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2010年5月30日 (日)

裁判員制度施行1年に思うこと

 裁判員制度が始まって1年が経ちました。制度が始まる前までは、このブログでもこれに反対する文章をずいぶん書いたものでしたが、最近はほとんどこの話題について興味を失ってしまったような状況でした。よくない傾向ですね。熱しやすく冷めやすいという典型的な日本人らしい関心の持ち方だ。以前トラックバックを交換させていただいたこともある高野善通さんのブログを拝見すると、いまも裁判員制度廃止という一点に目標を絞って執筆と活動を続けていらっしゃる。見習うべきことです。それにしても、高野さんも指摘されているとおり、最近はマスコミでも裁判員制度に反対する人たちの意見や活動がほとんど報道されないことが気がかりです。今月も都内で反対集会が開かれ、1800人もの人たちが集まったと言います。でも、それが目立ったニュースや記事になった形跡はない。これだけブログやツイッターが流行している時代でも、この国ではマスコミで話題にならないものは最初から存在しなかったも同然なのです。高野さんはそういうマスコミのあり方を、「体制翼賛化」というコトバで表現されていますが、結局のところ理念も思想も何も持っていない現在のマスコミ各社は、世論の動向を見ながら現状を追認するくらいのことしか出来ないのでしょう。

 裁判員制度が1周年を迎えるに当たり、各新聞がこれを総括する記事を掲載しています。内容はどれも似たり寄ったりのものです。裁判員を経験した人にアンケートを取り、その感想を聞くというやり方も同じです。まったく馬鹿げた話です。そもそも裁判員として選任され、実際に公判に参加したという時点で、その人たちはこの制度に賛同しているか、少なくとも堅固な反対意見を持つ人たちではなかったと想像されます。裁判員になりたくない人は、何かしら理由をつけて出頭を拒否するか、出頭しても裁判官との面接において前向きに参加する意思の無いことを表明する筈ですから。つまり裁判員経験者として括られる人たちは、アンケート対象としては不適切なバイアスがかかっていると考えられるのです。高野さんの推定では、最終的に裁判員を務めさせることの出来る人の母集団は、国民の2割程度だろうということです。常識的に見ても、そんなものでしょうね。その人たちが、「裁判員を経験して良かった」、「裁判所の人たちはとても親切に対応してくれた」なんて、まるで小学生のような回答を返して来ている。むろん彼らに罪はありません。問題は、記事を企画した新聞社が、あらかじめ結果の予想出来るような空疎な内容のアンケートを実施してまで、何を訴えようとしているかです。私は新聞社のなかで1社たりとも裁判員制度に反対したり、疑問を呈しているところがないことを不満に思っている訳ではありません。ただ、中立な立場でこの制度の功罪を検証しようという意思があるのなら、調査の対象が偏り過ぎていると言いたいのです。何故誰も裁判員制度によって裁かれた被告人たちにアンケートを取らないのでしょう。そうすれば結果はずいぶん違ったものになっただろうに。刑罰というものの目的のひとつは、被告人に反省を促し、更生して社会復帰をさせることにあるのですから、もしも被告人がこの1年で裁判に対する不信感を強めているとしたら、これからの社会の安全という観点からも由々しい問題です。これは極めて重要な問題であるにもかかわらず、マスコミはおろか最高裁もそういった点に目を向けようとはしません。

 何度でも同じことを書きます、裁判員制度は制度設計の細部に問題があるのではありません、法律に疎い市民に同じ市民を裁かせるという、制度の根本思想に問題があるのです。だから改善ではなく、廃止が必要なのです。アンケートの回答のなかには、過去の判例を根拠にこれまでの相場に従った量刑に誘導されているようで、裁判官に不信感を覚えたという意見がありました。この意見こそ不審を感じさせるものです。裁判員制度の一番の問題は、裁判員に選ばれた人たちの負担の大きさや精神的なケアといったことではありません。自分には負担が大き過ぎると思ったなら、はっきり辞退の意思表示をすればいいのですから。問題はこの制度によって、裁判というものの公平性が決定的に損なわれてしまっているという点にあるのです。裁判員を経験した人は、判決に市民感覚が取り入れられるのはいいことだと言います。しかし、その市民感覚というものの正体は何でしょう。刑罰というのは市民の復讐心を満たすためにあるのではないのですから、量刑が市民感覚からずれていることは何も問題ではありません。と言うより、ある判決に対してすべての市民が納得するようなジャストフィットの量刑なんてものはあり得ないのです。ある人は刑が軽過ぎると感じ、ある人は重過ぎると感じる、そういう感じ方の違いがあることは当然です。たまたま集められた6人の裁判員が市民感覚において一致した評決を出したとしても、また違う6人が評議を行なえばまったく違った結論を出すでしょう。裁かれる側はたまったものではありません。プロの裁判官たちが、過去の判例データベースを参考にしながら、相場を大きく崩さないように細心の注意を払いながら量刑を行なっているとすれば、それは官僚主義でも何でもない、公平な裁判のために必要な当たり前の手続きなのです。

 最初から予想されたことではありますが、全体的に裁判員が参加した裁判では、量刑が重くなる傾向があるようです。先週さいたま地裁で行なわれた裁判では、検察が求刑した懲役7年に対し、裁判員裁判で懲役8年の判決が出されたのだそうです。耳を疑いたくなるような話です。悪いジョークとしか思えない。想像してみてください、この皮肉な判決を受けた被告人が、刑に服しながらまっとうな更生の道を歩めるものかどうか。もしも私が被告の立場だったとしたら、とても素直な気持ちで刑に服すことなんて無理だという気がする。裁判員に対して個人的な恨みを募らせるかも知れない。懲役7年か8年か、どちらがより正しい判決かなどという問題ではありません、明らかにこの事件を担当した裁判員たちは、被告の社会復帰に対して大きな躓きの石を置いたのです。そうなる可能性を、彼らは評議のなかで検討しなかったのだろうか。裁判員制度が始まって以来、検察も求刑にゲタを履かせることを止める傾向にあるのだそうです。これまでは、だいたい求刑の8割掛けで判決が下されることが多かった。だから検察側も実際より2割増しくらいの求刑をするのが慣例だった。それが裁判員制度になって、求刑通りの量刑で確定してしまうものだから、検察も最初から狙った通りの重さの求刑を出して来るようになったというのです。このことをもって日本の刑事裁判がより合理的になったと考える人がいたら、それは浅はかな考えです。懲役10年を求刑され、裁判長の寛大な計らいで懲役8年で結審する。予定調和の芝居かも知れないけれど、その演出が被告の心に更生のための種を蒔くことになるとも考えられます。意味の無い慣習ではないのです。それがここに来てどうなったか。素人の裁判員とやらがしゃしゃり出て来て、求刑以上の重い判決を下すだなんて…

 裁判員制度が始まると、おそらくこれまで以上に死刑判決が増えるだろう、私はそう予想しました。これについては、今のところまだその心配が現実のものとはなっていません。というよりも、これもこの制度に私が不審を抱いているところなのですが、そもそも死刑が予想されるような重大な事案は、最初から裁判員裁判の対象から外されているのですね。法律では、最高刑が死刑または無期に該当する重大な刑事事件は裁判員裁判の対象になる筈でした。ところが、世間を騒がしたような凶悪事件や被告が無罪を主張しているような否認事件は、わざわざ対象外になっているのです。誰がどういう理由で選別しているのだろう? と言うか、どうしてそんな選別をすることが許されているのだろう? 裁判員制度が問題なのは、判決を市民の感覚に任せたら、公平な裁判を維持出来ないということです。しかし、同時期に同じ罪状の事件が、かたや裁判員裁判、かたや従来の裁判官裁判というように恣意的に選別されているとしたら、この国の裁判は二重の意味で不公平であることになる。これについてもマスコミは何故疑問を突き付けないのでしょう。とにかく裁判員制度に関しては、裁判員の選任方法も含めて不審なことだらけです。こんな悪い制度の片棒を担ぐのはご免なので、私はもしも抽選に当たっても裁判員を辞退するつもりです。今年も私のところには裁判所からの召喚状は届きませんでした。実を言えば、内心がっかりしていたのです。もしもそれが届いたとしたら、そのまま封を開けずに裁判所に送り返し、もちろん出頭もしない。その結果どうなるか、その顛末をこのブログで実況中継するつもりだったからです。そう言えば、裁判所からの召喚に応じず、罰金(過料)を請求された人の話も聞きませんね。裁判所はその件数も公表すべきだと思うのですが、世論の反撥が怖くて公表出来ないのでしょうか。いや、彼ら自身がこの法律が不当なものであることを知っているので、罰金を科すことすら怖くて出来ない、というのが本当のところなのかも知れません。

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2010年5月23日 (日)

基地問題こそ国民投票で

 迷走する鳩山政権のアキレス腱とも言える普天間問題について、内田樹さんがブログで取り上げています。いまの時代、切れ味鋭く自説を展開する論客といった人はたくさんいますが、常識的な地点に立ち帰って私たち自身がものを考える時の視点を与えてくれる論者はほんとに少ないと感じます。どんなジャンルの発言であろうと、内田さんの言うことなら耳を澄まして聴き取ろうと思っている私にとって(なにせ「タツラー」ですから。笑)、今回の基地問題に関する文章もまったく得心のいくものでした。いま新聞やテレビは鳩山首相の公約違反を追及することに血道を上げているけれども、もともと基地問題の本質がそんなところに無いことは誰でも知っている訳です。いや、鳩山さんという人が、一国の首相としての資質に欠けた人であるのは隠れようもない事実だったとして、そこに目を奪われてことの本質を見失ってはいけない。問題は戦後65年を経たいま、これからの日米関係をどう見直し、在日米軍基地をどうして行くかという問題に関して、国民的な合意をいかに形成して行くかということです。これに対する内田さんの結論は単純明快です。「なぜ、日本国民が結束して米政府に対して「基地は要らない」という要求をなすための合意形成を支援するといういちばん常識的な仕事をメディアは選択的に放棄するのか。」 私もまったく同感です。

 今回の記事のなかで引かれているチャルマーズ・ジョンソンさんという方のインタビューは、基地問題というと及び腰になる私たち日本人の目を覚まさせ、勇気づけるものだったと思います。そうか、日本は普天間移設をアメリカに具申する以前に、普天間飛行場なんて要らないと言えば良かったのか。アメリカにとっても普天間は軍事的に必須なものではなく、これにこだわっているのは海兵隊と空軍のあいだの縄張り争いの結果に過ぎないのだそうです。この説も私には耳新しいものでした。現在の沖縄の状況を見ていて思うのは、沖縄の人たちはほんとうに基地に苦しめられているけれども、その怒りは自国の政権に向かうだけで、基地そのものに対する憎悪となって燃え盛ることは少ないのではないかということです。これは私が沖縄の戦後史をよく知らないからそう思うだけかも知れません。今週も1万7千人の人たちが人間の鎖となって基地を囲むというデモンストレーションを行ないました。しかし、それは果たして駐留米軍やオバマに対するアピールなのだろうか、それとも沖縄だけに基地を押し付けて日米関係の現実から目をそらして来たヤマトンチューに対するアピールなのだろうか? 内田さんの記事によれば、国内の米軍基地を縮小することに成功した韓国では、「基地周辺でのレストランや商店への入店拒否などの激しい排斥運動を通じて国民の意思を示した」のだと言います。普天間基地や嘉手納基地の周辺で、米兵入店お断りの看板を出しているレストランや商店がどのくらいあるのか、私は寡聞にして知らないのです。

 誤解しないでください、私は沖縄でも米軍に対する直接的な排斥運動を活発にすべきだなどと言いたいのではありません。むろんそういう闘い方だってあると思うし、なかにはそういう活動を主張している人もいるでしょう、それはそれで尊重すべきだと思います。また過去を振り返れば、米兵による暴行事件に抗議するため実力行使に出た住民と当局が武力衝突を起こしたことだってあった筈です。(おそらくそれは米軍によってではなく、日本の警察によって鎮圧されてしまったのでしょうが。) しかし、この二十一世紀の沖縄で、また日本で、武力も辞さないというほどの激しい基地排斥運動が盛り上がるとは、私にはどうしても思えないのです。それはひとつには日本人の心性がひと昔前に比べて温和になった(草食化した?)ためでもあるし、またあまりに長く基地と共存して来たために、基地を前提とした経済圏や生活圏が出来上がってしまっているためでもあります。だからここで韓国の例を出して、それをお手本にするという考え方にも私はなにか違和感があるのです。それにそうしたかたちでの反対闘争を煽ることは、これまで以上に基地周辺の住民だけに緊張とリスクを強いることでもあるんですよね。基地問題というのは、例えば原子力発電所の建設問題などとは違って、純然たる外交問題です。私たちは鳩山首相の外交能力のあまりの低さに腹を立てているのであって、基地の国外移転という方針に反対している訳ではない。であるならば、ここで鳩山さんを引きずり下ろしたところで何の解決にもなりません。基地問題は(短命そうな)鳩山首相や民主党政権よりもずっと長いスパンで考えるべき問題です。

 安倍政権時代に自民党が強行採決した国民投票法が今週施行されました。これは憲法改正の手続きについて定めた法律ですが、その他の用途には使えないのでしょうか? 今年は日米安全保障条約の締結50周年の年に当たります。安保条約というのは10年ごとに契約更新する決まりのものですから、今年はその更新年でもある訳です。60年安保だとか70年安保と言えば、ずいぶん遠い過去の話のようにも思えます。あのころ確かに国は安保賛成・反対で二分されていた。せっかく政権交代という地殻変動が起こったのに、何故いまこれを原点に帰って評価し直そうという機運が盛り上がらないのでしょう? 理論的に言えば、私たちには安保条約を更新しないという選択肢もあるのです。(但しそのためには相手国に対して1年以上前に通告しなければならないことも条約で決まっているそうですが。) であるならば、2020年をとりあえずの目途に国民の意思を確認してみるというのはどうでしょう。そのために国民投票という手段を使うのです。沖縄でも徳之島でも、住民は一致団結して基地に反対している訳ではなく、賛成する人だって結構な数いる訳です。これは国全体で見ても同じでしょう。マスコミの論調だけで、国民がみんな基地に反対していると思うのは早計ですね。その確かな基礎データも無いところで、強力な外交政策を進めるのはもともと無理だったのだと思います。日米安保の将来について、また普天間基地の国外移転について、国が正式に国民の考えを問う。これは国際世論に対するアピール度も高いし、日本の外交戦略にとって強いバックアップとなるに違いない。何かを決断するなら、それからでも遅くありません。

 これは以前にも書いたことですが、日本の保守派が憲法改正に並々なる意欲を持っている理由が私には分かりません。憲法と基地とが、敗戦によってアメリカから押し付けられたものだったとして、そしてそのふたつのくびきから離脱することが、日本が独立した国家としての矜持を取り戻すために必要な条件だったとして、何故その順序は憲法改正が先なのだろう? 違うでしょ。いまアメリカは在日米軍基地の縮小や撤退など考えてもいませんが、憲法改正をして日本が集団的自衛権を持つことは望んでいるのです。「基地存続かつ憲法改正」という選択は、端的に言って日本のアメリカに対する軍事属国化をさらに推し進めることでしかない、どうしてそういう発想を日本の保守派はしてみないのか。私自身はかねて護憲派であることを公言していますが、自分の胸に手を当ててよく考えてみれば、もしもこの国から外国の軍隊が完全撤退したあかつきには、新しい自主憲法を持つこともアリかなと思っている。でもその逆は絶対にダメです。もしも国民投票という新しい政治ツールを導入するなら、それを国民同士の思想的分断のために用いてはならない、むしろ外交戦略の強力なカードとして用いるべきでしょう。

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2010年5月16日 (日)

私の考える休日分散化案

 というわけで、連休の混んだ観光地をめぐりながら休日分散化の必要性を痛感したのですが、一方で民主党が検討している休日改革が、一部の人たちのあいだではえらく不評だということも知らされたのでした。私がおかしいと思うのは、これに反対する人たちが民主党の原案をそのまま受け取って、その欠点をあげつらうばかりで、ここから前向きな議論をしようという意思がまるで無いように見えることです。確かに民主党が取り組んでいる政策には、着眼点はいいのだけれども、具体的な実施方法となると詰めが甘いと言うか、ほんとによく考えて政策を練っているのだろうかと疑わせるようなものが多いと感じます。ロジカル・シンキングではありませんが、導入の目的をはっきりさせて、予想される課題をひとつずつクリアして行く方向で考えれば、もう少し緻密で反論に対しても抵抗力ある政策が立案出来るのではないかと思うのですが。今回は頭の体操も兼ねて、私がもしも休日分散化法案を作るとすればどんな形にするか、それを考えてみたいと思います。

 休日を分散化する目的は、観光地や高速道路の混雑緩和ということよりも、余暇の機会を平準化することによる消費の促進と、サービス産業で働く人の労働の効率化ということが第一義であると考えます。休日を分散化させることで、国内の余暇消費が拡大し、余暇産業が潤わないようでは、この政策を採用する意味はまったく無い。まずここが基本です。現在のように春と秋の連休に余暇消費が集中している状況では、これを迎え入れる余暇産業の側がキャパシティ・オーバーを起こしてしまっていて、機会損失をこうむっているに違いない、これが私の仮説です。もしもほんものの政策担当者なら、いろいろ調査をしたり統計を取ったりして、この仮説が正しいかどうかを確認すべきでしょうが、それは端折ります。オンシーズンとオフシーズンでは旅館や旅行会社の設定する価格が大きく異なっている、そのことだけでも機会損失があることの証拠になるだろうと考えるからです。(休日が分散化されることで、オンシーズンに高い宿泊料を設定出来なくなる高級旅館などは、却って経営が苦しくなるだろうという意見もあるようですが、この考え方は本末転倒です。「値段を高くしても客が来る」ということよりも、「値段を安くしなくても客が来る」というのがサービス業の正しいあり方でしょう。) 観光地の混雑や高速道路の渋滞をニュースなどで知っている私たちは、それだけでもう出かける気力も失せてしまいます。一方であまりに閑散としている場所に出かけるのも気が引けるという人もいるかも知れない。休日を分散化することで、国内の観光地が年間を通じていつも適度に賑わっているという状況を作り出せれば、潜在的だった余暇消費が最大化するだろう、そう予想する訳です。

 このように休日分散化の目的をはっきりさせるなら、民主党のプランにはそもそも根本的な欠点があることが分かります。民主党が検討している休日分散化案は、全国を5つのブロックに分けて、ちょうど桜前線が北上したり、紅葉前線が南下したりするように連休の時期をずらすというもののようです。しかし、レジャーと言っても「安・近・短」が主流である昨今の状況で、このような大雑把な地域別の休日設定では、分散効果はほとんど期待出来ないだろうと思います。ブロックが大き過ぎるのです。観光地の混雑緩和は、ブロックをまたいで移動する観光客の数で決まる訳ですから、理論的に言えばブロックは小さければ小さいほどいい。どのくらいまで細分化するのが適切でしょう。県? 市? 町? 実は休日に関する制度改正で、真っ先に配慮しなければならないのは、法律で有給休暇を保証されている労働者ではなく、学校に通っている児童・生徒の方です。私が考える休日ブロックの最小単位は学校になります。では、学校ごとに独自に休日を決めさせればいいかと言うと、この場合小学生と中学生の子供がいるような家庭で家族揃っての休みが取れなくなってしまう。この問題を完璧にクリアすることは不可能ですが、最も妥当な解は公立学校の学区別にブロックを設定することでしょう。小学校の学区より中学校の学区の方が広ければ、広い方をブロックにします。両者が包含関係になく部分的に重なっているようなら、合わせてひとつのブロックにするのです。これで地元の別の学校に通う兄弟が同じ日に休めることになる(可能性が高くなる)。

 学校に通う子供たちの休日は学区単位で独自に決めるとして、問題は大人の休日をどうするかです。一般的にサラリーマンや公務員の通勤圏は、学区の境界をはるかに越えていますから、同じ学区内の企業や役所が一斉に休んだとしても、親が子と一緒に休めることになるとは限りません。それにこれは休日分散化に反対する人たちの論拠ですが、民間企業は取り引きの関係上、独自には休みにくいという事情がある。同じ会社で本社と支店の休日が異なるというのも、ビジネスの上では不都合であるに違いありません。この問題に対する私の提案は少し大胆なものになります。法律上、学校以外では国が定める休日をすべて廃止するのです。いや、正月元日くらいは国民の休日として残しましょうね。それ以外は日本国では一年中すべてのウィークデイが営業日となる。(もちろん多くの企業や公共機関で、正月の三が日や土曜・日曜を休日としている慣行は変わりません。) その代わり、働く人は従来と同じ日数の休日を、自身の余暇計画に従って取得出来るものとします。いま国民の祝日は(正月元日を除いて)年間に14日あります。この年間14日という休日がすべての働く人に法律で保証されるのです。つまり、現在の有給休暇とは別に14日間の休みを取る権利が与えられるということです。有給休暇は消化されなくても罰則規定はありませんが、この14日間の休暇取得は労働者の基本的権利であり、守られなければ雇用者側が罰則を受けるものとします。

 細部のルールは詰めが必要です。例えば従来の有給休暇と新しい余暇休暇(と呼ぶことにします)を運用上どうやって区別するのか? 急な病気や怪我で仕事を休んだ場合、企業はそれを余暇休暇として消化させたがるかも知れません。規定日数を休ませなければ罰則がありますからね。でもこれはダメです。あくまで余暇休暇は国民の祝日の代替であって、病気や怪我のための備えではないからです。いや、たとえ本人の希望であっても、事後の余暇休暇申告は認めないようにすべきでしょう。余暇休暇は、働く人と企業のあいだの合意によって成立するものではなく、働く人と国とのあいだの約束として取り決められるものなのです。手続きとしては、年に1回または半期に1回、働く人が自分で休暇計画を立て、それを国に申告して、国から雇用企業に通達するようにすればベストです。納税者番号制度が出来れば難しいことではありません。もちろん中小企業などでは、多数の社員が同時に休んでしまうと操業に差し支えるところも出て来るかも知れません。そんな場合は労使であらかじめ調整しておいて、社員の休暇取得を分散化させておくか、あるいは逆に一斉に取得させて会社全体を休業日にしてしまうといったことで対処出来ると思います。これは別に違法なことではありません。非正規社員についても、休暇は国と個人のあいだの約束事ですから、自社の社員ではない派遣社員だからといって、その人にとっての休日に出勤を強制することは出来ません。ただ、短期間の労働力が欲しい企業は、直近に余暇休暇がたくさん入っている人を雇うのは敬遠したいでしょう。これは仕方ありません。派遣契約やアルバイトで働こうという人は、年に2回まとめて11日間ずつの休暇を取り(土日を4日と余暇休暇を7日)、そこで思い切りリフレッシュしたあと、今後半年間は余暇休暇を取らないことを採用面接でアピールするなんてことも出来ます。それはそれで魅力的な働き方かも知れません。

 休日分散化にはいろいろな観点で〈いちゃもん〉をつける人がいて、そのひとつひとつに真面目に反論している余裕は無いのですが、日本人の国家意識を解体するものだなんていう言われ方をすると、ひとこと言い返したくなります。昔は国民の祝日を「旗日(はたび)」なんて呼んで、どこの家でも門に日の丸を掲げたものでしたが、最近はそんな光景もすっかり見かけなくなりました。建国記念日であろうと天皇誕生日であろうと、国民が心をひとつにして祝日を寿ぐなんていう美習は、すでに前世紀に消え去ってしまったと思われます。民主党案では国民の祝日を廃止する訳ではなく、祝日を休日にするという法の規定を変えるだけのようです。もしも祝日が休日でないことに違和感があるなら、祝日の方を動かして日曜日に充てればいいだけの話です。すでにハッピー・マンデーというかたちで、日にちを特定しない祝日はある訳ですから、それほど突飛な話でもありません。(さすがに天皇誕生日だけは、12月の第4日曜という訳にはいかないでしょう。これは「平成の日」とでも名称を変えましょうか。春分・秋分の日は、名前だけ残せば別に祝日でなくてもいいような気がします。) それよりも地域別の休日が定着すれば、その地域独自の新しい祝日が生まれるだろうと思いますし、それを記念するイベントなども各地で開催され、有名無実化した国民の祝日などより、よほど住民の心をひとつにするいい機会になるのではないでしょうか。国家意識というものが重要だとしても、その土台になるのは自分たちの住む土地に対する愛着でしょう。いまの日本人に欠けているものは、抽象的な国家意識などというものではなくて、地に足のついたコミュニティー意識なのだと思います。

 また国家経済というマクロの視点から見た場合、休日分散化は需要の促進に効果があるだけでなく、生産性の向上にも貢献するだろうと期待出来ます。なにしろ企業の操業日が年間14日も増える訳ですからね。もともと日本では、諸外国と比べて有給休暇の消化率がきわだって低い一方で、逆に国が定める休日の日数は多いという矛盾があった訳です。そうでもしなければ、日本人は仕事を休まないという事情があったのでしょう。でも、考えてみれば、機械化・自動化の進んだ現代の企業では、社員の1割が休んだからといって(一般的に)生産量が1割減る訳ではありません。むしろ操業日が減ることの方が生産量に直接影響する筈です。だとすれば休日分散化は端的に日本の生産力を向上させますね。これはこの国の国際競争力回復にも役立つのではないでしょうか。さらに仕事の現場では、人が交代で休んでも業務に影響を与えないような工夫が進むでしょう。サービス業や流通業などでは、ほとんど年中無休が当たり前になっている昨今、この現場改革はきわめて重要だと思います。飲食チェーンの(名ばかり)店長さんなんて、いま大変なことになっているそうじゃないですか。(彼らを休ませる仕組みは一刻も早く制度化するべきです。) これは今後進展させるべきワークシェアリングにも道を拓くものだし、さらにその先にはベーシックインカムのある社会さえ見えて来る。そう考えれば、この国の本当の構造改革は、休日分散化から始まる、そんなふうにも言えるのではないかと思うのです。

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2010年5月 9日 (日)

観光地は中国人でいっぱい!

 ゴールデンウィークは子供を連れて、近場の観光地に行って来ました。もともと混んだ場所に出かけるのは好きではありませんが、子供が生まれてからというもの、幼い心にいろいろな思い出を残すのも親の務めだと思って、機会があれば人ごみのなかにでも出て行くようにしています。今回向かったのは温泉地でした。自家用車を持っていないので、電車で行くことになるのですが、その車中ですでに異変が起こっていることに気付きました。周りから聞こえて来る会話の(感覚的に言って)半分くらいが中国語なのです。中国人や韓国人の方々は、顔つきからは日本人と見分けがつかないので、話をしているのを聞いて初めて外国人だと分かる、そんな経験は誰もがしていることだと思います。また銀座や秋葉原がショッピング目当ての中国人でいっぱいだという話もニュースなどで知っていました。しかし、ゴールデンウィークの、しかも由緒正しい日本の温泉地にまで中国人が押し寄せていたとは。おそらく日本人観光客の多くは、クルマで目的地まで行ってしまうのでしょうから、こういう状況も電車やバスの中だけかも知れない、そう考えていたらそれも違いました。食堂で食事をしていても、土産物屋で買い物をしていても、展望台で写真を撮っていても、とにかく周りは中国人だらけ。よく見ればお店の案内表示も日本語と中国語と韓国語が併記されていて、これがここでは当たり前の状況であることが分かるのでした。

 昔から観光地に行けばバックパッカーのような風体の西洋人をよく見かけました。いまでも彼らは一定割合で観光客に混ざっています。はるばる欧米から日本に渡航しようという人たちには、純粋に観光やショッピングを楽しもうとするだけではない、もう少し屈折したと言うか、複雑な理由があるのがふつうではないかと思います。例えばそれはいまだに西欧諸国の人たちに根強く残るオリエンタリズムへの興味であるとか(フジヤマ、ゲイシャはともかく、BUSHIDOやZENはまだ訴求力を保っているのではないでしょうか)、あるいは人気アニメで日本に興味を持った若者が聖地を目指すような気持ちで成田行きの便に乗ってしまうとか。国内を旅する西洋人は、どこか彼ら自身がエキセントリックな雰囲気を漂わせています。それに対して中国人の旅行者は、ふつうの家族旅行か団体旅行の人たちのような見かけと行動パターンで、まるで自国の観光地をわがもの顔で占領しているふうに見える。いや、私は別に彼らの旅行者としてのマナーに問題があるなどと言っている訳ではないのです。旅行中、いくつもの行列に並びましたが、列を割り込んで来るような人はいませんでしたし、道端に唾を吐いているような人も見かけなかった。むしろ私が面白いと思ったのは、彼らがあんまりアットホームにくつろいで楽しんでいるように見えた点です。きっと広い国から来た彼らには、ここが外国だという意識も希薄なのではないかと思いました。都会の人が地方に行く程度の感覚とでも言うのか。確かに北京や上海に住んでいる中国人にとって、国内の景勝地に行くよりも日本の方が交通の便だっていいのかも知れないし、言葉や風習が違っているという点でも両者にそう差は無いのかも知れません。

 それにしても、外国人旅行者が日本のゴールデンウィークに合わせて来日している訳はないので、どこに行ってもひどい混雑に巻き込まれることには面食らう人も多かったのではないでしょうか。それとも最近は中国国内の観光地だってどこも混雑しているので、この程度の人ごみは日常の範囲内なのでしょうか。為替レートの高い国を旅行する彼らは、きっと中国のなかでもアッパークラスの人たちでしょうから、私たち国内の庶民と同じようなところで食事をして、指定席も無いような遊覧船で湖をめぐることが果たして快適なことなのだろうか、一日本人としてそんなことを心配してしまうのでした。私自身は日本という国に誇りを持っているナショナリストなので、日本を旅する観光客の方々に満足していただけたかどうかが気にかかってしょうがないのです。ちなみに、中国人や韓国人と聞けば脊髄反射的に(ネット上などで)悪態をつく日本人、あれは決してナショナリストと呼べる人たちではありません。彼らのやっていることは、世界に向けて日本という国を貶めているだけのことですからね。今回の旅行では、日本の観光地が確実に国際化しているにもかかわらず、サービスの質はひと昔前からまったく進歩していないどころか、迎える側の対応はなんだか画一化・マニュアル化されているようで、客人をもてなすといった気持ちがまったく失われているような気がしてなりませんでした。まあ、たまたま自分が訪れたところがそうだっただけかも知れないし、行儀の悪い幼児を連れたわれわれ家族が歓迎されていなかっただけかも知れませんが…

 客商売というのも、それぞれ相手にする客層が違えば難易度も違って来るものだと思います。幸福な気分を味わいたくてはるばるやって来る観光客ほど、ちょっとしたことでも感激する心構えを持っているお客さまもいない訳で、彼らを満足させることは実は容易なことなのではないかと私は踏んでいます。別に相手の国の言葉や習慣に合わせたりする必要は無いので、ふつうに日本人が納得出来るほどのサービス品質とフレンドリーな対応さえあれば、あとは美しい誤解でも何でも彼らははるけく極東の小国まで来たことへの意義を勝手に感じ取ってくれる(感動というものにウソは無いのです)。そういういまどき珍しいほど有利な商売の利権を手にしていながら、日本の観光地で働く人たちはあまりにサービスの改善に無頓着だという気がしました。まだいまのところは、ニセの粗悪品をつかまされることがないとか、お釣りをごまかされることがないといったことだけでも、外国人観光客には価値あることなのかも知れない。しかし、それだけで彼らをリピーターにすることは出来ないでしょう。日本の観光地のサービス品質を高めることは、おそらくそれぞれのお店や働く人の心がけに任せておけばいい話ではなくて、国として取り組むべき政治的課題だとも思われます。何が自分たちの売り物で、どこで差別化出来るか、そこに自覚を持ってもらう必要がある。そのために国が予算を出して、接客の現場で働く人たちを中国の観光地に視察に行かせるくらいのことをしたらどうでしょう。そうすれば自分たちが持っている美質がはっきり分かるようになる。たとえ三坪ほどの小さな売店だったとしても、日本を代表する観光地の一角に店を構えている以上、自分は国際親善の最前線にいるのだ、そういう心構えで商売をするようになれば、やりがいだってずいぶん違って来るでしょう。

 どこに行っても混雑した観光地をめぐりながら、民主党が検討している休日分散化のことを思い出しました。あれは絶対に必要ですね。観光を日本の一大産業にするために必要というよりも、そういうものでも導入しないと経済効率も悪いしサービス向上にもむすびつかない。で、休日分散化というキーワードでネットを検索してみたのですが、これがひどい不評なのですね。特に例の「脊髄反射派」の人たちは、休日の分散化は日本人の国家意識を解体するものだなんて息巻いている。これに賛成している人の意見はほとんど目にすることが出来ませんでした。なんだか旅の疲れがどっと増したみたい。私は基本的に休日分散化に賛成したいと思うのですが、ただ、民主党が考えている方式では効果も限定的だし、逆に弊害の方が大きいのではないかとも思います。これについては次回もう一度考えてみることにしましょう。今週はちょっともうアタマが回らない。

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2010年5月 2日 (日)

子ども手当から民主党の政策を考える

 先週のニュースです。尼崎市に住む韓国人の男性が、海外で養子縁組をしている554人の子供に対して、子ども手当の申請を出したのだそうです。年間の手当総額は8600万円。まあ、本気でそれが受給出来ると考えていた訳ではないでしょうから、ジョークとしては気が利いていると言えないこともない。要するに民主党の政策立案能力の低さをからかっている訳です。なるほどこれは面白いと思って、子ども手当に関する法律を読んでみました。ほんとだ、政権交代の看板といってもいい重要な政策であるにもかかわらず、受給資格に関する記述はまったく曖昧なものです。なんとなく私が想像していたのは、親(養育者)と子供がともに日本人で、日本国内で同居していることくらいは、受給条件として当然なのではないかということでした。法律には、親(養育者)が国内に住所を持っていることと規定されているけれど、子供にはその規定が無いし、同居が条件という訳でもない。国籍に関する記述に至っては何もありません。条文どおりに読めば、海外から日本に出稼ぎに来ている外国人が、本国にいる子供に生活費を仕送りしていれば、子供の人数分、子ども手当が受給出来てしまうように読めるのです。おいおい、これは最初から制度の設計ミスじゃないのか。それとも民主党は何か意図があって、あえてそういう制度にしたのでしょうか?

 もしも自分が民主党か厚労省の政策立案担当者で、子ども手当という制度を作る立場だったとしたら、どういう支給条件にするだろう。ちょっと考えてみれば、これはそう簡単な問題ではないことに気付きます。子ども手当が〈友愛〉を実現する政策だったとしても、それを性善説をベースに実施する訳にはいきませんから、最低限の規律は必要だし、法の抜け穴もふさいでおかなくてはならない。一番基本になるのは、親が実子と一緒に暮らしていて、その子を養育している場合でしょう。でもそれを条件にしてしまうと、養子を育てている人が条件から漏れるし、単身赴任で子供と別居している人も対象外になってしまう可能性がある。養子制度というものがある以上、実子に限定することは無理があります。では戸籍上の子ということにすれば問題無いかと言えば、いろいろな理由で親と住めずに養護施設に入っている子供たちが今度は対象から漏れてしまう。養育している(法律では「監護」と言っています)という条件も定義が難しいですね。同居していなくても、養育費を仕送りしていれば養育していることになるのか。だったら離婚して、子供を引き取った元の妻に男が毎月生活費を払っている場合、その男の方に子ども手当の受給権が発生するのか。国内に居住しているという条件にも難しさがあります。海外にも家を持っていて、1年の大半をそこで暮らすという習慣を持っている就学前の子供を持つ夫婦は、子ども手当を受けられるのか受けられないのか。他の制度との関係もあります。生活保護を受けている子だくさんの夫婦は、子ども手当を満額で受け取れるのか。もちろん受け取れるでしょう、しかし、月に10万円もの子ども手当を受給している夫婦が、従来と同額の生活保護を受給し続けることには疑問を感じる人も多いと思います。

 制度はなるべくシンプルに、例外規定のようなものを必要としないように設計するのが理想です。子ども手当という考え方には私は全面的に賛成なので(子供を育てることは将来の国民経済への多大な貢献であるにもかかわらず、子育ては経済的にまったく評価されていないという現実がこの国にはあります)、なんとかこれをもう少しまともな制度に修正して行きたい。これは将来のベーシックインカム社会に向けた実験であり準備であるという側面もありますからね。まず私が提案したいのは、子ども手当は親や養育者を基準にするのではなく、子供ひとりひとりに対して支給するという考えを徹底して欲しいということです。ニュースによれば、親の所在が不明な養護施設の子供たちには手当が行かない可能性があるのだそうです。「父母手当」ではなく「子ども手当」である以上、これはおかしい。実質的に子供を育てている養護施設に手当を支給すればいいのです。施設の子供たちは、それでこれまでよりも多少は豊かな暮らしを送れるようになるかも知れない。あるいは施設職員の待遇改善にそれを使っても文句はありません。子ども手当の理念から言って、その使途にまで口を出すべきではないからです。ただこの場合には使途の開示だけは義務付けるべきでしょう。親または養父母に支給する場合は、金銭的に育児を支えている人よりも、実際に子供と同居して育児労働を行なっている人を受給者として優先すべきでしょう。これによって、海外の養子への支給だとか、別居中のDV夫への支給といった、本来の目的を逸れた制度の濫用を避けることが出来ると思います。

 子ども手当の支給は、銀行口座への振込が基本になるのでしょうが、私はこれは現金の手渡しを原則にすべきだと思います。受給者証を持つ人は、月に1回、受給対象となっている子供を同伴して、役所に子ども手当を受け取りに行くのです。これは子ども手当に限らず、給付金政策一般に言えることですが、銀行振込というのは、不正受給の防止という意味でも、消費の促進という意味でも、一番まずいやり方ではないかと思うのです。最近ではどんな会社でも給料は振込になっていますが、これがこの国の消費を減退させているひとつの要因ではないかと思います。人間、現金を持っていれば、なんだかんだと使ってしまいますからね。それに「子供同伴で」受け取りに行くことを義務付ければ、育児放棄しているような親が受給することへの歯止めにもなるし、1年の大半を海外で暮らしているような家族にとっては受け取りにくいものになる。現金を準備しなければならない役所の窓口は、ちょっと大変になるかも知れません。それならば子ども手当用に、国が専用の金券のようなものを作ればいいのです。受け取った人は、それを銀行に持って行って、現金に替えてもらうのです。もっと良いのは、いっそこれを政府紙幣でやってしまうことですね。形は新しい金券ですが、銀行で両替しなくても、そのままお店で使えるような金券になるのです。国が100パーセント保証しているので、受け取りを恐れる必要なんてありません。もちろん政府紙幣ですから、財源も不要。現在の日本のようなデフレギャップが大きい社会では、年間に5兆円くらいのマネー増発は、むしろ経済の健全化につながるのではないでしょうか。

 もうひとつ、これだけは譲れないと思うのは、支給対象を日本人に限定するということです。いまの民主党は、この点に関して非常に基準が緩いと言うか、けじめがついていないように感じます。議論を巻き起こした高校無償化の問題でも、地方参政権の問題でも同じですが、発言がぶれまくっている鳩山さんを見ていると、この人はいったいどこの国の首相なのだろうと思ってしまう。私はどちらかと言えばリベラルな思想を持った人間だと思っていますが、そんな私から見ても、いまの民主党のけじめの無さは危ういものに見えるのです。何故、他国に籍を持つ外国人にこの国の参政権を与えなければならないのか? 何故私たちの税金で外国人の子供を育てなければならないのか? 他に選択肢が無いならともかく、彼らには帰化するという選択肢があるのです。(もしも国籍取得の条件が厳し過ぎるなら、それを緩和することは必要でしょう。) あるいは外国人でも日本で税金を払っている人は、国からのサービスを受ける権利があると反論する人もいるかも知れません。でも、それを言うなら日本人でも外国人でも税金を払っていない人はいくらでもいる訳ですし、それを根拠にこれら制度の資格条件とすることには無理があります。子ども手当に関して言えば、子供を基準に考えるという原則からしても、日本国籍を持つ子供に限定すべきでしょう。親や養育者の国籍を問う必要はありません。この国の将来の国民を育てていることに対する支援というのが、子ども手当の基本的なコンセプトなのですから、そうすることが政策としても整合的です。このままけじめのつかないバラ撒き政策を続けていれば、民主党は保守層からだけでなく、リベラル層からも見放されることは必至だというのが、とりあえず今回の結論になります。

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