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2010年10月17日 (日)

検察問題について考えること

 検察に関する問題が立て続けにニュースになりました。これについて少し思うところを書きます。熟考した結論ということではありません、とりあえずの感想といった程度です。裁判員制度に強く反対していることもあって、司法制度全般の問題については体系立てて自分の考えをまとめる必要を感じているのですが、なかなかその余裕がありません。とにかく最近の一連の報道で明らかになったことは、日本の検察制度がひどい品質劣化を起こしているらしいこと、あるいは昔から検察というものは低品質だったのかも知れませんが、そのことが誰の目にも明らかになって来たということです。これはこれからの日本が取り組まなければならない司法改革の方向を決定付けるという意味でも重要な問題だと思います。

 私たちはふだん司法制度とはあまり関わりの無いところで生活しているので、自分がある日突然起訴を受け、刑事被告人になるなどということを想像することはありません。しかし、今回の検察官による証拠捏造事件によって、誰もがいつ冤罪被害者に仕立てられるか分からないという怖さを味わったのではないかと思います。日本の警察・検察の優秀さに対する信頼が、犯罪率の低い安全な社会を根底で支えて来た訳ですから、その信頼が失墜したということは、単に検察組織の腐敗という問題であるに止まらず、この国の安全神話の終焉という意味でもエポックメーキングな事件だったのではないかという気がします。おそらくこういう事件が明るみに出るようになった背景には、組織の内部告発ということが一般的になったという事情もあるのでしょう。これを機に検察には第三者機関が入って、告発者の匿名を保証するという前提の上で、内部告発を奨励するキャンペーンでも実施してみたらどうでしょう? もしかしたら過去の冤罪事件が次々に明るみに出て来るかも知れない。どうせ官僚組織に自浄作用など期待出来ないのだから、この際いったん検察機構を解体するくらいの改革を政治主導でやってみたらどうだろう、そんなことまで思ってしまいます。

 最高検が犯人にどのような求刑をするのか分かりませんが、今回のような事件こそ、裁判員裁判の対象にしてもらいたいものです。裁判員制度というものの本質的な問題は、「国民によって国民を裁くことを強制する」という制度設計にあります。これは西洋の陪審制の歴史を見ても明らかですが、市民の司法参加というものがその本領を発揮するのは、公権力の横暴に対して市民が結束して対峙するという構図においてです。ところが、現在の陪審裁判や参審裁判では、国や地方自治体が被告になることはないのです。本来は市民が権力に対抗するためのツールだったものが、逆に権力に利用され、市民が市民を断罪するという目的のために使われる。つまり制度の目的がすり替えられているのです。もしも今回の事件を起こした元検事が裁判員によって裁かれることになれば、私は初めて裁判員制度が有効に機能した事例と認めてもいい。裁判員裁判では検察の求刑よりも重い判決が出されることもあるようです。ずいぶんおかしな話だと思いますが、もともと当局が刑事裁判の厳罰化を目指して導入した制度なのだから当然の流れとも言えます。証拠隠滅罪というのは、2年以下の懲役または20万円以下の罰金という重さの罪なのだそうです。今回の事件の場合、それで国民感情が納得する訳がない。もしも本事件の被告に対し、裁判員裁判が検察の求刑よりも重い刑を言い渡したとすれば、おそらくほとんどの国民が喝采するに違いありません。

 ただ、今回の事件を単に検察組織におけるモラルの崩壊といった面からのみ捉えると、より本質的な問題を見逃すことになるかも知れない、その点にも注意しましょう。それは日本の司法制度の根幹に関わる問題です。これについても既に書いたことがあります、日本の刑事裁判における異常に高い有罪率という問題です。よく知られているとおり、日本では検察が起訴する刑事事件の実に99.9%に有罪判決が下っているのです。例えばアメリカの陪審裁判における有罪率が70%台であることと比較しても、これは尋常な数字ではありません。これを言い換えれば、日本の刑事事件は、裁判ではなく検察の取り調べの段階で有罪か無罪かが実質的に決められているということです。これは日本の司法制度における制度設計がそうなっているからではなく、日本独特の慣習でそうなっているのだろうと思います。いま検察をめぐるもうひとつの話題として、検察審査会のことが連日ニュースになっています。もちろん小沢一郎氏の強制起訴があったからですが、この制度も日本の検察のそういう独特な体質と切り離して考えることは出来ない。つまり、起訴事件の99.9%が有罪になるということは、逆に言えば有罪である可能性のある容疑者の多くが不起訴で見逃されているのではないか、そう疑うことも出来るからです。検察審査会の声明にあった「国民は裁判によって有罪か無罪かを判断してもらう権利がある」という奇妙なコトバも、起訴に対してあまりに〈臆病〉な検察に対する国民の側からの叱咤であると考えれば、そこには多少の合理性があるとも言えなくはない。裁判員制度が西欧諸国で採用されている参審制の(とても下手な)焼き直しであるのに対して、検察審査会は他国に例を見ない日本だけの制度なのだそうです。

 検察の威信低下と国民の司法参加、このふたつの事実が偶然にも(?)シンクロすることで、この国の刑事司法をあらぬ方向に引っ張って行ってしまうのではないか、そういう懸念を私は持ちます。おそらくそれを好ましい変化だと捉える人も多いと思います。日本の検察組織が持つ閉鎖性・密室性が大きな問題であることは私も認めます。が、だからと言って刑事司法で行なわれるべき判断を、すべて国民に委ねてしまっていいものだろうか? 起訴するかどうかを決めるのも国民、起訴された被告の罪状と量刑を決めるのも国民、これが進歩した民主主義の向かうべき正しい方向だと言い募るためには、相当な詭弁を弄する必要があるだろうと思います。私が裁判員制度に一貫して反対して来た理由は単純です、裁判における判断は法に従って行なわれるべきであり、たまたま選ばれた国民の道徳心に従って行なわれるべきではないという、それだけの理由です。裁判員制度にせよ検察審査会制度にせよ、市民を巻き込むことで司法の世界に悪しき道徳主義がはびこり、法治主義の根幹が揺るがされることは大問題だと思う。これは民主主義のはき違えと言ってもいい。確かに検察のモラル低下は見逃すことが出来ないし、組織の改革が必要なことは議論を俟ちません。ただそのことと「有罪率99.9%問題」とは分けて考えるべきだというのが私の考えです。この項、(もしも気が向けば)次回も続きます。

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コメント

こんばんは。
小沢氏への検察の不起訴、審査会の強制起訴。どちらも良くわかりません。
何がわからないかと言うと、それぞれの意思決定に至る過程がわからない。
検察が2度に渡り不起訴としたものを審査会が起訴する。
検察が立件できないと判断したところは何か?
審査会が立件できると判断したところは何か?
何故この食い違いが生れたのかが全く分からない。
そこへもって、強制起訴が政局の材料に扱われる。
どうも、法に照らして起訴相当と下した感じがしません。曖昧な政治倫理というかなんというか。

その一方で、審査会が不起訴と下した案件はけっこう有るようです。
恣意的なチカラが働いて無いといいんですけどもね。

投稿: turusankamesan | 2010年10月18日 (月) 02時40分

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