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2011年8月28日 (日)

為替レートをターゲットにせよ!

 今回は連載を1回お休みして(もう息切れ?)、現在の超円高に対する処方箋について書きます。大震災で経済が大きく傷ついたにもかかわらず、今週日本円は米ドルに対して史上最高値の75円台をつけました。復興のために経済の回復を急いでいる日本にとっては、まさに弱り目に祟り目といった事態です。米国債の格下げやEU諸国の財政悪化などを背景に、ドルやユーロに比べて「相対的に」安全と見られている日本円に世界のマネーが逃避して来ているのです。変動相場制における為替レートは、もはや実体経済を映す鏡ではありません。「円買いドル売り」などというのは、まさにカネでカネを買う実体の無い取引であって、実際の貿易額などよりはるかに巨額のマネーが通信回線上を駆け巡っている。それが為替レートを変動させているのです。しかし、その結果は実体経済を直撃するのですから、金融取引になど縁のない私たちにとっても無関係な話ではありません。

 これに対して政府はすでに為替介入をしているようです。円を売ってドルを買い戻すことで、円高を抑えようというのです。つまり政府自らが為替トレーダーとなって市場に参加している訳です。馬鹿げたことだと思います。すでに日本は世界最大の外貨準備高を持っており、しかもそれで何十兆円もの含み損を抱えているのです。為替市場において、日本政府は常に最高のお客様でした。つまりカモです。私たちの税金をアービトレージャー(サヤ取り屋)に貢いでいるという構図ですね。むしろいま政府がなすべきことは、高くなり過ぎた日本円を量的に「薄める」ことによって、円高に歯止めをかけることだと思います。すなわち日本円を追加発行するということです。日本円の独歩高を説明するための一番簡単な理屈があります。モノが高騰するのは、そのモノの供給量が足りない時である。日本円が世界的に高くなっているのは、日本円が供給不足に陥っているからだ。だからもっと通貨供給量を増やしてやれば、円安方向に振れるというのです。私はこの理屈を支持します。で、今回の記事の主旨は、政府・日銀は一定の為替レートの目標値を決めて、それに向けて量的緩和を進めてはどうだろうというものです。「インフレターゲット」ならぬ「為替レートターゲット」という考え方です。

 日本経済は20年以上も続くデフレから抜け出せずにいます。日銀がインフレターゲットの導入を宣言して、ゼロ金利政策に踏み切ったのは1999年のことでした。その後、ITバブルによって一時的にゼロ金利は解除されますが、すぐにバブルが崩壊、次に日銀が踏み込んだのは、非伝統的金融政策と言われる量的緩和政策でした。2001年のことです。民間銀行が持つ国債を買い入れて、市場に大量の円を供給したのです(「カネ余り」だとか「ジャブジャブ」といった言い方はこの頃始まったのですね)。しかし、それでも日本経済が上向くことはありませんでした。金利が低く、資金が潤沢にある状況なのに、お金は実体経済への投資に向かわず、金融投資に向かったからです(これが米国のサブプライム問題を引き起こしたという説があります)。こういう経緯があって、インフレターゲット論はいまはもう流行りません。むしろゼロ金利によっても量的緩和によっても、デフレ経済を脱することは出来ないという、一種の諦めの気分がこの国の経済を覆っている。そこでターゲットを変えようという提案です。もともと日本のような大規模な経済圏において、デフレをインフレに転換させるのは容易なことではなかったのです。そこには様々な要因が複雑に影響し合っているでしょうし、巨大な慣性エネルギーを持つ国内経済の方向転換には時間もかかる。日銀が金利を下げたから、すぐにインフレに転じるといったものではないのです。ところが為替レートは違う(たぶん)。こちらは実体経済よりも、金融市場の思惑で瞬時に動く性質のものですから、政府の発表に対しても機敏に反応する筈です。仮に政府・日銀が、望ましい為替レートを1ドル=90円と設定して、その目標に向けて(ドルを買うのではなく)円を追加発行すると発表すれば、そのアナウンスメント効果だけでも円高には歯止めがかかるのではないでしょうか。

 通貨発行のやり方も簡単です。多くのリフレ派エコノミスト(デフレ脱却を最優先に考える人たち)が提案しているように、政府が発行する国債を日銀が直接買い取れるようにしてやればいいのです(法律の改正または国会での決議が必要です)。日本円を追加発行するために、お札を刷る必要も無ければ、国債の証券を発行する必要もありません。国債の引き受けと言っても、その実体は償還期限も無ければ利子も付かない借金です。単に政府の当座預金口座に何兆円かが振り込まれ、日銀のバランスシートの貸方残高に何兆円かが記帳される、それだけのことです。日銀の帳簿上に記されたこの金額は、日本国が続く限り永久に残ることになります、日本政府の愚かな財政運営の証として、あるいは日本国の輝かしい経済的繁栄の記念として。政府がこの降って湧いたお金をどう使うかという点についても、議論は不要です。政府は現在でも年間40兆円くらいの国債発行で財政予算を補填している訳で、この借金もその一部として組み込まれるだけのことだからです。それは子ども手当やベーシックインカムのようなものとして国民にバラ撒かれるのでもなく、被災地の特別復興資金として拠出されるのでもない、税収と同じように歳入として一般会計予算に算入されるだけです。よく日銀の国債直接引き受けは、財政規律を乱すものだという人がいますが、浅薄な意見だと思います。財政規律云々を言うなら、歳入の半分を新規国債発行に頼っている現在の国家財政そのものが、規律以前のレベルであることをまず認識すべきです。またシニョリッジの発動は、日本円の信認を損なうものだという人もいますが、これも事実の反面しか見ていない意見だと思います。現在の行き過ぎた円高は、日本円が過剰に信認され過ぎていることの表れであって、シニョリッジ政策によってそれを適正なレベルに落ち着かせるという見方も出来るからです。

 先ほど、日本円の適正な為替レート目標値(対米ドル)を90円と仮置きしましたが、これはインフレターゲットと同様、日銀が決定すべき数字でしょう。それは信認が揺らいでいる米ドルに対してだけでなく、各国の通貨(通貨バスケット)を基準に決定するのが良いと思います。またその数字は、国家の最高機密であって、決して公表してはならないものです。それを公表することは、サヤ取り屋を利するだけのことですから。日銀は、その時々の経済状況に合わせて適正な円レートを設定し、そこに向けて追加の量的緩和をするとアナウンスするだけでいい。また、適正な為替レートをターゲットにすると言っても、その過程でインフレが予想以上に進む可能性もありますから、インフレ率が一定基準を超えたら、目標の為替レートに達していなくても、量的緩和を停止するというルールも必要でしょう。これまでリフレ派は、実態のよく分からないデフレギャップだとか、効果があるのかどうかも判然としないインフレターゲットなんてものを掲げて、デフレからの脱却を主張して来ました。しかし、10年以上も論争を続けて、一般国民からの理解や支持が得られないということは、その議論にはやはり十分な説得力が無かったのだと思います。為替レートというのは、誰にでも分かりやすい、ごまかしの利かない指標です。そして現在の為替レートが、実体経済よりも金融市場の思惑で変動している以上、これを金融政策を通じてコントロールすることは、主権国家としての権利でありまた義務でもあると考えるのですが、いかがでしょうか?

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2011年8月21日 (日)

生産性の問題を考えるために(2)

■ ボランタリー経済について

 ボランティア活動というものには、正の面と負の面があります。それは利己主義を前提とした経済原理に対するアンチテーゼであり、市場で猛威をふるう〈強欲資本主義〉に対抗する人間の善意の砦です。このお盆休みにも、多くの人たちが東日本大震災の被災地にボランティアとして向かったと言います。政府が復興会議とやらで机上の空論を作文しているあいだにも、被災地では着実に善意の活動が広がって、復興への第一歩をしるしている。感嘆すべきことだと思います。しかし、一方、ボランティア活動というものには人間の労働価値を貶め、賃金相場を低下させるという負の働きもあるのではないかと私は思うのです。例えば国内でボランティア活動が盛んなのは、福祉の分野においてでしょう。このことと、福祉関係の労働では低賃金が当たり前になっていることの間には関係が無いでしょうか。国や自治体からの補助金が無ければ、そもそも産業として成り立ちにくい福祉というものの問題はもちろんあります。しかし、そうした経営的な理由とは別に、ある種の心理的な圧力によって福祉職の賃金が押し下げられているという構図は無いだろうか。福祉の仕事というのは、本来ボランタリーな働き方にこそ馴染むものであって、たとえ本業として福祉職を選択した人でさえ、ボランティア精神を持ち続けて、あえて低賃金に(清貧に?)甘んじる姿勢が求められる、そんなふうに私たちは無意識のうちに考えているのではないか。このことは、もしも福祉関係の職員が非常な高給を得ていると知った場合に、私たちが感じるであろう違和感のことを想像すれば否定出来ないような気がします。

 ボランティアというものを、いわば「労働力のダンピング」として捉えるなら、ボランティアが多く集まる場所では労働賃金に下降圧力がかかるのも当然だと言えます。中国が経済成長の軌道に乗って以来、私たち国内の労働者は、海外の低賃金の労働者と価格競争を強いられている訳です。しかし、それだって「無賃金で喜んで働く国内の労働者」ほどにはタチが悪くはない。なにしろそれはコトバの正しい意味での競争ですらないのだから。例えばこんな想像をしてみます、ある町の自動車工場にひとりの青年がボランティアで働かせて欲しいと申し出て来ました。聞けば資産家の息子で、これ以上お金を稼ぐ必要は無いけれども、クルマ好きなのでぜひ自動車工場の製造ラインで働いてみたいというのです。まあ、そんな人間を雇うかどうかは考えどころでしょうが、そんなボランティア工員ばかりが増えたとしたら、これは間違いなく社会問題化するだろうと思う。それは低賃金で働いている非正規労働者から仕事を奪うことになる訳ですから。なのに何故、福祉の仕事にボランティア労働者が流入して来ることは社会問題にならないのでしょう? ただでさえ賃金の安いこの世界に、ボランティアで働きたい人が多いということは、考えてみればとてもおかしな話です。ボランティア労働というものが、法的にどのような規制を受けているのか私は知りませんが(たぶんほとんど規制されていないのでしょう)、構造的に低賃金であるような産業分野には、ボランティアで働かせることを規制するという考え方だってあっていいような気がします。そうでもしなければ、そこで働く人たちが共倒れになるだけですから。

 いや、反論される前に注釈を付け加えておきます。福祉の分野がボランティアワークと相性がいいことには、しごく当たり前な理由があります。ボランティアスピリットというものは、一般的に人間の「善意」とは親和的だけれども、企業の「営利」とは対立的なものだからです。ボランタリーに働くということは、金銭的な見返りを受けない代わりに、精神的な充足を期待するということであって、そのこと自体は何も問題ではありません。工場の製造ラインでボランタリーに働くことに精神的な充足を感じる人は、数の上ではきわめて少ないというだけの話です。つまりそこには金銭的なものでは測れないけれども、厳然たる〈市場原理〉が働いているのだとも考えられます。言ってみれば、感情の市場原理、あるいは幸福の市場原理とでも呼ぶべきものでしょうか。皮肉な考察をしたい訳ではありません、最近は資本主義でも社会主義でもない、第三の経済の可能性として「ボランタリー経済」というものが取り上げられることも多いようです。でも私は、そうしたものの可能性や将来性には懐疑的です。一般的にボランティアで働きたいという人は、別に本業を持っていたり資産を持っていたりして、これ以上稼ぐことを必要としていない人でしょう。いわば経済的には「上がり」のポジションを得てしまった人です。そういう人が増えているということは、時代の豊かさの証明にはなっても、新しい経済体制が芽生えつつあることの証拠にはならない。それは資本主義に代わる新しい経済原理でもなければ、それを補完するものでもなく、いわば時代の豊かさがもたらした利息が市場に流通しているようなものです。あくまで利息であって元本ではないので、使い果たしてしまえばそれでおしまいといったようなものです。

 とりあえず今回は、ボランティアというものに関して、以前から自分のなかにあったアンビバレントな感情を突き詰めてみたいと思って、いろいろ考えを巡らしています。もしもベーシックインカムのようなものが制度として確立して、すべての人が経済的な「上がり」のポジションを得てしまった時代においてなら、ボランティア活動にともなう負の側面はほとんど目立たなくなることでしょう。しかし、現在のような中途半端な生産性を達成した時代、豊かさの再分配が制度化されておらず、経済的に「上がり」の人とそうでない人とが社会に混在しているような時代においては、働いて稼ぐ必要のない階層の人たちによるボランタリーワークは、失業者や失業予備軍にとって脅威となり得るのです(政府や資本家にとっては好都合なものかも知れませんが)。最近、企業のなかで非正規雇用者が増えている状況にあって、同一労働・同一賃金ということが課題として指摘されることが多いようですが、ボランタリー経済というのは、まさにその真逆の原理で動いている経済だと言えます。ボランティア活動をしようという人には、同一労働・同一賃金の原則に心理的にとらわれないことが求められます。例えばボランティア募集に応募して、被災地で1日作業をしたあと、一緒に作業をしていた人たちの何人かには日当が支払われていたことを知ったとしましょう。聞けば彼らはアルバイト募集の広告に応募して来たのだという。たぶん私だったら、とても嫌な気がすると思う。自分はボランティアに応募して来たのだから、何も文句を言う筋合いのものではない、そのことは分かっています。でも、おそらくボランティア活動にともなう充足感は、その瞬間に吹き飛んでしまうに違いない。この感情は、一般的なベーシックインカムに対する心理的な抵抗感と同根のものだと思います。

 理論的に考えれば、ベーシックインカム(BI)とボランタリー経済というものはとても相性のいいものだと言えます。一方、「同一労働・同一賃金」を掲げる労働運動の立場からは、それは到底受け入れられない思想ということになるでしょう。私は、この両方の立場は調停出来るし、調停すべきだと思っているのですが、今回のテーマはそこにはありません。BIとボランタリー経済が両立するものだったとしても、それはどちらかがどちらかを前提とするといったものではありません。その両者を成り立たせるためには、それを許容するために十分なほど豊かな社会が〈恒常的に〉実現されていることが前提なのであって、その実現のためにはBIもボランタリー経済もほとんど無力であろうというのが私の認識なのです。それは豊かさの結果ではあっても、豊かさを実現するための手段ではないということです。むしろボランタリー経済に関して言えば、それが効率性や生産性というものをあまり考慮しないという特性を持っているが故に、豊かさの実現という面ではマイナスの作用を及ぼすものであるかも知れない、そんなことさえ考えるのです。新聞の投書か何かで、被災地でボランティア活動をして来た人の感想を読んだことがあります。手作業で瓦礫の撤去をするのはいかにも効率が悪いことで、被災地に足りないものはボランティアの数ではなく、効率よく作業を進めるための重機類だというのです。こちらの方がまともな意見だと私は思いました。いや、ボランティアに求められるのは効率性だけではないという意見も当然あるでしょう。もちろんその通りだと思いますが、そのことを隠れ蓑にして、政府が必要な復興支援策を怠っているとすれば、やはり問題だと思う訳です。政府が復興支援のための重機を大量に発注すれば、復興がスピードアップするだけでなく、落ち込んだGDPの回復にも寄与するのです。

 ボランティアの人たちが行なっていることは、この国のGDPにはカウントされません。GDPにカウントされない経済活動のことをボランティアと呼ぶ訳ですから当然です。もしも金銭的な対価を求めない労働を広義のボランタリーワークと呼ぶならば、そこには私たちの活動のとても大きな部分が含まれます。家事労働も、家庭内の育児や介護も、学生が試験勉強をすることも、こんなふうにブログ記事を書いたりすることも、すべて経済的な評価で言えばゼロです。しかし、経済的な評価がゼロだからと言って、ボランタリーワークが効率性や生産性の概念からまったく自由であっていいかと言えば、そんなことはないだろうというのが今回の私の課題意識である訳です。前回の記事で、人間の労働力というのは再生可能な資源の最たるものだと書きましたが、少子高齢化が進むなかでそれが先細りになって行くこともまた事実な訳で、限られた資源をいかに有効に活用して行くかは、私たちすべてにとっての課題と言っていいだろうと思います。そしてそのためには、金銭的なモノサシとは別の評価指標がどうしても必要だと思うのです。GDPに代表されるような現在の経済指標は、持続可能な社会を約束するものではないので、それに代わる、と言うか、それを包含するような新しい経済指標が求められているのだと思います。しかし、また議論が堂々巡りをしていますね。次回は、ブータン王国が提案して有名になった「GNH」(国民総幸福量)というものを題材に少し考えてみましょうか。果たしてそこにはGDPに代わる新しい経済指標のヒントが隠されているのか? (毎回何かテーマを決めて、自分にそれを課しておかないと、この連載はすぐに行き詰まってしまいそうなんです。さあ、これからGNHについても勉強しなくちゃ。笑)

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2011年8月14日 (日)

生産性の問題を考えるために(1)

■ どこに課題があるのか?

 このブログでは、過去に何度もベーシックインカム(BI)について書いて来ました。私は根っからのBI待望派で、どのくらい「根っから」かと言えば、まだ世の中にベーシックインカムなんてコトバが生まれる前、幼少の頃からずっとBIの実現を待ち望んで来たと言えるほどです。つまり子供心に、働かなくても生きていける世の中を夢見ていたということですが。私が子供時代を過ごした1960年代には、21世紀になればいろいろな技術が進歩して、人間が「生きるための労働」から解放されるというヴィジョンが確かにあったような気がします。例えば、行き先を告げれば運転手がいなくても目的地まで連れてってくれる自動車だとか、家事をすべてやってくれるお手伝いロボットだとか…。まあ、子供向けの本やマンガのなかでのみ流通したイメージですから、当時の常識ある大人がそんな夢のような未来を信じていた訳ではないでしょうし、また自分より10歳年下の世代にも、そんな夢物語は共有されていなかっただろうと思います。だとすれば、これは昭和30年代生まれの人間に特有のメンタリティなのかも知れません。

 今回の震災でも、例えば被災者の生活保障という問題と絡めて、BIの必要性が論じられることがあります。私はこれに違和感があります。BIというのはとても大きな可能性を秘めたアイデアだと思いますが、それを従来の社会保障制度のオルタナティブとして捉えてしまうと、その可能性を閉ざしてしまうことになると思うからです。BIというのは、産業の効率化が著しく進んで、生産性が向上した社会における富の再分配の一便法である、そういう考え方を私は採ります。むしろBIのようなものがあることで、産業は後顧の憂いなく効率化に邁進出来るのである、そう考える訳です。重点は「富の再分配」の方ではなく、「産業の効率化」の方にある。その究極の到達点は、私がよく例に挙げる「すべての製品がオートメーションで産み出される無人工場」のイメージです。それに近い生産性が実現した社会では、もはや労働によって収入を得るというこれまでの常識も通用しなくなる。BIのようなもので、すべての人に共通の基礎的所得を保障しなければ、そもそも経済が回らないからです。いくら効率よく製品を製造したとしても、失業率100%の社会では誰もそれを買える人がいません。だが、失業率が100%だからと言って、その時に実現するのが悪平等のはびこる貧しい社会かというと、決してそんなことはない。全体として高い生産性を達成した社会では、再分配のやり方さえ間違わなければ、すべての人が一定水準の豊かさを享受出来る筈だからです。これがBIを基礎づける一番根本の思想だと思います。

 こういうBI推進派の素朴な楽観論に対しては、さまざまな批判や反論があることも承知しています。人間の労働を排除したところで成立する生産性の向上ということそれ自体に反対する人もいるし、すべての国民に対する基礎所得保障は従来の福祉制度を破壊するものだと危惧する人もいる。もちろん実際の制度設計においては、そうした議論を重ねることが重要であることは私も認めます。しかし、幸か不幸か、私たちが生きているこの21世紀初頭の日本では、制度としてのBIが実現する可能性はほとんどゼロだと言っていいのです。何故か? その理由はBIというものの定義からすれば明白なことで、我が国の産業がまだBIを要請するほどの生産性を達成していないからです。もう少し正確に言うならば、少なくともここ20年くらいのあいだ、日本の企業は海外に生産拠点を移したり、あるいは国内においても従業員を非正規雇用にシフトするなどして、人件費を徹底的に削減することには腐心して来たけれども、肝心の労働生産性そのものを高める努力については怠って来た。つまり海外への技術移転には投資して来た一方で、国内の技術革新に対しては十分な投資をして来なかったからです。これはある意味当然のことでした。新たな設備投資や現場改善を行なうことで生産性を20%向上させるより、人件費が国内の十分の一で済む新興国に工場を建てた方が手っ取り早いし、効果も大きい。企業間の競争に打ち勝つにはそれしか選択肢が無かったのです。これが我が国における「失われた20年」の真の原因だったと言えば、解釈が単純過ぎるでしょうか?

 もともと天然資源が乏しい日本は、海外から原材料や燃料を輸入し、国内で品質の高い製品に加工して、それを輸出することで経済発展を遂げて来た訳です。戦後日本の経済成長を牽引して来たのは製造業だったのです。その製造業が、人件費が安いという理由だけで海外に出て行ってしまった訳ですから、これまで〈貿易立国〉でやって来たこの国が貧しくなることは、まったく当然の成り行きだったとも言えます。それぞれの企業は(短期的な視点では)経済合理的に行動して来たのでしょうが、結果としてそれは国内経済を空洞化させることにしかつながらなかった。しかも戦略の軸足を価格競争力の強化に移したことで、おそらくは技術力の低下さえ招いてしまったのだと思います。いや、私はここで企業戦略の問題について述べたい訳でもないし、グローバル経済の功罪を論じたい訳でもありません。BIを実現するという観点からすると、経済のグローバル化は大きな障害になっているという点を指摘したかったのです。それは先進国が達成した技術や生産性の成果を、新興国に移転するという点では意味のあることでした。これから経済を発展させようという国々にとって、国内の安い人件費を武器に出来なければ、未来永劫、先進国に追い付くことなど不可能であるに違いない。経済のグローバル化は、文字どおり全世界の調和ある発展にとって欠くことの出来ない過程だとも言えます。が、言い換えればそれは先進国が足踏みをして、途上国が追い付いて来るのを待っている過程とも捉えることが出来る訳で、全世界が一定の貧しさに向けて均衡しつつある過程だとも考えられる。もしかしたら次の大きな経済的転換は、このグローバル均衡が一定のレベルで達成された後にやって来るのかも知れません。だとすれば、先進国の停滞は、少なくとも今後半世紀以上は続くものと覚悟しなければならない。

 「生産性の問題を考えるために」――そんなタイトルを付けたのに、どうでもいいような繰り返しばかり書いていますね。震災後の少しシリアスになったアタマで、BIのことや今後の持続可能な経済のことを再び考えるためには、生産性の問題を避けて通ることは出来ない、そういう強い直覚はあるのですが、実はこのテーマを考えて行くための道筋や切り口が、私にはまだ見えていないのです。別に難しい課題設定をしている訳ではありません。基本的に私は、無人オートメーション工場や家事ロボットの実現によって社会の豊かさは増し、人々の幸福度はアップするだろう、そう考える程度の単純な世界観の持ち主です。たとえそこまで行き着かなかったとしても、人が賃金労働に充てる時間を少なくして、余暇や家庭生活に充てる時間を増やすことが出来れば、それは幸福なことではないかと思っている。ところが、過去に比べてはるかに豊かになった筈の現在でも、私たちの生活にはまるで余裕が無い。ワークシェアリングだとか在宅勤務なんてコンセプトも絵に描いた餅で、相変わらずサラリーマンは長い勤務時間と通勤時間でへとへとになっているし(私自身のことです)、サービス業に従事する人たちは休日も深夜も関係なく働かされている。勤務時間を自分で選びたい人は、非正規労働者として最低賃金に甘んじるしかない。何故こんなに豊かな時代になったのに、働く私たちはこんなに生活が貧しいのだろう? 何故、技術の進歩と生産性向上の果実は、私たちのところまで降りて来てくれないのだろう? これがつまり今回の私の課題設定です。

 生産性の問題を考えるに当たっては、まず「生産性」(Productivity)という言葉の定義を明確にしておかなければなりませんね。ウィキペディアで引いてみると、こんな定義が載っていました、①生産活動に対する生産要素(労働・資本など)の寄与度、②資源から付加価値を生み出す際の効率の程度。前者は主に製造業における狭義の生産性を示しているのに対し、後者はもっと一般的に〈投入する資源〉と〈生み出される価値〉との関係に着目した広義の生産性を示していると言えます。今回、私が考察したいと思っているのは、この広義の生産性の方です。それは製造業以外の産業分野における生産性ということにとどまらず、私たちの社会や生活のすべての局面を生産性という観点で捉え直してみることは出来ないだろうかという課題意識に根ざしています。こんな言い方をすると反感を覚える方も多いのではないかと思いますが(特にスローライフだとかロハスな生き方といったコトバに共感的な人たちにとっては)、実はこれはこれからの持続可能な社会を構想して行く上でのキーとなる概念だと私は思っているのです。というのも、生産性を上げるということは、今後も限りなく経済成長を追い求めて行くということよりも、むしろいかに少ない資源で現在の生活レベルを維持して行くかという点で、まさに持続可能性という問題に直結したテーマでもあるからです。環境保護派の人たちや、スローライフ派の人たちこそ、生産性の問題を深く考え、またこれに対する感覚を磨いて行く必要があるのではないかと私は思います。

 私が捉えている生産性というのは、一部は企業の経営者が考える生産性と重なっており、一部はそれとは重なっていません。例えば、最近は脱原発ということに絡んで再生可能エネルギーがもてはやされていますが、私は生産性や効率の観点から、これを無条件に賛美する傾向には疑問を感じています。よく言われることですが、1枚のソーラーパネルが生み出す電力量とそれを製造するために投じられる資源を比較して、後者の方が大きいようなら、企業の採算ベースに乗らないだけでなく、環境にも悪影響を与えるものである可能性がある。(そんなものを再生エネルギー法で保護して行こうとしている政府の判断もどうかしています。) それでは現在のものと比較して、はるかに安価に、はるかに少ない資源量で製造出来るソーラーパネルが開発されたらどうでしょう。但し、これは製造や敷設にかかるコストはとても安いけれども、導入後のメンテナンス費(人件費)がとても高いものだとします。経営者の視点だとやはり導入メリットはありませんが、持続可能性や環境保護の視点で見ると、それはメリットがあるものかも知れない。何故なら、人間の労働力というのは再生可能な資源の最たるものであり、人類が続く限り無尽蔵に供給可能なものであるから。人件費を払わなければならないと思うから企業の採算に乗らないだけで、私たちがボランティアでそのメンテナンスを行なって行けば、それは持続可能なエネルギー源として維持出来るかも知れません。もしもBIが保障されている社会なら、そういった選択肢だってあり得る訳です。

 これまでの生産性に関する議論は、企業経営の観点からのみ論じられて来たのではないかと思います。つまり、原材料も化石燃料も労働力も、金額換算が可能な同じ経営資源として捉えるというやり方です。確かに経営者にとっては、1万円で買える原材料も労働力も同じコストでしかありません。しかし、その資源が〈使い減り〉するかどうか、これからの社会のなかで持続可能なものであるかどうかという観点で見ると、このふたつはまるで違ったものになります。つまり、効率だとか生産性を考えるためには、お金の尺度だけではない、もっと別の尺度が必要だということなのです。BIの実現といったことも、そこまで議論を掘り下げた上で考察しなければ、単なる机上の理想論を脱することは出来ないと思う。――しかし、今回はまだ序論です。議論を急ぐのは止めましょう。先ほども言い訳したように、この問題に対して私はまだどんな解決策もアイデアも持っていません。連載にしたいと思っているのですが、次回何を書けばいいのかさえ分かっていない。でもヒントは少し見えて来ました。問題を解くひとつの鍵は、労働力や人件費というものの周りにありそうです。とりあえず震災復興のために多くの人たちが参加している「ボランティア」というものから考察して行くことにしましょうか。

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