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2011年9月19日 (月)

生産性の問題を考えるために(5)

■ 「幸福の市場原理」は可能か?

 ここまでの考察で問題のありかははっきりして来ましたが、同時に私にとっては苦手な領域に入り込んでしまったようです。テーマが「市場原理」ということになると、次に出て来るのは「パレート最適」だとか「ナッシュ均衡」だとかいった、私が大嫌いな数学的な問題であるに違いないからです(苦笑)。でも、ここで考察を止めて引き返す訳にも行きませんから、苦手な部分はなんとか回避しながら、もう少し考えを先に進めることにしましょう。市場原理というコトバを使うと、掟のない弱肉強食の世界といったものを連想する人も多いのではないかと思います。しかし、もともと市場原理という考え方には、倫理的な意味合いは含まれていません。各人が経済合理的に行動すれば(つまりめいめいが勝手に自分の利益を追求すれば)、社会の経済効率性は最大化するということだけを言っています。(経済格差の是正というのはこれとは別次元の問題です。) このことを近代経済学の祖であるアダム・スミスは「神の見えざる手」と呼んだのでしたね。私が「幸福の市場原理」と呼ぶのもそれと同じ意味です。社会を構成する各人が、めいめい勝手に自分の幸福を追求すれば、社会の幸福量は最大化するという原則のことを指しています。ただ、経済の市場原理と幸福の市場原理が異なるところは、前者が社会のなかで実際に観察出来るものであるのに対して、後者はまだ世の中に存在していない理念的なものに過ぎないという点です。要するに、そんなものがあったらいいなと私が考えているだけということです。

 しかし、これが可能な筈だと私が考える理由も簡単です。幸福の追求ということは、利潤の追求ということ以上に、人間関係のなかで相互依存的なものだからです。時として「他人の不幸は蜜の味」といった類いの幸福もない訳でははありませんが、総じて幸福というものは周りの人と分かち合う性質のものだと言えるでしょう。逆に周りに不幸な人がいるのを見れば、私たちは自分だけが幸福であることに良心の呵責を感じるように出来ている。「この世にひとりでも不幸な人がいる限り、本当の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の有名な言葉がありますが、私はこれを詩の一節としてではなく、幸福というものの属性に関する客観的な観察記録として読みます。そしてこれを幸福の市場原理を成り立たせるための基本原則として位置付けたいと思うのです。考えてみれば、経済における市場原理だって、それが成り立つためには最低限のルールが必要な訳です。ルールの一部は法律として定式化されていますが、それよりもっと大きな部分が法制化されていない商習慣やビジネスマナーとして存在しているものと思われます。そしてその根本には、利潤追求だけではない、互恵的な関係を目指す強い意志が存在しているのではないか。何が言いたいのかというと、市場原理というものは経済の領域において独立して成り立っている訳ではなくて、その根本には(実体は明らかではないけれども)幸福の市場原理とでも呼ぶべきものがまず存在しており、それがたまたまお金(財貨)という計測可能な指標で可視化された場合に、経済の市場原理として私たちに認識されるだけではないかということなのです。神の見えざる手の正体は、経済の仕組みのなかにではなく、社会的動物としての私たちの本能のなかにこそある、そういう仮説を立ててみたい気がします。

 要するに経済学でいう市場原理というものは、私が発見した(?)「幸福の市場原理」の一部分に過ぎない、ということなんですね。ちょっと強引な論理展開でしょうか? でも、自分としてはこのアイデアがなかなか気に入ったので、もう少しこの路線で考えを進めたいと思います。私たちがお金を欲しい理由は、お金というものが自由や権力や快適さや、要するに私たちが〈幸福〉と考えるものを与えてくれるからでしょう。しかし、現在のように社会全体がある程度の経済的豊かさを実現すると、お金だけが幸福の尺度ではなくなって来ます。私たちが震災の義援金を送ったり、被災地にボランティア活動に出掛けたりすることは、経済的な視点からすれば合理的な行動とは言えません。が、もっと広い幸福の市場原理という視点からすれば、十分合理的なものだとも考えられる。よく寄付やボランティアというものを、偽善的な行為として捉える見方がありますよね。私も若い頃はそのような見方をしていたような気がしますが、こういうのは青臭い不毛な議論です。どんな献身的な行動や利他的な行為だって、心理学的に見れば自己満足を追求しているに過ぎない、そんなことは当たり前の話です。誰も他人の痛みを直接痛んだり、他人の喜びをその人の心を通して喜ぶことは出来ないのですから。人間が自己満足のためにしか行動出来ないというのは、人間という生き物に特有の性質ではありません、個体として生存している地球型生物に共通のいわば所与の前提条件です。――あれ? 何の話をしてるんだっけ? そうだ、そういう条件のなかにあっても市場原理のようなものが(すなわち互恵的な予定調和の世界が)成り立つのは素晴らしいことだし、それを経済学者の専売特許にしておくのはもったいないということが言いたかったのでした。

 ひとつ例を挙げましょう。原発事故のあと、多くの人が脱原発と再生可能エネルギーへの転換を主張するようになりました。これに対して一部の経済学者や経済評論家といった人たちが冷笑的とも言える批判を加えています。そんな主張は経済効率というものを理解していない愚か者の戯言だというのです。が、そういう批判こそ、従来の狭い市場原理のなかでのみ通用する意見だと私は考えています。脱原発を訴える人たち(私もそのひとり)は、別に不幸になることと引き換えに原発を諦めようと考えている訳ではないからです。単純なコスト比較には乗らないけれども、そこにはもっと複雑な損得勘定の計算が働いている筈です。愛する国土が半永久的に汚染されるなどというリスクは、電力会社の支払う賠償額では見積もれないものですし、増え続けるばかりの核廃棄物のことを考えれば、将来世代にそんなツケを残すことは自分たちの良心が許さないと感じている。そこまで含めた大きな損得勘定、すなわち幸福量の計算が(意識的にではないにせよ)働いているからこそ、世論は脱原発に動いているとも考えられる訳です。これは原発問題にとどまりません、今日、環境問題や資源問題は、国境や世代を超えた人類共通の問題になっていますが、それを経済的効率主義だけで解決することは不可能です。もちろん厳しい環境規制を敷いたり、資源保護を進めたりすることは必要でしょう。しかし、そうした抑制的・禁欲的な政策だけで、これらの問題が解決出来るとはとても思えません。それは幸福を求める人間の本性に反したことだから。むしろ地球の有限性という制約条件のなかで、いかに最大の幸福を実現して行くかというふうに問題設定を転換させた方がいい。

 だから重要なのは幸福を目的関数とする効率の問題であり、生産性の問題であるということなのですが…、また議論が堂々巡りをしてますね。少し視点を変えましょう。幸福量を最大化すると言っても、そんなものをどうやって計測すればいいのでしょう? これは功利主義哲学が「最大多数の最大幸福」というスローガンを打ち出して以来の古い問題です。狭義の市場原理、つまり経済的な効用を最大化するという意味では、話は簡単です。お金を尺度に出来るからです。現在の日本のGDPは約500兆円ですが、遊んでいる生産設備をフル回転させ、潜在的な需要をすべて掘り起こせば、最大600兆円くらいまで行くという計算結果が出たとしましょう。これが実現した時、日本経済はパレート最適な状態になったというのでしたね。それと同様のことが「幸福量」の計算においても成り立つのだろうか? 一番簡単な指標を考えてみます。例えば10歳以上のすべての国民にアンケートを取って、現在の幸福度を100点満点で採点してもらい、その総平均を取ったとします。その数字が最大化されるような政策は、良い政策と呼べるだろうか? ここでひとつ問題があります。平均値では国民のあいだの「幸福格差」が測れないという問題です(GDPの数字に経済格差が反映されないのと同じです)。例えば100人のうち99人が幸福度数を100点と申告しても、残るひとりの幸福度が0点だったら、平均値は99点です。この場合と100人全員が95点を付けた場合とでは、どちらがより幸福な社会と呼べるだろうか? これは「最大多数の最大幸福」という命題を考える時、いつもつきまとう疑問です。少数者の犠牲の上に成り立つ多数者の幸福は認められるかという問題と言い換えてもいいです。(これはまたサンデル教授流の「正義」の問題でもありますね。)

 難しい問題ですが、ヒントはありそうな気がします。経済格差は経済の市場原理そのものによって是正されることはありません。それを是正するには、あくまで政治の介入が必要です。しかし、幸福の市場原理の方は、先ほど宮沢賢治の言葉を引いて説明した基本原則がありますから、市場原理そのもののなかに格差を是正する機能が内蔵されているとも考えられます。私たちの幸福が誰かの大きな犠牲の上に成り立っていることを知ったら、いまの幸福そのものが(台無しとは言えないまでも?)損なわれてしまう。これは個人の経済格差や幸福格差だけの問題ではありません、世代間格差や南北格差といった大きな問題でも同じことが言えるでしょう。また環境問題や原発問題だって、将来の世代に犠牲を強いているという点で、同じ枠組みで考えることが出来る問題だと思います。経済の市場原理から幸福の市場原理への転換が有効だと私が考える理由は、それが自然な人間性に基づいた新しい社会原理となり得る可能性を秘めているからです。――しかし、困ったな、机上の空論がどんどんエスカレートしているぞ。どこに着地点を探せばいいんだろう? 問題は、幸福の市場原理という着想を具体的な政策なり社会システムなりに落とし込む方法についてです。もっと分かりやすく言えば、経済の市場原理における〈貨幣〉に相当するような価値の指標が、幸福の市場原理にもあり得るか、ということです。例えばこのブログで何度も考察して来た減価貨幣やベーシックインカムといったツールは、そこに何か新しいヒントを与えてくれるものなのでしょうか?

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2011年9月11日 (日)

生産性の問題を考えるために(4)

■ 基本的な認識

 今回の連載では、書いている本人もまるで結論が見えないなかで、手探りで考察を続けています。基本的な課題認識はこういうことです。私たちが暮らしているこの21世紀の社会は、高度な経済的発展を遂げた結果として成り立っている社会です。そのために私たちの暮らしは、過去のどんな時代よりも豊かになりましたが、一方で環境の悪化や資源の枯渇といった問題にも直面することになりました。たまたま日本で起こってしまった原発事故は、いかに人類がエネルギーや資源を贅沢に消費する体質になってしまったかを反省させる機会でもありました。いまはほとんどの先進国が財政不安を抱えており、国民の経済格差は広がる一方といった状況です。これは現在がたまたま景気の後退期にあるというだけでなく、もっと本質的な変化が世界に起こっているのではないかという気がします。ひと言で言うならば、人間の経済活動があまりに拡大した結果、地球という星のキャパシティを超えてしまったのではないかということです。これは純粋に規模の問題であって、例えば資本主義の経済システムに問題があった訳ではありません。いつかは人類が直面しなければならなかった問題に、いままさに直面しているというだけのことでしょう。マルクスだってケインズだって、地球の有限性という問題がまだ顕在化していなかった時代の人です。現在でもエコノミストと呼ばれる人の多くは、景気の循環だとか金融政策の有効性だとかいった問題について、従来の枠組みのなかで議論を戦わせている。でも、それって沈没しかけている船のなかで、明日の乗船運賃改定について議論しているようなものではないでしょうか?

 多くの人が同じように感じていると思うのですが、今日、人類にとって一番重要な問題というものがあるとすれば、この「地球のキャパシティ問題」以外には考えられません。将来に亘って再生可能な環境・資源・エネルギーの範囲内で、すなわち地球自らが備えている〈治癒力〉を超えない範囲内で、ヒト社会のあり方を根本的に見直して行くこと、このこと以上に差し迫った問題があるとは私には思われないのです。むろんそんなことは現代人にとっては常識であって、これに対してはすでに多くの取り組みがなされているのも事実です。CO2の削減や再生可能エネルギーへのシフトといったことには、今後も本気で取り組んでいかなければならない。問題はそれが現在の〈病状の進行〉の速さにとても追い付きそうにないということなのです。信じられないことですが、いまもこの地球上では年間1.2%の割合で人口が増え続けています。私が子供の頃(もう半世紀近くも昔のことです)、世界の人口は30数億人と教わりました。いまやそれが70億人に達しようとしています。2050年には90億人を超すという予想もあります。まさに人口が爆発しているのです。すでに人口減に転じている先進国では、持続可能な経済サイクルが実現したとしても、地球全体としてどのように持続可能な未来をデザインして行けばいいのだろう? まあ、地球規模での人口増加という問題については別途考える必要がありますが、とにかく同時代の70億人が限られた資源のなかで生きて行くためには、生産性の問題は避けて通ることが出来ない。それは地球が再生産可能な資源量だけを使って、いかに一定水準の豊かさを(あるいは幸福を)実現して行くかという、最適解を求める問題に他なりません。

 こういった大きな問題を考えるためには、自分には知識も能力(脳力?)も不足していることは自覚しています。しかし、このブログの基本スタンスは、主張ではなく探究です。他人を説得することではなく、自分を納得させることなのです。記事を書き始めた6年前に比べれば、遅々とした歩みではあったかも知れませんが、多少は自分の思想が進歩して来たのではないかと思っています。ところがここに来て、壁に突き当たっているのを感じている。何もかも震災のせいにするのは良くないけれども、3.11を経た目で見ると、これまで自分が考えて来たことがいかにも机上の理想論でしかなかったような気がしているのです。例えば、科学技術や工業技術が進歩して、生産性が高まった社会においては、ベーシックインカムのようなものが実現するのは必然的な成り行きではないかと私は考えていました。しかし、経済がグローバル化した今日では、一国のなかでいくら産業の効率化を進めても、豊かさの果実をすべて国内に留めておくことは出来ません。国内に投資先が無くなった企業は、発展が見込まれる途上国に投資を始めるからです。もしも政府が高い法人税を課して、富の再分配政策を採るならば、今度は企業そのものが海外に逃げて行ってしまう。いま先進国で起こっているのはそういうことです。要するに、世界は長い長い均質化の時代に入ったのです。貧しかった国々が豊かになって行くのと反比例して、一定の豊かさを実現した国々ではこれから貧しさに向けた後退が始まる。すでに日本では先進国の先陣を切って、20年も前からそれが始まっていた訳ですが、ここに来て欧米諸国もそのレールに乗って来たのだと思います。最近よく耳にする「Japanization」というコトバは、つまりそのことを指しています。

 もしもそれを世界の調和ある発展の過程と捉えるならば、豊かな国に生を享けた私たちには、現在の経済的停滞を当たり前のものとして受け入れる覚悟が求められているのかも知れません。しかし、地球温暖化が人類共通の課題となり、原子力エネルギーの危険性が人類共通の認識となってしまったいま、そんな〈調和ある発展〉なんてものは誰も信じていません。もしもいくらCO2を排出しても気候に何の影響もなく、原発のひとつやふたつ爆発しても移住先などいくらでもあるという状況ならば、つまり地球のキャパシティが無限大であるならば、この先も「神の見えざる手」に導かれて、人類は「いけいけどんどん」で発展して行けるのかも知れません。しかし、状況は変わってしまった。地球が与えてくれるものが有限である以上、私たちはこれから経済発展して行かなければならない世界の最貧国をも含めて、限られた資源のなかでなんとかやりくりをして行く方法を見出ださなければならないのです。もしも世界中が(前回取り上げた)ブータンのような国ばかりだったなら良いのですが、実際には経済発展のためには多少の環境悪化や原発推進のリスクも辞さないという国の方が多いのです。京都議定書には中国やインドのような新興の経済大国は批准していません。すでに経済発展を遂げた先進国が、自分たちのやって来たことを棚に上げて、これから発展する国々に厳しい環境規制を課すことなど出来る訳がない。日本やアメリカやEU諸国は、ここまで地球環境を悪化させてしまった先進国の義務として、ましてや日本は、放射性物質を環境中にばらまいてしまった元凶国の責務として、これから発展して行く国々に対しては大きな責任を負っていると考えなければなりません。

 また大きな風呂敷を広げていますね。書くべき内容が無いときほど、レトリックが先行してしまう。悪い癖です。でも、今回はとりあえずこの方向で議論をまとめてしまいましょう。とにかく人類は、長い歴史を通して多くの知識や技術を蓄積して、ここまで豊かな社会を作り上げました。豊かさに取り残される人たちへの富の再分配も、ある程度制度として確立して来ました。そこに至るための明確な目標があった訳でもなく、どんな先人の叡知に従った訳でもなく、まさに「神の見えざる手」に導かれるかたちで、言い換えれば「市場原理」に動かされるままに、今日の社会は成立したのだと思います。しかし、市場原理が正常に作動するのは、資源量や法的規制などの制約条件が能う限り少ない状況のもとにおいてでしょう。市場原理の尊重を基本とする資本主義が、国家による統制主義に打ち勝って来たのも、市場の自由なふるまいを許容してくれた地球環境の懐の深さがあったからこそです。ところが、いまやその前提が崩れてしまった。いま私たちが直面している問題は、市場原理をこのまま〈野放し〉にしておいては危ない、という問題です。すでに日本は資本主義国家とは言えないという意見があります。この点で先行しているのはヨーロッパ、特に「社会民主主義」という呼び方で括られている北欧諸国でしょう。手厚い福祉を重い税金が支えている社会、それはそれで美しいスタイルだとは思うけれども、果たしてそれは人類が選択し得る唯一の道なのだろうか? 例えば経済が沸騰している中国のような国が、その方向に舵を切るということはあり得るだろうか? 世界中の貧しい国々が、経済成長のなかで社会民主主義を選択するということがあり得るのだろうか? 私はあり得ないと思う。何故なら、それは他の先進国の豊かさの〈おこぼれ〉で暮らして行くような生き方でもあると思うから。

 むしろこの先私たちが探索しなければならないのは、新しい市場原理、いわば「幸福の市場原理」とでも呼ぶべき新しい概念なのではないだろうか。これが今回の連載のテーマです(書きながらそのことがはっきりして来ました)。市場原理である以上、当然そこには勝者もいれば敗者もいる、イノベーションがあり社会は変化して行く。但し、幸福という目的関数のなかには、環境の保全や再生可能エネルギーの開発といった要素も織り込まれているので、市場での利益の追求が(つまり幸福の追求が)そのまま持続可能な社会の実現にもつながって行くことになる。いかにも絵空事のように聞こえますが、日本がこれから進む方向は、この第四の道(資本主義でも社会主義でも社会民主主義でもない、四番目の道という意味です)しかないと思うのです。原発事故で大きな汚点を残してしまったとは言え、日本にはこれまでも優れた環境技術や省エネ技術で世界の産業を支えて来た実績があります。ブータンというユニークな国が、豊かな自然と仏教の伝統を活かして「幸福の国」というブランドを確立してみせたように、日本はその環境技術や省エネ技術のすべてをかけて、可能な限り少ない資源と環境負荷で可能な限り大きな国民的幸福を産み出す国というブランドを目指す。そのブランドが認知されるようになれば、Japanizationというコトバにも現在とはまったく違った意味が与えられることになると思うのです。

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2011年9月 4日 (日)

生産性の問題を考えるために(3)

■ ブータンのGNH政策から学べること

 民主党の新しい党首つまり日本の新しい首相が野田佳彦氏に決まりました。新しい首相には、財政再建派の人よりもデフレ脱却派の人になって欲しかった自分としては残念な気持ちもありますが、少なくとも人前で(演技のように)涕泣する人を国のリーダーとしていただくよりは良かったのではないかと思います。野田さんは財政通だという評価がある一方で、財務省の言いなりになって増税に向けて舵を切るのではないかと言われています。財務大臣だった頃に、すっかり財務官僚に籠絡されてしまったという見方をする人もいます。果たして日本は、新しい首相の下で30年目のデフレに突入するのか? まあ、政治の世界に限らず、リーダーというものは実際になってみないと分からないところがありますから、最初からあまり批判的な見方をするのは止めておきましょう。鳩山さんと菅さんだって、首相になると見事に期待を裏切ってくれた訳です。今度の野田さんだって、いい意味で期待を裏切ってくれるかも知れない訳だから。

 菅さんは首相就任に当たって、「最小不幸社会」というスローガンを掲げました。野田さんはどんなコトバを打ち出してくるのでしょう? (それとも地味な人だから、どんなスローガンも出さないのかな?) 鳩山さんの掲げた「友愛社会」は別格として、その前の岡田さんの時の「日本をあきらめない」にしても、どうも民主党の出して来るキャッチフレーズには後ろ向きのものが多いような気がします。最初に「最小不幸社会」というコトバを聞いた時、新しい首相はずいぶん面白いことを言い出したなと思いました。「最大多数の最大幸福」というのは、功利主義哲学を代表するベンサムの有名なコトバですが、菅さんは幸福を最大化するのではなく、不幸を最小化するのだと言った。これはかなり断固たる政治的宣言だと私は受け止めました。しかし、それにともなって大胆な福祉政策や所得の再配分政策などが進められたのかと言えば、何も行なわれなかった。文字通り何ひとつ実行されなかったのです。その結果、不況のなかで経済格差はさらにひどくなり、震災ということは別にしても、この国では幸福が最小化されると同時に不幸が最大化されてしまった。それが菅政権1年間の総括だと言っても言い過ぎではないと思います。

 いや、今回は低迷している日本の政治のことを書くのではありませんでした、ブータンの「GNH」のことを書こうと思ったのです。ヒマラヤの南麓に位置する小国ブータンでは、多くの国が豊かさの基準として採用しているGDP(国内総生産)とは異なる、一風変わった指標を国の発展の目標としています。それがGNH(国民総幸福:Gross National Happiness)というものです。これは1976年に当時のブータン国王が発案した考え方で、GNHというのはGNP(国民総生産)をもじったネーミングだったのですね(当時はまだGDPではなく、GNPが一般的に使われていました)。世界中の国々が〈生産量〉の増大を競っていた時代に、ブータンは生産量ではなく国民の〈幸福量〉の増大を国の目標とすると宣言した訳です。個人の主観的な尺度でしか測れない筈の幸福量というものを、大真面目で国家の目標にしてしまうところがユニークです。しかし、一定レベル以上の豊かさを達成した社会では、それ以上の富の増大が必ずしも国民の幸福度の向上には結び付かないという最近の研究もあるようで、35年も前に経済発展よりも国民の幸福度の向上を優先させた王様の着眼は、まことに先見の明があったと言わなければならない。これと言った産業も無く、資源も乏しい貧しい国には、それ以外に選択肢が無かったという理由があるのかも知れません。でも、GNHというものの発明によって、世界中に「幸福の国ブータン」というブランドを広めることに成功した訳ですから、その功績は小さいものではないと思います。いや、対外的なブランド価値だけではありません。この国では、アンケートを取ってみると、実際に国民の97%が自分は幸福だと答えているのだそうです。それは美しい自然の恵みや仏教に対する篤い信仰といったもののためだけではないでしょう。国民自身が自国のこのユニークな政策に誇りを持ち、それに深い信頼を寄せているからこそ、それがまた国民の幸福度に反映されるという好循環が成り立っているのだと思います。

 古代中国では、人民が為政者によって統治されていると意識させないのが、本当の良い統治だという考え方がありました。いや、日本だって少し前までは「民はよらしむべし、知らしむべからず」という言葉が政治の中心で生きていたのです。しかし、現代の民主主義国家ではこの思想は通用しません。それはブータンだって同じです。ブータンは2008年に国王自らが王政を廃止して、選挙による議会制民主主義に移行しましたが、それによって従来の政策に方向転換が起こるようなことは一切ありませんでした。30年に亘るGNHの推進が、それだけ深く国民に受け入れられ、浸透していたということなのでしょう。いま私たちがブータンから学べることがあるとすれば、こういうことではないでしょうか。たとえ政治というものが人民を統治するための技術の体系だったとしても、民主主義国家においては、「良き統治」が目指すべき目標とそれを評価するための指標を、政府と国民が共有していなければならない、ということです。(「良き統治」というのは、ブータンのGNH政策の核となる4本柱のひとつです。他の3つは「経済的自立」、「環境保護」、「文化の推進」だそうです。) いま日本では根深い政治不信が国中を覆っていますが、それでは国民がどういう政治を求めているのか、具体的な目標やそれを測る指標を示してみろと言われても誰も答えられない。この先これについて国民的な合意が形成されるという見通しもありません。でも、それが無いということは、言い換えれば私たちは自分たちにとっての「良い政治」とは何かを分かっていないということなのではないでしょうか? それも分かっていないのに、現在の首相や政権を批判するというのも変な話だという気がします。

 ここ2週間ほどブータンのGNHについて書かれた本や文章をいろいろ読んでいるのですが、そのなかでよく出会うこんなレトリックがあります。GDPという指標に関する考察です。GDPというのは、その国のなかで動いたお金の総額のことですから、例えば自殺や交通事故や離婚というような不幸な出来事だって、それにともなってお金が動けば、それはすべてGDPに計上されてしまう(葬儀代や賠償金や訴訟費用などとして)。その一方で、例えば家庭内で行なわれている家事や育児や介護などは、価値ある重要な活動であるにも関わらずGDPには一切算入されない。そういう矛盾をGDPは本質的に持っているというのです。言われてみれば、なるほどその通りですね。このことひとつ取っても、GDPのような単純なひとつの指標で国の目標を設定することには無理があることが分かります。ブータンのGNHというものは、決して単なる抽象的な理念ではなく、測定可能な具体的な指標として体系づけられたもののようです。例えば「環境保護」という目標を具体化するために、ブータンでは国土の60%以上を森林として維持することを国の憲法で定めており、それ以上の開発が行なわれないように歯止めをかけています。それは単なる自然愛護の精神からではなく、恵まれた森林資源を将来に継承すると同時に、美しい自然という観光資源を守るためでもあるのです。また健康と教育は幸福の増大に欠かせないものですから、ひとり当たりのGDPがとても低い国であるにもかかわらず、医療費や教育費は無料になっているのだそうです。(これは驚くべきことですね。何故豊かな国である筈の日本やアメリカでそれが実現出来ないのでしょう?) 要するにブータンでは、国民の幸福量を最大化するという観点から(その国民には現在の国民だけでなく、未来の国民も含まれます)、政策が優先順位づけされている訳です。

 戦後の日本は、一貫して「成長」という目標に向けて国のリソースを集中させ、ここまでの経済発展を遂げて来た訳です。それを政策的に担って来たのが自民党であり、その最後の完成形(あるいは最後のあだ花?)が小泉構造改革だったのだと思います。民主党による政権交代は、何よりもこの経済成長至上主義に対する反動として理解すべきものでしょう。ところが主役であった民主党は、「コンクリートから人へ」だとか「最小不幸社会」といったような曖昧で気分的なスローガンを繰り出すばかりで、政権政党として具体的に何を目指すのかを明確に示せなかった。欠けていたのは目標設定とそれを測る指標の定義だったのではないかと思います。もしも政権交代のマニフェストのなかに、これからはGDPの拡大ではなく、GNHの増大を目指すと書かれていたらどうだったろう、そんなことを想像したくなります。それが日本版GNHとしてユニークなもので、私たち国民の心にしっくり来るものであったならば、その後の民主党の政策運営もずいぶん違ったものになっていたのではないか。自民党の掲げていた「成長」に対抗する次の国家戦略として、ふさわしいものは何でしょう? おそらく「福祉」や「環境」や「持続可能性」といったものでは弱いのです。それは経済成長がもたらした歪みを修正するための要素ではあっても、それ自体が自己目的とはなり得ないものだからです。だったら何が成長の代わりに来るのか? 私は「幸福」以外にはあり得ないと思います。幸福というコトバのなかには、成長も福祉も健康も平和も持続可能性もすべてが包含されているからです。成長至上主義には反論出来ても、幸福至上主義には誰も反論出来ません。そういう意味で、これは史上最強の政治的スローガンだと言ってもいい。国家戦略にGNHを掲げたブータン政府のしたたかさを、日本はもっと学んでもいいのではないだろうか。

 今回の記事は、具体的な日本版GNHの提案が目的ではありませんから、この話題にこれ以上深入りするのは止めましょう。提案という意味では、これからは「お金換算」ではなく、「幸福換算」で考えるやり方もあるのではないかという、そのことだけを指摘しておきたいと思います。そして今回のテーマは「生産性」についてですから、お金換算ではなく幸福換算で考えた場合、生産性についてはどう捉え直すべきかというのが次の問題になります。もともと生産性(Productivity)の"P"は、GDP(Gross Domestic Product)の"P"と同じ意味ですから、「幸福量増大のための生産性」という言い方には矛盾があるのかも知れません。だとすれば、生産性というコトバを使ったのは適切ではなかったということになります。しかし、限られた資源や制約条件のなかで、いかに国民の幸福度を高めて行くかの効率性の問題と言い直せば、これはまさに政治というものの一番本質的なテーマだとも考えられる。これだけ円高が進み、財政が悪化したなかで、国として今後も金額換算の生産性を高めて行くことは容易ではないと思います。しかし、幸福換算での生産性を高めて行くことなら、工夫次第で出来るかも知れない。そこに生産性の問題を解く鍵があるのではないかと考える訳です。

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