« 生産性の問題を考えるために(4) | トップページ | 生産性の問題を考えるために(6) »

2011年9月19日 (月)

生産性の問題を考えるために(5)

■ 「幸福の市場原理」は可能か?

 ここまでの考察で問題のありかははっきりして来ましたが、同時に私にとっては苦手な領域に入り込んでしまったようです。テーマが「市場原理」ということになると、次に出て来るのは「パレート最適」だとか「ナッシュ均衡」だとかいった、私が大嫌いな数学的な問題であるに違いないからです(苦笑)。でも、ここで考察を止めて引き返す訳にも行きませんから、苦手な部分はなんとか回避しながら、もう少し考えを先に進めることにしましょう。市場原理というコトバを使うと、掟のない弱肉強食の世界といったものを連想する人も多いのではないかと思います。しかし、もともと市場原理という考え方には、倫理的な意味合いは含まれていません。各人が経済合理的に行動すれば(つまりめいめいが勝手に自分の利益を追求すれば)、社会の経済効率性は最大化するということだけを言っています。(経済格差の是正というのはこれとは別次元の問題です。) このことを近代経済学の祖であるアダム・スミスは「神の見えざる手」と呼んだのでしたね。私が「幸福の市場原理」と呼ぶのもそれと同じ意味です。社会を構成する各人が、めいめい勝手に自分の幸福を追求すれば、社会の幸福量は最大化するという原則のことを指しています。ただ、経済の市場原理と幸福の市場原理が異なるところは、前者が社会のなかで実際に観察出来るものであるのに対して、後者はまだ世の中に存在していない理念的なものに過ぎないという点です。要するに、そんなものがあったらいいなと私が考えているだけということです。

 しかし、これが可能な筈だと私が考える理由も簡単です。幸福の追求ということは、利潤の追求ということ以上に、人間関係のなかで相互依存的なものだからです。時として「他人の不幸は蜜の味」といった類いの幸福もない訳でははありませんが、総じて幸福というものは周りの人と分かち合う性質のものだと言えるでしょう。逆に周りに不幸な人がいるのを見れば、私たちは自分だけが幸福であることに良心の呵責を感じるように出来ている。「この世にひとりでも不幸な人がいる限り、本当の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の有名な言葉がありますが、私はこれを詩の一節としてではなく、幸福というものの属性に関する客観的な観察記録として読みます。そしてこれを幸福の市場原理を成り立たせるための基本原則として位置付けたいと思うのです。考えてみれば、経済における市場原理だって、それが成り立つためには最低限のルールが必要な訳です。ルールの一部は法律として定式化されていますが、それよりもっと大きな部分が法制化されていない商習慣やビジネスマナーとして存在しているものと思われます。そしてその根本には、利潤追求だけではない、互恵的な関係を目指す強い意志が存在しているのではないか。何が言いたいのかというと、市場原理というものは経済の領域において独立して成り立っている訳ではなくて、その根本には(実体は明らかではないけれども)幸福の市場原理とでも呼ぶべきものがまず存在しており、それがたまたまお金(財貨)という計測可能な指標で可視化された場合に、経済の市場原理として私たちに認識されるだけではないかということなのです。神の見えざる手の正体は、経済の仕組みのなかにではなく、社会的動物としての私たちの本能のなかにこそある、そういう仮説を立ててみたい気がします。

 要するに経済学でいう市場原理というものは、私が発見した(?)「幸福の市場原理」の一部分に過ぎない、ということなんですね。ちょっと強引な論理展開でしょうか? でも、自分としてはこのアイデアがなかなか気に入ったので、もう少しこの路線で考えを進めたいと思います。私たちがお金を欲しい理由は、お金というものが自由や権力や快適さや、要するに私たちが〈幸福〉と考えるものを与えてくれるからでしょう。しかし、現在のように社会全体がある程度の経済的豊かさを実現すると、お金だけが幸福の尺度ではなくなって来ます。私たちが震災の義援金を送ったり、被災地にボランティア活動に出掛けたりすることは、経済的な視点からすれば合理的な行動とは言えません。が、もっと広い幸福の市場原理という視点からすれば、十分合理的なものだとも考えられる。よく寄付やボランティアというものを、偽善的な行為として捉える見方がありますよね。私も若い頃はそのような見方をしていたような気がしますが、こういうのは青臭い不毛な議論です。どんな献身的な行動や利他的な行為だって、心理学的に見れば自己満足を追求しているに過ぎない、そんなことは当たり前の話です。誰も他人の痛みを直接痛んだり、他人の喜びをその人の心を通して喜ぶことは出来ないのですから。人間が自己満足のためにしか行動出来ないというのは、人間という生き物に特有の性質ではありません、個体として生存している地球型生物に共通のいわば所与の前提条件です。――あれ? 何の話をしてるんだっけ? そうだ、そういう条件のなかにあっても市場原理のようなものが(すなわち互恵的な予定調和の世界が)成り立つのは素晴らしいことだし、それを経済学者の専売特許にしておくのはもったいないということが言いたかったのでした。

 ひとつ例を挙げましょう。原発事故のあと、多くの人が脱原発と再生可能エネルギーへの転換を主張するようになりました。これに対して一部の経済学者や経済評論家といった人たちが冷笑的とも言える批判を加えています。そんな主張は経済効率というものを理解していない愚か者の戯言だというのです。が、そういう批判こそ、従来の狭い市場原理のなかでのみ通用する意見だと私は考えています。脱原発を訴える人たち(私もそのひとり)は、別に不幸になることと引き換えに原発を諦めようと考えている訳ではないからです。単純なコスト比較には乗らないけれども、そこにはもっと複雑な損得勘定の計算が働いている筈です。愛する国土が半永久的に汚染されるなどというリスクは、電力会社の支払う賠償額では見積もれないものですし、増え続けるばかりの核廃棄物のことを考えれば、将来世代にそんなツケを残すことは自分たちの良心が許さないと感じている。そこまで含めた大きな損得勘定、すなわち幸福量の計算が(意識的にではないにせよ)働いているからこそ、世論は脱原発に動いているとも考えられる訳です。これは原発問題にとどまりません、今日、環境問題や資源問題は、国境や世代を超えた人類共通の問題になっていますが、それを経済的効率主義だけで解決することは不可能です。もちろん厳しい環境規制を敷いたり、資源保護を進めたりすることは必要でしょう。しかし、そうした抑制的・禁欲的な政策だけで、これらの問題が解決出来るとはとても思えません。それは幸福を求める人間の本性に反したことだから。むしろ地球の有限性という制約条件のなかで、いかに最大の幸福を実現して行くかというふうに問題設定を転換させた方がいい。

 だから重要なのは幸福を目的関数とする効率の問題であり、生産性の問題であるということなのですが…、また議論が堂々巡りをしてますね。少し視点を変えましょう。幸福量を最大化すると言っても、そんなものをどうやって計測すればいいのでしょう? これは功利主義哲学が「最大多数の最大幸福」というスローガンを打ち出して以来の古い問題です。狭義の市場原理、つまり経済的な効用を最大化するという意味では、話は簡単です。お金を尺度に出来るからです。現在の日本のGDPは約500兆円ですが、遊んでいる生産設備をフル回転させ、潜在的な需要をすべて掘り起こせば、最大600兆円くらいまで行くという計算結果が出たとしましょう。これが実現した時、日本経済はパレート最適な状態になったというのでしたね。それと同様のことが「幸福量」の計算においても成り立つのだろうか? 一番簡単な指標を考えてみます。例えば10歳以上のすべての国民にアンケートを取って、現在の幸福度を100点満点で採点してもらい、その総平均を取ったとします。その数字が最大化されるような政策は、良い政策と呼べるだろうか? ここでひとつ問題があります。平均値では国民のあいだの「幸福格差」が測れないという問題です(GDPの数字に経済格差が反映されないのと同じです)。例えば100人のうち99人が幸福度数を100点と申告しても、残るひとりの幸福度が0点だったら、平均値は99点です。この場合と100人全員が95点を付けた場合とでは、どちらがより幸福な社会と呼べるだろうか? これは「最大多数の最大幸福」という命題を考える時、いつもつきまとう疑問です。少数者の犠牲の上に成り立つ多数者の幸福は認められるかという問題と言い換えてもいいです。(これはまたサンデル教授流の「正義」の問題でもありますね。)

 難しい問題ですが、ヒントはありそうな気がします。経済格差は経済の市場原理そのものによって是正されることはありません。それを是正するには、あくまで政治の介入が必要です。しかし、幸福の市場原理の方は、先ほど宮沢賢治の言葉を引いて説明した基本原則がありますから、市場原理そのもののなかに格差を是正する機能が内蔵されているとも考えられます。私たちの幸福が誰かの大きな犠牲の上に成り立っていることを知ったら、いまの幸福そのものが(台無しとは言えないまでも?)損なわれてしまう。これは個人の経済格差や幸福格差だけの問題ではありません、世代間格差や南北格差といった大きな問題でも同じことが言えるでしょう。また環境問題や原発問題だって、将来の世代に犠牲を強いているという点で、同じ枠組みで考えることが出来る問題だと思います。経済の市場原理から幸福の市場原理への転換が有効だと私が考える理由は、それが自然な人間性に基づいた新しい社会原理となり得る可能性を秘めているからです。――しかし、困ったな、机上の空論がどんどんエスカレートしているぞ。どこに着地点を探せばいいんだろう? 問題は、幸福の市場原理という着想を具体的な政策なり社会システムなりに落とし込む方法についてです。もっと分かりやすく言えば、経済の市場原理における〈貨幣〉に相当するような価値の指標が、幸福の市場原理にもあり得るか、ということです。例えばこのブログで何度も考察して来た減価貨幣やベーシックインカムといったツールは、そこに何か新しいヒントを与えてくれるものなのでしょうか?

|

« 生産性の問題を考えるために(4) | トップページ | 生産性の問題を考えるために(6) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/52777158

この記事へのトラックバック一覧です: 生産性の問題を考えるために(5):

« 生産性の問題を考えるために(4) | トップページ | 生産性の問題を考えるために(6) »