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2010年11月14日 (日)

「国際司法基準」の確立に向けて

 司法改革の方向性について考えています。前回の考察では、司法を可視化するならば、まずは当局が発表する統計数字の定義を明確にして、日本の司法制度が抱えている問題や向かうべき方向について、計数的に表現が出来るような工夫をすべきではないかということを述べました。これは司法制度に関する国際比較をしようとすると、すぐに突き当たる問題への解答にもなっていると思います。犯罪の検挙率ひとつ取っても、各国の数字はひどくバラバラで、一見とても治安が良さそうには見えない政情不安を抱える国が、先進国も及ばない高い検挙率を誇っていたりする。このことは計算の根拠がそれぞれの国で異なっていて、同じ次元で数字を比較することすら意味が無いことを推測させます。でも、この比較が出来ないということは、そもそも司法改革のための数値目標を設定することすら出来ないということを意味してはいないでしょうか? 前回も見たように、ここ十数年、犯罪事件の認知数や検挙率は、私たちには窺い知れない理由によって乱高下しています。これでは日本の警察は優秀だという私たちの思い込みだって、どこまでが本当なのか分かりません。いま企業会計の分野では、数年後に義務化される「国際会計基準」の導入に向けて、あわただしく準備が進められています。グローバル化する経済のなかで、企業の業績を同じ基準で評価することが(投資家から)求められているという背景がそこにはあります。投資家ではない私たちは、企業の業績比較にはあまり関心がありませんが、警察や検察組織のモラル低下や社会の治安悪化ということには大いに関心がある。つまり、いまこそ「国際司法基準」のようなものが必要なのではないかということです。

 日本の刑事司法で国際的にも評判が悪いのは、自白を強要する密室での取り調べや、それを可能にする代用監獄(留置場)の存在です。しかし、それが前時代的で野蛮な制度であることは感覚的に感じられても、実際にこれによってどの程度の冤罪事件が作られていて、どの程度の真犯人が自白に追い詰められているのか、その数字を見ないことには功罪は論じられないだろうと思う訳です。私は警察付属の留置場の廃止や取り調べの可視化に対して賛成の意見を持っています。が、もしもそれが実現したとして、ぬるい捜査と取り調べのなかで、容疑者は否認さえすれば無罪を勝ち取れるという常識がまかりとおり、犯罪の検挙率や起訴率が大幅に低下したとすれば、それは司法の人道化というよりも司法の崩壊と呼ぶべき事態でしょう。警察や検察が相手にしているのは、裁判員に選ばれるようなお上品な市民ばかりではないのですから、紳士的であることはその美質にはならない。別に私は警察や検察の肩を持っている訳ではありません、たまたま起こった検察の不祥事をきっかけに、マスコミの先導で世論が一色に染まってしまうことは警戒すべきだと思っているのです。起訴された被疑者が有罪か無罪かということは(本人以外には)分かりようがないことですが、冤罪を疑うことが出来る事案の発生状況といったことなら、その傾向を間接的に推測させる数字はあると思います。例えば容疑を否認したまま起訴された被告人の人数とその割合、取り調べ段階では容疑を認めたものの公判で否認に転じた被告人(またはその逆の場合も)の人数と割合といった数字なら比較的容易に調べることが出来るでしょう。その数字の経年変化を見れば、冤罪(が疑われる)事件の増減についても推測がつくし、数字の取り方を厳密に定義すれば国際比較だって出来るようになる筈です。

 例えば私がいつも引き合いに出す日本における有罪率99.9%の問題だって、「有罪率」という言葉の定義が国によって違えば、それを比較しても意味が無いことは当然です。アメリカでは陪審裁判の被告人のうち3割近くに無罪判決が出るそうですが、その背景には、そもそもアメリカでは〈司法取引〉によって被疑者の9割が裁判を経ずに刑を確定させている上に、陪審裁判にかけられるのは被告人が容疑を否認している事件に限られるといった刑事司法上の習慣の違いがあるので、両者の数字はそのまま比べられないのです。有罪になった被告人の人数を検挙された被疑者の人数で割ったものを有罪率と定義するなら、日米で大きな差は無いという話もあります。日本の警察・検察は、自白を引き出すための厳しい取り調べで起訴する被疑者を絞り込んでいるのに対し、アメリカの検察・司法は、自白と引き換えに刑を軽くすることを被疑者に持ちかけることで、裁判に持ち込む事件を絞り込んでいる訳です。よく日本の自白中心主義が、冤罪の原因になる虚偽の自白を引き出しているという批判を目にしますが、それはおそらくアメリカ流のやり方でも起こっていることで、陪審裁判にかけられるくらいなら司法取引で折り合いをつけようという無実の被疑者もいるに違いないと思います。(アメリカの司法制度を特徴付けているのは、陪審裁判よりもこの司法取引ですね。どうしても司法取引に乗って来ない強情な厄介者だけが、陪審裁判に送り込まれて決着をつけさせられるというイメージです。) 裁判員制度が始まる前、日本にも米国流の陪審員制度を導入すべきだという意見があったようですが、建前上、起訴段階での冤罪率が0.01%しかない我が国に、有罪・無罪の評決だけを行なう陪審裁判を導入することはまったく無意味だったことは明らかです。

 いや、今回の記事では国によって違う制度の優劣を論じようというのではありませんでした。制度は違っても、共通に比較出来る数字の取り方はある筈だし、それを国際標準として確立する必要があるのではないかということが言いたかったのです。たまたま「国際司法基準」というコトバを思い付いただけと言ってしまえばそれまでですが、その原案を日本の司法機関が考案して、自ら積極的に数字を公開するようにすれば、この分野で日本は世界のリーダーになれるだろうと思うのです。もちろんそれは国民の司法への信頼を回復するためにも役立つでしょう。死刑制度を残していることで、日本は刑事司法における後進国のように世界からは見られていますが、もしかしたらその認識は正しくないかも知れません。そのことは国際司法基準に照らして、各種の統計数字を他の先進国と比較してみれば分かる筈です。以下に挙げるのは、私がこの数週間、これからの司法のあり方について考えながら、もしもこういう数字があったら参照したいと思ったものに関するメモです。このなかには、すでに公式に発表されているものもあるかも知れませんし、数字の算出が根本的に難しいものもあると思います。重要な数字で抜け落ちているものもあるかも知れない。ただ素人考えでも、このような数値指標を国際標準として取り入れて行くことは欠かせないと思われるもののリストです。司法改革については、今後もこのブログで継続的に書いて行くと思いますが、とりあえず考察と議論のための材料としてメモしておきます。

1.犯罪の認知

 犯罪の認知に関しては、何をもって認知とするかの定義を明確にすることが重要だと思います。警察が被害届を積極的に受理するようにしたら、認知数が上がったというようなことでは、統計数字としての信頼性はありません。警察が犯罪性のある事件を認知するのはどういう場合でしょう? 市民からの110番通報、被害届、捜索願といったものは重要な情報源である筈です。その他にも自首や現行犯逮捕というのもありますね。犯罪捜査の入り口となるそうした情報を全国からすべて集めて、一括して記録しておくことが統計管理の第一歩だと考えます。警察への通報には悪戯のようなものも多いと思いますから、なかなか手間のかかる作業になりますが、市民からのどんな小さな声も聴き漏らさないという姿勢は、警察に対する基本的な信頼につながる筈です。情報はその形態、内容、重大さ、対応方法など、あらゆる角度から分類出来るようにタグを付けて管理されなくてはなりません。膨大なデータを扱いますから、コンピュータでの管理が必須になります(データウェアハウスシステムと呼ばれるものです)。日本の警察が何をもって犯罪の認知と見なすか、その基準も明確にしておく必要があります。

2.検挙と送検

 犯罪の認知ということが定義されたら、認知された犯罪の全件に対して、それがどのように処理されたかを追跡出来るようにしておかなければなりません。単に検挙されたかどうかということだけでなく、捜査が行なわれたのかどうか、捜査にかけた時間と人数はどれだけか、容疑者が逮捕されたとすれば自白の状況はどうか(ここで調書だけでなくビデオが参考情報になります)、自白の有無に関係なく証拠の信憑性はどの程度か、送検にまで至らなかったとすればその理由は何か、そうした情報を文章だけでなくなるべく数値で記録するようにするのです。特に取り調べについては、その回数と時間数、取り調べの場所、勾留日数などを正確に記録しておくことが必要です(現在でも記録はされているでしょうが)。重要なことは、たとえ無実と認められて釈放された被疑者についても、取り調べの実態をきちんと記録しておき、それを情報として公開することです。アメリカでは逮捕から起訴までの期間は3日以内と決められているのに対し、日本では被疑者を最長23日間も勾留することが法的に認められています。冤罪は裁判によって作り出されるだけではありません、逮捕段階からすでに始まっているのです。

3.起訴

 裁判での有罪率が高い代わりに、起訴率が低いのが日本の司法の特徴です。裁判にかけられればほとんど有罪は免れないのですから、被疑者の運命は検察によって一手に握られていると言ってもいい。(検察に起訴するかどうかの裁量権を占有させる制度を起訴便宜主義と呼ぶそうです。司法にまつわる用語は、一般人の語感からするとおかしいものが多いですね。これも国際司法基準のなかでは改めて行くべき点です。) 検察は被疑者に対して、「起訴」、「不起訴」、「起訴猶予」という振り分けをする訳ですが、その基準については国民は何も知りません。それを明確に定義して開示することは、検察組織の閉鎖性(日本の司法の暗闇と言ってもいい)を打ち破るために最重要なことだろうと思います。理想的には、起訴事実の確からしさについて、あらゆる要素の確率を精密に計算して、最終的にワンナンバーで結論を示すというのが私のイメージです(林真須美被告が有罪である確率は98.25%であるというように)。そんな数字を計算出来る訳はないというのが常識的な見解でしょうが、その数字が無ければ冤罪防止という目標に向けた努力だって、どこまでも感覚的にしか捉えられないものであることは指摘しておきたい気がします。指紋やDNAの鑑定技術が確立されたことで、捜査の正確さが飛躍的に向上したことを疑う人はいないでしょう。でも、それだって100%ではない。今後も科学的な捜査方法の開発は進められるべきですが、それと並行して〈確からしさ〉の算出方法についても研究が進められるべきだと思うのです。

4.裁判と冤罪

 起訴に至るまでの〈精密司法〉の結果、裁判での有罪率が99.9%ということであるならば、裁判というのは単なる儀式に近いものになってしまいます(だから裁判員制度のようなものが始まっても、大きな不都合は生じないのです)。理論的に言って、冤罪の発生に最終的な責任を持つべきなのは裁判所です(裁判員もその責任の一端を担います)。これに対して警察・検察が責任を負っているのは真犯人の〈取り逃がし率〉です(適切な用語が思い浮かびません)。取り逃がし率の方は、犯罪の認知数や起訴数などから計算で導き出すことが出来ますが、冤罪率の方は原理的に算出不可能な数字です。冤罪事件の発生そのものが闇のなかの出来事だからです。それでも裁判所が冤罪防止の最後の関所であるならば、裁判所には冤罪発生の動向について客観的に判定することの出来る指標を考案して発表する義務があると思います。もちろん実際に冤罪が判明した事件の件数が最も確かな数字ですが、すでに書いたような、被告人の自白状況の統計というのもそのひとつです。また裁判所にとっては、検察が提示して来た〈確からしさ〉の数字をチェックするのも重要な仕事になるでしょう。裁判所の役割をこのように規定するなら、裁判所は警察・検察とは別ルートの研究機関を持つか、大学などと独自に提携する必要が出て来ます。文科系出身の裁判官が調書を読み込むのに時間をかけているなんて、時代遅れもいいところだと思います。むろん裁判員制度になど時間を取られている余裕はありません。いや、おそらくそうした役割を担うのは、裁判所でも検察庁でもなく、第三の司法機関になるのではないかという気もしますが、これについてはまた改めての話題にしたいと思います。

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2010年11月 7日 (日)

司法の可視化はまずここから

 裁判員制度が始まって以来、初めての死刑求刑事件に判決が出ました。無期懲役。判決が言い渡された瞬間、遺族は号泣したと新聞の三面記事は伝えていました。誰もがこのニュースには心を深く動かされたのではないかと思います。この記事を読んで、まず私の心に湧いて来たものは怒りでした。もちろん悩みながら究極の選択を迫られた裁判員の方たちへの怒りではありません、関わるすべての人の心を傷つけるだけの、こんな酷薄な制度を導入した政府に対する怒りです。これについては何度でも同じことを書きます、先進国のなかでも、市民が死刑判決に直接関わる国は日本だけなのです。アメリカで採用されている陪審員制度では、陪審員は被告人の有罪・無罪を評決するだけで、死刑を含む量刑を行なうのは職業裁判官です。ヨーロッパ諸国で採用されている参審員制度では、参審員は職業裁判官とともに量刑まで行ないますが、ヨーロッパではすでに死刑は廃止されているのです(EUに加盟するための条件のひとつは、死刑が廃止されていることです)。本来、死刑制度を存続させている我が国において、西欧風の〈参審制もどき〉を採用するという選択肢はあり得なかった筈なのですが、〈司法業界〉の利害調整の結果、世にもまれなモンスター制度が出来上がってしまった、それが裁判員制度の正体です。

 しかし、今回私が指摘したいのは、裁判員制度の制度設計に関する問題ではありません、その運用に関する問題です。裁判員法によれば、裁判員による裁判は強盗や殺人などの重犯罪に適用されることになっています。が、この制度の運用が始まって以来、法的には裁判員裁判の対象になるべき事件の一割程度にしか実際には適用されていないのだそうです。裁判所の処理能力に限界がある以上は仕方がない、そういう言い訳は当然あるのだろうと思います。ひとつの国のなかで、同時に二種類の裁判制度が並立していて、どちらで裁かれるかは被告の運次第、というのもずいぶんおかしな話だと思いますが、とりあえずそれは措きます。問題は、その一割の事件を誰がどういう基準で選別しているのか、国民にはまったく知らされていないということです。今回の事件に続いて、鹿児島や横浜で起こった殺人事件が裁判員裁判にかけられる予定なのだそうです。死刑求刑が予想される事件です。何故、裁判員制度が始まって1年半も経って、そういう事案が次々に選ばれるようになったのでしょう? むろんそこには当局の隠された意図があるものと想像されます。「そろそろ国民もこの制度に慣れて来たところだから、死刑相当の事件を裁かせてみてもよかろう」、我々には顔の見えない法務省のお偉いさんたちが、どこかでそんな決定を下しているのだとしたら、ずいぶん国民を侮辱した話ではないでしょうか? 私は裁判員制度には一から十まで反対する者ですが、この制度が刑事司法における市民の主体性を育てるためのものだと言われれば、その理屈には一片の正しさがあることも認めざるを得ないのです。ところが蓋を開けてみれば、裁判員が裁く事件も〈お上〉がお膳立てをした上で国民に供されている訳です。どこに市民の主体性があるのだろう? ここにもこの制度の深い欺瞞があります。

 ここ三週間ほど日本の刑事司法について考えているなかで、問題の本質は司法当局の〈恣意性〉にあるのではないかと感じるようになりました。どの事案を裁判員裁判の対象にするかを決めるのは裁判所の恣意、どの容疑者を起訴するかを決めるのは検察の恣意、どの事件を検挙するかを決めるのは警察の恣意。もともと司法権力の根幹には恣意性というものがあるのだと思います。これはいつの時代、どこの国でも同じでしょう。ある日、私たちは何も身に覚えのないかどで逮捕され、裁判にかけられる、その理不尽さに司法権力の本質はあるのです。もしも犯罪捜査というものが犯人の〈自首〉によってのみ開始されるもので、一切の見込み捜査を警察が放棄したとすれば、捜査段階での恣意性は排除されることになるでしょう。しかし、その時には警察という組織自体が不要になる訳で、それで社会の安全性が保てるとは誰も考えない筈です。私たちは暗黙のうちに司法組織が行使する恣意性というものを認めているのです。それは安全な社会に暮らすために私たちが支払う税金のようなものです。だからこそ、私たちは司法官に対しては一般の行政官に求める以上の厳格な倫理性を求める訳だし、今回のような検察官による証拠改竄事件などが発覚すれば、通常の収賄事件や横領事件に対するのとは別次元の強い憤りを覚えることにもなる訳です。今回の事件では、問題を起こした検事の上司も犯人隠避容疑で逮捕されましたが、この御仁が取り調べの全過程を録音・録画するよう最高検に申し入れたという信じられないような〈笑い話〉がオマケに付きました。

 最近よく話題になる「司法の可視化」、つまり取り調べの録音・録画を求める声も、司法組織の行使する恣意性というものが国民の許容する範囲を超えたことと無関係ではありません。私も可視化は必要だと思うひとりですが、そこにはひとつ条件を付けたい気もします。それは可視化は国民やマスコミの声に押されて司法当局がしぶしぶそれに応じたというかたちで実現するのではまずかろうということです。それは端的に司法の権威を失墜させ、警察・検察に対する信頼性を失わせる結果にしかならないだろうからです。もしかしたらこれは私が古いタイプの人間だからそう思うだけなのかも知れませんが、日本の警察は優秀であり、日本の検察は精密である、そういう信頼を回復しなければ、世界に冠たるこの国の安全性というのも有名無実化してしまうだろうと思っているのです。今回の検察内部の不祥事を、司法組織が自ら生まれ変わるきっかけにしなければ、もう二度と司法に対する信頼は回復しないに違いない。とにかくここでは、裁判所や検察庁が世論に先んじて動くことが重要だろうと思う訳です。という訳で、実はここまでが話のマクラで、ここから本題に入るのですが、もしも司法の可視化を進めるなら、国会の決議も経ずに司法当局が率先して実践出来るものがあります。それは犯罪に関して当局が発表する統計数字を徹底的に明確にして、そこに恣意性が入り込まないようにするということです。(やっと前回の論点に戻って来ました。)

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 前回の記事では刑事司法を考える上で重要と思われる五つの数字について考察しました。そこで分かったことは、例えば犯罪の検挙率というものひとつ取っても、その算出の根拠はとても曖昧なものであり、当局の恣意性が紛れ込む余地が大きいということです。検挙率の母数となるのは、警察が認知した犯罪件数ですが、この数字がそもそもどういう素性のものなのか分明ではない。上の図は平成21年版の「犯罪白書」に掲載されていたグラフで、私が今回の考察に導かれるきっかけになったものです(クリックで拡大します)。これを見ると、平成10年から14年までの5年間で犯罪の認知件数が著しく増加しており、その後また急激に減少していることが分かります。これはどう考えても不自然な統計ですが、犯罪白書のなかにその合理的な説明は見当たりません。犯罪白書は一貫して、犯罪の認知数が犯罪の発生率を表しているという立場を採っています。しかし、同じ国のなかでわずか5年のあいだに犯罪発生率が4割以上上昇し、次の5年でその分また下降するというのはあり得ないことだと思います。犯罪認知の入り口で何か当局の方針変更があった筈なのです。一体何があったのでしょう? 現行犯逮捕でない限り、警察の初動捜査のきっかけとなるのは、「通報」、「被害届」、「自首」といったようなものだろうと思います(その他にもあるかも知れません)。もしも警察が犯罪の認知件数という数字を犯罪の発生率と結び付けて発表するなら、通報・被害届・自首の総件数や受理件数、そして受理されなかったものについては理由別の内訳なども公表すべきです。もしもそれがきちんと管理されていないなら、それを管理するところから司法改革は始まると言ってもいい。そうすれば一見不自然な数字の動きにも理由があることが分かるし、国民から見て信頼の置ける統計になる筈です。

 犯罪事件の起訴率と有罪率は基本的にトレードオフの関係にあるものですが、その有罪率が99.9%もあるというのが日本の刑事司法の特徴です。つまり検察は、検挙された事件のなかで確実に有罪判決に持ち込めるものしか起訴していない訳で、そこでどういった取捨選択がされているかということが重要な問題になります。検察が起訴を見送るパターンには二つあって、ひとつは証拠が十分に固められなかった「嫌疑不十分」、もうひとつは証拠は十分でも起訴するに値せずと判断された「起訴猶予」に分けられます。それぞれの件数が公表されていますが、その振り分けがどのような基準によってなされたのかということは無論私たち国民には窺い知れません。これは私個人の意見になりますが、究極のところ、検察組織が培って来たこの〈内部基準〉を社会的な共通認識にすることなしには、どんな司法改革もあり得ないだろうと思うのです。有罪率99.9%がけしからんのは、裁判以前に検察が実質的に有罪・無罪を決めているも同然だからです。有罪率99.9%が素晴らしいのは、無辜の容疑者を法廷に引きずり出すという司法権の濫用を最小限に食い止めているからです。どちらの言い分にも理があります。どちらの言い分にも理があるということは、そこに何かまだ考慮しなければならない別のファクターがあるということです。それはつまり、検察が嫌疑不十分として見送った容疑者のなかに、どれだけの割合で真犯人が含まれているのかということです。もしも起訴段階で、ほとんど100%の正確性で真犯人と無実の容疑者を弁別出来ているのだとすれば、有罪率99.9%であることには何も問題が無い、むしろ理想的な検察のあり方と言ってもいい筈です。(ちなみにその場合にも裁判が不要になる訳ではありません。裁判には有罪・無罪を決めるだけでなく、刑の重さを決める機能もあるからです。) しかし、もしも検察が嫌疑不十分で起訴しなかった容疑者のうち半数が真犯人だったとすれば、検察の慎重過ぎる姿勢に疑問を呈する声があってもおかしくはありません。

 私たちが知りたいのは実はそこなのです。検察が恣意的に(と私たちには見えます)起訴・不起訴を決めている裏では、担当の検察官はもっとはっきり嫌疑の確からしさを把握しているに違いありません。ベテランの検察官ならば、それを「公判を維持出来るか(有罪に持ち込めるか)」という基準で胸算用してしている筈なのです。もしも検察がいまよりも起訴率を高く設定して、裁判で有罪・無罪を問う方向に方針転換をするとしたら、しかもそのことを何のアナウンスメントも無しに実施するとしたら、裁判所も裁判員も混乱することになりますし、結果として冤罪事件を増やすだけのことになってしまいます。であるならば、その方針について数字ではっきりと示してくれたらどうだろうと私は思うのです。容疑者が容疑を否認している殺人事件について、「検察の判断では容疑者が真犯人である確率は95%である」というような発表をする、そんなイメージです。もちろんそんな数字を正確に計算出来る訳はないのですが、検察が現実にある事件については起訴し、ある事件については起訴を取り下げるという事実がある以上、その基準値を明確に示すのは義務だろうと考える訳です。その前提のもとで、例えば「従来は100%確実な事件しか起訴しなかったが、これからは90%以上で起訴に踏み切る」といったように方針転換を検察がアナウンスしたらどうだろう。これは裁判所にいい意味でのプレッシャーをかけることになるし、犯罪や冤罪の問題を考えるための材料を国民に提供することにもなります。従来のように、裁判所は検察の判断を追認しているだけだというような批判も当たらなくなります。

 日本の裁判制度に私たちが深い欺瞞を感じるのは、検察と裁判所が癒着しているのではないかと疑っているからです。その疑いの原因は99.9%の有罪率です。仮に日本の検察が、有罪率99.9%の理由として、「我々は推定無罪の原則を重要視するが故に、たとえ多くの真犯人を取り逃がそうとも、100%確信出来る容疑者しか起訴しない方針なのだ」と明確に宣言したとすれば、私たちはそれなりの納得感を持てるでしょう。と同時に、そんな重要なことを検察組織だけで決めていることに違和感を持つ筈です。私は個々の事件の判決に国民を参加させる裁判員制度には反対しますが、日本の刑事司法が具体的に〈推定無罪の原則〉にどう取り組むかということについては、広く国民の意見を聞いて決めるべきだし、そのための判断材料を司法当局は提供すべきだと考えています。その結果、現在よりも起訴件数が増えて、結果的に冤罪が増えたとしても、それが国民の選んだ方向であるなら仕方がない。冤罪事件は無くすべきだというのは、誰もが主張することですし、誰にも反論する理由は見付からない正論です。が、現実問題として冤罪率をゼロに近付けることで、社会の安全が大きく脅かされるようなら、どこで妥協するかは国民的なコンセンサスを経て決定すべき事柄です。おそらく日本だけでなく、世界のどこの国でも警察や検察は多かれ少なかれ秘密主義を貫いているものでしょう。しかし、これからの時代、それでは国民に信頼される司法制度は維持出来ない。〈精密司法〉を誇る日本の司法機関が、世界に率先して「手の内を明かす」ことに踏み出せば、それが国民の信頼を回復するための一番の近道だろうと思います。

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