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2010年10月31日 (日)

刑事司法を考えるための五つの数字

 前回からの続きです。検察というもののあり方について考えています。もしも日本の検察の優秀さが、起訴された事件の99.9%が有罪になるという数字に現れているのだとすれば、そこにはいくつかの前提条件が付くと思います。つまり、本来起訴すべき容疑者が、検察の内部基準で「嫌疑不十分」であるために不起訴になる、そういうケースがあまりに多いなら、日本の検察の優秀さというのも見かけ倒しかも知れないからです。裁判での有罪率が高い反面、裁判にまで持ち込まれない見逃された犯罪が多いというのでは、検察は十分職務を果たしているとは言えないということです。

 刑事司法のあり方を考える上で、特に重要な五つの数字があると思います。すなわち、「認知率」、「検挙率」、「起訴率」、「有罪率」、「冤罪率」です。認知率というのは、犯罪性が疑われる事件の発生について、警察がどの程度把握していて、実際に事件として扱っているかということです。(ここで見逃される事件が多いようでは、いくら警察が検挙率の高さを誇っても、社会の安全は保証されません。) 検挙率というのは、認知された事件のうち警察が容疑者を割り出し、摘発したものの割合のことです。(検挙されること=逮捕されることではありません。スピード違反で反則切符を切られることも検挙に当たるそうです。) 起訴率というのは、警察から検察に送られた(送検)事件のうち、検察が裁判所に訴えたものの割合です。(送検された事件でも、検察の判断によって起訴されない場合もあります。一応二重のチェックがかかっている訳です。) 有罪率というのは、起訴された事件の何パーセントに有罪判決が下ったかということで、この点で日本の検察は99.9%という数字を誇っている訳です。(年度によって99.9%を若干下回る年もありますが、概ねその近辺で推移しています。このことからも検察がこの数字に並々ならぬ執念を持っていることが想像されます。) 冤罪率については説明するまでもありませんね、有罪判決を言い渡された容疑者のうち無実の者がどれだけいたかということです。最近は冤罪に対する社会の目が非常に厳しくなっていますから、これが重要な数字だということに異論は無いと思います。(問題はその数字が誰にも分からないという点です。これについては後でまた考えます。)

 犯罪事件に対する認知率を上げるというのは、警察や検察という組織の努力だけではどうにもならないものでしょう。社会における人間関係が希薄になるにつれ、その社会の犯罪認知能力は衰えるとも考えられます。(最近話題になった「消えた高齢者」の問題などを見ると、そのことが実感されます。) それでもこの点で警察・検察に出来ることが無い訳ではありません。分かりやすい例で言えば、スピード違反の取り締まりや監視カメラの設置などは、違法性の検知というだけでなく、その抑止という点でも重要な意味を持っていると思います。また逆に警察が被害届をなかなか受理しないというようなことがあるなら、それは見かけ上の検挙率を引き上げる代わりに、事実上の認知率を押し下げていることにもなる訳で、もしもそういった事実があったとすれば(あると思いますが)、そんなところからも社会の安全性に亀裂が入って行くような気がします。毎年法務省が公表している「犯罪白書」という資料があります。これを見ると、平成10年を過ぎた頃から犯罪の認知件数が大きく増加し、それに伴って検挙率が低下していることが分かります。これは桶川で起こったストーカー殺人事件をきっかけに、警察が被害届を積極的に受理するように方針転換をしたからなのだそうです。組織内部の方針によって、犯罪の認知件数が大きく変わってしまうこと自体が問題です。もちろん警察にだってマンパワーの制約はある訳ですから、被害届に対して無制限に捜査のリソースを割り当てる訳にはいかない、それはその通りです。それでも例えば被害届の受理件数と不受理件数を公表するなどして、犯罪認知に関する基礎データは国民に知らせるべきだと思います。

 次に検挙率です。日本の警察は犯罪に対する高い検挙率を誇っている、そのような先入観があったのですが、これも調べてみると一概には言えないようです。平成20年の犯罪白書によれば、年間の犯罪認知件数に対する検挙件数は50%を上回っています。が、全認知件数の28%を占めるのは「自動車運転過失致死傷等」という交通事故に関するもので、これを除外すれば検挙率は31.6%にまで落ちてしまいます。国際比較で日本の警察の検挙率が高いのは、殺人事件に対するもので、これは毎年大体95%くらいの成績を残しています(出典はここ)。これは先進国中でもトップの高い数字です(ドイツやイギリスも高いですが年によってムラがあります)。殺人は、比較的認知率の高い犯罪ですから(それでも100%にはほど遠いでしょう。事故死や病死や失踪として処理されるものの中には、相当数の殺人事件が含まれている筈です)、この点で日本の警察は優秀だと評価してもいいでしょう。犯罪件数全体に対する検挙率の国際比較では、日本はむしろ低い方に位置します(出典はここ)。国によってずいぶん数字にバラツキがありますが、検挙率はその母数となる認知件数次第ですから、単純に当局発表の数字を比較しても無意味かも知れません。検察の優秀さを測る数字が有罪率だとすれば、警察の優秀さを表す数字は検挙率です。しかし、それは起こった犯罪に対する検挙率ではなく、警察が犯罪として認知した事件に対する検挙率ですから、当の警察によっていくらでも操作出来る数字な訳です。もしも検挙率を警察の評価項目にするなら、その数字が算出された根拠まで詳しく公表しなければおかしい。もしかしたらこの国では、年間に1300件しか起きない殺人事件に余りに多くの捜査リソースを投入しているが故に、137万件も起きている窃盗犯の検挙率が低過ぎるという結果になっているのかも知れないからです。この点についても事実を明確にして、国民の議論に材料を提供すべきです。

 起訴率と有罪率は基本的にトレードオフの関係にある数字だと考えられます。もしも有罪率を高く保ちたければ、起訴段階で確実に有罪に出来る事件に絞り込むというインセンティブが働く筈だからです。日本の検察が99.9%の有罪率をコンスタントに維持していることの考えられる理由は二つです。検察が確実に有罪判決の取れる事件だけをスクリーニングしているか(つまり起訴率を意図的に下げているか)、あるいは裁判所が検察の起訴を追認するだけの機関になってしまっているか(冤罪率を下げることに意欲的でないか)のいずれかです。もしも前者だとすれば、この国は見逃された犯罪者たちで充満しているのかも知れないし、後者だとすれば、冤罪で罪をかぶる人たちの犠牲のもとにこの国の安全神話は成り立っているのかも知れない。冤罪率というのは統計には表れて来ない隠れた数字ですから、ここで参考になるのは起訴率の方です。犯罪白書には毎年の起訴率が掲載されていますから、それを見て行きましょう。但し起訴率にも二種類あって、刑法犯全体を分母とした数字と、そこから「自動車運転過失致死傷等」を除いた一般刑法犯を分母にしたものがあります。自動車運転過失致死傷の刑法犯全体に占める割合は3割程度と高く、しかもこれに関しては起訴率が100%ですから、これを含めることで見かけの起訴率の数字は高くなります。従って今回の記事では「一般刑法犯」を分母として採用します。また、起訴率の分子には「略式命令請求人数」や「家庭裁判所送致人数」も含まれていますが、いま問題にしているのは裁判での有罪率との関係ですから、ここでは「公判請求人数」だけを採用します。この記事の中だけの狭義の起訴率になりますのでご注意下さい。

Kenkyoritu
Kisoritu

 上のふたつグラフは平成元年から20年までの「認知件数・検挙件数・検挙率」および「検察の処理人数・起訴人数・起訴率」の推移を表したものです。(いずれも自動車運転過失致死傷等を除いた一般刑法犯の数字です。元の数字はすべて法務省の犯罪白書からですが、内容についての責任は筆者にあります。Web版の犯罪白書には一部に資料の欠けた部分や掲載ミスがあって、調べるのもひと苦労でした。) ここから読み取れることは、過去20年間に日本の犯罪認知数は大きく変動し、検挙数と検挙率もそれに伴って変動したけれども、起訴数と起訴率の方はそれと連動して動いた形跡が無いということです。20年間を通して見ると、検挙数と検挙率が全体として下降傾向にあるのに、起訴数と起訴率はむしろ上昇傾向にあります。平成9年頃までは毎年ほぼ5万件程度だった公判請求人数が、平成10年から16年までの間に70%以上も増えているのです(5万1千人→8万8千人)。同じ時期に検挙数の方は10%以上減っています(76万件→67万件)。これは意外な事実でした。というのも、有罪率99.9%を死守するために、検察は意図的に起訴件数を抑えているのではないかと予想していたからです。認知数が増えると検挙率が落ちるのは、警察の捜査が事件に追い付かないためでしょう。しかし、検挙数が横ばいか若干減っている時期にも、起訴数は大きく増えている。これは一体どういうことでしょう? 日本の検察は、起訴に対して非常に慎重だった筈ではなかったでしょうか。この期間に検察官が大幅に増員されたとか、犯罪捜査の技術が格段に進歩したという事実でもない限り、考えられる仮説はひとつしかありません。過去の検察に対する信頼が裁判官の中に残っていて、いくら起訴事件が増えても、裁判では惰性で99.9%の有罪判決が自動的に繰り出されているのではないか、そういうことです。もっと分かりやすく言えば、過去10年余りのあいだに冤罪事件がかなり増えているのではないかということです。

 誤解されたくないのですが、今回の記事で私は日本の刑事司法における「有罪率=99.9%問題」を批判しているのではまったくありません。それどころか有罪率が100%に近いことは刑事司法の理想の姿だとさえ思っているのです。いま検察の不祥事が大きなニュースになって、検察審査会の存在がクローズアップされるなかで、「日本の検察が裁判の前に事実上有罪か無罪かの決定をしているのはけしからん」という意見をよく見かけます。一見もっともらしい意見ですが、思慮が足りないと思います。もしも結果として刑事裁判における有罪率が70%にまで落ちたとすれば、容疑者の3割は無実の罪で裁判にかけられる訳です。メディアや国民は、容疑者=犯罪者という強い先入観を持っていますから、いくら有罪判決が下るまでは無罪を推定すべきだと言っても世間はそういう目では見ない。職を失い、家庭を壊され、人生を滅茶苦茶にされる人が続出することでしょう。これは広義の冤罪事件と言えるかも知れません。その犠牲を払ってでも、従来見逃されていた犯罪者がつかまるならいいじゃないか、そういう主張だって出来ないことはない。しかし、どうでしょう、常識的に考えても、容疑者について誰よりも時間をかけて捜査をし、誰よりもたくさん情報を持っているのは検察なのです。その検察が有罪を立証出来ない事件について、裁判所が正しい判断を下せるものだろうか。ましてや裁判員裁判になって、審理もスピードアップされ、刑事裁判というものの厳密性が大きく損なわれてしまった訳ですから、ここで検察が起訴のための基準を甘くしたりすればどうなるか、結果は誰にも想像出来ることだと思います。冤罪事件が大幅に増えるだけのことです。

 なんだかとりとめのない記事になってしまいました。日本の刑事裁判に特徴的な「有罪率=99.9%問題」を解いてみようと軽い気持ちで考えたのが運のつきでした。この2週間、私は仕事から帰ったあとも「犯罪白書」とずっとにらめっこでした(ひどい睡眠不足になりました)。そこで分かったことは、司法当局が発表する数字には非常に恣意的なものがあるということです。例えば、今回の記事でも指摘したように、平成10年頃からの数年間、犯罪の認知件数は異常なほど増えています。白書の中には、それがあたかも犯罪自体の増加であるような記述が見られますが、そんなことは常識的にもあり得ないことです。特に大きな社会的変化があった訳でもないのに、犯罪件数が5年で4割も増えるなどとは考えられないからです。明らかにそこには司法当局の方針の転換があったに違いない。それがたった1件のストーカー殺人事件をきっかけにしたものだったのか、私には分かりません。検挙率の大幅な低下と引き換えにしてまで、何故認知件数を増やす必要があったのでしょう? ふつうに考えれば、警察と検察の人員追加・予算確保のためだったのではないかと勘ぐることも出来る訳です。いま、検察組織の内部崩壊を目の当たりにしている私たちには、知る権利があります、これら自然な推移ではあり得ない数字の裏にある本当の意味をです。そのためには恣意的な要素が入り込まない新しい指標を考え出す必要があります。無謀を承知で、この項次回も続きます。

(※今回の記事の元になったエクセルシートを以下に掲載しておきました。)

「ippankeihouhan.xls」をダウンロード

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