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2010年4月25日 (日)

ベーシックインカムで3K職場は人手不足に陥るか?

 コメントをいただいたので、この問題について少し考えてみようと思います。ベーシックインカムについて考えることは、この国の未来の希望について考えることですから、小さなネタでも書くことがあれば取り上げて行きたい。前向きに、この制度を実現するための方法を模索する方向で考えて行きたいと思っています。ベーシックインカム(BI)については、いろいろなところでいろいろな人が、賛成・反対に分かれて議論しています。でも、私の考えではそうした議論はあまり意味が無いと思う。いずれにしても今後、BIあるいはそれに似た制度が求められるのは、時代の流れとして必然だろうと思っているからです。技術が進歩して生産性が向上した社会では、豊かさをみんなで分かち合う仕組みがどうしたって必要になります。道徳的な見地からそれが必要だというだけでなく、経済的な合理性の面からも必要になるのです。であるならば、その趨勢に逆らうことを目的とした議論は無益なだけだという気がします。むしろBI実現に向けた課題をひとつひとつクリアして行く方策について、議論のリソースを振り向けた方が賢いと思うのです。

 さて、BI導入でいわゆる3Kと呼ばれる職場での働き手がいなくなるのではないかという問題についてです。これは「働かざる者、食うべからず」といった道徳的な反論とは違って、具体的で建設的な議論のしやすい問題だと思います。(道徳的な反論に対する議論も、BI実現のためには避けて通れないものではありますが…) もしもすべての国民が、月に(例えば)8万円の基礎給付を受けるとしたら、誰も好き好んで3K労働になど就く人はいなくなるだろう。そうなれば、社会の基本的な機能が麻痺してしまう事態だって考えられる、これが今回の問題設定です。「3K」というのは、「きつい」、「汚い」、「危険」の略です。どんな職種があるでしょう? まあ、誰でも思い付くのは、工事現場での作業員だとか町工場の工員、ゴミ収集や汚物収集といった業務、また最近では福祉現場の仕事を思い浮かべる人もいるのではないかと思います。(私が従事しているコンピュータ関係の職種でも、仕事はとても〈きつく〉て、プロジェクトの部屋は相当〈汚く〉て、過労死の〈危険〉といつも隣り合わせです。) どれも報われることが少ない割りに、社会にとっては大事な仕事ですよね。BIのある社会で、こういった仕事に人をつなぎ止めるためには、ふたつの方法しかありません。つまり従来よりも高い賃金を保証することと、機械の導入や環境の整備によって〈3K〉の状況を改善することです。

 賃金に関して言えば、国や自治体が雇い主である公共の仕事と民間の仕事で、対策の難しさに差があると思います。公共サービスの仕事のうちで人が集まりにくい職種については、単純に賃金設定によって雇用の調節が図りやすいと言えるでしょう。さいわい日本ではまだアメリカほど公共分野の仕事を民間に委託する動きが進んではいませんから、政策でコントロール可能な部分は多いでしょう。(当然、税負担は増しますが、BIのある社会では税体系も現在とはガラっと変わりますから、それ自体問題にはなりません。) 問題は、民間の仕事です。これは市場の調節機能に任せるより仕方無いのではないかと思います。建設の仕事や運送の仕事、また部分的には福祉の仕事なども、人件費を消費者価格に転嫁して乗り切るしかないでしょう。そのため住宅価格や宅配便の送料や有料老人ホームの入居費などは、多少寝上がりするかも知れません。また海外の安い製品と競争しなければならない製造業では、業務の効率化・省力化・自動化を進めて、作業者ひとり当たりの生産性を上げることでしか高賃金は支えられないでしょう。現在のように派遣労働者を安く使い捨てるという発想では、企業は存続出来ません。安い賃金では人が集まらなくなる訳ですからね。民間企業に対しては、政府は労働者の賃金を保証するための政策を採るのではなく、むしろ効率化の方向を後押しするような政策が求められると思います。BIが実現した社会では、完全雇用ということが政策の目標ではなくなります。ここは私たちも考え方の転換が必要です。実のところ、BIがあれば人は働かなくなって、国内の生産力が落ちるという心配は本末転倒なので、むしろ産業が効率化されて恒常的に人あまりの状況になっている社会では、BIのようなもので需給調整をするしかないというのが基本の考え方なのです。

 おっと、議論が抽象的になって来た。もう一度、人手不足の現場に視点を戻しましょう。産業の効率化や自動化なんて絵に描いた餅のような話をしなくても、3K現場での人手不足をさほど深刻に考えなくてもいい、もうひとつの理由があります。それはBIのある社会ではワークシェアリングが当たり前になるだろうということです。3K労働が〈きつい〉のは、仕事そのものがきついこともありますが、それが8時間(以上)のフルタイム労働だからという面もあります。もしも月に8万円のBIが支給されるなら、作業は多少きつくても実入りのいい仕事を1日4時間だけやって、あとは好きなことをして暮らすという生き方もなかなか魅力的です。たぶん若い人にもそういうライフスタイルはアピールするのではないかな。企業はこれを可能にする労働環境を準備する必要があるし、政府も法の整備などでバックアップする必要がある。もちろんそれは「非正規雇用」ということになるのでしょうが、現在のようなBIが無い社会での派遣社員といった悲惨な境遇とは訳が違います。なにしろ選択権はこちら側にあるのだから。雇用保険にさえ加入していない、まったくセーフティネットが無い状態での非正規社員という立場は、どう言い繕っても奴隷状態でしかない。しかしBIがあれば、無理をしてフルタイムの3K労働を続ける必要も無いし、職場の険悪な人間関係の中で我慢をして心を病む必要もない。最近よく言われる「ブラック企業」のようなものも自然に淘汰されるのではないでしょうか。いまの学生さんの「就活」に関する苦労話などを聞くにつけ、労使の力関係が健全なバランスを失っていることを感じるのですが、BIにはそれを正常化する効果が期待出来る、これが大きいと思います。

 3K職場の環境改善ということについて言えば、もっと明るい見通しが立ちます。この分野こそ、日本が世界の先頭に立って技術開発を進めて行くべき分野だと思うからです。これまでだって、これに関しては日本の技術が世界に貢献している度合いは小さくありません。工作機械のシェアでは日本は世界のナンバーワンですし、現場の重労働から人を解放してくれる機械群(フォークリフトやベルトコンベアから建設車輌、工業ロボットまで)は、だいたいが日本のお家芸といったものでしょう。これにプラスして、今後は福祉現場での支援機器のようなものにも潜在的なニーズがあると思います。入浴介助にしたって排泄介助にしたって、命の危険は無いとしても相当な3K労働であることには変わりありません(きつい、汚い、臭い)。福祉の仕事を志した人の多くが、仕事を辞めてしまう理由は、給料の安さということもありますが、この3Kに耐えられないというもうひとつの理由もあると思います。それに耐えてこそ、ホンモノの介護士だという意見もあるかも知れません。でも、私はそうは思わない。お年寄りが大好きで、おじいさんやおばあさんから実の子か孫のように慕われている介護士さんが、おむつ交換だけはどうしても生理的に受け付けないという場合もあるかも知れない。そんなくだらない(とあえて言います)ことのために、福祉の仕事が嫌いになるなんてもったいない。「自動おむつ交換機」があればいいんです。もしも自分が寝たきりになって、介護を受ける身になったとしたら、何が嫌かって、若い女性におむつを交換されたり、数人がかりで風呂に入れられることほど気が引けて恥ずかしい思いをするものはないと思う。そんな介助は人目の無いところで機械にやってもらいたいものです。もしも世界中で、そんな機械を開発出来る国民がいるとしたら、お尻を洗う便器を発明してしまった日本人以外にはあり得ないと思いませんか?

 なんだかベーシックインカムとは全然違う次元の話をしているようにも見えますが、そんなことはないんです。私にとってベーシックインカムとは、理想とすべき新しい経済体制のことでもなければ社会保障政策の一形態でもない、技術の応用によって快適さを追求すれば、自然にそこに行き着いてしまうごく当たり前の制度に過ぎないのです。BIを論じる人のなかには、支給金額はいくらが適正かといったことで議論を戦わせている人もいますが、そんなことは大して重要ではないと思います。BIが実現した社会では、そもそも貨幣価値というものに対する人々の考え方も大きく変わってしまうでしょうから。極端な話、BIはそもそも日本円で配る必要さえ無いかも知れないのです。製造の現場で、流通の現場で、福祉の現場で、サービスの現場で、農業の現場で、人が過酷な労働から解放されて、1日4時間働けば十分やって行けるような社会になれば、お金なんて単に交換チケットのようなもので済んでしまう。海外のブランド品がどうしても欲しいと言う人は別にして、私たちふつうの庶民は、技術の進歩によってもたらされた富を互いに交換する、最低限の手段を持っていればいいのです。夢物語ですって? それを夢物語で片付けてしまう人は、BIのある社会への入場券をまだ手に入れていない人なのだと思います。

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2010年4月18日 (日)

安楽死法制化に反対する思考の矛盾

 医療における安楽死の問題を考えています。私自身は医療関係者ではありませんし、死と向き合っている患者という立場の人間でもありません。インターネットで検索すれば、医療の現場で悩み苦しむ人の日記や身近に迫った死と闘う人の手記など、心を揺さぶられる文章がたくさん見付かります。そんななかに、哲学者を自称する人間のいかにも思弁的な考察をさしはさむことなど恥知らずなことだとも思います。しかし、この問題について、医療の現場にいる方々や専門家のあいだにも深刻な意見の対立があることを見聞きしてしまうと、自分も何か言わずにはいられない気持ちになってしまうのです。というのも、基本的な認識として、医療における安楽死の問題には、すべての人がとは言わないまでも、多くの人が合意出来るような前向きな解答がある筈だと信じているからです。安楽死に賛成だ、反対だと言っている人たちは、実は単にボタンをかけ違えているだけなのではなかろうか、そう考えているのです。

 前回の記事で私は、〈日本尊厳死協会〉という組織の活動に対する苦言を書きました。今回はそれと対立する〈安楽死・尊厳死法制化を阻止する会〉という組織の主張に対する疑問を書こうというのです。この会は、哲学者の鶴見俊輔さんや社会学者の立岩真也さんといった錚々たる知識人の方たちを発起人に、多くの障害者団体や難病患者団体などがメンバーとなって構成されている組織のようです。会の主旨はこちらの声明文のなかに分かりやすく要約されています。尊厳死協会と対決しようという姿勢も明らかです。この会が医療における安易な安楽死の選択に対して警告を発する理由はまったく明快そのもので、そこに批判をさしはさむ余地は無いように思えます。私たちは将来自分が不治の病に冒され、死を待つだけの身になっても、簡単には死なせてもらえないことを知っています。現代の医学は、病人の意向などおかまいなしに、たくさんのチューブをつないで少しでも長く生かそうと手を尽くすものだからです(少なくとも多くの人がそういうイメージを持っています)。だから多くの人が延命治療の拒否ということに簡単に同意署名をしてしまう。実際にそれを体験した訳ではないにもかかわらず、もしも本当にその時が来たら自分の気持ちがどう変わるか分からないにもかかわらず、です。病床で苦しんでいる人が「死にたい」と言うのは、現下の苦痛を取り除いて欲しいと言っているので、本当に死にたい訳ではないというのも(一般的には)その通りだろうと思います。そして緩和医療の進んだ今日では、「激痛のため生命を絶つなどということは、もはや過去のこと」であるというのも、(多少疑わしいけれども)まあその通りなのでしょう。

 また、延命措置を拒否する事前指示書(リビングウィル)が普及して、それが法的効果を保証されることになったら、難病患者や障害者といった弱い立場の人たちに対して、尊厳死という自己選択を迫る無言の圧力になる可能性があるという懸念についても、理解が出来るし、共感が出来ます。こう考えて来れば、〈安楽死・尊厳死法制化を阻止する会〉の主張に対して、私自身、基本的には何も異論が無いことが分かります(自分で書いていてそれがはっきりしました)。ただ問題は、その政治的な立ち位置の曖昧さなのです。名前が表しているように、この会は安楽死の〈法制化〉に反対する目的で結成された会である訳です。現在の日本では、医療現場における安楽死というものに対しては、法律上何も規定がありません。これを許可する規定が無いばかりでなく、これを禁止する規定も無いのです。ということは、会の名前を字義どおりに取れば、「法制化を阻止する会」にとって現状維持が最も望ましいということになります。これは言葉尻を捉えて言っている訳ではありません、この会は安楽死・尊厳死の〈合法化〉に対して反対しているだけではなく、それとは逆の〈違法化〉に対してさえも、すなわち安楽死・尊厳死の法律による全面禁止ということにも(消極的に)反対しているのだろうと私は推測しているのです。何故かと言えば、もしも医療現場における安楽死選択の完全禁止ということを正面から訴えれば、おそらくその主張は世間から大きな反撥を受けることになるからです。言ってみれば、寝た子を起こさないために、この会はあえて現状肯定を、つまり法制化阻止を訴えているのではないかということなのです。

 ここは重要なところです。何故なら、この国では安楽死が法的にグレーゾーンに置かれっぱなしにされているがために、事件化することのないグレーな安楽死が日々選択されているという事実があるからです。安楽死を条件付きで合法化している欧米諸国では、時に常識を疑わせるような安楽死事件が起こったりして、私たち外国人の耳にもそれが届いて来ます。でも、これは実は健全なことなのだと思います。そうした事件や事実が明るみに出るたびに、議論が積み重ねられ、より望ましい方向に制度が調整されて行く道筋が出来ているということだからです。法制化を阻止する会は、安楽死が合法化されることで弱者が〈強いられた尊厳死〉に追い込まれて行くと主張します。しかし、すでにそんなことは現実にいくらでも起こっているに違いないのです。法的グレーゾーンのはざまで、それが事件化しないことの方が問題だと何故考えないのでしょう。ここにこの会の思考の矛盾があります。本当に医療における安楽死に懸念を持っているなら、はっきりとした法的禁止を求めるなり、あるいは隠された安楽死を白日の下にさらけ出すために、医療現場での〈内部告発〉を奨励するキャンペーンを張るなりしたらどうでしょう? しかし、そんなことは出来る筈がない。それをすれば、彼らはほんとうに世論から孤立してしまうだろうから。だから仕方なく「法制化阻止」という消極的な立場に落ち着かざるを得ないのです。私には「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という名前は、端的に言って「安楽死・尊厳死に対する議論を阻止する会」と同義に聞こえます。例えばこの会の人たちは、安楽死を認めることは「転がりやすい坂道」を行くことだという常套句をよく口にします。だからブレーキをかけながら慎重に降りようというのではなくて、坂道そのものを封鎖してしまえというのが〈法制化阻止〉というコトバにこめられた意味なのです。

 私はこの会の人たちが、本当に良心的で誠実な人たちであることを疑いません。向いている方向だって正しい。ただ戦略が間違っていると言いたいのです。実際、もしもこのまま〈日本尊厳死協会〉が勢力を拡大して、会員が百万人を突破するようなことにでもなれば、これは恐ろしいことだと思います。それに歯止めをかけるとすれば、こういった会の頑張りに期待するしかありません。どこの国でも一般大衆は安楽死が大好きなのです、ピンピンコロリと死にたいのです。これに対峙するためには、法制化反対ということを政治に訴えるための集会を開いたり、デモ行進をしたりといった戦略ではダメだと思います(それはひょっとしたら逆効果かも知れません)。この国が安易な安楽死を認める方向に流れることを〈阻止〉するために、いま必要なことは、むしろ素朴に安楽死・尊厳死を信奉している人たちを啓蒙することなのではないでしょうか。「そんなに心配しなくても、現在の緩和医療はあなたを耐えがたい苦痛のなかで孤独に死なせたりはしないから」、そういう親身な言葉がけこそが、ほんとうに実りある対話に道を拓くのではないだろうか。医療制度や介護制度の不備を突くのは、それからの話です。とにかくいまは安楽死賛成派と反対派のあいだに心を割って対話が出来る土俵が無い。まず歩み寄るべきなのは、反対派の方々ではないかと私は思います。尊厳死協会の中枢にいる人たちはともかく、12万人の会員の方たちは、素朴に死の床での苦痛に怯える善男善女といった人たちなのでしょう。そういう相手に論争を仕掛けても詮ないことです。必要なのは、論争ではなく対話。そしてこれは私自身の希望的観測になりますが、その対話のなかから「合意出来る安楽死要件」という結論も出て来るのだと思います。欧米諸国で1980年代から安楽死議論が活発になったとすれば、日本はまさに失われた三十年です。もう猶予は無いと思います。いまこの瞬間にも〈事態の打開〉を切実に待ちわびる人たちがたくさんいるのですから…

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2010年4月11日 (日)

安楽死に関する議論を深めるために

 一方的にトラックバックをお送りしてしまった川口有美子さんのブログで、前回の私の記事への反論をいただきました。いや、反論といった内容では全然ないですね、むしろ私は教え諭されてしまったのだと思います。とても示唆に富む深い内容の記事で、議論を深めるためのきっかけをいただいた気がしました。で、これに触発されて性懲りもなくもう一度この問題を取り上げます。医療における安楽死の問題は、一部の専門家に任せておけば済むものではなく、私たちみんなが普段から考えて、話し合っておくべきものだと思うからです。

 ALS患者の照川さんは、尊厳死を願い、そのための要望書を病院に提出しました。おそらく尊厳死に対する生前の意思確認書としては、照川さんの文章ほど熟考され意を尽くした内容のものも少ないのではないか、そんな気がします。が、川口さんはそんな照川さんの〈リビングウィル〉でさえ、「自己決定ではなく、他者決定を許す念書」に過ぎないと言うのです。何故か? もしも「ロックトインの症状が進んで、一切の意思表示が出来なくなったら、安楽死をさせて欲しい」と言うのなら、その判定は介護をしている奥さんか、または医者がするしかなく、決して最終的には自分で選び取った死とは言えない訳だから。なるほどそのとおりだ。これは納得です。つまりそれは「尊厳死ではなく、安楽死希望なのだ」とまで川口さんは言い切ります。厳しい言い方のように思えますが、私はこれは重要な指摘だと思いました。もしも照川さんに語りかけるべき言葉があるなら、柳田邦男さんのような情緒的な言葉ではなく、この川口さんの言葉をこそ番組は取り上げるべきだったかも知れない。いや、もちろん長いあいだ奥さんと二人三脚でやって来られた照川さんには、自分が書いた尊厳死の要望書が、誰よりも奥さんに対して負担をかけるものであることは百も承知しているのでしょうが。

 ただ、川口さんの指摘から、「だから生前の尊厳死要望というものはすべて否定されるべきである」とまでは言えないとも思うのです。まだ取り引きの余地はあるかも知れません。もしもリビングウィルの問題点が、本人がそれを書いた(伝えた)時点と、家族や医師が安楽死の判定をしなければならない時点とのタイミングのずれにあるのなら、そのずれを埋めるための工夫はいろいろと考えられると思うからです。例えば、あらかじめリビングウィルの中に安楽死遂行の日時を指定しておくというのはどうでしょう。その指定があれば、家族は自らの責任で死なせる時を選ぶ必要は無くなりますし、本人が指定した日時をあらかじめ知らせておくことで、親類や友人が臨終の床に立ち合えるというメリットもある。これは私の以前からの持論ですが、尊厳死を選択する人は、自分よりも遺される者たちのことを優先に考えて〈死の支度〉をすべきだと思います。死ぬ時を選ぶのだって、(ふだんの生活がある)家族の都合を第一に考えるべきだし、看取る者たちが心の準備が出来るように、十分な時間をとって話し合いをしておくことも重要でしょう。それが出来ないようでは〈尊厳死〉の名には値しないとさえ思います。(私が自死した哲学者、須原一秀さんに対して不満を持っている唯一の点もそこにあります。) 死というものは、死んで行く本人にとっては何の倫理的な意味も持ち得ないものですが、遺された者にとっては深刻な倫理的ダメージを与える可能性のあるものです。尊厳死に賛成する人は、その程度のことは胸に刻んでおかなければならないと考えるのです。

 あるいはそこまで厳格な自己決定による尊厳死は難しいと言うのなら、もう少し気楽な方法もあります。つまり死を少しずつ先送りするやり方です。あらかじめ死ぬべき日時を指定しておいても、いざその時が来たら、完全な閉じ込め状態(TLS)にはほど遠く、今はまだ死にたくないと思うかも知れない。その時にはまだ意思表示が出来る訳ですから、例えば指定日を三日後に延期するよう指示をすればいい訳です(別に三日でなくても、一週間でも一箇月でも構いません)。三日経って、本人から再延長の指示が無ければ、その日が安楽死の遂行日になります。ほんとうにTLSに陥ってしまったのかも知れないし、そうではないけれども本人が覚悟を決したのかも知れないし、ひょっとしたら単にうっかりしていて延長の指示を忘れてしまっただけかも知れない。周囲の人はその実情については知らなくてもいいし、また知るべきでもないというのが尊厳死賛成派の私の意見です。そのことをあれこれ忖度しないことこそが、死んで行く人の尊厳を尊重することに他ならないと思うからです。きっとこんな私の考え方に対しては、安楽死を認めない側の人たちから、「そんなに死にたいのなら、誰も止めないから勝手に死んだらどう?」と切り捨てられてしまうに違いありません。もちろんそうさせていただきたいところですが、それが叶わないのです。何故なら、日本では医療現場での安楽死が法律で認められていないから。それを選択すれば、家族や医師に殺人の罪を着せてしまうかも知れないのだから。川口さんの文章の中にも、「照川さん個人のケースについては、それでいいとさえ思っている」という一節があります。これを私は、「ある条件が整えば安楽死を認めることもやむを得ない」という意味に取りました。であるならば、まだ議論を打ち切ってはいけないということです。

 問題は、大括りでの安楽死法制化の是非ということではないと思います。どういう条件ならばそれが認められ、どういう点についてはそれが絶対に譲れないか、具体的なケースを取り上げながら議論を重ねて行くことこそが必要なのだと考えます。その結果、あらゆる場合においてやはり安楽死は認めるべきではないという結論が出たとすれば、それはそれで説得力のある議論になるでしょう。また、その条件というのは、時代の通念や医療技術の進歩などによっても変わって来るものですから、いったん結論を出したからといって議論を止めていいというものでもありません。川口さんの文章にある、「欧米では生きる権利より「死ぬ権利」の確立を先行させたために、現状のような状況になっている」というのが、具体的にはどういう状況なのか、不勉強な私にはよく分かりませんでした。それでも欧米においては、この三十年くらいのあいだに市民レベルで非常に活発で激しい議論が戦わされて来たことは知っていますし、その結果としてお手本に出来る制度を持つデンマークのような国も現れたのだと思います。ところが日本ではどうでしょう? 一方に〈日本尊厳死協会〉という組織があって、他方に〈安楽死・尊厳死法制化を阻止する会〉というグループもあって、一見対立しているように見えますが、両者のあいだで激しい議論の応酬が行なわれているようにも見えない(それとも私が知らないだけ?)。今回のNHKの番組を見ても、また新聞報道などを読んでも思うのですが、安楽死の問題については誰も本音を言ってはいけないという一種の自己規制というかタブーのようなものがあるのを感じます。それが安楽死に関する議論を深める上での根本的な阻害要因になっているのではないか。「社会保障を確立するまでは、患者さんには個人的な発言を我慢してもらいたい」なんて、私が一番反撥を覚える言葉なのです。

 しかし、それでもまあ、川口さんのご著書(あ、大宅壮一賞の受賞おめでとうございます!)やブログ記事を読ませていただいて、教わる点もたくさんありました。リビングウィルというものの実効性に関する議論などは、まったく目からウロコが落ちる思いで読みました。日本尊厳死協会の発行しているリビングウィルの登録票については以前から知っていましたが、その〈軽さ〉というか、能天気さがやはり問題だろうと思います。なにしろ自分で文章を書かなくても、三つの項目に同意して署名すればそれで生前指示書が出来上がってしまうのですから。むかし「ポックリ寺」というものが流行ったことがあって、いまは「ピンピンコロリ」なんていうそうですが、要するにそのノリなんですね。同協会のホームページには、入会者(つまりリビングウィルを書いて預託している人)が12万人を超えたと誇らしげに書かれています。それなりの入会金や年会費を取っている訳ですから、結構なビジネスだとも言えます。この団体の創始者が、優生思想を信奉していた人だったという皮肉はさておいても、その存在が日本における安楽死問題をこじらせてしまったということは否めないように思います。もしも私が尊厳死協会に対抗して、本当に真面目なリビングウィル認定団体を設立するとしたら、気軽な気持ちで入会しようとした人が、思わず怖じ気づいてリビングウィルを書くことを思いとどまるような、そんな入会条件を設定してみたいものです。要するに、その条件を考えることが、容認されるべき安楽死(尊厳死)のための条件を考えることでもある訳です。ということで、今回は思いがけなく尊厳死協会への批判で終わってしまいましたが、次回はもう一方の〈安楽死・尊厳死法制化を阻止する会〉について、私が感じている疑問を書こうと思います。

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2010年4月 4日 (日)

逝くものの言い分と送るものの言い分

 先日(3月21日)放映されたNHKドキュメンタリー『命をめぐる対話』では、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と闘っている方を作家の柳田邦男さんが訪ねる場面から番組が始まりました。ALSについてはつい最近私もこのブログの記事で取り上げたばかりでしたから、非常に関心を持って見たのです。心の準備はしていた筈だったのに、あまりに生々しい映像に言葉を失ってしまった。番組で取り上げられていた照川さんという患者さんのことは、実は2年ほど前から知っていました。いや、照川さんという名前を知ったのは初めてだったのですが、千葉県の亀田総合病院というところで治療を受けているALSの患者さんが、安楽死を求める要望書を病院に提出した、それがニュースになったことがあって、その時の思いを記事にしたことがあったのです。それからも折りにふれてこの患者さんのことは気になっていました。今回の番組を見た人は、いろいろな問いかけを受け取ったと思います。私にとって、ここで問いかけられているものは、生命の尊厳に関する問題でもなく、家族の絆の美しさといったものでもなく、もっと具体的な法制度の問題だと思われました。私たちは医療における安楽死というものを認めるのか、また認めるとすればその条件はどういうものであるべきなのか、そういう問題を問いかけられたように感じたのでした。

 すでに何度も書いているとおり、私自身は医療現場における安楽死というものについて、一定のガイドラインを作って合法化することが必要だと考えています。医師による自殺幇助あるいは嘱託殺人ということが事件として明るみに出ることはまれですが、これに近いことは医療の現場で日々行なわれているに違いない、そう信じているからです。このことに目をつぶって、いかなる状況の下でも安楽死を認めないと主張する人は、現実から目をそむけているだけの机上の理論家か、あるいは患者の気持ちを想像出来ない楽観的な正義派に過ぎないのではないか、そんなふうに思っているのです。例えば、今回の番組のなかで、柳田さんは安楽死を願う照川さんに対して、命は自分ひとりのものではない、家族のためにも生き続けて欲しいとメッセージを伝えていました。柳田さんの境遇にあって、そんなふうに言葉をかけることは難しいことではなかった筈です。しかし、本人がつらくて耐えられない、死なせて欲しいと言い、家族もその要望書に同意署名をしている状況で、どういう根拠があって、いや、どういう権利があって、生き続けて欲しいなどと言えるのだろう? 私は柳田さんという方のまごころも理解出来ますし、それは照川さんにもしっかり伝わっていました。それでも私は問いたいのです、もしも不治の病と闘っている患者さんが、側で見ているのもつらいほど激しい肉体的な苦痛に苛まれていて、緩和治療もまったく効果が無く、本人は一刻も早く死なせて欲しいと訴え続けているという状況があったとしたら、柳田さん、そんな人にもあなたは最後まで生き続けて欲しいと言いますか? ALSという病気は、見た目では本人の苦痛がはっきり伝わらない、そういう残酷な病気です。しかし、精神的苦痛だって時に肉体的苦痛に劣らないほど激しいものであることは、私たちにも想像が及ぶことではないですか。私の論点は単純です、精神的な苦痛が発狂に至るほど激烈なものだったとしても、それでも命を全うしなければならないと誰が言えるのかということです。

 ALS協会の川口有美子さんのブログでも、今回の番組のことが取り上げられていました。論点はやはり柳田さんと同じです。川口さんの著書を読んで感銘を受けた私は、そこで述べられていることの背景も意味もよく理解出来るつもりです。しかし、柳田さんや川口さんが過去のどんなに重い経験から発言しているにせよ、それは死んで行った家族を見送った側の経験なのです。ロックトインされて死んで行った本人の経験ではないのです。川口さんは個人的に照川さんのことも知っているのでしょう、その語りかけはとても親身で、もしもご本人がこの言葉を受け取れば勇気づけられるに違いないと感じました。しかし、意思の読み取りを諦めそうになった奥さんに対して、怒ってコールを鳴らし続けたことについて、「真実はこれなのだ」と決めつけることはどうなんでしょう。また入浴サービスの途中で低血圧になった時、「医者を呼べ」と伝達して来たことに対して、ふだんの言葉とは裏腹に「死にたくない」というメッセージだと解釈することが本当に正しいことなのでしょうか。生きているあいだに、延命措置を拒む遺言をのこす人がいます。リビングウィルと呼ばれるものです。リビングウィルを書いた人は、ナースコールを鳴らしてはいけないのですか? 医者を呼んではいけないのでしょうか? 照川さんの主張ははっきりしています、このまま〈ロックトイン〉の状態が進んで一切の意思表示が出来なくなったとすれば、それは精神的な死を意味する、そうなる前に安楽死をさせて欲しい、それは病に負けたことではなく、「栄光ある撤退」なのだと。私にはこの言葉が心に染みました。これに比べたら、柳田さんや川口さんの言葉は、健康な人間の身勝手な台詞でしかないとも感じられたのです。

 川口さんの記事には、日本でもデンマーク並みの介護環境を勝ち取るまでは、安楽死は待って欲しいという言葉が記されています。つまり政治的な発言なのです。そして私はここにどうしようもない違和感を感じるのです。きっと医療福祉の進んだデンマークでは、家族への負担などを気遣うことなく医療介護を受けられる制度が整っているのでしょう。もちろん日本にもそうした制度が出来ることが望ましいことは言うまでもありません。しかし、それを勝ち取るために、いま病気で苦しんでいる人が犠牲にならなければならないという理屈があっていい筈はない。病気を苦に死にたいと思っている人に対して、それはこの国の制度が悪いからだ、もしもあなたが安楽死を選んだとすれば、あなたは国家に殺されたも同然なのだ、そんな言葉を投げつける人がいたら、余計なお世話だと言いたい。人が死を選び取る理由はさまざまです。いくら福祉が行き届いた国でも、いくら医療技術が進歩した時代でも、生か死かのぎりぎりの選択をしなければならない状況というものはあるでしょう。その選択をする主体は、誰を措いてもまず患者本人であるべきだ、こういう考え方は間違っていますか? その人の置かれた環境によるものか、その人が持って生まれた気質によるものなのか分かりませんが、この問題に向き合うとき、自分を逝く者の立場に置いて想像力を働かせる人と、送る者の立場に置いて想像力を働かせる人に分かれるような気がします。前者は一刻も早く楽にして欲しいと願い、後者は少しでも長く生きて欲しいと願う。どちらも了解可能な自然な情であるには違いありませんが、この場合優先されるべきは、ただひとり死の当事者である本人の願いであろうと思うのです。

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