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2011年8月21日 (日)

生産性の問題を考えるために(2)

■ ボランタリー経済について

 ボランティア活動というものには、正の面と負の面があります。それは利己主義を前提とした経済原理に対するアンチテーゼであり、市場で猛威をふるう〈強欲資本主義〉に対抗する人間の善意の砦です。このお盆休みにも、多くの人たちが東日本大震災の被災地にボランティアとして向かったと言います。政府が復興会議とやらで机上の空論を作文しているあいだにも、被災地では着実に善意の活動が広がって、復興への第一歩をしるしている。感嘆すべきことだと思います。しかし、一方、ボランティア活動というものには人間の労働価値を貶め、賃金相場を低下させるという負の働きもあるのではないかと私は思うのです。例えば国内でボランティア活動が盛んなのは、福祉の分野においてでしょう。このことと、福祉関係の労働では低賃金が当たり前になっていることの間には関係が無いでしょうか。国や自治体からの補助金が無ければ、そもそも産業として成り立ちにくい福祉というものの問題はもちろんあります。しかし、そうした経営的な理由とは別に、ある種の心理的な圧力によって福祉職の賃金が押し下げられているという構図は無いだろうか。福祉の仕事というのは、本来ボランタリーな働き方にこそ馴染むものであって、たとえ本業として福祉職を選択した人でさえ、ボランティア精神を持ち続けて、あえて低賃金に(清貧に?)甘んじる姿勢が求められる、そんなふうに私たちは無意識のうちに考えているのではないか。このことは、もしも福祉関係の職員が非常な高給を得ていると知った場合に、私たちが感じるであろう違和感のことを想像すれば否定出来ないような気がします。

 ボランティアというものを、いわば「労働力のダンピング」として捉えるなら、ボランティアが多く集まる場所では労働賃金に下降圧力がかかるのも当然だと言えます。中国が経済成長の軌道に乗って以来、私たち国内の労働者は、海外の低賃金の労働者と価格競争を強いられている訳です。しかし、それだって「無賃金で喜んで働く国内の労働者」ほどにはタチが悪くはない。なにしろそれはコトバの正しい意味での競争ですらないのだから。例えばこんな想像をしてみます、ある町の自動車工場にひとりの青年がボランティアで働かせて欲しいと申し出て来ました。聞けば資産家の息子で、これ以上お金を稼ぐ必要は無いけれども、クルマ好きなのでぜひ自動車工場の製造ラインで働いてみたいというのです。まあ、そんな人間を雇うかどうかは考えどころでしょうが、そんなボランティア工員ばかりが増えたとしたら、これは間違いなく社会問題化するだろうと思う。それは低賃金で働いている非正規労働者から仕事を奪うことになる訳ですから。なのに何故、福祉の仕事にボランティア労働者が流入して来ることは社会問題にならないのでしょう? ただでさえ賃金の安いこの世界に、ボランティアで働きたい人が多いということは、考えてみればとてもおかしな話です。ボランティア労働というものが、法的にどのような規制を受けているのか私は知りませんが(たぶんほとんど規制されていないのでしょう)、構造的に低賃金であるような産業分野には、ボランティアで働かせることを規制するという考え方だってあっていいような気がします。そうでもしなければ、そこで働く人たちが共倒れになるだけですから。

 いや、反論される前に注釈を付け加えておきます。福祉の分野がボランティアワークと相性がいいことには、しごく当たり前な理由があります。ボランティアスピリットというものは、一般的に人間の「善意」とは親和的だけれども、企業の「営利」とは対立的なものだからです。ボランタリーに働くということは、金銭的な見返りを受けない代わりに、精神的な充足を期待するということであって、そのこと自体は何も問題ではありません。工場の製造ラインでボランタリーに働くことに精神的な充足を感じる人は、数の上ではきわめて少ないというだけの話です。つまりそこには金銭的なものでは測れないけれども、厳然たる〈市場原理〉が働いているのだとも考えられます。言ってみれば、感情の市場原理、あるいは幸福の市場原理とでも呼ぶべきものでしょうか。皮肉な考察をしたい訳ではありません、最近は資本主義でも社会主義でもない、第三の経済の可能性として「ボランタリー経済」というものが取り上げられることも多いようです。でも私は、そうしたものの可能性や将来性には懐疑的です。一般的にボランティアで働きたいという人は、別に本業を持っていたり資産を持っていたりして、これ以上稼ぐことを必要としていない人でしょう。いわば経済的には「上がり」のポジションを得てしまった人です。そういう人が増えているということは、時代の豊かさの証明にはなっても、新しい経済体制が芽生えつつあることの証拠にはならない。それは資本主義に代わる新しい経済原理でもなければ、それを補完するものでもなく、いわば時代の豊かさがもたらした利息が市場に流通しているようなものです。あくまで利息であって元本ではないので、使い果たしてしまえばそれでおしまいといったようなものです。

 とりあえず今回は、ボランティアというものに関して、以前から自分のなかにあったアンビバレントな感情を突き詰めてみたいと思って、いろいろ考えを巡らしています。もしもベーシックインカムのようなものが制度として確立して、すべての人が経済的な「上がり」のポジションを得てしまった時代においてなら、ボランティア活動にともなう負の側面はほとんど目立たなくなることでしょう。しかし、現在のような中途半端な生産性を達成した時代、豊かさの再分配が制度化されておらず、経済的に「上がり」の人とそうでない人とが社会に混在しているような時代においては、働いて稼ぐ必要のない階層の人たちによるボランタリーワークは、失業者や失業予備軍にとって脅威となり得るのです(政府や資本家にとっては好都合なものかも知れませんが)。最近、企業のなかで非正規雇用者が増えている状況にあって、同一労働・同一賃金ということが課題として指摘されることが多いようですが、ボランタリー経済というのは、まさにその真逆の原理で動いている経済だと言えます。ボランティア活動をしようという人には、同一労働・同一賃金の原則に心理的にとらわれないことが求められます。例えばボランティア募集に応募して、被災地で1日作業をしたあと、一緒に作業をしていた人たちの何人かには日当が支払われていたことを知ったとしましょう。聞けば彼らはアルバイト募集の広告に応募して来たのだという。たぶん私だったら、とても嫌な気がすると思う。自分はボランティアに応募して来たのだから、何も文句を言う筋合いのものではない、そのことは分かっています。でも、おそらくボランティア活動にともなう充足感は、その瞬間に吹き飛んでしまうに違いない。この感情は、一般的なベーシックインカムに対する心理的な抵抗感と同根のものだと思います。

 理論的に考えれば、ベーシックインカム(BI)とボランタリー経済というものはとても相性のいいものだと言えます。一方、「同一労働・同一賃金」を掲げる労働運動の立場からは、それは到底受け入れられない思想ということになるでしょう。私は、この両方の立場は調停出来るし、調停すべきだと思っているのですが、今回のテーマはそこにはありません。BIとボランタリー経済が両立するものだったとしても、それはどちらかがどちらかを前提とするといったものではありません。その両者を成り立たせるためには、それを許容するために十分なほど豊かな社会が〈恒常的に〉実現されていることが前提なのであって、その実現のためにはBIもボランタリー経済もほとんど無力であろうというのが私の認識なのです。それは豊かさの結果ではあっても、豊かさを実現するための手段ではないということです。むしろボランタリー経済に関して言えば、それが効率性や生産性というものをあまり考慮しないという特性を持っているが故に、豊かさの実現という面ではマイナスの作用を及ぼすものであるかも知れない、そんなことさえ考えるのです。新聞の投書か何かで、被災地でボランティア活動をして来た人の感想を読んだことがあります。手作業で瓦礫の撤去をするのはいかにも効率が悪いことで、被災地に足りないものはボランティアの数ではなく、効率よく作業を進めるための重機類だというのです。こちらの方がまともな意見だと私は思いました。いや、ボランティアに求められるのは効率性だけではないという意見も当然あるでしょう。もちろんその通りだと思いますが、そのことを隠れ蓑にして、政府が必要な復興支援策を怠っているとすれば、やはり問題だと思う訳です。政府が復興支援のための重機を大量に発注すれば、復興がスピードアップするだけでなく、落ち込んだGDPの回復にも寄与するのです。

 ボランティアの人たちが行なっていることは、この国のGDPにはカウントされません。GDPにカウントされない経済活動のことをボランティアと呼ぶ訳ですから当然です。もしも金銭的な対価を求めない労働を広義のボランタリーワークと呼ぶならば、そこには私たちの活動のとても大きな部分が含まれます。家事労働も、家庭内の育児や介護も、学生が試験勉強をすることも、こんなふうにブログ記事を書いたりすることも、すべて経済的な評価で言えばゼロです。しかし、経済的な評価がゼロだからと言って、ボランタリーワークが効率性や生産性の概念からまったく自由であっていいかと言えば、そんなことはないだろうというのが今回の私の課題意識である訳です。前回の記事で、人間の労働力というのは再生可能な資源の最たるものだと書きましたが、少子高齢化が進むなかでそれが先細りになって行くこともまた事実な訳で、限られた資源をいかに有効に活用して行くかは、私たちすべてにとっての課題と言っていいだろうと思います。そしてそのためには、金銭的なモノサシとは別の評価指標がどうしても必要だと思うのです。GDPに代表されるような現在の経済指標は、持続可能な社会を約束するものではないので、それに代わる、と言うか、それを包含するような新しい経済指標が求められているのだと思います。しかし、また議論が堂々巡りをしていますね。次回は、ブータン王国が提案して有名になった「GNH」(国民総幸福量)というものを題材に少し考えてみましょうか。果たしてそこにはGDPに代わる新しい経済指標のヒントが隠されているのか? (毎回何かテーマを決めて、自分にそれを課しておかないと、この連載はすぐに行き詰まってしまいそうなんです。さあ、これからGNHについても勉強しなくちゃ。笑)

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