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2011年8月14日 (日)

生産性の問題を考えるために(1)

■ どこに課題があるのか?

 このブログでは、過去に何度もベーシックインカム(BI)について書いて来ました。私は根っからのBI待望派で、どのくらい「根っから」かと言えば、まだ世の中にベーシックインカムなんてコトバが生まれる前、幼少の頃からずっとBIの実現を待ち望んで来たと言えるほどです。つまり子供心に、働かなくても生きていける世の中を夢見ていたということですが。私が子供時代を過ごした1960年代には、21世紀になればいろいろな技術が進歩して、人間が「生きるための労働」から解放されるというヴィジョンが確かにあったような気がします。例えば、行き先を告げれば運転手がいなくても目的地まで連れてってくれる自動車だとか、家事をすべてやってくれるお手伝いロボットだとか…。まあ、子供向けの本やマンガのなかでのみ流通したイメージですから、当時の常識ある大人がそんな夢のような未来を信じていた訳ではないでしょうし、また自分より10歳年下の世代にも、そんな夢物語は共有されていなかっただろうと思います。だとすれば、これは昭和30年代生まれの人間に特有のメンタリティなのかも知れません。

 今回の震災でも、例えば被災者の生活保障という問題と絡めて、BIの必要性が論じられることがあります。私はこれに違和感があります。BIというのはとても大きな可能性を秘めたアイデアだと思いますが、それを従来の社会保障制度のオルタナティブとして捉えてしまうと、その可能性を閉ざしてしまうことになると思うからです。BIというのは、産業の効率化が著しく進んで、生産性が向上した社会における富の再分配の一便法である、そういう考え方を私は採ります。むしろBIのようなものがあることで、産業は後顧の憂いなく効率化に邁進出来るのである、そう考える訳です。重点は「富の再分配」の方ではなく、「産業の効率化」の方にある。その究極の到達点は、私がよく例に挙げる「すべての製品がオートメーションで産み出される無人工場」のイメージです。それに近い生産性が実現した社会では、もはや労働によって収入を得るというこれまでの常識も通用しなくなる。BIのようなもので、すべての人に共通の基礎的所得を保障しなければ、そもそも経済が回らないからです。いくら効率よく製品を製造したとしても、失業率100%の社会では誰もそれを買える人がいません。だが、失業率が100%だからと言って、その時に実現するのが悪平等のはびこる貧しい社会かというと、決してそんなことはない。全体として高い生産性を達成した社会では、再分配のやり方さえ間違わなければ、すべての人が一定水準の豊かさを享受出来る筈だからです。これがBIを基礎づける一番根本の思想だと思います。

 こういうBI推進派の素朴な楽観論に対しては、さまざまな批判や反論があることも承知しています。人間の労働を排除したところで成立する生産性の向上ということそれ自体に反対する人もいるし、すべての国民に対する基礎所得保障は従来の福祉制度を破壊するものだと危惧する人もいる。もちろん実際の制度設計においては、そうした議論を重ねることが重要であることは私も認めます。しかし、幸か不幸か、私たちが生きているこの21世紀初頭の日本では、制度としてのBIが実現する可能性はほとんどゼロだと言っていいのです。何故か? その理由はBIというものの定義からすれば明白なことで、我が国の産業がまだBIを要請するほどの生産性を達成していないからです。もう少し正確に言うならば、少なくともここ20年くらいのあいだ、日本の企業は海外に生産拠点を移したり、あるいは国内においても従業員を非正規雇用にシフトするなどして、人件費を徹底的に削減することには腐心して来たけれども、肝心の労働生産性そのものを高める努力については怠って来た。つまり海外への技術移転には投資して来た一方で、国内の技術革新に対しては十分な投資をして来なかったからです。これはある意味当然のことでした。新たな設備投資や現場改善を行なうことで生産性を20%向上させるより、人件費が国内の十分の一で済む新興国に工場を建てた方が手っ取り早いし、効果も大きい。企業間の競争に打ち勝つにはそれしか選択肢が無かったのです。これが我が国における「失われた20年」の真の原因だったと言えば、解釈が単純過ぎるでしょうか?

 もともと天然資源が乏しい日本は、海外から原材料や燃料を輸入し、国内で品質の高い製品に加工して、それを輸出することで経済発展を遂げて来た訳です。戦後日本の経済成長を牽引して来たのは製造業だったのです。その製造業が、人件費が安いという理由だけで海外に出て行ってしまった訳ですから、これまで〈貿易立国〉でやって来たこの国が貧しくなることは、まったく当然の成り行きだったとも言えます。それぞれの企業は(短期的な視点では)経済合理的に行動して来たのでしょうが、結果としてそれは国内経済を空洞化させることにしかつながらなかった。しかも戦略の軸足を価格競争力の強化に移したことで、おそらくは技術力の低下さえ招いてしまったのだと思います。いや、私はここで企業戦略の問題について述べたい訳でもないし、グローバル経済の功罪を論じたい訳でもありません。BIを実現するという観点からすると、経済のグローバル化は大きな障害になっているという点を指摘したかったのです。それは先進国が達成した技術や生産性の成果を、新興国に移転するという点では意味のあることでした。これから経済を発展させようという国々にとって、国内の安い人件費を武器に出来なければ、未来永劫、先進国に追い付くことなど不可能であるに違いない。経済のグローバル化は、文字どおり全世界の調和ある発展にとって欠くことの出来ない過程だとも言えます。が、言い換えればそれは先進国が足踏みをして、途上国が追い付いて来るのを待っている過程とも捉えることが出来る訳で、全世界が一定の貧しさに向けて均衡しつつある過程だとも考えられる。もしかしたら次の大きな経済的転換は、このグローバル均衡が一定のレベルで達成された後にやって来るのかも知れません。だとすれば、先進国の停滞は、少なくとも今後半世紀以上は続くものと覚悟しなければならない。

 「生産性の問題を考えるために」――そんなタイトルを付けたのに、どうでもいいような繰り返しばかり書いていますね。震災後の少しシリアスになったアタマで、BIのことや今後の持続可能な経済のことを再び考えるためには、生産性の問題を避けて通ることは出来ない、そういう強い直覚はあるのですが、実はこのテーマを考えて行くための道筋や切り口が、私にはまだ見えていないのです。別に難しい課題設定をしている訳ではありません。基本的に私は、無人オートメーション工場や家事ロボットの実現によって社会の豊かさは増し、人々の幸福度はアップするだろう、そう考える程度の単純な世界観の持ち主です。たとえそこまで行き着かなかったとしても、人が賃金労働に充てる時間を少なくして、余暇や家庭生活に充てる時間を増やすことが出来れば、それは幸福なことではないかと思っている。ところが、過去に比べてはるかに豊かになった筈の現在でも、私たちの生活にはまるで余裕が無い。ワークシェアリングだとか在宅勤務なんてコンセプトも絵に描いた餅で、相変わらずサラリーマンは長い勤務時間と通勤時間でへとへとになっているし(私自身のことです)、サービス業に従事する人たちは休日も深夜も関係なく働かされている。勤務時間を自分で選びたい人は、非正規労働者として最低賃金に甘んじるしかない。何故こんなに豊かな時代になったのに、働く私たちはこんなに生活が貧しいのだろう? 何故、技術の進歩と生産性向上の果実は、私たちのところまで降りて来てくれないのだろう? これがつまり今回の私の課題設定です。

 生産性の問題を考えるに当たっては、まず「生産性」(Productivity)という言葉の定義を明確にしておかなければなりませんね。ウィキペディアで引いてみると、こんな定義が載っていました、①生産活動に対する生産要素(労働・資本など)の寄与度、②資源から付加価値を生み出す際の効率の程度。前者は主に製造業における狭義の生産性を示しているのに対し、後者はもっと一般的に〈投入する資源〉と〈生み出される価値〉との関係に着目した広義の生産性を示していると言えます。今回、私が考察したいと思っているのは、この広義の生産性の方です。それは製造業以外の産業分野における生産性ということにとどまらず、私たちの社会や生活のすべての局面を生産性という観点で捉え直してみることは出来ないだろうかという課題意識に根ざしています。こんな言い方をすると反感を覚える方も多いのではないかと思いますが(特にスローライフだとかロハスな生き方といったコトバに共感的な人たちにとっては)、実はこれはこれからの持続可能な社会を構想して行く上でのキーとなる概念だと私は思っているのです。というのも、生産性を上げるということは、今後も限りなく経済成長を追い求めて行くということよりも、むしろいかに少ない資源で現在の生活レベルを維持して行くかという点で、まさに持続可能性という問題に直結したテーマでもあるからです。環境保護派の人たちや、スローライフ派の人たちこそ、生産性の問題を深く考え、またこれに対する感覚を磨いて行く必要があるのではないかと私は思います。

 私が捉えている生産性というのは、一部は企業の経営者が考える生産性と重なっており、一部はそれとは重なっていません。例えば、最近は脱原発ということに絡んで再生可能エネルギーがもてはやされていますが、私は生産性や効率の観点から、これを無条件に賛美する傾向には疑問を感じています。よく言われることですが、1枚のソーラーパネルが生み出す電力量とそれを製造するために投じられる資源を比較して、後者の方が大きいようなら、企業の採算ベースに乗らないだけでなく、環境にも悪影響を与えるものである可能性がある。(そんなものを再生エネルギー法で保護して行こうとしている政府の判断もどうかしています。) それでは現在のものと比較して、はるかに安価に、はるかに少ない資源量で製造出来るソーラーパネルが開発されたらどうでしょう。但し、これは製造や敷設にかかるコストはとても安いけれども、導入後のメンテナンス費(人件費)がとても高いものだとします。経営者の視点だとやはり導入メリットはありませんが、持続可能性や環境保護の視点で見ると、それはメリットがあるものかも知れない。何故なら、人間の労働力というのは再生可能な資源の最たるものであり、人類が続く限り無尽蔵に供給可能なものであるから。人件費を払わなければならないと思うから企業の採算に乗らないだけで、私たちがボランティアでそのメンテナンスを行なって行けば、それは持続可能なエネルギー源として維持出来るかも知れません。もしもBIが保障されている社会なら、そういった選択肢だってあり得る訳です。

 これまでの生産性に関する議論は、企業経営の観点からのみ論じられて来たのではないかと思います。つまり、原材料も化石燃料も労働力も、金額換算が可能な同じ経営資源として捉えるというやり方です。確かに経営者にとっては、1万円で買える原材料も労働力も同じコストでしかありません。しかし、その資源が〈使い減り〉するかどうか、これからの社会のなかで持続可能なものであるかどうかという観点で見ると、このふたつはまるで違ったものになります。つまり、効率だとか生産性を考えるためには、お金の尺度だけではない、もっと別の尺度が必要だということなのです。BIの実現といったことも、そこまで議論を掘り下げた上で考察しなければ、単なる机上の理想論を脱することは出来ないと思う。――しかし、今回はまだ序論です。議論を急ぐのは止めましょう。先ほども言い訳したように、この問題に対して私はまだどんな解決策もアイデアも持っていません。連載にしたいと思っているのですが、次回何を書けばいいのかさえ分かっていない。でもヒントは少し見えて来ました。問題を解くひとつの鍵は、労働力や人件費というものの周りにありそうです。とりあえず震災復興のために多くの人たちが参加している「ボランティア」というものから考察して行くことにしましょうか。

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