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2011年10月30日 (日)

TPP問題私見

 11月のAPEC開催を目前にして、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加をめぐる議論が活発化しています。この問題については、私自身スタンスを決め兼ねていたのですが、インターネット上でいろいろな人の意見を読んでみて、やっぱりTPPというのはちょっと「筋の悪い」話なのではなかろうかという考えに傾いています。賛成派の意見も反対派の意見も、耳を傾けてみればそれぞれ一理あって説得力のあるものばかりです。対立の本質は、ここ10年余りのあいだに国内でずっと争われて来た論点、つまり経済成長を優先するか、国民生活を優先するかという問題に他ならないと思います。いや、この言い方はちょっと語弊がありますね、きっとTPP賛成派(ひと昔前の構造改革派?)の人たちは、「経済成長あってこその国民生活ではないか」という反論を返して来るでしょうから。これもひと昔前に流行った「トリクルダウン理論」というやつの蒸し返しです。しかし、小泉改革によって、一部の企業は成長したかも知れないけれど、その成長の果実が大多数の国民にトリクルダウンして来ることはありませんでした。実際に起こったことは、非正規労働者の急増であり、所得格差の急拡大です。そんな市場優先主義に嫌気がさして、私たちは政権交代を選択したのではなかったでしょうか。ところが、変節してしまった民主党は、小泉政権でさえ思い付かなかったほどの過激な規制緩和に乗り出そうとしている。それがTPPです。

 考えてもみてください。もしもこれが日本とアメリカ、2国間の包括的なFTAという話だったら、そんなものは議論の俎上にさえ載って来なかったでしょう。それが何故、多国間の協定であれば、現実的な選択肢として議論されるようになるのか? もともとTPPというのは、シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドという比較的小さな4か国でスタートしたものでした。そこにアメリカ、オーストラリア、ペルー、マレーシア、ベトナムが新たに参加表明をしているというのが現在の状況です。そこにさらに日本が加わって10か国になったとしても、GDPの大きさで見ればアメリカと日本だけでその90%以上を占めるのだそうです(アメリカが67%、日本が24%)。つまりこれは「カムフラージュされた日米FTA」と見ることも出来る訳です。しかも、後から参加したアメリカの圧力で、TPPの対象範囲は貿易だけではなく、投資、金融、サービス、労働、政府調達などの分野にも広げられてしまった。そのアメリカは、リーマンショック以来、大幅な財政赤字や国内失業率の悪化に苦しんでいます。そしていま、日本に対してTPP参加を熱心に掻き口説いているのもアメリカなのです。これはもう「罠」と呼んでも差し支えないほど露骨な筋書きじゃありませんか。ここまで来ると、TPPのメリット、デメリット以前に、その素性の悪さに警戒感を持たない訳にはいきません。

 乗り遅れると大きな不利を蒙るといった交渉事も世の中にはあるでしょう。例えばこれから戦争が始まるという時に、軍事同盟に参加するタイミングを逸すれば、それは国の存続をさえ危うくするかも知れない。しかし、こと経済協定に関しては、後から参加することの不利益をさほど懸念する必要も無いと思います。そこに参加しなかったからと言って、9か国を敵に回すことになる訳ではありません。もともと互恵的な関係を目指して結ばれる協定なのですから、互いにメリットがあれば後からでも参加は可能な筈だし、もしも後からの参加を許さないというなら、8か国(アメリカを除く)と個別にFTAを結べばいいだけの話です。では、日本の参加のタイミングとしては何時がいいのか? それはもう決まっています、現在の円高が解消されてからです。特にいまは、歴史的な円高に加えて、放射能問題の影響もあって日本の輸出力が大きく低下している時ですから、常識的に考えても自由貿易の協定に参加するという選択はあり得ない筈なのです。野田首相は、交渉のテーブルに着くだけだとか言って、反対派の警戒心を解こうとしているようですが、ごまかしもいいところです。交渉に参加することの目的は、協定への加盟を前提として、可能な限り自国に有利な条件を引き出すという点にあります。TPPに参加するかどうかは分からないけれど、とりあえず交渉にだけは参加するなんて態度表明が、国際政治の世界で通じる訳がない。国内の世論がまとまっていない以上、今回の交渉は見送るべきなのです。別に不参加の言い訳を考える必要もありません。日本はいま震災からの復興を最優先すると言えばいいだけのことです。

 TPPに最も強く反対しているのは、農業関係者、農水省の役人、あるいはそこに利害関係を持っている族議員と呼ばれる人たちでしょう。アンケート調査の結果では、国民の半数以上は日本のTPP参加に賛成しているようです。その理由のひとつとして、手厚く保護されている日本の農業のあり方と、その利権の構造に対する反感というものがあるような気がします。そのような手厚い保護をして来たからこそ、日本の農業はいつまで経っても生産性が低く、国際的な競争力を持ち得ないのだ、そんな意見もよく目にします。しかし、その見方は事実の一面しか捉えていないような気もするのです。今日のような経済がグローバル化した時代には、生産性を比べる数字だって為替レートひとつで大きく変わってしまいます。(もしも1ドルが360円だったら、日本の農業は価格競争力で世界のトップに躍り出るでしょう。) むしろ日本では、農業人口は全人口の2%程度しかないのに、食料自給率は40%もある、そのことの方がよっぽど重大な事実だと思う。もしも農業人口が5%に増えれば、この国は食料の自給自足が出来るということだからです(少なくとも畜産品を含む農産物分野においては)。こう考えれば、農業の生産性は全然低くないんじゃないですか。私の考えでは、日本の農業の本質的な問題は他国に比べて生産性が低いことではありません、農業従事者の高齢化と後継者がいないことの方が問題だと思います。そして何故後継者が育たないかと言えば、ひとつには政府がちらつかせる規制緩和の方針が、農業に未来が無いことを暗示しているからでしょう。TPPによって、海外の安い農産物が規制無しに入って来ることになれば(繰り返しますが、生産性の差で安いのではありません、為替レートの差で安いのです)、日本の農業はほんとうに壊滅してしまうに違いない。

 日本の農業を変えて行くためには、TPPという外圧を利用するしかないなどとうそぶいている人たちは、ほんとうに規制緩和で農業が再生すると信じているのでしょうか。TPPが締結されると、これまで零細な農家が細々と守って来た農地を大規模資本が買い上げ、アメリカのような広大な農地に巨大な耕作機械が並ぶといった光景が現れるとでも言うのでしょうか。日本のどこにそんな土地があります? どこの国の事業家が日本の農業にそんな投資をしようなんて思います? ウソをつくのはやめましょうよ。TPPを推進したい人は、日本の農業なんて滅びてしまってもいいと考えているに違いないのです。むしろグローバルでの最適地生産が進むことで、日本は安い農産物を外国から輸入すればいいと考えているのです。でも、ほんとうにそれでいいのでしょうか? 今週、日本の人口が初めて減少に転じたというニュースがありましたが、全世界的にはまだ非常な速度で人口増加が続いています。そのために21世紀が地球規模での食料危機の時代になることは、ほぼ確定的な未来なのです。しかも温暖化による影響で、かつて無かったような大規模な自然災害が各地で起こっている。そんな状況のなかで、自国の農業を守らないという選択肢がどれほど危険なものか、野田首相は分かっているのだろうか。私は、日本が作り上げて来たような、小規模な農家を中心にした地産地消の農業が再評価される日はきっと来るだろうと思っています。機械化や大規模化が効率的だというのは、投資家の理論です。むしろこれからは労働集約型の産業を見直すという発想の方が大事だと私は考えます。なにしろ人間の労働力こそ、いつの時代にも変わらない最大の再生可能資源と言えるからです。

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2011年10月23日 (日)

エレベーター制御の効率化について考える

 長い連載で疲れました。ここらで少し軽い話題に転じましょう。30年余りのサラリーマン生活の中で、ずっと不満に感じていることがあります。それはオフィスビルにあるエレベーターを制御するシステムの非効率さについてです。古いオフィスビルのエレベーターホールは、毎朝9時前になると人でごった返します。都会のどこでも見られる光景ですが、ちょっとした工夫でこの混雑は緩和出来るのではないかと思うのです。今回は私が考えるエレベーター制御システムの改善方法について思いつくままに書いてみたいと思います。私はその分野の専門家ではありませんし、すでに最新のオフィスビルではもっと進化した制御方法が取り入れられているのだろうとも思います。(と言っても、経験的には優れた制御システムを持ったエレベーターに出会う機会はほとんど無いような気がするのですが…) まあ、ひとつのネタだと思って気楽に読んでください。

【アイデア1】 ホームポジションで待機させる

 オフィスビルのエレベーターには、1日に2回のラッシュアワーがあります。朝の始業前と昼休みが始まる時間帯です。通常、朝は昇りエレベーターが、昼は降りエレベーターが混むことになります。それ以外にも午後の始業時前や夕方の終業時後にも小さなピークはありますが、混雑の度合いとしては大したことはありません。だからエレベーターの効率的運行の工夫をするなら、まずは朝の9時前と昼の12時前後を目標にするのが正解です。

 このうち朝の時間帯の混雑緩和には、エレベーターを1階(ロビー階)で待機させる「ホームポジション制」を採用するのが有効ではないかと思います。つまりボタンで呼ばれていなくても、とりあえずロビー階に戻って待機するように設定するのです(設定する時間帯は、入居している企業の出勤時間に合わせて調整します)。この時、すべての号機をホームポジションに待機させる必要はありません。例えば全部で6台あるうち4台をそのように設定するといったイメージです。ホームポジション設定をされたエレベーターは、乗客が誰もいない状態になったら、すぐに指定された「ホーム階」に直行します。途中で乗客は拾いません。

 もうひとつホームポジション制で重要なことがあります。それはホーム階に着いたエレベーターは、扉を開けた状態で待機するということです。現在のエレベーターシステムが不合理なのは、ロビー階で1機のエレベーターに客が乗降しているあいだ、たとえその階に他の号機が来ていても、扉が開かないことです(少なくとも私の働いているビルではそうです)。せっかく複数の号機があるのに、乗降中は他の号機の稼働が止まってしまうのです。これはひどい無駄です。かと言って、乗降中にエレベーターホールの「▲」ボタンを押すと、カラの号機ではなく乗車中の号機で閉まりかけた扉が開いてしまったりする。これでイライラした経験のある人は多いのではないでしょうか。

 もしもホームポジションでは扉を開けて待つようにすれば、この問題はクリア出来ます。そしてもうひとつ、そこに重要なアイデアを追加します。待機中のエレベーターは、乗客が中で「閉」ボタンを押さない限り扉が閉まらないのですが、ボタンを押してもすぐには閉まらないルールにするのです。乗客の総重量の増減が止まってから、3秒くらい経過してから閉まるようにします。(3秒という時間が妥当かどうかは、実験によって確かめる必要があります。) 何故そんな仕組みにするのかと言えば、ひとつには安全のためということもありますが、これによって乗車率を上げるためです。3秒ルールがあれば、乗客の流れが中断されないため、広いエレベーターホールのあるビルなどでも、乗客を積み残して発車することが少なくなるという読みです。エレベーターには積載重量を測定する機能が付いている筈ですから、これはソフトウェアの修正だけで実現出来ると思います。ホームポジション制と3秒ルールは、朝の時間帯のロビー階から発車するエレベーターだけに適用されます。

【アイデア2】 満員通過を基本ルールにする

 こちらは昼に発生する降りエレベーターの混雑を緩和するアイデアです。エレベーターを待っていて、何が一番イライラするかって、やっと停まった1台が満員で乗れなかった場合ほどストレスのたまることはありません。これは乗ろうとしている側だけでなく、すでに乗っている乗客にとってもイライラの原因になります。(「おい、停めるなよ!」、「そっちこそ停まるなよ!」。) しかも、1台が無駄に停車しているあいだに、別の空いた1台がその階を素通りしているかも知れないと思うと、イライラは頂点に達します。この問題の解決方法は簡単です。やはり総重量で判断して、満員に近い状態なら(その階で降りる人がいない限り)満員通過させればいいのです。

 これは簡単なことなので、もうそれを実現しているエレベーターもあるかも知れません(私の働いているビルではまだですが)。この機能を実装した上で、さらにその効果を高める方法があります。それは、このエレベーターが「満員通過型」であることを、このビルの居住者全員に周知させることです。朝や昼の混雑時にも、ふつうエレベーターは積載可能重量ぎりぎりまで乗客を乗せている訳ではありません。すでに乗り込んだ人は、早く発車させたい気持ちと、過密になることの不快さを避けたいという気持ちがあるので、ぎりぎりまで詰めて乗ることをしないからです。しかし、満員通過ということをみなが知っていれば、詰めて乗るようになるんです。それは目的地のロビー階までノンストップで行ける特急券を手に入れるのと同じことですから。

 これをアシストする大事な機能をもうひとつ追加します。エレベーターは積載重量を超すとアラームブザーが鳴るように設計されていますよね。それとは別に積載重量に近づくと(心地よい音色の)チャイムが鳴るようにするのです。例えば積載重量まであと100kgを切った時点で鳴らすようにします。これはつまりそのエレベーターが「満員通過モード」に入ったことを意味します。これまでは最後に乗り込もうとする人を、すでに乗っている人が疎ましい目で見ていたかも知れませんが、これからはむしろ後から乗る人を喜んで招じ入れてくれるようになるのです。(些細なことですが、ひとつだけ難点があるかも知れません。身体が並はずれて大きな人にとって、これは嬉しくない機能かも知れないということです。自分が乗り込むことで、チャイムが鳴らずにいきなりブザーが鳴ったとしたら、それはちょっと恥ずかしいでしょう? 笑) お知らせチャイムと満員通過機能は、ラッシュ時だけでなく、すべての時間帯、すべての号機に適用されるものとします。

【アイデア3】 近隣階への移動を制限する

 この夏の節電で、「近隣の階に行く時はエレベーターを使わずに階段を使いましょう」という標語が掲げられたオフィスビルも多かったのではないかと思います。どこかのビルでは「節電と健康増進のために」というポスターが貼ってあるのを見掛けたことがあります。この際、エレベーター自体の機能としてこれを組み込んでしまったらどうでしょう。ある階に止まって扉が開いた時点を境に、進行方向に向かってひとつ先の階の行き先ボタンを無効にしてしまうのです(もちろんすでに別の階から乗った先客が押していた場合は有効です)。これによって隣接する階への移動手段としてエレベーターを利用することが出来なくなります。

 電力不足と節電という〈錦の御旗〉があれば、そのことに文句を言う人もいません。もしもビルの管理会社や入居企業がもっとハードな節電を望むのなら、「ふたつ先のフロアまでは階段!」というルール設定にすることだって出来ます。(もちろん設定を解除することも出来ます。障害者用エレベーターなどはこの設定の対象外とすべきです。) これは節電や入居者の運動不足解消に役立つだけでなく、効率的なエレベーターの運行という点でも効果が期待出来るやり方です。特に高層ビルなどでは、近隣階への移動にエレベーターを使う人が多いと、全体としての輸送能力が大きく低下することになる筈だからです。この方式を採用するためには、やはりエレベーターを使う人への通知を徹底させたり、操作ボタンの近くに分かりやすい説明表示をする必要があります。またこのビルへの来訪者が戸惑わないように、ロビー階が発地または着地になる場合はこの設定の対象外とすべきでしょう。

 節電と居住者の健康増進とエレベーターの効率的運行が同時に実現出来るなんて、実に素晴らしいアイデアだ。けれども、このアイデアにはひとつ重大な欠陥があります。近隣階に行く人が〈迂回路〉を通って行くという裏技に気付いてしまった場合です。例えば5階から6階に行きたい人が、いったん8階まで上がって、同じエレベーターで6階まで降りて来れば、規制を回避出来るのです。電力を余分に消費し、エレベーターの効率的運行をも阻害する、実にひどい裏技だ(私だったらやりますね。笑)。利用者のこういう行動を予防するためには、どうすればいいでしょう? 一番簡単なのは、エレベーター内に監視カメラを設置して、録画しておくことでしょうか。別に違法なことをしている訳ではありませんが、近隣階に行くために上がったり下がったりしている様子をビデオに録られるのは愉快なことではありませんから、抑止効果はありそうです。まあ、そこまでして実現するほどのアイデアかという気もしますが…

 ――という訳で、最後は少し尻つぼみになってしまいましたが、利用者のひとりとして、エレベーターメーカーにはぜひ検討していただきたいところです。インターネットで検索すると、エレベーターの効率的な制御という問題に対しては、いろいろ専門的研究がなされていることが分かります。複雑な数学的アルゴリズムを使った最適化ロジックが、特許申請をされていたりもします。もちろんそれが最新の高層ビルにおけるエレベーター制御に欠かせないものであることは認めますが、利用者視点に立てば、もっとベーシックな部分で改良の余地があるように思うのです。今回の私の提案は、特別な追加の設備投資を必要としない安上がりな方法ばかりです。全世界に何台くらいエレベーターというものがあるのか知りませんが、もしも利用者の啓発を前提としたこの方式がグローバルスタンダードになったとしたら、人類全体でどれほどの効率化と省エネが実現するか、それを思うと胸がワクワクするんです。

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2011年10月16日 (日)

生産性の問題を考えるために(8)

■ 資本家のためではない生産性向上を

 私が子供の頃、街を走るバスには1台にひとりずつ車掌さんが乗っていて、次にとまる停留所の名前を案内したり、乗客の切符を集めたりしていたものです。乗り換えのためにバスを降りると、駅の改札には切符切りの駅員さんが並んでいて、乗客が通らない時でもカチカチとリズムよく鋏の音を響かせていました。もういまではすっかり見かけなくなった光景ですが、あそこで働いていた人たちはどこへ行ってしまったのでしょう? ここ半世紀足らずのあいだに、業務の効率化ということがあらゆる産業において飛躍的に進展しました。そのことには良い面と悪い面があったと思います。良い面というのは、単調で付加価値の低い(と一般的に思われていた)仕事から労働者を解放したこと、悪い面というのは、そのために多くの人が職を失ったということです。初めてベーシックインカム(BI)という考え方があることを知った時、私はここにこの矛盾を解く鍵があると思ったものです。例えば自動改札機というものが発明されて、駅の切符切りのような仕事が無くなるのは、直感的に見ても悪いことではない。1日中改札の中で鋏をカチカチ鳴らしている仕事が、付加価値のめざましく高い仕事だとは思えませんからね。しかし、このような効率化や合理化をどんどん進めて行けば、失業率が上がることもまた当然です。社会全体としての豊かさは増した筈なのに、仕事と収入を失う人が増えるというこの矛盾。この矛盾を解決するためには税による所得の再分配が欠かせませんが、BIはそのための理想の方法ではないかと感じられたのです。「BIというのは決して貧しい人々への施しではない、産業が高度化した時代に生きている私たちが受け取れる〈配当〉のようなものなのである」、この説明に私は魅了されました。

 しかし、一方ですべての人に対する無条件の生活保障というコンセプトに、どこか違和感を感じる自分もいたのです。「働かざる者、食うべからず」という古い倫理コードが心にひっかかった訳ではありません。そうではなくて、もしもBIによってすべての国民が最低限の生活を保障されることになったら、そこで技術の進歩も産業の効率化も止まってしまうのではないか、その時実現するのは目標を失った無気力な社会なのではないかという疑念を振り払えなかったのです。BIのある社会では、一部の超エリート(経営者や技術者たち)とその他大勢の無気力な大衆(BI以外の収入をほとんど持たない人たち)というように、国民が大きく二分されてしまう可能性があるだろうと思います。しかもこの階層化は固定される傾向を持つ筈です。BIによって最低限の生活が保障されている以上、上の階層に這い上がろうというハングリー精神も育ちにくいと思われるからです。そんな社会がはたして幸福な社会と呼べるだろうか? 地球環境の持続性という観点からすれば、もしかしたら貧しくてもそれなりに満足の出来る無気力な人々が増えることは、実は望ましいことなのかも知れません。が、どう考えても幸福そうな未来のイメージではありませんよね。だいたい、無気力な大衆を食わして行かなければならない一部の超エリートの人たちだって、それだけではモチベーションが維持出来る筈がありません。(先週アップル社のスティーブ・ジョブズ氏が亡くなりましたが、彼のような天才だって、コンシューマーが貧しいBI受給者ばかりだったとしたら、あのようなイノベーティブな製品を次々と生み出せはしなかったでしょう。) BIの制度設計を考えるに当たっては、この問題を深刻に受け止める必要があります。

 ベーシックインカムというコトバもだんだん人口に膾炙して来て、いまではこれを政策綱領に掲げる政党もいくつか出て来ています。しかし、そのどれもが現在の経済体制、通貨制度をそのまま続ける前提でBIの導入を考えている、この点が私には不満です。経済の専門家じゃなくたって、すべての国民に日本円で月額8万円の給付金を配るなんてことが、実現可能な政策と言えないのは自明のことじゃありませんか。むしろBIという思想に未来の可能性があるとすれば、それはこれまでの経済体制では見逃されて来た価値の領域を開拓して、それを新しい経済の仕組みのなかに取り込むという発想とセットのものでなければならない。そこにしかBIの本当の原資はあり得ないからです。BIを税による所得再分配政策の一変種と見ている限り、これをめぐる賛成派と反対派の議論も水掛け論で終わるしかないだろうと私は思っています。そして、もしもこの新しい価値の領域に値段をつけ、そこでの取り引きを促進するお金があるとすれば、それは従来の銀行マネーではなく、政府(という名のNPO)が発行するオルタナティブマネーでなければならないと考えるのです。もともとお金というものは、物々交換の非効率さを改善するために発明されたものだった筈です。それ自体にはモノとしての価値は無いけれども、それを使う人たちの約束(信用)によって、価値あるものとの交換を保証されているのがお金というものの本質です。ところが、現代では、お金は商品やサービスを交換するための媒介物という本来の目的を逸れて、それ自体が自己目的化してしまった。このお金の自己目的化ということは、実は最近始まった話ではありません。その発端はずっと昔、「利子」というものが発明された時にまで遡るのです。つまり、その時からお金の堕落が始まったのです。

 利子がつかないお金、いや、利子がつかないどころか〈マイナスの利子〉がつくお金というのは、自己目的化してしまった現代のお金から、本来の価値交換機能を奪還するために導入されるものです。銀行には預けられないし、タンス預金をしても価値が目減りしてしまうのだから、このお金は貯蓄には回されません。世の中に出回って、価値交換のお手伝いをするしか能のないお金なのです。それはまた誰にも負債を押し付けないお金でもあります。貯蓄をするということは、要するに将来の世代に負債を押し付けることです。日本の将来が暗澹として感じられるのは、1400兆円の個人資産を持ち、高額の年金を受け取っている高齢者世代を、正社員にもなれない貧しい若者たちが支えて行かなければならないという現実があるからです。今週、厚生労働省は年金の支給年齢を68歳または70歳に引き上げる案を発表しました。怒りたくなる気持ちを通り越して、嗤いたくなるような話ではありませんか。多くの企業が55歳から60歳を定年としているなかで、私たちはどうやって70歳まで食いつなげばいいのか? 年金支給年齢が65歳に引き上げられた時、政府は企業に対して65歳までの定年延長を求めました。今度はそれも70歳に延長されるのでしょうか。これは単なる笑い話ではすまされないことです。定年延長の裏で、若年層の失業率がさらに増加しているという現実もあるからです。年金財政がすでに破綻していることは誰もが知っています。年金受給者のなかには、自分たちが高額な年金を貰っていることに後ろめたさを感じている人もたくさんいる筈です。年金支給年齢を70歳まで引き上げるなどという滅茶苦茶なことを言い出すくらいなら、何故現在すでに支給している年金額を、今後5年かけて3割減額するというもっと現実的な案を打ち出さないのか。この国は、どこまで将来世代をいじめれば気がすむのでしょう。

 この問題に対する私の対策案は簡単です。年金の3割を政府通貨で支給するようにすればいいのです。時間的な余裕のある高齢者が、この新しい〈国民通貨〉の最初の市場開拓者になるというのも理にかなったことです。高級老人ホームに入居しようとしているお金持ちの老人は、日本円の強さにものを言わせて、リッチなサービスを目いっぱい享受することを期待しているのかも知れません。しかし、国内限定の第二通貨ではそうはいきません。日本円は、サービスを提供する側とこれを受ける側の人をはっきり線引きしてしまうようなお金ですが、国内限定の第二通貨(エコと名付けたのでしたね)の方は、もっと互恵的で対等な関係を要請するものだからです。それはこのエコ通貨が、国際的に認められた信用通貨ではなく、これを使う人たちがその都度信用を与えていかなければ、すぐに価値を喪失してしまうような通貨だという理由によるものです。想像してみましょう。月額10万円の年金を受給しているお年寄りが、なけなしの年金をはたいて月額利用料10万円の(低価格)老人ホームに入居しているとします。もしも年金が7万円+3万エコに変更されてしまったら、その施設には居られなくなってしまうかも知れない。しかし、その施設が入居料の3割まではエコでオーケーと決定すれば、そこに居続けることが出来る訳です。この時、その施設で働く人たちも給料の一部をエコで受け取らざるを得なくなる。すなわち、エコの経済圏の住人になる訳です。エコの経済圏というのは、いつも日本円が不足がちなために、そこに住む人たちが労働力を提供し合うことでその不足を補って行かなければならないような経済圏という意味です。だから老人ホームの入居者だって、元気なあいだは働いて施設の経営を助けて行かなければならない。それを貧しい者同士の相身互いとしか見られない人は、エコの経済圏には入って来られない人です。しかし、私は信じるのですが、一方的にリッチなサービスを受けるよりも、そのなかで自分にも出来る仕事があるような老人ホームの方に入居したいという人は、案外多いのではないでしょうか。

 今回の記事は、政府通貨や減価貨幣の効能を説くために書いているのではありません。サービスを提供する側とサービスを受ける側を截然と分断する現代の金融通貨(銀行マネー)は、サービスを受ける側の人たちが潜在的に持っている価値提供の機会を封じてしまう、そのことを問題にしたかったのです。現在の日本円の経済だけを見ていれば、その非効率さは見えて来ません。しかし、この先少子高齢化がさらに進んで、この国のなかでサービス提供者と受用者のバランスが崩れて来れば、問題の所在は誰の目にも明らかになるだろうと思います。そうなればもう日本のGDPが世界第何位かといったような悠長な話ではなくなる。これまで経済的評価を与えられて来なかった微少な価値の領域にも光を当て、これを効率よく利用することがどうしたって必要になるのです。私が生産性の問題と呼ぶのはそのことです。例えばこの新通貨がBIまたは育児手当として支給されたとしても、子育て中のお母さんがこれを有効に使いたいと思うなら、何か工夫が要ります。お店で一部を使うことは出来ますが、それはあくまでディスカウントのためのクーポン券のようなものに過ぎません。それとは別に十分な日本円の収入を持っていなければ、使い切れないようなお金です。それでは母子家庭のお母さんたちが何人か集まって、ネットワークを作ることから始めてはどうだろう。交替で子供たちの世話をし、パートの仕事で日本円を稼ぎ、それと同時に地元の農家と掛け合ってエコ通貨で野菜を頒けてもらうよう交渉する。その代わりに農家の子供を無料で預かることにすれば交渉成立です。こうして母親たちを中心に、地元の農家や個人商店、福祉施設や作業所などを巻き込んでネットワークが拡がって行く。大資本が容易に入って来られないエコの経済圏が生まれます。これまでの経済では見捨てられて来た家事労働や無償の奉仕活動などが、新たなバリューチェーンとしてつながるのです。

 先月ニューヨークのウォール街で始まった、若者を中心とした反格差運動のデモは、インターネットでの呼び掛けに呼応して世界中に広がりそうな様子です。現代の強欲な金融資本主義に対する、この民衆の怒りは正当なものだと私は思います。が、ドルやユーロや円の経済圏のなかでいくら抗議行動を起こしても、根本的な問題は何も解決しないだろうとも思うのです。先進国で若者の失業率が高いのは、決して金融トレーダーの強欲のせいではないからです。そこにはもっと本質的な原因がある。それは現在の貨幣経済の構造そのもののなかにあります。私はここで従来の貨幣経済を否定すべきだと言っているのではありません。それは今日の豊かな社会を築いて来た原動力となったものであり、そのことはこれから先も変わらないでしょう。そこでは無数の労働者の創意工夫や試行錯誤を通して、いまも生産性向上に向けた努力が続けられている。遅れているのは、就労していない時の私たち生活者の方です。これまで〈生産性〉というのは、主に資本家や経営者の関心事でした。少なくとも営利企業以外のところではあまり意識されることがないものだったと思います。しかし、企業による永遠に続く生産性向上の時代が終わってしまった以上、これは私たちひとりひとりの問題になったのです。地球の環境が有限であり、限られた資源のなかで持続可能な社会を実現して行くためには、供給側の生産性よりも需要側の効率性を高める必要がある。エコ通貨というのはそのためのアイデアのひとつに過ぎません。本質的な課題は、私たちが生活者として、いかに少ない資源によって最大の幸福を実現出来るかという点にこそあります。

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2011年10月10日 (月)

生産性の問題を考えるために(7)

■ オルタナティブ経済の可能性について その2

 いま各地で原発反対の動きが活発になっています。しかし、市民レベルでいくら盛り上がったところで、新政権が原発再稼働を政治決定してしまえば、私たちにそれを阻止することは出来ません。これが仮に特定の企業や製品に反対するのであれば、不買運動に訴えるという手もあります。しかし、私たちが毎日使っている電力のなかから、原子力によって発電された部分に対してのみ不買運動をするなどという選択肢はあり得ない訳です。いや、まったくあり得ないこともありませんね、福島の事故以来、ドイツでは再生可能エネルギーを供給する発電会社に契約先を変更する家庭が増えているのだそうです。先日読んだ新聞記事に出ていました。何故ドイツではそんなことが可能なのかと言えば、発送電が事業分割されているのは当然の前提として、発電方式にかかわらず同一の料金になるような電力政策が採られているからです。要するにコストの高い再生可能エネルギーには政府の補助金が出ているのです。それを実現してしまうドイツ政府の政策遂行能力は羨ましい限りですが、おそらくこうした不自然な(つまり市場原理に反した)政策は長続きしないのではないかとも思います。再生可能エネルギーを購入する家庭や企業が増え過ぎれば、あるいはユーロ危機で国の財政が逼迫すれば、補助金の財源も尽きてしまうに違いありませんから。このことは菅元総理が置き土産として残して行った「再生可能エネルギー特別措置法」についても言えます。市場原理を歪めるこうした〈無理筋〉の政策は、長い目で見れば国力を減じるばかりか、社会の持続可能性さえも遠ざけてしまうのではないかという気がします。

 むしろ持続可能な社会のためには、これまでとは異なる〈新しい市場原理〉を開発する必要があるのではないか、それがこの連載のテーマです。(最初はもっと違うテーマだったような気がしますが、途中からそういうことになりました。笑) ここまでお膳立てが整えば、あとはもう奇抜なアイデアを待つ必要はありません。要するに再生可能エネルギーだけを選択的に買えるお金があればいい訳でしょう? だったらそういうお金を作ってしまえばいいのです。政府が発行する第二通貨、日本円とは異なる国内限定通貨は、そのためのお金ということになります。現在の日銀券というのは、株式会社である日本銀行が発行した〈利潤追求のためのお金〉です。日銀は印刷した紙幣を直接国民に配ったり、国庫に納めたりしている訳ではありません。日銀の発行したお金は、すべて民間銀行を通して世の中に出て行きます。しかもそれは社会に流通するお金のほんの一部に過ぎません。いわばタネ銭です。民間銀行は〈信用創造〉という美名のもと、このタネ銭を何倍にも膨らまします。こうして生み出された現在のお金は、本質的に〈終わりのない経済成長〉を目指すという使命を担わされているのです。そのことを私は批判的に捉えているのではありません。20世紀の後半くらいまでは、それでなんとかうまくやって来た。しかし、今世紀になって、終わりのない経済成長という神話は明らかに崩壊しました。サブプライム問題もユーロ危機も、要するにそのことの現れに過ぎないのだと思います。これからは成長無しにやって行ける経済体制と、それを支える新しいコンセプトのお金が必要だということなのです。では、何故その発行主体が政府でなければならないのか? 一般的な地域通貨のように専門のNPOを作って、そこが発行したのではダメなのか? 別に構いません。しかし、政府というのは、唯一国民が直接管理職を選ぶことの出来る国内最大のNPOなんですよ。だったらこれを使わない手はない。

 発案者の特権として、仮にこの新通貨を「エコ」と名付けましょう。エコノミーとエコロジーの両方を担うという意味でのエコです(安直?)。以前の記事で、私は政府発行の第二通貨に対して日本円と交換するオプションを工夫したこともありました。しかし、今回のエコは、日本円との交換が一切出来ない、文字通りの第二通貨として設計します。で、それをどうやって世の中に流通させるのか? これもいろいろなアイデアがあると思いますが、今回は一番簡単なやり方で始めます。政府が個人に給付しているお金の一部を新通貨に代えるのです。例えば、児童手当、失業手当、生活保護の給付金、国民年金、障害者年金といったものは、すべて支給額の一部がエコで支払われる。議員報酬や公務員給与ももちろん同じです。その比率を何パーセントにするか、新通貨を紙幣にするか電子マネーにするかといったことは、後でまた考えましょう。もちろんこのような通貨政策を国民の同意を得ずに実行することは出来ません。ここで政府の指導力が問われることになるのですが、この新通貨は現在の経済成長至上主義にブレーキをかけ、公平で持続可能な社会を実現するための切り札として導入するのだということを、国民に十分納得してもらわなくてはならない。そのための説明と広報活動は政府が責任を持って行ないます(民主党や自民党には無理ですね)。議員や公務員といった人たちが、率先してこの新通貨の利用者になるというのも、この点からすればふさわしいことです。エコは政府通貨ですから、その発行に日本銀行は関与しませんし、国債や準備金などの裏付けが必要になる訳でもありません。政府が持つ通貨発行特権によって、まさに打出の小槌のように発行出来るのです。もちろんこの通貨自体を持続可能なものにするためには、それを回収し循環させる仕組みも組み込んでおかなければならないのですが、この点についてもまた後で考えましょう。

 ある日突然、給与や年金の一部をこれまで見たこともない新しい通貨で受け取ったとしても、私たちはそれをどうやって使えばいいのでしょう? お店で出してもどこも受け取ってくれるところなどありません。もしも政府が法律を作って、1エコ=1円として流通させることを義務づけたらどうでしょう。売り手はエコでの支払いを拒否出来ないルールにするのです。そんなことをしたら、経済が大混乱を来すばかりか、せっかくの新通貨が台無しになってしまう。そうではなくて、新通貨の流通に関しては市場原理に任せるのが正解です。売り手になったつもりで考えてみてください、あなたが日本円なら喜んで受け取るのに、エコは受け取れない理由は何でしょう? 日本円ならそれで次の仕入れが出来るし、自分と家族のための生活費に充てることも出来る。ところがエコでは何も買えないということが心配なのですよね? しかし、あなたのお店でエコを使ったお客さんは、それで生活物資を手に入れた訳じゃないですか。それは夢でも幻でもありません。あなただってエコを受け取ってくれる売り手を探して、そこから商品を仕入れたり食料を買ったりすればいいんです。エコは日本円と違って、銀行には預けられないお金ですから、貯蓄には向きません。が、商売やふだんの生活のためには、結構役立つお金だということにあなたは気付くでしょう(と言うか、気付いて欲しい)。ただ、市場原理と言っても、ルールが何もない訳ではありません。新通貨を発行するに当たって、法律で定めておかなければならない最低限のルールがあります。ひとつは1エコ=1円として扱うというルール、もうひとつはエコを受け取るかどうかは売り手が自由に決められるというルールです。商品ごとに売価の何パーセントまでエコでの支払いを可とするかというところまで決められます。これは私の政府通貨論に共通する基本原則です。

 これだけの仕掛けで新通貨が流通するようになることが信じられないという人は、もう一度自分が商店主になったつもりで想像力を働かせてください。同じ商店街のライバル店では、最近すべての商品について売り値の2割までエコでの支払いオーケーという広告を出しました。つまり1万円の買い物をする場合、8000円+2000エコで買えるのです。これはあなたのお店にとって脅威ではありませんか? エコというのは特に導入当初は、使い途がなくて財布のなかで眠っているようなお金です。それが使えるお店が出来たとなれば、お客さんが殺到したって不思議ではない。すると次に何が起こるかと言えば、エコが使えるお店が急速に拡大して行くのです。それは小売店だけではありません、小売店に商品を卸す流通業者や、さらにその上流の生産業者にもエコを扱う業者は増えて行く。なにしろエコを扱わなければ、取り引きをしてもらえないんだから仕方ない。あなたはそのことを忌々しく感じるでしょうか? しかし、ここは考え方を転換してもらわなければなりません。エコを扱うというのはどういうことか? それはまさにあなた自身が「信用創造」をすることなのです。日本円というのは、銀行の信用創造機能によって生み出されたお金です。それに対し、エコの方はそれを使うすべての人が、お互いを信用し合っているからこそ価値が保証されているようなお金です。取り引きでエコを受け取れるのは、次に誰かがそれを受け取ってくれると信じていればこそでしょう。私はこれこそが本来の意味での「信用創造」なのではないかと思う。実体経済にほとんど何の価値も生み出さない銀行が、信用創造機能を独占している現在の貨幣経済の方がおかしいのです。

 では次に、何故この新通貨が再生可能エネルギーや環境に優しいエコ製品の購買に優先的に使われるようになるのか、その点を説明しましょう。これも市場原理の自然の帰結として説明出来ます。ひと言で言えば、それは日本が資源に乏しい国だからです。もっと正確に言えば、日本が化石燃料や鉱物資源などの〈再生不能な資源〉に乏しく、自前で調達出来るのは、水力や太陽光や地熱などの自然エネルギーや国内の労働力といった〈再生可能な資源〉に限定されるからです。たとえ市場でエコを扱う業者が増えたとしても、どうしてもエコでは商売が出来ない業者というのも出て来ます。例えば輸入品を専門に扱う商社などがそうです。海外への支払いにはエコは使えませんからね。ということは、石油を輸入しなければならない火力発電業者、ウランを輸入しなければならない原子力発電業者は、水力発電業者や太陽光発電業者に比べて電力料金に占めるエコの割合を低く設定せざるを得ないということになる訳です。ほら、エコは再生可能エネルギーを促進するでしょう? エコ製品の方はもう少し違う理由づけが必要です。私がここで定義したい「エコ製品」というのは、例えば燃費のいい自家用車のようなものを指すのではありません、メンテナンス性能が良く、長く使い続けられるような製品のことを指します。電気自動車が必ずしもエコロジカルだとは言えないと私が思うのは、搭載している蓄電池が大量の希少資源を消費していること、それに(現在のところ)耐久性が低いということがあるからです。むしろこれからの時代に求められるのは、一度買えば20年でも30年でも乗り続けられるクルマです。それじゃあ自動車メーカーがつぶれてしまうですって? 何を言ってるんですか、ひとつの製品を長く使い続けるということは、そこにメンテナンスという新たな市場が拓けるということじゃないですか。そしてこのメンテナンスということこそ、高い技術を持った労働者という日本が豊富に持っている再生可能な資源が最も活かせる分野なのです。

 もしも日本が石油やウランやレアメタルなどの地下資源に恵まれた国であったなら、国内限定通貨などという〈貧乏くさい〉政策に頼る必要も無かったでしょう。が、幸か不幸か日本は世界に先駆けて資源の枯渇に直面する運命にあるのです。そういう課題においても日本は世界の先進国なのですね。エコ通貨は、別に国内産業を優先する保護政策として設計する必要もありません。この考え方に同意してくれる国があるなら、最初から国際通貨として企画することも出来ます。しかし、そんなことは現実的ではないだろうから、まずは日本がそれを試行してみて、それに成功したら世界に広めるという方が可能性としてはアリでしょう。(それだって全然現実的ではないけれど。笑) 地球や人類の持続可能性というのは、一国だけの努力だけで成し遂げられるものではありませんが、それでも先鞭をつける国はやっぱり必要だと思う訳です。――さて、話はどんどん脱線して行くばかりですが、先ほど積み残してあった宿題があるので、それについて最後に少し触れておきましょう。国民に直接配ったエコ通貨を、どのように回収してインフレを防ぐかという問題です。これにはふたつの方法があります。税によってエコを回収するのと、エコそのものに減価性(自然に目減りする性質)を持たせて、世の中に流通するエコの総量を一定に保つという方法です。減価するお金というのは、初めて聞く人には分かりにくいかも知れません。これはシルビオ・ゲゼルという昔の偉い経済学者が考案した革新的なコンセプトです。しかし、それを説明し始めるとまた1回分の連載を使ってしまうので、ここでは私がお奨めする方法をひとつだけ紹介しておきます(過去の記事へのリンクですが)。日本経済のなかでエコを大きく循環させるためには、エコそのものの減価性と税制度(主に法人税)によってこれを回収する速度を適正に保つこと、そしてまた給与や賃金にエコを含ませる比率を法律で規制して、働く人が無理なくエコの経済圏に溶け込めるようにすることが重要になります。

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2011年10月 2日 (日)

生産性の問題を考えるために(6)

■ オルタナティブ経済の可能性について その1

 金持ちでも不幸な人がいるように、貧しくても幸福な人がいます。当たり前のことですが、もしも人類に希望の持てる未来があるとするならば、この〈貧しくても幸福になれる能力〉のうちにしかあり得ないのではないか、これが今回の連載に通底するテーマです。地球の環境や資源やエネルギーが有限なものである以上、永遠に続く経済成長というのはお伽噺に過ぎない。であるならば、これからはGDP(国内総生産)ではなく、GNH(国民総幸福)を国としての目標にしてはどうだろう。そのために日本は、持てる技術力や文化力を総動員して、経済効率ならぬ〈幸福効率〉の良い社会を実現して行く。もしもそれが本当の意味での「Japanization」として世界に認知されることになれば、もう一度日本は世界のトップランナーになれるかも知れない。いや、幸福の国というコンセプトが実現出来るなら、別にトップランナーにこだわる必要だってありませんね。ただ、環境負荷の高い経済効率至上主義だけではない、もうひとつのオルタナティブがあることを世界に示せる先進国がひとつでも存在することは、これから経済成長に向かわなければならない発展途上国に対しても希望を与えることになるのではないでしょうか。

 これがここまでの議論のまとめです。抽象的な理想論を語っているだけで、実のあることは何ひとつ言ってませんね。問題はそのような次世代のビジョンに、どのような政策によって近づけるかということです。国の成長期においては、市場の自律的な働きによって、政府が介入しなくても(むしろ介入しない方が)経済は効率的に発展して行きます。政府がやるべきことは、せいぜい行き過ぎた経済格差を税による再分配機能で是正し、行き過ぎた〈強欲資本主義〉を法律を作って規制するくらいのことです。しかし、GNH拡大を国の目標の第一に掲げた場合、政府の役割はどのようなものになるのだろう? まず思い付くのは、福祉・医療・教育といった領域に税を手厚く配分する福祉国家のイメージでしょうか。もちろんそれは幸福な国家にとって不可欠の要素であるとは思いますが、今回私たちが探しているものはそれではありません。つまるところ、税による再分配という方法に頼るかぎり、収税源を確保するためには経済成長至上主義に傾かざるを得ないからです。むしろこれからの政治が取り組むべき課題は、これまでの経済の仕組みでは顧みられて来なかった価値の領域に対して、目に見える指標とインセンティブを与え、これを育てて行くということなのではないだろうか。例えば家庭における家事や育児や介護といった労働は、いまの経済の仕組みのなかではまったく市場価値を持たないものです。それ無しには国家の存続もあり得ないと思われるほど重要なものであるにも関わらず、文字通り一銭の価値も与えられて来なかった。このことを「おかしい」と考えるのではなく、このことを「もったいない」と考える、そういう発想の転換がいま求められているのではないでしょうか。

 働きながら子供を育てている母子家庭のお母さんが、子供を保育園に預けて仕事に出ると、稼いだ賃金の何割かは保育料に消えてしまいます。GDPにはダブルでカウントされますから、国の経済には大いに貢献しているのかも知れませんが、それでGNHがどれだけアップしたのかと言えば疑問です。子どもを産み育てるということは、国家が存続するための一番の基礎となる仕事でもある訳ですから、むしろ国が直接このお母さんに手当をを出すような政策は考えられないものか。(子ども手当というのは、もともとそういうコンセプトで創設された制度だった筈ですが、それも民主党の変節によって葬り去られてしまいました。) この時、問題は政府が子育て中のお母さんに支給する手当の財源をどこから工面して来るかということです。それを現在の経済の仕組みのなかから、つまり税の再分配によって賄うのでは意味が無いと私は考えます。それは500兆円のGDPを単に薄く引き伸ばして、希釈することでしかないからです。私の以前からの主張は、これら従来の貨幣経済の枠外にある価値の領域に対して、日本円ではない第二の通貨のようなものによって新たな市場を生み出すことは出来ないだろうかというものです。いわば国が発行する全国規模での〈地域通貨〉のようなものだと考えてください。その具体的なやり方については、すでに別のところで詳しく説明しましたから、ここでは繰り返しません(例えばこちらこちら)。今回のテーマのなかで考察したいのは、そのようなオルタナティブ通貨による経済が、いかに自律的に(つまり市場原理の自律性によって)成長して行けるか、そしていかにこの国のGNHの向上に寄与するかという点です。

 これは地域通貨というものを企画・実践する際に、いつもつきまとう問題だと思います。私自身は地域通貨を推し進めているコミュニティに参加したことがありませんが、ご多分にもれず地元の商店街がさびれて行く様子を見るにつけ、自分の住む街でも地域通貨の試みがあってもいいのではないかと思うことがあります。ただ、日本全国には数百もの地域通貨があるそうですが、華々しい成功例というものを聞いたことがない。もしかしたら自分が知らないだけかも知れませんが、その志の高さに比して普及の方はイマイチであるようです。そして私の考えでは、その理由は簡単なことなのです。現在試みられている地域通貨の多くは、地域でしか使えない商品券のようなものとして設計されています。つまり、日銀券の代用品でしかないのです。地産地消を促進するための効果は多少あるかも知れませんが、基本的に日本円が担っている価値の領域を拡大するものではありません。財布のなかに何枚か持っていても、あんまり嬉しくないようなお金です。(使えるお店は限られているし、使う時にもなんとなく気後れを感じてしまう。) なかには日本円とはリンクしていないような地域通貨もあります。LETSだとか交換リングという名前で分類されるような、出資金の要らないゼロサム型の通貨です。このタイプの地域通貨の方が、日本円では担えない価値の領域を託すという意味では優れたものだと思います。(子守りをお願いする場合などに使うのにちょうどいい。) ただ残念なことに、これも広く流通するほどのポテンシャルを持ったものではありません。単純な善意の交換ということなら、別に紙幣や通帳のようなものに仲介されなくても、私たちは日々無償で行なっているものだからです。

 たとえ育児という仕事がとても社会的価値の高いものだったとしても、それを家庭内に閉じ込めておいては新しい市場は生まれません。もしも政策として考えるなら、そうした価値を交換出来る仕組みを作ってやらなければならない。例えば政府発行の紙幣を育児手当として配って、「このお金は日本円とは交換出来ないけれども、政府が保証するホンモノのお金ですから、安心して使ってください」、そんなアナウンスをしたとする。それでこの新通貨は市場に流通して行くだろうか? 流通する訳がないですよね。現在の日本円が国内だけでなく、国際的にも高い(高過ぎる?)価値を維持しているのは、日本政府に対する信用によるものではありません。戦後60余年を通じて日本が築き上げて来たすべてのものと、さらにその将来性に対する信用が裏付けとしてあるのです。そうしたものが何もない政府通貨が信認を得られないのは当然のことです。仮に新通貨を一定の交換レートで日本円と交換出来るものとして設計し、交換出来ることに対して政府が保証を与えたならば、新通貨は国民に歓迎されることでしょう。但し、配られた瞬間に日本円に両替されてしまうだけのことです。それは結局のところ日本円の信用を傷つけることにしかなりません。デフレや円高への対策として行なうならともかく、私たちの期待しているような国内の第二市場を育てる政策とはなり得ない。――なんだかこの連載のテーマから脱線して来たような気もしますが、もう少しこの第二通貨による第二市場という問題について考察を続けます。もしも家庭内の労働を市場化する筋道がつけられたなら、効率や生産性の改善ということは、あとから自然とついて来る筈ですから。

 育児や介護や教育の市場化ということなら、すでに日本円の経済のなかでもある程度成り立っているではないか、そんな意見もあるだろうと思います。何故そこに第二通貨などというおかしなものを持ち出す必要があるのか? 確かにこれらの分野には多くの民間の事業者が参入していて、それぞれひとつの市場と呼べるものを形成しているように見えます。しかし、私はそこにウソがあると思うのです。全国にある民間の保育施設は、利用者が支払う保育料の他に行政からの補助金によって運営が成り立っています。介護サービス事業者が利用者から受け取る料金は収入全体のわずか1割で、残りは行政負担(介護保険料と税が半分ずつ)です。私立学校は入学金や授業料がずいぶん高いけれども、それだって公費負担が無ければ経営は成り立たない。つまり自立した市場など成り立ってはいないのです。にもかかわらず、こうした分野にも市場原理を持ち込もうとしている規制緩和派の虚言に対してはひとこと言いたい気がしますが、それは今回のテーマではありません。現在の経済体制のもとでは、独立採算の取れないこうした分野の事業を、税で支えることは当たり前だという点だけをここでは確認しておきましょう。でも、考えてみるとおかしくはないですか? 誰が考えても社会にとって欠かすことの出来ないこれらの領域の活動に、何故適正な市場価格がつかないのか? それは受益者が特定の個人ではないからでしょうか。この国の将来にとって、少子化や子供の学力低下が大問題であることは誰でも承知しています。しかし、それは環境問題や資源問題と同じで、特定の誰かがいま困っているといった問題ではない。〈個人にとっての困ったこと〉は、裏を返せばそれを解決してくれる製品やサービスに対する需要でもあります。それでは〈社会にとって困ったこと〉を、裏を返して新たな需要に転換させる妙案は無いものだろうか?

 いや、たぶん妙案は無いんですね。それには啓発された個人の想像力を恃むしかないだろうというのが、とりあえずここでの結論です。私たちはふだんの生活のなかで、様々な個人的な需要を満たしながら経済活動を営んでいますが、必ずしも欲望の赴くままに需要を喚起させている訳ではありません。健康のことを考えて腹八分目に抑えるといったことにだって、小さな想像力を働かせている訳です。だったらその想像力をもっと拡大させて、社会の持続可能性のために良い消費を優先させるというところまで持って行ってはどうか。必ずしもそれは不可能なことではないと思います。実際、燃費のいいエコカーや家庭用のソーラーパネルがよく売れているというのも、減税や経済性のためばかりではないでしょう。そこには利便性や快適さを犠牲にせずに、せめて地球に優しい消費を選択しようという意思が見て取れる。それは一種の自己満足かも知れませんが、いわば〈啓発された自己満足〉です。そういう個人の自覚の総体として、なんとか現在の経済効率一辺倒の社会のあり方を転換させて行く、それしか選択肢は無いと思います。それがつまり私が提唱する「幸福の市場原理」という考え方の主旨でもある訳です。ただ、現在でも先進国を中心にそうした社会的潮流はあるにせよ、それを啓発された個人の自覚だけで駆動して行くことには限界があるだろうとも思うのです。何か仕掛けが要る。政府が発行する第二通貨というものは、この前提の上に立って初めて具体的な可能性を持ったものとして私たちの前に現れて来るのではないだろうか。(この続きはまた次回とします。今回の連載を始めてから、ただでさえ少ないアクセス数が目に見えて下がっているので、適当なところで切り上げたい気持ちもあるのですが。笑)

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