« 刑事司法を考えるための五つの数字 | トップページ | 「国際司法基準」の確立に向けて »

2010年11月 7日 (日)

司法の可視化はまずここから

 裁判員制度が始まって以来、初めての死刑求刑事件に判決が出ました。無期懲役。判決が言い渡された瞬間、遺族は号泣したと新聞の三面記事は伝えていました。誰もがこのニュースには心を深く動かされたのではないかと思います。この記事を読んで、まず私の心に湧いて来たものは怒りでした。もちろん悩みながら究極の選択を迫られた裁判員の方たちへの怒りではありません、関わるすべての人の心を傷つけるだけの、こんな酷薄な制度を導入した政府に対する怒りです。これについては何度でも同じことを書きます、先進国のなかでも、市民が死刑判決に直接関わる国は日本だけなのです。アメリカで採用されている陪審員制度では、陪審員は被告人の有罪・無罪を評決するだけで、死刑を含む量刑を行なうのは職業裁判官です。ヨーロッパ諸国で採用されている参審員制度では、参審員は職業裁判官とともに量刑まで行ないますが、ヨーロッパではすでに死刑は廃止されているのです(EUに加盟するための条件のひとつは、死刑が廃止されていることです)。本来、死刑制度を存続させている我が国において、西欧風の〈参審制もどき〉を採用するという選択肢はあり得なかった筈なのですが、〈司法業界〉の利害調整の結果、世にもまれなモンスター制度が出来上がってしまった、それが裁判員制度の正体です。

 しかし、今回私が指摘したいのは、裁判員制度の制度設計に関する問題ではありません、その運用に関する問題です。裁判員法によれば、裁判員による裁判は強盗や殺人などの重犯罪に適用されることになっています。が、この制度の運用が始まって以来、法的には裁判員裁判の対象になるべき事件の一割程度にしか実際には適用されていないのだそうです。裁判所の処理能力に限界がある以上は仕方がない、そういう言い訳は当然あるのだろうと思います。ひとつの国のなかで、同時に二種類の裁判制度が並立していて、どちらで裁かれるかは被告の運次第、というのもずいぶんおかしな話だと思いますが、とりあえずそれは措きます。問題は、その一割の事件を誰がどういう基準で選別しているのか、国民にはまったく知らされていないということです。今回の事件に続いて、鹿児島や横浜で起こった殺人事件が裁判員裁判にかけられる予定なのだそうです。死刑求刑が予想される事件です。何故、裁判員制度が始まって1年半も経って、そういう事案が次々に選ばれるようになったのでしょう? むろんそこには当局の隠された意図があるものと想像されます。「そろそろ国民もこの制度に慣れて来たところだから、死刑相当の事件を裁かせてみてもよかろう」、我々には顔の見えない法務省のお偉いさんたちが、どこかでそんな決定を下しているのだとしたら、ずいぶん国民を侮辱した話ではないでしょうか? 私は裁判員制度には一から十まで反対する者ですが、この制度が刑事司法における市民の主体性を育てるためのものだと言われれば、その理屈には一片の正しさがあることも認めざるを得ないのです。ところが蓋を開けてみれば、裁判員が裁く事件も〈お上〉がお膳立てをした上で国民に供されている訳です。どこに市民の主体性があるのだろう? ここにもこの制度の深い欺瞞があります。

 ここ三週間ほど日本の刑事司法について考えているなかで、問題の本質は司法当局の〈恣意性〉にあるのではないかと感じるようになりました。どの事案を裁判員裁判の対象にするかを決めるのは裁判所の恣意、どの容疑者を起訴するかを決めるのは検察の恣意、どの事件を検挙するかを決めるのは警察の恣意。もともと司法権力の根幹には恣意性というものがあるのだと思います。これはいつの時代、どこの国でも同じでしょう。ある日、私たちは何も身に覚えのないかどで逮捕され、裁判にかけられる、その理不尽さに司法権力の本質はあるのです。もしも犯罪捜査というものが犯人の〈自首〉によってのみ開始されるもので、一切の見込み捜査を警察が放棄したとすれば、捜査段階での恣意性は排除されることになるでしょう。しかし、その時には警察という組織自体が不要になる訳で、それで社会の安全性が保てるとは誰も考えない筈です。私たちは暗黙のうちに司法組織が行使する恣意性というものを認めているのです。それは安全な社会に暮らすために私たちが支払う税金のようなものです。だからこそ、私たちは司法官に対しては一般の行政官に求める以上の厳格な倫理性を求める訳だし、今回のような検察官による証拠改竄事件などが発覚すれば、通常の収賄事件や横領事件に対するのとは別次元の強い憤りを覚えることにもなる訳です。今回の事件では、問題を起こした検事の上司も犯人隠避容疑で逮捕されましたが、この御仁が取り調べの全過程を録音・録画するよう最高検に申し入れたという信じられないような〈笑い話〉がオマケに付きました。

 最近よく話題になる「司法の可視化」、つまり取り調べの録音・録画を求める声も、司法組織の行使する恣意性というものが国民の許容する範囲を超えたことと無関係ではありません。私も可視化は必要だと思うひとりですが、そこにはひとつ条件を付けたい気もします。それは可視化は国民やマスコミの声に押されて司法当局がしぶしぶそれに応じたというかたちで実現するのではまずかろうということです。それは端的に司法の権威を失墜させ、警察・検察に対する信頼性を失わせる結果にしかならないだろうからです。もしかしたらこれは私が古いタイプの人間だからそう思うだけなのかも知れませんが、日本の警察は優秀であり、日本の検察は精密である、そういう信頼を回復しなければ、世界に冠たるこの国の安全性というのも有名無実化してしまうだろうと思っているのです。今回の検察内部の不祥事を、司法組織が自ら生まれ変わるきっかけにしなければ、もう二度と司法に対する信頼は回復しないに違いない。とにかくここでは、裁判所や検察庁が世論に先んじて動くことが重要だろうと思う訳です。という訳で、実はここまでが話のマクラで、ここから本題に入るのですが、もしも司法の可視化を進めるなら、国会の決議も経ずに司法当局が率先して実践出来るものがあります。それは犯罪に関して当局が発表する統計数字を徹底的に明確にして、そこに恣意性が入り込まないようにするということです。(やっと前回の論点に戻って来ました。)

Hanzaihakusho_2

 前回の記事では刑事司法を考える上で重要と思われる五つの数字について考察しました。そこで分かったことは、例えば犯罪の検挙率というものひとつ取っても、その算出の根拠はとても曖昧なものであり、当局の恣意性が紛れ込む余地が大きいということです。検挙率の母数となるのは、警察が認知した犯罪件数ですが、この数字がそもそもどういう素性のものなのか分明ではない。上の図は平成21年版の「犯罪白書」に掲載されていたグラフで、私が今回の考察に導かれるきっかけになったものです(クリックで拡大します)。これを見ると、平成10年から14年までの5年間で犯罪の認知件数が著しく増加しており、その後また急激に減少していることが分かります。これはどう考えても不自然な統計ですが、犯罪白書のなかにその合理的な説明は見当たりません。犯罪白書は一貫して、犯罪の認知数が犯罪の発生率を表しているという立場を採っています。しかし、同じ国のなかでわずか5年のあいだに犯罪発生率が4割以上上昇し、次の5年でその分また下降するというのはあり得ないことだと思います。犯罪認知の入り口で何か当局の方針変更があった筈なのです。一体何があったのでしょう? 現行犯逮捕でない限り、警察の初動捜査のきっかけとなるのは、「通報」、「被害届」、「自首」といったようなものだろうと思います(その他にもあるかも知れません)。もしも警察が犯罪の認知件数という数字を犯罪の発生率と結び付けて発表するなら、通報・被害届・自首の総件数や受理件数、そして受理されなかったものについては理由別の内訳なども公表すべきです。もしもそれがきちんと管理されていないなら、それを管理するところから司法改革は始まると言ってもいい。そうすれば一見不自然な数字の動きにも理由があることが分かるし、国民から見て信頼の置ける統計になる筈です。

 犯罪事件の起訴率と有罪率は基本的にトレードオフの関係にあるものですが、その有罪率が99.9%もあるというのが日本の刑事司法の特徴です。つまり検察は、検挙された事件のなかで確実に有罪判決に持ち込めるものしか起訴していない訳で、そこでどういった取捨選択がされているかということが重要な問題になります。検察が起訴を見送るパターンには二つあって、ひとつは証拠が十分に固められなかった「嫌疑不十分」、もうひとつは証拠は十分でも起訴するに値せずと判断された「起訴猶予」に分けられます。それぞれの件数が公表されていますが、その振り分けがどのような基準によってなされたのかということは無論私たち国民には窺い知れません。これは私個人の意見になりますが、究極のところ、検察組織が培って来たこの〈内部基準〉を社会的な共通認識にすることなしには、どんな司法改革もあり得ないだろうと思うのです。有罪率99.9%がけしからんのは、裁判以前に検察が実質的に有罪・無罪を決めているも同然だからです。有罪率99.9%が素晴らしいのは、無辜の容疑者を法廷に引きずり出すという司法権の濫用を最小限に食い止めているからです。どちらの言い分にも理があります。どちらの言い分にも理があるということは、そこに何かまだ考慮しなければならない別のファクターがあるということです。それはつまり、検察が嫌疑不十分として見送った容疑者のなかに、どれだけの割合で真犯人が含まれているのかということです。もしも起訴段階で、ほとんど100%の正確性で真犯人と無実の容疑者を弁別出来ているのだとすれば、有罪率99.9%であることには何も問題が無い、むしろ理想的な検察のあり方と言ってもいい筈です。(ちなみにその場合にも裁判が不要になる訳ではありません。裁判には有罪・無罪を決めるだけでなく、刑の重さを決める機能もあるからです。) しかし、もしも検察が嫌疑不十分で起訴しなかった容疑者のうち半数が真犯人だったとすれば、検察の慎重過ぎる姿勢に疑問を呈する声があってもおかしくはありません。

 私たちが知りたいのは実はそこなのです。検察が恣意的に(と私たちには見えます)起訴・不起訴を決めている裏では、担当の検察官はもっとはっきり嫌疑の確からしさを把握しているに違いありません。ベテランの検察官ならば、それを「公判を維持出来るか(有罪に持ち込めるか)」という基準で胸算用してしている筈なのです。もしも検察がいまよりも起訴率を高く設定して、裁判で有罪・無罪を問う方向に方針転換をするとしたら、しかもそのことを何のアナウンスメントも無しに実施するとしたら、裁判所も裁判員も混乱することになりますし、結果として冤罪事件を増やすだけのことになってしまいます。であるならば、その方針について数字ではっきりと示してくれたらどうだろうと私は思うのです。容疑者が容疑を否認している殺人事件について、「検察の判断では容疑者が真犯人である確率は95%である」というような発表をする、そんなイメージです。もちろんそんな数字を正確に計算出来る訳はないのですが、検察が現実にある事件については起訴し、ある事件については起訴を取り下げるという事実がある以上、その基準値を明確に示すのは義務だろうと考える訳です。その前提のもとで、例えば「従来は100%確実な事件しか起訴しなかったが、これからは90%以上で起訴に踏み切る」といったように方針転換を検察がアナウンスしたらどうだろう。これは裁判所にいい意味でのプレッシャーをかけることになるし、犯罪や冤罪の問題を考えるための材料を国民に提供することにもなります。従来のように、裁判所は検察の判断を追認しているだけだというような批判も当たらなくなります。

 日本の裁判制度に私たちが深い欺瞞を感じるのは、検察と裁判所が癒着しているのではないかと疑っているからです。その疑いの原因は99.9%の有罪率です。仮に日本の検察が、有罪率99.9%の理由として、「我々は推定無罪の原則を重要視するが故に、たとえ多くの真犯人を取り逃がそうとも、100%確信出来る容疑者しか起訴しない方針なのだ」と明確に宣言したとすれば、私たちはそれなりの納得感を持てるでしょう。と同時に、そんな重要なことを検察組織だけで決めていることに違和感を持つ筈です。私は個々の事件の判決に国民を参加させる裁判員制度には反対しますが、日本の刑事司法が具体的に〈推定無罪の原則〉にどう取り組むかということについては、広く国民の意見を聞いて決めるべきだし、そのための判断材料を司法当局は提供すべきだと考えています。その結果、現在よりも起訴件数が増えて、結果的に冤罪が増えたとしても、それが国民の選んだ方向であるなら仕方がない。冤罪事件は無くすべきだというのは、誰もが主張することですし、誰にも反論する理由は見付からない正論です。が、現実問題として冤罪率をゼロに近付けることで、社会の安全が大きく脅かされるようなら、どこで妥協するかは国民的なコンセンサスを経て決定すべき事柄です。おそらく日本だけでなく、世界のどこの国でも警察や検察は多かれ少なかれ秘密主義を貫いているものでしょう。しかし、これからの時代、それでは国民に信頼される司法制度は維持出来ない。〈精密司法〉を誇る日本の司法機関が、世界に率先して「手の内を明かす」ことに踏み出せば、それが国民の信頼を回復するための一番の近道だろうと思います。

|

« 刑事司法を考えるための五つの数字 | トップページ | 「国際司法基準」の確立に向けて »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/49960117

この記事へのトラックバック一覧です: 司法の可視化はまずここから:

« 刑事司法を考えるための五つの数字 | トップページ | 「国際司法基準」の確立に向けて »