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2010年4月 4日 (日)

逝くものの言い分と送るものの言い分

 先日(3月21日)放映されたNHKドキュメンタリー『命をめぐる対話』では、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と闘っている方を作家の柳田邦男さんが訪ねる場面から番組が始まりました。ALSについてはつい最近私もこのブログの記事で取り上げたばかりでしたから、非常に関心を持って見たのです。心の準備はしていた筈だったのに、あまりに生々しい映像に言葉を失ってしまった。番組で取り上げられていた照川さんという患者さんのことは、実は2年ほど前から知っていました。いや、照川さんという名前を知ったのは初めてだったのですが、千葉県の亀田総合病院というところで治療を受けているALSの患者さんが、安楽死を求める要望書を病院に提出した、それがニュースになったことがあって、その時の思いを記事にしたことがあったのです。それからも折りにふれてこの患者さんのことは気になっていました。今回の番組を見た人は、いろいろな問いかけを受け取ったと思います。私にとって、ここで問いかけられているものは、生命の尊厳に関する問題でもなく、家族の絆の美しさといったものでもなく、もっと具体的な法制度の問題だと思われました。私たちは医療における安楽死というものを認めるのか、また認めるとすればその条件はどういうものであるべきなのか、そういう問題を問いかけられたように感じたのでした。

 すでに何度も書いているとおり、私自身は医療現場における安楽死というものについて、一定のガイドラインを作って合法化することが必要だと考えています。医師による自殺幇助あるいは嘱託殺人ということが事件として明るみに出ることはまれですが、これに近いことは医療の現場で日々行なわれているに違いない、そう信じているからです。このことに目をつぶって、いかなる状況の下でも安楽死を認めないと主張する人は、現実から目をそむけているだけの机上の理論家か、あるいは患者の気持ちを想像出来ない楽観的な正義派に過ぎないのではないか、そんなふうに思っているのです。例えば、今回の番組のなかで、柳田さんは安楽死を願う照川さんに対して、命は自分ひとりのものではない、家族のためにも生き続けて欲しいとメッセージを伝えていました。柳田さんの境遇にあって、そんなふうに言葉をかけることは難しいことではなかった筈です。しかし、本人がつらくて耐えられない、死なせて欲しいと言い、家族もその要望書に同意署名をしている状況で、どういう根拠があって、いや、どういう権利があって、生き続けて欲しいなどと言えるのだろう? 私は柳田さんという方のまごころも理解出来ますし、それは照川さんにもしっかり伝わっていました。それでも私は問いたいのです、もしも不治の病と闘っている患者さんが、側で見ているのもつらいほど激しい肉体的な苦痛に苛まれていて、緩和治療もまったく効果が無く、本人は一刻も早く死なせて欲しいと訴え続けているという状況があったとしたら、柳田さん、そんな人にもあなたは最後まで生き続けて欲しいと言いますか? ALSという病気は、見た目では本人の苦痛がはっきり伝わらない、そういう残酷な病気です。しかし、精神的苦痛だって時に肉体的苦痛に劣らないほど激しいものであることは、私たちにも想像が及ぶことではないですか。私の論点は単純です、精神的な苦痛が発狂に至るほど激烈なものだったとしても、それでも命を全うしなければならないと誰が言えるのかということです。

 ALS協会の川口有美子さんのブログでも、今回の番組のことが取り上げられていました。論点はやはり柳田さんと同じです。川口さんの著書を読んで感銘を受けた私は、そこで述べられていることの背景も意味もよく理解出来るつもりです。しかし、柳田さんや川口さんが過去のどんなに重い経験から発言しているにせよ、それは死んで行った家族を見送った側の経験なのです。ロックトインされて死んで行った本人の経験ではないのです。川口さんは個人的に照川さんのことも知っているのでしょう、その語りかけはとても親身で、もしもご本人がこの言葉を受け取れば勇気づけられるに違いないと感じました。しかし、意思の読み取りを諦めそうになった奥さんに対して、怒ってコールを鳴らし続けたことについて、「真実はこれなのだ」と決めつけることはどうなんでしょう。また入浴サービスの途中で低血圧になった時、「医者を呼べ」と伝達して来たことに対して、ふだんの言葉とは裏腹に「死にたくない」というメッセージだと解釈することが本当に正しいことなのでしょうか。生きているあいだに、延命措置を拒む遺言をのこす人がいます。リビングウィルと呼ばれるものです。リビングウィルを書いた人は、ナースコールを鳴らしてはいけないのですか? 医者を呼んではいけないのでしょうか? 照川さんの主張ははっきりしています、このまま〈ロックトイン〉の状態が進んで一切の意思表示が出来なくなったとすれば、それは精神的な死を意味する、そうなる前に安楽死をさせて欲しい、それは病に負けたことではなく、「栄光ある撤退」なのだと。私にはこの言葉が心に染みました。これに比べたら、柳田さんや川口さんの言葉は、健康な人間の身勝手な台詞でしかないとも感じられたのです。

 川口さんの記事には、日本でもデンマーク並みの介護環境を勝ち取るまでは、安楽死は待って欲しいという言葉が記されています。つまり政治的な発言なのです。そして私はここにどうしようもない違和感を感じるのです。きっと医療福祉の進んだデンマークでは、家族への負担などを気遣うことなく医療介護を受けられる制度が整っているのでしょう。もちろん日本にもそうした制度が出来ることが望ましいことは言うまでもありません。しかし、それを勝ち取るために、いま病気で苦しんでいる人が犠牲にならなければならないという理屈があっていい筈はない。病気を苦に死にたいと思っている人に対して、それはこの国の制度が悪いからだ、もしもあなたが安楽死を選んだとすれば、あなたは国家に殺されたも同然なのだ、そんな言葉を投げつける人がいたら、余計なお世話だと言いたい。人が死を選び取る理由はさまざまです。いくら福祉が行き届いた国でも、いくら医療技術が進歩した時代でも、生か死かのぎりぎりの選択をしなければならない状況というものはあるでしょう。その選択をする主体は、誰を措いてもまず患者本人であるべきだ、こういう考え方は間違っていますか? その人の置かれた環境によるものか、その人が持って生まれた気質によるものなのか分かりませんが、この問題に向き合うとき、自分を逝く者の立場に置いて想像力を働かせる人と、送る者の立場に置いて想像力を働かせる人に分かれるような気がします。前者は一刻も早く楽にして欲しいと願い、後者は少しでも長く生きて欲しいと願う。どちらも了解可能な自然な情であるには違いありませんが、この場合優先されるべきは、ただひとり死の当事者である本人の願いであろうと思うのです。

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コメント

お久しぶりです。
あれからもブログは時々、拝見しています。
前回の人頭税は賛成でもなく反対でもないのですが、
企業=製造業だけ?という印象を受けました。
たとえば接客業やクリエイターなど効率化が難しい
分野は?と思うし、民間だけでなく特殊法人や
非営利団体なども含む官や団体にも、という声が
出てくるのではないでしょうか。
みなが平等に恩恵を受けるBIなのだから、同じように
みながBIを持続可能とする義務が最低限必要な柱の
ひとつでは、と思います。
それにはやはり消費税のような仕組みなのかなあと思います。
ただ、人間ですから同じ払うでもポイントが貯まる、
というベクトルに意識を持っていけないものでしょうか。

長い前置きでした。
冒頭の番組は未見なので何ともいえませんが、事故で
首から下がマヒした男性が26年後に尊厳死を求めて
裁判を起こした、実際の出来事を映画にした「海を飛ぶ夢」
を思い出しました。(オススメの映画です)
個人的にはこういう問題を無意識的に善悪で捉えようとする
世の中の前提がボタンの掛け違いを引き起こしているように
感じています。

投稿: | 2010年4月 6日 (火) 15時58分

こちらこそお久しぶりです…って、どちらさまでしたっけ?(笑)

BIの原資としての人頭税というアイデアは、自分としては結構気に入っているのですが、確かに自分が主に念頭に置いていたのは製造業でしたね。でも、サービス業や流通業にも、効率化の余地はまだまだたくさんあるという気がしますよ。またクリエーターにせよ公務員にせよ、ホワイトカラーの生産性向上ということは、これからの日本の一大テーマだと思います。いつかこれについても考えてみたいと思っているのですが…

「海を飛ぶ夢」という映画、機会があればぜひ観てみたいです。尊厳死の問題も、とても自分のような素人が口を出すべき分野ではないと分かっているのですが、いろいろな人の文章を読んでいると、とても黙っていられない気持ちになってしまうんです。尊厳死や安楽死については、賛成派と反対派が鋭く対立しています。でもよく見てみると、そもそも議論がまるで噛み合っていないようにも思えるんです。この問題は絶対に建設的な議論が出来る分野だと思っていて、そのことだけでも書きたいんです。

投稿: Like_an_Arrow | 2010年4月 7日 (水) 23時18分

↑、うっかりでした。
BIの際に何度かコメントした、あかみどりです。(*´v゚*)ゞ

はじめのコメントを書いたあとにふと、思いました。
同時に数百万もの人間に向けて発信されるテレビという
メディアではやはり一般論という結論以外はなかなか
難しいのではないか。と。
ま、逆に言えば、そこから素人だろうとさまざまな議論を
展開できる場があることがこの国におけるインターネットの
良さだなあとあらためて感じます。

投稿: あかみどり | 2010年4月 8日 (木) 11時02分

あ、あかみどりさんでしたか。
その節はご丁寧なコメントをありがとうございました。

やはり安楽死の問題よりもベーシックインカムのことを考えていた方が、精神衛生上もいいのですが、もうしばらくはこの難しい問題に付き合うつもりです。
これに関連して、最近の記事でも取り上げた川口有美子さんの『逝かない身体 ALS的日常を生きる』という本はおすすめですよ。ちょうど今週、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されたようです。

投稿: Like_an_Arrow | 2010年4月 9日 (金) 00時57分

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» 呼吸器外しが結果としては、個人の希望どころではないことについて [What’s ALS for me ?]
 巷間哲学者さんのトラックバックで改めて気がついた点がある。おっしゃるとおりで、私の問題意識は社会問題特に介護制度に傾斜しているし、私の発言も社会保障を確立するまでは、患者さんには個人的な発言を我慢をしてもらいたいという要望でもある。なぜなら、欧米では生... [続きを読む]

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