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2011年7月31日 (日)

自民党は原発推進を宣言すべし!

 地震と津波、同じような被害を受けながら、東北電力の女川原発は安全に原子炉の停止を行なうことが出来ました。もしも福島第一原発が、女川原発と同様に今回の事故を起こさなかったとすれば、日本各地の原発が次々と運転停止に追い込まれるような事態にもならなかった筈です。そう考えると福島の事故は、電力業界だけでなく、日本の産業界にとっても痛恨の出来事だったのではないかと思います。一方、もしもあの震災で原発に何のトラブルも起こらなかったとすれば、日本の原発は安全だということが再認識されて、2030年までに国内の電力発電量の50%以上を原子力発電によって賄うという政府の計画が、そのまま推進されていた可能性がある。それが達成されたあとで今回のような事故が起こったとしても、日本はもはや脱原発の方向に舵を切ることは出来なかったでしょう。そう考えると今回の事故はまさに絶妙のタイミングで起こったとも言える(原発事故で被災された方々には申し訳ない言い方ですが…)。後世の目から見れば、これは日本の、いや世界の歴史を転換させる重大な事件だったと振り返られるかも知れない。私は、9.11事件によって人類の歴史は半世紀くらい巻き戻されてしまったと考えていますが、3.11大震災は逆に、人類の歴史を新しいステージに押し上げるきっかけを作ってくれたのではないかと考えているのです。

 もうずいぶん以前から、私たちは環境破壊や天然資源の枯渇などによって、人類の未来に暗雲が垂れこめていることを予感していましたし、それに警鐘を鳴らす人たちもたくさんいました。しかし、エネルギーや資源をふんだんに使う快適な生活から、自分たちがそう簡単には抜け出せないことも一方で知っていた訳です。今回の事故とそれに続く電力不足は、そんな現代人にとって一種のショック療法になったとも言えます。いま多くの人が太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーに未来の希望を見ていることも、決して短絡的な思考に陥っている訳ではないと思います。ずっと先延ばしにして来た課題に、我々はようやく自ら向き合う覚悟を持ったのである。一部の評論家やエコノミストと呼ばれる人たちは、脱原発によって日本は貧しい国になると警告しています。それはその通りでしょう。しかし、脱原発を訴える人たちが、そのことに目をつぶっている訳でもないと思うのです。大きなリスクと隣り合わせの豊かな生活よりも、多少貧しくなっても将来に亘って安心出来る社会を選び取りたい、これが脱原発派に共通する想いでしょう。原発事故ではみんなが子供たちのことを心配しています。つまり日本の未来のことを心配している訳です。国民がこれほど真剣に国の未来のことを心配し始めたのは、かつてなかったことではないか。

 アンケートの結果を見ても、「脱原発」という方向性を多くの国民が支持しています(新聞調査で77%)。それは単にエネルギー政策の問題にとどまらず、日本が経済成長を目指す方向から、持続可能な社会を目指す方向に転換する、そのことが支持されているのだと思います。考えてみれば当たり前のことですが、経済成長と持続可能性というふたつの概念は相性の良いものではありません。この限られた地球という星のなかで、永遠に続く経済成長なんて理論的にもあり得ないからです。持続可能な社会を実現するためには、むしろ経済成長を自らの意志と判断で止めなければならない、いつかはその時が来る筈だ。少なくとも一定の経済成長を達成した先進国が、この点で先行事例を示さなければ、これから発展する途上国にとっても着地点が見えないことになる。フクシマの事故は、日本にとうとうその時が来たことを私たちに教えているのではないか。まあ、そこまで書くと脱原発派の人のなかにも違和感を感じる人が出て来るかもしれませんが、気分としてはそういうことではないかと思うのです。脱原発ということだけなら、コストの高い再生可能エネルギーよりも、液化天然ガスによる新世代の火力発電という選択肢もある訳で、猫も杓子も自然エネルギーでなければならないというのはおかしい。つまり「脱原発」は単に脱原発というだけの話ではなく、もっと大きな社会構造転換のシンボルになっているのではないかということです。

 いま日本の政治は、ほとんど機能停止状態に陥っているように見えます。私は脱原発の看板を掲げている限り、孤軍奮闘する菅首相をどこまでも支持したいと思っていますが、この論点を軸にして政治家が真っ向から議論を戦わせる場面がほとんど見られません。今週金曜日の朝刊では、玄葉大臣が議長を務める政府の政策検討会議が、「減原発」の方向を記した中間報告を出したと報じられていました。「反原発」が「脱原発」になって、今度は「減原発」ですか。報告書には「『反原発』と『原発推進』の二項対立を乗り越えた国民的議論を展開する」と書かれているそうです。これに対して新聞記事は「与野党や官庁、財界に反発の強い『脱原発』の表現は避けた」とコメントしています。民主党政権、嗤うべし。「脱原発」というコトバひとつ使えないヘナチョコ政治家どもに、この国の方向性を決める国民的議論がリード出来るものか。「反原発(脱原発)」と「原発推進」のあいだに、中間項なんてあり得ません。段階的に原発依存度を下げて行った先に、すべての原発の廃止があるなら、それは正しく脱原発と呼ぶべきでしょう。私が考えるに、脱原発をめぐる議論の論点はたったひとつ、国内に新しい原発の建設を許すか許さないかという点に尽きます。原発の耐用年数は40年、もしも新しい原発が造られなければ、遅くとも40年後には自然に脱原発が成し遂げられる筈だからです。この問題は国家百年の計、いや千年の計と言っても過言ではありませんから、原発廃止までに10年かかろうが40年かかろうが大した違いはありません。

 民主党が党内での意見調整も出来ず、国民の支持をどんどん失っているいまこそ、自民党は原発推進を党の基本方針として明確に打ち出してはどうでしょう。私自身は脱原発派ではありますが、こんな状況のなかでも説得力ある原発推進の議論は出来るのではないかと思っています。例えばこんな議論はどうでしょう。

 ――「原発をどうするかは、日本だけの問題ではない。たとえ日本が脱原発の方向を選択したとしても、世界的に見れば途上国を中心にまだまだ原発の数が増えることは間違いない。もしもいま、日本がこの分野での技術開発から降りてしまったら、世界には〈日本の技術抜きで〉造られた原発が林立することになるだろう。それが果たして世界をより安全にすることにつながるだろうか? 今週、中国で起きた高速鉄道の事故は、新興国が自前の技術に頼って、拙速に実用化を推し進めることの危うさを私たちに印象づけた。鉄道ならまだいい、事故が起こってもその国の国内問題だ。しかし、原発はどうか。原発事故は、いったん起こってしまえば一国だけの問題では済まされないことを、今回我々は学んだ筈だ。そしてここで忘れてはならないことは、福島で事故を起こした原発は、40年以上も使い続けた旧式のもので、しかも輸入品だったということだ。耐用年数を過ぎた40年落ちの米国製扇風機が火を噴いたとしても、そのことは扇風機一般の欠陥を意味するものではない。もっと早く品質の高い国産メーカーの製品に買い換えるべきだったのだ。原発も同じだ。今回の事故の原因は、一私企業が企業利益を重視するあまり、最新の安全性能を導入することを怠っていた点にある。もっと早く最新の原発に買い換えるべきだったのである。我々がこれから進むべき方向は、日本の技術を総動員して、安全性を徹底的に高めた原発を開発し、国内の原発を順次それに置き換えて行くこと、そしてそれを世界中に積極的に輸出して行くことである。それが実現して、初めて福島の教訓は活かされたことになるのだ。」

 …書きながら自分が原発反対派であることを忘れてしまいそうですが(笑)、いまの世界の情勢と、そのなかでの日本の役割という点から考えれば、これもひとつの見識ではないかと思います。この他にも、インターネットを少し検索すれば、説得力ある原発推進派の議論はいくらでも見付かります。そうした意見をまとめ上げて、自民党はこれからの時代の新しい原発推進策を毅然として国民に問うのです(もちろん福島原発の事故に関しては謙虚に反省の色も見せながら)。いまの世論の動向を見れば、一見これは無謀な政策決定のようにも見えますが、そうとも限らないと思います。反動は案外早くやって来るかも知れない。トラブルを起こした訳でもない原発まで、再稼働が出来ないいまの状況は異常なものです。経済界だけでなく、一般の国民のなかにもこの異常さに気付いている人は多いに違いない。冷静に考えてみれば、(少なくとも今後数十年は)やはり日本に原発は必要不可欠なのであり、必要不可欠である以上、それを安全なものに取り換えて行くのは当たり前の話です。そういう世論の受け皿になること、それはこれまで半世紀に亘って原子力行政を一貫して進めて来た自民党としての義務だと言ってもいい。このまま野党(野次政党?)として朽ち果てて行くより、次の選挙戦略としてもその方が賢明だと思います。

 自民党が原発推進宣言を出せば、党内で意見がまとまらない民主党も、脱原発を看板に掲げざるを得なくなります。この政策対立は、私はとても好ましいものだと思います。例えば、憲法改正や米軍基地問題なんてことは、震災後のいまの目から見れば小さな問題だったとも言える。いや、小さな問題は語弊があるかも知れませんが、少なくともそれは戦後日本というローカルな視点での問題だった訳です。ところが脱原発というのは、これから数世紀に亘る人類共通のテーマなのです。日本の政治がこれを争点とする二大政党制に移行すれば、現在の政治的混迷からもきっと抜け出せる。日本に強い政治が戻って来る。政界再編も自然に進みます。自民党の脱原発派は民主党に、民主党の原発推進派(新規原発建設容認派)は自民党に移ってもらう。そうなれば次の選挙は、実質的に脱原発をめぐる国民投票という意味を持つものになります。これは有権者にとっても非常に納得のいく話です。仮にいま菅直人首相がやぶれかぶれ解散をしたとしても、選挙の争点はまったくぼやけたままです。それは日本の政治をさらなる混迷に突き落とすだけのことでしょう。この状況から日本を救い出せるのは、ひとえに自民党の誠実な決断にかかっていると私は考えます。

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2011年7月24日 (日)

ボツになったアフォリズム集(4)

(そろそろ震災や原発事故の問題から離れて、本来のテーマに戻りたいと思っているのですが、なかなか気持ちがうまく切り替わりません。先週は書こうとした原稿がうまくまとまらず、一回投稿をお休みしてしまいました。今週も以前ツイッターに書いた文章の再録でお茶を濁します。困った時のアフォリズム集です。)

1.市場経済と経済政策

  • 自由な競争がある社会は望ましい、但しそこから脱落した人に対するセーフティネットの整備は必要だ。――こういう言い方をすれば誰も文句はつけられない。だが、問題は今日の社会が要求するセーフティネットの規模が、自由主義経済を圧し潰すほど大きいものになっているという点だ。
     
  • 成果主義や年俸制というのは、他社が育てた人材を横取りするための仕組みと言える。一見合理的だが、多くの企業がそれを採用すれば結局人材は育たなくなる。年功序列から成果主義に移行する社会は、未来への投資を止めた社会なのである。
     
  • 私たちが将来のためにお金を貯金をするということは、いまお金が必要な誰かからそれを奪っていることに他ならない。
     
  • ボランティア活動と言えば何か美しいもののように聞こえるが、それは要するに労働力のダンピングであり、最低賃金で働く労働者から仕事を奪うことである。「ボランティア募集」という広告を見たら、時給0円で働くことの陰で誰が笑い、誰が泣くのかを考えてみるべきだ。
     
  • 庶民が1円の値段の違いを気にしてスーパーで買い物をしている時、デイトレーダーはパソコン上で1億円のお金を動かしている。国内経済のなかに、金融資本が食い込むことの出来ない、生活人のための〈非武装地帯〉を設けることがどうしても必要だと私は思う。
     
  • 資金需要が無ければ、いくら量的緩和をしてもデフレ脱却の効果は無いという意見がある。が、資金需要はあるところにはある。どこにあるかと言えば、政府や自治体にはたっぷりとある訳だ。日銀による国債の直接引き受けが求められる所以である。
     
  • 政府の行なって来た経済政策がすべて間違いだったと言うのは正しくない。大抵の場合、それは単に他国より後手に回っていたというに過ぎない。しかし、経済政策において後手を踏むということは、大抵の場合、間違った政策を他国に先駆けて実行するより更に悪い結果を招く。

2.ベーシックインカムについて

  • 複雑さというものは既得権の発生する培養土である。あるいは発生した既得権を隠蔽する雑草地であると言ってもいい。ベーシックインカムを導入する意義は、何よりもこの複雑さを一掃して、既得権の構図を打ち破るところにある。
     
  • BIは「働きたいのに働けない人」に救いの手を差し伸べないと言う。果たしてそうか。むしろBIの導入によって、働きたくないのに働かざるを得ない人が働かなくてもよくなり、その結果として働きたいのに働けない人が働けるようになるのが自然の理路というものではないか。
     
  • BIのある社会では、完全雇用ということを政策の目標にしなくてもいい。ひとつにはBIによって最低水準の生活が保障されているからだが、さらに本質的にはBIによって雇用の流動性が高まることが期待出来るからである。
     
  • 日本の経済にとって最大の呪縛となっているものが労働力の流動性の低さという問題だろう。ベーシックインカムの一番の魅力は、この呪縛を解き放つ可能性を秘めているという点にある。
     
  • ベーシックインカムは、労働市場における流動性だけでなく、結婚市場における流動性も高める。夫のDVに苦しむ妻は子供を連れて離婚し、シングルマザーやシングルファザーは諦めていた婚活を始める。希望の持てる家族の再編が始まる。
     
  • 供給側に資金を提供するということは、貸し手が国であろうと銀行であろうと利子を付けての返済を前提としている。しかし、需要側への資金の提供というものは返済を求めない贈与であるしかなく、贈与であればこそ将来の負債として国民経済を圧迫することもない。
     
  • 産業の効率化ということは、これまでは資本家にとっての福音でしかなかった。ベーシックインカムのある社会では、それはすべての人にとっての福音になるのだ。

3.政治の混迷について

  • 驚くべきことに、この国では政治家としての資質や適性というものが、総理大臣になるまで試されることがないらしい。そこに登りつめるまで、我々は彼の何を見ていたのだろう?
     
  • 議員定数削減が国会で論じられている。早い話、これに賛成するのは定数削減されても選挙で生き残れる自信のある議員たちで、反対しているのはその自信が無い議員たちだろう。議員の給料を半分にすれば丸く収まる話なのに。
     
  • 官僚主義とは何か? 官僚主義を排すると言えば、官僚主義を排するための予算を要求してくる、それが官僚主義というものである。
     
  • これからの政治の課題は、「みんなが少しずつ我慢する仕組み」を作ることである。小泉改革の失敗は、国民に「痛みに耐える」ことを訴えながら、痛みを広く国民に分配せずに、一部の人たちにのみ激痛を押し付けたところにある。
     
  • 改革というものが難しいのは、それが〈既得権益〉との闘いになるからだ。最近の言葉でいう「Win-Win」の関係にならない改革は成功しない。資本家と労働者が、先進国と途上国が、そして私たちと百年後の子孫たちがともにWin-Winになること、それが真の改革である。
     
  • 政治的事件につきものの「陰謀説」というのは、一般的に考えられているほど有害なものではない。むしろそれは言論が健全であることを証明するものである。その健全性は陰謀説がいくら真実らしくとも証明不可能であることで担保されている。
     
  • 保革という対立軸が優れているのは、時代環境が変わっても、歴史が続く限り不変の対立軸だからだ。長く続く政界の混乱は、つまるところ日本の政治がこの対立軸を見失ったことに由来する。

4.社会保障制度の現実

  • 企業が競ってより良い製品やサービスを生み出すという市場原理の法則も、お金の集まる市場でしか成り立たない。もしもニーズのあるところにサービスがあると言うなら、この国にはホームレスも生活保護家庭も存在しない筈である。
     
  • 貯蓄好きは日本人の国民性だというのも、過去においてはそうだったかも知れないが、今は違うと思う。国も信じられない、地域社会も信じられないという不信感が、人を貯蓄に駆り立てているのだ。
     
  • 年間3万人もの自殺者がいるのに、行政がこれに積極的な予防策を講じないのは、自殺を財政の負担になる厄介者を淘汰するための調整弁とでも考えているからだろうか。
     
  • 年金支給年齢を5歳も引き上げるという改革は出来たのに、すでに支給されている年金を減額するという改革は絶対に出来ない。げに恐ろしきものは〈既得権益〉である。
     
  • これが事件としてのネズミ講であるなら、一部に勝ち逃げをする人たちがいたとしても、その人たちの利権は事件発覚後も続く訳ではない。ところが公的年金の場合、いったん受給資格を得れば、あとに続く世代がどれほどの損をかぶろうともその利権は死ぬまで続くのだ。
     
  • 年金をかけるのは、老後の生活を支えるためだけではない、長生きをし過ぎることに対する保険をかけるという意味もある。もっとはっきり言えば、平均寿命より早く死ぬ人が、長寿の人の余生を支えるということである。年金とは要するにロシアン・ルーレットである。
     
  • 政府も国民もこぞってリスクを先送りするやり方に加担している。リスクは先送りすればするほど、クラッシュした時のショックも大きい訳で、私たちは将来の子供たちに爆弾を投げ付けているのも同然である。

5.死刑制度と裁判員制度

  • 我々は次の世代によりよい世界を遺して行く義務がある。例えばそれは美しい自然の残る世界であったり、飢えや貧困の克服された世界であったりするように、死刑の廃止された世界でもある。
     
  • 死刑制度や安楽死について考えると、まだまだ西欧諸国に見習うべきことが多いと感じる。こうした領域での後進性を未成熟な個人主義のせいにするのは欺瞞だと思う。試行錯誤によって成熟するという経験が我々には欠けている。
     
  • 死刑制度は絶対主義としか相性が良くない。少なくとも信仰の自由を認めている国では、死刑制度そのものに矛盾がある。だから中国や北朝鮮やイスラム諸国では死刑は何の矛盾も無く存続し得るのである。
     
  • 死刑が国家権力の示威行為であることは、刑法で死刑となり得る犯罪の筆頭に内乱罪が来ていることからも理解出来る。
     
  • 動機が不明な無差別殺人犯の口から決まって聞かれる「死刑になりたかった」という言葉を、何故死刑存置派の人たちは聞きもらすのだろう?
     
  • 裁判員制度を評価するには、裁判員経験者の意見を聞くだけではなく、裁判員裁判で裁かれた元被告の意見も聞くべきだ。服役中の犯罪者がこの制度にどれだけ満足(あるいは納得)しているかということは、彼らの今後の更生という観点からも非常に重要なことだ。
     
  • 裁判員制度というものが始まって、刑事司法に対する国民の関心が高まっている筈なのに、裁判における有罪率99.9%の謎を誰も解こうとしないのは怪しむべきことだ。

6.死と安楽死の問題について

  • これまでさんざん自然をコントロールして来た人間が、何故〈死〉という最後の自然をコントロールしてはいけないのか?
     
  • 基本的な考え方として、私は「人間には自殺をする権利がある」という事実を認めるものだ。それを認めた上で、それでもなるべく自殺者が少なくなる社会をどうやって築いて行くか、それをみんなで考えて行くのが健全な社会であると考えるのである。
     
  • 安楽死の合法化に反対する人には、人間というものがどれほどまで苦しむことが出来る動物かということに対する想像力が欠けているのではないかと思う。
     
  • 死に対して受け身の姿勢でいる時、死への恐怖は最高潮に達する。死の床にいる者から〈尊厳死〉という最後の選択肢を取り上げることが、どれほど残酷なことか私たちは分かっていない。
     
  • 医療における安楽死が認められていないことが、自殺率の高さの原因のひとつではないかという私の仮説について。これはわざわざ証明するまでもないことだと思う、この国の自殺要因のトップは病苦なのだから。
     
  • 私たちは死後に執り行う儀式をいろいろ持っているが、人がまさに死んで行く際に行なう儀式というものを何も持っていない。そうした儀式が洗練された時代から振り返れば、延命措置によって徒に死を先送りしている今が、いかに野蛮な時代だったと見えることだろう。

7.道徳について

  • 起源を問うことに意味が無いものが存在する。道徳というものがまさにそうであり、愛というものもそうだ。
     
  • いつも不思議に思うことがある。何故我々の理性は、人間の精神の中に功利性の現れを見ると、それで何かが合理的に説明されたと思うのだろう?
     
  • 価値というものが生まれて来るのは、ひとりひとりの人間のかけがえのなさ、哲学の言葉で言えば自己同一性という地点からだけである。そして何度も指摘しているように、このことは理論的に証明不可能なのだから、道徳を科学的に基礎づけることも不可能なのだ。
     
  • 人間の道徳的なレベルには絶対的な点数の目盛りが付いている訳ではない。むしろ道徳性というものはベクトル(方向性)として測るべきものである。だからそれには到達点というものが無いし、最底辺というものも無い。
     
  • 道徳性というのは動的なものであり、完成された徳というのは一種の形容矛盾である。
     
  • 時代の閉塞感や悲観主義に窒息してしまわない方法がふたつある。行動を起こすことと考えることだ。
     
  • 赤ちゃんが母親の顔を見てにっこりする。そこに道徳の、つまり人間らしい心の出発点があるだろう。私たちは常にそこに立ち戻って、そこから始めるのである。

8.その他の哲学的断想

  • ある人間がある瞬間において深遠になるか浅薄になるかということは、ほとんど偶然の事柄に過ぎない。たとえそれが天寿を全うした荘厳な死の瞬間であったとしても。
     
  • 完全犯罪というのはアリバイが完璧である犯罪のことではない、そこに犯罪があったことさえ認知されないような犯罪のことである。
     
  • 我々は過去を美化し過ぎるか、さもなくば現代とは断絶した野蛮な時代として切り捨ててしまうかのどちらかである。むろんどちらも誤りだ。
     
  • 人はいつの時代にも、過去というものと切り離された特別な時代に生きていると錯覚している。その錯覚のことを「現代」と呼ぶ。
     
  • チェーホフの小説のやり切れなさは、その後日談というものを想像してみる時、一層ひしひしと迫るものがある。
     
  • 「結婚しても仕事は続けるつもりよ」―娘が言った。「就職しても仕事は続けるつもりさ」―若者が言った。
     
  • もしもこの世のすべての女性が美人ばかりだったなら、フェミニズムという思想も生まれて来なかったに違いない。(反論御免)
     
  • 人間は常に愚劣なことを言い、また書いたりもするものだが、それは彼が愚劣な人間だからでは必ずしもない。瞬間というものは常に多少は愚劣なものなのだ。
     
  • 恋愛というのは最も月並みな情熱だが、これを凌駕するためにはまったく月並みならぬ超人的な情熱を必要とする。
     
  • 権力を批判することも、時代に絶望することも、実はたやすいことなのである。どんな状況に置かれても希望を失わずにいることだけが容易ではない。私は戦略としての楽天主義を採る、言わば〈方法的楽天主義〉である。
     
  • 君たちは私の理想主義を非現実的だと言って非難する。だが、いいではないか、現代は高度に専門化した分業の時代である。君たちは君たちの現実主義を、私は私の理想主義を。
     
  • 金持ちになることも、世間の尊敬を受けることも、幸せへの道ではない。いや、そもそも幸せになることが人生の目的ではないと悟るところまで行けば、人は哲学者になれる。

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2011年7月10日 (日)

「Fukushima」は「福島」のままで

 言われてみて改めて事の重大さに気付くということがあります。今週の火曜日、朝日新聞朝刊の読者投書欄を読んでいたら、ジョン・ルヤットさんという弁護士の方のこんな投書が載っていました。以下、全文の引用です。

『福島の県名、変えるべきかも

 原発事故発生から25年たつ今も「チェルノブイリ」と聞くと、「怖い」「汚染された」という印象しか浮かばない。「Fukushima」も同じと言えないか。福島第一原発が「福島」の名を使っていたのは残念だ。現在、「Fukushima」は、チェルノブイリ以来史上最悪の「レベル7」の原子力事故しか連想させない。
 今から25年後、福島県全域が安全になっても、外国人観光客らは「今度福島のスキー場に行く!」と言い出しにくいのではないか。福島を愛する人たちにはそんな気持ちはわからないかもしれない。「福島」を「チェルノブイリ」に置き換えてみればわかるだろうか。
 そこで、県名を変えてはどうだろうか。「福島は安全」という観光パンフレットをいくら発行しても、一般の人にとって福島と聞いた時の第一印象は変わらない。しかし、県名を変えれば、印象は一変する。例えば「磐梯県」に変えれば、原発事故でなく、「美しい山々の景色」が浮かぶのではないか。福島県の安全性について宣伝するより、県名を変えることの方が効果的ではないかと思う。』

 原発事故については、いろいろな人の文章を読みましたが、こういう提案は初めて目にしました。なかなか日本人では思い付かない発想だと思います。日本には54基の原発があって、立地している16箇所の地名がその名に冠されています。その中で県名が使われているのは、福島と島根の2箇所だけです。確かにもしも福島第一原発が、立地する町名にちなんで「双葉原発」というような呼称であったなら、福島県が蒙った(また今後も蒙るであろう)風評被害の深刻さは、かなり緩和されたものになっていたかも知れません。でも、そんなこと、原発を建てる時には思い付きもしませんでしたよね。現在国内で稼働している13基の原発のなかには、「島根原発」の1基も含まれています。こちらはまだ間に合うかも知れない。島根県は福島の教訓を活かして、島根原発を例えば「鹿島原発」と改称することを検討してはどうでしょう。国内の原発の命名ルールとしては、むしろそちらの方がふつうなのですから。(松江市鹿島町の皆さん、ごめんなさい。)

 しかし、すでに世界にその名を轟かせてしまった「Fukushima」の方は、ルヤットさんもおっしゃるようにもう手遅れです。改めて事の重大さに気付いたというのはそのことです。ただ、だからと言って県の名前を「磐梯県」に改称するというのも、私には違和感があるのです。そういうのを日本語で何というんだっけ? そうだ「姑息」だ、それは姑息な手段ではないかと思う訳です。例えばチェルノブイリが、マイナスのイメージを払拭するために全く別の地名に改称したとしたら、世界中の人々はチェルノブイリ事故のことを忘れてくれるだろうか? そんなことはありませんよね、私たちはその新しい地名をしっかり頭に刻みつけるでしょうし、それはチェルノブイリのイメージをさらに悪化させるだけだと思います。福島が磐梯に変わっても同じこと。「気の毒な福島」のイメージが、「気の毒で姑息な磐梯」のイメージに変わるだけのことではないかと思う訳です。(磐梯町の皆さん、ごめんなさい。)

 朝日新聞がこういう投書を載せる時、そこには新聞社からの暗黙のメッセージがあります。つまり「反論募集」ということです。「こういう意見がありましたが、あなたは福島の県名を変えることに賛成ですか?」 これに対して日本人の読者から、「いや、福島の名前はこの先もずっと残すべきだ」という反論が返って来る。たぶんもう新聞社にはそういう主旨の投書がたくさん寄せられている筈です。そして数日後には、そのうちの一通が掲載されてこの話題はおしまいということになります。それが読者投書欄のお約束なのです。よろしい、福島県の改称問題には私もひとこと言いたい気がするので、新聞社の思惑に乗せられていることを承知の上で、自分でも投稿してみることにしましょう。で、ルヤットさんの投書が掲載された翌日に、以下のような文章をメールで新聞社に送ってみました。(実はこれまでにも何回か投稿したことはあったんですが、採用されたことはありません。笑) 

『福島に新たなブランド価値を

 先日の声欄にジョン・ルヤットさんという方の「福島の県名、変えるべきかも」という投書が載りました。事故後25年を経た今も「チェルノブイリ」という地名には、マイナスのイメージだけがつきまとっています。福島が同じ轍を踏まないためには、例えば県名を「磐梯県」に変えてみてはどうかという提案でした。
 福島に住む人たちだけでなく、多くの日本人読者が、この記事を読んで胸をつかれるような思いをしたのではないかと思います。明治の廃藩置県から百四十年、私たち日本人にとって47の都道府県の名は、そのひとつひとつが格別なふるさとの響きを持って心に刻まれているものです。そのどれかひとつが欠けても、祖国の一部が失われたような気がするのは私だけではないと思います。
 福島県は、むしろ世界的に有名になってしまった「Fukushima」の名を、新しいブランドイメージとして再構築していく方向を模索すべきではないでしょうか。地震、津波、原発事故の三重苦を乗り越えて、いかに美しいふるさとが再生したか、それは世界遺産にも匹敵するアピール度を持つはずです。その時ルヤットさんには、ぜひ新生フクシマの観光大使になっていただきたい気がします。』

 まだ本日(7月10日)までのところ、くだんの反論投書は掲載されていないようです(私の読み違えだったかな?)。ともあれ、ひとりの外国人の方からの親身で率直な、それゆえ少し残酷に感じられる提言は、私たち日本人に対して貴重な教訓を与えてくれたと思います。それは、今回の震災で日本を取り巻く状況は大きく変わってしまい、もう後戻り出来ないところまで来てしまった、そういう事実を直視しなければならないという教訓です。3月11日を境に、日本人の思想、というか歴史観が深いところで地殻変動を起こし始めているのを感じます。これまで原発反対派を目の敵にしていた保守派(右翼)の人たちの中に、原発に対する態度を見直す動きが出ているのだそうです。考えてみれば、これまでこの国の中で続いて来た保革対立の構図がおかしかった。何故「この国のかたち」を何より気にかけている筈の保守派が、原発建設や米軍基地維持に親和的なのか? これまで惰性で続いて来たこの奇妙なねじれの構図が、原発事故をきっかけに崩れようとしている。これは大きなチャンスだと思います。これからの国のあり方を党派性や先入観にとらわれずに考え直すためのチャンスという意味です。そして、復興なった福島が、この国の未来を先取りしていたことに世界中が気付く日が来れば、「フクシマ」の名前はヒロシマやナガサキと同様、特別な意味を持って人類の記憶のなかに残ることになるのでしょう。

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2011年7月 3日 (日)

持続可能な社会のためのエネルギー政策

 菅首相が推し進めようとしている「再生可能エネルギー特別措置法」は、果たして脱原発・エネルギーシフトへの切り札となり得るものなのでしょうか? 前回の記事では、そのへんの考察を端折って「原発解散」に一気に飛びついてしまいました。今回はもう一度最初に戻って、この問題について考え直してみようと思います。と言うのも、どうも「再生可能エネルギーの全量定額買い取り」という発想には胡散臭いものがある、そう感じるからです。私がこの考え方を最初に知ったのは、孫正義さんの立ち上げた「自然エネルギー財団」の説明資料によってでした。もしも今後20年に亘って、自家発電の電力を1キロワット時当たり40円で買い取ってもらえることが保証されていれば、太陽光発電への設備投資はペイする。つまりソーラーエネルギーは爆発的に普及するに違いないというのです。これは机上の理論ではないので、すでにヨーロッパ諸国(ドイツ、フランス、イタリア、スペインなど)では、20年以上も前から全量買い取り制度が始まっていて、その結果、これらの国々では発電量に占める再生可能エネルギーの割合が、日本などよりもはるかに大きくなっているというのです。

 この話が胡散臭いのは、多くの人が考えているように、孫さんが自身のビジネスを利するために政治的な働きかけをしているからではありません(それは事業家としては当然の動きでしょう)。電力会社に対して全量買い取りを義務付けるというスキーム自体がヘンなのです。最初に全量買い取り制というコトバを聞いた時、当然それは国が買い取るのだろうと思っていました。民間企業である電力会社に、無条件で買い取り義務を負わせることに、合理的な根拠があるようには思えなかったからです。自社で1キロワット時10円の原価で電力を製造出来るのに、何故外部から1キロワット時40円の電力を買って来なければならないのか。しかも売りつけられる量もタイミングも、市場の需要がどうなっているかになどおかまいなしです。これに対して電力業界側からの強い反発が無いのは、外部の電力を高く買い取ったとしても、その分を自社製品(電力)の価格に転嫁することを法律で保証されているからです。これまでもソーラー発電などで出来た電力を、電力会社が買い取るという制度はありました(全量ではなく余剰分を)。要するに、日本の高い電力料にはその分のコストが織り込み済みだった訳です。全量買い取り制度は、この歪んだ仕組みをさらに助長するだけではないのだろうか?

 もしも再生可能エネルギー法を制定するなら、国が1キロワット時40円で買い上げて、電力会社に1キロワット時10円程度で売る、しかも買い取る量とタイミングは電力会社が自由に決められるということにでもしなければ、市場経済の原則に合いません。もちろんこの場合にも、国の赤字は税で埋められる訳ですから、国民(電力消費者)の負担になるという点では同じです。しかし、再生可能エネルギーを国策として伸ばして行くことが目標なら、そこに税を投入することは合理的です。孫さんのような野心的な事業家が、発電事業に参入するとしても、それは市場競争に1プレイヤーとして参加する訳ではない、国から委託されて補助金事業に参加するといった意味合いになります。当然、利益事業というより公共事業に近いものであって、国からの規制や指導も入りやすくなるでしょう。話がそういうことなら分かりやすくていいと思います。おそらくこの方式の場合、国が買い上げた電力は、ほとんど電力会社に買い取られることもなく、捨てられてしまうだけでしょう。しかし、それは電力会社が直接電力を買い入れた場合でも同じです。いまでも電力会社は、第三者から高い電力を買う必然性などまったく無いからです(この夏は別として)。もしも国から電力会社への卸し価格が、10円ではなく5円だったとすれば、そこで初めて他の発電方式と比較して価格優位性が現れますから、電力会社は買い取った分だけ自社の発電量を落とす意味が出て来ます。もしも政策的に再生可能エネルギーを推進するなら、国はそこまで責任を取らなければならないと思います。

 この問題と密接に絡まったもうひとつの問題として、「発送電分離」ということがあります。これも欧米などではもう当たり前になっている方式だそうです。発電と送電を1社が独占していると、競争原理も働かず、技術革新も起こりにくい。送電事業を複数の事業者に競わせることは効率的でないが、発電事業の方はさまざまな技術を持った方式の異なる事業者が競い合っていい。そのために発電会社と送電会社を分離しようというのです。しかし、これも純粋な市場原理の観点から見れば、単なるまやかしに過ぎないと思います。ドイツでは福島の事故のあと、再生可能エネルギーを売りものにする発電業者に契約先を変える家庭が増えているのだそうです。意外なことに、それでも電力料金はほとんど変わらないのだと言います。何故かと言えば、発電方式にかかわらず政策的に料金体系が揃えられているからです。つまり税金でハンディキャップを埋めている訳です。発送電分離によって電力事業にフェアな自由競争がもたらされるなどというのは幻想です。太陽光発電などはよほど政府の強力な支援が無ければ価格競争で生き残れない筈です。つまるところ、全量買い取り制にせよ、発送電分離にせよ、電力事業に対しては政府の強い関与を排除することは出来ないのです。そしてそれでいいのだと思います。これからの電力政策をどうするかということは、この国の、いや、人類の未来に関わる大きな選択の問題であり、市場原理に任せていいような問題ではないからです。

 それにしても、再生可能エネルギーというものに共通した投資効果(エネルギー効率)の低さを思うと、脱原発の先にある未来が決して豊かな明るいものではないことに気付かない訳にはいきません。この先、原子力に代わる代替エネルギーとして、太陽光発電や風力発電が主役に躍り出るなんてことは、よほどの技術革新が無い限りあり得ないことだと思います。しかも新技術が圧倒的な低価格化をもたらさない限り、研究開発費を投じるのもムダということになりかねない。(たとえエネルギー変換効率80%のソーラーパネルが開発されても、価格が今の10倍だったら誰も使わない。) 孫さんの大平洋ソーラーベルト構想(最近は「電田計画」と名前を変えたのかな?)も、汚染された耕作地を有効活用するという点では優れたアイデアだと思いますが、20年後には巨大な廃墟が雨ざらしになっているだけかも知れません。そもそも脱原発がすぐに再生可能エネルギーの促進に結び付いてしまうのは、火力発電は温暖化を促進する悪いものだという先入観があるからでしょう。しかし、最新の天然ガスを利用した火力発電は、従来の重油による火力発電に比べてエネルギー変換効率が高く、発電量当たりのCO2排出量も格段に少なくて済むのだそうです。だとすれば、国内の原発が止まったあとの発電の主役は、再生可能エネルギーよりも間違いなくこちらでしょう。

 国が再生可能エネルギーを推進することに意味があるとしても、脱原発という当面のテーマとは分けて考えるべきだと思います。ここからは素人の思いつきになりますが、国が再生可能エネルギーを推進することの意味は、代替エネルギーの開発ということよりも、温暖化を直接コントロールする技術の開発という点にあるような気がするのです。温暖化の直接の原因はCO2ではありません、太陽光が持つ熱です。CO2を始めとする温室効果ガスは、太陽エネルギーを効率よく大気中に閉じ込めているだけで、それ自体が熱を発している訳ではないからです。以前にも書いたように、ソーラー発電というのは太陽光を熱として逃がさずに電力に変換するものですから、これを推進することはすなわち地球温暖化の原因を根本から抑えるという意味を持ちます。試算によれば、地上に降り注ぐ太陽エネルギーの1%をカットすることが出来れば、産業革命以降、人類が発生させたすべての温室効果ガスの効果をキャンセルしたのと同じことになるのだそうです。効率の良いソーラーパネルは、太陽光エネルギーの20%くらいを電気に変換することが出来ますから、例えばその電気を蓄電池にためて使わなかったとすれば、熱として発散するエネルギーも20%減少することになる(筈ですよね)。あとはソーラーパネルの面積だけの問題です。

 大気によって保温性を保たれたこの地球という惑星で、人間が温暖化をコントロールしようと思うなら、太陽エネルギーを熱として発散させずに、固定化させる技術の開発が何より重要になります。それは過去数十億年をかけて地球上の植物が行なって来た営みと同じです。そのためにはたくさんの要素技術が組み合わされなければならないでしょう。ソーラー発電はその入り口になるものです。政府は、ソーラー発電の促進によって温暖化を食い止めるという研究に予算を付け、京都議定書の約束が守れなかった場合にでも、国際世論を向こうに回して議論が出来る理論武装をすることです。そして排出権取引などという国際詐欺にこれ以上引っ掛からないようにすることです。ついでにもうひとつ、日本は地の利を活かして地熱発電の開発も急ぎましょう。こちらは代替エネルギー対策であると同時に、地球寒冷化への対策にもなります。今後もしも人類が太陽エネルギーを採り過ぎると、地上は逆に寒冷化するかも知れない。そんな時にマグマのエネルギーを地上に放出させてやることによって、寒冷化を中和してやるのです。考えてみれば、私たちが生活する地球という星は、太陽と地熱というふたつの巨大エネルギーに挟まれている訳で、これをうまくコントロールすることは人類の持続可能性にとって最重要な技術になる筈です。エネルギー問題などというのは、その技術の開発過程で自然に解消してしまうような問題でしょう。もちろんそれはこの先10年か20年のあいだに実現する技術ではなく、100年、200年先を見据えての技術ということになる訳ですが…

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