビニのアルバイトだって、店長の面接を経て採用される訳だし、自分で採用したアルバイトに対しては丁寧に仕事を教えようという気にもなるものでしょう。ところが派遣社員というのは原則面接禁止で、派遣業者から一方的に送り込まれて来るものなのです(もちろん一定の条件は採用企業が出す訳ですが)。それが労働の現場に悪影響を与えない訳がない。端的に言って、派遣業がこれだけ隆盛を極めている背景には、企業が〈直接雇用〉の努力を放棄しているという事実があるのだと思う。「人を雇う力」を失った企業は、「人を育てる力」も同時に失って行きます。最近のニュースによれば、民主党の提出した派遣法改正案は野党や財界からの反対で骨抜きにされてしまったのだそうです。が、そもそも制度としての派遣というものに対して、政府だけでなく企業の側もノーと言うところからしか、国内産業の復活は無いと思うのです。

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2011年12月11日 (日)

さようならジャスミン

 ここひと月ほど、毎日の通勤時間を利用して中島みゆきさんの新譜を聴いています。今年の新作のタイトルは『荒野より』。昨年の『DRAMA!』(…のA面)があまりにも素晴らしかったので、それと比較は出来ないとしても、今回のアルバムも創造力の衰えをまったく感じさせない力作に仕上がっています。前にも書いたことですが、自作の曲を歌うシンガー・ソングライターというジャンルの人で、彼女ほど長く第一線で活躍している人は世界的にも珍しいと思います。今年はデビュー36周年で、今回のアルバムは38作目に当たるのだそうです。300曲を超すオリジナル曲のなかには、驚くほどの数の傑作がある一方で、凡作と呼ぶしかないような作品も少なからず含まれている。しかし、どんな凡作にも天才の刻印が刻まれているのが中島みゆきです。同時代を生きるクリエイターのなかでも、この人の天才性は際立っていると思う。とても誰かと並び称されるような人ではないと感じます。

 中島みゆきファンなら誰もが経験していることではないかと思うのですが、毎回、新作アルバムを最初に聴いたときに感じるのは、感動や興奮ではなく、戸惑いと違和感です。長年彼女の歌を聴いて来て、そういう経験は何度も繰り返している筈なのに、第一印象の悪さというか、拒絶感にはどうしても慣れることが出来ない。今回のアルバムは特にそうでした。いや、もしかしたら、これは自分だけの問題なのかな? 年のせいで音楽を受け容れる脳の機能が低下して来たのかな? みゆきさんの楽曲には、耳に馴染みやすい所謂〈いいメロディー〉の曲とは対極のところにあるものが多いと感じます。カラオケで彼女の歌を歌ってみると分かりますが(哲学者がカラオケ? 笑)、いつも聴いていてよく知っているメロディーの曲なのに、うまく音程が取れないことが多い。いや、これは私が音痴なだけかも知れませんが、理由はたぶんそれだけではありません。基本的に中島みゆきさんの楽曲には、転調や半音階を多用した複雑な旋律が多いのです。初期のアルバムに収められた曲には、シンプルなメロディーラインの名作が多かった筈ですが、後期になればなるほど曲作りが技巧的で難解なものになって来ている。

 だから最初に聴いた時には、なにか耳慣れない、一種不快なメロディーの寄せ集めのように聞こえてしまうのだと思います。それが何回か聴き込むうちに、自分の脳の方が変化して、いかにも自然で説得力あるメロディーとして像を結んで来るのです。この変化はほんとに劇的なもので、私が知る限り中島みゆき以外にそんな音楽体験をさせてくれる現代の作曲家はいません。おそらく、クラシックの名曲と言われる曲の多くも、私たちの脳のなかで独自の回路構成がすでに組み上がっているからこそ、名曲として聞こえるのではないでしょうか。ところがそれは子供の頃に出来上がった回路なので、自分の脳が変化して行く過程として追体験することが出来ない。『トルコ行進曲』や『ラプソディ・イン・ブルー』を初演で聴いた当時の聴衆が、どのようにこれらの傑作を受け取ったかは想像するのが難しいのです。(そう考えると、古今の名曲を子供の耳に無選択に流し込む現代の音楽教育というものも、見直す余地があるかも知れませんね。) みゆきさんは、専門の音楽教育を受けて作曲技法を学んだ人ではない筈ですから、天性のメロディーメーカーとしてそうした作品を紡ぎ出している訳です。

 『荒野より』について書こうと思っていたのに、話が脱線していますね。今回のアルバムのなかには、残念ながら中島みゆきの代表曲として残るような作品は無いというのが私の評価です。それでもアルバム全体をひとつの作品として聴いた場合、際立った特徴があることにも気が付きます。それを何と表現したものだろう。やまとことばよりも漢文調と言うか、メロディーだけでなく詞の内容においても硬質な曲が多いという印象を持ちました。力強く、格調高いが、その反面、説教くさく、教訓じみた曲が多い。シングルカットされた1曲目の『荒野より』から、最後の『走(そう)』まで、中島みゆきの曲に癒しを求めたい人たち、彼女の歌を聴いて泣きたい人たちには厳し過ぎる作品が並んでいるという印象です。いや、欠点を指摘しているのではありませんよ、これもみゆき作品のなかでは『世情』や『裸足で走れ』などの由緒正しい系譜に連なるものですからね。それに収録された11曲すべてが説教くさい訳でもなく、『バクです』や『あばうとに行きます』のような肩の力を抜いた曲もあるし、『鶺鴒(せきれい)』のような端正な秀曲も含まれている。あくまでトータルでの印象です。

 そんなアルバムのなかでも、一番テンションが高いのが『旅人よ我に帰れ』という曲でしょう。「僕が貴女を識らない様に 貴女も貴女を識らない」という歌い出しで始まるこの曲は、全編、男性が〈上から目線〉で女性に説教をしているような歌詞の内容なのですが、曲の最後の部分になって突然「癒しの中島みゆき」が姿を現すのです。このアルバムのなかでここだけです。「植えつけられた怖れに縛りつけられないで ただまっすぐに光のほうへ行きなさい」という囁きで始まるこの部分は、中島みゆきファンが息苦しい空気のなかで唯一解放されるところでもあります。作者は、この部分の効果を最大限高めるために生硬な歌詞を持つ曲ばかり並べたのではないかと思われるほどです。「私たちはジャスミン 茉莉花(まつりか)の2人」と呼び掛けられているのは、みゆきさんのファンなら誰でも知っているあの彼女、「ジャスミン もう帰りましょう もとの1人に すべて諦めて」と呼び掛けられていた彼女のことですね。「さようならジャスミン 私の妹 私とは違う人生を生きなさい」。ここに来て作者独特の癒しの物語が大きな円環をなして聴く者の心に降りて来る。中島みゆきを聴く醍醐味です。

 それにしても、歌詞カードを見ずに最初聴いた時には、「まつりかのふたり」が何の意味だか分かりませんでした(祭り課の二人?)。なるほどジャスミンは日本語で茉莉花というのですね。美しい響きの言葉だと思います。みゆきファンが中心になって、このコトバを流行らせられないものかな? 昔から「ネクラ」だとか「オタク」だとかいう美しくないコトバがあって、最近はさらに「喪男」だとか「腐女子」なんてひどい呼び方も出て来ているようですが、それに比べると「茉莉花」はいい。ぜひこれは男女の区別なく使いたいところです。みゆきさんに倣って、私も茉莉花の人たちを応援します。

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2011年12月 4日 (日)

農産物直売所の新しいビジネスモデル

 先週の記事にとても示唆に富むコメントをいただきました。農業を営む方からのコメントです。これを読ませていただいて、やっぱり日本の農業には流通改革が待ったなしなんだ、そういう思いが強く湧き起こって来ました。農業関係者でもない自分が、にわか勉強でこの問題についてこれ以上書くことは不遜なことだと分かっているのですが、何か書かずにはいられない気分なのです。私の本職はシステム屋なので(名刺にはコンサルタントなんて肩書きが入っています。この業界では年を食って使い物にならなくなった技術者をそう呼ぶのです)、もしも自分が農産物直売所の新しいビジネスモデルとそれを実現するシステムについて提案書を書くとしたら、どんな内容を盛り込むだろう。それを想像しながらもう一度この問題について考えてみたいと思います。

 あるテーマに対して改善案を考えるためには、まずは現状の問題点を認識しなければなりません。いただいたコメントには、現在の農産物直売所の問題点がこう指摘されていました、「全ての生産物を直売所で販売するには手間がかかりすぎ、かつ一度に大量には出荷できないので生産物のほとんどは市場出荷か流通業者経由となっているのが現状です」。ふたつの問題点がある訳ですね。①直売所で販売するのは(農家にとって)手間がかかる、そして、②直売所では出荷量が限られているということです。もしも十分な出荷量が確保出来るなら、手間をかける意味もあるのでしょうが、現状では直売所への出荷はまだ農家にとって副業以上のものではないのだと思います。ウィキペディアで「農産物直売所」を調べると、国内の農産物流通のうち、直売所経由で販売されるのは全体の5%程度に過ぎないのだそうです。消費者の実感からしてもそんなものでしょう。さらにウィキペディアの記述から、直売所が持つ別の問題点も浮かび上がって来ます。③近隣農家から同じ種類の農産物ばかり集まり、品揃えが悪くなる傾向がある、④同じ農産物が競合することで、直売所内での価格競争が発生する、⑤中間業者による品質管理がなく、残留農薬などのチェックも行なわれない…。こうして見ると、けっこう課題が多いですね。しかし、課題が多いということは、改善の余地も大きいということです。

 課題を整理すると、①販売の手間、②出荷量の少なさ、③品揃えの悪さ、④商品の競合、⑤品質管理という5項目に分類出来るかと思います。まだあるのかも知れませんが、とりあえず今回は試論ですから、これだけにしておきましょう。ひとつずつ見て行きます。まず、①販売の手間ということですが、これは現在の直売所が販売のための「場所貸し」の機能しか提供していないからではないかと思われます。農家は、毎朝穫れた野菜を自らトラックで持ち込んで、値付け作業まで行なっている。これを効率化するのは簡単なことで、店側がトラックを出して農家に野菜を取りに行けばいいのです。10軒の農家が10台のトラックを動かすのと、1台のトラックが10軒の農家を回るのとでは、どちらが効率的か考えてみれば分かります。(物流業界でミルクランと呼ばれる手法です。) 値付けや袋詰めなどの作業も、個々の農家がやるより専門の作業者がまとめてやる方が効率がいい。当然人件費はかかりますが、ここで重要なのはトータルで見たときのコスト効率です。直売所がなかなか規模を拡大出来ないのは、基本的にフリーマーケットと変わらない販売スタイルを取っているからです。フリマが販売力において大手スーパーにかなわないのは当然のことです。

 次に②出荷量の問題…は後回しにして、③品揃えの悪さと④商品の競合について考えてみます。これも実はフリマスタイルの弊害であって、店舗側がしっかりした経営戦略を持って品揃えの計画を立てることでしか解消されません。原則として一物一価のルールにして、複数の農家から買い付ける場合にも同一の買い取り価格・販売価格とすることが必要です。価格は出品する農家との交渉になりますが、最終的に価格決定を行なうのは店側です(もちろん交渉決裂もあり得ます)。新鮮さと安さが売りものの直売所で、ひとつでも割高に感じられる商品が並んでいると、全体の集客力を低下させてしまうおそれがあるからです。品揃えと同様、値付けも直売所にとって最重要な戦略マターなのです。――すると農家は自分で値段を決められないの? それじゃあ農協に出荷するのと変わらないじゃない? いや、そんなことはありません。中間流通が入らない分、農家の出荷価格を高く維持出来ることには変わりありません。(そうでなければ直売所になど卸さなければいいんです。) その日に仕入れたものをその日にすべて売り切るという方針で、店は最適な値付けと商品ミックスを考えなければならない。現在の直売所制度では、販売価格に占める店側のマージン率は固定であるようですが(例えば15%とか)、このルールは撤廃されます。とにかく値付けはお店の責任。その代わり、農家には全量買い取りが保証されます。

 ハウス栽培や長距離輸送が当たり前になった今日では、スーパーの生鮮品売り場からすっかり季節感が失われてしまいました。直売所のコンセプトは、地元で採れた旬の野菜や果物をその日のうちに家庭に届けることですから、大手スーパーより品揃えの面で多少見劣りすることは仕方ないと思います。それでも産地直送のコンセプトを保ちながら、出来るだけ多品種の農産物を集めるためには、物流の範囲をある程度広げることが必要になるでしょう。理想的には、集荷圏が隣接する複数の直売所がタイアップして、お互いの集荷品を交換出来る物流センターを用意出来ればベストです。つまり両者のミルクランルートが交差する地点に中継所を置き、そこで集荷中の商品の一部を積み換えるのです。(物流業界でクロスドックと呼ばれる手法です。) 物流センターと言っても、小型トラックが荷物を積み降ろし出来るスペースがあればいいので、どこかの倉庫の軒先を借りる程度で済んでしまいます。これだけの工夫で、品揃えは飛躍的に増える筈です。理論的には、仮に半径20kmの集荷圏を持つ直売所がネットワークを組めば、半径60kmの地域からの集荷が可能になります。しかもこれは集荷範囲が広がるという効果だけにとどまりません、農家から見れば販売範囲を大きく拡大する効果もある訳です。直接契約している直売所は1か所でも、近隣の複数の直売所にも出荷品が並ぶ訳ですから。もちろん直売所同士は中間マージンを取ることなどしませんし、その必要もありません。

 以上のような物流の効率化によって、農家にとっての②販売量の問題もある程度クリア出来るでしょう。最後に⑤品質管理の問題ですが、これこそ地産地消のアドバンテージが最大限活かせる分野の筈です。まず鮮度を保証するために、すべての商品に収穫日を表示しましょう(基本的には収穫日は「今日」です)。現在の農産物流通では、店先で一番見映えが良くなるように、実が熟する前に収穫してしまうことも多いそうですが、直売所で売られる商品ではそんな必要もないのです。最近はスーパーで売られている野菜にも見られるような、生産者の名前を入れる商品ディスプレイも基本でしょう。農薬情報に関しても、正確に表示することが直売所のポリシーでなければなりません。農業に携わっていない私たちは、簡単に「無農薬」だとか「減農薬」と言ってしまいますが、その実態についてはほとんど知らない訳です。輸入作物の危険性も含めて、消費者を啓蒙して行くのも地域の直売所のだいじな役割だと思います。以上が私が考える農産物直売所の改善案になりますが、重要なのは誰がこの直売所ビジネスの推進者になるかということです。これは農家が共同で経営出来るようなものではなさそうです(書きながらそう思いました)。出来れば志を持った〈社会起業家〉の方に託したい気がしますが、ノウハウを持っている点ではやはり農協になるのかも知れません。前回の記事で私は農協不要論のようなものを書いてしまいましたが、それは付加価値を生み出さない中間流通業者としては不要だということで、このような農産物直売所の経営に乗り出すなら、日本の農協は大いに見直されることになるでしょう。農協はTPP反対を唱えるだけでは国民の信頼も失ってしまう。変革は急がねばなりません。

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