« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010年1月31日 (日)

「米軍基地は硫黄島へ」に大賛成!

 私たちが人生のむずかしい問題に直面して、八方塞がりのように感じてしまうのは、八方塞がりのアタマで物事を考えているせいではないでしょうか? そんなふうに感じることがあります。沖縄「普天間基地」の移転問題は、候補地として挙がっていた辺野古を擁する名護市の市長選で、受け入れ反対派の候補が勝利したことによって振り出しに戻ってしまった感があります。選挙の結果を見れば、両陣営の票数はほぼ拮抗していますから、名護市民のなかにも受け入れ賛成の立場の人も多かったのでしょう。ダムや原発などの建設問題にしても同じですが、こうした問題は地域の住民を引き裂いてしまう残酷な一面を持っています。これからの政治が配慮しなければならないことは、最初からそうした「踏み絵」を住民に踏ませるような選択肢は出来るだけ避けることだと思います。で、もしも首相が「ゼロベース」と言うのなら、ここはひとつ発想を変えて、賛成派の住民も反対派の住民もいない地域を新たに選んではどうでしょう。ダムや原発では難しいけれども、基地ということなら可能性はあります。無人島への基地移転ということです。

 先日の朝日新聞「声」欄に、『普天間の移転先、硫黄島が最適』と題する86歳の方の投書が載りました。硫黄島と言えば、太平洋戦争の激戦地として私たちの記憶に残っている訳ですが、いったいどんな形の島で、どのくらいの広さがあって、今はどのように使われているのかといったことについて、調べたこともなければ気にしたこともありませんでした。ウィキペディアによれば、硫黄島は小笠原諸島の南に位置する、東西8キロ、南北4キロ、面積22平方キロの島で、現在は自衛隊の駐屯地として使われているのだそうです。行政区は東京都ですが、住民が住んでいる訳ではなく、わずかな自衛隊員が駐留しているだけです。日本の火山島には高い山や険しい断崖を持つ島が多いのに対して、地殻の隆起によって出来た硫黄島の地形は比較的平坦で、そのため第二次大戦当時から軍事拠点として利用されて来たのでした。航空写真を見れば、今も島の中央には自衛隊の長い滑走路があるのが分かります。普天間基地の面積は4.8平方キロですから、移転先としての広さも十分。うまく土地を利用すれば、米軍基地と自衛隊の基地とを併設することも出来るのではないでしょうか。そうすれば、日米合同演習の演習地としても便利です。

 もちろん米軍には無人島にお移りいただく訳ですから、インフラ整備は日本政府が責任を持って行なわなければなりません。島の地図や写真を見ていると、街づくりのためのいろいろなアイデアが浮かんで来ます。島の西南端には摺鉢山という標高169メートルの山があります。頂上には米軍のレーダー設備が置かれることになるでしょうが、またここには頂上に至るまでのロープウェイかケーブルカーを設置して、観光客のための展望台なども作ってしまいましょう。山のふもとにはホテルや飲食店などを誘致します。硫黄島には温泉も湧き出ているそうですから、それもセールスポイントになる筈です。そう、新しい硫黄島のコンセプトは、「基地と観光が共存する島」というものになるのです。先週の記事で私は、日本には「ハコものカジノ」は向かないと書きましたが、ここにならカジノも似合いそうです。わざわざ極東の小さな島に、家族や恋人とも別れて赴任して来るアメリカの兵隊さんをもてなすのに、そのくらいの準備があってもいいのではありませんか。普天間でも嘉手納でも横須賀でも、基地の街には独自の文化が根付いていると思います。それは日本人の我々にとっても、エキゾチックでちょっと魅力的なものだったりする。そういう基地文化をうまく演出出来れば、日本人の観光客も集まるだろうし、ここで商売を始めようという事業者も呼べるのではないでしょうか。ここには基地反対派の住民もいないし、兵士たちも後顧の憂いなく任務に当たれる訳で、米軍にとっては理想的な在外基地のモデルとなり得るのではないか。

 なんと言っても硫黄島がいいのは、ここが東京都の一部だというところです。普天間からここに基地を移せば、沖縄にとっては念願の県外移転が実現することになります。例えば石原知事が基地を受け入れることを宣言すれば、オリンピックの誘致や築地の移転問題で地に堕ちた人気を少しは挽回する機会になるかも知れません。東京都民にとってこの誘致は痛くも痒くもない訳で、誰も反対する理由なんてありません。むしろ国が拠出する「思いやり予算」が、観光収入を通じて東京都に還流して来るのですから、棚からボタ餅と言ってもいいほどです。…いや、それよりもいま一番失地回復が必要なのは、石原さんではなくて鳩山さんの方でしたね。今週、民主党は基地移転の候補地として、今度は徳之島の調査を始めたとニュースが報じていました。地元からは早くも反対の声が上がっています。こういう優柔不断なことばかりやっているから、鳩山民主党の支持率も下がる一方なのだ。硫黄島への基地移転ということについては、社民党も可能性のひとつとして挙げているらしい、そのことも今回ニュースを検索していて知りました。何故これを真面目に検討してみないのでしょう。アメリカがそれで納得するかどうかということは、実はあまり重要なことではなくて、そういう選択肢をこちらから突き付けることで、日本がこの問題に対する主導権を取ることこそが重要なのだと思います。米政府が基地問題の決着を迫って来るなら、詳細な調査結果と実現のためのプランを示して、硫黄島移転かあるいは撤退かという選択を逆にこちらから迫ればいい。どうせアメリカだって、いまの財政状態が続けば軍事予算を大幅に削減せざるを得なくなるのです。日本政府には「それまでの我慢くらべだ」という視点も必要です。

 これも今回、硫黄島について調べていて知ったのですが、この島には今でもおびただしい数の日本兵、アメリカ兵の遺骨が土に埋もれて眠っているのだそうです。ルソン島やサイパン島のジャングルならともかく、日本の領土であるこんな小さな島のなかで、戦後六十余年を経たいまも〈英霊〉の遺骨が雨ざらしのまま放置されているなんて! これは自分にとってかなりショックな事実でした。(不勉強であることは承知しています。) もしも普天間基地を硫黄島に移転するというオプションがあり得るなら、まずは遺骨の収拾から始めましょう。それを放っておいて、その上に新しい滑走路を作るなんてことは出来ませんからね。過去の重い歴史を持つこの島に、日米両軍の新しい基地を作るというアイデアは、戦後ずっと私たちが先送りにして来た大事な何かに対するけじめをつけることにもつながるような気がします。と書いて思い出したことがある、以前mori夫さんのブログで教えてもらった硫黄島に関する感動的なエピソードです。戦後四十年を経た1985年、この地で戦って生き残った日米の旧軍人たちが、亡くなった兵士の慰霊のために島を訪れる機会があったのです。そこで彼らは抱き合って涙を流し、平和を誓い合いました。それをひとりのアメリカ人の少年が見つめていました。彼はそこで感じたことを手紙にしたためて、当時のレーガン大統領に送ったのです。それが評判になり、日本の新聞にも紹介されたのでした。(何度読み返しても目頭が熱くなる記事です。) もしも硫黄島がこれからの新しい日米関係を築くための〈橋頭堡〉になり得るのなら、それを成就させることこそが、この島で散っていった日米の兵士たちの魂魄に報いることであるのかも知れない、そんな気さえ私にはするのです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年1月24日 (日)

カジノ特区は絶対に失敗する!

 先週競馬の話題についてちょっと書いたら、むかし競馬場に通っていたころの熱い気持ちが甦って来ました。このままこのブログの方向性がそちらにそれてしまうのではないかと心配ですが(笑)、もう一度だけ、今週もギャンブルの話題を取り上げようと思います。最近なにかと人騒がせな亀井大臣が、沖縄に「カジノ特区」を設置するという構想をぶち上げました。沖縄県知事もこれに賛同の考えで、亀井さんとは意気投合している様子です。カジノ特区と言えば、東京都の石原知事や大阪府の橋下知事も、その実現と誘致に向けて積極的な発言をしていたと思います。確かに地域の観光の目玉になって、しかも苦しい財政にとってもプラスになるとなれば、政治家がこれに色目をつかうのも当然だという気がします。しかし、私はカジノ特区は日本では絶対に成功しないという確信を持っているのです。何故かということをこれから書きます。

 日本の法律は、競馬・競輪などの公営ギャンブルを除いて、賭け事というものを禁じています。どこかのマンションの一室で行なわれている地下カジノのようなものはもちろん、ふつうの家庭で遊ばれている賭け麻雀だって厳密には非合法なのです。にもかかわらず私たちは、日本が世界でも例を見ないほどのギャンブル大国であることを知っている。そう、パチンコのことです。日本中央競馬会(JRA)の年間売上が3兆円弱なのに対して、パチンコ業界の売上は20数兆円にも上ります。これはいくら驚いても驚き足りないくらいの数字で、例えばそれが国内の新車販売高の3倍にも相当する金額だと言えば、その尋常ならざる市場規模が理解いただけるのではないかと思います。日本ではギャンブルが禁止されているから、ある地域限定でカジノを公認すれば、人気スポットになって経済効果も見込めるだろう、これがカジノ特区推進派の理屈だと思いますが、そもそも前提が間違っています。国内には13000軒ものパチンコ店があって(最近はつぶれる店も多いようですが)、パチンコ人口は2千万人とも言われている。おそらく日本人の9割以上は、自宅から15分以内で最寄りのギャンブル場(パチンコ屋)に行けるロケーションに住んでいる。(調べた訳ではありません。私の直感です。笑) そんな国が世界中のどこにありますか? 世界的な常識からすれば、ギャンブルというのは〈非日常性〉を楽しむレジャーだと言えます。ところが、この国ではギャンブルは身近な日常なのですから、わざわざ沖縄までの航空券を手配してまでカジノ遊びに出掛けようという人はそう多くないと思われるのです。 

 ここまではまあ誰もが考える、日本でカジノが成功しない理由なのですが、私の考察はさらにその先まで突っ走ります。この国でカジノ特区が失敗に終わるもっと根本的な理由は、一般にカジノで行なわれているゲームが、パチンコや競馬や麻雀などと比べて、ゲームとして圧倒的につまらないという弱点を抱えていることです。あちこちの自治体やシンクタンクのようなところが、カジノを誘致した場合の経済効果について調査報告書を書いているようですが、こうした「ゲーム自体の面白さ」に着眼して論を展開しているところは見当たりません。私たちが知っているカジノゲームと言えば、ルーレット、バカラ、ブラックジャック、それにスロットマシーンといったところが代表的でしょう。私自身のカジノ体験は、むかし香港旅行のついでに立ち寄ったマカオで、「大小」のテーブルで小1時間ほど遊んだだけですが、多少儲かったにもかかわらず、こんなつまらないゲームは無いと思った。理由ははっきりしています、これらのカジノゲームは運の要素がほとんどで、深い戦略も無ければプレイヤーの技量を進歩させる要素も無いものだからです。翻って国内のギャンブル事情を省みれば、競馬や麻雀なんて生涯をかけても極め尽くせないほど奥の深いゲームだし(麻雀も昔はよくやりました)、パチンコのことは私はよく分からないけれども、これもうかつに手を出せないほど深淵なゲームであることは、コンビニにたくさん置いてあるパチンコ雑誌やきっこのブログなどを覗いてみれば分かります。ふだんギャンブルとは縁の無い堅実な生活を送っている世界中のほとんどの国民にとって、カジノは夢の別天地のようなところなのかも知れません。が、私たち日本人にとってはそうではない可能性の方が高いのです。おそらくカジノ特区が開設された当初は、もの珍しさで観光客が押し寄せたとしても、リピーターは増えず、やがては常習的なギャンブル中毒者だけがたむろす、さびれた場末のゲームセンターのような場所になってしまうのではないか。

 私は日本ではカジノ特区は失敗すると言っているだけで、これに反対している訳ではありません。2千万人のパチンコ人口を抱える我が国は、ある意味、世界で最も先端的なギャンブル王国なのですから、ラスベガスやマカオのような既存の単調なゲームを提供するだけのカジノを作っても意味が無いと言っているのです。(これを公共事業型の「ハコものカジノ」とでも命名しましょうか。) むしろ政策としてカジノの導入を構想するなら、オリジナルのコンテンツにこそこだわるべきです。日本は家庭用ゲーム機で世界を席捲するほどのコンテンツパワーを持っているのですから、これを新しいカジノゲームに応用しない手はない。どうでしょう、もしも亀井さんあたりがそんな政策構想を打ち出せば、手を挙げるゲームメーカーやソフトウェア会社はたくさんあるのではないかな。とにかく遊びの施設を作るのに、官僚的な発想でやったら失敗するのは目に見えています。おりしも今週のインターネット・ニュースでは、アジア各国で新しいカジノ建設計画が目白押しだという話を伝えていました。このままでは過当競争に陥ってしまう可能性もあるというのです。どこの国でも政治家や役人の考えることは一緒ですね。これからの時代、従来のハコものカジノは間違いなく衰退する、私はそう予想します。このところマカオのカジノが非常に賑わっているようですが、それはこれまで遊びを知らなかった中国の新興富裕層が夢中になっているだけの話で、世界中から観光客を集めている訳ではないと思います。ギャンブル先進国の日本が、いまからその二番煎じを狙おうなんていうのは、愚かしいことであるばかりか税金のムダ使いでしかありません。 

 で、ここから先は私の空想になりますが、もしも国内にカジノ特区を作るなら、それは特定の地域にハコものとして作るのではなく、インターネットの空間の中にこそ作るべきでしょう。これならギャンブル好きは、近所のパチンコ店に出向く必要さえ無くなる。魅力的な新しいコンテンツがどんどん現れれば、これまでギャンブルとは無縁だった人たちも取り込むことが出来るかも知れない。もちろん参加するのは二十歳以上に限定するという認証の仕組みは必要ですが、それさえあればパチンコや競馬よりも不道徳という訳でもありません。裏社会の資金源となっていると言われるパチンコ業界に流れるお金を、国が運営するインターネット・カジノの方に振り向けることが出来れば、社会の健全化にだってつながる期待が持てます。カジノ特区構想には、海外からの観光客を呼ぶという目的もあるのに、インターネット・カジノではその役に立たないという反論があるかも知れません。しかし、日本という国に魅力を感じて来日する観光客が、カジノ遊びを喜ぶとは私には思えないのです。それはむしろ観光国としての日本のブランドをおとしめるだけでしょう。それに外貨を稼ぐことが目的なら、インターネット・カジノの方がずっと有利だということもあります。国が運営する21世紀のこの新しいカジノを、国内だけでなく世界に向けても公開するのです。参加するプレイヤーは、自国の通貨をその時の為替レートで日本円に交換して、それで好きなゲームを楽しむことが出来るようにする。なにしろコンテンツ・ニッポンの提供するゲームなのだから、面白くない訳がない。何もしなくても政府はどんどん外貨を獲得出来るようになります。財政赤字も一挙に解消です。「jpドメイン」がインターネットにおけるカジノ特区として世界中から認知されるようになり、日本円がそこで共通に使えるチップとして流通するようになれば、日本円がドルに代わる基軸通貨の地位を狙える日だって来るかも知れないのです。(ウソ)

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2010年1月17日 (日)

これが巷間哲学者流「競馬必勝法」だ!

 今週はちょっと気分を変えて小ネタをひとつ。昨年私を最も驚かせたニュースは、民主党による政権交代でもなければオバマ大統領のノーベル賞受賞でもなく、新聞の片隅に載った脱税事件に関する小さな記事でした。香港に本社を置くデータ分析の会社が、自ら開発した競馬予想ソフトを使って、日本の競馬で160億円(!)もの賞金を荒稼ぎした挙句、社長である英国人は税金も収めないまま海外に高跳びしたというのです。これを聞いて私がショックを受けたのは、「しまった、先を越された!」と思ったからです。というのも、私はずっと以前から、競馬というのは必勝法のあるギャンブルだと思っていたからです。

 最近はもう自分で馬券を買うこともほとんど無くなりましたが、昔は仲間と一緒に毎週のように競馬場に通っていた時期がありました(このブログを始めるずっと前のことです)。小心者なので、あり金をどーんと賭けることも出来ない、今にして思えばずいぶんみみっちいギャンブラーだったと思います。賭け金が少ない上に穴馬ばかりを狙うので、当然結果はいつも負け越し。たぶん生涯の馬券成績をつけていたとすれば、かなりの額をJRA(と大井競馬)に貢いだのではないかと思います。そんななかでも、競馬に勝つための理論だけはいつも考えていました。そしてついに究極の必勝法を発見したのです。それで何故いつも負けてばかりだったかと言うと、それを実践するためには膨大なデータとそれを瞬時に処理出来るコンピュータが必要だったからです。当時は自分もプログラマーという職業の人間でしたが、パソコンの性能は現在に比較すれば格段に低く、それに何よりもインターネットを通じての競馬情報提供というサービスがまだ始まっていなかった。私の理論は第一にオッズ(配当率)を重視するものでした。いまでこそネットで投票締め切りのぎりぎりまで、ほぼリアルタイムでオッズ情報が手に入れられる訳ですが、当時はオッズを見るためには実際に競馬場か場外馬券場に足を運ぶしかありませんでした。仲間が競馬場に着くとパドックに向かって一目散に駆け出すのに対して、私は馬券売り場の片隅にあるオッズ・プリンターに向かって一目散に駆け出すのです。一度なんか、実験のつもりで新聞の馬柱も見ず、どんな馬が出走するのかさえ全然知らないまま、オッズ・プリンターから吐き出される数字とその変化だけを見ながら馬券を買い続けたこともあります。丸一日やって結果は全敗でしたが… (どんな競馬ファンやねん? 笑)

 私の発見した必勝法の理論は、いたって単純なものですが、いまでも古びていないと思います。と言うより、これはあらゆるギャンブルについて当てはまる基本の法則とでも呼ぶべきものなのです。つまり、賭けの対象となる事象と予想されるオッズとを比較して、期待値が1を超えているなら買い、1以下なら見送るというそれだけのことです。具体的な例を挙げるなら、もしもある馬が優勝する確率が50パーセントだったとして、その馬の単勝配当が200円(2倍)を超えているなら買うべきだし、そうでないなら買ってはいけないということです。パスカルが賭けの問題から確率論を生み出したのは有名な話ですが、せんじつめればギャンブルとは確率の問題に過ぎない、これは少しでも理論的にものを考える人にとっては当たり前の事実だと思います。ところが、多くの競馬ファンはこの単純な事実が分かっていないのですね。競馬の予想とは勝ち馬を当てることだと思っている。これはまったくの間違いです。どんな強い馬でも走る前から100パーセント勝つことが決まっている訳ではありません。レース中に故障したり、落馬したり、不利を受けたりすることもあるでしょう。そういったファクターもすべて考慮して、その馬が勝つ確率を出来るだけ正確に見積もる、そしていくら勝率が高くてもオッズが期待値1を割るなら、その馬券は買うべきではないというのが合理的な判断なのです。私がこういう話をすると、たいていの人は、「競馬はそんな理屈どおりには行かないよ」というようなコトバを返して来ます。これは何を意味するか? 競馬というのは参加者同士が賭け金を奪い合うゲームですから、競馬にロマンを求めるそうした昔ながらの単純な馬券師たちが、今回の事件に登場したようなコンピュータ予想グループのいいカモになっている、要するにそういうことなのです。

 ギャンブルにとってオッズが何よりも重要だということは、もっと単純なゲームを例にとれば分かりやすいかも知れません。3つか4つの数字を自分で選ぶ「ナンバーズ」という宝くじがありますよね。あれにも必勝法があると言えば、貴方は驚きますか? しかし、あるのです、もしも自分にだけオッズが知らされていたとすれば。4つの数字を並び順どおりに当てるナンバーズ4のストレートというゲームを例に取りましょう。買い目は0000から9999までの1万通りですから、特定の数字が来る確率は1万分の1です。一口200円なので、200万円を超える配当が付くならその数字は買いです。過去の当選金額を調べてみると、ほんのたまにですが200万円以上の高額配当が付くこともあるようです。日本の宝くじは、控除率(つまりテラ銭)が50パーセント以上という割のよくないギャンブルですから、期待値が1を上回る買い目は滅多に出ません。それでも1万通りの数字のなかにはオッズの偏りがかなりあって、毎回配当額は大きく乱高下している。もしも200万円を超える配当の付く数字だけを一生買い続けたなら、かなり高い確率でナンバーズ4で勝ち越すことが出来る筈です。もちろん実際には締め切り間際のオッズなど知りようもありませんから、期待値1を超える数字だけを買うなんてことは不可能です(投票を管理するコンピュータのオペレータなら、こっそり覗き見ることが出来るかも知れません)。それでもこの法則を頭に入れておけば、ナンバーズで多少は有利な戦略というものを考えられます。例えばこのゲームに参加する人の中には、誕生日や記念日といった日付に因んだ数字を買う人が多いと思われますから、日付や年号に読み替えられる数字を省くだけでも期待値は相当高くなるだろうと想像されます。

 ということで、もうお分かりになったと思いますが、競馬というゲームはデータ予想と抜群に相性の良いものなのです。要するに、現代の日本の競馬は、このオッズ情報をコンピュータ分析の専門家たちに優先的に提供するという、私に言わせればほとんど八百長まがいの歪んだ情報公開を行なっているのです。いや、オッズ情報は競馬場にいる人たちにも平等に公開されているのかも知れませんが、最近は馬券の種類も格段に増えている訳で、詳細なオッズ情報がリアルタイムに公開されていたとしても、これをまともに分析出来るのはコンピュータ馬券師だけだというのは分かり切ったことであるからです。競馬の本場であるイギリスの事業家が、何故わざわざ日本にまで来て競馬予想を始めたのかといぶかる記事もありましたが、そんなことは当たり前のことなのです。3連単のような高額配当馬券を含む複雑な馬券体系があり、主催者はほとんど無料でリアルタイムのオッズ情報を提供していて、競馬新聞には出走馬の詳細な調教タイムなども公開されている、どれをとってもデータ分析派にとっては有利な要素ばかりです。しかも馬券を買うのはたいしてオッズなど気にもしない昔ながらの競馬ファンが中心なのですから、プロにとってこんなおいしい稼ぎの場は世界中見回してもあり得ないのだろうと思います。今回のニュースがショッキングなのは、たまたま脱税事件ということで競馬で荒稼ぎしているシンジケートの存在が発覚した訳ですが、おそらく彼らは氷山の一角に過ぎないので、他にも同じような方法で常勝している連中はたくさんいるに違いないということです。それほどいまの日本の競馬にはスキが多いのです。

 海外に高跳びした英国人社長たちが、どのようなロジックで予想ソフトを作っていたのか、競馬ファンならずとも気になるところだと思います。もちろんその内容は私にも分かりませんが、ひとつだけ確かに言えることがあります。彼らは単に勝ち馬を予想していたのではなく、個々の馬券に対してオッズと当選率を掛け合わせた「期待値」を精密に計算していたに違いないということです。そうでなければ億という単位の金が稼げる筈はないからです。宝くじよりもマシだとは言え、競馬は25パーセントものテラ銭を天引きされる過酷なギャンブルです(単勝と複勝は20パーセント)。この不利をひっくり返すには 人気の盲点につけこむしかありません。インターネットを検索すれば、あやしげな競馬情報提供サイトや予想ソフトがいくらでも見付かりますが、それらのなかにリアルタイムなオッズ情報と連動して、期待値で推奨馬券を割り出す方式を採用しているものはほとんどないだろうと思います。何故って、もしもその方式を真面目に追求して行ったら、本当に儲かる馬券術が編み出されてしまうだろうから。そんなものを(たとえ有料でも)公開しようという人はいない筈です、自分で使って儲けた方が手っ取り早いですからね。数分間で勝負が決する競馬というゲームは、株取引などと違って手元資金がたっぷり無ければ大きな勝負が出来ないという仕組みのものではありません。1万円の元手が短期間に1億円に化ける可能性のあるギャンブルなのです。いくら評判のいい競馬予想ソフトでも、市販ソフトとして売り出して、1億円を売り上げることは容易ではないだろうと思います。本当に儲かる予想ソフトは、構造的に決して市場には出て来ないようになっているのです。

 もしも貴方が真面目な競馬ファンであるなら、今回の事件にはもっと危機感を持つべきだろうと私は思います。ここ数年間にJRAが提供するPATサービスが広く普及し、複雑な組み合わせの馬券が誰にでも簡単に買えるようになりました。そのことと今回の事件のあいだには大きな関連があることを、私たちはよく考えてみなくちゃいけない。これは私の予想ですが、日本の競馬がデータ分析によって儲かるということが証明されてしまった以上、これからは世界中から異業種の専門家が大挙して、しかも誰の目にも見えないところで参入して来る可能性があります。例えばマーケット分析ソフトの開発者だとか、金融工学の博士号を持った研究者だとかいった連中です。我ら日本の由緒正しい競馬ファンは、最低限の理論武装をして彼らに立ち向かわなければならない。今回の記事に私は「競馬必勝法」というタイトルを付けました。が、実は私たちはまだそのスタートラインに立っただけです。オッズの数字は所与の前提条件ですが、重要なのはあらゆる種類の馬券が固有に持っている筈の当選率を、他の予想法を出し抜くくらいの正確さで計算するロジックをどう組み立てるかという点なのです。で、これについても私は独自のアイデアと理論を持っているのですが…、もちろんそれをここで貴方に(無料で)紹介する訳には行きません。(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月10日 (日)

「子ども手当」よりも「母親年金」を

 以前の記事でも書いたように、私は民主党の「子ども手当」というものを、ベーシックインカム導入の先駆的な政策となり得るものとして評価していました。そのためには子ども手当には所得制限はあってはならないし、この政策をどのようなかたちで実行するかは今後の民主党政権を占う試金石であるとも書きました。ようやく昨年末になって、鳩山首相の決断によって、子ども手当には所得制限を設けないという方針で決着したようです。小沢一郎氏は所得制限を主張していたそうですから、鳩山さんの決断はそれなりに評価出来るものだと思います。が、ここに至るまでこれだけ政権内でゴタゴタがあって、国民がそれを目撃してしまった以上、マニフェストの目玉であったこの政策は、もうほとんど本来の意義を失ってしまったと私は考えます。

 所得制限無しの子ども手当は、少子化対策の切り札だった筈です。確かに子供ひとり当たり年間に31万2千円の経済的支援が受けられるというのは、子育て家庭にとっては朗報です。それなら諦めていた二人目、三人目の子供を持とうかと話し合ったご夫婦も多いのではないかと思います。但し、それはこの制度が永続的で信頼の置けるものであるという安心感があればこその話です。今回の一連の騒動を見てしまった以上、私たちは何時また所得制限が復活するかも分からないし、それ以前にこの制度が長続きするかどうかも分からない、そういう疑心暗鬼を持ってしまった。これがこの政策にとっては一番まずいのです。閣内にいろいろな意見があるのは仕方無いとしても、鳩山さんはそれを説得した上で、この政策は民主党の最重要政策であり、民主党政権が続くかぎり他の財政予算を削ってでもこれを継続すると力強く宣言すべきでした。それをしなかったということは、つまり子ども手当が前政権の「定額給付金」と同様の、ほとんど効果の無いバラ撒きに終わってしまうことを意味しています。この政策に必要な予算はいくらだと思いますか? 年間5兆3千億円ですよ。それだけのお金があれば、もっと有効な子育て支援策がいくらでも打ち出せただろうに。が、それも今となってはもう手遅れです。

 世論調査によれば、国民の約半数が子ども手当には所得制限を設けるべきだと回答していたのだそうです。この事実を知った時にも私はたいへんがっかりしました。そんなふうに回答した人たちの想像力の乏しさに対してです。簡単に所得制限なんて言うけれど、ある金額で線引きをして、子供ひとり当たり年間30万円以上の給付金を配ったら、世帯間で所得の逆転現象が起こって大変なことになる、その点については既に指摘しました。それ以外にも問題があります。もしも世帯単位で所得制限を課すなら、共稼ぎ夫婦のあいだではきっと偽装離婚が増えるでしょうし(我が家でも冗談半分でそんな夫婦の会話がありました)、これから結婚しようとしている若い人のあいだでは籍を入れない事実婚が一般化するでしょう(共働きの間は事実婚、退職と同時に入籍というのがお得です)。それにまた「高額所得者にまで子ども手当を支給するのはおかしい」なんていう意見も、まったくの浅慮だと思います。子ども手当の原資は税金なのですから、むしろたくさん税金を払っている高額所得者には、傾斜配分でより多額の子ども手当を支給したっておかしくはない。いや、もしも金持ちには子ども手当など必要無いと言うのなら、所得による制限だけでなく資産による制限も検討すべきだと思うのですが、そんな議論をする人もいません。要するに、少し考えれば「所得制限派」の主張なんて簡単に言い負かすことが出来る筈のものなのです。それだけの理論武装もせずに子ども手当なんて公約を打ち出した民主党の無責任さにも腹が立ちます。

 私がこのブログで何度も取り上げているドイツの経済学者シルビオ・ゲゼルは、スタンプ紙幣を考案したことで有名ですが、もうひとつ重要なアイデアを私たちに遺してくれました。「母親年金」という考え方です。ゲゼルはマルクスと同様、土地が地主によって私有されていることを問題視して、土地の国有化を提唱した人でした。土地の国有化と聞けば、私たちは血生臭い共産主義革命を連想して嫌悪感を覚える訳ですが、ゲゼルの改革論はもっとずっと穏やかで、現代の私たちにも受け入れやすいものです。国は地主にその時の時価に見合ったお金を支払って土地を接収します。もちろん一度に支払える訳はありませんから、全土を国有化するには何十年もかかります。国有化した土地は民間に貸し出され、そこから得られる地代は税収と並ぶ国の重要な収入になります。で、ゲゼルさんは、この地代収入を一般の国家予算に組み入れるのではなく、母親年金に使おうと考えたのです。つまり子供を育てている母親に対する給付金のことです。何故そうするのが妥当かと言うと、そもそも土地が地代を生むのは、土地の価値を支えるための一定の人口密度があればこそです。そして母親という存在が子供を産み育てることで、国の人口を支えている以上、地代は母親に還元するのが筋であると考えた訳です。なんて美しい思想でしょう! これもゲゼルさんの言葉の意訳ですが、現代の女性は子供を産み育てることで、国家経済に最重要な貢献を果たしているにもかかわらず、報われるどころか搾取ばかりを受けているのです。これは彼が生きた時代から百年経ったいまでも、事情はまったく変わっていません。

 同じ子育て支援という政策でも、その背後に哲学があるのと無いのとでは、なんと大きな隔たりがあることだろうか。そう思うと、いまの政治に対する失望がますます深くならざるを得ません。もういまさら子ども手当を白紙撤回して、制度設計からやり直すなんてことは出来ない相談でしょう。だったらせめて、「子ども手当」の呼び名だけでも変えて、「母親年金」にしてみたらどうでしょう。そうすれば昔の偉人が抱いた高邁な理想を思い出す〈よすが〉くらいにはなるのではないだろうか、そんなことすら考えたくなるのです。おそらく「母親年金」というコトバに対しては、違和感を感じる人も多いのではないかと思います。子供を育てているのは母親だけではない、シングルファザーだっていっぱいいるし、最近は父親が積極的に子育てに参加している家庭だって多いのではないかと。しかし、自分としては、むしろそんな時代だからこそ、母親年金という命名にこだわりたい気がする。私は女性が自由に職業を選択出来て、男女の違いによって差別を受けない社会は素晴らしいと思います。今日の社会が多少なりともその点で進歩を遂げたとすれば、それは女性たち自身が声を上げて来たことの結果でしょう。しかし、男女平等が声高に叫ばれる一方で、自ら声を上げられない者もいる。子供たちのことです。子育てが難しい時代というのは、親よりも子供にとっての受難の時代と言えるのではないかと私は思います。もしも子供に寄り添い、子供を慈しむことが、広義における母性の役割と言えるなら、これを支援することは政治の役割です。子ども手当に所得制限はあり得ても、母親年金に所得制限を設けるのは不自然です。母性とは本来、経済的な理由によって制限を受けるべきものではないからです。

(追記です。母親年金というキーワードでインターネットを検索していたら、とてもいい記事に出会いました。今回の私の文章はこの記事に触発されて書いたものです。やはりシルビオ・ゲゼルの思想に共感する方なのですね。久しぶりにトラックバックを送ってみたくなりました。)

| | コメント (0) | トラックバック (4)

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »