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2011年10月16日 (日)

生産性の問題を考えるために(8)

■ 資本家のためではない生産性向上を

 私が子供の頃、街を走るバスには1台にひとりずつ車掌さんが乗っていて、次にとまる停留所の名前を案内したり、乗客の切符を集めたりしていたものです。乗り換えのためにバスを降りると、駅の改札には切符切りの駅員さんが並んでいて、乗客が通らない時でもカチカチとリズムよく鋏の音を響かせていました。もういまではすっかり見かけなくなった光景ですが、あそこで働いていた人たちはどこへ行ってしまったのでしょう? ここ半世紀足らずのあいだに、業務の効率化ということがあらゆる産業において飛躍的に進展しました。そのことには良い面と悪い面があったと思います。良い面というのは、単調で付加価値の低い(と一般的に思われていた)仕事から労働者を解放したこと、悪い面というのは、そのために多くの人が職を失ったということです。初めてベーシックインカム(BI)という考え方があることを知った時、私はここにこの矛盾を解く鍵があると思ったものです。例えば自動改札機というものが発明されて、駅の切符切りのような仕事が無くなるのは、直感的に見ても悪いことではない。1日中改札の中で鋏をカチカチ鳴らしている仕事が、付加価値のめざましく高い仕事だとは思えませんからね。しかし、このような効率化や合理化をどんどん進めて行けば、失業率が上がることもまた当然です。社会全体としての豊かさは増した筈なのに、仕事と収入を失う人が増えるというこの矛盾。この矛盾を解決するためには税による所得の再分配が欠かせませんが、BIはそのための理想の方法ではないかと感じられたのです。「BIというのは決して貧しい人々への施しではない、産業が高度化した時代に生きている私たちが受け取れる〈配当〉のようなものなのである」、この説明に私は魅了されました。

 しかし、一方ですべての人に対する無条件の生活保障というコンセプトに、どこか違和感を感じる自分もいたのです。「働かざる者、食うべからず」という古い倫理コードが心にひっかかった訳ではありません。そうではなくて、もしもBIによってすべての国民が最低限の生活を保障されることになったら、そこで技術の進歩も産業の効率化も止まってしまうのではないか、その時実現するのは目標を失った無気力な社会なのではないかという疑念を振り払えなかったのです。BIのある社会では、一部の超エリート(経営者や技術者たち)とその他大勢の無気力な大衆(BI以外の収入をほとんど持たない人たち)というように、国民が大きく二分されてしまう可能性があるだろうと思います。しかもこの階層化は固定される傾向を持つ筈です。BIによって最低限の生活が保障されている以上、上の階層に這い上がろうというハングリー精神も育ちにくいと思われるからです。そんな社会がはたして幸福な社会と呼べるだろうか? 地球環境の持続性という観点からすれば、もしかしたら貧しくてもそれなりに満足の出来る無気力な人々が増えることは、実は望ましいことなのかも知れません。が、どう考えても幸福そうな未来のイメージではありませんよね。だいたい、無気力な大衆を食わして行かなければならない一部の超エリートの人たちだって、それだけではモチベーションが維持出来る筈がありません。(先週アップル社のスティーブ・ジョブズ氏が亡くなりましたが、彼のような天才だって、コンシューマーが貧しいBI受給者ばかりだったとしたら、あのようなイノベーティブな製品を次々と生み出せはしなかったでしょう。) BIの制度設計を考えるに当たっては、この問題を深刻に受け止める必要があります。

 ベーシックインカムというコトバもだんだん人口に膾炙して来て、いまではこれを政策綱領に掲げる政党もいくつか出て来ています。しかし、そのどれもが現在の経済体制、通貨制度をそのまま続ける前提でBIの導入を考えている、この点が私には不満です。経済の専門家じゃなくたって、すべての国民に日本円で月額8万円の給付金を配るなんてことが、実現可能な政策と言えないのは自明のことじゃありませんか。むしろBIという思想に未来の可能性があるとすれば、それはこれまでの経済体制では見逃されて来た価値の領域を開拓して、それを新しい経済の仕組みのなかに取り込むという発想とセットのものでなければならない。そこにしかBIの本当の原資はあり得ないからです。BIを税による所得再分配政策の一変種と見ている限り、これをめぐる賛成派と反対派の議論も水掛け論で終わるしかないだろうと私は思っています。そして、もしもこの新しい価値の領域に値段をつけ、そこでの取り引きを促進するお金があるとすれば、それは従来の銀行マネーではなく、政府(という名のNPO)が発行するオルタナティブマネーでなければならないと考えるのです。もともとお金というものは、物々交換の非効率さを改善するために発明されたものだった筈です。それ自体にはモノとしての価値は無いけれども、それを使う人たちの約束(信用)によって、価値あるものとの交換を保証されているのがお金というものの本質です。ところが、現代では、お金は商品やサービスを交換するための媒介物という本来の目的を逸れて、それ自体が自己目的化してしまった。このお金の自己目的化ということは、実は最近始まった話ではありません。その発端はずっと昔、「利子」というものが発明された時にまで遡るのです。つまり、その時からお金の堕落が始まったのです。

 利子がつかないお金、いや、利子がつかないどころか〈マイナスの利子〉がつくお金というのは、自己目的化してしまった現代のお金から、本来の価値交換機能を奪還するために導入されるものです。銀行には預けられないし、タンス預金をしても価値が目減りしてしまうのだから、このお金は貯蓄には回されません。世の中に出回って、価値交換のお手伝いをするしか能のないお金なのです。それはまた誰にも負債を押し付けないお金でもあります。貯蓄をするということは、要するに将来の世代に負債を押し付けることです。日本の将来が暗澹として感じられるのは、1400兆円の個人資産を持ち、高額の年金を受け取っている高齢者世代を、正社員にもなれない貧しい若者たちが支えて行かなければならないという現実があるからです。今週、厚生労働省は年金の支給年齢を68歳または70歳に引き上げる案を発表しました。怒りたくなる気持ちを通り越して、嗤いたくなるような話ではありませんか。多くの企業が55歳から60歳を定年としているなかで、私たちはどうやって70歳まで食いつなげばいいのか? 年金支給年齢が65歳に引き上げられた時、政府は企業に対して65歳までの定年延長を求めました。今度はそれも70歳に延長されるのでしょうか。これは単なる笑い話ではすまされないことです。定年延長の裏で、若年層の失業率がさらに増加しているという現実もあるからです。年金財政がすでに破綻していることは誰もが知っています。年金受給者のなかには、自分たちが高額な年金を貰っていることに後ろめたさを感じている人もたくさんいる筈です。年金支給年齢を70歳まで引き上げるなどという滅茶苦茶なことを言い出すくらいなら、何故現在すでに支給している年金額を、今後5年かけて3割減額するというもっと現実的な案を打ち出さないのか。この国は、どこまで将来世代をいじめれば気がすむのでしょう。

 この問題に対する私の対策案は簡単です。年金の3割を政府通貨で支給するようにすればいいのです。時間的な余裕のある高齢者が、この新しい〈国民通貨〉の最初の市場開拓者になるというのも理にかなったことです。高級老人ホームに入居しようとしているお金持ちの老人は、日本円の強さにものを言わせて、リッチなサービスを目いっぱい享受することを期待しているのかも知れません。しかし、国内限定の第二通貨ではそうはいきません。日本円は、サービスを提供する側とこれを受ける側の人をはっきり線引きしてしまうようなお金ですが、国内限定の第二通貨(エコと名付けたのでしたね)の方は、もっと互恵的で対等な関係を要請するものだからです。それはこのエコ通貨が、国際的に認められた信用通貨ではなく、これを使う人たちがその都度信用を与えていかなければ、すぐに価値を喪失してしまうような通貨だという理由によるものです。想像してみましょう。月額10万円の年金を受給しているお年寄りが、なけなしの年金をはたいて月額利用料10万円の(低価格)老人ホームに入居しているとします。もしも年金が7万円+3万エコに変更されてしまったら、その施設には居られなくなってしまうかも知れない。しかし、その施設が入居料の3割まではエコでオーケーと決定すれば、そこに居続けることが出来る訳です。この時、その施設で働く人たちも給料の一部をエコで受け取らざるを得なくなる。すなわち、エコの経済圏の住人になる訳です。エコの経済圏というのは、いつも日本円が不足がちなために、そこに住む人たちが労働力を提供し合うことでその不足を補って行かなければならないような経済圏という意味です。だから老人ホームの入居者だって、元気なあいだは働いて施設の経営を助けて行かなければならない。それを貧しい者同士の相身互いとしか見られない人は、エコの経済圏には入って来られない人です。しかし、私は信じるのですが、一方的にリッチなサービスを受けるよりも、そのなかで自分にも出来る仕事があるような老人ホームの方に入居したいという人は、案外多いのではないでしょうか。

 今回の記事は、政府通貨や減価貨幣の効能を説くために書いているのではありません。サービスを提供する側とサービスを受ける側を截然と分断する現代の金融通貨(銀行マネー)は、サービスを受ける側の人たちが潜在的に持っている価値提供の機会を封じてしまう、そのことを問題にしたかったのです。現在の日本円の経済だけを見ていれば、その非効率さは見えて来ません。しかし、この先少子高齢化がさらに進んで、この国のなかでサービス提供者と受用者のバランスが崩れて来れば、問題の所在は誰の目にも明らかになるだろうと思います。そうなればもう日本のGDPが世界第何位かといったような悠長な話ではなくなる。これまで経済的評価を与えられて来なかった微少な価値の領域にも光を当て、これを効率よく利用することがどうしたって必要になるのです。私が生産性の問題と呼ぶのはそのことです。例えばこの新通貨がBIまたは育児手当として支給されたとしても、子育て中のお母さんがこれを有効に使いたいと思うなら、何か工夫が要ります。お店で一部を使うことは出来ますが、それはあくまでディスカウントのためのクーポン券のようなものに過ぎません。それとは別に十分な日本円の収入を持っていなければ、使い切れないようなお金です。それでは母子家庭のお母さんたちが何人か集まって、ネットワークを作ることから始めてはどうだろう。交替で子供たちの世話をし、パートの仕事で日本円を稼ぎ、それと同時に地元の農家と掛け合ってエコ通貨で野菜を頒けてもらうよう交渉する。その代わりに農家の子供を無料で預かることにすれば交渉成立です。こうして母親たちを中心に、地元の農家や個人商店、福祉施設や作業所などを巻き込んでネットワークが拡がって行く。大資本が容易に入って来られないエコの経済圏が生まれます。これまでの経済では見捨てられて来た家事労働や無償の奉仕活動などが、新たなバリューチェーンとしてつながるのです。

 先月ニューヨークのウォール街で始まった、若者を中心とした反格差運動のデモは、インターネットでの呼び掛けに呼応して世界中に広がりそうな様子です。現代の強欲な金融資本主義に対する、この民衆の怒りは正当なものだと私は思います。が、ドルやユーロや円の経済圏のなかでいくら抗議行動を起こしても、根本的な問題は何も解決しないだろうとも思うのです。先進国で若者の失業率が高いのは、決して金融トレーダーの強欲のせいではないからです。そこにはもっと本質的な原因がある。それは現在の貨幣経済の構造そのもののなかにあります。私はここで従来の貨幣経済を否定すべきだと言っているのではありません。それは今日の豊かな社会を築いて来た原動力となったものであり、そのことはこれから先も変わらないでしょう。そこでは無数の労働者の創意工夫や試行錯誤を通して、いまも生産性向上に向けた努力が続けられている。遅れているのは、就労していない時の私たち生活者の方です。これまで〈生産性〉というのは、主に資本家や経営者の関心事でした。少なくとも営利企業以外のところではあまり意識されることがないものだったと思います。しかし、企業による永遠に続く生産性向上の時代が終わってしまった以上、これは私たちひとりひとりの問題になったのです。地球の環境が有限であり、限られた資源のなかで持続可能な社会を実現して行くためには、供給側の生産性よりも需要側の効率性を高める必要がある。エコ通貨というのはそのためのアイデアのひとつに過ぎません。本質的な課題は、私たちが生活者として、いかに少ない資源によって最大の幸福を実現出来るかという点にこそあります。

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コメント

こんばんは。( ̄ー ̄)ニヤリ
論の本質は限りあるパイをどのように分配していくか、でしかないのではと考えてます。
成長神話をテクノロジーで押し進めるか、テクノロジーを持って成長を停めるか。
最終的には過剰生産と人口問題にいきつくでしょう、
生産を増やすテクノロジーは果てしないけれども、人口を減らすテクノロジーはあまり進展してませんねえ。
そもそもテクノロジーなぞ制度に従属するものでしかなく、人口抑制テクノロジーなんて現代において誰も見向きもしない話ではあります。
日本でのBIは主さんが過去に書かれたとおり、年金問題をきっかけに発火するでしょう。

ま、はっきり言えば、生産性に寄与しない老人がどうするか、どうありたいか、でしかありません。
ピンピンコロリを実現させる制度・テクノロジー・哲学を早急に奨めるべきです。
出る者がスムーズに出るなら入る者もスムーズに入れます。
死をもっと身近に、当たり前のものに、伴う恐怖を最小限に、永遠の生を求めるのは傲慢であり、諦観を世間常識に、手離せ。
別室で取り上げている「死」のテーマ、表に出してもいいのではないでしょうか。

つうてもねえ、中国、インド、ブラジル、ロシア。
これらの国がアメリカ流の中流生活を求め始めたなら、地球の資源はあっと言う間に枯渇してしまうわな。パイを分かち合うなんて美談は消し飛んでしまうか。。。

投稿: ロシナンテ | 2011年10月18日 (火) 04時57分

ロシナンテさん、はじめまして。(はじめての気がしませんが。笑)

今回の連載のテーマは、「限られたパイという発想からそろそろ卒業しようよ」というものでした。ですから、「論の本質は限りあるパイをどのように分配していくか」ではないんです。この国のGDPが500兆円だったとして、そこにカウントされていない家庭の育児や介護、ボランティア活動などに新しい経済価値を与えられるなら、パイは500兆円ではないという理屈です。

「ピンピンコロリを実現させる制度・テクノロジー・哲学を早急に奨めるべきです」というのは、私は危険な考え方だとは思いませんが、誤解を招く言い方だと思います。平均寿命が長くなって、元気な老人が増えることは単純に喜ばしいことじゃないですか。彼らにも生産性に寄与してもらえばいいんですよ。日本円の経済ではそれが難しくても、エコ通貨の経済なら可能ではないかという話なんです。

投稿: Like_an_Arrow | 2011年10月19日 (水) 00時15分

こんにちは。お久しぶりです。
もう読まれたかも知れませんが、内田樹さんのブログで
今回のシリーズのテーマとシンクロしているような記事
「雇用と競争について」が書かれていますね。

そうだよなあ、”グローバル経済”うんぬん以前に
まず優先すべきは”国民経済”だよなあ。と記事を
読みながら思いました。

投稿: あかみどり | 2011年10月21日 (金) 11時02分

あかみどりさん、こんにちは。お久しぶりです。

内田樹さんの最新記事、いま読みました。内田さんの文章は大好きなので、読んでいてとてもいい気分になるのですが、「論」として見た場合、今回の記事には賛成出来る部分と出来ない部分とがあります。

「自由貿易よりも国民経済の方が大事」という意見には100%賛成です。でも「雇用を守るためにはあえて生産性の低い産業分野も残す必要がある」という考え方には「?」なんです。内田さんの議論には出て来ませんが、日本の農業は多額の補助金で支えられている部分があります。決して「生産性は低いが大量の雇用を引き受ける産業」が「国民経済的には必要不可欠」といったきれいごとでは済まない話です。そもそも日本の農業人口は全人口の2%くらいしかない訳で、雇用の受け皿となっている訳でもありません。

今回の私の記事は、この内田さんの記事に代表されるような、「生産性至上主義=グローバル資本主義=悪」みたいな類型的な考え方が流布しているので、これに反論したくて書いたという面もあるのです。(あかみどりさんのコメントを読んで、自分でもそんな気がして来ました。笑) これから少子高齢化が進み、環境や資源の有限性とも向き合わなければならない私たちが、生産性の問題と無縁であっていい筈がないじゃありませんか。でも、それは資本家や経営者が考える生産性とはちょっと違うんだよ、というのが私の考えなのです。

投稿: Like_an_Arrow | 2011年10月22日 (土) 00時45分

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