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2011年10月 2日 (日)

生産性の問題を考えるために(6)

■ オルタナティブ経済の可能性について その1

 金持ちでも不幸な人がいるように、貧しくても幸福な人がいます。当たり前のことですが、もしも人類に希望の持てる未来があるとするならば、この〈貧しくても幸福になれる能力〉のうちにしかあり得ないのではないか、これが今回の連載に通底するテーマです。地球の環境や資源やエネルギーが有限なものである以上、永遠に続く経済成長というのはお伽噺に過ぎない。であるならば、これからはGDP(国内総生産)ではなく、GNH(国民総幸福)を国としての目標にしてはどうだろう。そのために日本は、持てる技術力や文化力を総動員して、経済効率ならぬ〈幸福効率〉の良い社会を実現して行く。もしもそれが本当の意味での「Japanization」として世界に認知されることになれば、もう一度日本は世界のトップランナーになれるかも知れない。いや、幸福の国というコンセプトが実現出来るなら、別にトップランナーにこだわる必要だってありませんね。ただ、環境負荷の高い経済効率至上主義だけではない、もうひとつのオルタナティブがあることを世界に示せる先進国がひとつでも存在することは、これから経済成長に向かわなければならない発展途上国に対しても希望を与えることになるのではないでしょうか。

 これがここまでの議論のまとめです。抽象的な理想論を語っているだけで、実のあることは何ひとつ言ってませんね。問題はそのような次世代のビジョンに、どのような政策によって近づけるかということです。国の成長期においては、市場の自律的な働きによって、政府が介入しなくても(むしろ介入しない方が)経済は効率的に発展して行きます。政府がやるべきことは、せいぜい行き過ぎた経済格差を税による再分配機能で是正し、行き過ぎた〈強欲資本主義〉を法律を作って規制するくらいのことです。しかし、GNH拡大を国の目標の第一に掲げた場合、政府の役割はどのようなものになるのだろう? まず思い付くのは、福祉・医療・教育といった領域に税を手厚く配分する福祉国家のイメージでしょうか。もちろんそれは幸福な国家にとって不可欠の要素であるとは思いますが、今回私たちが探しているものはそれではありません。つまるところ、税による再分配という方法に頼るかぎり、収税源を確保するためには経済成長至上主義に傾かざるを得ないからです。むしろこれからの政治が取り組むべき課題は、これまでの経済の仕組みでは顧みられて来なかった価値の領域に対して、目に見える指標とインセンティブを与え、これを育てて行くということなのではないだろうか。例えば家庭における家事や育児や介護といった労働は、いまの経済の仕組みのなかではまったく市場価値を持たないものです。それ無しには国家の存続もあり得ないと思われるほど重要なものであるにも関わらず、文字通り一銭の価値も与えられて来なかった。このことを「おかしい」と考えるのではなく、このことを「もったいない」と考える、そういう発想の転換がいま求められているのではないでしょうか。

 働きながら子供を育てている母子家庭のお母さんが、子供を保育園に預けて仕事に出ると、稼いだ賃金の何割かは保育料に消えてしまいます。GDPにはダブルでカウントされますから、国の経済には大いに貢献しているのかも知れませんが、それでGNHがどれだけアップしたのかと言えば疑問です。子どもを産み育てるということは、国家が存続するための一番の基礎となる仕事でもある訳ですから、むしろ国が直接このお母さんに手当をを出すような政策は考えられないものか。(子ども手当というのは、もともとそういうコンセプトで創設された制度だった筈ですが、それも民主党の変節によって葬り去られてしまいました。) この時、問題は政府が子育て中のお母さんに支給する手当の財源をどこから工面して来るかということです。それを現在の経済の仕組みのなかから、つまり税の再分配によって賄うのでは意味が無いと私は考えます。それは500兆円のGDPを単に薄く引き伸ばして、希釈することでしかないからです。私の以前からの主張は、これら従来の貨幣経済の枠外にある価値の領域に対して、日本円ではない第二の通貨のようなものによって新たな市場を生み出すことは出来ないだろうかというものです。いわば国が発行する全国規模での〈地域通貨〉のようなものだと考えてください。その具体的なやり方については、すでに別のところで詳しく説明しましたから、ここでは繰り返しません(例えばこちらこちら)。今回のテーマのなかで考察したいのは、そのようなオルタナティブ通貨による経済が、いかに自律的に(つまり市場原理の自律性によって)成長して行けるか、そしていかにこの国のGNHの向上に寄与するかという点です。

 これは地域通貨というものを企画・実践する際に、いつもつきまとう問題だと思います。私自身は地域通貨を推し進めているコミュニティに参加したことがありませんが、ご多分にもれず地元の商店街がさびれて行く様子を見るにつけ、自分の住む街でも地域通貨の試みがあってもいいのではないかと思うことがあります。ただ、日本全国には数百もの地域通貨があるそうですが、華々しい成功例というものを聞いたことがない。もしかしたら自分が知らないだけかも知れませんが、その志の高さに比して普及の方はイマイチであるようです。そして私の考えでは、その理由は簡単なことなのです。現在試みられている地域通貨の多くは、地域でしか使えない商品券のようなものとして設計されています。つまり、日銀券の代用品でしかないのです。地産地消を促進するための効果は多少あるかも知れませんが、基本的に日本円が担っている価値の領域を拡大するものではありません。財布のなかに何枚か持っていても、あんまり嬉しくないようなお金です。(使えるお店は限られているし、使う時にもなんとなく気後れを感じてしまう。) なかには日本円とはリンクしていないような地域通貨もあります。LETSだとか交換リングという名前で分類されるような、出資金の要らないゼロサム型の通貨です。このタイプの地域通貨の方が、日本円では担えない価値の領域を託すという意味では優れたものだと思います。(子守りをお願いする場合などに使うのにちょうどいい。) ただ残念なことに、これも広く流通するほどのポテンシャルを持ったものではありません。単純な善意の交換ということなら、別に紙幣や通帳のようなものに仲介されなくても、私たちは日々無償で行なっているものだからです。

 たとえ育児という仕事がとても社会的価値の高いものだったとしても、それを家庭内に閉じ込めておいては新しい市場は生まれません。もしも政策として考えるなら、そうした価値を交換出来る仕組みを作ってやらなければならない。例えば政府発行の紙幣を育児手当として配って、「このお金は日本円とは交換出来ないけれども、政府が保証するホンモノのお金ですから、安心して使ってください」、そんなアナウンスをしたとする。それでこの新通貨は市場に流通して行くだろうか? 流通する訳がないですよね。現在の日本円が国内だけでなく、国際的にも高い(高過ぎる?)価値を維持しているのは、日本政府に対する信用によるものではありません。戦後60余年を通じて日本が築き上げて来たすべてのものと、さらにその将来性に対する信用が裏付けとしてあるのです。そうしたものが何もない政府通貨が信認を得られないのは当然のことです。仮に新通貨を一定の交換レートで日本円と交換出来るものとして設計し、交換出来ることに対して政府が保証を与えたならば、新通貨は国民に歓迎されることでしょう。但し、配られた瞬間に日本円に両替されてしまうだけのことです。それは結局のところ日本円の信用を傷つけることにしかなりません。デフレや円高への対策として行なうならともかく、私たちの期待しているような国内の第二市場を育てる政策とはなり得ない。――なんだかこの連載のテーマから脱線して来たような気もしますが、もう少しこの第二通貨による第二市場という問題について考察を続けます。もしも家庭内の労働を市場化する筋道がつけられたなら、効率や生産性の改善ということは、あとから自然とついて来る筈ですから。

 育児や介護や教育の市場化ということなら、すでに日本円の経済のなかでもある程度成り立っているではないか、そんな意見もあるだろうと思います。何故そこに第二通貨などというおかしなものを持ち出す必要があるのか? 確かにこれらの分野には多くの民間の事業者が参入していて、それぞれひとつの市場と呼べるものを形成しているように見えます。しかし、私はそこにウソがあると思うのです。全国にある民間の保育施設は、利用者が支払う保育料の他に行政からの補助金によって運営が成り立っています。介護サービス事業者が利用者から受け取る料金は収入全体のわずか1割で、残りは行政負担(介護保険料と税が半分ずつ)です。私立学校は入学金や授業料がずいぶん高いけれども、それだって公費負担が無ければ経営は成り立たない。つまり自立した市場など成り立ってはいないのです。にもかかわらず、こうした分野にも市場原理を持ち込もうとしている規制緩和派の虚言に対してはひとこと言いたい気がしますが、それは今回のテーマではありません。現在の経済体制のもとでは、独立採算の取れないこうした分野の事業を、税で支えることは当たり前だという点だけをここでは確認しておきましょう。でも、考えてみるとおかしくはないですか? 誰が考えても社会にとって欠かすことの出来ないこれらの領域の活動に、何故適正な市場価格がつかないのか? それは受益者が特定の個人ではないからでしょうか。この国の将来にとって、少子化や子供の学力低下が大問題であることは誰でも承知しています。しかし、それは環境問題や資源問題と同じで、特定の誰かがいま困っているといった問題ではない。〈個人にとっての困ったこと〉は、裏を返せばそれを解決してくれる製品やサービスに対する需要でもあります。それでは〈社会にとって困ったこと〉を、裏を返して新たな需要に転換させる妙案は無いものだろうか?

 いや、たぶん妙案は無いんですね。それには啓発された個人の想像力を恃むしかないだろうというのが、とりあえずここでの結論です。私たちはふだんの生活のなかで、様々な個人的な需要を満たしながら経済活動を営んでいますが、必ずしも欲望の赴くままに需要を喚起させている訳ではありません。健康のことを考えて腹八分目に抑えるといったことにだって、小さな想像力を働かせている訳です。だったらその想像力をもっと拡大させて、社会の持続可能性のために良い消費を優先させるというところまで持って行ってはどうか。必ずしもそれは不可能なことではないと思います。実際、燃費のいいエコカーや家庭用のソーラーパネルがよく売れているというのも、減税や経済性のためばかりではないでしょう。そこには利便性や快適さを犠牲にせずに、せめて地球に優しい消費を選択しようという意思が見て取れる。それは一種の自己満足かも知れませんが、いわば〈啓発された自己満足〉です。そういう個人の自覚の総体として、なんとか現在の経済効率一辺倒の社会のあり方を転換させて行く、それしか選択肢は無いと思います。それがつまり私が提唱する「幸福の市場原理」という考え方の主旨でもある訳です。ただ、現在でも先進国を中心にそうした社会的潮流はあるにせよ、それを啓発された個人の自覚だけで駆動して行くことには限界があるだろうとも思うのです。何か仕掛けが要る。政府が発行する第二通貨というものは、この前提の上に立って初めて具体的な可能性を持ったものとして私たちの前に現れて来るのではないだろうか。(この続きはまた次回とします。今回の連載を始めてから、ただでさえ少ないアクセス数が目に見えて下がっているので、適当なところで切り上げたい気持ちもあるのですが。笑)

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