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2009年9月27日 (日)

「子ども手当」に所得制限はあり得ない

 民主党が公約に掲げている「子ども手当」について、ベーシックインカム導入のための実験としても評価出来るという意見を前々回の記事で書きました。ところが今週の新聞記事によると、新閣僚のなかには「子ども手当」を高額所得者にまで支給するのは不適切だ、使い道を子供向けに限定出来ないかといった意見が続出しており、閣内でも論争になっているのだそうです。社民党と国民新党から入閣した福島さんや亀井さんは所得制限の設定を主張しており、財務大臣の藤井さんは使途制限の設定に前向きの姿勢、一方で厚生労働大臣の長妻さんは所得制限に反対する考えを表明しているらしい。ここはひとつ長妻大臣に踏ん張って欲しいところですが、まだ先行きどうなるか予断を許さないところです。

 今回の選挙で民主党を選んだ国民は、「子ども手当」という政策を、「子供を生み育てている世帯への国を挙げての応援」として受け取り、これを支持したのだと思います。もちろんそこには少子化対策という政策的な意図も含まれているでしょう。それなのにそこに所得制限や使途制限を設けるとなると、これは従来の児童手当と同様の「低所得者層に対する経済援助」という別の目的の政策にすり変わってしまう。このふたつは本質的にまったく意味が違います。この国の制度では、子供を生み育てるということは、金持ちにとっても貧乏人にとっても経済的にまったく報われることのない、厄介な仕事でしかないのです。将来の国の人口を支えるという、国民経済の視点から見ても最も重要である筈の仕事が、まるで行政のお荷物のように扱われているのがこの国の現状です。(私自身、児童手当の申請や公立保育園の入園申請で役所とやり合った経験から、ほんとうに子育て家庭は行政から厄介者扱いをされているんだという実感を持っています。) 「子ども手当」は、そんなこれまでの行政の考え方に最初の風穴をあける政策だった筈です。

 いや、今回の記事ではあまり感情的なことを書くつもりではありませんでした。(自分がいま子育てまっ最中の当事者なもので、この件についてはどうしても平静な気持ちで書けないのです。笑) 今回取り上げたかったのは、もっと政策技術的な問題です。亀井金融担当大臣は、子ども手当を支給するための所得制限として、年収1千万円という金額を示しているのだそうです。例えば「夫婦共稼ぎで5人の子供を育てている家庭が、収入合計が1千万円を超えたからと言って、高額所得者と呼べるだろうか?」という問題はさておいても、単純に年収1千万円で線引きするという考え方は、いかにも大雑把というか粗雑なロジックで、(従来の自民党ならともかく)これからの政治を担う政党の政策論議には相応しくないように感じるのです。そもそも子ども手当というのは、子供ひとり当たり年間31万2千円という結構な金額の支援策である訳ですから、一定の所得額で区切れば必ずそこには大きな不公平感をともなう逆転現象が起こります。

Teate01_4

 これは年収1千万円を所得制限とした場合の世帯の総収入額のグラフです(スケールは正確ではありません、あくまでイメージです)。横軸が前年の年収額、縦軸が子ども手当を加えた今年の予想年収額を表します。当たり前ですが、年収1千万円を境にグラフには大きな段差が出来ます。もしも子供が5人いる世帯で、前年の収入が999万円だったなら、子ども手当を156万円受け取ることが出来るので、今年の総収入は1155万円になります。ところが運悪く前年の収入がぴったり1千万円だったなら、子ども手当は出ませんから、今年の総収入も1千万円のままです。昔、配偶者控除に関する制度設計が、これと同じように雑だったために、家庭の主婦がパートで働いて副収入を得ると、ある金額帯では世帯の総収入が逆に減ってしまうという問題が起こりました。おそらく現行の児童手当でも同じ問題が起こっているものと思われます(なにせ粗雑な自公政権のやったことだから)。もしも今、こんな単純な所得制限で子ども手当を支給したら、これはたいへんな社会問題になるでしょう。新政権の目玉政策は、政府への信頼を失墜させる目玉となり兼ねない。もちろん子ども手当の支給条件を少し変えれば、このような逆転現象を回避することは可能です。例えば先ほどのグラフを次のように修正した場合です。

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 これは子供ひとり当たり2万6千円を支給するものの、子ども手当を支給した場合の収入合計が1千万円を超えないように上限を設けた場合のグラフです。先ほど例に挙げた子供5人の世帯で言えば、年収844万円までなら子ども手当は満額の156万円が出ますが、年収900万円なら手当は100万円まで減額され、年収1千万円ではゼロになるという仕組みです。これなら理不尽な逆転現象は起きません。が、やはりある金額帯では働いても働いても収入が増えないという納得の行かない事態が生じます。現行の配偶者控除の仕組みでは、逆転現象こそ是正されているものの、やはり一定の金額帯では主婦がパートで働いても、その分が税金や社会保険で持って行かれ、世帯収入がほとんど増えないという馬鹿げた状況になっている、それと同じことが起きるのです。こういう問題を放置して来たことが、前政権に対する国民の不信が深くなった要因のひとつだと思うのですが、民主党政権もそれと同じ道を歩むのでしょうか?

Teate03_2

 もしも子ども手当にどうしても所得制限を設けたいなら、支給額は上のグラフのように世帯収入によって漸減する方式を採るべきでしょう。収入ゼロの世帯には満額の月額2万6千円が出るけれども、収入が増えるに従って子ども手当の額が少しずつ減って行くという仕組みです。これなら貧しい世帯への経済的支援という意味では、一応制度としての「体」をなしていると思います。その代わり、ほとんどの世帯では満額2万6千円の子ども手当を受け取ることが出来なくなる訳で、これは重大な公約違反だということになる。やはり民主党政権への信頼を大きく損ねることは必至です。繰り返しますが、「子ども手当」という政策が従来の児童手当と違って画期的である所以は、それが貧困対策では決してなく、子供を育てている世帯への国としての感謝を表す「友愛政策」だという点にあります。おそらくまだ与党の自覚が乏しい福島さんや亀井さんが所得制限を言い出すのはなんとなく分かりますが、(もっとクレバーだと思っていた)藤井さんまでもが使途制限を言い出したのには、正直がっかりしました。この問題がどのような決着を見るのか、新政権の今後を占う試金石のひとつとして見守ることにしたいと思います。

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2009年9月20日 (日)

ボツになったアフォリズム集(3)

  1. 私たち有権者が肝に銘じておかなければならないことは、これは長い長い政界再編のほんの序章に過ぎないということだ。
     
  2. よほどの戦略転換と人事の刷新が無ければ、民主党の対抗馬として自民党が党勢を盛り返すことは不可能だろう。それどころか、自民党にとって受難の時代はまだまだこれからやって来る可能性がある。これまで隠されていたものが明るみに出て来るからだ。すぐに機密文書の数々が見付かることはないにしても、官僚やそのOBによる情報のリークはあるだろう。とにかくどんな小さな旧悪でも徹底的に暴くことだ。新政権の当初の役割は、半世紀以上に亘ってたまった膿を出すことなのだから、これだけは何としても果たしてもらわなければならない。
     
  3. 「官僚的」とは、要するに他人の金を自由に使えるところから来る精神の麻痺の別称である。
     
  4. アメリカの傀儡政権だった自民党の場合、総理大臣や閣僚の失言や失態は外国からの失笑を買えば済んだが、民主党の立場ではそうは行くまい。「政権交代後の新しい首相は、これまでと違ってなかなかタフな交渉相手だ」、そう相手に思わせることが出来なければ、この国の外交上の立場は少しも改善されない。この点、歴代の自民党首相や外相は気楽で良かった。
     
  5. 占領時代が終わっても、戦勝国の軍隊はこの国に当然のように居座り続け、それが奇異なことだとさえ誰も思わなくなってしまった。1945年に敗戦を迎えるまで、この国には外国の軍隊が駐留したことなど一度も無かった訳で、そう考えればこの六十余年が長い歴史のなかでいかに特異な時代であったか、改めて気付くのである。そのことを保守政党も保守派の論客も見て見ぬふりをして来た、そこがおかしいと私は思う。
     
  6. GDPが500兆円のこの国で、1500兆円の個人金融資産が貯め込まれているという意味は、すべての国民が(理論上は)3年間遊んで暮らせるということに他ならない。童話の「アリとキリギリス」に出て来るアリだって、蓄えるのはひと冬を越せる分の食料だけだ。丸々3年分とは、いくら何でも貯め過ぎじゃないのか。
     
  7. そもそもサブプライム問題とは何だったのだろう? それはちょうど落ちぶれた有名人が、過去の贅沢癖が抜けず、高級マンションで豪勢な暮らしを続けているのと似たようなものだ。実は借金で火の車なのに、それでも銀行は彼の知名度を担保に金を貸し、出入りの商人は掛けで贅沢品を売っていた。確かに彼の周りでは経済が活性化し、誰もが潤っていたのである。
     
  8. ベーシックインカムの利点を知ってしまうと、それが実現していない現実がとてもみすぼらしく歪んだものに見えてしまう。それは今の生きづらさをいっそう助長する。
     
  9. 私の二重通貨論を空想的と言う人もいるだろうが、論理的に考えれば、現在の経済の仕組みをそのまま継続させながら、つまり革命的な手段によらずにベーシックインカムを実施するには、これしか方法が無いのである。
     
  10. 金融資本主義の檻のなかにいる我々は、お金を移動するのにお金が要るということを当たり前だと思わされている。もともと銀行が振り出したお金(信用貨幣)を、銀行間で移すためにも結構な金額のお金を取るのだから、銀行というのはたまらん商売だ。
     
  11. ちなみにマルクスの思想が、いくつかの国々で実際の政体として(不完全にではあっても)実現したということの理由は、その思想がより現実的だったからではない、権力を指向する者たちにとって利用しやすい思想だったからというに過ぎない。そこにいくと、ゲゼルの思想やダグラスの思想は、権力者が利用するためには不都合なように最初から設計されているのである。
     
  12. 何故ゲゼルがいるのに、いまでもマルクスなどに心酔する人がいるのだろう?
     
  13. 自分が死せる存在であるという認識を欠いたところに、今日の経済制度の根本的な欠陥がある。
     
  14. 裁判員制度の分かりやすい欺瞞。思想信条を理由に辞退出来ないとしておきながら、裁判官との面接では思想信条のチェックをされること。
     
  15. 有罪に確信が持てない検察と、無罪を心の中では信じてもいない弁護団が、裁判官(と裁判員)の前で芝居を演じてみせる。うまく演じられた方が勝つという今の裁判制度そのものが、私にはひどく前時代的なものに思える。
     
  16. 誰も絶対に口にしないが、「必要悪としての冤罪」というものは厳然としてある。冤罪を絶対に起こさないことと、犯人を絶対に取り逃がさないということは、両立しない矛盾した概念なのだから、裁判における冤罪率と有罪率のトレードオフに対しては、私たちの社会は許容出来る基準というものを持たなければならない筈だ(現実にはそれを計量出来ないとしても)。すなわち冤罪で処罰される人は、安寧な社会を築くための〈いけにえ〉にされたということである。
     
  17. 最近の厳罰化傾向で分かったのは、裁判員制度が始まる前から、すでに裁判官の裁判員化は始まっていたということだ。すなわち民意という見えない圧力に抗せず、プロの裁判官が個人的な道徳心に流される傾向のことである。要するに法によって人を裁くということについての確固たる基準も無ければ、心構えも出来ていないのである。例えば私は全国の裁判官にこんな質問のアンケート調査をしてみたい、「量刑に際してあなたは被害者感情を考慮しますか?」。もしも人によって答えが違うようだったらどうだろう。そんな裁判官にこれまでずっと裁かれて来たということに、あなたは愕然としないだろうか?
     
  18. 刑事事件に対して、国民の道徳心をどこで発揮すべきか? 罪を犯した人間が、犯した罪のことを自覚し、改悛し、更生の道につけるように見守ること、そして不幸にも犯罪の被害者になってしまった人が、再び生きる意味を見出し、私たちのこの社会に戻って来られるよう手助けをすること、そのふたつ以外には無い筈だ。裁判に参加することではなく、裁判が終わったところから私たちの活動はスタートしなければならない。
     
  19. 死刑に賛成する人の意見を読んでいると心が寒々として来る、感想と言えばそれだけだ。議論をしようとも思わない。
     
  20. 逆説的なようだが、死刑を支持する人はたいてい素朴な性善説を信じているタイプの人である。彼らには絶対的な善と悪の世界が見えている。要するにそれはその人の信仰の問題である。死刑制度は宗教的な絶対主義としか相性が良くない、少なくとも信仰の自由を認めている国では、死刑制度そのものに矛盾がある。だからイスラム諸国や中国では死刑は何の矛盾も無く存続し得るのである。
     
  21. 死刑を選択した高校生。高校1年生がネイティブなと言ってもいいような厳罰主義を抱いていることは、犯罪の少ない安全な日本の未来のために嘉すべきことである。
     
  22. 少し挑発的な言い方をしよう。死刑を廃止することの出来ない日本人には、まだ国民が司法に参加することへの準備すら出来ていないということなのである。
     
  23. 憲法を変えてはいけない現実的な理由。改憲派の人たちが忘れていることは、戦後六十余年を経て、若者たちはどんどん柔弱になり、もはや世界の戦場に出してもまともな戦力にすらならないだろうということだ。血に対する嫌悪と恐怖、安逸さへの無条件の帰依、そうしたものは容易にたたき直すことは出来ないだろうと思う。血気盛んだった時代の老人たちが何と言おうと、この国はもはや平和憲法という護符によって守ってもらうしか手がない。
     
  24. 今の若い人が勇敢な兵士になるか、臆病な役立たずで終わるかは、実際に戦場に出してみなければ分からない。ただ、前回の戦争で経験的に分かったことは、戦闘に慣れていない日本人は、戦場では往々にして人間が変わり、勇敢な兵士でも臆病者でもなく、残虐な殺人鬼になる場合があるということである。
     
  25. たとえ銃で敵を撃つことには臆病であっても、伝染病の蔓延する難民キャンプに入って、医療や救護に従事することには臆することなく当たれる、そういう若者はたくさんいると思う。平和な時代に生をうけた私たちは、死ぬことではなく、生きることに勇敢であるべきだ。
     
  26. 豊かな先進国から貧しい国の難民救済に向かう若者たち。彼らは新しい時代を拓くために世界中に蒔かれた種子なのだと思う。
     
  27. 知り合いの障害者女性の証言によれば、電車の中で席を譲られることは多いし、席を譲ってくれる人の男女比はほぼ半々くらいだが、たまに乗り合わせる女性専用車のなかで席を譲ってもらったことは皆無なのだそうだ。さもありなんと思ってしまう私には、当然フェミニストを名乗る資格など無い。
     
  28. 倫理学における相対性理論。痴呆症になって、それまでの性格から一転してしまい、自己中心的で怒りっぽくなった人の話。根はそういう人間だったと見るか、それにもかかわらず、それを抑える理性を持っていたと見るか。
     
  29. 「子供より親が大事」といった太宰治に倣って私も言おう、「死んだ者より生きている者が大事」と。
     
  30. 常にこれが遺言だと思って文章を書くこと。

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2009年9月13日 (日)

ベーシックインカム実現は「子ども手当」から

 最近、「ベーシックインカム」というキーワードで検索して、このブログを訪ねてくれる方が増えています。「ベーシックインカム・実現を探る会」が発足し、新党日本のマニフェストにはベーシックインカム導入が政策公約として掲げられました。こうした動きから、多くの人がこの新しい概念に注目し始めているのだと思います。私もベーシックインカムを熱烈に支持するひとりとして、その普及・啓蒙につとめる努力を惜しむものではありません。影響力の小さいブログサイトとは言え、機会があればいつでもこれを取り上げて行きたいと考えています。(このブログでのベーシックインカムに関する過去の記事については、こちらこちらをご参照ください。)

 ベーシックインカム(以下BIと略します)というのは、国がすべての国民に対して、最低限の生活を保障するだけのお金を一律に支給する制度です。掛け金の要らない年金、あるいは審査の要らない生活保護のようなものと言えば分かりやすいかも知れません。支給する金額は、論者によって幅はあるものの、だいたい5万円から10万円くらいが想定されています。月に5万円ではとても最低限の生活保障にもならないと言われそうです。しかし、もしも夫婦と子供二人の世帯なら、月に20万円の収入になりますから、それだけで生活して行くことも不可能ではないと思います。もちろん議論になるのは財源のことです。これについては私にも持論があるのですが、今回は一番基本的なことだけを述べます。現代社会はオートメーション化が高度に進みつつある社会です。従来は人手に頼っていた多くの仕事が機械やロボットやコンピュータによって自動化され、これによって企業は少ない人件費で高い生産効率を得ることが出来るようになった。このことは個々の企業にとっては利益を拡大するチャンスになりますが、社会全体として見れば生産力が購買力を大きく上回って、モノやサービスが売れない時代になったとも言える。せっかく豊かな時代になったのに、その豊かさが人々に行き渡らないのです。早い話、このギャップを埋めるのがBIです。だからBIを実施するのに財源が無いなどというのは実は間違いで、この潜在的な豊かさの分だけ増税するなり政府貨幣を発行するなりして、政府は財源を確保することが出来る筈なのです。むしろそれをせずに自由経済の市場原理に任せておくだけでは、「豊かさのなかの貧困」という矛盾をさらに拡大することにしかならない、そうBI推進派の私たちは考えるのです。

 民主党政権がいよいよスタートしました。バラマキと揶揄される公約の中でも、特に国民生活にインパクトが大きいと思われるのは、「子ども手当」というものでしょう。これは子供が生まれてから中学校を卒業するまでのあいだ、月に2万6千円の手当を親(養育者)に出そうというものです。けっこう金額が大きいので、もしもこれが実現すれば子育て中の家庭にとっては非常な朗報になるだろうと思います。それを期待して民主党に投票した人も多かったのではないかな。逆に言えば、もしもこれがカラ手形に終わるようなことがあれば、次回の選挙で民主党は国民の厳しい審判を受けるだろうということでもあります。選挙戦を有利に導くためとは言え、こんな財政を省みない大盤振る舞いを公約に掲げるなんて、無責任も甚だしい、そう思っている人も多いのではないでしょうか。が、私はそうは思いません。少子化や若い人の非婚化が社会問題化している今日、これ以上に緊急かつ重要な政策は無いと考えるからです。ダム工事などの公共事業や高価な戦闘機などに貴重な予算を注ぎ込むくらいなら、子供手当を充実させた方がどれほど将来の日本のためになるか分からない。さらに言えば、高度経済成長期を終えて成熟期を迎えたこの国において、「子ども手当」をBI導入に向けた先駆的・実験的な政策と位置付けて、将来の本格的なBI実現に備えるという視点を持つことが重要ではないかというのが私の今回の意見です。

 実際、「子ども手当」とベーシックインカムには本質的な部分で類似点があります。従来の児童手当は、親の年収額による制限があったり、第一子と第二子のあいだに支給額の差がつけられたりしていますが、「子ども手当」の方にはそうした行政の都合による恣意的な差別は無いからです。「金持ちにも子供手当など配る必要があるのか?」というのは、この制度に疑問を感じている人の当然の意見ですが、これは私たちがBI導入のために克服して行かなければならない先入観でもあります。つまり、貧しい人を差別しないのと同様、裕福な人をも区別しないという政治的視点を持つということです。この視点に立たない限り、福祉政策というのは基本的に「施し」の政策になってしまう。現行の児童手当だとか障害者手当だとか生活保護だとか、まさに「施し」の政策そのものでしょう? BIというものの理念とこれほどかけ離れたものはありません。BIは基本的にすべての国民に同じ額の基礎所得を支給するものですが、子供に対しても同額の支給をするかどうかはBI推進派のなかでも意見が分かれるところです。BIは二十歳以上の大人を対象にする、あるいは未成年者については成人の半額を支給する、そんな考え方もBIの基本思想に反するものではありません。年齢による区別は差別ではないからです。そうであるならば、通常のBIの考え方からすると少し変則的にはなりますが、まずは15歳以下の子供に対してBIを支給するという考え方だってあっていい訳です。少子化問題が深刻な日本では、むしろその方が順当であるとも考えられます。

 民主党の「子ども手当」が、少子化対策の切り札になるかどうかは、人によって意見の分かれるところだと思います。むしろそんなものよりも先に、子供が生まれても両親が安心して働き続けられる環境や制度を整えることの方が大事だという意見もあるでしょう。まずは保育所を増やして、待機児童をゼロにしなくてはならない。我が家でも子供は保育料の高い〈無認可園〉に通わせていますから、この意見にはまったく賛成なのですが、一方でそれほどまでして夫婦で働き続けなければならない世の中というのはどうなんだろうという思いもある。うちの息子も小学校に行く年齢になれば、「鍵っ子」になることがすでに運命づけられています。せめて子供が義務教育を終えるころまでは、どちらかの親が家で送り迎えをしてやることは出来ないものだろうか。BIのある社会は、会社勤めだけではない様々な生き方を私たちに許してくれます。子供を育てることも、ボランティア活動をすることも、売れない小説を書くことも、立派な仕事だと認めてくれる。最近の若い人のなかには、会社でも貪欲に出世を望む人は少なくなっているようですし、結婚したい女性のあいだでは専業主婦になりたいという願望を持つ人が増えているらしい。私はこれはとても健全な傾向ではないかと思います。子供ひとり当たり月に2万6千円という金額は微妙ですが、もしもこれが日本で最初のBIということであるならば(民主党はそう宣言してしまえばいいのです)、間違いなく少子化対策として一定の効果を上げるだろうと私は思っています。政府は長期的な視野を持って、子供手当の金額と出生率の関係をモニターして行き、目指す出生率に向けて徐々に金額や支給対象年齢を改定して行けばいいのです。

 もしもBIが実現すれば、労働市場の流動性が増すだろうということがよく言われます。国から最低所得が保障されていれば、人は会社を辞めやすくなるし、企業もまた従業員を辞めさせやすくなる。このことから産業界においてもBIを歓迎する声は高いのです。企業の終身雇用制というものが破綻してしまった以上、労働市場におけるこの方向転換は急務だろうと思います。これと同じように、子供手当すなわち子供を育てる親に対するBIには、「結婚市場における流動性」を高める効果があると予想されます。現在のように雇用状況が不安定な社会でも、結婚して子供を持てば家計が安定するという安心感がありますし、また経済的理由から意に沿わない結婚生活を続けている夫婦が離婚することを後押しする効果もある。(子供をどちらが引き取るか、親権をめぐる訴訟のようなものは増えるかも知れません。) また離婚が成立した後は、子供を連れての再婚ということにもとても有利な条件が整います。特にいまのシングルマザー、シングルファザーの人たちは、経済的にも非常に苦しい立場に追いやられている上に、結婚市場においてはほとんど戦線離脱の状態に置かれていると思います。子供手当は彼らにも復活のチャンスを与えるのです。BIというのは、こういう大きな社会変革の原動力になり得るものです。私たちはこの政策を単なるバラマキとして捉えるのではなく、新しい時代を切り拓くひとつの実験として監視していく必要がある。そして新政権は、これを恒久的な施策として定着させていくことが何より重要です。野党に財源の問題を問われてひるむ必要などありません。財源というのは要するに優先順位の問題に過ぎない、F22戦闘機と日本の子供、どちらが大切かという問題に他ならないのですから。

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2009年9月 6日 (日)

民主党は4年後までに党を分割せよ

 いまから4年前にこのブログを始めた時、私が最初に投稿した記事は選挙制度改革に関するものでした(こちらの記事です)。ちょうど郵政民営化を争点とした衆院選で自民党が大勝した直後のことです。あの時も今回と同じことが起こったのでしたね。小選挙区制という不思議な制度のせいで、世論のちょっとした傾きが圧倒的に増幅されて選挙結果に跳ね返って来る。前回の選挙で自民党と民主党が小選挙区で分け合った票は、この二党だけの比率で見ると自民が57%で民主が43%、それなのに獲得議席で見ると自民81%(219議席)に対して、民主19%(52議席)という結果でした。今回はそれが逆転した訳です。得票率は自民が45%で民主が55%なのに、議席数では自民22%(64議席)に対して、民主78%(221議席)。麻生さんが言っていたように、「選挙はバクチではない」のだから(笑)、賭け金に対するこの極端なオッズの偏りはやはり制度として問題ありだろうと思います。

 これに対する(当時の)私の処方箋は、政党の支持率と議席数を乖離させないために、全国統一の比例区選挙にしてしまえというものでした。その後、私も少し選挙制度について調べたり考えたりして、単純な比例区よりも「専門区」というのを作ったらどうだろうと考えるに至りました(記事はこちらです)。いまでもこれが選挙制度改革のひとつの理想形であるという考えに変わりはありません(誰も評価してくれないけど。苦笑)。ただ、今回の選挙の結果を見て、公平性という面では非常に問題のある制度だとしても、小選挙区制というものにもそれなりのメリットがあることを認識しました。それは「二大政党制というのは選挙民にとって面白い」ということです。政権交代という大きなイベントが起こったにもかかわらず、有権者のあいだには4年前のような熱狂は無かったという論評を読みました。そりゃ小泉劇場と呼ばれたあの時のような熱狂は無かったかも知れないけど、だからと言って有権者が政治に関心を失っていた訳ではない。そのことは投票率が70パーセントに迫っていることからも分かることです。政権与党に対して常に有権者が「政権交代」という切り札を突き付けている状態にあることは、政治に対する国民の意識を高く保つためにも有効なことでしょう。

 もしも4年後も同じような仕組みで衆院選が行なわれるとすれば、次回の選挙はきっとテーマの無い、盛り上がりに欠けたものになるだろうと予想します。今回の選挙で自民党にお灸をすえようと思って投票した人は、これから自民・民主による本格的な二大政党の時代が来ると信じているのかも知れません。しかし、私はそれはあり得ないと思っています。もはやどう転んでも自民党に〈復活の目〉は無いと考えるからです。今回起こったことは、ひとつの時代が決定的に終わったということの結果であって、これは歴史上1回こっきりの出来事です。いや、もしかしたら現実に自民・民主による二大政党の時代が来るのかも知れない、その可能性も考えられなくはありません。しかし、それは民主党が政策を誤り、スキャンダルにまみれ、そこをすかさず自民党(の残党)が攻撃して来るという、史上最低の泥試合による二大政党制になった場合です(その可能性も小さくはないかも知れません)。これは国民にとって最も不幸な結末であるに違いない。これに対して先手を打つ意味でも、政権を取った民主党がぜひ今すぐやっておくべきことがあります。それは次回の総選挙において、国民に明確な政策選択が出来ることを保証するために、4年後までに民主党を2つに分割することを公約として追加することです。

 誰もが指摘することですが、今回民主党と自民党が提示したマニフェストは似たり寄ったりの内容でした。今回の選挙は「政策選択」がテーマではなく、「政権交代」そのものがテーマだった訳ですから、その点には有権者は目をつむった訳です。でも、次回はそれでは許されない。アメリカの共和党と民主党を見れば、その対立軸は目先の政策に関わることだけでなく、国民ひとりひとりの道徳観や宗教観に根ざしたところにまで食い込んでいる。何故アメリカの大統領選があんなに盛り上がるのか、それははっきりとした政治的な対立軸を持たない日本人には想像しにくいことなのではないかと思います。それでも私たちは、二大政党制というものの醍醐味の一端を味わってしまった。圧倒的な議席数で政権を獲得した民主党が、次に考えなければならないことは、この国にとって真に建設的で国民の心情にぴったり来る政治的対立軸は何かをしっかり見定めて、その線に沿って次回選挙の時までに党を2つに割ることであると信じます。政権発足直後の民主党がこのことをはっきり宣言すれば、そのサプライズ効果も手伝って、国民の鳩山政権に対する信頼は間違いなく高まる。さらにそれは党内が無用な派閥抗争によって分裂することを予防する効果もあるし、自民党の亡霊が不自然なかたちで蘇って来ることを抑止する効果もある筈です。

 私自身は決して二大政党制に与するものではなく、むしろこれからの時代、国民が直接政策を選択出来る「直接民主制」こそが模索されるべき方向だと思っています(記事はこちら)。しかし、そこに至るまでの準備段階としても、私たち国民のひとりひとりが、自分はどういう政治的信念を持っていて、どの政党を支持するかについての自覚を持つことは重要だと思います。これまでのように、なんとなくその時の気分で候補者や政党を選ぶやり方は卒業しなければならない。「これからの時代、経済成長と福祉のどちらを優先させるべきか」、「日米安保条約は今後もずっと今のかたちで継続させるのか」、「そもそも現行の憲法を変えるのか、変えないのか」、おそらく国内を二分することになるこうした問題を、政策の対立軸としてはっきり掲げる二大政党が現れたなら、私たちももう政治に無関心ではいられなくなる。こういう選択肢を国民に与えること、いやむしろ国民に選択を迫ることが政治の本来の役割だった筈です。自民党の一党体制のなかで、そうした選択をする権利さえ国民は奪われて来たのです。もしも半世紀以上続いた自民党政治に決別する意志があるなら、民主党は新しい民主主義を切り拓く責任政党として、自らを分裂させてでも政策選択の自由を有権者に与えるべきです。もともと民主党にしても自民党にしても、異なる政策信条を持つ政治家の寄り合い所帯なのですから、うまく分割すれば議員の皆さんがたも収まるべきところにすっきり収まるのではないか。そしてこれからの4年間は、真の二大政党実現のための移行期間として、明確な政治思想は封印した上で、まずは挙党一致で国の立て直しに専念するのです。

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