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2010年2月28日 (日)

イーガン・ギャップを跳べ!

 「死は怖れる必要はない、何故ならあなたが死を怖れているあいだはあなたは死んではいないのだし、あなたが死んだ時にはもう死への怖れも無くなっているのだから。」――これは古代ギリシアの哲学者、エピクロスの遺した言葉です。正確な引用ではありません、若い頃に何かの本で読んで心に残ったのが、三十数年後のいまもこういうかたちで心に残っている、そういう言葉です。エピクロスと言えば、紀元前三世紀の人ですから、ソクラテスやプラトンよりも少しだけ後の時代の人ですね。それなのにこの言葉には、二十一世紀に生きる私たちの心にも違和感なくしっくり来るものがあるように感じます。何故だろう? それはおそらくこの言葉が、私たち現代人にとっては常識である無神論や唯物論を暗黙の前提としているからではないでしょうか。後の世に現れるキリスト教の世界観では、人は死んだ後には神様の前に立たされて審判を受けることになっています。人間は死んだら意識も感覚も無くなって、生まれる前と同じ〈無〉の世界に帰って行く、こういう考え方は洋の東西を問わず、歴史のなかでは比較的新しいものだと思われます。エピクロスの言葉がとてもモダンに感じられるのは、こういう理由からではないだろうか。プラトンの対話篇を読んでも、なかなかこういった清新な感覚は味わえません。

 エピクロスの言葉が、自分の心のなかで(多少変形を受けながらも)長いあいだ生き残って来たのは、私自身が人一倍〈死〉を怖れるタイプの人間だったからです。哲学を学ぶなかで、これ以外にも死に関する格言はいろいろ読みましたが、死への怖れを緩和させる目的で書かれた言葉のなかでは、これほど簡潔で的確で格言として完成されたものは無いという気がしました。でも、だからと言って、この言葉によって現実に死に対する恐怖がやわらげられたかと言うと、そういう訳でもないのです。もう一度、冒頭のコトバを心のなかで反芻してみてください、言ってることは文句の付けようがないほど正しいけれど、なんだか詭弁を使われているような、こっちは真剣に悩んでいるのに質問をはぐらかされたような、ちょっと嫌な感じが残るのではないでしょうか。(例えば自分が余命三ヶ月と宣告された病床にあって、医者にこんなコトバを言われたら、むちゃくちゃ腹が立つと思う。) しかし、それはこの言葉が詭弁だからでもないし、哲学教師の悟り澄ましたような口調が癪にさわるためでもない。そうではなくて、死に立ち向かう心構えを説く言葉としては、その姿勢があまりに受動的過ぎるために、そこから私たちはどんな慰めも励ましも得られないということなのです。私たちの心が恐怖心で満たされている時、私たちの身体は受け身の姿勢になっています。勇気を持って恐怖に立ち向かうというのは話が逆で、恐怖を感じさせるものに向かって一歩を踏み出す時、私たちの心には勇気が湧いて来るというのが人間の心理というものでしょう。エピクロスは私たちに死を受け入れる心構えを説いた訳ですが、むしろ私たちに必要なのは〈死を迎え撃つ〉心構えであると言った方がいい。

 さて、こういう話を枕に安楽死や尊厳死に関する議論に入って行くことも出来るのですが、今回の私のテーマはそこにはありません。もしもあなたが「あの世」や「来世」なんてものを信じない唯物主義者であるならば、死の恐怖を克服する発想法はいくらでもある、そのことをお伝えしたかったのです。(ちなみに私自身は99パーセントの唯物主義者ですが、残り1パーセントは神秘主義者です。自分としてはこの配合が結構気に入っています。) 私はよくこの世で一番苦しい悲愴な死に方というのはどういうものだろう、といった想像をすることがあります。(これについては過去にひどい記事を書きました。こちらです。) またこれとは逆に、この世で一番苦しくない、本人にとっても周りの者にとってもまったく悲愴さを感じさせない死に方というのはどういうものだろうと考えることもある。今回提示してみたいのはその後者の方です。それは例えば家族に見守られながら安らかに息を引き取るといった死に方ではありません(それは私の基準ではまだまだ十分悲愴なのです)。もっとばかばかしいくらいあっけらかんとしていて、誰もその死に気をとめないくらいカジュアルな死に方…。そこで私が思い出すのは、テレビドラマのスタートレックに出て来る物質伝送装置のことです。

 知ってましたか? カーク船長がこの装置を使って、エンタープライズ号から近くの惑星にテレポーテーションする時、彼は一度死んでいたのだということを。最近の物理学の研究では、量子テレポーテーションというアイデアが真面目に考えられているのだそうです。エンタープライズ号の伝送装置がどのような理論に基づいたものか私は知りませんが、この装置に入ったカーク船長の身体が、物理的にそのままの形で転送されている訳ではないのは確かです。そこでは伝送元での瞬間的な分解と、伝送先での瞬間的な再構築というプロセスが行なわれているに違いありません。ということは、送り出される側の身体の同一性という視点から見れば、伝送時に行なわれることは単なる物理的消滅に過ぎない。ほら、カーク船長、死んでるでしょ? しかし、伝送先で彼はよみがえります。私たち唯物主義者にとっては、人間の記憶も脳の物理的痕跡に過ぎない訳ですから、新しく誕生したカーク船長は伝送時の記憶をそのまま引き継いでいて、ドラマの脚本に従ってすぐに活動を再開する。テレビの視聴者のなかにも亡くなったオリジナル・カーク船長のことを悼む人は誰もいません。でも、このカラクリを知ってしまったあなたは、もしも自分がこの装置の中に入るということを想像すると、躊躇する気分になるのではないでしょうか。自分自身の主観的な感覚では、伝送が行なわれた瞬間に意識が途絶え、そこで一切が無になる。つまり死です。伝送先でよみがえるあなたが、現在のあなたと同一の意識体であると信じるためには、あなたは唯物主義者であることをやめなければならない。

 そんなあなたの心配をよそに、カーク船長は今日もこの装置を使って宇宙のあちこちを飛び回っています。彼は笑いながらあなたに話しかけます、「私も初めて伝送機に入る時には緊張したよ。君だって宇宙船で最初に地球を飛び立つ時には緊張しただろう? 同じことさ。慣れればどうってことはない。事故もめったに起きないしね。」 でも、あなたはそんな言葉を真に受けることは出来ない。だって目の前のいるカーク船長は(あなたの考えでは)ニセモノなんだから。いや、単なるニセモノじゃないぞ、ニセモノのニセモノのニセモノの…。そんなあなたの心を見透かしたように船長は続けます、「君が心配しているのは、伝送元で消滅する側の意識の問題だろう? むろんそれは誰にも証言出来ないのだが、苦痛などはまったく感じないことは請け合えるね。なにしろ〈分解〉は1ナノ秒の数千分の一という瞬間に行なわれるんだ。苦痛なんて感じるヒマも無いだろう。」 いや、僕が心配しているのはそんなことじゃないんだ、そうあなたは考えます、僕が心配しているのは…、あれ? 何を心配していたんだっけ? 「もしかして君は、消滅後にも君の霊魂は宙に残って、永遠に苦しむかも知れない、そんなことを心配しているのかな?」、船長は続けます、「もしも君がそういう信仰を持っているなら、伝送機は使わない方がいい。私も人の宗教にまで口出しする気は無いからね。もっとも、そういうことだったら、もう手遅れとも言えるな。君がこのエンタープライズに乗り込む時に使ったハイパー・エレベーター、あれは伝送技術を応用したものだからね。」……

 おっと、ショートショートを書いている場合じゃなかった(笑)。もしも私たちが物質的なものを超えた霊魂のようなものの存在を信じないなら、原理的に言って死を怖れる理由は無い、そのことを証明してみたかったのです。もちろん、このことを頭で理解していても、死への恐怖は残ります。ただ、それは前回私が分類した三種類の恐怖のうちの、最初の二つ、つまり〈現世的な〉意味での死に対する恐怖です。もしもあなたが意を決してこの伝送装置に入るならば、今回問題にしたかった三番目の恐怖、すなわち〈存在論的な〉意味での死に対する恐怖はすでに克服されていると言っていい。そして前回も書いたように、死に対する現世的な恐怖の方は、私たちの努力や心がけ、あるいは医学の進歩によってもある程度解消することが出来るものなのです。(三種類の恐怖という点から見ても、このテレポーテーション・マシンというのは、実に理想的な死を演出してくれるものですね。誰も悲しませず、自分も苦しまず、どんな未練も残さない。) 単に死ぬことが怖いというだけではなくて、生きていること自体が怖いという私のような病人にとっては、これでもまだ十分ではないかも知れません。だけどまあ、自分がスタートレックの登場人物になったつもりで想像力を働かせれば、死の恐怖もだいぶ薄れるのではないかという気がするんです。(生きていること自体の恐怖ということについては、出来ればまた改めて取り上げたいと思います。)

 オーストラリアのSF作家グレッグ・イーガンに、『ぼくになることを』という傑作短編小説があります。以前このブログでも紹介したことがありましたね。これも今回私が考察しているような「誰にも気付かれることのない死」をテーマにした作品です。登場するのはテレポーテーション・マシンではなくて、頭の中に埋め込まれた人工頭脳ですが、いまの自分を殺して新しい自分に生まれ変わるというアイデアは同じです。その時代の習慣として、主人公はいつか生身の脳を捨てて人工頭脳に乗り換えなければならないと感じているのですが、なかなかそれを実行するふんぎりがつかずにいる。ここで感じる不安は、あなたが最初に伝送装置に入る時の不安と同じものです。このテーマを見事に小説に形象化してみせた作者に敬意を表して、主人公が飛び越えようとしているこの溝のことを「イーガン・ギャップ」と名付けたいと思います。確かに現在の自分が消滅するには違いないのですが、よくよく考えてみれば何も怖れる必要の無いプロセスという意味です。これを受け入れることこそが、死を迎え撃つ心構えを固めることなのです。だからひとりの哲学者として、死に対抗すべき私の格言はこうなります。「誰も死なんてものを経験する人はいない、臆病風に吹かれるな、イーガン・ギャップを跳べ!」

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2010年2月21日 (日)

死の恐怖を克服する方法について

 哲学とは死を迎えるためのレッスンだという言い方があります。少なくとも哲学者を自称する人間が、死の恐怖に圧倒されて思考停止の状態に陥っているようじゃ、何のための哲学だか分かりゃしない。先週書いた記事が、自分でもあんまり恐ろしいものだったので、それを中和するために、今回もう一度「死」について書きます。今度のテーマは「死の恐怖を克服する方法」についてです。私が思うに、死の恐怖というのもそう単純なものではない。少なくともそれは三つの要素から成り立っていると考えられます。死の恐怖から逃れたいと思っている人は、自分が死のどの側面を恐れているのか、まずは自己分析をしておく必要があります。

 死の恐怖のひとつめは、世界と自分との関係が断ち切られることに対する恐怖です。例えば、自分が死ぬことによって、遺された家族はどれほど嘆き悲しむことだろうと考える。あるいは自分が一家の経済を支えている立場なら、死んでも死に切れない気持ちになるのも当然だと思います。この世を去ることで断ち切られるものは、家族との関係だけではありません、「まだやり残した仕事がある」、「もう一度会いたい人がいる」、「行ってみたかった場所がある」、どんな些細なことであっても、「この世の未練」と感じられることがひとつでもあれば、安らかな死というものにとっては一点の陰りになる可能性がある。逆に、「この世でやるべきことはすべてやり遂げた、もう未練は何も無い」と心から思える死に方があれば、それは誰もが羨む理想の死に方だと言えるでしょう。

 こういう意味で理想の死を迎えられるかどうかは、その人の運次第というところもありますが、ふだんからの努力や心がけによる部分もあります。結婚して子供をもうける、仕事である程度の地位に着く、万一に備えて生命保険をかける、子供に遺せるだけの財産を築く、定年後には海外旅行をする、何かひとつライフワークと思えるものを作る、古今の名作と呼ばれる本を読む、遺言書を書く、生前に墓を建てておく、こうしたことはすべて「この世の未練」を断ち切るための準備だと言えないこともない。私なんてこのブログを書いていることだって、ほとんど安らかな死を手に入れたいという動機だけで続けていると言っても過言ではない気がします。またこれは一般論ですが、この世に未練を残さないためにはある程度の〈長生き〉ということも必要でしょう。うんと歳をとれば、いい加減生きることにも飽きたという心境にだってなれるかも知れない。こうした条件をすべて満たした理想の死に方を、私たちは「大往生」というコトバで呼んでいます。

 死の恐怖のふたつめは、死に移りゆく過程に対する恐怖とでも呼ぶべきものです。もっと分かりやすく言えば、死ぬ前に長患いやひどい病苦を味わうのはごめんだということですね。須原一秀さんという哲学者が書いていましたが、人は誰でも眠るような安らかな死で人生を終えたいと思っているけれど、そういう死に方が出来る人というのは本当にまれなんだそうです。自然死だとか老衰死と聞けば、テレビドラマに出て来るような静かに目を閉じる臨終シーンを思い浮かべますが、そんなことは現実には滅多にない。人間の生命力というのは相当しぶといもので、死の床にある病人や高齢者でも、身体は最期まで死に対して激しく抵抗するのがふつうだと思います。これは周りで見ている方もつらい。前にも書きましたが、私たちは〈死〉を〈眠り〉のアナロジーで考える習慣があるけれども、このふたつは実はまったく正反対のものです。眠りは身体からの要請によって引き起こされるものであるのに対して、死は身体からのあらゆる抵抗を振り切って遂行されるものであるからです。最後の最期において、私たちの心は死と身体とがせめぎあう激戦場と化してしまう。(もっとも臨死体験から生還した人たちの証言によれば、激しい苦悶のあとには実に気分の良い解放の瞬間が待っているそうですが…)

 このタイプの恐怖を胸に抱いている人が、生前心がけておくべきことはあまり無いような気がします。いくら健康に注意したって、人間はいつかそれで命を落とす病気に罹ってしまう。せいぜいそれがあまり過酷な病気でないことを祈るだけです。終末期の苦痛の緩和ということについては、現代の医学がいろいろな処方を私たちに提供してくれていると思いますし、この先さらにこの分野での研究は進んで行くだろうと期待出来ます。ただ、医学が進歩することによって、却って終末期における悲惨さが増している面もあることを私たちは忘れてはいけないと思います。延命技術の進歩によって、現代人はほとんど自分の意思とは無関係に、長いあいだ死の床にくくりつけられる傾向があるからです。もう勝敗のついている勝負を、文字どおりドクター・ストップも無しに、延々と続けさせられるのは非常につらいことです。このことに不安を感じている人は、まだ元気なあいだにリビングウィル(終末期の治療方針に対する要望書)を書いておいて、徒な延命措置の拒否ということをはっきり意思表示しておくのがいいかも知れません。これは医療における安楽死の問題です。ここにはいろいろ難しい議論があることは分かっていますが、その議論を先延ばししていることこそが問題だと私は思っています。ちなみに私自身は、安楽死について積極的に賛成する勇気は無いものの、これを一定範囲では容認したいという考えを以前から持っています。

 最後に残った死の恐怖の三つめは、死によって自分という存在が永遠に失われてしまう、そのことに対する恐怖です。この世の未練というのとも違うし、死ぬ間際の苦痛が恐いというのとも違う、もっと何か漠然とした、自分が生まれて来たことの根源的な不安に結びついたような恐怖です。人はこの世に自分の意志で生まれて来る訳ではないし、(たいていの場合)自分の意志で死んで行く訳でもありません。誰のどういう意図によるものか分かりませんが、人は突然無の世界から呼び出され、かりそめのあいだこの世界を生きて、また無の世界に帰って行く。私たちは自分が生まれて来た理由も、やがて死んで行かなければならない理由も知らされていないのです。古来、哲学者たちは(生と)死に対するこの三番目の恐怖を好んでテーマとして取り上げて来ました。私たちの恐怖を静めてくれる(場合によってはさらに掻き立ててくれる?)優れた警句や箴言もたくさん遺されています。でも、逆に言えば、そうした言葉にすがらなければならないほど、我々にとって死への不安や恐怖は圧倒的なものなのだとも言えるかも知れない。もちろんこれは誰にでも当てはまることではないと思いますが、少なくとも私は死というものに対してそのような感触を持っているのです。

 人によっては宗教がこの恐怖をやわらげてくれるという主張もあるでしょう。しかし、もともと宗教というものと縁の薄い現代人にとって、何かを信じることで死の恐怖から解放されるというのは、なかなか想像することが難しい経験です。いや、これは私だけの考え方かも知れませんが、たとえ自分が信仰心を持っていたとしても、それで対処出来るのは先ほど説明した一番目と二番目の恐怖に対してだけで、この三番目の恐怖に対しては無力だという気がするのです。というのも、たとえ死んだあとに天国での永遠の生を保証されたとしても、今度は〈この自分〉が天国で永遠に生きるということが恐ろしく感じられるに違いないからです。それが天国ではなくて、輪廻転生だったとしても同じです。もしも生まれ変わりによる来世というものがあったとしても、それで死ぬことが少しでも恐くなくなるかと言えば、そんなことはない。むしろそうやって輪廻転生を繰り返しながら、〈この自分〉というものが果てしなく未来に投げ出されて行くというのは、もっと恐ろしいことであるようにも思える。ここまで来ると、それはもはや死への恐怖ではなくて、存在すること自体への恐怖とでも呼ぶべきものかも知れません。死ぬのも恐いし、生きているのも恐い、どこにも逃げ場の無い進退きわまった断崖絶壁の恐怖…。で、自分も過去の哲学者たちに倣って、これに対するひとつの処方箋を書いてみたいと思うのですが、――おっと今夜はもう時間が無くなってしまった。この続きは次回またということにしたいと思います。

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