« 逝くものの言い分と送るものの言い分 | トップページ | 安楽死法制化に反対する思考の矛盾 »

2010年4月11日 (日)

安楽死に関する議論を深めるために

 一方的にトラックバックをお送りしてしまった川口有美子さんのブログで、前回の私の記事への反論をいただきました。いや、反論といった内容では全然ないですね、むしろ私は教え諭されてしまったのだと思います。とても示唆に富む深い内容の記事で、議論を深めるためのきっかけをいただいた気がしました。で、これに触発されて性懲りもなくもう一度この問題を取り上げます。医療における安楽死の問題は、一部の専門家に任せておけば済むものではなく、私たちみんなが普段から考えて、話し合っておくべきものだと思うからです。

 ALS患者の照川さんは、尊厳死を願い、そのための要望書を病院に提出しました。おそらく尊厳死に対する生前の意思確認書としては、照川さんの文章ほど熟考され意を尽くした内容のものも少ないのではないか、そんな気がします。が、川口さんはそんな照川さんの〈リビングウィル〉でさえ、「自己決定ではなく、他者決定を許す念書」に過ぎないと言うのです。何故か? もしも「ロックトインの症状が進んで、一切の意思表示が出来なくなったら、安楽死をさせて欲しい」と言うのなら、その判定は介護をしている奥さんか、または医者がするしかなく、決して最終的には自分で選び取った死とは言えない訳だから。なるほどそのとおりだ。これは納得です。つまりそれは「尊厳死ではなく、安楽死希望なのだ」とまで川口さんは言い切ります。厳しい言い方のように思えますが、私はこれは重要な指摘だと思いました。もしも照川さんに語りかけるべき言葉があるなら、柳田邦男さんのような情緒的な言葉ではなく、この川口さんの言葉をこそ番組は取り上げるべきだったかも知れない。いや、もちろん長いあいだ奥さんと二人三脚でやって来られた照川さんには、自分が書いた尊厳死の要望書が、誰よりも奥さんに対して負担をかけるものであることは百も承知しているのでしょうが。

 ただ、川口さんの指摘から、「だから生前の尊厳死要望というものはすべて否定されるべきである」とまでは言えないとも思うのです。まだ取り引きの余地はあるかも知れません。もしもリビングウィルの問題点が、本人がそれを書いた(伝えた)時点と、家族や医師が安楽死の判定をしなければならない時点とのタイミングのずれにあるのなら、そのずれを埋めるための工夫はいろいろと考えられると思うからです。例えば、あらかじめリビングウィルの中に安楽死遂行の日時を指定しておくというのはどうでしょう。その指定があれば、家族は自らの責任で死なせる時を選ぶ必要は無くなりますし、本人が指定した日時をあらかじめ知らせておくことで、親類や友人が臨終の床に立ち合えるというメリットもある。これは私の以前からの持論ですが、尊厳死を選択する人は、自分よりも遺される者たちのことを優先に考えて〈死の支度〉をすべきだと思います。死ぬ時を選ぶのだって、(ふだんの生活がある)家族の都合を第一に考えるべきだし、看取る者たちが心の準備が出来るように、十分な時間をとって話し合いをしておくことも重要でしょう。それが出来ないようでは〈尊厳死〉の名には値しないとさえ思います。(私が自死した哲学者、須原一秀さんに対して不満を持っている唯一の点もそこにあります。) 死というものは、死んで行く本人にとっては何の倫理的な意味も持ち得ないものですが、遺された者にとっては深刻な倫理的ダメージを与える可能性のあるものです。尊厳死に賛成する人は、その程度のことは胸に刻んでおかなければならないと考えるのです。

 あるいはそこまで厳格な自己決定による尊厳死は難しいと言うのなら、もう少し気楽な方法もあります。つまり死を少しずつ先送りするやり方です。あらかじめ死ぬべき日時を指定しておいても、いざその時が来たら、完全な閉じ込め状態(TLS)にはほど遠く、今はまだ死にたくないと思うかも知れない。その時にはまだ意思表示が出来る訳ですから、例えば指定日を三日後に延期するよう指示をすればいい訳です(別に三日でなくても、一週間でも一箇月でも構いません)。三日経って、本人から再延長の指示が無ければ、その日が安楽死の遂行日になります。ほんとうにTLSに陥ってしまったのかも知れないし、そうではないけれども本人が覚悟を決したのかも知れないし、ひょっとしたら単にうっかりしていて延長の指示を忘れてしまっただけかも知れない。周囲の人はその実情については知らなくてもいいし、また知るべきでもないというのが尊厳死賛成派の私の意見です。そのことをあれこれ忖度しないことこそが、死んで行く人の尊厳を尊重することに他ならないと思うからです。きっとこんな私の考え方に対しては、安楽死を認めない側の人たちから、「そんなに死にたいのなら、誰も止めないから勝手に死んだらどう?」と切り捨てられてしまうに違いありません。もちろんそうさせていただきたいところですが、それが叶わないのです。何故なら、日本では医療現場での安楽死が法律で認められていないから。それを選択すれば、家族や医師に殺人の罪を着せてしまうかも知れないのだから。川口さんの文章の中にも、「照川さん個人のケースについては、それでいいとさえ思っている」という一節があります。これを私は、「ある条件が整えば安楽死を認めることもやむを得ない」という意味に取りました。であるならば、まだ議論を打ち切ってはいけないということです。

 問題は、大括りでの安楽死法制化の是非ということではないと思います。どういう条件ならばそれが認められ、どういう点についてはそれが絶対に譲れないか、具体的なケースを取り上げながら議論を重ねて行くことこそが必要なのだと考えます。その結果、あらゆる場合においてやはり安楽死は認めるべきではないという結論が出たとすれば、それはそれで説得力のある議論になるでしょう。また、その条件というのは、時代の通念や医療技術の進歩などによっても変わって来るものですから、いったん結論を出したからといって議論を止めていいというものでもありません。川口さんの文章にある、「欧米では生きる権利より「死ぬ権利」の確立を先行させたために、現状のような状況になっている」というのが、具体的にはどういう状況なのか、不勉強な私にはよく分かりませんでした。それでも欧米においては、この三十年くらいのあいだに市民レベルで非常に活発で激しい議論が戦わされて来たことは知っていますし、その結果としてお手本に出来る制度を持つデンマークのような国も現れたのだと思います。ところが日本ではどうでしょう? 一方に〈日本尊厳死協会〉という組織があって、他方に〈安楽死・尊厳死法制化を阻止する会〉というグループもあって、一見対立しているように見えますが、両者のあいだで激しい議論の応酬が行なわれているようにも見えない(それとも私が知らないだけ?)。今回のNHKの番組を見ても、また新聞報道などを読んでも思うのですが、安楽死の問題については誰も本音を言ってはいけないという一種の自己規制というかタブーのようなものがあるのを感じます。それが安楽死に関する議論を深める上での根本的な阻害要因になっているのではないか。「社会保障を確立するまでは、患者さんには個人的な発言を我慢してもらいたい」なんて、私が一番反撥を覚える言葉なのです。

 しかし、それでもまあ、川口さんのご著書(あ、大宅壮一賞の受賞おめでとうございます!)やブログ記事を読ませていただいて、教わる点もたくさんありました。リビングウィルというものの実効性に関する議論などは、まったく目からウロコが落ちる思いで読みました。日本尊厳死協会の発行しているリビングウィルの登録票については以前から知っていましたが、その〈軽さ〉というか、能天気さがやはり問題だろうと思います。なにしろ自分で文章を書かなくても、三つの項目に同意して署名すればそれで生前指示書が出来上がってしまうのですから。むかし「ポックリ寺」というものが流行ったことがあって、いまは「ピンピンコロリ」なんていうそうですが、要するにそのノリなんですね。同協会のホームページには、入会者(つまりリビングウィルを書いて預託している人)が12万人を超えたと誇らしげに書かれています。それなりの入会金や年会費を取っている訳ですから、結構なビジネスだとも言えます。この団体の創始者が、優生思想を信奉していた人だったという皮肉はさておいても、その存在が日本における安楽死問題をこじらせてしまったということは否めないように思います。もしも私が尊厳死協会に対抗して、本当に真面目なリビングウィル認定団体を設立するとしたら、気軽な気持ちで入会しようとした人が、思わず怖じ気づいてリビングウィルを書くことを思いとどまるような、そんな入会条件を設定してみたいものです。要するに、その条件を考えることが、容認されるべき安楽死(尊厳死)のための条件を考えることでもある訳です。ということで、今回は思いがけなく尊厳死協会への批判で終わってしまいましたが、次回はもう一方の〈安楽死・尊厳死法制化を阻止する会〉について、私が感じている疑問を書こうと思います。

|

« 逝くものの言い分と送るものの言い分 | トップページ | 安楽死法制化に反対する思考の矛盾 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/138790/48053599

この記事へのトラックバック一覧です: 安楽死に関する議論を深めるために:

« 逝くものの言い分と送るものの言い分 | トップページ | 安楽死法制化に反対する思考の矛盾 »