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2011年9月 4日 (日)

生産性の問題を考えるために(3)

■ ブータンのGNH政策から学べること

 民主党の新しい党首つまり日本の新しい首相が野田佳彦氏に決まりました。新しい首相には、財政再建派の人よりもデフレ脱却派の人になって欲しかった自分としては残念な気持ちもありますが、少なくとも人前で(演技のように)涕泣する人を国のリーダーとしていただくよりは良かったのではないかと思います。野田さんは財政通だという評価がある一方で、財務省の言いなりになって増税に向けて舵を切るのではないかと言われています。財務大臣だった頃に、すっかり財務官僚に籠絡されてしまったという見方をする人もいます。果たして日本は、新しい首相の下で30年目のデフレに突入するのか? まあ、政治の世界に限らず、リーダーというものは実際になってみないと分からないところがありますから、最初からあまり批判的な見方をするのは止めておきましょう。鳩山さんと菅さんだって、首相になると見事に期待を裏切ってくれた訳です。今度の野田さんだって、いい意味で期待を裏切ってくれるかも知れない訳だから。

 菅さんは首相就任に当たって、「最小不幸社会」というスローガンを掲げました。野田さんはどんなコトバを打ち出してくるのでしょう? (それとも地味な人だから、どんなスローガンも出さないのかな?) 鳩山さんの掲げた「友愛社会」は別格として、その前の岡田さんの時の「日本をあきらめない」にしても、どうも民主党の出して来るキャッチフレーズには後ろ向きのものが多いような気がします。最初に「最小不幸社会」というコトバを聞いた時、新しい首相はずいぶん面白いことを言い出したなと思いました。「最大多数の最大幸福」というのは、功利主義哲学を代表するベンサムの有名なコトバですが、菅さんは幸福を最大化するのではなく、不幸を最小化するのだと言った。これはかなり断固たる政治的宣言だと私は受け止めました。しかし、それにともなって大胆な福祉政策や所得の再配分政策などが進められたのかと言えば、何も行なわれなかった。文字通り何ひとつ実行されなかったのです。その結果、不況のなかで経済格差はさらにひどくなり、震災ということは別にしても、この国では幸福が最小化されると同時に不幸が最大化されてしまった。それが菅政権1年間の総括だと言っても言い過ぎではないと思います。

 いや、今回は低迷している日本の政治のことを書くのではありませんでした、ブータンの「GNH」のことを書こうと思ったのです。ヒマラヤの南麓に位置する小国ブータンでは、多くの国が豊かさの基準として採用しているGDP(国内総生産)とは異なる、一風変わった指標を国の発展の目標としています。それがGNH(国民総幸福:Gross National Happiness)というものです。これは1976年に当時のブータン国王が発案した考え方で、GNHというのはGNP(国民総生産)をもじったネーミングだったのですね(当時はまだGDPではなく、GNPが一般的に使われていました)。世界中の国々が〈生産量〉の増大を競っていた時代に、ブータンは生産量ではなく国民の〈幸福量〉の増大を国の目標とすると宣言した訳です。個人の主観的な尺度でしか測れない筈の幸福量というものを、大真面目で国家の目標にしてしまうところがユニークです。しかし、一定レベル以上の豊かさを達成した社会では、それ以上の富の増大が必ずしも国民の幸福度の向上には結び付かないという最近の研究もあるようで、35年も前に経済発展よりも国民の幸福度の向上を優先させた王様の着眼は、まことに先見の明があったと言わなければならない。これと言った産業も無く、資源も乏しい貧しい国には、それ以外に選択肢が無かったという理由があるのかも知れません。でも、GNHというものの発明によって、世界中に「幸福の国ブータン」というブランドを広めることに成功した訳ですから、その功績は小さいものではないと思います。いや、対外的なブランド価値だけではありません。この国では、アンケートを取ってみると、実際に国民の97%が自分は幸福だと答えているのだそうです。それは美しい自然の恵みや仏教に対する篤い信仰といったもののためだけではないでしょう。国民自身が自国のこのユニークな政策に誇りを持ち、それに深い信頼を寄せているからこそ、それがまた国民の幸福度に反映されるという好循環が成り立っているのだと思います。

 古代中国では、人民が為政者によって統治されていると意識させないのが、本当の良い統治だという考え方がありました。いや、日本だって少し前までは「民はよらしむべし、知らしむべからず」という言葉が政治の中心で生きていたのです。しかし、現代の民主主義国家ではこの思想は通用しません。それはブータンだって同じです。ブータンは2008年に国王自らが王政を廃止して、選挙による議会制民主主義に移行しましたが、それによって従来の政策に方向転換が起こるようなことは一切ありませんでした。30年に亘るGNHの推進が、それだけ深く国民に受け入れられ、浸透していたということなのでしょう。いま私たちがブータンから学べることがあるとすれば、こういうことではないでしょうか。たとえ政治というものが人民を統治するための技術の体系だったとしても、民主主義国家においては、「良き統治」が目指すべき目標とそれを評価するための指標を、政府と国民が共有していなければならない、ということです。(「良き統治」というのは、ブータンのGNH政策の核となる4本柱のひとつです。他の3つは「経済的自立」、「環境保護」、「文化の推進」だそうです。) いま日本では根深い政治不信が国中を覆っていますが、それでは国民がどういう政治を求めているのか、具体的な目標やそれを測る指標を示してみろと言われても誰も答えられない。この先これについて国民的な合意が形成されるという見通しもありません。でも、それが無いということは、言い換えれば私たちは自分たちにとっての「良い政治」とは何かを分かっていないということなのではないでしょうか? それも分かっていないのに、現在の首相や政権を批判するというのも変な話だという気がします。

 ここ2週間ほどブータンのGNHについて書かれた本や文章をいろいろ読んでいるのですが、そのなかでよく出会うこんなレトリックがあります。GDPという指標に関する考察です。GDPというのは、その国のなかで動いたお金の総額のことですから、例えば自殺や交通事故や離婚というような不幸な出来事だって、それにともなってお金が動けば、それはすべてGDPに計上されてしまう(葬儀代や賠償金や訴訟費用などとして)。その一方で、例えば家庭内で行なわれている家事や育児や介護などは、価値ある重要な活動であるにも関わらずGDPには一切算入されない。そういう矛盾をGDPは本質的に持っているというのです。言われてみれば、なるほどその通りですね。このことひとつ取っても、GDPのような単純なひとつの指標で国の目標を設定することには無理があることが分かります。ブータンのGNHというものは、決して単なる抽象的な理念ではなく、測定可能な具体的な指標として体系づけられたもののようです。例えば「環境保護」という目標を具体化するために、ブータンでは国土の60%以上を森林として維持することを国の憲法で定めており、それ以上の開発が行なわれないように歯止めをかけています。それは単なる自然愛護の精神からではなく、恵まれた森林資源を将来に継承すると同時に、美しい自然という観光資源を守るためでもあるのです。また健康と教育は幸福の増大に欠かせないものですから、ひとり当たりのGDPがとても低い国であるにもかかわらず、医療費や教育費は無料になっているのだそうです。(これは驚くべきことですね。何故豊かな国である筈の日本やアメリカでそれが実現出来ないのでしょう?) 要するにブータンでは、国民の幸福量を最大化するという観点から(その国民には現在の国民だけでなく、未来の国民も含まれます)、政策が優先順位づけされている訳です。

 戦後の日本は、一貫して「成長」という目標に向けて国のリソースを集中させ、ここまでの経済発展を遂げて来た訳です。それを政策的に担って来たのが自民党であり、その最後の完成形(あるいは最後のあだ花?)が小泉構造改革だったのだと思います。民主党による政権交代は、何よりもこの経済成長至上主義に対する反動として理解すべきものでしょう。ところが主役であった民主党は、「コンクリートから人へ」だとか「最小不幸社会」といったような曖昧で気分的なスローガンを繰り出すばかりで、政権政党として具体的に何を目指すのかを明確に示せなかった。欠けていたのは目標設定とそれを測る指標の定義だったのではないかと思います。もしも政権交代のマニフェストのなかに、これからはGDPの拡大ではなく、GNHの増大を目指すと書かれていたらどうだったろう、そんなことを想像したくなります。それが日本版GNHとしてユニークなもので、私たち国民の心にしっくり来るものであったならば、その後の民主党の政策運営もずいぶん違ったものになっていたのではないか。自民党の掲げていた「成長」に対抗する次の国家戦略として、ふさわしいものは何でしょう? おそらく「福祉」や「環境」や「持続可能性」といったものでは弱いのです。それは経済成長がもたらした歪みを修正するための要素ではあっても、それ自体が自己目的とはなり得ないものだからです。だったら何が成長の代わりに来るのか? 私は「幸福」以外にはあり得ないと思います。幸福というコトバのなかには、成長も福祉も健康も平和も持続可能性もすべてが包含されているからです。成長至上主義には反論出来ても、幸福至上主義には誰も反論出来ません。そういう意味で、これは史上最強の政治的スローガンだと言ってもいい。国家戦略にGNHを掲げたブータン政府のしたたかさを、日本はもっと学んでもいいのではないだろうか。

 今回の記事は、具体的な日本版GNHの提案が目的ではありませんから、この話題にこれ以上深入りするのは止めましょう。提案という意味では、これからは「お金換算」ではなく、「幸福換算」で考えるやり方もあるのではないかという、そのことだけを指摘しておきたいと思います。そして今回のテーマは「生産性」についてですから、お金換算ではなく幸福換算で考えた場合、生産性についてはどう捉え直すべきかというのが次の問題になります。もともと生産性(Productivity)の"P"は、GDP(Gross Domestic Product)の"P"と同じ意味ですから、「幸福量増大のための生産性」という言い方には矛盾があるのかも知れません。だとすれば、生産性というコトバを使ったのは適切ではなかったということになります。しかし、限られた資源や制約条件のなかで、いかに国民の幸福度を高めて行くかの効率性の問題と言い直せば、これはまさに政治というものの一番本質的なテーマだとも考えられる。これだけ円高が進み、財政が悪化したなかで、国として今後も金額換算の生産性を高めて行くことは容易ではないと思います。しかし、幸福換算での生産性を高めて行くことなら、工夫次第で出来るかも知れない。そこに生産性の問題を解く鍵があるのではないかと考える訳です。

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