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2009年10月25日 (日)

「肉食経済」から「草食経済」への転換を

 年利5パーセントの利子によって駆動される経済は、必然的に年間5パーセント以上の成長や拡大を要求される経済でもあります。もしも金融資本に支払う利子というものが無くなれば、常に成長に向かって追い立てられる経済からも脱却出来る。これが自由経済思想(シルビオ・ゲゼル)や社会信用論(C.H.ダグラス)が目指した方向でした。経済が成長の呪縛から逃れることが出来れば、現在よりはもっとゆったりとした、環境にも優しい社会が実現出来そうな気がします。最近、「草食男子」なんていうコトバが流行していますが、これをもじって言えば、「肉食経済」から「草食経済」への転換ということが、これからの社会が目指す方向になるのではないでしょうか。しかし、ひとりの生活人としては果てしない競争経済からの離脱に憧れを感じる部分があるとしても、社会全体として見た場合に成長を止めた縮小均衡の経済が果たして持続可能なものとして成り立つのかどうか? この点はよく考えてみる必要がありそうです。私自身、これまでにこの問題を深く考えたことはなかったので、何か持論といったものがある訳ではありません。とりあえず今回は、この問題をめぐるいくつかの論点を思いつくまま書いてみたいと思います。

 「肉食経済」だとか「草食経済」なんてコトバは単なるシャレに過ぎませんが、これは時代の気分を捉えるためには便利な符丁かも知れないので、少しこれに沿って考えてみましょう。肉食経済というのは、要するに規模を求める経済のことです。二十世紀最高の経営者と言われたゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェルチさんは、事業の「選択と集中」ということを経営のポリシーに、大胆なリストラと企業買収をドラスティックに推し進めました。彼によれば、ある事業分野で最終的に生き残れるのは、世界第一位と第二位の企業だけだというのです。だからもともと強みの少ない事業からは潔く撤退して、すべての経営資源を強みのある分野に集中させた。その結果、在任期間中に売上高を6倍にまで高め、GEを収益世界一の会社にしたのです。究極の肉食戦略とでも呼ぶべきものですね。ジャック・ウェルチ氏と言えば、彼が社長を退くときの後継者選びのやり方が印象に残っています。30万人の社員の頂点に立つ次の経営者を決めるのに、氏は各事業分野の有力者を名指しで選び出し、互いに競わせました。そしてそのなかの一人が勝ち残ると、なんと敗れた競争者の方は解雇したのです(もちろん相応の持参金はつけたのでしょうが)。おそらく自分が去ったあとの組織の内紛を恐れたのでしょう。まさにライオンの群れを思い起こさせる「肉食企業」の論理です。

 これに対して、もしも「草食企業」というものがあるとすれば、それはどんな会社になるでしょうか。これが典型的という例を思いつくことが出来ないのですが、私がイメージするのは例えばビル・トッテンさんが経営する会社です。「オバマ大統領の政策で、唯一評価出来るものはホワイトハウスの庭に家庭菜園を作ったことだ」といった小気味いい文章を書かれるトッテンさんは、私が敬愛するエッセイストのひとりでもあります。(過去に何度か記事を引用させていただいたことがあります。) そのトッテンさんは、1972年に日本国内で起業されて、経営はいまも順調に続いている。社員数800人の堂々たる会社です。経営のポリシーは、業績の悪化によって社員を解雇することはしない、利益は経営陣への報酬や株主への配当よりも社員に還元することを優先する、その代わり業績が思わしくない時には社員全員の給料を削ってみんなで耐え忍ぶ、残業はなるべく少なくして社員ひとりひとりがプライベートな生活を大事に出来るよう支援する、そして社長自らが実践しているように社員にも家庭菜園を始めるよう奨励したりしている。こちらに社員の方のコメントが載った記事がありますが、社内の様子はとてものびのびしていて楽しそうです。実は私もトッテンさんの会社と同じ業界の人間なのですが、どうせならこの会社の社員だったら良かったのにと思わずにはいられません。(笑)

 もちろんビル・トッテンさんの会社が草食スタイルを貫いていられるのには、経営者のポリシーだけではない理由があります。コンピュータのソフトウェア開発というのは人材だけが頼りの業態で、例えば電機や自動車や薬品メーカーのような大規模な先行投資が必要ない、「その日暮らし」が可能な分野だという点です。(同じソフトウェア業界でも、大型のパッケージ製品を開発する会社は、先行投資=ハイリスク・ハイリターン型の製造業に近い業態と言えます。) おそらく世の経営者のなかには草食スタイルの会社運営に親近感を覚えている人も多いのではないかと思いますが、それが許されないのは今日の高度な技術社会においては、研究開発や設備投資にかかる費用を最初に銀行から借りて来なくてはならないという理由によります。年利のついた借金を返すためには、金利以上の利益をコンスタントに上げ続けなければならない。(いまがゼロ金利だなどというのは、銀行にお金を預ける場合のことであって、借りる時にもゼロ金利の訳ではありませんからね。) 要するに、銀行からお金を借りた瞬間から、企業は弱肉強食の経済原理のなかに投げ込まれてしまう。いくら社長さんが社員の生活を第一にと言っても、ライバル企業に打ち勝って売上を確保するためには、新しい機械も買わなくちゃならないし、リストラだってしなくちゃならない。あるいは最近国内で起こっているような、安売り合戦というかたちのチキンレースです。どちらにしても安定した持続可能な企業のあり方とは程遠いものです。

 とにかく「ウィナー・テイクス・オール」の経済の仕組みを変えなければならないと感じます。大企業が莫大なお金を研究開発費に注ぎ込むのは、知的財産権という制度が確立されているからです。先に特許を押さえてしまえば、後から来るライバルに対して絶対的な優位に立てる。このことが技術の進歩を促進している面は確かにあるのでしょうが、またこのことが企業をして先行投資というバクチに走らせる要因にもなっています。そして取得している国際特許の数がそのまま国の経済力の差になり、先進国に特許を独占されているために途上国はいつまで経っても貧困から抜け出せないという構図になっている。すべての経済制度が、勝者に有利になるように設計されているのです。もしも地球規模で人類の調和ある発展と持続性を求めるのであれば、知的財産権はそれを専門にする国際機関が一手に管理し、途上国にも安価に供与するような仕組みにすることが必要だと思います。(もちろん特許取得者の権利をすべて剥奪する訳ではありません、その対価はこの国際機関が一定範囲で保障することになります。) これからの世界で、ほんとうに真剣に持続可能性ということを考えるのであれば、見直さなければならない制度や慣習はいくらでもありそうですね。現在の不安定なグローバル経済を安定させるために、金融取引に対する規制や課税を強化することなど、国際協定を作ってでも真っ先に実施すべきことがらでしょう。

 いや、だいぶ話が大きくなってしまった、もう少し現実的な話題に戻しましょう。これからの時代、「肉食企業」よりも「草食企業」が有利になると予想出来る現実的な理由があります。それは、弱肉強食の価値観を持つ企業には、特に若い人が集まらなくなるだろうということです。いまでこそ不況で就職難の時代ですからこの問題は顕在化していませんが、間違いなくこれから日本の企業は若手の人材難に悩むことになる。少子化で若者の数が少なくなることだけが原因ではありません、すでに一流企業と言われるところでも、新卒者が入社してまもなく大量に辞めてしまうことが問題になっている。何故辞めてしまうのか? 理由はいろいろあるにしても、根本的なところは肉食系の企業体質に草食系の若者が馴染めないということにあるのだと思います。(働き始めて三十年近く、いまだに会社というところに馴染めない〈元祖草食男子〉の私が言うのだからたぶん間違いない。笑) これは裏付けの無い単なる予想ですが、今日日、社員の定着率のいい会社には草食系のマインドが色濃くあるのではないかという気がします。きっとトッテンさんの会社などは、この業界のなかでは例外的に離職率の低い会社なんじゃないかな? 成果主義だとか厳しいノルマによって社員を拘束しているような企業は、これからの草食時代を生き延びて行くことは出来ない。最近、日本流の終身雇用制のメリットが見直されつつあるという話も聞きますが、持続可能な社会への転換期には、企業のあり方そのものも根本から見直す必要があるように思います。

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2009年10月18日 (日)

減価貨幣は持続可能な社会を約束するか?

 このところずっと減価貨幣とベーシックインカムの問題について考えています。ベーシックインカムというのは、冷静に考えればゼロサム経済のなかでの所得再配分方法のバリエーションのひとつに過ぎない、これに対して減価貨幣というのは、ゼロサム経済の枠組そのものを打ち破る可能性を秘めたものである、これが前回の記事の要旨でした。そしてこのふたつを組み合わせることで、現代社会は「富の再配分によって阻害されない持続的な経済の発展」を実現出来る可能性がある、というのが最近の私の主張だった訳です。けれども、ここで言う「持続可能性」とはあくまで持続可能な経済システムのことを指しているに過ぎません。今日、私たちにとって持続可能性が大きな課題であるのは、経済の問題以上に地球環境の問題が差し迫ったものとしてあるからです。今回はこの大きな問題について考えてみます。シルビオ・ゲゼルの思想に惚れ込んでいる私の設問はこうなります、「減価貨幣によって環境破壊は食い止められるのか?」。

 ベーシックインカムについて考えるヒントを与えてくれた関曠野さんが、ゲゼルの減価貨幣についてコメントを寄せられています。意外なことにC.H.ダグラスの社会信用論を高く評価する関さんは、減価貨幣に対しては非常に厳しい評価を下されている。このふたつの思想は、私にはとても相性のいいもののように思えるのだけれども、何故だろう? 私が「関=ダグラス理論」に疑問を感じるのは、公共通貨でベーシックインカムを実行した場合、どうやってインフレを抑えられるかというその一点です。それは思想的な当否ということではまったくなく、ただ実践的な可否としてどうかということです。(それとも私がまだ見落としている要素が何かあるのかな?) ですから、関さんが書かれているような、「要するにゲゼルはマクロ経済学以前の人で、金融資本や大企業による市場の支配といったことは彼の視野の外なのです」といった批判が学術的に妥当なものであるかどうか、私にはまったく興味が無い。減価貨幣以外にこの難問の解があるのなら教えて欲しいと思っているだけです。ただ、関さんの減価貨幣に対する批判のなかで、ここだけは核心を突いていると感じたところがあります。というのも、シルビオ・ゲゼルの思想に心酔している私自身でさえ、この点に関しては同じ疑問をずっと心のなかで感じていたからです。これを指摘する関さんの文章は、簡潔で端的で分かりやすい。引用します。

 『ところで手持ちのお金を使わないでいると毎年少しずつ減価していくという仕組みは、貯蓄に対する処罰的な課税だと言えます。商業にはプラスでしょうが、このように処罰の恐れによって動く経済があっていいものでしょうか。また人々に消費を強制することはエコロジカルどころか、欲しくない商品まで買わせる浪費的な消費の奨励につながりかねません。これに対してダグラスの国民配当は、贈与を経済の原動力とするものです。』

 ダグラスの主張する国民配当(ベーシックインカム)なら、浪費的な消費を助長しないのかどうかはともかく、減価する貨幣というものが「欲しくない商品まで買わせる」働きをするのは常識的に考えてもありそうなことです。聞くところによれば、減価貨幣を導入した町では、人々は預金利子に期待することが出来なくなったので、長期的なリターンを期待して、例えば〈植樹〉に投資するといった行動に出たそうです。ゲゼル派の私たちが好んで取り上げるエピソードではありますが、これだけで減価貨幣がエコロジカルであることの例証になっているとはとても思えません。減価貨幣は通常のお金に比べて流通速度が速くなるのが取り柄ですから、景気が良くなる一方で関さんが指摘するような浪費的な消費を促す危険性は大いにありそうです。目減りするお金に常に急きたてられている生活は、最近流行の〈ロハスなライフスタイル〉などというものからは最もかけ離れたものでしょう。百年前に活躍したゲゼルさんは、環境保護が人類共通の課題になる前の時代の人ですから、その経済理論に環境持続のための仕掛けがビルトインされていなかったとしても、それは当然のことだと思います。

 これも関さんの文章からの受け売りですが、ダグラスの社会信用論の基本となる考え方に、「A+B理論」というものがあります。生産コストのうち労働者の賃金や給料に当たる部分をAとして、その他の原料費や減価償却費や支払い利子といった部分をBとすると、A+Bは常にAより大きい訳ですから、労働者は理論的に言って企業が生産する製品をすべて買い取ることは出来ないことになる。すなわち、近代的な工業生産の社会においては、常に購買力は生産力に対して不足しており、モノは豊かなのに労働者は貧しくてそれが買えないという状況に陥ると言うのです。ここからベーシックインカムによる購買力の下支えという発想が出て来る訳です。この考え方を最初に知ったとき、なるほどと思うと同時に、どこか理屈がおかしいぞという気持ちになりました。ダグラスの時代から見れば、今日では製品に占める人件費の割合はさらに小さくなっていると思いますが、だからと言って大量の製品が売れ残って経済が危機に瀕している様子もない。一部に売れない在庫を抱えている企業はあるにしても、総体として見れば生産量と購買量はほぼ均衡している筈です。もちろんそこには企業による生産調整ということもあるし、税による所得の再配分ということもある訳ですから、ダグラスの理論が現代にそのまま当てはまるものではないと思います。しかし、私が感じた違和感はそんなことではない、ダグラスのA+B理論にはもっと根本的なところでトリックがあるのではないかということなのです。いや、そんな分析はもう何十年も前に誰かがしているに違いありませんが、私は私で考えてみた。

 最初私が考えたのは、ダグラスは工業生産における〈分業〉というものを考慮していなかったのではないかということでした。自動車工場で働く労働者は、自分たちの給料で自分たちが作った製品をすべて買い取ることは出来ない、それはその通りでしょう。しかし、今日の社会では多くの製品を多くの企業が分業して生産している訳ですから、ひとつの工場が生み出した製品はそこで働く人たちだけによって消費されなければならない訳ではありません(当たり前ですね)。ただ、この解釈は社会全体で生産に対する需要が枯渇しないことの説明にはなっていても、生産力と購買力とが釣り合っていることの説明にはなっていません。社会全体の生産コストを見れば、やはりA+B>Aであることに変わりはないからです。で、次に私が考えたのは、ダグラスは製品の〈耐用年数〉というものを考慮していなかったのではないかということです。もしも自動車という製品が3ヶ月くらいの耐久性しかなく、私たちが1年に平均4回もクルマを買い換えなければならないとすれば、平均的な所得でそれを賄うことはとても不可能でしょう。が、幸いなことに自動車にはふつう10年くらいの耐久性があるのですから、そんな頻繁に買い換える必要は無い。3ヶ月分の給料でクルマを1台買うことは難しくても、10年間分の給料からその費用を工面することなら無理なく出来る訳です。要するに、商品の耐久性というものによって規定される消費スピードというものを考慮せずに、単位時間当たりのAとA+Bを比較してもまったく無意味なのです。なんだ、ぜんぜんダメじゃん、ダグラスさん。(笑)

 と、ここまで考えて、はたと気が付いたことがある。そうか、これってゲゼル理論を拡張するためのアイデアとしても使えるじゃないか! ゲゼルの主張は、貨幣は商品とは違って時間の経過とともに古びたり傷んだりすることがない、だから売り手と買い手のあいだに対等な取り引きを成り立たせるためには、お金にも減価する性質を与えるべきだというものでした。だったら逆の発想で、商品の耐久性をうんと高めれば取り引きは対等なものに近付く筈である。実際、ゲゼルさんが有名な「ロビンソン・クルーソー物語」を書いた時代には、家庭用の冷蔵庫や冷凍庫も無かったし、プラスチックやポリエステルのような合成素材も発明されていなかった訳です。そういう時代の制約のなかで考えれば、商品の減耗に合わせて貨幣も減価させなければならないという発想はごく自然なものでした。この思想はその後の歴史のなかで大きな成功を収めることは出来ませんでしたが、一方で技術の分野では大きな革新が次々に起こり、商品の耐久性や信頼性は格段に進歩した。今日、市場で売られている商品の多くは、百年前の商品のようにただお金と交換されることを受け身で待っているだけではありません。需要に生産が追いつかない人気商品は、中古品に新品より高いプレミアムがつくということも実際に起こっています。この場合、もちろんその商品の〈耐久性〉が人気の秘密ではない訳で、現代では商品の需要を決定する要素もとても複雑なものになっていると思われます。(保存料を含まないオーガニック食品の方が商品価値としては高く見積もられるというようなこともありますから。) ただひとつだけ言えることは、一般的に商品の耐久性が増して、買い換えのサイクルが長くなればなるほど、環境への負荷は減るだろうということです。

 とりあえず今回の結論です。減価貨幣はふつうに考えても環境保護に役立ったりはしません。それは単に商取引における対等性を担保して、循環可能(持続可能)な経済の仕組みを目指しているだけだからです。しかるに、貨幣の魅力を減ずることで持続可能な経済に近付くものなら、商品の魅力を増すことでも同じ効果が得られる筈である。そして耐久性や購入後のメンテナンス性の良さは、商品の魅力の一要素であると同時に、過剰な生産や不用品の廃棄を抑制するという意味で環境持続性にも直接つながると考えていいだろう。(ただし耐久性が増しても、廃棄された後に環境への負荷となる合成素材や有害物質などについては、まだまだ改良の余地がある訳ですが。) なんだかとても当たり前の結論で、面白くも何ともありませんでしたね。もうひとつ問題として残るのは、製品の耐久性を限りなく高めることは、メーカーにとって自殺行為であるかも知れないという点でしょうか。ちょうど現在がそうであるように、不況期においては特に買い換え需要が低下しますから、耐久性の高い製品はメーカーにとっては本音のところ癌のような存在であるに違いない。これは事実かどうか分かりませんが、家電メーカーなどは営業戦略上わざと耐久性に期限を持たせているといった話も聞きます。(自動車メーカーでそれが出来ない理由は、重大な人命事故につながる可能性があるからです。) いくら環境に優しい社会が実現しても、そのために企業がバタバタと倒産してしまったのでは意味が無い。これに対する解決策は何かあるのでしょうか? さて、原稿書きのタイムリミットが来てしまいましたから、この問題についてはまた次回考察することにしたいと思います。

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2009年10月11日 (日)

ベーシックインカムを減価貨幣でやる理由

 前回の記事では、ベーシックインカム(BI)の制度設計に当たって留意すべき点を表にまとめてみました。冷静になって考えてみれば、そこで私が提示した視点というのは一般的なBIの議論にとってバランスのいいものではなかったような気がします。というのも、この表が前提としているような、BIを導入するに当たってまずは〈日本円〉でやるか〈公共通貨〉でやるかという二者択一を迫ることが、そもそもノーマルな議論の出発点とは言えないからです。BIというもの自体がまだ十分に知られていない怪しい概念である上に、それを「政府発行の減価貨幣」でやるなんてアイデアに至っては、まったく「怪しさ二倍!」と言うほかない(笑)。実際、最近はインターネット上でもBIのことを取り上げた記事を多く目にしますが、そこで論じられているのは、BI支給は日本円で行なうことが当然の前提としてあって、ただその財源を所得税に求めるか消費税に求めるかといったようなことです。中立な立場でBI実現に向けた課題を話し合うなら、まずは現在ある経済の仕組みのなかでそれが可能かどうかを検討すべきで、「公共通貨」だの「減価貨幣」だのといったウルトラCはとりあえず禁じ手にするのが話の順序だろうとも思います。

 今回の記事では、以上のことを一応理解した上で、それでも減価貨幣でBIをやることのメリットは少なくない、ということについての説明を試みてみようと思うのです。少なくとも、これから日本でもBIに関する議論が活発になって行くと思われますが、BIにはこうした選択肢もあることを知っておくのは、そこでの議論を深めるためにも役立つと思うからです。「ベーシックインカム」というのは、その名のとおり生活のための「基礎的な所得」を国がすべての国民に保障しようという考え方のことです。所得制限などは一切無く、金持ちにも貧乏人にも等しく例えば月に5万円ずつのお金が配られる、そういった制度です。もしも年間60万円のBIを全国民に支給するとなれば、約77兆円の予算が必要になりますから、これは一見とても実現性の乏しい政策のようにも見えます。が、すでにこの国では社会保障費の総額が60兆円を超えているそうですから、現在の社会保障制度(生活保護、失業保険、障害者手当など)をBIに統合して行く前提なら、新しい支出はそれほど莫大なものになる訳ではない。消費税率や所得税率を多少引き上げれば、財源は確保出来るという試算もされているようです。

 ただ、これだけは絶対に押さえておくべきという重要なポイントがあります。それは、現在の税体系、現在の経済体制の枠組のなかでBIを実施することは、要するに所得の再配分を見直すということ以上ではない、という点です。よく構造改革政策によって、経済格差が広がったということが言われますが、それは過去との比較の問題に過ぎないのであって、日本も含めた先進諸国の経済を先入観なく見てみれば、そこでは自由主義経済と呼ぶのがためらわれるほどの思い切った所得の再配分が行なわれている。「ベーシックインカム」などと目新しい呼び方をしていても、要するに実態は究極の社会保障制度と呼ぶべきものです。そのカラクリは、BIが〈定率〉ではなく〈定額〉で支給されるというところにあります。金持ちにも貧乏人にも同額のBIを支給すると言えば、なにやらとても公平な制度であるかのような錯覚に陥りますが、原資は定率どころか累進課税で集められた税金なのですから、基本的には高額所得者層から低額所得者層への所得移転に他ならない。さらに制度設計によっては、それは子供のいない世帯から子だくさんの世帯への、障害者手当を受給している人から健常者への、あるいは要介護度5レベルのお年寄りから要介護度1レベルのお年寄りへの所得移転だったりする訳です。つまり現在の社会保障制度の下で比較的厚遇されている世帯からそうでない世帯への所得移転ということです。これは良い悪いの問題ではなく、限られた経済のパイの中で分配方法を見直す以上、仕方の無いことなのです。

 そこで次に登場するのが、「公共通貨」というものです。これは日銀が国債を担保に発行する日本円とは違って、政府がまったく無担保で打ち出の小槌のように発行出来るお金のことです。自民党政権末期の頃、財政再建のために「政府紙幣」を発行したらどうかという議論がありましたが、あれのことですね。確かに経済学の本を読めば、一国の政府は「通貨発行権」(セイニアーリッジ権)を持つと書いてある。実際に五百円玉や百円玉のような硬貨は、日銀ではなく政府が直接セイニアーリッジ特権によって発行したお金なのです。もしもこれと同じやり方で政府紙幣というものを発行して、それをBIの原資としたらどうだろう? この場合、税を当てにする訳ではありませんから、限られた経済のパイの中での分配ということにはなりません。誰かが得をして、その分誰かが損をするということはないのです。話がうますぎる? ええ、もちろんです。ここで問題になるのはインフレです。年間77兆円ものお金が国内にバラ撒かれるのですから、ふつうに考えればインフレが起きない筈は無い。つまりBIとして配られたお金がどこから来るかと言えば、インフレによる貨幣価値の低下で預金や給料が実質的に目減りする、その目減り分が集められてBIに化けたとも言えるのです。経済学者のなかには、現在の日本は構造的なデフレ経済に陥っているので、多少政府通貨を発行してもインフレには振れないと主張する人もいます。まあ、それが正しかったとしても、BIというのは不況期の一回こっきりの政策ではなくて、一度始めたらずっと継続していかなければならない政策な訳ですから、毎年毎年77兆円がずっと垂れ流される事態になる。それを10年間続けて、それでも日本経済がインフレを起こさないと主張する人はよもやいないでしょう。

 目的がBIであろうが景気対策であろうが、政府通貨での財政支出を主張する人は、その政策の持続可能性について説明する義務を負っていると思います。何の裏付けも無く発行される政府通貨が、むやみに膨張せずに社会のなかでうまく回って行くためには、それを国が回収し計画的に消却して行ける仕組みが組み込まれていなければならない。少なくとも高度経済成長期(恒常的なインフレ経済)を卒業したこの国では、これは誰もが認めなければならない政府通貨論の前提条件であると思います。目的が差し迫った財政破綻の回避というようなことなら、政府通貨を発行してあとは野となれといった考え方もアリかも知れません(実際、政府通貨発行の影響なんて、スパコンを使っても予測出来ないでしょうから)。しかし、国民の生活保障に直接関わるBIでは、そんなバクチのような政策は許されません。理論的に当たり前に考えれば、毎年77兆円の政府通貨を発行するなら、同じ額の課税をして、政府通貨を回収しなければ持続可能な政策とはならない。つまりは先ほどの日本円によるBIと同様、ゼロサム経済のなかでの所得配分に過ぎないという結論になるのです。

 で、ようやく「減価貨幣」の出番になります。減価貨幣というのは、マイナス利子の付いたお金とも呼ばれ、時間の経過とともに少しずつ目減りして行ってしまう貨幣のことです。その理論的な正当性については今回は端折るとして、電子マネーの誕生によって、毎日少しずつなだらかに減価するお金というものに実用化の目途がついた、そのことに一部の人たちが注目しているのです。これを使ってBIをやることの利点はすぐに理解していただけるものと思います。通常の(減価しない)政府通貨では、これを回収するために高い税率で課税をしなければなりません。しかし、減価貨幣であれば、税というかたちで国が回収しなくても、政府通貨は自ら目減りしてやがては消滅して行ってくれるのですから、うまく制度を設計すればインフレとは無縁の政府通貨によるBIが実現するかも知れない。むろんこのアイデアにもトリックがあって、政府がBIとして支給する金額と減価する金額はマクロで均衡していなくてはなりませんから、結果的には税で徴収したのと同じことで、政府通貨を多く貯め込んだ(貯め込まざるを得なかった)企業や資本家が、BIで日銭暮らしをしている貧乏人に、減価損をかぶるというかたちで貢いでいるに過ぎない。減価額を税の一種と見れば、そこでは税による所得再配分と同じことが起きているのです。ただ、ひとつだけ税と減価貨幣では決定的に違う点があります。

 企業や投資家には高い業績を上げれば上げるほど、高い税を課されるという宿命がある訳ですが、減価貨幣では必ずしもそうなるとは限らないという点です。売上高として蓄積された減価貨幣をそのまま内部留保に回したのでは、非常に高い税金を払っているのと同じことになる。企業は積極的にお金を使う経営に転換せざるを得ません。例えばもしもすべての取り引きにおいて、価格の3割までは政府通貨(減価貨幣)を使ってもいい、受け取り側はそれを拒否出来ないというルールを国が定めたらどうでしょう。これは商取引だけでなく、給与支払いにも適用されるルールとします。すると個人も企業も減価貨幣での支払いを急ぐだけでなく、それに引きずられるようにして日本円の支出も増やさざるを得ない。景気が一気に上向きます。これはトリックでも何でもないので、昔から減価貨幣というものを導入した場合の効果として知られているものです。現在の日本経済が抱える最大の問題は、莫大な政府の借金ということよりも、その裏返しである凍りついた莫大な個人資産ということです。この国の経済が目詰まりを起こしているのは、すべてそこに原因がある。もしも日本の経済を再生させたいなら、1500兆円とも言われる個人資産に火を点けることから始めなければならない。減価貨幣によるBIは、この大山鳴動を引き起こす起爆剤になるだろうというのが私の意見です。さて、もしもこの記事の内容に興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、減価貨幣によるBIというものを、もっと詳細に具体的に論じているこちらの連載記事もぜひ参考にしてみてください。

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2009年10月 4日 (日)

ベーシックインカム検討のフレームワーク

 「ベーシックインカム・実現を探る会」のホームページに、古山明男さんのベーシックインカム論の第二部が掲載されました。先に発表された第一部の方は、ベーシックインカム(以下BI)の主に倫理的な側面についての考察で、教育者としての古山さんの考え方にとても啓発されるものがあったのですが、第二部の方はBI実現に向けた経済的な側面からの検討で、こちらについてはさらに面白く読むことが出来ました。というのも、「減価する電子マネーでBIをやる」というのは、私自身最近このブログで自説を開陳したばかりのテーマであり、同じテーマを他の人がどのように料理しているのか非常に興味があったからです。まあ、いまの日本で、このニッチなテーマについて大真面目に考えて論じているのは、たぶん古山さんと私のふたりだけしかいないのでしょうが。(笑)

 同じテーマで考えて来た者として、今回の古山論文にはいくつか疑問を呈したい部分もあります。例えば10パーセント以上もの交換手数料が必要となる第二通貨が、何故日本円と混在して流通出来るのかについて、十分な説明が無いように感じられます。(もしも受け取り側が拒否出来るなら新通貨はほとんど流通しないでしょうし、拒否出来ないなら新通貨ばかりが優先して流通するでしょう。) また納税はほとんど新通貨で行なわれる筈ですから、それで財政が立ち行くのかという点にも疑問が残ります。(もしも政府が手数料分を割り引いて新通貨を日本円に交換するなら、そこで減価が止まってしまいますから、結果的に持続可能な経済政策とはなり得ないでしょう。) 一方、自分では思い付かなかった斬新なアイデアも数多く散りばめられています。すべての人に減価モラトリアムがついた引き出し権を与えるというのは面白いし、貨幣が一定の期間で減価するだけでなく、取り引きのタイミングでも減価するというのは検討に値するアイデアだと思います。古山さんの文章を読みながら感じたのは、BI実現のためにはとてもたくさんの考慮すべき要素があって、いまはまだお互いに優劣を競うよりもアイデアをどんどん出すべき段階だろうということです。

 BIを考えるに当たっては、押さえておくべき重要な検討項目があるように思います。例えばいくつか挙げますと… ①BIの実施は日本円(商品券等を含む)で行なうのか、それとも公共通貨で行なうのか。②日本円で行なうならその財源をどこから持って来るのか。③公共通貨で行なうなら貨幣の形式や日本円との交換レートをどうするのか。④BIの支給条件や他の社会保障制度との関係をどうするのか。⑤BI導入後の税の体系はどうなるのか。…といったようなことです。とりあえず、今回、思いついたポイントを抜き出してエクセルの表にまとめてみました。それが下に添付したファイルです。(このブログ記事にファイルを貼り付けるのは初めてですね。うまくダウンロード出来るかな?) 開いていただければ分かりますが、古山さんの案と私の案が比較出来るように簡単にまとめられています(もちろん文責は私にあります)。さらに右側の空欄となった項目にアイデアを書き込んで行けば、あなただけのオリジナルなBI構想が簡単に作れるような仕掛けになっています(ほんと?)。まだ思い付きで作っただけの第1版ですので、今後バージョンを上げて精度の高いものにして行く予定です。もはやベーシックインカムはその是非を論じる段階ではなく、具体的な実現方法に向けて議論を深める段階まで来ていると思います。この表がそうした議論の最初のたたき台になればと思っています。

『ベーシックインカムの方式比較』 「bi_ver.1.00.xls」をダウンロード

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