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2011年9月11日 (日)

生産性の問題を考えるために(4)

■ 基本的な認識

 今回の連載では、書いている本人もまるで結論が見えないなかで、手探りで考察を続けています。基本的な課題認識はこういうことです。私たちが暮らしているこの21世紀の社会は、高度な経済的発展を遂げた結果として成り立っている社会です。そのために私たちの暮らしは、過去のどんな時代よりも豊かになりましたが、一方で環境の悪化や資源の枯渇といった問題にも直面することになりました。たまたま日本で起こってしまった原発事故は、いかに人類がエネルギーや資源を贅沢に消費する体質になってしまったかを反省させる機会でもありました。いまはほとんどの先進国が財政不安を抱えており、国民の経済格差は広がる一方といった状況です。これは現在がたまたま景気の後退期にあるというだけでなく、もっと本質的な変化が世界に起こっているのではないかという気がします。ひと言で言うならば、人間の経済活動があまりに拡大した結果、地球という星のキャパシティを超えてしまったのではないかということです。これは純粋に規模の問題であって、例えば資本主義の経済システムに問題があった訳ではありません。いつかは人類が直面しなければならなかった問題に、いままさに直面しているというだけのことでしょう。マルクスだってケインズだって、地球の有限性という問題がまだ顕在化していなかった時代の人です。現在でもエコノミストと呼ばれる人の多くは、景気の循環だとか金融政策の有効性だとかいった問題について、従来の枠組みのなかで議論を戦わせている。でも、それって沈没しかけている船のなかで、明日の乗船運賃改定について議論しているようなものではないでしょうか?

 多くの人が同じように感じていると思うのですが、今日、人類にとって一番重要な問題というものがあるとすれば、この「地球のキャパシティ問題」以外には考えられません。将来に亘って再生可能な環境・資源・エネルギーの範囲内で、すなわち地球自らが備えている〈治癒力〉を超えない範囲内で、ヒト社会のあり方を根本的に見直して行くこと、このこと以上に差し迫った問題があるとは私には思われないのです。むろんそんなことは現代人にとっては常識であって、これに対してはすでに多くの取り組みがなされているのも事実です。CO2の削減や再生可能エネルギーへのシフトといったことには、今後も本気で取り組んでいかなければならない。問題はそれが現在の〈病状の進行〉の速さにとても追い付きそうにないということなのです。信じられないことですが、いまもこの地球上では年間1.2%の割合で人口が増え続けています。私が子供の頃(もう半世紀近くも昔のことです)、世界の人口は30数億人と教わりました。いまやそれが70億人に達しようとしています。2050年には90億人を超すという予想もあります。まさに人口が爆発しているのです。すでに人口減に転じている先進国では、持続可能な経済サイクルが実現したとしても、地球全体としてどのように持続可能な未来をデザインして行けばいいのだろう? まあ、地球規模での人口増加という問題については別途考える必要がありますが、とにかく同時代の70億人が限られた資源のなかで生きて行くためには、生産性の問題は避けて通ることが出来ない。それは地球が再生産可能な資源量だけを使って、いかに一定水準の豊かさを(あるいは幸福を)実現して行くかという、最適解を求める問題に他なりません。

 こういった大きな問題を考えるためには、自分には知識も能力(脳力?)も不足していることは自覚しています。しかし、このブログの基本スタンスは、主張ではなく探究です。他人を説得することではなく、自分を納得させることなのです。記事を書き始めた6年前に比べれば、遅々とした歩みではあったかも知れませんが、多少は自分の思想が進歩して来たのではないかと思っています。ところがここに来て、壁に突き当たっているのを感じている。何もかも震災のせいにするのは良くないけれども、3.11を経た目で見ると、これまで自分が考えて来たことがいかにも机上の理想論でしかなかったような気がしているのです。例えば、科学技術や工業技術が進歩して、生産性が高まった社会においては、ベーシックインカムのようなものが実現するのは必然的な成り行きではないかと私は考えていました。しかし、経済がグローバル化した今日では、一国のなかでいくら産業の効率化を進めても、豊かさの果実をすべて国内に留めておくことは出来ません。国内に投資先が無くなった企業は、発展が見込まれる途上国に投資を始めるからです。もしも政府が高い法人税を課して、富の再分配政策を採るならば、今度は企業そのものが海外に逃げて行ってしまう。いま先進国で起こっているのはそういうことです。要するに、世界は長い長い均質化の時代に入ったのです。貧しかった国々が豊かになって行くのと反比例して、一定の豊かさを実現した国々ではこれから貧しさに向けた後退が始まる。すでに日本では先進国の先陣を切って、20年も前からそれが始まっていた訳ですが、ここに来て欧米諸国もそのレールに乗って来たのだと思います。最近よく耳にする「Japanization」というコトバは、つまりそのことを指しています。

 もしもそれを世界の調和ある発展の過程と捉えるならば、豊かな国に生を享けた私たちには、現在の経済的停滞を当たり前のものとして受け入れる覚悟が求められているのかも知れません。しかし、地球温暖化が人類共通の課題となり、原子力エネルギーの危険性が人類共通の認識となってしまったいま、そんな〈調和ある発展〉なんてものは誰も信じていません。もしもいくらCO2を排出しても気候に何の影響もなく、原発のひとつやふたつ爆発しても移住先などいくらでもあるという状況ならば、つまり地球のキャパシティが無限大であるならば、この先も「神の見えざる手」に導かれて、人類は「いけいけどんどん」で発展して行けるのかも知れません。しかし、状況は変わってしまった。地球が与えてくれるものが有限である以上、私たちはこれから経済発展して行かなければならない世界の最貧国をも含めて、限られた資源のなかでなんとかやりくりをして行く方法を見出ださなければならないのです。もしも世界中が(前回取り上げた)ブータンのような国ばかりだったなら良いのですが、実際には経済発展のためには多少の環境悪化や原発推進のリスクも辞さないという国の方が多いのです。京都議定書には中国やインドのような新興の経済大国は批准していません。すでに経済発展を遂げた先進国が、自分たちのやって来たことを棚に上げて、これから発展する国々に厳しい環境規制を課すことなど出来る訳がない。日本やアメリカやEU諸国は、ここまで地球環境を悪化させてしまった先進国の義務として、ましてや日本は、放射性物質を環境中にばらまいてしまった元凶国の責務として、これから発展して行く国々に対しては大きな責任を負っていると考えなければなりません。

 また大きな風呂敷を広げていますね。書くべき内容が無いときほど、レトリックが先行してしまう。悪い癖です。でも、今回はとりあえずこの方向で議論をまとめてしまいましょう。とにかく人類は、長い歴史を通して多くの知識や技術を蓄積して、ここまで豊かな社会を作り上げました。豊かさに取り残される人たちへの富の再分配も、ある程度制度として確立して来ました。そこに至るための明確な目標があった訳でもなく、どんな先人の叡知に従った訳でもなく、まさに「神の見えざる手」に導かれるかたちで、言い換えれば「市場原理」に動かされるままに、今日の社会は成立したのだと思います。しかし、市場原理が正常に作動するのは、資源量や法的規制などの制約条件が能う限り少ない状況のもとにおいてでしょう。市場原理の尊重を基本とする資本主義が、国家による統制主義に打ち勝って来たのも、市場の自由なふるまいを許容してくれた地球環境の懐の深さがあったからこそです。ところが、いまやその前提が崩れてしまった。いま私たちが直面している問題は、市場原理をこのまま〈野放し〉にしておいては危ない、という問題です。すでに日本は資本主義国家とは言えないという意見があります。この点で先行しているのはヨーロッパ、特に「社会民主主義」という呼び方で括られている北欧諸国でしょう。手厚い福祉を重い税金が支えている社会、それはそれで美しいスタイルだとは思うけれども、果たしてそれは人類が選択し得る唯一の道なのだろうか? 例えば経済が沸騰している中国のような国が、その方向に舵を切るということはあり得るだろうか? 世界中の貧しい国々が、経済成長のなかで社会民主主義を選択するということがあり得るのだろうか? 私はあり得ないと思う。何故なら、それは他の先進国の豊かさの〈おこぼれ〉で暮らして行くような生き方でもあると思うから。

 むしろこの先私たちが探索しなければならないのは、新しい市場原理、いわば「幸福の市場原理」とでも呼ぶべき新しい概念なのではないだろうか。これが今回の連載のテーマです(書きながらそのことがはっきりして来ました)。市場原理である以上、当然そこには勝者もいれば敗者もいる、イノベーションがあり社会は変化して行く。但し、幸福という目的関数のなかには、環境の保全や再生可能エネルギーの開発といった要素も織り込まれているので、市場での利益の追求が(つまり幸福の追求が)そのまま持続可能な社会の実現にもつながって行くことになる。いかにも絵空事のように聞こえますが、日本がこれから進む方向は、この第四の道(資本主義でも社会主義でも社会民主主義でもない、四番目の道という意味です)しかないと思うのです。原発事故で大きな汚点を残してしまったとは言え、日本にはこれまでも優れた環境技術や省エネ技術で世界の産業を支えて来た実績があります。ブータンというユニークな国が、豊かな自然と仏教の伝統を活かして「幸福の国」というブランドを確立してみせたように、日本はその環境技術や省エネ技術のすべてをかけて、可能な限り少ない資源と環境負荷で可能な限り大きな国民的幸福を産み出す国というブランドを目指す。そのブランドが認知されるようになれば、Japanizationというコトバにも現在とはまったく違った意味が与えられることになると思うのです。

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