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2010年8月29日 (日)

解雇規制の緩和は正しい政策か?

 週刊ダイヤモンドが『解雇解禁 タダ乗り正社員をクビにせよ』という刺激的なタイトルで特集を組んでいます。なかなか熱い記事で、読みごたえがありました。その主張は特集のリード文に簡潔にまとめられています。こんな文章です。「日本の働き手たちの行く手には、処遇格差の厚い壁がいくつも待ち構えている。正社員と非正規社員、中高年と若年層、男性と女性――これらのあいだにある壁は容易に壊れず、時に圧倒的な不平等を生み出す。たとえば、世界的に有名な日本の厳格な解雇規制は正社員と非正規を分け隔てる元凶であり、さらに、その解雇規制が適用されるのは大企業だけで、中小企業では事実上、正社員も解雇自由という歪さを生んでいる。格差を縮小し、労働市場の流動性を高め、生産性向上を図るために、今こそ「解雇解禁」に踏み出すときである。」

 私自身、労働市場の流動性を高めることの必要性を説いて来たひとりですから、解雇規制の緩和ということには基本的に賛成したいのですが、記事を読みながら何か釈然としない気分になったのも事実でした。例えばベーシックインカムが実現した社会においては、労働市場の流動性は自然に高まるだろうし、それに合わせた規制緩和も必要になると思います。いや、ベーシックインカムというのは極端だとしても、必要最低限のセーフティネットが整備される前に雇用規制だけが緩和されれば、街にホームレスをあふれさせるだけの結果に終わってしまうかも知れない。では、セーフティネットの整備を前提にした解雇解禁であれば、「格差を縮小し、労働市場の流動性を高め、生産性向上を図る」ことにつながるのかというと、そんなに簡単な話でもないような気がする。何かもうひとつ大事な点が見落とされているように思えてならないのです。

 解雇解禁の必要性を説きながら、一方で中小企業では比較的自由に正社員の解雇が行なわれているというのですから、今回の特集は単純に大企業における解雇規制を緩和すべしという主張だと読み取れます。では、事実上の解雇規制が弱い中小企業では、そこで働く人のあいだに格差が少なく、労働力の流動性が高く、生産性が向上しているという成果を得ているのでしょうか。確かに人の流動性は高いかも知れないけれど、そのために中小企業の方が大企業よりも生産性が高いとはとても言えない筈です。解雇されるのは必ずしも生産性の低い〈タダ乗り〉社員ばかりとは限らないからです。今回の記事でも、中小企業で不当解雇が横行しているという事実について、いろいろな例を挙げて報告しています。(髪を茶髪に染めろと言われ、拒否したら解雇されたという例が載っています。「茶髪に染めるな」の誤植かと思ったら、アパレルショップでの事例でした。) 常識的に考えても解雇には〈良い解雇〉と〈悪い解雇〉の二通りがありそうです。ろくに仕事もしないタダ乗り社員を辞めさせるのは良い解雇、上司が能力のある部下を嫉妬して辞めさせるのは悪い解雇。中小企業では不当解雇が横行しているのに、大企業では良い解雇だけが選択的に行なわれると予測させる根拠は何でしょう?

 今回の特集記事で踏み込みが足りないのはそこです。生産性の低い正社員を解雇する(あるいは減給する。あるいは再教育する)という選択が正しいとしても、それを誰がどのように判断するかということです。大企業だから常に正しい判断が行なわれるとは限らないと思います。(そのことは長年サラリーマンをやって来て、企業の管理職をたくさん見て来た自分の実感からも言えることです。) 今回の記事では〈既得権〉という言葉がひとつのキーワードになっています。でも、それはむかし植木等が演じたようなお気楽サラリーマンだけの特権ではない、なかには経営陣が丸ごとフリーライドしているような会社だって少なくない筈です。もしも組織の中に様々なレベルでの既得権が存在しているものなら、解雇規制だけを緩和したところで、それは力の強い既得権者が力の弱い既得権者を排除するための道具として利用されるだけです。解雇権を持つのが相応しくない人たちが解雇権を持てば、それは組織の硬直化をより助長するだけの結果につながりかねない。労働市場の流動性や企業の生産性が向上するなんてお題目も絵に描いた餅に過ぎないかも知れないのです。問題は、働く人の多くが程度の差こそあれフリーライド出来るほど生産性の高まった社会において、いかにして企業のなかに地位や権力からの影響を受けない公平な評価制度を打ち立てるかということです。

 これは簡単に解ける問題ではないと思います。以前多くの大企業のあいだで流行した成果主義というものも、結局この国では定着しませんでした。日本人のメンタリティに合わないから定着しなかったというよりも、今日のような高度で複雑な産業社会のなかでは、企業活動も優秀な社員の個人プレーによって支えられている訳ではなく、それぞれに役割を分担された多くの社員の連携プレーで成り立っているものだからです。私はこれからの企業活動の基本は、固定的な組織階層を中心にしたものではなく、個別の目的のためにテンポラリーに組織されたプロジェクトを中心にしたものであるべきだと思っているのですが、これは今回のテーマではありません。長引く不況のなかで解雇規制の緩和だけを行なうことは、社会の歪みをより大きくするだけだというのが今回の結論です。経済的にも精神的にも、余裕が無くなれば無くなるほど人は既得権にしがみつくようになります。失業率が高止まりし、転職もままならない状況のなかで、誰もが既得権を守るために汲々としている。この状況を打破するために政治がやるべきことは、制度や法律を変えることではありません、何よりもまず景気を良くすることです。ほとんどの国民がやり場のない閉塞感で余裕を失っている状況のなかで、解雇解禁などという劇薬を用いることは、既得権による格差を固定化し、労働市場から自由を奪い、ひいては社会全体の生産性を低下させるだけではないかと心配するのです。

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2010年8月22日 (日)

いまさらリニア新幹線はあり得ない

 いまの日本にはおかしなことがいっぱいありますが、これもそのひとつです。JR東海は2027年の開業を目指して、東京-名古屋間にリニア新幹線を走らせるプロジェクトをスタートするのだそうです(東京-大阪間の開通は2045年!予定)。思い返してみれば、リニアモーターカーについては国鉄の時代から、もうずいぶん長いあいだ研究や実験が続けられています。1970年代にその構想が発表された時には、輝かしい21世紀の〈夢の超特急〉(死語…)としてそれなりの期待を持たれていたのだと思います。しかし、いつまで経っても実験段階で留まっているので、あれはもう陽の目を見ない過去のプロジェクトなのだとみんなが思うようになっていた。だからここに来て、17年後の開業を目指すなんて発表を聞くのは、多くの国民にとってとても違和感を覚えることだった筈です。なんでいまさら? これがほとんどの国民の正直な感想でしょう。

 もしもリニア新幹線が、現行の新幹線と比べて画期的に省エネでランニングコストが安いとか、環境対策の点で一日の長があるとかいうなら、21世紀のプロジェクトとして意味が無いこともないでしょう。ところが調べてみると、リニアというのは省エネでもエコでもないんですね。現行の新幹線よりも大量の電力を食い、日本アルプスの美しい景観を損ない、沿線の住民は騒音だけでなく強い電磁波にも曝されるというリスクがある。山岳地帯を突っ切るために当然トンネルの長さはかつてないものになる訳ですが、それがまた自然環境に悪影響を与えるのではないかと懸念されています。当然工費も莫大なものになります。どう考えても時代に逆行している筋の悪い計画です。経営の面から見ても、リニア新幹線の乗客として期待されるのは、既存の新幹線の乗客がほとんどで、一部に航空機を使っていた客が流れ込む程度でしょうから、ビジネスとしても大きな拡大が期待出来る訳でもありません。何故、素人が考えても大失敗に終わることが目に見えている計画に、民間企業であるJR東海が突き進もうとしているのか。なんでも現在の会長という人が執念を持ってそれを強行しようとしているらしい。日本の将来を閉ざしている原因のひとつに老害というものがあると私は思っているのですが、ここにもその典型が見られます。

 何故国もマスコミもこれに断固反対しないのでしょう? 民間企業の事業計画に政治は口を出すべきではないとでも言うのでしょうか? しかし、多額の費用を投じてJR東海が破綻したあと、それを救うために大規模な公的資金の投入が行なわれるのは火を見るより明らかなことです。インターネットでいろいろな情報を拾ってみると、現在の新幹線も最初に計画が発表された時には、世間の大反対に遭っているという事実を書いている人がいました。リニア新幹線もだから実際に営業が始まって、その利便性や経済効果が明らかになれば、それまで反対していた人たちも納得せざるを得ないだろうというのです。現在の新幹線が、とりわけ東海道新幹線が日本の経済成長の一助を担った功績は認めざるを得ないと思います。でもそれは在来線で9時間もかかっていた東京-大阪間を、3時間で結ぶというイノベーティブな変化があったからこそです。現在の新幹線はさらに進化して、2時間半まで所要時間を短縮しています。最高時速300キロで2時間半のところが、500キロで1時間半になったところで、そんなものはイノベーションとは呼べないでしょう。もしも現行の新幹線よりも高い乗車賃が設定されるなら、客にとってはむしろサービスダウンですらあります。

 もしもリニア新幹線が開通したら、いまの新幹線はどうなるのでしょう。停車駅を増やして地域交通の担い手にするというのがJR東海の用意した答えであるようです。しかし、その場合には在来線と競合することになるし、もしも乗車賃が現在の特急料金並みに高ければ、通勤や通学の足として利用される機会もたいしてないだろうと思われます。東海道新幹線がJR東海のドル箱であり、すでに初期投資の回収も終わっているなら、もっと簡単なやり方で乗客を倍増させる方法があります。新幹線の特急料金を廃止して、在来線と同じ料金で利用出来るようにするのです。高速道路も無料化が検討されているのですから、そのくらい大胆な方針を打ち出してみてはどうでしょう。これこそイノベーションと呼べる事業転換です。17年も待たずにいますぐ実行出来るし、リニアのような莫大な初期投資も必要無い。もしも現在の東海道新幹線に輸送能力の限界があるなら、東北新幹線などで採用されている2階建て車輌を導入するという手もあります。現行新幹線が稼ぎ出す利益をすべて投じて、17年後のリニア開通に社運を賭けるなどというのは、経営判断として狂っているとしか思えないのです。

 もうひとつ中央リニア新幹線を導入する理由として、現行新幹線の老朽化と大規模な改修工事の必要性ということも挙げられています。しかし、これこそ21世紀の重要なプロジェクトとして研究開発を進めるべき分野だと私は思います。つまり、定常の運行になるべく影響を与えない仕方で、いかに老朽化する設備のメンテナンスを行なっていくか、その方法を開発するということです。リニア新幹線ほどの華やかさはないけれども、ここで開発される技術は将来の大きなビジネスにつながる可能性のあるものです。なにしろ老朽化というのは東海道新幹線だけでなく、日本中の新幹線、いや世界中の高速鉄道がこれから迎える共通の課題だからです。世界初の高速鉄道である東海道新幹線を擁するJR東海は、この方面の研究で先行出来るアドバンテージを持っている筈です。世界で唯一営業運転を行なっている上海リニアは、ドイツの技術協力によって造られました。日本はすでにリニア先進国ではありませんし、 既存の新幹線技術の売り込みでも苦戦しています。むしろこれからは、特に先進国においてはメンテナンスの時代に移行して行く訳ですから、そちらに経営のリソースを集中させることの方が正解でしょう。「ガラパゴスリニア」と心中することは日本の選択肢ではありません。

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2010年8月15日 (日)

既得権解除装置としてのベーシックインカム

 こう暑い日が続くと、難しいことを考えようとしてもアタマがさっぱり回りません。終戦記念日なので、何かそれに因んだ話題でもと思うのですが、何も書くことが思い浮かばないのです。で、どういうことなら脳味噌が少しは興味を持って動き始めるかと言うと…、相変わらずベーシックインカムのことなんですね。BIのことを考えている時だけ、涼しい風がアタマの中を吹き抜ける気がする、というのは表現がちょっとオーバーですが、他に書きたいテーマも見付からないのだから仕方が無い。先日来考え続けている「政策としてのBI」の問題に関連して、書き足りなかったことが少しありますので補足しておこうと思います。それはBIをどうやって実現するかということではなくて、BIによって何を実現するかということについてです。最近はBIについていろいろな人が語っていますが、BIという政策が実は目的ではなくて手段だという視点は、まだまだ一般的ではないような気がします。

 では、BIを導入することの本当の目的は何なのかと言えば、現代社会のなかに網の目のように張り巡らされている既得権益の構造をいったんご破算にすることだ、というのが私の今の考えです。つまりBIを〈既得権解除装置〉として機能させるということです。ここでいう既得権というのは、高級官僚が天下りをして多額の給与や退職金を手にしている、そういう典型的な例ばかりではありません。同じ職場に正社員とアルバイトがいて、同じ内容の仕事をしているのに正社員の方が高給を取り身分も保障されているというのであれば、それも一種の既得権になるでしょう。要するに制度や地位の継続性によって、貢献度や生産性を査定されることなく一定の報酬を保障されている状態のことです。BIの導入によって労働市場の流動性が高まるというのはよく言われることですが、これは働く人の多くが今の正社員の地位を失って、成果に応じた報酬を得る契約社員のような立場に立たされる、そういう圧力が企業のなかで働くということです。未経験のアルバイトと同じような仕事しか出来ない正社員は、首にならないとすればアルバイト並みに給料を下げられることになります。逆に優秀な正社員並みに仕事が出来るアルバイトの給料は上がるでしょう、上がらなければ別の会社に転職してしまうだけだからです。成果主義万能の、せちがらい世の中になる? でも、その感想はつまるところ既得権者側からの感想に過ぎません。

 最近、企業の中にいるフリーライダーという存在がよく話題にされています。ろくに仕事はしないくせに、給料だけは人並みに取っている〈ただ乗り〉社員のことです。企業の中の既得権者と言ってもいいでしょう。これがBIによって一掃されるとは言わないまでも、かなり減ると考えられます。企業が首を切るより前に、おそらく自発的に辞めて行く人が多いのではないかと想像します。フリーライダーという生き方は、決してはたで見るほど気楽なものではなく、むしろ針の筵の上に座らされているような辛いものだからです。(私にはフリーライダーの気持ちがよく分かります。笑) 40万円の給料を得ている社員が、実力的には20万円の成果しか生み出せない人だったとすれば、実際のところ彼が生み出す成果は、20万円どころかほとんどゼロに近いものかも知れません(フリーライダーでいることだけで労力を使い果たしてしまうので)。そういう人が20万円の仕事に転職したとしたら、これまでよりもずっと生き生きと仕事をして、20万円(以上)の成果を生み出すのではないでしょうか。なにしろそれは彼の実力に見合った仕事なのですから。ところが、そういう幸福な転職を阻んでいるものがある。それが既得権の構造です。もしもひとりに7万円、夫婦で14万円のBIが受けられるとすれば、安心して自分に相応しい仕事に転職出来る人が増えるのではないかと思います。これは端的に社会全体の生産性を高めます。そのためには法律や制度面でもこれをバックアップするような方向への転換が必要です。

 BIが既得権の構造を壊すのは、労働市場の中だけのことではありません。行政がもっと直接的にコントロール出来るものとして、社会福祉分野における既得権の見直しということがあります。BIを論じる人のなかには、現在の福祉予算をすべてBIの財源に振り向けるといった乱暴な意見を口にする人もいますが、これについては個々の制度が持つ条件を慎重に考慮した上で見直しを行なって行くべきです。私にそのための知見がある訳ではありません。でも、BIの導入とともに無条件で廃止出来るのは生活保護くらいなものだろうとは思っています。日本の生活保護制度は、非常に厳しい資力審査を経た人だけが受給出来る、まさに既得権の典型のような制度だからです。(生活保護を受けているのは100万世帯ですが、それより貧しい世帯が400万世帯も存在すると言います。) 失業保険というのも、徴収される保険料の他に国庫負担があって成立している制度ですから見直しの対象になります。原田泰さんも指摘するように、現在の失業保険は失業しにくい正規社員だけが加入していて、失業しやすい非正規社員は加入出来ないという変な制度ですから、国の制度としては廃止してしまっても構わないように思います。介護保険や障害年金のようなものは、より慎重な対応が必要になる分野です。しかし、それでも決して聖域という訳ではないので、BIの支給を前提に制度が縮小されることは当然だと思います。老齢年金についてはすでに書いたとおりです。基礎年金部分はBIの導入とともに廃止、厚生年金と共済年金は統合して、国庫負担に頼らない制度に作り変えて行きます。

 もうひとつ、もしかしたらこれが一番見逃がせない既得権かも知れないと思われるものがあります。税金に関する不公平さです。昔から個人の所得税については、クロヨンとかトーゴーサンなどと言って、職業によって納税率が大きく異なっていることが問題とされて来ました。つまり所得の捕捉率に差があるので、サラリーマンと自営業者と農家では、納税率が9:6:4または10:5:3というくらい違っているという意味です。言い換えれば、自営業者は平均50パーセント、農家は平均70パーセントの脱税をしているということです。私にはこれが事実がどうか分かりませんし、またこれを既得権と呼ぶのが相応しいかどうかも分かりませんが、昔からサラリーマンだけが馬鹿正直に税金を納めているという事実には変わりはないので、現在のような慢性的な財政難の時代には、特に是正が必要なところだと思います。納税格差を是正するためには、納税者番号制度の導入が大前提になります(国民総背番号制なんて呼ばれ方をすることもあります)。ところがこれに反対する人が多いのですね。自営業者や一部の高額所得者がこれに反対する理由は分かりますが、ふつうのサラリーマンのなかにもこれに反対を唱える人がいることは解せません。

 私の提案は、BIの導入と合わせて納税者番号制度もスタートさせるというものです。つまり、BI受給の前提条件として、納税者番号制度への加入を義務付けるのです。これは完全な任意制度であり、BIを受給しないなら納税者番号の登録も不要になります。これなら納税者番号制に反対の人も異を唱えられますまい。とにかくBIというのは、最低限の生活費を国が無条件に保障するという、たいへん気前のいい制度ですから、そのくらいの義務には従ってもらわなくちゃならない。そして私の案では、納税者番号は銀行の預金口座や電子化された株式や不動産の所有などともシステムでつながっていて、登録者の資産状況をある程度国がつかめるようにしておくのです(それが嫌ならBIを受けなければいいだけです)。最近の記事で、私は将来の相続税と引き換えにBIを支給するアイデアを書きましたが、そのほかにもこれからは預金や株式などへの〈資産課税〉が財政上の重要なテーマになると考えられますから(なにしろに日本には1400兆円以上の個人資産があるのです)、これは次世代の税制を構想する上で欠かせないインフラになるでしょう。重要なことは、たとえ納税者番号に登録していてもいなくても、この国に住む以上は同じ税制度に従う義務を負っており、脱税は重い犯罪であるということです。仮に国民の9割がBIを受給するために納税者番号を持ったとすれば、国は残りの1割の国民に対して正しく納税を行なっているかのチェックをすればいい訳で、これによって納税率は格段に公平化されるものと期待されます。

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2010年8月 8日 (日)

本当に必要なたったひとつの金融政策

 このブログで財政問題について最初に取り上げたのは、セイニアーリッジ(シニョレッジ)政策のことについて書いたこちらの記事でした。これも私が愛読している「経済コラムマガジン」というページで、政府貨幣という考え方があることを知り、これに触発されて書いたものです。まだマイナス利子のお金のことも、ベーシックインカムという言葉も知らなかった頃の記事です。先日の記事で取り上げた原田泰さんの本を読んでいたら、セイニアーリッジ政策に関するとても大胆で、しかも説得力のある文章に出会いました。『奇妙な経済学を語る人々』という本の中にある「デフレは生活コストを下げるよいものか」という論文です。出版は2003年ですから、小泉内閣が進めていた構造改革の真っ只中ですね。しかし、ここに書かれていることは今もまったく古びていないと感じました。それどころか、デフレによる景気の停滞が止まらない今こそ、何を措いてもセイニアーリッジ政策の発動が待ったなしなのではないか、そういう気持ちにさせられたのです。それくらい原田さんの議論には強い説得力がありました。

 原田さんご自身は、セイニアーリッジ政策だとか通貨発行特権といった言葉は使っていません。それどころか「日銀の国債引き受け」政策に好意的な人が自説を補強するためにいつも持ち出す「デフレギャップ」なんてことにもひと言も触れていないのです。おそらくそんなコトバでカムフラージュをするから、この政策は何かいかがわしい〈禁断の政策〉めいて聞こえるのだ、そういう隠された信念があるのかも知れません。論文では、長く続くデフレがいかにこの国の経済を停滞させて来たかということを、いろいろな例証を挙げて説明したあと、いきなり重大な結論に跳び移ります。ここからは本文を引用しながら説明を続けることにします。自分の文章でリライトするよりも、本文を読んでいただいた方がずっと説得力がありそうに思えるので。

「必要なのは、デフレを終わらせることである。デフレを終わらせるために必要なのは、お札を刷ることだけである(日本銀行が、なるべく公平な形で資産を買うことである。すなわち、まずは国債の買い切りオペの増額が望ましい)。」

 短い文章のなかで、たいへん重要なことがさらりと語られています。日本のお金と言えば「日本銀行券」のことですから、お金を刷るということは日銀券を追加発行するということです。最近は財政赤字の解消策として政府紙幣の発行を主張する人も増えていますが(私も主張しました)、現在のお札とは異なるデザインの政府券を発行して、日銀券と一緒に流通させるなどというのは、(経済学者の目からはともかく)生活人の目から見てあり得ない選択肢です。しかし一方で、政府から(一応)独立した立場の日銀が、何も無いところから打出の小槌のように日銀券を発行出来る訳でもない。だから日銀による国債の買い切りということになる訳です(買い取った金額分の日銀券が新たに発行されることになります)。

「幸か不幸か、日本には700兆円の国債、地方債がある。それを全部買い切って、途中でインフレにならないということがあるだろうか。もし、ならないのであれば一向にかまわない。日銀が買い切った額だけの通貨発行益が財政収入として得られるわけだから、それだけで財政再建ができてしまうことになる。それでもインフレにならないのなら、税金を徴収することをやめて、財政支出をすべて通貨発行益でまかなえばいい。日本は無税国家になれる。
 もちろん、こんなうまい話はない。途中で必ずデフレから脱却することができる。そして、インフレ率が2%前後になった時点で買い切りオペを中止すればよいだけである。」

 単純明快な論旨だと思います。世界にはインフレに悩む国が多いのに、日本は逆に長いあいだデフレで悩んでいる。たぶんそんな国は他にはありません。これは何かがおかしいのです。何がおかしいのかと言えば、こういう状況で当然採られるべき金融政策が採られて来なかったということなのですね。つまりお札を刷るという政策です。莫大な額の国債が出回っていて、しかもデフレ経済から抜け出せないなんて、考えようによっては政府にとってこんなおいしい状況は無いとも言えます。なにしろデフレ脱却のためにお札を刷ってもいい、いやむしろ積極的に刷るべきだというお墨付きを与えられているようなものですから。日本では潜在的な供給力に対して需要が不足している、そんな議論に巻き込まれたら果てしなく論争が続くだけです。それよりも、論より証拠、700兆円の国債・地方債があって(現在は800兆円以上)、しかもインフレにも円安にもなっていない訳ですから、セイニアーリッジ政策は政府にとってひとつのオプションではなく、むしろ履行すべきひとつの義務だと言ってもいいくらいだと考えられるのです。では、何故そんな当たり前の政策が実行出来ないのか?

「この状況で、デフレを阻止するためにインフレターゲット政策を採用し、国債の買い切りオペを拡大していけばどうなるだろうか。金融緩和によって、名目金利が上昇した場合、長期国債の価格が下落する。金融機関は短期で借りて長期で貸しているため、純資産が減少する危険がある。すなわち、日本銀行がインフレターゲット政策を採用し、消費者物価上昇率が2%になるまで断固として国債の買い切りオペを続ければ、マネーサプライが上昇し実質金利が下がるが、やがて景気が回復し、物価も名目金利も上昇する。名目金利が上昇すれば、国債価格が下落する。銀行が多大な国債を抱えている現状では、それによって多くの損失を被るかもしれない。」

 金利が上昇すれば国債価格が下落するというメカニズムは、(原田さんも書いているとおり)簡単な理屈です。年利1%の10年もの国債を持っている人は、もしも金利が上がって年利3%の国債が発行されたら、当然買い換えたいと思うでしょう。でも残存期間がまだ何年もある1%国債を額面価格で買い取ってくれる人はいません(それなら3%の新規国債を買った方がずっと有利な訳だから)。長期国債を持っている人にはインフレを恐れる理由があるのです。そして日本で誰が国債を大量に持っているかと言えば、銀行や証券会社や生命保険会社といったところである訳ですから、そういう企業のなかには金利上昇によって経営が苦しくなったり、倒産するところも現れるかも知れない。しかし、そうした(国債を大量に抱えている)金融機関を救うために日本をデフレ漬けにしておくことはナンセンスだと原田さんは言います。もしもインフレターゲット政策を採用せずに今のままの状況が続けば、銀行のみならず、財政も年金もすべて破綻してしまうだろう、と。

「銀行がいずれ破綻しなければならないとしたら、今、わずかな銀行が破綻した方がずっとよい。しかも、国債を大量に抱えている銀行が破綻した方がずっとよい。銀行が破綻して困るのは、銀行の貸出先の企業が雇用を抱えているからだ。国債を大量に抱えている銀行とは、その分だけ貸出先が少なく、破綻しても雇用問題がそれほど深刻でない銀行だ。将来の大きな損失を避けるために、今、小さな損失に耐える方がましではないだろうか。しかも、破綻するのは大きな雇用問題を抱えていない銀行である。これこそが、理想的な構造改革ではないだろうか。少なからぬエコノミストの唱える構造改革とは空語であり、デフレ脱却と過大な銀行部門の整理という真の構造改革を行わないための口実である。」

 なかなか辛辣ですが、納得出来る説明です。私のような経済の門外漢でも、金利の上昇→国債価格の暴落→銀行の破綻→ハイパーインフレの到来ということが、なにか当然の図式のように頭にインプットされています。きっとどこかで読みかじった知識なのでしょう。でもこの本によれば、日本の銀行の資産のうち国債が占める割合はわずか1割程度なのだそうです。その国債の価格が1割下がったとしても、資産の目減りは1パーセントに過ぎない。それでもつぶれてしまう銀行があるならば、そういう銀行は国債を貯め込む一方で貸し渋りをしていたような銀行でしょうから、つぶれてもらっても日本経済にとって大した損失ではなさそうです。とにかく日本では家庭部門があまり国債を持っていないことが救いです。次に引用するのは、この論文の結論と言ってもいい部分です。

「デフレこそが構造改革を妨げている。デフレ不況のなかで、日本人は自信を失い、希望を失い、解決策にならない政策をめぐっての堂々巡りを続けている。誤った金融政策でデフレが続くからこそ、景気対策が求められ、公共事業が肥大化し、財政支出の効率が低下し、構造改革が必要になる。デフレが続くからこそ、銀行の経営が悪化し、公的資金の注入が求められる。税金で銀行が救われるなら、俺も救えというモラルハザードが蔓延するのは当然である。倫理の欠如も、自信の喪失も、これまでの日本人には見られなかった鉄面皮な態度も、すべてはデフレのなせるわざである。そしてそれを引き起こしたのは、90年代から続く、誤った金融政策だった。一見、構造問題に見える公共投資の増大、公的金融機関の肥大化も、デフレのもたらす不況によって生じたものである。デフレ脱却によって生じるマイナス、名目金利の上昇による国債価格の下落など取るに足りぬマイナスである。
 デフレを終わらせるとは、大きな利益のために小さな利益を捨てることだ。構造改革とは、大きな利益のために小さな利益を捨てることなのだから、デフレ脱却こそが最大の構造改革である。」

 この本が出版された2003年当時よりも、今はもっと事態が悪化しています。民主党は待ったなしの財政再建に向けて、事業仕分けだとか消費税率のアップだとか、迂遠な政策で足踏みをしている場合ではないと思います。国の予算のうち、今年はとうとう約二分の一が税金ではなく国債で賄われるという事態になってしまいました。国債の大量発行が始まったのは、小渕政権下の1998年からですから、今後はまさに国債の大量償還時代という未知の領域に突入する訳です。国の財政が大量出血をしている今、必要なのは止血という応急処置です。日銀の国債引き受けについては、財政規律を乱すものだという意見もあるかと思いますが、そこで得られる通貨発行益が既存国債の償還という目的のためにだけ使われるのなら、財政規律の混乱を心配する必要もないと思います。ましてやそれを実行するのが、国債を大量に発行した前政権から交代した新政権であるならばなおさらのことです。

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2010年8月 1日 (日)

「負の相続税」に関するくさぐさの考察

 ベーシックインカムを実現するための政策を考えるなかで、「マイナスの相続税」というアイデアを思い付きました。先日の記事に書いた内容です。ベーシックインカム(BI)を、人が人生の最期において支払うべき相続税と相殺するものとして、すなわち生前に〈徴税〉される〈負の相続税〉として位置付けられないものだろうかという発想です。もちろん現実には、相続税を払わなければならないほどの資産を遺す人は少数派ですから、たいていの人は受け取ったBIを最期に〈踏み倒す〉に決まっています。それどころか、私の提案では資産家はBIの受給を拒否することで相続税率の加算を免れることが出来ますから、これによって現実にBIの財源が相続税によってカバー出来るといったものでは全然ありません。むしろこの政策の狙いは、ひとつは国民経済に占めるストックとフローのバランスを回復させて、お金の循環を促進することで景気を上向かせることと、もうひとつはBIという〈新奇な制度〉に対するモラル面での基礎づけを行なうという点にある、それが先の結論でした。

 BIのモラル面での基礎づけというのはつまり、私たち国民が何故国から無条件で基礎所得を受け取ることが出来るのか、それを整合的に説明する理論を「負の相続税」は持っているということです。人は誰でもこの世に生まれて来て、大金持ちになる可能性を持っています。努力や才能によってばかりではなく、幸運によって大金を手にすることだってあるでしょう(宝くじに当たるなどして)。あなたのその可能性を、あらかじめ支給するBIで国が買い取りましょうというのが負の相続税という思想なのです。これは一種の取り引きですから、損得勘定で辞退してもらっても一向に構いません。BIは将来自分が高い相続税を払ってもいいと考える人だけが受給出来るのです。すなわち私たち国民にとって、BIを受け取ることに理由が出来るのです。

Souzokuzei_curve_1
 前回の記事でも、負の相続税という考え方のアウトラインは示し得たと思うのですが、もう一度これについていろいろな面から検討してみたいと思います。何か見落としている問題点や改良点が見付かるかも知れませんからね。まずは上のふたつのグラフを見てください(クリックで拡大します)。左側のグラフは、前回も掲載したもので、相続すべき資産額(X軸)に対応した相続税率(Y軸)を示したものです。現行の税法に基づいたものではなく、私が提案する新しい税率に基づいたものです。現行の税法では、相続人の人数や配偶者の有無でいくつもの税率曲線が現れるのですが、グラフの基本的な形は同じようなものです。これだけ見ると、相続税率は資産額が比較的小さい領域で急カーブで上昇していますから、累進的というよりも逆進的なもののようにも見えます。でも、それは錯覚です。右側のグラフを見てください。これは同じ税率で、資産額(X軸)に対応した実際の税額(Y軸)がどうなるかを示したものです。きれいな累進カーブを描いています。相続税について考える時には、このグラフの形を頭に入れておくと便利です。では、次に負の相続税を導入した場合にどうなるかを、このグラフを使って描いてみましょう。月に7万円のBI受給に対して0.07パーセントの相続税率加算というのが前回の私の提案でした。「負の相続税」というコンセプトにおいては、BIというのは月々の基礎所得と言うよりも、やがて精算されるべき(あるいは踏み倒されるべき)相続税の先取りという意味を持ちますから、BIの受給総額を相続税額のカーブに直接重ね合わすこと出来るのです。

Souzokuzei_curve_2
 左側のグラフを見てください。さきほどの基礎税額のカーブに対して新たに3本の線が書き足されました。それぞれBIを60年間、40年間、20年間受給した場合の生涯の相続税額(Y軸)を、死亡時に遺した総資産額(X軸)と対応させてプロットしたものです。仮にBIを60年間に亘って受給したとすれば、その総額は5040万円になります(7万円×720ヶ月)。もしも遺産が課税限度額の3000万円以下ならば、その人の生涯の相続税収支はプラス5040万円で確定します(税額として見ればマイナス5040万円です)。3000万円を超える遺産分については、BI受給期間に比例して定率で増加しますから(1ヶ月当たり0.07%)、相続税はかなり急勾配で増加して行き、総資産1億3000万円の近辺で(BIを受給しなかった場合の)基礎税額と交わります。これはBI受給期間の長短に関係なく同じです。さらにBIを長年受給していた人が1億3000万円を超す資産を遺した場合には、税額は基礎税額の線を突き抜けて増加して行き、グラフ領域からははみ出していますが、最高税率である80パーセントのラインに近づきます。生涯の相続税収支という観点から見た場合、1億3000万円以上の遺産を遺す予定の人は、BIを(1ヶ月たりとも)受給すべきではないということがこのグラフからも分かります。すなわち、もしも皆が経済合理的に判断するなら、実際の相続税のグラフは上記の右のようなものになる筈です。ある一定の資産額を境にして、グラフの左側がBI受給者層、右側がBI非受給者層というように、国民がふたつの階層に截然と分かれるのです。

 もちろん人は自分が人生の終わりにおいてどのくらいの資産を遺せるか、はっきり予想しながら生きている訳ではありませんから、常に最善の節税法を採用しながら人生が終えられるとは限りません。BIを60年間受給した後に、高額の宝くじに当たり、そのお金を使う間もなく死んでしまった人がいたとすれば、受け取ったBIよりもずっと多額の相続税を納めなければならなくなる、そんなことも起こり得るでしょう。これは当然のルールになりますが、BIを受給して来た人が、人生の後期において金持ちになったからと言って、受給したBIに相当する額を一括返済することでBIの受給歴を帳消しにするといったオプションはありません。ですから二十歳になった人は、自分がBI受給者として生きるのか否か、よく考えて決定する必要があるのです。考えようによっては、この制度は、国民のあいだにある経済格差を、はっきりとした階級意識として定着させる制度だとも言えるかも知れません。その点をあげつらって、これに反対する意見も出て来るかも知れない。が、私はむしろこれは望ましいことではないかと思うのです。以前からこのブログでは、これからの国内経済を二重化する必要について主張して来ました。つまり、日本円が国際的にもこれだけ強い通貨になってしまうと、それを使って生活している国民にとっては、一方では恩恵を受ける場面もあるけれども(百円ショップや海外旅行などで)、一方ではひどく生きづらい状況も生まれている(なにしろこんなに強い日本円を日々のたつきのために稼がにゃならんのだから)。これを解消するためには、対外的には強い日本円のメリットを残しながら、国内向けにはそれよりも価値の低い第二通貨や地域通貨を発行して、国民経済を下支えする必要がある、そう考えていたのです。

 BI受給という選択肢を国民に突き付けることで、これに近い国内経済の二重化が自然に図られるのではないか、それが今回の私の仮説です。この問題に対して、私の目をひらかせてくれたのは、『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』という一冊の本でした。減価するお金や地域通貨によって、〈人間のための経済〉を復興させることの重要性を説いた本です。(BIのことを考える人にとっても必読の一冊だと思います。) 地域通貨によって支えられている生活というのは、お金に過度に執着しない、むしろ人と人とのつながりを財産として、つましく、しかし心豊かに生きて行く、そういうイメージのものではないかと私は思っています(空想に過ぎないかも知れません)。そこでの私たちの合言葉は、例えば「宵越しの銭は持たない」だとか「金は天下の回りもの」だとかいったものになるでしょう。そしてこれはそのまま将来の高い相続税率と引き換えに、BIを受給する私たち庶民の合言葉でもある訳です。その一方で、BIのある社会では皆が貧乏に慣れてしまって、あまり働かなくなるのではないかという懸念もあります。すべての国民が金は天下の回りもので、宵越しの銭は持たねえといったメンタリティで生きて行くとしたら、それはそれで困ったことかも知れません。でも、これをちょうどいいバランスに落とし込むのが制度設計をする政治の役割なんですね。お金を稼ぎまくって、贅沢な暮らしをして、地位や名声も手に入れたい、そういうメンタリティの人たちも一定割合でいてくれないと困る。国の経済を牽引して行くのは、おそらくそういう人たちだから。そのためには、BIそのものの金額だけでなく、BIの対価となる相続税の加算税率や最高税率、また基礎控除額などを慎重に検討しながら設定して行く必要があるということです。

 先ほどのグラフを見ていて、新たに気付いたこともあります。これまで説明して来たように、ある固定された金額(7万円)や係数(0.07%)で制度設計をしてしまうと、将来の貨幣価値の変動に対応出来ないかも知れないということです。この政策がうまく図に当たって、景気が回復するなかで経済がマイルドなインフレ基調に戻ったとすれば、BIの月額も8万円、10万円というように見直さなければならなくなる時が来るかも知れません。あるいは(あまり想定したくないことですが)BIによって国民があまり働かなくなって、現在よりもさらにひどいデフレ経済に陥ってしまうことも可能性としてはあり得る(その時にはBIの月額を切り下げる以前に、この政策自体が保たない訳ですが)。何度も言うように、BIというのは「国家百年の計」ですから、将来的な経済状況の変化も可能性として織り込んでおかなければなりません。「負の相続税」という政策構想において、重要なのは生涯の相続税収支の損益分岐点を一定の資産額で固定しておくということです。そうしないと、国民がBIを受給するか否かの選択をする時の基準がぶれることになりますからね。私の提案では、課税対象資産=1億円(総資産1億3000万円)が損益分岐点でした。これを固定するのは簡単です。BIの金額が1万円変動するのに合わせて、加算税率を0.01パーセントだけ変動させてやればいいのです。8万円のBIなら、1回の受給につき0.08パーセントの税額加算になる計算です。あるいは(いま思い付きましたが)BIは最高額7万円(0,07%)から最低額1万円(0.01%)まで1万円刻みで本人が金額を選べるという制度設計も可能ですね。これならBI受給層と非受給層のあいだの溝がかなり埋められることになるし、インフレに対応してBIの月額を変更する時にも混乱は避けられると思います(新しく「8万円・0.08%」というオプションを付け加えるだけだから)。うん、これはなかなかいいかも知れない。(笑)

 とにかく、いまの政治が行なっているのは、将来にツケを残すような政策ばかりです。大量な国債の発行ばかりでなく、破綻に向かって突き進んでいるように見える年金制度や、一向に進まない少子化対策など、若い世代から見れば暗澹たる未来を予測させるようなことばかりです。このところ政治の世界では、強い経済と厚い福祉が両立し得るかという議論が戦わされているようです。そんなもの両立する訳はないのです、両立させるための仕組みを作らない限りは。世代間の搾取が構造的なものなら、これを解消させるものも構造的な転換でなければならない。どう考えても、方法はたったひとつしかないと思います。高齢世代が多くを保有している個人資産に、社会転換のバネになってもらうということです。そのために必要なのは、相続税を含む資産課税の仕組みを早急に見直すことです。BIという政策は、次世代の福祉政策などといったものでは決してなく、むしろこの資産課税をスムーズに導入するための一便法と言ってもいいのではないかとさえ私には思われます。もしも相続税率の加算を条件にしたBIが実現したとしても、それですぐに相続税の税収が増える訳ではないことに注意してください。この政策がほんとうの実を結ぶのは、国民の多くが長期BI受給者となる20年後、30年後のことです。(景気回復策としてはもっと即効的な効果があると思いますが。) つまり、この政策はこの国の将来を背負う若者や子供たちへの贈り物となり得るものなのです。しかもこれはいまの高齢世代や現役世代に多くの我慢を強いるものでもありません。(相続税の負担増を避けたければ、BIを受給しなければいいだけですから。) 負の相続税と組み合わされたBIこそ、この国の八方塞がりの状況を突破する可能性を持った政策ではないか、考えれば考えるほどそんなふうに思えて来るのです。

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