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2009年11月29日 (日)

中島みゆきさんの新譜を聴いて

 今週は発表されたばかりの中島みゆきさんの新譜、『DRAMA!』をずっと聴いていました。通算36枚目のオリジナル・アルバムなんだそうです。デビューの時から10枚目の『予感』の頃までは、毎年新譜を待ちわびる普通のファンでした。その後長いブランクがあって、やっと昨年、聴きそこねていた二十数枚のアルバムを集中的に聴くということをやってみた、そのことはブログの記事にも書きました。だから自分にとって今回のアルバムは、みゆきファンとして復帰して二十数年ぶりにリアルタイムに聴く新譜だった訳です。で、感想をひと言で言えば…、「やっぱりいいよね、中島みゆき!」。このアルバムには、みゆきさんとしては初めてになるミュージカルへの提供曲6曲と、二十年来続けているコンサート『夜会』のために書き下ろされた7曲が収録されています。そのせいもあるのでしょうか、タイトル通りドラマチックな効果を狙った〈重量級の〉作品が並んでいるという印象です。みゆきさんの数多いアルバムのなかには、個々の作品の出来・不出来は別にして、アルバム全体として非常に気力の充実した傑作と、(中島みゆき作品としては)さほどではない凡作があるように思いますが、今回のアルバムは間違いなく傑作のラインナップに並ぶ1枚だと思います。

 最近のみゆきさんの歌を聴いて感じることは、最初に聴いた時の印象と、聴き込んだあとの印象とがまるで違うということです。どんな音楽でも耳に馴染めば聴きやすくなるということはある訳ですが、彼女の場合その印象の落差が極端であるような気がする。何故だろうと考えてみました。メロディーを聴いて五線譜を思い描ける人ならともかく、自分のように楽譜の読めない人間にとっては、繰り返し聴き込んでメロディーを脳細胞に刻みつけるしか音楽を理解する方法がありません。転調を多用する彼女の曲は、思いもかけない旋律がめまぐるしく展開して、初めて聴いた時には何だか適当に音符が並べられているだけのような気がしてしまう。それが5回、6回と聴き込むにつれてニューロン・マップがその旋律に合わせて形を変え、そうなるともう最初の印象は消え去って、まるで子供の頃からずっと親しんで来たメロディーのように自然なものとして聞こえて来る。この脳内変化の感覚はほんとうに鮮烈なもので、少なくとも私が知っている限りでは彼女以外にそんな音楽体験をさせてくれるアーティストはいない。今までに聴いたこともない斬新なメロディー、しかも耳に馴染めばずっと昔から知っていたような気がする懐かしいメロディー、これこそ理想的な音楽との出会いと言えるのではないかと思うのです。これは彼女が当代随一の作曲家であることの証だと私は考えています。よくサビの部分は非常に印象的な旋律なのに、その他の部分は平凡であるような作品がありますよね。これはたまたま思い浮かんだ旋律に、作曲家自身が負けてしまっているのです。ポピュラー音楽ばかりでなく、クラシックの名曲のなかにもそういった例はいくらでもあると思います。ところがみゆきさんの歌にはそれがない。これはすごいことだと思う。私の感覚では、そんな作曲家は中島みゆきと、もうひとり挙げるならモーツァルトくらいしかいない。

 LPレコード全盛の時代に育った音楽ファンには、好きなアーティストのアルバムをA面とB面とに分けて値踏みする習慣がありました。「やっぱり『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』のB面が頂点だよ」、「音楽性で言うなら『ブックエンド』のA面でしょう」、そんな会話がファンの間で交わされていたものでした。CDの時代になって、A面・B面という概念も無くなってしまった訳ですが、これは寂しいことです。曲数は増えて演奏時間も長くなったのに、ひとつの作品として提供されるアルバムには、なんというか句読点が無くなってのっぺりしてしまった感じがする。だから最近の人はアルバムをトータルな作品として聴かないで、試聴して気に入った楽曲だけをダウンロードするという聴き方をするようになった。まったく嘆かわしい風潮です。と言いながら、実は私も中島みゆきのアルバムに関しては、好きな曲だけをiPodにダビングして、自分なりのベスト集を作って聴いているのですが。何故そんなことをするかと言えば、彼女の場合には作品のバラエティと言うか、作風の幅が広過ぎて、自分の好みではないタイプの曲も多いからです。おそらく作者自身、1枚のアルバムをトータルな組曲のようなものとして構成するという指向をあまり持っていないのだと思う。まあ、熱心なファンのなかにはそれをまるごと受け止める度量を持った人もいるのでしょうが、とても私にはその境地に達することは出来ない。何の話をしているのかと言うと、今回の『DRAMA!』はA面が圧倒的に素晴らしいということが言いたかったのです。これも自分の印象ですが、これほど緊密で充実したアルバムの片面は、30年前の『親愛なる者へ』のA面以来ではないか?(笑)

 最初にも書いたように、今回のアルバムの前半の6曲(つまりA面)は、ミュージカル作品への提供曲です。私は未見ですが、杉原千畝を題材にした『SEMPO』というミュージカルだそうです。杉原千畝(すぎはらちうね)と言えば、第二次大戦中のリトアニアの外交官で、自らの政治生命を賭けてナチスの迫害から多くのユダヤ人を救ったという人です。自分にはそのくらいの知識しか無いのだけれども、それだけの史実を思い合わせてこの6曲を聴くだけでも、実に心に染み入るものがある。これは聴く側の想像力の問題ではありません、作者自身がおそらく1940年のヨーロッパの街角に身を置いて、そこにいた人たちに乗り移って曲を紡ぎ出しているのです。もともと中島みゆきという歌手は、すべての不幸な者、虐げられた者の代弁者として歌って来た人だと思います。失恋した女性の悲しみから始まって、すべての時代の、すべての人に共通した哀しみを一身に引き受けて歌って来た。ひとつの曲のなかでも、1枚のアルバムのなかでも、そして彼女の歌の全歴史のなかでも、こうした個人の小さな不幸の感覚を、人類全体の大いなる連帯の意識にまで拡大する動きがあって、そしてそれを歌い切ることで救いとカタルシスを聴く者の心にもたらして来た。私はそのように中島みゆきの歌の本質というものを理解しています。そういう彼女にとって『SEMPO』のテーマは実にうってつけのものだった。誰がこの企画をみゆきさんのところに持って行くことを思い付いたのか知りませんが、これだけの傑作となって結実したのですから、この企画は大当たりでした。この私の感想を大袈裟だと思うのなら、ぜひ『掌』や『愛が私に命ずること』といった曲を心を澄まして聴いてみて欲しい。

 ということで私はこのアルバムのA面にぞっこん惚れ込んでしまった訳ですが、これに対してB面の方、つまり後半の7曲はだいぶ趣きが違います。いい意味でも悪い意味でも、ここ二十年間の中島みゆき作品を特徴づけているのは、『夜会』というコンサートへの「出品」が曲づくりの動機としてあったことではないかと思います。いわば「舞台受け」する作品を目指すという方向で、これがあまたのスケールの大きな傑作を生んで来た。今回の7曲もこれがステージで歌われたらさぞ映えるだろうと感じさせる佳作ぞろいなのですが、でも、何故だろう、私はその歌の世界に没入することがどうしても出来ないのです。例えば『十二天』や『らいしょらいしょ』なんて、実にユニークな中島みゆきでなければ書けない傑作だと思います。ただ、これは多分に私自身の趣味の問題でもあるのですが、何故杉原千畝に感動したあとに、こうした曲を聴かされなければならないのかとも思ってしまう(笑)。傑作であるのは認めるけど、なんだかありあまる才能の濫費といったものを感じてしまうのです。もっと端的なのはアルバムの最後に置かれた『天鏡』という曲です。ふたつのコンセプトによって成り立っているこのアルバムには、2曲の終曲があります。前半を締めくくる『NOW』とこの『天鏡』です。前者はコーラスを実に効果的に使った重厚な曲で、同じくコーラスに乗せて歌われた過去の傑作『世情』などと比べても遜色がない作品だと感じました。が、後者の方はメロディーも悪くないし曲も盛り上がるのだけれども、歌詞の内容は凡庸だし、いかにもアルバムの最後を飾るために技巧的に作られた曲という感じを否めないのです。例えてみれば宝塚歌劇のフィナーレといった印象(なんて言うと宝塚ファンの方に失礼ですね)。

 個人的な希望を言えば、今回のアルバムはふたつの別の作品としてリリースしてもらいたかった気がします。そうすればアルバム『SEMPO』の方は、これまでのみゆきさんのアルバムのなかでも最高の作品になっていたのではないかと思います。もちろんアルバム『夜会』の方も魅力的であるには違いありません。ただ、これだけは言えると思うことは、36枚もの傑作を生み出した後では、もう「愛」だとか「悲しみ」だとかいった抽象的なコトバに頼っていたのでは、みゆきワールドも限界に来ているのではないかということなのです。今回、『SEMPO』というテーマを与えられることで驚くほどの傑作が生まれたのを見て、私はそのことを確信しました。私が今年出会ったもう1枚の傑作アルバムに宝達奈巳さんの『16 Years Later』があります。これは作者がトールキンの作品を(朗読を通して)徹底的に自分自身に叩き込み、それを長い時間をかけて発酵させた末に生み出された作品集でした。これは現代における詩的創造のための重要なヒントだと私は思ったものです(ブロガーとしての自分に対する自戒も含めてそう思いました)。中島みゆきクラスの天才になると、インプットが少なくてもオリジナルな作品があふれるように生まれて来るのでしょうが、やはりマンネリの時期は来る。ひとりのファンとして、私はこれからの中島みゆきさんが、第二、第三の『SEMPO』とめぐり逢えることを願ってやまないのです。

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2009年11月22日 (日)

いっそ「天下り専用法人」を作ったら?

 多分に政治的パフォーマンスじみた「事業仕分け」の討論のなかで、民主党議員が天下り官僚の人数を執拗に問い質している場面がありました。あれを聞いて違和感を覚えたのは私だけではないだろうと思います。ある公益事業がムダであるかどうかを決めるのは、その事業体に所属する天下り官僚の数とは関係が無い筈のものだからです。どうもこのところ「天下り」だとか「渡り」だとかいうコトバが、官僚いじめの殺し文句としてひとり歩きしている感がある。ふつうに当たり前に考えてみれば、公益法人にだって無くてはならないものがたくさんあるし、その中には専門性を持った天下り官僚を人材として必要としているところもあるのではないかと思います。ステレオタイプに描かれるような、「天下り先確保のためだけにそれほど必要性の無い公益法人を作り、そこの役員として天下り官僚が収まり、週に1日か2日それも午前中だけの出勤で年収1千万円以上を貰っている」、そんなパターンはむしろ例外なのではないかという気がします。(そうでもないのかな?) 天下りをするのは何も役員級の大物官僚ばかりではない訳ですし、現役時代に培った知識や人脈などを活かして比較的安い給料で滅私奉公的にハードワークをこなしている元官僚の人たちだって、きっとたくさんいるに違いないと思います。(むしろそう信じたい。)

 私の場合、親戚にも知人にも公務員という職業の人がほとんどいないので、実態がどうなっているのか分からないのですが、ちょっと調べただけでも国家公務員の人事制度はとてもヘンです。若い頃に受けた試験で「キャリア」と「ノンキャリア」という身分に截然と分けられてしまい、ノンキャリはいくら頑張っても出世は課長止まり、キャリアは実績を上げていなくても自動的に出世して行くが、組織のトップにまで昇りつめられるのはひとりだけなので、競争に敗れた人は早々に関連法人に天下りして行く。一応定年は民間企業と同じで60歳ですが、定年が見えて来た頃からは早期退職勧奨というのを受けて、一般職員でも定年を待たずに関連の政府系組織に移って行くのが慣行となっている。(認識が間違っているようでしたらご指摘ください。) こういう仕組みが、働く人に気分よくいい仕事をさせるためにふさわしいものであるかどうかは今回は措きます。問題は、各省庁の抱えている公務員の数が、現実的に多過ぎるのだろうということです。おそらく公務員の仕事は、民間企業以上に中高年になると適応が難しいといった仕事ではないと思います(認識が間違っていたらご指摘ください)。民間でもパフォーマンスの低い社員は肩叩きの対象になりますが、公務員の退職勧奨というのはそれとは意味合いが違います。もともとはその省庁の業務に必要とされる以上の職員を雇い入れていることに問題の大元はあるのだと思う。(そうでなければ、職員を定年まで手放す理由は無いのだから。) 民主党は、天下りを無くすために公務員の60歳定年を守らせる方向で検討しているようです。それは採用する公務員を減らす政策とセットにすれば、将来的には正しい制度改革の方向になるでしょう。が、これによって公務員の数が適正なものになるためには数十年を要します。その間の施策としては、何か別のアイデアを考えなければならない。

 現下の政治的情勢のなかで、いわゆる「天下り法人」の評判が悪いのには、それなりの理由があるのだろうと思います。ほんとうに省庁が権益確保を主目的に(天下りも権益のひとつ)公益法人を作る場合もあるでしょうし、縦割り行政のなかで機能が重複した法人が複数存在している事実もあるのでしょう。すでに事業として意義の薄れたものに対しても、組織を維持するために貴重な税金が費やされている例だってたくさんあるに違いない。いま民主党は、大なたを振るってこれらの公益法人からムダな事業費を取り上げようとしている訳ですが、気を付けなければいけないのは、削られるのは「事業費」であって、組織を維持するための人件費や経費はその中には含まれないということです。どんなデタラメな公益法人だって、社会への貢献がまったくゼロのところは無いでしょう。100の予算を注ぎ込んで20の公益しか生み出さない法人が事業仕分けで予算を20削られたら、80の予算は人件費と経費に消えて、何も事業が遂行出来ないのでアウトプットはゼロになる。これは行政のコスト効率を悪くするだけの愚策中の愚策だと言えます。もしもコスト効率の悪い事業は、組織ごと解消して人件費もゼロにするというなら筋は通ります。が、さしもの民主党にだってそこまでの大なたは振るえないだろうし、仮にそれをやれば官製の失業者を巷にあふれさせるだけの結果になる。長い目で見て「事業仕分け」のようなものが必要なのは確かだとしても、単年度の予算確保のためだけにそれをやるのは弊害の方が大きいのではないかと思います。むしろ早急に手を打たなければならないのは、過剰な人員を抱える行政機関全般の人事対策についてです。

 ということで、今回書こうとしているネタはもうバレてしまっていると思いますが(笑)、要するに問題は公務員の余剰人員をどうするかということですから、今後は「事業ありき」で公益法人を作るのは止めて、天下り役人の受け皿となる、むしろそれだけを目的とした専門の行政法人を作ってしまえばいいのではないか、ということなのです。名付けて「セカンド・キャリア促進機構」。ふざけている訳ではありません。工程表はこうなります。まずは公務員の既存の公益法人への天下りを全面禁止にする。それだけで実質定年を延長すれば、各省庁には窓際族(死語?)のおじさん・おばさんが増える一方ですから、退職勧奨を受けるくらいの年齢になった職員はこの新しい行政機構が一手に引き受けることとする。場所なんか全国にいくらでもある国有施設の空いているフロアでよろしい。準備するものは職員分の机とパソコン、それに会議室とロッカーがあれば十分。これなら大した費用もかかりません。この組織に「天下った」職員は、給料が多少下がるのも仕方ありません、いまどき民間でも出世コースから脱落した中高年は給料が下がるのが当たり前ですから(私のことです。泣)。ここではキャリアもノンキャリも待遇面での差別は一切受けないものとします。つまり同じスタートラインからの再出発となる訳ですね。行政機関にありがちなヒエラルキカルな組織体制は避けて、なるべくフラットな組織づくりを目指しましょう。もちろん省庁ごとに組織を分けるなんてことはしない、国でひとつだけの特定目的法人になります。つまり、そこでは様々な経歴や専門性を持った、出自の異なる公務員の方たちが一堂に会することになるのです。

 で、この新しい行政法人が具体的に何をするのかと言えば、何もしません。いや、予算を取って執行するという意味では何もしないのです。ここは純粋な企画立案機関になります。親会社や上部組織からテーマが与えられる訳でもない。ここに配属された人は、組織のなかで同志を募ってプロジェクトを立てるか、あるいは既存のプロジェクトに加わり、自らの専門性を活かしながら企画書の作成に携わる。企画の内容は、政府に向けた政策提言でもいいし、出身組織に向けた業務改善の提案でもいいし、どこかの行政機関に向けた官民連携の新しいフレームワークづくりといったものでもいい。とにかく「日本を良くする」という目的に沿ったことなら何でもいいのです。そして優秀な企画は実際の政策として採用されることになる訳ですが、政策実施に対しては自らは一切関わらない。組織にはその予算は与えられていないからです。要するに目指すところは、政府系のシンクタンクという地位です。日本はアメリカなどと違って政権を補佐する政府系シンクタンクが無いと言われますから、ちょうどいいじゃないですか。日本の公務員の方たちは、学歴も高く非常に優秀な人たちである筈です。私は、この組織は日本最高のシンクタンクになる可能性を秘めていると思います。最高という意味は、最も優れた理論や戦略を描けるという意味ではありません、最も深くこの国の将来を憂い、滅私奉公でこの国のために働ける人たちが集まっている組織はここ以外にはあり得ない、そういう意味です。もちろん成果主義は取り入れますが、総じてここでは給料が安い。高給を望む人は民間のコンサルティング会社にでも行けばいいのです。ここで働く人たちを動機づけているのは、若い頃に公務員を志した、その時と同じ「志」です。国のために働くことを決意した公務員にとって、これ以上の理想の天下り先というものが考えられましょうか?

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2009年11月15日 (日)

マスコミは機能不全に陥っていないか?

 民主党が進めている「事業仕分け」が連日新聞やニュースを賑わしています。政府の事業の15パーセントに当たる447事業に関し、予算削減または廃止の決定を公開の場で行なって行くというものです。これに対して受けて立つ官僚側からは、まるで「公開処刑」のようだという怨嗟の声も聞こえています。まさに予算獲得が生命線だという役人の本音が出たものでしょう。事業仕分けというものが、もともと民主党が計画していた既定の路線だったのか、思いのほか予算がふくれ上がってしまったために採用せざるを得なかった窮余の策なのかは分かりませんが、〈このようなもの〉が現在の官僚主導政治のなかではぜひとも必要だったという認識においては、多くの国民が一致しているのではないかと思います。なにしろ役人の予算要求をろくに吟味せずに通して来てしまった前政権の怠慢が、800兆円という政府の累積赤字を生んでしまった訳ですから。ところが、新聞の報道などを見ていると、これに対するマスコミ各社の立ち位置は微妙なようです。ニュースネタとしては面白いので大きく取り上げられますが、報道各社がこれを評価するのか批判するのかがよく見えて来ない。いや、この問題に限らず、民主党が政権を取ってから取り組んでいる一連の活動に対して、マスコミは報道はすれども評価は保留という、及び腰の態度に留まっているように見えます。

 私は民主党の政策を支持するかどうかという以前に、ようやく日本の政治もまともに歯車が回り出したと考えるのですが、マスコミは相も変わらず(ゆるい)政権批判に終始していて、政治の変化の速さについていけていないような印象があります。むしろいま試されているのはマスコミの方なのではないだろうかとさえ思うほどです。自民党政権が半世紀以上も続いたので、日本のマスコミは権力に対して一定の間合いを取るだけでジャーナリズムとしての体をなすことが出来ていた。ところが、思いもかけず政権交代が起きたために、マスコミ各社はいま自社の立ち位置を見失って、民主党が矢つぎ早に繰り出す政策にどう対応していいか分からず、歯切れの悪い記事を垂れ流しているだけの状態に陥っているように見える。私は思うのですが、現在のような政治状況のなかでこそ、マスコミは民主党の個々の政策に賛成するのか反対するのか、真正面からコミットするべきではないでしょうか。例えば私が毎日目を通している朝日新聞の社説や「天声人語」などを読んでも、この点がまったく伝わって来ません。もしかしたら、ジャーナリズムというものは時の権力に対して一定の距離を保ち、批判の目を向けることに存在意義がある、そういう基本姿勢を報道各社は持っているのかも知れません。それはそれでひとつの見識かも知れませんが、おそらくそのような風見鶏的なマスコミのあり方では、これからの時代、読者・視聴者の心はつかまえられないだろうと思います。

 以前から感じている素朴な疑問です。朝日新聞と産経新聞とは、同じ日本の大手新聞社のなかでも、まったく対照的な立場に立つ新聞社だと考えられています。朝日がリベラル・左翼的な立場を代表しているのに対し、産経は保守・右翼的な立場を代表している。そのことは事実として間違いの無いことだとして、その政治的な立場は紙面のどこか、あるいはホームページの目立つところにでも公表されているのだろうか。例えば、「朝日新聞は憲法改正に反対します」、あるいは「閣僚の靖国神社参拝は認めません」、「温暖化ガス25パーセント削減を支持します」、そんなはっきりした宣言文が掲載されているなら、マスコミの無責任体質もずいぶん改善されるのではないかと思うのですが。政党のマニフェストを批判するより先に、まずは自社のマニフェストをはっきりさせろと言いたい。このところ特に若い人を中心に新聞離れが進んでいるということが言われていますが、もしもどこかの新聞社がその政治的立場を明確に宣言し、旗幟鮮明にするという企業戦略に転換したら、それだけで発行部数の低下にも歯止めをかけられるのではないかという気がします。(もちろん、この戦略で半分の読者を失う訳ですが、すべての読者を失うよりはマシな筈です。)

 そもそもうさん臭いのは、明確なマニフェストも無しに何故ひとつの新聞社が一貫した政治的立場を堅持していられるのかということです。入社試験や面接では、応募者は思想信条をチェックされ、それが採否の大きな目安になっているのだろうか? きっとなっているのでしょう。しかし、新聞社は決してこの判定基準のことを公開しません。また運よく記者として入社しても、記事は上層部の検閲を受けて、社の方針に合わないものは書き直させられるかボツにさせられるかなのだと思います。私はそのこと自体は構わないと思っています。もしも新聞社にも守るべきマニフェストがあるなら、それに反する記者や記事を黙認する訳にはいかないというのは道理に適っているからです。問題は、そのような選別や検閲が明示された基準の下にではなく、不明瞭な暗黙の了解の下に行なわれていて、それが得体の知れない社風として確立されているのではないかということです。自分の愛読する新聞が、そのような隠された思想的統制のなかで運営されているのなら、これはたまらないことです。(かと言って、一部の特定読者を対象にした機関紙のように、思想的に旗幟が鮮明過ぎることも問題ではありますが…)

 もしも自分なりに今の新聞のあり方を改善する方向性を考えるなら、記事はすべて記者の名前を入れた記名記事にして欲しいということがあります。社風・社是といった暗黙の思想統制の下で匿名記者が記事を書いているというのは、考えてみれば読者にとって最も信用の置けない構図です。もしもすべてが記名記事になるなら、新聞社は多少自社の方針に合わない記事でも、それが優秀な記事なら掲載するという度量を持てるようになるかも知れない。それは硬直的な思想方針に対して良い変化を与えるだろうし、また全体として記事の品質を高めることにもつながるだろうと思います。(新聞で記名記事の原則を守っているのは、たぶん競馬新聞だけです。勝ち負けのはっきりした世界だし、責任所在の明確さは一般紙も見習うべきですね。笑) とにかく政治の世界でもマスコミの世界でも、現代の有権者や読者・視聴者の支持が一番得られないパターンは、裏で得体の知れない権力がうごめいていると感じさせることにあります。民主党はいまこれに果敢に挑戦しようとしている。そのことについては、私は100パーセント支持したい気持ちなのです。(その点から言っても、小沢一郎氏には一刻も早く引退して欲しいと思います。) マスコミがこの世の中の流れに追従出来ないのであれば、インターネットの隆盛に押されるまでもなく、自ら自滅するかたちで新聞・テレビは没落して行くことになるだろうと予感するのです。

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2009年11月 8日 (日)

国は外国人看護師・介護士を追い返すな!

 以前から気になっていた問題です。今週月曜日の朝日新聞1面に、看護師、介護福祉士として働く希望を持ってインドネシアから来日した人たちが、資格試験を受けるのに言葉の壁で苦しんでいるという記事がありました。昨年から日本とインドネシアは、政府間で福祉関係の人材受け入れに関する協定を結んでいたんですね。この分野での人手不足に悩む日本と、労働者に十分な職を提供出来ないインドネシアの利害が一致したということなのでしょう。外国から福祉分野の働き手を受け入れるという話を最初に聞いた時、自分たちの親の世代を自分たちで面倒見ることも出来ない今の日本というのは、ほんとうに先進国と呼べるのだろうかと思ったものでした(もちろん自分自身の反省も含めてです)。一方で、(自国内に仕事が乏しいからとは言え)わざわざ言葉も通じない外国にまで来て、老人ホームや病院で働こうというかの国の若い人たちのことを想うと、ありがたいやら申し訳ないやらで、素直に頭を下げたい気持ちになったものです(多くの日本人が同じように感じたのではないかと思います)。昨年来日した彼らは、いまは研修生として各地の施設で学びながら働いている訳ですが、決められた期間内に資格試験に合格しないと強制的に帰国させられることになっている。今年実施された看護師の国家試験では、82人が挑戦して合格者はゼロだったと言います。

 家人が福祉施設で働いているという関係もあって、社会福祉士・介護福祉士の試験問題集を覗いてみたことがあるのですが、その範囲の膨大さと設問の難しさに仰天した覚えがあります。とにかく福祉に関する歴史や法律や制度について、微に入り細に入り専門知識を問う問題ばかり。何冊もあるぶ厚い参考書を丸暗記していなければ満点は取れそうもない、働く現場ではまったく役に立ちそうも無いトリビアを延々1日かけて試される、そういう試験なのです。専門学校を出た日本人でさえ合格率50パーセントの難関です。そこにさらに言葉の壁が立ちはだかる。「褥瘡(じょくそう)」、「仰臥位(ぎょうがい)」なんていう日本人にだって難しい専門用語を来日して2、3年のインドネシア人が読み解かなければならない。新聞社の行なったアンケートでは、研修生を受け入れている施設の7割以上が、試験に際しては英語か母国語での受験を可能にする、せめて漢字には振り仮名をつけるなどの配慮をして欲しいと答えているのだそうです。ところがこれに対する厚生労働省の見解は、「日本の法令に沿った資格付与が協定で決まっており、試験水準を下げることは考えていない」というものでした。この問題については、とにかく腹立たしい気持ちが先に立ってしまうのですが、自分が何に対して腹を立てているのかがはっきりしました。この杓子定規な官僚主義まるだしの、厚生労働省の役人どもに対して腹が立っていたのだった。

 おかしなところはいくらでも指摘出来ます。例えば試験問題を英語やインドネシア語に翻訳したからと言って、何故それが「試験水準を下げる」ことになるのでしょう? 看護や介護の現場では、言語コミュニケーションが重要なのは確かですから、日本語を理解出来ることが資格付与の条件のひとつだというなら話は理解出来ます。でもそれならそもそも海外からの人材受け入れに関する協定など結ぶべきではなかったということになる。むしろ厚生労働省としてはこの協定を受けて、研修生の日本語教育についても十分配慮し、制度を整えていくのが筋というものでしょう。昼は施設で働きながら、夜は試験勉強と言葉の習得に励み、3年で結果を出せなければ強制帰国というのでは、あまりに過酷過ぎます。もうひとつおかしいのは、介護福祉士の資格というのは国家資格とは言っても、それを持っていなければ福祉施設で働けないというものではないということです。せいぜい就職に有利といった程度の資格に過ぎないのです。看護師の方は医師免許と同じで、病院で医療行為を行なうためには必須の資格ですが、資格の要らない看護助手として働きながら看護師を目指すという道もある。実際に研修生を受け入れている施設の多くで、試験に対する特別の配慮を求めているということは、彼らがすでに福祉の現場で認められるいい仕事をしていることの証拠だと思います。行政側の都合で3年で送り返す必要など無いのです。何故、政治の場で決定されたことを、こうして官僚は骨抜きにしてしまうのか? ちなみに、介護福祉士の資格試験を実施している「社会福祉振興・試験センター」や、外国からの研修生の受け入れ業務を担当している「国際厚生事業団」などは、厚生労働省の役人の有力な天下り先であることも覚えておく必要があるでしょう。

 泥くさく人間くさい福祉という分野は、官僚主義とは最も折り合いのよくない分野である筈です。ところがそこはまた官僚主義が最も介入しやすい分野でもあるのです。何故かと言えば、福祉というのは公費の支えが無ければ産業として成り立たない分野だから。役人が口出しをし、自らの利権をそこに張りめぐらすことで、日本の福祉は大きく歪められ損なわれてしまっている。私たち国民は、そこにきちんと監視の目を向け、おかしなことについては声を上げていかなければならないと思います。今回の外国人受け入れのことだって、決して小さな問題ではありません。せっかく日本で学んだ研修生を3年で追い返すということは、単に公費の無駄づかいに当たるだけではない、本来なら日本とインドネシアの友好のかけはしとなってくれる筈の若い人たちを、日本嫌いにして母国に送り返すだけの結果になる可能性だってあるのです。これが長い目で見て、どれだけ国益を損なうことであるか、考えてみれば誰にでも分かることでしょう。インターネットで検索したら、研修生はインドネシアからだけでなく、すでに第二陣がフィリピンからも来日しており、近くタイとも同じ内容の協定を結ぼうとしているという記事が見付かりました。だとすればこれは将来の「東アジア共同体構想」にも影響を及ぼさずにはいない問題です。私は鳩山由紀夫という政治家は支持しないけれども、彼が掲げた「友愛にもとづく社会」という理念については無条件で支持します。厚生労働省が所管する福祉行政は、友愛社会を実現するために最も重要な役割を担うものである筈です。最近は長妻大臣もお疲れ気味の様子で、いまが正念場ではないかと思いますが、ぜひこの問題にも目を向けていただきたいものだと思います。

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2009年11月 1日 (日)

持続可能な社会に向けた企業モデル

 環境持続性とこれからの企業のあり方について考えるつもりが、「肉食経済/草食経済」というコトバを思い付いたためにテーマが脱線してしまいました。前々回の課題認識に戻って、もう一度これについて考えてみることにします。もしも製品の「古びる」、「傷む」、「腐る」速度をうんと遅らせることが出来るなら、商取引がフェアなものに近付くと同時に、環境にも優しい社会が実現するかも知れない。但し、それはモノがなかなか売れない時代の到来とも言える訳で、企業はそういう時代をどうやって生き延びることが出来るのか、これが先に私の立てた課題でした。もちろんこれからの社会がそうした方向に自然に向かうとは考えられません。よほど思い切った環境税でも導入しない限り、環境持続型の産業構造に移行する経済合理性が無いからです。しかし、日本は他のどの先進国にも増して、真っ先に資源枯渇という試練を受ける運命にある訳ですし、また自らにCO2の25パーセント削減という高いハードルを課してしまった訳ですから、国だけでなく企業や個人も省資源、低炭素、低環境負荷という方向に向かって全力で突っ走らなければならない。そこでの努力や工夫が、半世紀後には世界中が求める技術や製品や企業モデルとなって結実するに違いない、そういう希望にイチかバチか賭けるしかないのです。

 あまりいいアイデアも浮かばないのですが、もしも日本がこの方向転換をうまく成し遂げたとして、その時に企業のあり方はどういうものになっているか、少し想像してみたいと思います。まず思いつくのはリサイクル分野の事業を拡大するという方向です。製品のリサイクルと言えば、エコロジーの文脈で論じられる場合がほとんどですが、むしろ経済格差が当たり前の前提になるこれからの社会で開拓すべき有望な市場として捉えられるべきものです。例えば自動車がいまの社会でこれだけ広く行き渡っている理由は、中古車売買の市場が確立されていてうまく機能しているからだと考えられます。もしも中古車を買うという選択肢が無ければ、多くの世帯はマイカーを持つことも出来なくなる訳ですから。(我が家には中古車すら無いけど。笑) 日本中が構造改革一色だったころ、経済学者はトリクルダウン理論なるものを主張していました。経済が成長して、企業や金持ちが潤えば、そのおこぼれが貧乏人にもしたたり落ちて来るというのです。ウソでした。経済指標上はいざなぎ景気を抜く長い好況期が続いたにもかかわらず、貧困は拡大し深刻化したのです。でも、お金というものはトリクルダウンしないことが分かったけれども、自動車の例を見ても分かるとおり、中古製品というものは流通する仕組みさえあれば実に自然にトリクルダウンするんですね。だとすれば、環境対策のためだけでなく、経済格差是正のためにも、この分野にテコ入れすることは国としても重要な政策になると考えていい訳です。またこれはメーカーにとっても実は悪いことではない筈です。もともと中古車を買う世帯はレクサスの新車は買わないのだし、中古市場でクルマが売れるからこそ買い換え需要だって活気づく訳ですから。メーカー自身がリサイクル事業に乗り出したっていいし、市場が大きくなれば関連事業で稼ぐことだって出来ます。

 またこれはグローバルで見ても重要な戦略になると期待出来ます。最近、中国やインドの新興自動車メーカーが、驚くほどの安さで新車を売り出そうとしています。いくら日本の自動車メーカーが合理化に励んでも、軽自動車を21万円で売り出すインドのタタ社にはかないません。でも、よく考えてみてください、タタの新車とよく手入れされたスズキやダイハツの中古車が同じ値段だったとしたら、あなたはどちらを買いたいと思うでしょう? 信頼性や快適さを求めるなら、たとえ5年落ちの中古車でも日本車に一日の長があるように思うのは単なる身びいきだろうか? 過去を振り返れば、すでに自動車や家電製品といった分野では、メードインジャパンの中古品が世界を席捲していた時代があった訳です。もしもそれだけの需要がまだあるならば、むしろリサイクル製品にもメーカーの保証を付けて正規の販売ルートで売る選択肢を考える方が正解だと思う。ベンツやポルシェに中古市場は似合わないけれど、日本車は中古車でも故障が少なくメンテナンスも簡単で実によく働いてくれる、そういう評判によるブランドが確立出来れば、これからの時代の世界戦略としても十分通用するのではないか。しかも環境性能において、日本製品は他の追随を許さないということになれば、「ものづくりニッポン」のステータスは今後さらに高まる可能性さえあります。これを実現するためには、日本のメーカーは国内の飽きっぽい消費者だけをターゲットにしていたのではダメで、製品における基本的な品質や耐久性、そして販売後のメンテナンス性という地味な部分での実力をふたたび取り戻さなければならない。

 そしてもうひとつたいせつなことがあります。私たち消費者の方も持続可能な社会に向けて意識を変える必要があるということです。最近日本語の「もったいない」というコトバが、海外で脚光を浴びているそうです。これに当てはまる外国語の訳語が見当たらないんだそうです。日本独自の価値観だというのですね。しかし、過去はともかく現代の日本人がこのコトバを心に刻んで生活しているとはとても思えません。アメリカでサブプライム問題が起こった時、ローンの上にローンを重ねて身の丈に合わない生活をしていたアメリカ国民を、私たちは一種蔑みの視線で見たものでした。が、多くの日本人が感じたことではないかと思いますが、この点に関してだけはアメリカの方が日本よりもずっと健全で羨ましいと思ったことがあります。それはアメリカでは中古住宅の価格がそれほど下落しないらしいということです。アメリカ人は自分の住む家の手入れをこまめにして、よく手入れされた中古住宅はむしろ新築の時よりも値段が高くなることがあると言います。日本では信じられないことです。この点、日本の業界事情はほんとうにひどくて、住宅は新築の時が一番高くて、その後はほとんど値崩れと言ってもいいほどのスピードで価値を落としてしまう。いくら日本の住宅が木造中心でもともと耐久性が低いと言っても、こんなことになったのはここ数十年の傾向ではないかという気がします(調べた訳ではありませんが)。「女房と畳は新しい方がいい」という古い俚諺がありますが、昔の人は畳替えをしただけで十分快適な住居ライフを送れるだけの精神的ゆとりがあったのでしょう。持続可能な社会に向けて、現代日本人の持つこの「ブランニュー信仰」は見直す必要がありそうです。

 日本人の多くが、せっかく買った住宅の価値下落にストレスを感じているとすれば、そこにビジネスチャンスがあります。少子高齢化と並んで、これからの日本経済の重い足枷となるだろう問題に、分譲マンションの老朽化という問題があります。新築の時には最新の住居設備を備えた夢のような住まいに思えたものが、築数十年を経てさまざまな不愉快なトラブルが起こった挙句、いよいよ建て替えという話になる。しかし、住んでいる人たちはもう高齢化していて、それだけの資力も持っていない。住民のあいだには建て替え賛成派と反対派の対立も起こって、人間関係も険悪になる。もしもそんなことが頻繁に発生して社会問題化するようなことがあれば、新築マンションだって全然売れなくなってしまうに違いありません。そんな時代に新しくマンションを売ろうとするなら(人口が減るこの国では、そもそも高層住宅自体が不要になる気もしますが)、とにかく建物のメンテナンス性を徹底的に高めることと、数十年後の解体・建て替えまでのライフサイクルを購入者に説明して、安心感を与えることが何より重要になると思います。それも販売会社がそれを保証するというかたちではなく(そんなものは誰も信じない)、技術開発によって商品(マンション)の物理的な性能の一部に保守性や解体性を組み込んでおくことで将来を保証するのです。(例えば規格化され安価に交換出来る上下水道ユニット、隣室に迷惑をかけずに内装工事が行なえる完璧な遮音性、取り壊し費用が安くてしかも耐震性抜群の建築構造、等々。) もしもこれが実現すれば商品として魅力的だし、そうした新しい工法で建てられた建造物が一般化すれば、これも持続可能な社会に向けたジャパン・スタンダードとして世界に売り出せるものになる筈です。

 とにかく重要なのは、製品のライフサイクルを生産から廃棄に至るまで責任を持って設計しておくことだと思います。2012年に完成が予定されている「東京スカイツリー」は、634メートルという世界一の高さを誇る建造物になるそうです。このところ明るい話題の無い日本経済に、景気回復に向けた刺激を与えてくれるならそれは結構なことです。が、私はペシミストなのでこんなことも考えてしまう、まったく保守費用も取り壊し費用もバカ高そうなこんな巨大建造物を押し付けられることは、将来の日本人にとってどれほど迷惑なことだろうと。東京スカイツリーのホームページを見てみましたが、建築後のメンテナンスのことや、まして遠い未来の取り壊しのことなどにはひと言も触れられていません。世界にアピールする21世紀の建築物として、これはおかしいのではないかと私は思います。世界一の高さなんてことは別に誇れることでもなんでもない(どうせすぐに抜かれてしまうでしょうから)。むしろ大事なのは建築後のことです。もしも建築後のライフサイクル・プランがすでに出来ているなら、それは広く公表しておくべきだし、それが無いなら建築計画全体を変更してでも新たに組み込むべきです。墨田区は新東京タワーの誘致に成功して大喜びしているかも知れませんが、例えばこれの耐用年数が百年だったとして、百年後の墨田区民が老朽化して倒壊の危険性さえある化け物タワーのふもとで怯えながら暮らしている様子も私たちは想像してみなくちゃいけない。持続可能な社会を構想するということは、自分たちが死んでしまったずっと後の時代の、私たちの子孫の生活を想像することに他ならないと思うからです。

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