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2010年10月31日 (日)

刑事司法を考えるための五つの数字

 前回からの続きです。検察というもののあり方について考えています。もしも日本の検察の優秀さが、起訴された事件の99.9%が有罪になるという数字に現れているのだとすれば、そこにはいくつかの前提条件が付くと思います。つまり、本来起訴すべき容疑者が、検察の内部基準で「嫌疑不十分」であるために不起訴になる、そういうケースがあまりに多いなら、日本の検察の優秀さというのも見かけ倒しかも知れないからです。裁判での有罪率が高い反面、裁判にまで持ち込まれない見逃された犯罪が多いというのでは、検察は十分職務を果たしているとは言えないということです。

 刑事司法のあり方を考える上で、特に重要な五つの数字があると思います。すなわち、「認知率」、「検挙率」、「起訴率」、「有罪率」、「冤罪率」です。認知率というのは、犯罪性が疑われる事件の発生について、警察がどの程度把握していて、実際に事件として扱っているかということです。(ここで見逃される事件が多いようでは、いくら警察が検挙率の高さを誇っても、社会の安全は保証されません。) 検挙率というのは、認知された事件のうち警察が容疑者を割り出し、摘発したものの割合のことです。(検挙されること=逮捕されることではありません。スピード違反で反則切符を切られることも検挙に当たるそうです。) 起訴率というのは、警察から検察に送られた(送検)事件のうち、検察が裁判所に訴えたものの割合です。(送検された事件でも、検察の判断によって起訴されない場合もあります。一応二重のチェックがかかっている訳です。) 有罪率というのは、起訴された事件の何パーセントに有罪判決が下ったかということで、この点で日本の検察は99.9%という数字を誇っている訳です。(年度によって99.9%を若干下回る年もありますが、概ねその近辺で推移しています。このことからも検察がこの数字に並々ならぬ執念を持っていることが想像されます。) 冤罪率については説明するまでもありませんね、有罪判決を言い渡された容疑者のうち無実の者がどれだけいたかということです。最近は冤罪に対する社会の目が非常に厳しくなっていますから、これが重要な数字だということに異論は無いと思います。(問題はその数字が誰にも分からないという点です。これについては後でまた考えます。)

 犯罪事件に対する認知率を上げるというのは、警察や検察という組織の努力だけではどうにもならないものでしょう。社会における人間関係が希薄になるにつれ、その社会の犯罪認知能力は衰えるとも考えられます。(最近話題になった「消えた高齢者」の問題などを見ると、そのことが実感されます。) それでもこの点で警察・検察に出来ることが無い訳ではありません。分かりやすい例で言えば、スピード違反の取り締まりや監視カメラの設置などは、違法性の検知というだけでなく、その抑止という点でも重要な意味を持っていると思います。また逆に警察が被害届をなかなか受理しないというようなことがあるなら、それは見かけ上の検挙率を引き上げる代わりに、事実上の認知率を押し下げていることにもなる訳で、もしもそういった事実があったとすれば(あると思いますが)、そんなところからも社会の安全性に亀裂が入って行くような気がします。毎年法務省が公表している「犯罪白書」という資料があります。これを見ると、平成10年を過ぎた頃から犯罪の認知件数が大きく増加し、それに伴って検挙率が低下していることが分かります。これは桶川で起こったストーカー殺人事件をきっかけに、警察が被害届を積極的に受理するように方針転換をしたからなのだそうです。組織内部の方針によって、犯罪の認知件数が大きく変わってしまうこと自体が問題です。もちろん警察にだってマンパワーの制約はある訳ですから、被害届に対して無制限に捜査のリソースを割り当てる訳にはいかない、それはその通りです。それでも例えば被害届の受理件数と不受理件数を公表するなどして、犯罪認知に関する基礎データは国民に知らせるべきだと思います。

 次に検挙率です。日本の警察は犯罪に対する高い検挙率を誇っている、そのような先入観があったのですが、これも調べてみると一概には言えないようです。平成20年の犯罪白書によれば、年間の犯罪認知件数に対する検挙件数は50%を上回っています。が、全認知件数の28%を占めるのは「自動車運転過失致死傷等」という交通事故に関するもので、これを除外すれば検挙率は31.6%にまで落ちてしまいます。国際比較で日本の警察の検挙率が高いのは、殺人事件に対するもので、これは毎年大体95%くらいの成績を残しています(出典はここ)。これは先進国中でもトップの高い数字です(ドイツやイギリスも高いですが年によってムラがあります)。殺人は、比較的認知率の高い犯罪ですから(それでも100%にはほど遠いでしょう。事故死や病死や失踪として処理されるものの中には、相当数の殺人事件が含まれている筈です)、この点で日本の警察は優秀だと評価してもいいでしょう。犯罪件数全体に対する検挙率の国際比較では、日本はむしろ低い方に位置します(出典はここ)。国によってずいぶん数字にバラツキがありますが、検挙率はその母数となる認知件数次第ですから、単純に当局発表の数字を比較しても無意味かも知れません。検察の優秀さを測る数字が有罪率だとすれば、警察の優秀さを表す数字は検挙率です。しかし、それは起こった犯罪に対する検挙率ではなく、警察が犯罪として認知した事件に対する検挙率ですから、当の警察によっていくらでも操作出来る数字な訳です。もしも検挙率を警察の評価項目にするなら、その数字が算出された根拠まで詳しく公表しなければおかしい。もしかしたらこの国では、年間に1300件しか起きない殺人事件に余りに多くの捜査リソースを投入しているが故に、137万件も起きている窃盗犯の検挙率が低過ぎるという結果になっているのかも知れないからです。この点についても事実を明確にして、国民の議論に材料を提供すべきです。

 起訴率と有罪率は基本的にトレードオフの関係にある数字だと考えられます。もしも有罪率を高く保ちたければ、起訴段階で確実に有罪に出来る事件に絞り込むというインセンティブが働く筈だからです。日本の検察が99.9%の有罪率をコンスタントに維持していることの考えられる理由は二つです。検察が確実に有罪判決の取れる事件だけをスクリーニングしているか(つまり起訴率を意図的に下げているか)、あるいは裁判所が検察の起訴を追認するだけの機関になってしまっているか(冤罪率を下げることに意欲的でないか)のいずれかです。もしも前者だとすれば、この国は見逃された犯罪者たちで充満しているのかも知れないし、後者だとすれば、冤罪で罪をかぶる人たちの犠牲のもとにこの国の安全神話は成り立っているのかも知れない。冤罪率というのは統計には表れて来ない隠れた数字ですから、ここで参考になるのは起訴率の方です。犯罪白書には毎年の起訴率が掲載されていますから、それを見て行きましょう。但し起訴率にも二種類あって、刑法犯全体を分母とした数字と、そこから「自動車運転過失致死傷等」を除いた一般刑法犯を分母にしたものがあります。自動車運転過失致死傷の刑法犯全体に占める割合は3割程度と高く、しかもこれに関しては起訴率が100%ですから、これを含めることで見かけの起訴率の数字は高くなります。従って今回の記事では「一般刑法犯」を分母として採用します。また、起訴率の分子には「略式命令請求人数」や「家庭裁判所送致人数」も含まれていますが、いま問題にしているのは裁判での有罪率との関係ですから、ここでは「公判請求人数」だけを採用します。この記事の中だけの狭義の起訴率になりますのでご注意下さい。

Kenkyoritu
Kisoritu

 上のふたつグラフは平成元年から20年までの「認知件数・検挙件数・検挙率」および「検察の処理人数・起訴人数・起訴率」の推移を表したものです。(いずれも自動車運転過失致死傷等を除いた一般刑法犯の数字です。元の数字はすべて法務省の犯罪白書からですが、内容についての責任は筆者にあります。Web版の犯罪白書には一部に資料の欠けた部分や掲載ミスがあって、調べるのもひと苦労でした。) ここから読み取れることは、過去20年間に日本の犯罪認知数は大きく変動し、検挙数と検挙率もそれに伴って変動したけれども、起訴数と起訴率の方はそれと連動して動いた形跡が無いということです。20年間を通して見ると、検挙数と検挙率が全体として下降傾向にあるのに、起訴数と起訴率はむしろ上昇傾向にあります。平成9年頃までは毎年ほぼ5万件程度だった公判請求人数が、平成10年から16年までの間に70%以上も増えているのです(5万1千人→8万8千人)。同じ時期に検挙数の方は10%以上減っています(76万件→67万件)。これは意外な事実でした。というのも、有罪率99.9%を死守するために、検察は意図的に起訴件数を抑えているのではないかと予想していたからです。認知数が増えると検挙率が落ちるのは、警察の捜査が事件に追い付かないためでしょう。しかし、検挙数が横ばいか若干減っている時期にも、起訴数は大きく増えている。これは一体どういうことでしょう? 日本の検察は、起訴に対して非常に慎重だった筈ではなかったでしょうか。この期間に検察官が大幅に増員されたとか、犯罪捜査の技術が格段に進歩したという事実でもない限り、考えられる仮説はひとつしかありません。過去の検察に対する信頼が裁判官の中に残っていて、いくら起訴事件が増えても、裁判では惰性で99.9%の有罪判決が自動的に繰り出されているのではないか、そういうことです。もっと分かりやすく言えば、過去10年余りのあいだに冤罪事件がかなり増えているのではないかということです。

 誤解されたくないのですが、今回の記事で私は日本の刑事司法における「有罪率=99.9%問題」を批判しているのではまったくありません。それどころか有罪率が100%に近いことは刑事司法の理想の姿だとさえ思っているのです。いま検察の不祥事が大きなニュースになって、検察審査会の存在がクローズアップされるなかで、「日本の検察が裁判の前に事実上有罪か無罪かの決定をしているのはけしからん」という意見をよく見かけます。一見もっともらしい意見ですが、思慮が足りないと思います。もしも結果として刑事裁判における有罪率が70%にまで落ちたとすれば、容疑者の3割は無実の罪で裁判にかけられる訳です。メディアや国民は、容疑者=犯罪者という強い先入観を持っていますから、いくら有罪判決が下るまでは無罪を推定すべきだと言っても世間はそういう目では見ない。職を失い、家庭を壊され、人生を滅茶苦茶にされる人が続出することでしょう。これは広義の冤罪事件と言えるかも知れません。その犠牲を払ってでも、従来見逃されていた犯罪者がつかまるならいいじゃないか、そういう主張だって出来ないことはない。しかし、どうでしょう、常識的に考えても、容疑者について誰よりも時間をかけて捜査をし、誰よりもたくさん情報を持っているのは検察なのです。その検察が有罪を立証出来ない事件について、裁判所が正しい判断を下せるものだろうか。ましてや裁判員裁判になって、審理もスピードアップされ、刑事裁判というものの厳密性が大きく損なわれてしまった訳ですから、ここで検察が起訴のための基準を甘くしたりすればどうなるか、結果は誰にも想像出来ることだと思います。冤罪事件が大幅に増えるだけのことです。

 なんだかとりとめのない記事になってしまいました。日本の刑事裁判に特徴的な「有罪率=99.9%問題」を解いてみようと軽い気持ちで考えたのが運のつきでした。この2週間、私は仕事から帰ったあとも「犯罪白書」とずっとにらめっこでした(ひどい睡眠不足になりました)。そこで分かったことは、司法当局が発表する数字には非常に恣意的なものがあるということです。例えば、今回の記事でも指摘したように、平成10年頃からの数年間、犯罪の認知件数は異常なほど増えています。白書の中には、それがあたかも犯罪自体の増加であるような記述が見られますが、そんなことは常識的にもあり得ないことです。特に大きな社会的変化があった訳でもないのに、犯罪件数が5年で4割も増えるなどとは考えられないからです。明らかにそこには司法当局の方針の転換があったに違いない。それがたった1件のストーカー殺人事件をきっかけにしたものだったのか、私には分かりません。検挙率の大幅な低下と引き換えにしてまで、何故認知件数を増やす必要があったのでしょう? ふつうに考えれば、警察と検察の人員追加・予算確保のためだったのではないかと勘ぐることも出来る訳です。いま、検察組織の内部崩壊を目の当たりにしている私たちには、知る権利があります、これら自然な推移ではあり得ない数字の裏にある本当の意味をです。そのためには恣意的な要素が入り込まない新しい指標を考え出す必要があります。無謀を承知で、この項次回も続きます。

(※今回の記事の元になったエクセルシートを以下に掲載しておきました。)

「ippankeihouhan.xls」をダウンロード

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2010年10月17日 (日)

検察問題について考えること

 検察に関する問題が立て続けにニュースになりました。これについて少し思うところを書きます。熟考した結論ということではありません、とりあえずの感想といった程度です。裁判員制度に強く反対していることもあって、司法制度全般の問題については体系立てて自分の考えをまとめる必要を感じているのですが、なかなかその余裕がありません。とにかく最近の一連の報道で明らかになったことは、日本の検察制度がひどい品質劣化を起こしているらしいこと、あるいは昔から検察というものは低品質だったのかも知れませんが、そのことが誰の目にも明らかになって来たということです。これはこれからの日本が取り組まなければならない司法改革の方向を決定付けるという意味でも重要な問題だと思います。

 私たちはふだん司法制度とはあまり関わりの無いところで生活しているので、自分がある日突然起訴を受け、刑事被告人になるなどということを想像することはありません。しかし、今回の検察官による証拠捏造事件によって、誰もがいつ冤罪被害者に仕立てられるか分からないという怖さを味わったのではないかと思います。日本の警察・検察の優秀さに対する信頼が、犯罪率の低い安全な社会を根底で支えて来た訳ですから、その信頼が失墜したということは、単に検察組織の腐敗という問題であるに止まらず、この国の安全神話の終焉という意味でもエポックメーキングな事件だったのではないかという気がします。おそらくこういう事件が明るみに出るようになった背景には、組織の内部告発ということが一般的になったという事情もあるのでしょう。これを機に検察には第三者機関が入って、告発者の匿名を保証するという前提の上で、内部告発を奨励するキャンペーンでも実施してみたらどうでしょう? もしかしたら過去の冤罪事件が次々に明るみに出て来るかも知れない。どうせ官僚組織に自浄作用など期待出来ないのだから、この際いったん検察機構を解体するくらいの改革を政治主導でやってみたらどうだろう、そんなことまで思ってしまいます。

 最高検が犯人にどのような求刑をするのか分かりませんが、今回のような事件こそ、裁判員裁判の対象にしてもらいたいものです。裁判員制度というものの本質的な問題は、「国民によって国民を裁くことを強制する」という制度設計にあります。これは西洋の陪審制の歴史を見ても明らかですが、市民の司法参加というものがその本領を発揮するのは、公権力の横暴に対して市民が結束して対峙するという構図においてです。ところが、現在の陪審裁判や参審裁判では、国や地方自治体が被告になることはないのです。本来は市民が権力に対抗するためのツールだったものが、逆に権力に利用され、市民が市民を断罪するという目的のために使われる。つまり制度の目的がすり替えられているのです。もしも今回の事件を起こした元検事が裁判員によって裁かれることになれば、私は初めて裁判員制度が有効に機能した事例と認めてもいい。裁判員裁判では検察の求刑よりも重い判決が出されることもあるようです。ずいぶんおかしな話だと思いますが、もともと当局が刑事裁判の厳罰化を目指して導入した制度なのだから当然の流れとも言えます。証拠隠滅罪というのは、2年以下の懲役または20万円以下の罰金という重さの罪なのだそうです。今回の事件の場合、それで国民感情が納得する訳がない。もしも本事件の被告に対し、裁判員裁判が検察の求刑よりも重い刑を言い渡したとすれば、おそらくほとんどの国民が喝采するに違いありません。

 ただ、今回の事件を単に検察組織におけるモラルの崩壊といった面からのみ捉えると、より本質的な問題を見逃すことになるかも知れない、その点にも注意しましょう。それは日本の司法制度の根幹に関わる問題です。これについても既に書いたことがあります、日本の刑事裁判における異常に高い有罪率という問題です。よく知られているとおり、日本では検察が起訴する刑事事件の実に99.9%に有罪判決が下っているのです。例えばアメリカの陪審裁判における有罪率が70%台であることと比較しても、これは尋常な数字ではありません。これを言い換えれば、日本の刑事事件は、裁判ではなく検察の取り調べの段階で有罪か無罪かが実質的に決められているということです。これは日本の司法制度における制度設計がそうなっているからではなく、日本独特の慣習でそうなっているのだろうと思います。いま検察をめぐるもうひとつの話題として、検察審査会のことが連日ニュースになっています。もちろん小沢一郎氏の強制起訴があったからですが、この制度も日本の検察のそういう独特な体質と切り離して考えることは出来ない。つまり、起訴事件の99.9%が有罪になるということは、逆に言えば有罪である可能性のある容疑者の多くが不起訴で見逃されているのではないか、そう疑うことも出来るからです。検察審査会の声明にあった「国民は裁判によって有罪か無罪かを判断してもらう権利がある」という奇妙なコトバも、起訴に対してあまりに〈臆病〉な検察に対する国民の側からの叱咤であると考えれば、そこには多少の合理性があるとも言えなくはない。裁判員制度が西欧諸国で採用されている参審制の(とても下手な)焼き直しであるのに対して、検察審査会は他国に例を見ない日本だけの制度なのだそうです。

 検察の威信低下と国民の司法参加、このふたつの事実が偶然にも(?)シンクロすることで、この国の刑事司法をあらぬ方向に引っ張って行ってしまうのではないか、そういう懸念を私は持ちます。おそらくそれを好ましい変化だと捉える人も多いと思います。日本の検察組織が持つ閉鎖性・密室性が大きな問題であることは私も認めます。が、だからと言って刑事司法で行なわれるべき判断を、すべて国民に委ねてしまっていいものだろうか? 起訴するかどうかを決めるのも国民、起訴された被告の罪状と量刑を決めるのも国民、これが進歩した民主主義の向かうべき正しい方向だと言い募るためには、相当な詭弁を弄する必要があるだろうと思います。私が裁判員制度に一貫して反対して来た理由は単純です、裁判における判断は法に従って行なわれるべきであり、たまたま選ばれた国民の道徳心に従って行なわれるべきではないという、それだけの理由です。裁判員制度にせよ検察審査会制度にせよ、市民を巻き込むことで司法の世界に悪しき道徳主義がはびこり、法治主義の根幹が揺るがされることは大問題だと思う。これは民主主義のはき違えと言ってもいい。確かに検察のモラル低下は見逃すことが出来ないし、組織の改革が必要なことは議論を俟ちません。ただそのことと「有罪率99.9%問題」とは分けて考えるべきだというのが私の考えです。この項、(もしも気が向けば)次回も続きます。

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2010年10月11日 (月)

政府ではなくこの国を救う徳政令

 前回の記事で金融緩和政策について書いたら、その翌日に日銀が新しい金融緩和策を発表しました。ブログを続けているとこういう符合をよく経験します。今回の日銀の発表にはサプライズがあったと言います。その内容はゼロ金利政策の復活と5兆円規模の市場介入です。ゼロ金利には日本人はもう慣れっこですが、目新しいのは5兆円の資金供給のうち1.5兆円で企業の社債や民間の投資信託を買うと発表したことで、新聞は日銀がついに「禁じ手」に踏み込んだと報じました。素人目にも日銀が民間企業の株や社債を買い取ることには違和感をを覚えます。中央銀行があえてリスク資産に手を出すというそのことが問題なのではありません、現在のように経済が不調な時には日銀も進んでリスクを取るべきだと思います。ただ、日銀が買い支えるべきリスク資産は株式でも社債でもなく、日本国債だけに限るべきだと思うのです。民間経済に対しては中立であるべき日銀が、(たとえそれが信託株であろうと)特定の企業に資金提供をすることの合理性が私には理解出来ません。

 もしも日銀総裁が政府からの国債の直接買い入れを宣言したのだったら、それこそが本当のサプライズだったでしょう。いまの日本経済には資金需要が枯渇していると言います。だから金融緩和の効果も限定的なのだそうです。しかし、実は最も旺盛な資金需要を持った経済主体が身近なところにあるのです。しかもこの経済主体は慢性的な資金難に陥っていて、借金に借金を重ねている。つまり日本政府です。もしも資金需要のあるところに資金を供給することが効率的な景気刺激策であるならば、日銀は政府にこそ資金を突っ込むべきなのではないでしょうか。でも、これは言葉の本当の意味での禁じ手です。日銀による国債の直接引き受けは法律によって禁じられているものだからです。この法律を立法府である国会が自ら変えることは難しいと思います。それは政府が自らの借金を棒引きにする徳政令を採用するのと同じことですから、国民の同意が得られる訳がない。いくら強力なリーダーシップを持った総理大臣が登場しても、いまの時代、政府の立場からは徳政令を言い出すことなど出来ません。であるならば、それを国民にアピールすることが出来るのは、〈日銀総裁〉を措いて適任者はいないのではないかという気がします。もしも私が日銀総裁の立場だったとしたら、国民にどんなコトバで訴えるだろうか? 今回はそんなことを夢想してみました…

 「日本経済は20年にも亘るデフレ不況で、出口の無い閉塞感に包まれています。これは歴史的に見ても、いまだかつてどこの国も経験したことが無いような異常事態です。この間、日銀はゼロ金利政策や量的緩和政策といった常道ならざる金融政策によって、景気の浮揚を図って来ました。そのすべてが不発だったとは言いませんが、効果は限定的だったことを日銀としても認めざるを得ません。そこには私たちが過去から学ぶことの難しい、時代の転換期を特徴づける構造的な問題が横たわっていたのです。私が本日、皆さんにお伝えしたいことは、このデフレに終止符を打つための根本的な手段は、財政改革でもなければ規制緩和でもなく、新しい強力な金融政策によるしかないということです。そしてそれを実行するためには、何よりも国民の皆さんにこれからお話する内容を理解していただき、賛同していただくことが必要不可欠であるということです。

 すでに10年以上もゼロ金利の状態が続いている訳ですから、若い人たちのなかには日本国債や銀行の定期預金の利息が5%以上もついた時代のことをご存じない方もいらっしゃるでしょう。多くの人がそれを当たり前のように思ってしまっているということ、その事実がつまりこの国の陥った病気の重篤さを表しています。1999年に当時の速水総裁がゼロ金利を宣言した時、それは日本経済を蘇生させるためのカンフル剤を打つという決断だった訳で、まさか日銀自身もこの異常な措置がこれほど長く続くとは思ってもいませんでした。これは日銀を代表する者として、はっきり申し上げねばなりません、私たちは一番大事なときに、一番大事なことを見誤ったのです。つまり日本経済が罹患した病気の正しい病名を診断することが出来ず、適切な処方箋を出すことが出来なかったのです。それで根本的な治療もせずに対症療法だけに専念してしまった。それが今日に至るまでのあまりに長かったデフレ不況の、唯一、真実の原因であると私は考えています。

 歴史的にも例が無い異常な政策であることを認識していながら、何故かくも長いあいだゼロ金利政策を続けて来たのか、その合理的な説明を政府や日銀はこれまでにして来たでしょうか? もちろん日銀としての公式な説明は、ひとえに景気回復のためです。不景気のなかで金融引き締めを行なう中央銀行はありません。その意味で、日銀の選択は合理的だと一般的に信じられて来ました。我々もその一般的な常識のなかで安心してゼロ金利を継続して来たのです。が、実はそこにはもっと根本的な別の理由があることにも一部の人たちは気付いていました。この国がゼロ金利を続けなければならないもっと根本的な理由とは何でしょう? それは経済学の専門家でなくても、ちょっと常識を働かせれば分かることです。誰もが知っているとおり、いま政府は1000兆円近い負債を抱えています。その大部分は長期国債です。もしもいま我が国の長期金利が5%にまで跳ね上がったとすれば、政府は近い将来に年間50兆円の利払いをしなければならなくなる。50兆円と言えば現在の税収入を超えた金額です。政府は集めた税金をすべて利息の支払いに投入しなければならなくなる訳です。当然、これは財政の破綻を意味しますから、政府も日銀もそんな方向に舵を切ることなど出来ないのです。日本がゼロ金利を続けなければならない背景には、不況という表の理由だけでなく、財政破綻を食い止めるという裏の理由があるのです。

 政府がこれほど大きな借金を抱えてしまったのは、無駄な公共事業や天下り法人のようなもののせいだと世間では考えられているようです。しかし、ここでも物事は裏から見るとまた別の見え方をして来ます。この国では国と地方の負債が1000兆円を超えている一方で、国民の持つ金融資産は1400兆円を超えています。つまりマクロでは均衡している訳です。たとえば時を1970年にまで遡れば、国民の金融資産は100兆円程度しかありませんでしたし、国債の残高に至ってはわずか3兆円でした。つまりそのころの日本は、プライマリーバランスが黒字の極めて健全な財政状況にあったのです。日本人の個人資産が急激に膨らみ始めたのは1970年代以降のことで、これは国債残高の急激な増加と表裏を成しています。単純に言ってしまえば、高度経済成長によって豊かになった日本人は、収入の多くを貯蓄に回すようになった、そのことによって発生する需要の不足を政府が財政投資によって補うという構図が出来上がったのです。これを無駄な公共事業といったイメージだけで捉えるのは正しくありません。今日の私たちの生活を支えているインフラは、この間に国が発行した国債によって整備されて来た面が確かにあるからです。問題は、その結果として残った1000兆円という借金の数字です。

 借金というものは、個人の場合でも同じですが、ある一定の額を超えると借り手にとっても貸し手にとってもコントロールが利かなくなるものです。この巨額の借金がある限り、この国の経済は決して正常なかたちには戻りません。マクロ経済における歪みはあまりに大きく、財政投資も税制改革も通常の金融政策ももはや糠に釘でしかないところまで来てしまった。いまさら消費税を10%に上げたところで、あるいは法人税を多少引き下げたところで、そんな小手先の改革では経済の混迷をさらに深めるだけのことです。解決策はたったひとつしかありません。それは時計の針を1970年代まで巻き戻して、個人の資産と国の負債が大きくバランスを崩した前の状態にまで戻してやることです。もっとはっきり言えば、国民の意思によって〈徳政令〉を敷き、国の借金を棒引きするということです。こう言えば、反撥を感じる方は多いだろうと思います。しかし、よく考えてみていただきたい。1400兆円の個人資産が形成されたのは、1970年から1999年までのわずか30年のあいだなのです。つまり日本がまだ高金利だった時代です。この1400兆円を日本人が汗水たらして働いた結果だというのは実は正確ではない。もしも年利5%の経済状況のもとなら、年に21万円ずつを定期預金に預けて複利で運用すれば、30年後には約1400万円になる。元本は630万円ですから、資産の半分以上は利息で積み増したものということになります。年利5%が現在の目から見て尋常なものでないなら、そのいくぶんかは〈過払い〉として払い戻されるべきだと言ってもおかしくはないでしょう。

 その方法は簡単です。今後政府が発行する新規国債を、現在のデフレが終わるまで、すべて日銀が買い取ればいいのです。これまでも日銀は量的緩和という名目で国債を買い取って来ました。つまり民間銀行が持っている国債を市場を通して買い取って来たのです。これは市場に通貨を供給して、景気を刺激するための政策でした。これに対して〈国債の直接引き受け〉の方は、その目的が違います。それは端的に言って、日銀が政府の借金を肩代わりし、インフレによって国民資産の実質的な目減りを狙うといった政策だからです。一見、それが異常な金融政策に見えるのは、異常な経済構造を正常化するためのものだからです。実際のところ、サブプライム以降の世界において、各国の中央銀行は様々な手法で思い切った通貨供給を行なっています。この緊急時に生真面目に財政規律を守っているのは日本だけだと言ってもいいくらいです。それが為替市場での日本円の独歩高につながり、ダブルパンチで日本経済に打撃を与えている。これは請け合ってもいいことですが、先進国のなかでも通貨発行余地が最も大きいのは日本なのです。これはどんな経済学者も異論を唱えられない事実だと思います。世界で唯一、20年にも亘ってデフレ経済を続けていることがその何よりの証拠です。莫大な政府の借金があるにも拘わらず、インフレにも円安にも振れないこの国の経済について、私たちはもっと自信を持っていいのです。

 本来なら一国の中央銀行というのは、際限なく財政を拡大しようとする政府にブレーキをかけ、インフレを抑制する役割を負った機関です。だからここで私が皆さんにこういう話をすること自体、異常なことだとも言えるのです。しかし、日銀が目標とするのは物価の安定であり、この国の経済のバランスの取れた成長ということですから、本日の私の話が日銀としての本分を逸脱したものだとは思いません。むしろそこまで日本経済の歪みは大きいのだということを私は訴えたいのです。問題は、たとえこの国の経済を正常化する方法を私ども日銀が持っていたとしても、私どもの決断だけでそれを実行することは出来ないということです。これはまったく当然かつ妥当なことなのですが、日銀が直接国債を引き受けることは法律で禁じられているからです。それを乗り越えるためには、法律そのものを変えるか、国会での特別決議が必要になります。つまり、それを成し遂げるのは国民の皆さんの意思にかかっていると言えるのです。ことは政府の借金棒引きという話ですから、それが実行されたあとの財政規律の監視ということはもっと重要になります。しかしそれは政権交代を成し遂げた成熟した有権者のいるこの国において、何ら心配することではない、その前提で私たちはこの決断をしたことを皆さんにお伝えするのです。」

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2010年10月 4日 (月)

金融緩和政策について簡単なおさらい

 たまたま読んだ本の影響もあるのでしょうが、このブログに書いた最近の記事を読み返してみると、自分がかなりコアなインフレターゲット論に傾いていることに気付きます。とにかく今の日本にとって最優先の課題はデフレから脱却することであって、そのためには政府と日銀が協調してインフレへの転換を宣言し、断固とした金融緩和政策を実行して行く必要がある、そういう考え方です。金融緩和政策と言っても、すでにゼロ金利に近い状況では金利引き下げによる金融緩和には限界がありますから、残された手段は〈量的緩和〉ということになります。つまり日銀が銀行などから国債を買い上げる政策のことです。

 ここで簡単におさらいをしておきましょう。1990年のバブル崩壊以降、日本経済は長い停滞期に入りました。「失われた10年」と呼ばれた時期です。不景気が深刻化するなか、1999年2月に日銀はゼロ金利政策に踏み切ります。それ以降、数字の上ではゼロ金利がわずかに解除されることもありましたが、10年以上に亘って日本はほぼ金利ゼロの経済を続けて来ました。これは主要国のなかでも際立って異例な事態です(例えばこちらの資料の推移グラフを参照)。さらに異常なのが2001年3月から2006年3月まで5年間に亘って継続された量的緩和政策で、これは従来の金融政策のセオリーから外れているという意味で「非伝統的金融政策」などとも呼ばれるものでした。よく資金供給で金融市場をジャブジャブにするなんて表現を見かけますが、要するにそれが量的緩和の結果なのです。2006年にこの政策が解除された背景には、消費者物価指数の上昇が確認されたという事実があるそうです。しかし、2010年の今日の目から見れば、その時点で日本がデフレから脱却したなどとは全く言えなかったことは明らかです。

 ゼロ金利政策や量的緩和政策が期待されたほどの効果を上げず、日本経済をデフレから引き上げることが出来なかった理由については、いろいろと議論があるようです。よく言われるのは、民間に資金需要が無ければいくら日銀が資金を供給しても、お金は銀行に滞留するだけで、経済の活性化にはつながらないというものです。(貸し出し先の見付からない資金で、銀行は再び国債を買うことになるのでしょう。政府が莫大な借金を抱えているにも拘わらず、国債が売れ続けて来た理由のひとつはこれだと思います。) それと対立するもうひとつの考え方は、日銀が過去に行なった量的緩和策は、投入した金額も少なく、期間も短過ぎたというものです。氷水を張った風呂にヤカン一杯分の熱湯を注いでも冷水のままだけれども、継続的に熱湯を足して行けば、やがてはちょうどいい湯加減になる時が来る筈だ、そういう議論です。なんだか卵が先か鶏が先かというような話ですね。それでも私が量的緩和策に希望を託したいと思うのは、もうそれしか残された手段は無いだろうと考えるからです。ゼロ金利政策も構造改革も、デフレ脱却には無力だったことは事実が証明しています。

 自分でも混同していたところがあるのですが、量的緩和=日銀が国債を買い取る政策のなかでも「買い切りオペ」と「直接引き受け」とは分けて考えなければならないもののようです。買い切りオペというのは、すでに説明したとおり日銀が民間銀行の持っている国債を市場を通して買い上げる政策です。国債を買う原資は、日銀が新たに刷った紙幣です。つまり日本円の総量がその分だけ増えることになります。但しそれはマーケットを刺激するためのもので、政府の財政には直接は関わりません。これに対して国債の直接引き受けの方は、日銀がマーケットを通さずに政府から国債を買い取る政策のことで、早い話が政府が自ら紙幣を発行することと本質的には変わらないものです。いや、買い切りオペだって、民間に供給されたお金が最終的に国債を買うのに使われれば、結果は同じとも言える訳ですが、少なくとも本来の目的は景気を刺激するためという大義がある。ところが日銀による直接引き受けということになれば、その目的は政府の財政赤字を埋めるため、もっとありていに言ってしまえば、政府の借金棒引きのためと言っても過言ではないようなものです。もちろん国債である以上、保有者が日銀に代わったところで利払いは発生する訳ですが、日銀に納められた利息は国庫納付金という名目でそのまま政府に戻って来るのだそうです。もしもこれが民間企業であったなら、明らかな粉飾決算と呼ばれるようなものです。

 そういう事実を理解した上で、それでも日銀は直接国債を引き受けるべきだというのが今回の私の意見です。民間に資金需要が無いのに、いくら従来のような買い切りオペを続けてもお金は世間に回って行かない。定額給付金や子ども手当のようなもので国民に直接お金を配っても、消費には回らず貯蓄に回されてしまうだけです。ところが、一方で莫大な資金需要を抱えていながら慢性的な資金不足に陥っている経済主体がある。すなわち政府と地方自治体です。私たちは政府や自治体が抱える莫大な借金を、放漫な財政支出や無駄な公益法人のようなものの結果だと思っています。もちろんそういう面は大いにあるに違いない。が、たぶん、ことの本質はそこにはないとも思うのです。これは常識的に考えても当たり前のことに思えるのですが、もしもある国の国民が一斉に貯蓄に励んだとすれば、そうした国では国民の貯蓄率が高くなるのと反比例して政府の借金は大きくならざるを得ない。一部の産油国などを除けば、基本的に国民経済はプラスマイナスゼロでバランスするものだからです。つまり現在のいびつな日本経済のかたちを是正するためには、インフレによって国民の資産を目減りさせると同時に、一種の徳政令を採用して政府の借金を減らす必要がある。もしも政府がそれに二の足を踏むのなら、むしろ国民が先に立ってこの政策を断行させる必要があるとさえ私は思っているのです。

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