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2009年8月16日 (日)

Three Monumental Masterpieces

前回からの続き)

 デビューして16年のキャリアを持つ宝達奈巳さんは、まだ進化途上のシンガー・ソングライターですから、その作品を回顧的に分類しても仕方が無いのですが、常に新しいスタイルを追求して来たその歩みから、これまでの活動を大きく3つの時期に区分出来るのではないかと思います。そしてその3つの時期を代表する、3枚の傑作アルバムを残している。聴く人の好みによって、どのアルバムがより傑作だというような話ではありません、作者自身がぎりぎりまで彫琢して完成させた、揺るぎない3つの代表作があるのです。

1.『HOTATSU‐NAMI』(1994)

 ホームページに掲載されている音楽的自伝によれば、宝達さんはもともとピアニストを志して、正規の音楽教育を受けた人だそうです。在学中から作曲やバンド活動にも手を広げて、シンセサイザーによる曲作りもその頃から始めていたと言います。音大卒業の翌年にはデビューアルバムの『たからたち』を出していますから、ほとんど習作時代というものも無かったのではないだろうか。今でもまったく色褪せることのない楽曲の完成度の高さを思うと、そう推測せざるを得ないのです。ただ、私たちが知っている宝達奈巳の高いレベルで統合された個性は、まだそこには姿を現していない。タイトルが示すようにきらめくような音の宝石箱といった趣の作品集です。宝達奈巳さんの名を高らしめたセカンドアルバム『HOTATSU‐NAMI』が世に出たのが、その翌年ですから、この時期の音楽家としての成長には目をみはるものがある。そしてこのセカンドアルバムこそが、「シンガー・ソングライター宝達奈巳を確立させた」記念碑的作品だったのです。おそらくこの1枚のアルバムを成立させるための、作者の〈仕込み〉の量はたいへんなものだったのではないかと想像します。しかもひとつのテーマを展開してたくさんの作品に使い回すのではなく、それを渾身の1曲に凝縮させるのもまた宝達奈巳流なのでしょう。以下、このアルバムのなかでも特に私が好きな曲についての簡単な紹介です。

「月の夢」

 アルバムの1曲目に置かれたこの作品は、その後のアルバムのなかでもアレンジを変えて取り上げられることになる、宝達奈巳のテーマソングといった印象の曲。シンセサイザーによるアップテンポで浮遊感あふれるアレンジに乗せて歌われる、澄んだハイトーンのボーカルがとても魅力的な1曲です。単にノリがいいだけではなく、作曲技法的にも高度なテクニックが駆使された巧緻な作品ではないかと思います(素人の印象ですが)。詞のテーマは、作者が夢で見たという月の世界をイメージしたものだと、どこかでご本人が書いてらした気がする。もしも私がこのアルバムからシングルカットするとしたら、有名な「へび」よりも絶対にこちらを採るでしょう。ヒット曲不在の2009年のミュージック・シーンに、突如この曲が脚光を浴びたりしたらとても面白いと思うのですが。

「かの人は」

 アルバム中、最もパッショネートでソウルフルな1曲。シンセサイザーとエレキギターの掛け合いがとてもスリリングで、特に中間のインストの部分なんてジェフ・ベックかリッチー・ブラックモアかというノリの良さ(古いね、どうも。笑)。宝達さんのボーカルは、決してビートの利いたロック調の曲に向いた声質ではないと思うのですが、この作品では演奏に負けない力強い歌を聴かせてくれています。それでいて歌詞の内容をよく聴いてみれば、これがまた古風な言葉づかいで、想う人を待ちわびる女性の気持ちを歌った、なんとも古めかしい内容の詞なのです。そのアンバランスさがとても斬新です。「かの人は夢の中現はれまた去りて/誠のことのみぞ知らまし知らまほし」 歌詞カードを見れば、すべて旧仮名づかいでカタカナ語なんてひとつも無い。これが和製英語を散りばめた最近のポピュラー音楽へのアンチテーゼだと見るのは深読みのし過ぎでしょうか(って自分もカタカナ語ばっかし使ってるけど)。ぜひステージ・ライブで聴いてみたい傑作です。

「成山」

 バイオグラフィーによれば、デビュー前の宝達さんは一時期沖縄に滞在し、三線(さんしん)を習っていたことがあるそうです。このアルバムに収められている「干瀬節」(ひしぶし)と「成山」(なりやま)の2曲は、そこで収穫したものの成果であるようです。インターネットで検索してみると、原曲である「干瀬節」と「なりやまあやぐ」のオリジナルの演奏を聴くことが出来ます。これは今回、私にとって新しい発見でした(このアルバムが出た1994年当時なんて、インターネットはまだ普及していなかったもんね)。アレンジは宝達奈巳オリジナルでも、原曲のメロディーや歌詞はそのままで、彼女の沖縄音楽に対する尊敬の気持ちがよく分かります。特にこの「成山」というのは、前作の『たからたち』にも取り上げられていた曲で(こちらの方が原曲に近い)、これがひとりの音楽家のなかでどう変遷していったかを知る意味でも興味深い作品です。沖縄の伝統的な演奏家の方々にもぜひ聴いてもらいたい1曲です。

「雲の影」

 とても美しいメロディーと詞を持つ詩情あふれる1曲。宝達奈巳さんの清らかなボーカルとアコースティック・ギターのたゆたうような演奏が心を癒してくれる。アルバムのなかで一番好きな曲です。この曲を聴くと、どこか懐かしい自然の風景が映像となって浮かんでくるような気がします。これも今回の発見ですが、この曲には「Ring Kerry」というサブタイトルが付いているんですね。調べてみたらこれはアイルランドの地名のようです。インターネットで写真を見付けました、ため息が出そうなほど美しい景色の場所ですね。宝達奈巳さんのホームページによれば、彼女は学生時代に北欧とアイルランドを旅しています。おそらくそこで見た景色が曲のインスピレーションを与えたのではないかと思います。そう言えば、この曲に続くアルバム最後の曲は「To Lappland」というタイトルですが、これはやはりこの旅で訪れた北欧のラップランドのことでしょう。彼女の旅日記では、美しいフィヨルドの写真なども見ることが出来ます。これもラストを飾るにふさわしい佳曲です。

2.『天の庭』(1999)

 名作『HOTATSU‐NAMI』の翌年に発表された『月の夢』は、前作を踏襲したミニアルバムでしたが(こちらはピアノの弾き語りが中心)、その翌年の1996年に発表された『Stranger Than Movie』は、それまでの宝達奈巳ファンにとっては戸惑いを感じさせる1枚でした。それまで封印されていた(?)地声を使った歌は、音楽性よりもメッセージ性を重視したような内容で、悪く言えば普通のフォーク系シンガー・ソングライターの作品に近いもののような気がした。それから宝達さんは、しばらく沈黙の期間に入ります。私はCDショップに行くたびに新譜が出ていないか確認していたのですが(当時は渋谷のタワーレコードに宝達奈巳のコーナーがあったのです!)、もう諦めかけていた頃に偶然また新譜を見付けました。それがこの『天の庭』というアルバム。たぶん1999年のことです。最初に聴いた時にどのようなインパクトを受けたかは覚えていません。とにかくすぐにこれは自分にとって最も大切なCDの1枚になってしまった。その想いはいまも変わりません。このアルバムでは、壮大な宇宙意識の表現とでも呼ぶべきスケールの大きな曲と、『Stranger Than Movie』で垣間見せた若い女の子の等身大の想いを綴った曲が、不思議な調和を織りなしていて、音楽的にも精神的にも実に奥の深い世界を作り出しています。曲の配置順も心憎くて、宇宙意識→日常意識→宇宙意識という視点の移動が面白い。喩えて言えば、Google Earthで宇宙から見た地球がズームアップして、見なれた近所の景色が映し出され、それがまたズームアウトしていくような印象です。またこのアルバムでは、シンセサイザーよりも民族楽器もまじえたアコースティック楽器によるライブな音作りに主眼が置かれていて、それが非常に成功していると思います。おそらく宝達さんご自身が同じ仲間ともう一度録音しても、これと同じ緊張感のものは生み出せないだろう、そう思えるくらいの奇跡の傑作です。

「青い朝」

 作者自身のピアノ弾き語りによるシンプルだけれども、とてもスケールの大きな曲。新しい朝の訪れと、地上の生命の息吹をたたえる地球スケールの祈りの歌といった内容の曲です。「この世のすべてのいのちのために歌う」、そんな歌詞を持ちながら、決して安っぽい“Save The Earth”的なレベルの曲ではないのです。やはり宝達奈巳さんの歌は、今の時代が抱える問題や矛盾に対する警告や告発といったちっぽけな視点ではなく、もっと大きな生命の流れや宇宙の広がりにまでテーマを射程する時に最も輝きを増すものだという気がします。彼女の代表曲と言ってもいい名曲です。アルバムの中では、1曲目に置かれたこの曲と、最後から2曲目の『地球の日』が同じピアノの弾き語りによる曲ですが、このふたつの曲はテーマにおいて共鳴し合うものを持っている。生命の賛歌と呼ぶには少し語弊があります、それはもしかしたら人間が地上から姿を消したあとの生命の楽園を見据えているのかも知れません。

「極楽浄土」

 アルバム2曲目のこちらの曲は、最終曲の『癒しの神殿』と対をなす曲だと捉えます。作者のイメージする「極楽浄土」がどこにあるにせよ、それは間違いなく生命の痕跡すらない地球の引力圏外の世界であるに違いない、そんな感覚に捕えられるほど冷厳な雰囲気が漂う楽曲です。絶対零度の極楽浄土。歌詞を持たずスキャットで歌われるその歌声は、天上から舞い降りて来るものというより虚空から響いて来るもののように感じられる。これが果たしてヒーリング・ミュージックと呼べるものなのだろうか? 作者自身はこのアルバムを「癒しの効果がある」音楽と紹介していますが、私にはどうしても単純な〈癒し〉以上のものが聞こえて来てしまうのです。(だってこれが極楽浄土のテーマ曲だとしたら、誰がそんな場所に行きたいと思うでしょう?) いや、しかし、音楽の解説というのは難しいですね。だからといって決してこれは難解な曲ではないのです。シンセサイザーのアレンジも素晴らしい、美しい旋律を持つ珠玉の作品というべき1曲です。聴いてみたくなるでしょう?

「夕暮れ道を行く」

 このような荘厳な雰囲気の4曲に挟まれた中間には、これとは対照的な日常感覚から歌い出された曲が並びます。「Something Remained」、「ちょっとしたこと」、「夕暮れ道を行く」という3曲です。これを私は三部作のように捉えているのですが、これがまた実に素晴らしいのです。特にこの3番目の作品は、曲、詞、演奏、ボーカルが完璧に調和して、ちょっとこれ以上はあり得ないだろうと思われるほどの完成度に達している。いまも深夜ひとりでこの曲を聴きながら文章を書いているのですが、心がふるえてしまって、感動を言葉にしようという邪念も消えてしまうほどなのです。これほど繊細で無垢な響きを持った歌を私は他に知らない。宝達奈巳さんはハイトーンのファルセット・ヴォイスが魅力の歌い手ですが、この3曲は主に地声を使って歌っていて、それがまた絶妙な対比の効果を生み出しています。これは『Stranger Than Movie』での試みが進化して、ここにまで至ったのだと思います。その間の語られなかった3年のブランクのことを想像すると、単なる傑作と呼ぶだけでは済まない重みを感じる。誰も言わないので私は敢えて言いますが、現代において本物の天才の作物(さくぶつ)というものを知りたければ、ぜひこのアルバムを聴くべきです。

3.『16 Years Later』(2009)

 今年発表されたこの新作については、前回の記事でも紹介しましたから、多く語ることはありません。宝達さんはシンガー・ソングライターとして10年近いブランクがありましたが、その間に彼女の創作力が枯渇していた訳ではありませんでした。実験的で意欲的なアンビエント作品が何枚かのアルバムとなって結実しているからです。私はこれらのアルバムも聴き、それが決してシンセサイザーによる安易な環境音楽といったレベルのものではないところまでは分かるのですが、それを繰り返し聴いて自分の脳に刻印するところまではどうしても行き着けなかった。(原稿書きのBGMとしては結構いいかも知れないと、いま気付きました。『White Space』を聴きながら。) つまるところ、やはり私はメロディー・ラインのはっきりしたいわゆる「いい曲」が好きなんですね。このまま宝達奈巳は自分などには手の届かない〈現代音楽〉の世界の人になってしまうのだろうか? そう思っていた時に今年出たこのアルバムを聴いたので、喜びはひとしおだったのです。これはクラシックの作曲家でも、現代のシンガー・ソングライターでも同じですが、天性の音楽家というのは独自の旋律を持って生まれて来る人のことではないかと思う。宝達さんはよく「歌が降りてくる」という表現をされます。作曲をするということは、五線譜に向かって音符を置いて行くことではなく、心を静かにしてインスピレーションを待つということなのでしょう。(一度でいいから、そんな体験をしてみたいものですね。) この最新アルバムに収められているのは、ふつうの意味でポピュラリティのある美しいメロディーの曲たちですから、宝達奈巳の入門アルバムとしてもいいかも知れない。音楽だけを純粋に楽しみたいなら、昨年出された『Ring of Life』の方が聴きやすいと思いますが、トータルな作品として味わうなら、英語詩の朗読を付け加えたこちらの新作の方がおすすめです。詩のあいだから歌が立ち昇ってくるさまは感動的ですらあります。

「Ring of Life」

 作者自身の解説によれば、『天の庭』に収められた「青い朝」、「地球の日」の流れを受け継いだ、「宝達奈巳の歌の核心に迫った渾身の一曲」ということです。曲想が似ているというよりも、生命の大いなる連環というものをテーマとしているという点で、作者のなかでは同じ系列に連なる作品なのではないかと思います。ずっと彼女の歌を聴いて来た自分としての感想を言えば、これほど自信に満ちた力強い生命賛歌は、これまでの彼女の歌のなかにも無かったものなのです。実に驚くほどの名曲だと思う。何故この曲が今年のポピュラー・ミュージック界の一大事件として認知されないのだろう? そんなことさえ思ってしまいます。宝達さんの曲はどれも非常に映像的な印象を強く与える特長がありますから、この曲も映画音楽などにも最適だという気がします。トールキン原作の映画『ロード・オブ・ザ・リング』のテーマ曲を書いたのはエンヤですが、私が監督だったらむしろこの曲を採用しただろうな。

「I feel the light」

 英語による曲作りで、最初にしっかりした手ごたえが感じられた作品と作者が言うのがこの曲。シンセサイザーによる曲作りですが、むしろ生楽器の伴奏でライブで歌われるのに適した曲という印象です。アコースティック・ギター1本でも歌えそうなノリの良い曲で、モロ私の好み(残念ながら私はギターも歌もダメなのですが。笑)。最初の旋律が地声で歌い出され、サビの部分でファルセットに切り替わって曲が盛り上がって行く。心憎いほど巧い曲作りだと思います。それにまた英語の響きの魅力的なこと。ネイティヴな英語話者が聴いてどう感じるかは分かりませんが、詩的言語としての英語の美しさというものを久し振りに聴いた気がします(20年くらい前に大好きだったケイト・ブッシュ以来?)。これは詩の朗読でも同じですが、このアルバムには音(オン)として気分を高揚させる英語の単語ばかりが集められている。コトバも音楽の要素のひとつであるという作者の姿勢がはっきり伝わって来ます。すべての曲を解説することはしませんが、実際にアルバムを聴いて確認してみてください。「In the woods」、「Live in harmony」、「Birds fly away」、「I want to be」…どれも魅力的な旋律を持った美しい響きの曲ばかりです。

「The Dragon Song」

 伴奏の無い、声だけを重ね合わせて作られた実験的な曲。ここでも印象的な響きを持つコトバと、多重録音による美しいハーモニーが組み合わされて、とても不思議で魅力的な世界が作り出されています。映画の『ロード・オブ・ザ・リング』は第1作をビデオで見ただけだけど、この曲をバックに使いたいようなシーンが確かあったよね。アルバムの解説には、この曲の製作過程を説明した文章があって、「まるで完成図を見たことがあってそれを思い出しながらパズルのパーツをひとつずつはめ込んでいくよう」な作業だったと書かれています。今回のアルバムは、この作者自身の解説というのが重要なアイテムで、これが宝達奈巳の世界への何よりの道案内になっています。創作の舞台裏をこんなにあからさまに見せてくれるアーティストというのも珍しいのではないか。楽器やシンセサイザーを使っていないだけに、創造の源泉を直接覗き見ることが出来るという意味でも貴重な一曲です。

 ということで、私がおすすめする3枚のアルバムと、そこに収録された推薦曲を紹介して来ました。今回の記事は、これまで宝達奈巳さんというアーティストを知らなかった人に、ぜひその作品を知って欲しいという気持ちをこめて書いたものであると同時に、彼女自身にも読んでいただいて、私の解釈がどの程度核心をついているものか、評価してもらおうという図々しい意図を持って書いたものでした。というわけで、宝達さん、いつでもいいですからコメントをくださいね。(笑)

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コメント

こんにちは、宝達奈巳です。
いやーーー
「嬉しい」とか「ありがたい」とかいうのを通り越して、言葉で表現できない・したことのない状態、境地です。
本当にうまく言葉や文章にできずに歯がゆいです。

解釈もなにも、まったくその通りでございます!というのがほとんどで、むしろ作者自身が言いにくいようなことまで代弁してくれている感じです。
ここまで伝わるなんて、音楽ってやっぱりすごいなぁ。

また逆に「なるほど」とか「そうなんだ」的に、自分では気づかない新たな発見などもありました。
このようなリスナーの方の生の声を聴けるのはこちらとしても得るものが大きいです。何より励みになります。

実は最近ちょっとしたことなんですがいろいろ重なり積もって、厳しい現実に打ちひしがれておりました。

まあ音楽に限った話ではないですが、世の中「なんでコレが流行るの?人気があるの?評価されるの?」というものが多すぎて。
昔はもっと本質的なものに出会える機会が多くて、背筋がゾクゾクッとするような体験ができたものですが、
最近は人が新しく作ったものでそれを感じることは稀です。
今はほとんどが表層的で、それが本物のようにもてはやされていることにゾッとします。

でもそんなことはどうでもいいです。
このように1人でもこれほど共鳴してくださる方がいるということが、生きているうちに知ることができたので。

それに人や世の中に理解評価されようがされまいが、
私はこれからも歌が降りてくれば歌うし、音楽が聴こえてくればそれを曲にします。

その存在を知られなかったら存在の意味はない、という考え方もありましょうが、人知れず山奥で咲く花や美しい声で鳴く鳥や、人間が見ることのできない深海や宇宙での神秘的な現象などに存在の意味がないとは思えません。

まがいものを作るほうがよほど意味がないです。

...長くなってしまいました。
とにかく、ありがとうございました。

投稿: astromedia | 2009年8月19日 (水) 14時07分

宝達奈巳さん、こんにちは。早速コメントをいただきまして、ありがとうございます。

私の拙い文章に過分な評価をいただいて、こちらこそ恐縮してしまいます。だって私の論評がどれほど的を得たものであっても、本当にすぐれているのは、それを書かせた宝達さんの音楽の方ですから。

>昔はもっと本質的なものに出会える機会が多くて、背筋がゾクゾクッとするような体験ができたものですが

これは私もまったく同感です。自分が歳をとったせいかなとも思うのですが、私より若い世代で、今の音楽にも多く触れていらっしゃるであろう宝達さんもそう感じるのであれば、きっとそうなのでしょう。私の考えでは、最近の音楽や文学がつまらない理由は、「自己沈潜」ということが難しくなっている環境のせいではないかと思っています。現代は情報過多、刺激過多の時代ですから、創作者はじっくり自分自身に向き合う機会を持てない。で、生み出されてくるものはとても技巧的ではあっても、表層的なものばかりなのではないか。それがまた現代のリスナーの趣味にも合うということなのでしょう。

宝達奈巳という人は、現代には稀なこの「自己沈潜力」がとても強いアーティストだというのが私の認識です。それをあなたは意識的に、戦略的にやっていらっしゃる。つまり余分な情報や刺激はシャットアウトして、琉球古典音楽やケルト民謡やJRRトールキンの世界に没頭することによって。それが自分のなかで消化されて、新しい創作力となって湧き出して来るには長い時間がかかるし、意識して出来ることでもない。たぶん今の若い人たちのなかにも、才能のある人はたくさんいる筈ですが、この「仕込みの手間」と「熟成の時間」を持つことが難しいのだろうと思います。

>実は最近ちょっとしたことなんですがいろいろ重なり積もって、厳しい現実に打ちひしがれておりました。

私生活のことは別にして、完成度の高い作品を仕上げた直後の創作者がスランプに陥るのは自然なことなのではないかと思います。前二作の時もそうだったのではないかと想像しますが、『16 Years Later』のようなアルバムを出されてしまっては、おいそれと次の作品に取り掛かる訳にはいかないだろうと思いますもの。私の好きなニーチェという哲学者は、ひとつの作品を完成させたあとの脱力感を、「偉大なものの仕返し」と表現していました。いただいたコメントからも、何か弱気な宝達さんが感じられて気になるのですが、これはきっと「偉大なものの仕返し」を受けているからに違いない。でも、大丈夫、それは一過性のものですから。

もしも私がもう少し影響力のあるブロガーで、私の記事で宝達さんの音楽が多くの人に知られるようになればいいのですが、残念なことにあまりアクセス数も多くないマイナー・ブロガーなものですから、私の記事を読んでASTRO☆MEDIAに注文が殺到するということもないと思います(笑)。自分のことを言うならば、マイナーであることが表現の自由を得る上ではとても有利なことかも知れないとも思うのですが、それにしても宝達さんは実力があるのに知られなさ過ぎというのが実感です。これは最近の音楽に興味を失っている潜在的なリスナーにとっても損失です。これからも微力ながら応援させていただきますので、よろしくお願いしますね。

投稿: Like_an_Arrow | 2009年8月20日 (木) 07時01分

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