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2010年5月30日 (日)

裁判員制度施行1年に思うこと

 裁判員制度が始まって1年が経ちました。制度が始まる前までは、このブログでもこれに反対する文章をずいぶん書いたものでしたが、最近はほとんどこの話題について興味を失ってしまったような状況でした。よくない傾向ですね。熱しやすく冷めやすいという典型的な日本人らしい関心の持ち方だ。以前トラックバックを交換させていただいたこともある高野善通さんのブログを拝見すると、いまも裁判員制度廃止という一点に目標を絞って執筆と活動を続けていらっしゃる。見習うべきことです。それにしても、高野さんも指摘されているとおり、最近はマスコミでも裁判員制度に反対する人たちの意見や活動がほとんど報道されないことが気がかりです。今月も都内で反対集会が開かれ、1800人もの人たちが集まったと言います。でも、それが目立ったニュースや記事になった形跡はない。これだけブログやツイッターが流行している時代でも、この国ではマスコミで話題にならないものは最初から存在しなかったも同然なのです。高野さんはそういうマスコミのあり方を、「体制翼賛化」というコトバで表現されていますが、結局のところ理念も思想も何も持っていない現在のマスコミ各社は、世論の動向を見ながら現状を追認するくらいのことしか出来ないのでしょう。

 裁判員制度が1周年を迎えるに当たり、各新聞がこれを総括する記事を掲載しています。内容はどれも似たり寄ったりのものです。裁判員を経験した人にアンケートを取り、その感想を聞くというやり方も同じです。まったく馬鹿げた話です。そもそも裁判員として選任され、実際に公判に参加したという時点で、その人たちはこの制度に賛同しているか、少なくとも堅固な反対意見を持つ人たちではなかったと想像されます。裁判員になりたくない人は、何かしら理由をつけて出頭を拒否するか、出頭しても裁判官との面接において前向きに参加する意思の無いことを表明する筈ですから。つまり裁判員経験者として括られる人たちは、アンケート対象としては不適切なバイアスがかかっていると考えられるのです。高野さんの推定では、最終的に裁判員を務めさせることの出来る人の母集団は、国民の2割程度だろうということです。常識的に見ても、そんなものでしょうね。その人たちが、「裁判員を経験して良かった」、「裁判所の人たちはとても親切に対応してくれた」なんて、まるで小学生のような回答を返して来ている。むろん彼らに罪はありません。問題は、記事を企画した新聞社が、あらかじめ結果の予想出来るような空疎な内容のアンケートを実施してまで、何を訴えようとしているかです。私は新聞社のなかで1社たりとも裁判員制度に反対したり、疑問を呈しているところがないことを不満に思っている訳ではありません。ただ、中立な立場でこの制度の功罪を検証しようという意思があるのなら、調査の対象が偏り過ぎていると言いたいのです。何故誰も裁判員制度によって裁かれた被告人たちにアンケートを取らないのでしょう。そうすれば結果はずいぶん違ったものになっただろうに。刑罰というものの目的のひとつは、被告人に反省を促し、更生して社会復帰をさせることにあるのですから、もしも被告人がこの1年で裁判に対する不信感を強めているとしたら、これからの社会の安全という観点からも由々しい問題です。これは極めて重要な問題であるにもかかわらず、マスコミはおろか最高裁もそういった点に目を向けようとはしません。

 何度でも同じことを書きます、裁判員制度は制度設計の細部に問題があるのではありません、法律に疎い市民に同じ市民を裁かせるという、制度の根本思想に問題があるのです。だから改善ではなく、廃止が必要なのです。アンケートの回答のなかには、過去の判例を根拠にこれまでの相場に従った量刑に誘導されているようで、裁判官に不信感を覚えたという意見がありました。この意見こそ不審を感じさせるものです。裁判員制度の一番の問題は、裁判員に選ばれた人たちの負担の大きさや精神的なケアといったことではありません。自分には負担が大き過ぎると思ったなら、はっきり辞退の意思表示をすればいいのですから。問題はこの制度によって、裁判というものの公平性が決定的に損なわれてしまっているという点にあるのです。裁判員を経験した人は、判決に市民感覚が取り入れられるのはいいことだと言います。しかし、その市民感覚というものの正体は何でしょう。刑罰というのは市民の復讐心を満たすためにあるのではないのですから、量刑が市民感覚からずれていることは何も問題ではありません。と言うより、ある判決に対してすべての市民が納得するようなジャストフィットの量刑なんてものはあり得ないのです。ある人は刑が軽過ぎると感じ、ある人は重過ぎると感じる、そういう感じ方の違いがあることは当然です。たまたま集められた6人の裁判員が市民感覚において一致した評決を出したとしても、また違う6人が評議を行なえばまったく違った結論を出すでしょう。裁かれる側はたまったものではありません。プロの裁判官たちが、過去の判例データベースを参考にしながら、相場を大きく崩さないように細心の注意を払いながら量刑を行なっているとすれば、それは官僚主義でも何でもない、公平な裁判のために必要な当たり前の手続きなのです。

 最初から予想されたことではありますが、全体的に裁判員が参加した裁判では、量刑が重くなる傾向があるようです。先週さいたま地裁で行なわれた裁判では、検察が求刑した懲役7年に対し、裁判員裁判で懲役8年の判決が出されたのだそうです。耳を疑いたくなるような話です。悪いジョークとしか思えない。想像してみてください、この皮肉な判決を受けた被告人が、刑に服しながらまっとうな更生の道を歩めるものかどうか。もしも私が被告の立場だったとしたら、とても素直な気持ちで刑に服すことなんて無理だという気がする。裁判員に対して個人的な恨みを募らせるかも知れない。懲役7年か8年か、どちらがより正しい判決かなどという問題ではありません、明らかにこの事件を担当した裁判員たちは、被告の社会復帰に対して大きな躓きの石を置いたのです。そうなる可能性を、彼らは評議のなかで検討しなかったのだろうか。裁判員制度が始まって以来、検察も求刑にゲタを履かせることを止める傾向にあるのだそうです。これまでは、だいたい求刑の8割掛けで判決が下されることが多かった。だから検察側も実際より2割増しくらいの求刑をするのが慣例だった。それが裁判員制度になって、求刑通りの量刑で確定してしまうものだから、検察も最初から狙った通りの重さの求刑を出して来るようになったというのです。このことをもって日本の刑事裁判がより合理的になったと考える人がいたら、それは浅はかな考えです。懲役10年を求刑され、裁判長の寛大な計らいで懲役8年で結審する。予定調和の芝居かも知れないけれど、その演出が被告の心に更生のための種を蒔くことになるとも考えられます。意味の無い慣習ではないのです。それがここに来てどうなったか。素人の裁判員とやらがしゃしゃり出て来て、求刑以上の重い判決を下すだなんて…

 裁判員制度が始まると、おそらくこれまで以上に死刑判決が増えるだろう、私はそう予想しました。これについては、今のところまだその心配が現実のものとはなっていません。というよりも、これもこの制度に私が不審を抱いているところなのですが、そもそも死刑が予想されるような重大な事案は、最初から裁判員裁判の対象から外されているのですね。法律では、最高刑が死刑または無期に該当する重大な刑事事件は裁判員裁判の対象になる筈でした。ところが、世間を騒がしたような凶悪事件や被告が無罪を主張しているような否認事件は、わざわざ対象外になっているのです。誰がどういう理由で選別しているのだろう? と言うか、どうしてそんな選別をすることが許されているのだろう? 裁判員制度が問題なのは、判決を市民の感覚に任せたら、公平な裁判を維持出来ないということです。しかし、同時期に同じ罪状の事件が、かたや裁判員裁判、かたや従来の裁判官裁判というように恣意的に選別されているとしたら、この国の裁判は二重の意味で不公平であることになる。これについてもマスコミは何故疑問を突き付けないのでしょう。とにかく裁判員制度に関しては、裁判員の選任方法も含めて不審なことだらけです。こんな悪い制度の片棒を担ぐのはご免なので、私はもしも抽選に当たっても裁判員を辞退するつもりです。今年も私のところには裁判所からの召喚状は届きませんでした。実を言えば、内心がっかりしていたのです。もしもそれが届いたとしたら、そのまま封を開けずに裁判所に送り返し、もちろん出頭もしない。その結果どうなるか、その顛末をこのブログで実況中継するつもりだったからです。そう言えば、裁判所からの召喚に応じず、罰金(過料)を請求された人の話も聞きませんね。裁判所はその件数も公表すべきだと思うのですが、世論の反撥が怖くて公表出来ないのでしょうか。いや、彼ら自身がこの法律が不当なものであることを知っているので、罰金を科すことすら怖くて出来ない、というのが本当のところなのかも知れません。

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コメント

 こんにちは。
 裁判員裁判に関する文章を、いつも大変興味深く、かつ、心強く拝見しております。
 ところで、今回の下記の部分は、私には少し意外でした。

「そもそも死刑が予想されるような重大な事案は、最初から裁判員裁判の対象から外されているのですね。」

 そんなはずはないのですが。ですから今後遠からず、裁判員裁判で死刑求刑、死刑判決が出るのではないかと懸念されているのだと思います。

 

投稿: Y | 2010年6月 6日 (日) 09時37分

Yさん、こんにちは。コメントをありがとうございます。

裁判員裁判の対象として該当する事件のうち、実際に裁判員による裁判が行なわれたものはわずか1割程度だったと何かで読んだ記憶があります。これはまだ制度が始まったばかりで、裁判員裁判でこなせるキャパシティが追い付かないためなのかも知れません。でも、本来なら裁判員裁判の対象であるべき事件が、誰かの判断によって選別され、除外されているのは間違いありません。かたや毎年日本では年間に10件から20件くらいの死刑判決が出されています。(この1年間の統計はまだ公表されていないようですが。) このことから現在は裁判所が意図的に死刑が予想される事件を裁判員裁判から除外しているのではないかと推測されるのです。

投稿: Like_an_Arrow | 2010年6月 7日 (月) 00時36分

こんにちわ、はじめまして。
>先週さいたま地裁で行なわれた裁判では、検察が求刑した懲役7年に対し、裁判員裁判で懲役8年の判決が出されたのだそうです。耳を疑いたくなるような話です。悪いジョークとしか思えない。

これはどうなんでしょうか。裁判の内容の詳細が分からないのですが、検察の求刑を上限にしなければならないという法律が、あるいは法律的慣習とでも呼ぶべきものがあるのでしょうか?まあ、法的に認められていないのであればこの判決そのものが不可能なので、検察の求刑以上の刑を下してはいけないという法律は無いということなんでしょう。だとすればLike_an_Arrowさんの批判はあまり説得的ではないのでは?

>プロの裁判官たちが、過去の判例データベースを参考にしながら、相場を大きく崩さないように細心の注意を払いながら量刑を行なっている

というのは、しかし、「過去の判例データベース」が絶対的に正しいという前提の元に於いてのみ、正当性を持つ議論ではないでしょうか?

そもそも強盗罪には何年の懲役が正しく、また殺人罪には何年の懲役が正しいのか・・・一体そこに正解などあるのか?(自分は無い、と思うけど)普通の哲学者はそこに疑問を持ちそうなものだけどなぁ

投稿: よっしぃ | 2010年6月23日 (水) 01時36分

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